俳人 黛まどかさん(2)

昭和三十七生まれのまどかさんは、短大を出て都市銀行に勤務していたが、杉田久女の俳句に出会ったことがきっかけでこの道に入った。

東京きもの女王に選ばれるほどであったことから、「美人女流俳人」として話題をさらっていた。雑誌、テレビなどでさかん露出していたことから、俳句はやらない私でも、その名前と顔はよく知っていた。

ちょうど同年の俵万智さんが短歌の世界で注目を浴びた時期と重なる。二人で女流ブームをつくっていた。

まどかさんは、その頃、角川俳句奨励賞を受賞しているくらいだから、俳句の実力も評価されていたのだろうが、俳句のわからない私は彼女が詠んだ句の一つも知らないまま、どうせ美人だからチヤホヤされるのだろうくらいにしか思っていなかった。

そんな彼女との距離が縮まったのは、私が地元に帰ってきてから。秋水顕彰会の方々と接する中で、彼女も会員であることを知らされた。私はへえ~と思った。

聞くと、彼女は神奈川県湯河原生まれで、おじいさんは秋水が最後に逮捕された時管野須賀子と逗留していた天野屋旅館の番頭をしていた。おじいさんから、幼いころから秋水の話を聞いていた。だから秋水に対して親近感をもっているらしいというのだ。

彼女が顕彰会に入会したのは二〇〇〇年。その年の夏、中村に来たのがきっかけだ。目的は、地方新聞十二社連合企画「黛まどか日本恋めぐり」。テーマは「同志の恋 幸徳秋水と管野須賀子」で、その調査と取材のためであった。

同年八月二十四日付高知新聞には、まどかさんの文章と秋水絶筆碑前、四万十川河口に立つ写真が載っている。

 この時あちこちを案内したのは当時の顕彰会会長森岡邦廣さんであった。まどかさんは、この時二つの句を残している。あとの句は秋水墓で詠んだもの。

 夏怒涛真向にしていごっそう
 ほうたるの高きに舞つて星となる

その年の十二月、森岡会長が奔走した結果、中村市議会は「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で行った。森岡さんを動かした力の一つには、まどかさんの来訪があったのではないかと私は思っている。

そんなまどかさから直接いろんな話を聞いてみたいと思い、市教育員会に要望を出し、昨年九月、市民大学講師においでいただいたのだ。

まどかさんは秘書の坂口さんと二人で見えられた。その日は台風の影響で飛行機が飛ぶか不安だったので、朝一番で新幹線を乗り継いで来てくれたと聞き感激した。

演題は「言葉の力、余白の力」。俳句は世界で一番小さな文学で、日本の文化そのもの。体操の床運動と同じように、型(枠)があるから美しい。季節感、小さな生き物への鑑賞力、日本語ほど名詞が多くて表現が多様な国はない。ていねいに、わかりやすく、余韻を残して語ってくれた。

まどかさんはご自分の巡礼については触れなかったが、松尾芭蕉の句をさかんに紹介された。芭蕉の名句の多くは奥の細道などの旅の中で生まれている。旅を住家とした芭蕉のように、まどかさんにとって巡礼は「吟行」なのだと思った。

懇親会で秋水のことを聞いたところ、おじいさんが天野屋におられたのは、秋水が逮捕されてからあとのことだそうだ。その天野屋は最近廃業し、跡地はレジャー施設になっていると嘆いていた。秋水は湯河原の門川駅で逮捕されたのだが、地元では海岸の砂浜で逮捕されたのだという話も伝わっているそうだ。

まどかさんは翌朝、ロイヤルホテル裏にある秋水墓に参り、「十六年ぶりにお参りをさせていただきました。戦わずして平和な社会を私たちの世代で実現させなくてはいけないと、あらためて思います」と記帳をされた。

私は講演会でまどかさんの新刊本『ふくしま賛歌―日本の「宝」を訪ねて』(新日本出版社)を求めた。震災直後から県内各地を歩き、地元新聞に連載した俳句紀行をまとめたものであった。福島は芭蕉が奥の細道で歩いた地であり、飯館村とは前から俳句を通して縁があった。

原発事故に対しては、「効率を優先して本来の意味を失い、手間を惜しみ対価を払って人任せで生きる都会の生活。それを効率的或いは豊かな暮らしと呼ぶのなら、私たちは引き換えに真に「生きる」ということを放棄してしまっていることになる。」と断言している。

この人はただの俳人ではない。いや、すぐれた俳人だからこそ、社会をえぐり本質をみている。

四国遍路でどんな句集ができるのか楽しみである。(終)



  大方文学学級発行「大形」300号記念号 2017年11月10日

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俳人 黛まどかさん (1)

今年の四月下旬、俳人黛まどかさんの秘書で東京にいる坂口郁子さんから私の携帯にかかってきた。

いま、まどかさんは四国遍路を歩いており、そちらに近づいているが、黒潮町入野付近にかかる五月三日は泊まる宿がなく困っている、ついては黒潮町でなくてもいいから、中村周辺で宿を探してもらえないかという依頼であった。
 
まどかさんは、私が属している「幸徳秋水を顕彰する会」会員であり、そうした縁から、昨年九月、四万十市民大学の講師としてお迎えした。

講演後、来年春には念願の四国巡礼に出かけたいと思っており、日程が決まれば連絡をくれると言われていた。だから、もうそろそろだなと思っていたところだった。

私は中村のほうにはホテルや民宿がたくさんあるので、なんとかなるでしょうと簡単に依頼を引き受けた。

しかし、宿はなかなか見つからなかった。知っている限りの先に電話をしたがどこも満室。それもそのはず、五月三日といえばゴールデンウイークの真最中、しかも中村では土佐一條公家行列があり、今年は地元出身歌手の三山ひろしが馬に乗るというし、入野浜ではTシャツアート展の人気イベントはだしマラソンが行われることになっていた。

私は判断が甘かったことを痛感。こうなれば、せっかくの機会なので、わが家でご接待をさせてもらおうと思っていたところ、市内後川にいい宿が見つかった。

そこは普通の民宿とは違い、おしゃれな家の一部を一日一組限定で提供しているお宅だった。営業というよりも趣味の延長のようなもので、あまり宣伝はせず紹介客をメインにしているとのこと。

私はご夫婦とは面識があったが、そんなことをされているとは知らなかった。しかも、たまたまその日は空けておられるということであった。まどかさんは、幸運な人だなと思った。

いよいよ五月三日になった。私は短歌、俳句、川柳には興味はもっている。しかし、なかなか本格的に始める度胸ときっかけがなく、いまだに無粋な人間を通している。

そこで、宮川昭男、尾﨑清、大林文鳥という地元俳界の達人たちにお声をかけた。この三人は秋水顕彰会会員でもあり、昨年市民大学のあとの懇親会にも同席し、まどかさんとはすでにお友達になっている方々である。

午後三時頃、みんなで鞭の道の駅ビオス大方で待っていると、国道の向こうからリュックサックを背中に担いだまどかさんの姿が見えてきた。お供の和田始子さんと二人で。

今年のゴールデンウイークは天気が悪く、その時間帯も雨が降っており、二人ともビニール合羽を着ていた。

二人は道の駅隣観光センターのテーブルにリュックをよっこらしょとおろし、雨に濡れた顔をふくと、やれやれというような笑顔であった。

まどかさんは四月五日、徳島の一番札所霊山寺をスタート。最初は仲間数人と歩いていたが、途中から和田さんと二人きりになった。高知県に入る手前では、足が腫れて病院に行ったそうだが、それでも歩き続け窪川の三十七番岩本寺に着いた。

そこで、どうしてもはずせない仕事があって一週間ほど東京に戻っていたが、五月二日から再開し、最初は伊与喜に泊まったという。

みんなで八か月ぶりの再会を喜び合い、しばし談笑。リュックをもたせてもらうとズシリと重い。これをこんな細い女性が担ぐとはと驚いたが、「女は余計なビン物(化粧品)があるので重いのですよ」とケロリと言われた。

それもそのはず、まどかさんの健脚ぶりは世界で試され済みである。まどかさんは、一九九九年、キリスト教聖地サンチアゴ巡礼を行い、フランスからピレネー山脈を越えスペインまで踏破している。二〇〇一~〇二年には、韓国釜山~ソウルも歩いているのだ。(四国巡礼はこれらより距離が長い)

その日はもう少し距離を稼ぎたいというので、入野浜を突き切った下田の口で再度合流することにした。アドバイス通り、Tシャツアート展を覗いてくれた。

下田の口から後川の宿まで車で送り、翌朝また迎えに行った。佐田沈下橋がすぐそこなので寄っていきませんかとすすめてみたが、少しでも早く歩きたいというので、そのまま引き返した。宿は心づくしの料理も出て、大満足だったそうだ。私は安堵した。

ほかのお遍路さんにも聞いたことがある。観光が目的ではないのでとにかく歩きたい、歩くことが喜びであると。やはりそうかと納得した。

五月四日も雨。下田の口の上林暁生墓碑掲示板前から二人を見送った。その日の宿は下ノ加江。

まどかさんは別れた三日後には、同行の和田さんが名古屋に戻った(予定通り)ことから、それ以降は単独での旅となったが、その後も順調に旅を続け、今日時点(五月二十九日)では香川県のゴール近くを歩いているようである。このまま結願を果たすことは間違いないだろう。

私はまどかさんの遍路姿を見て、また昨年と今年接する中で、この人は本物だなと確信した。それまでまどかさんに抱いていたイメージを払拭した。そして思った。まどかさんは大変な美人である。だから損をしているなと。(続く)


  大方文学学級発行「大形」300号記念号 2017年11月10日

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幸徳秋水と幕末維新先人史跡めぐり  

11月12日、幸徳秋水を顕彰する会では「幸徳秋水と幕末維新先人史跡めぐり」を行った。 

昨年は秋水だけを対象にしたが、今年は「志国高知幕末維新博」開催に合わせ、秋水につながる中村の先人たちも加えた。市広報でも募集、高知新聞記事にもなり、38名の参加があった。

最初に公民館から市役所マイクロバスで羽生山墓地へ。登り口からは町を見下ろしながら歩いて上へ。高齢者もいるので心配したが、みんな元気。

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江戸の元禄2年、中村藩は将軍綱吉の命で改易になる。以降の中村は、町人中心の町となった。一條家の学問を受け継ぎ土佐伝来の南学をミックスした「一條南学」の祖、町人出身学者遠近鶴鳴、その教えを受けた樋口真吉や、初代熊本県令安岡良亮の先祖(祖父隼太、父良輝)らの墓へ。神風連の乱で斬られた良亮の墓は熊本にある。

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また、商人として幕末をたくましく生き、多くのとんち話を残し、いまでは中村名物お菓子として有名な泰作さん(中平泰作)、自由党活動家から大逆事件当時中村町5代目町長になった二代目藤倉忠吉墓も。

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山を下りたあとは、秋水生家跡から秋水漢学の師木戸明邸(遊焉義塾)へ。木戸家現当主秀雄氏(明ひ孫)から庭に入れてもらい、当時の塾の模様などを資料に基づき詳しい説明を受けた。塾では漢学だけでなく、西洋訳書も教えていた。隣が安岡良亮邸跡。

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為松公園では秋水絶筆碑を説明。ほかに木戸明、樋口真吉、藤倉忠吉の各顕彰碑も。樋口については、山入口の生家跡(現駐車場)も。郷土資料館(お城)はリニューアル工事中(来年3月オープン)のため入れなかった。

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正福寺墓地では、秋水をはじめ幸徳家一族墓、坂本清馬墓、木戸明一族墓をそれぞれ説明。毎年1月24日秋水墓前祭への参加も呼びかけた。最後は図書館秋水資料室へ。

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秋水は商家の出(俵屋)。樋口真吉、安岡良亮は下級武士(郷士)だが、遠近鶴鳴(宇和屋)の教えを受けている。また、木戸明(吸田屋)、藤倉忠吉(堺屋)も商家の出。

江戸期の中村を支えた町民文化の流れの中に、秋水を位置付けることができるのではないか。武家文化の宿毛との違い。そんな視点を考えさせられた。

参加者から顕彰会入会申し込みもあり、また天気にも恵まれ、充実した一日であった。

幸徳幸衛の家族たち

前号で書いた画家幸徳幸衛の生涯については、幸衛母方(木村家)の従弟木村林吉が書いた『眼のない自画像』(2001年、美術の図書三好企画刊)に詳しい。

私は木村著を読んで以降、幸衛がアメリカに残した家族がその後どうなったのかずっと気になっていた。

幸衛は大正10年、31歳の時、ロサンゼルスで高橋松子と結婚。松子は日系二世で英語がしゃべれるので重宝がられ、早川雪舟が手掛けていた米国映画の脇役などに出ていた女優であった。すぐに明子、光が生まれ、ささやかな幸福をつかんでいた。パリへ送られてきた、幸衛の身を心配する松子の愛情あふれる手紙が何通も遺品の中に残されている。

しかし、幸衛はパリで旅券を二度も紛失し、アメリカへ帰ることがかなわないまま一人シベリア経由日本へ帰る。どんな思いだったのか。朝鮮からは特高警察の尾行がついた。

木村はアメリカに捨てられた形となった家族のその後のことは触れていない。幸衛の縁者で幸衛遺品を所蔵しており、このほど県立美術館に寄贈した田中和夫氏によれば、木村は幸衛家族の消息までは調べなかったようであり、田中氏自身も知らないという。

私は今回の展示を機に、その消息を知りたいと思った。各方面に問い合わせた結果、現在ロス在住の光の息子Russellタカシヤマザキ(64歳)にたどりつくことができた。タカシは日本語が話せないので、少し話せる妻(日系)から電話できかせてもらった話は以下のようなものであった。

夫が日本に帰ってしまったMartha松子は、やむなくヤマザキと再婚。新たに男の子も1人できた。しかし、日米開戦により一家は敵国人としてアリゾナキャンプ(収容所)に入れられた。さらに45歳のころ夫が交通事故死。50歳の時、3度目の結婚をカワムラとした。晩年も明るく、よくしゃべり、孫タカシの結婚式ではダンスも踊った。1997年、97歳で没。

その3年前には、ロサンゼルスタイムズのインタビューで「私の最初の結婚は見合い(arranged)であったが、うまくいかなかった(less than satisfactory)」と語っている。

Robert光はアリゾナキャンプから米国陸軍情報部(MIS)へ入り、戦後まもなく東京へ。部隊ははっきりしないが、通訳や翻訳の仕事をしていたというからGHQではないだろうか。

東京に13年いる間に結婚、二人の子(ミツノ、タカシ)が生まれた。帰国後は政府関連のエンジニアの仕事をしていた。2007年没。墓はロスの軍人墓地にある。

光の姉Dolores明子はロスで暮らしていたが、夫ヤマシタをガンで失ってからは、次のパートナーとハワイへ。長い間リューマチを患い、最後は車イス。2000年没後はハワイ大学に献体、1年後海に散骨された。娘一人がロスにいる。

妻子三人の中で光だけが中村の父の墓を訪ねている。最初は東京からひそかに。二度目は1980年、ロスから家族で。光は自分らを捨てた父に対してどんな思いだったのだろうか。中村在住の田中和夫氏等の縁者には接触しなかったようで、秋水顕彰会の記録にも残っていない。

しかし、このほど高知市在住であった幸徳富治娘池三春(2010年没)の家族に聞くと、三春は生前アメリカのヤマザキと交流があり、チョコレートなどが送られてきたことがあったという。また、東京在住の秋水姉寅(牧子)の孫今井君代(1985年没)の家族からも同じ話を聞いた。ヤマザキとは光のことだろう。きっかけは1980年来日のころではないかと思われるが、詳しい経緯はわからない。

今回調査中、“KotokuYukie” http://www.72note.com/yukie/yukie.html なるWebsiteを見つけた。松子の姉の孫RickTagawa(ニューヨーク在住)が制作したもので、戦後の松子、光、明子などの写真がアップされている。ぜひアクセスされたい。

 今回一番驚いたのは光が米軍に入隊していたこと。かつて秋水は将来の日米戦を予想したが、まさか自分の身内が米軍に入るとは思っていなかっただろう。歴史のいたずらか。

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   幸衛と松子       Robert光       木村林吉著


画家幸徳幸衛の凄み

幸徳幸衛の絵画がいま県立美術館コレクション展「高知の洋画」の中で展示されているので見てきた。

幸衛は幸徳秋水の甥(兄の子)。明治38年15歳の時、秋水に連れられアメリカに渡った。秋水はすぐに帰国したが、幸衛は絵の勉強がしたいと残る。

しかし、まもなく秋水は大逆事件で刑死。身内としてアメリカでも迫害を受ける中、結婚、子も2人できたが、単身パリに修行に出た後、昭和4年一人でシベリア経由27年ぶりに中村に帰る。

地元でも風景画などを描き続けたが、昭和8年43歳で病没。アメリカに残した家族には会えないままであった。

中村の縁者が所蔵していた幸衛遺品をこのほど県立美術館に寄贈。その中の絵画、スケッチブック、スーツケースなどが展示されている。

幸衛は秋水刑死後、号を「死影」とした。展示の中の代表作、パリで描いた「眼のない自画像」は、社会から白眼視され、踏みつけられた人間の崩された顔であり、鬼気迫るものがある。

単なる絵画展ではない。大逆事件は秋水一族の人生をも歪めてしまったという、暗黒社会の襞(ひだ)に触れるような凄みがあった。


  高知新聞「声ひろば」投稿
   2017.11.10

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中村支藩の成立と断絶

10月28日、県立高知城歴史博物館館長 渡部淳氏 による講演会「中村支藩の成立と断絶 -内分支藩の問題を中心に- 」(主催:西南四国歴史文化研究会中村支部)に参加した。

土佐藩の中における中村藩の位置づけはどうだったのか、以前からよくわからなかったが、講演をきいてある程度わかってきた。

中村藩は土佐藩成立と同時に、山内一豊から弟康豊に分け与えられた。最初2万石であったが、2代目政豊に子がなかったことからいったん途絶える。まもなく3万石として復活したが、これも3代目豊明(大膳)にして、元禄2年(1689)、将軍綱吉から改易された。

中村藩は山内家の「内分分家」という位置づけ。「内分分家」とは、幕府が承認した独立した藩として参勤交代などが義務付けられているが、幕府からの指示命令は本家(土佐藩)を通じて行う、というもの。要は、本藩から独立半分・従属半分という中途半端な存在。

5代将軍綱吉は特殊な政権であった。いったん要職に登用したうえで突然改易された藩が多い。中村藩がその典型。若年寄に登用された豊明がそれを辞退したことで綱吉の怒りを買い改易。

家臣は散り散りに。町も解体された。土居屋敷46軒、侍屋敷68軒は石垣までも取り壊された。以降、中村には代官所が置かれ、本来の武士は消え(郷士、地下浪人などに)、転勤武士が交代で来るだけになった。

中村藩廃絶後、幕府は領地を取り上げた。年貢も幕府へ。しかし、土佐藩はこれに不服で、中村領地は内分分家であるから土佐藩に属していることを認めさせようと懇意の老中などを介して必死の根回しをおこなった。その結果、元禄9年、中村領が最終的に土佐藩に返還される。

中村藩の改易については、本藩の陰謀によるものという説をきいたことがあるが、決してそうではなく、幕府に没収され土佐一円支配が崩れてしまうかもしれないということで、本藩にとっても一大事であったのだ。

中村藩の改易により、中村の町は文字通り町人の町になった。家老伊賀家が治め続けた宿毛との違いはここにある。

ちなみに、中村で録を失った家臣の一人が江戸仕置役であった安岡久左衛門であり、間崎で郷士になった。実態は百姓と同じである。その子孫が安岡良亮(初代熊本県令)である。

時は流れ、維新後は

自由党(民権派)の拠点となった宿毛。
国民党(保守派)の牙城となった中村。

中村では町民文化の流れの中で、平民の中から幸徳秋水が生まれた。

その起点は中村藩の断絶にある。
このあたりのストーリーをもっと深め、筋立ててみたい。

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道つくり

今日は地元実崎の氏神様である天満宮の秋祭りだが、あいにく台風にぶつかった。

実崎では、若者不足により数年前から奉納踊りと神輿かつぎはやめているので、台風に関係なく、地区役員だけで不破八幡さんから神主を呼んで、社殿の中で神事だけを行った。

きのうは雨の中、地区総出で「道つくり」をおこなった。道つくりとは、祭りの準備のことで、社殿、階段などを掃除し、鳥居にしめ縄を張り、幟も立てる。以前は地区全体の道をきれいにしていたが、人手不足から、最近は神社のまわりだけにしている。

「道つくり」とは、神様が社殿から出て来て地区を巡回し、災い等を払い浄めるために、道をきれいにするという意味だと思う。

よそでも同じ言葉があるのかと思い、ネットで検索してみたが、地区総出で溝掃除など道路を整備することというのにはヒットしたが、神事のことを書いた記事はなかった。ここらあたりだけで使う言葉なのだろうか。

ここらでは「田役」という言葉もある。田んぼの水路の清掃などを共同でやる作業だ。

これもネットで調べると、「田役」とは、もともとは神社の修理・補修等の費用に充てるために田に課す税という意味のこととあった。やはり神事につながっている。

ここらでは、地区総出の作業一般は「田役」と言い、神社の祭りの準備作業を「道つくり」と言って、使い分けている。

いずれも、参加できなかった家からは負担金を出してもらい、地区運営費に充てている。

地域を守ってくれている氏神様を地域全体で大事にする。
地域の人々のつながりがだんだんと薄れてきているだけに、「道つくり」をこれからも大切にしたい。

なお、みなさまのところでも「道つくり」という言葉があるか、またどう使われているか、教えてくださればうれしく思います。


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写真は昨年の秋祭りの道つくり

前原の高笑い

今回の総選挙の勝者は2人いる。1人が安倍で、もう1人が前原だ。
 
前原誠司民進党代表は25日講演で、立憲民主党設立は「想定内」であった、「共産党などと共闘していれば、悲惨な結果になっていたのではないか」と発言した、と報道されている。

この言葉に 、今回の騒動の本質がある。前原の狙いは、民進党は分裂してもいいから、党全体が共産党などとの野党共闘でまとまることを阻止したかった、ということだ。「想定内」は本音だが、「共産党などと共闘していれば・・・」は強がり=言い訳である。

広田一が勝った高知2区が今回の選挙を象徴している。野党が一本化したから勝てたのだ。広田は2万1千票差で大勝したが、同区の共産党比例票は同数であったことから、共産党の協力がなければ当選できなかった。

選挙直前で時間不足ではあったが、立憲民主党、共産党、社民党は市民連合との間で7項目の政策合意を結び、ギリギリ共闘体制を組んだ。全国的に見れば、野党側が優勢だった沖縄、新潟、北海道はこうした共闘体制ができたところである。

昨年夏の参議院選挙では民進党を含めた野党共闘が全国32の一人区全てで実現し、11人が勝利した。

当時の民進党は岡田代表であったが、次の蓮舫代表の時も民進・共産・社民3党間で今後も共闘を進めるための協議をおこなっていく旨の3党合意がなされていた。これは公党間の合意であった。

このままいけば野党共闘を続けざるをえない。こうした状況下、民進党代表になった前原は共産党とはどうしても共闘したくなかった。だから、民進党をまるごと希望の党にシフトさせるという「奇策」を考えた。

結果は、シナリオ通り、野党が分裂したことにより安倍が勝利した。

全国226の小選挙区の当選者は与党183、野党43であった。しかし、朝日新聞試算では、仮に野党が一本化していれば、野党は63増え、与党120、野党106となっていた。

比例区は与党(自公)87、野党89と野党のほうが多いことから、全体では与党207、野党195と拮抗状態になっていたことになる。

こうした中、共産党は共闘が間に合わなかった選挙区においても、接戦予想区を中心に予定していた候補を公示直前になって67人降ろした。結果を見れば、立憲民主党当選者にその恩恵を受けた者が多い。僅差で競り勝った菅直人、海江田万里、阿部知子などがそうだ。山尾志桜里(無所属)も、だ。

共産党は候補者を降ろしたことも影響して比例区の票が伸びず、議席を減らした。しかし、その分、立憲民主党や元民進党の無所属の当選に貢献したといえる。身を捨てて野党共闘の大義=民主主義を守ったということだ。

安倍大勝から、前原の戦略は失敗したと報道されている。自身も責任をとって時期をみて民進党代表を辞任すると神妙なことを言っている。

しかし、本音は違うと思う。前原が一番避けたかったのは、民進党が野党共闘でまとまること。そのためには分裂させるしかない。安倍を勝たせもいいから、共産党とだけは組みたくない。

前原はこれに成功したのだから、胸の中で快哉を叫び、高笑いをしていることだろう。

しかし、見逃してはならないのは、こんな混乱を乗り越え、共闘体制を組んだ立憲民主、共産、社民を合わせた当選者は39→68人に増えていることである。さらに立憲民主が野党第1党になった。ほかに「無所属の会」の13人もいる。一方、希望の党は失速。大義を守ったのはどちらか、有権者の目は確かだ。

数だけを見れば、小選挙区制の恩恵により、自公が圧倒的多数を引き続き占めることになったが、新たな野党共闘の展望がはっきりと示されたことが今回の選挙の大きな成果である。

広田一の勝因

ドキドキしていたが、広田一さんが勝った。しかも2万1千票差の圧勝だった。

夜8時のテレビ選挙速報開始と同時に当選確実が出たので、驚いた。何かの間違いではないかと思うぐらいであった。勝利するにしても僅差の接戦になるとみていたからだ。一番驚いたのは、本人であったようだ。インタビューでもすぐには言葉がでなかった。

これだけの大差になったのは、なぜか。

第一は、まず候補者がよかったこと。新人といっても、参議院議員を2期12年経験しており、知名度は抜群。しかも、最初は無所属で当選(2回目から民主党)していることから、保守、革新を問わず、幅広い層に名前が浸透していた。さらに、人あたりがよく、さわやか。そんな人柄により、自力で多くの人脈をつくっていた。年も49歳とまだ若いのに、人付き合いがうまい。

第二は、野党共闘がうまく機能したこと。当初民進党から出馬する予定であったが、突然の民進党まるごと希望の党への移行さわぎで、無所属から出馬に変更した。これが逆によかった。元々無所属で出ていたこともあり、広田カラーにぴったりだった。また、昨年の参議院選挙(高知徳島合区)でできた野党共闘体制がうまく引き継がれた。広田さんは、安保法案反対の集会にも積極的に参加し、国会報告もしてくれた。今回このような形で共闘体制がとれたのは、高知、徳島では高知2区だけであったが、そのことは、広田さんという候補者がいたことが大きい。オール沖縄のような、オール高知という体制ができた。そしてみんな必死で動いた。

第三は、相手山本有二候補の自滅。今回が10期目ということで飽きられており、また日頃から言葉の軽い発言で地元人気もそうないうえに、昨年、農林大臣時代、TPP法案の採決をめぐる「失言」(強行採決を促す本音発言)で2度も国会で頭を下げた。これにより高知県民は恥をかかされた。地元ではTPP反対と言いながら、東京での行動と発言は別。そんな二枚舌がこれまでは支持基盤だった農林分野の反発を招いた。そこまで大きな不満が広がっているとは感じなかったが、結果をみると、やはり相当なものだったのだ。

こうした要因が重なって思わぬ大差となった。全国的にはアベ大勝という結果になったが、野党が統一すれば十分に闘えるということを示した。高知県には与党議員しかいないという厚い壁に風穴を開けたことでもこの勝利は大きい。(四国比例区で立憲民主党武内則男さんも議席をえた。2人とも幡多出身だ。)

今回の選挙は結果としてみれば、情勢が広田さんに幸運に動いた。これだけの大差がついたのは、実力以上のものである。勝ちすぎともいえるくらいだ。

敗れたとはいえ、山本有二候補は比例区で復活したことから、本当の意味の「世代交代」とはならなかった。次は、相手も必死で巻き返してくるだろう。

そのためにも、本人もわれわれ支援者も油断をせず気を引き締めて、いかなければならないと思う。

TPP発言を忘れない

私もそうだが、日本人は忘れやすい。特に政治のことは。しかし、こんなとんでもない政治家発言があったことは、いま決して忘れてはならない

日本の農業を外国に売り渡すことになるTPP法案は、去年11月、国会で強行採決された。その時は地元選出山本有二農林水産大臣であった。

衆議院で審議の最中に、佐藤勉議院運営委員長の政治資金パーティーに顔を出し、「強行採決するかどうかは、この佐藤氏が決める。だから、きょう、馳せ参じた」と、さも強行採決を促し、期待するような発言をし、野党の猛反発を受け謝罪した。

しかし、発言はそれだけにはとどまらなかった。
舌の根も乾かないうちに、別のパーティーで、今度は「この間、冗談を言ったらクビになりそうになりましたよ。これ以上、要らんことは言っちゃいけません」と発言。

さらに、別の場で、「JAの方々が大勢いるが、あすでも、この衆議院議員の紹介で農林水産省に来てくれれば、何かいいことがあるかもしれません」と。

山本議員は地元高知県では、TPPには反対であること盛んに言っていた。農協が取り組んだ反対署名にも応じた。

ところが国会に行くとだんまり。安倍首相に農林水産大臣にしてもらうと、にわかに有頂天になり、上記発言である。

野党からは大臣不適格として辞任を求められたが、安倍首相はかばい続けた。

同じ時期、別の高知県選出自民党の福井照議員も同じような問題発言をし、陳謝した。

言葉の軽さは人間の軽さである。
高知県には、こんな二枚舌議員しかいないのかと、われわれは全国に大恥をかかされた。

それなのに、いまポスターは「山に力を 海と大地に望みを」と書いている。
またも言葉だけ。しらじらしい。

こんな議員にはやめてもらったほうがいい。
高知県民の良識が問われている。
この選挙はその絶好のチャンスである。

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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