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陽水と秋水(2)

父の名が若水であるから、子にも同じ「水」を付けたのだろうことは想像できる。

秋水の名は師中江兆民からもらった号であり、本名は伝次郎。なぜ、祖父廣之助は、あえて子の本名に若水という珍しい名前を付けたのか。

実は、佐賀の記録では、若水の名付け親は別にいた。廣之助の姉竹野の夫千谷林三郎である。志津江さんも林三郎のことをよく覚えており、間違いないと言う。

林三郎は明治十一年、幡多郡入野村(旧大方町)生まれで地方法務局職員(登記官と思われる)であった。

当時、子どもの名前を親戚や親しい近所の者に付けてもらうということは、ここらではよくあった。(幸徳伝次郎もそうである。)林三郎は先の家族写真にも写っており、まじめで人望のありそうな顔をしている。

若水が生まれたのは明治四十一年二月二十五日。その頃、秋水は中村に帰っていた。六月二十二日、東京で赤旗事件がおこった。秋水は七月二十一日、下田から東京に向かう。二年後、大逆事件で逮捕される。

そんな渦中。当時三十歳の林三郎は日本中注目の秋水の動静が気になっていたはずだ。かわいい甥っ子に「若い秋水」=「若水」と名付けたのではないか。

林三郎の子孫が高知市内にいることがわかり訪ねた。林三郎は敬虔なキリスト教徒であった。遺品の蔵書の中に、内村鑑三の本を見つけ、ドキリとした。

内村は秋水萬朝報記者時代の同僚であり、日露戦争で非戦を唱え一緒に退社した。いわば同志である。

しかし、内村の本は「研究十年」(大正二年刊)、「感想十年」(同三年刊)などであり、林三郎が明治四十一年ごろすでに入信していたのかはわからない。志津江さんも林三郎がキリスト教徒であったことは覚えていないそうだ。

また、林三郎は自分の子ども四人(男二、女二)には普通の名前を付けている。若水の弟妹たちもよくある名前である。なぜ、若水だけ。想像は膨らむが確実に裏付けるものはない。

若水の由来、陽水の名前のルーツはなお藪の中である。


ところで、歌手井上陽水についてである。

陽水は昭和二十三年、福岡県飯塚で生まれ、糸田町で育った。妹章子も生まれた。西田川高校を出て、家業を継ぐべく歯科大を三年受けたが失敗。父の期待を裏切り、好きな音楽の道に飛び込んだ。昭和四十四年、アンドレ・カンドレの芸名でデビュー。しかし、売れなかった。

昭和四十七年三月、本名の井上陽水(ヨウスイと呼ばせた)で再デビュー。最初のアルバムは両親を歌った「人生が二度あれば」であった。

 父は今年二月で六十五 
 顔のシワは増えてゆくばかり・・・

父若水は青年時代、一家で佐賀を出た。いつかふるさとに帰りたい、凱旋したいという思いを強くもっていた。

昭和四十七年、佐賀には歯科院がなかったことから、当時の町長から要請され、念願の里帰りを果たし、開院準備中であった。しかし、六月二十五日、突然倒れた。享年六十五歳。

陽水の歌はこれを予言したかのように、父の追悼歌になってしまった。葬儀は佐賀で行われ、荒神山の井上家墓地の両親の隣に葬られた(のち田川にも分骨)。

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 井上廣之助(陽水祖父)    井上家塁代墓
 若水(同父) 墓

久住町の妹志津江さんから私に届いた手紙の中に、「ブラタモリ」を見てください(陽水テーマ曲)とのメッセージとともに、若水が便せんに書き残した直筆の俳句が入っていた。若水は妹二人がいる久住にたびたびやってきた。

 山宿の虎杖(いたどり)ありて故郷をふと
 久住路の石ころ道や花薊(あざみ)
 囀り(さえずり)や兄妹集ふ山の宿

「小春おばさん」という陽水の歌も志津江さんのすぐ上の姉春子を歌ったものだと教えてくれた。

 小春おばさん逢いに行くよ
 明日必ず逢いに行くよ・・・

春子さんは昭和十九年神戸で没しているので、陽水は知らない。二十三歳、結核でむごい死に方をしたということを、父から聞かされていたのだろう。 

父の思いがわかっていたのか、陽水は無名のころから何度も佐賀に帰ってきている。当時の写真も見せてもらった。

平成二年(一九九〇)、佐賀町政施行五十周年の年、町の要請にこたえ、「ふるさとコンサート」を役場前広場で開き、六千五百人を集めた。ノーギャラだった。

ある親戚のご高齢婦人は、若い陽水を夫(故人)が秋水墓に連れていったことがある、自分も一緒に、と語っていた。

陽水自身が出した本(聞き語り、対談)「綺麗ごと」「青春ふたり旅・五木寛之・井上陽水」には肝心のことは触れていない。避けているかのように。

やはり、陽水は秋水に秘めた思いをもっているのではないか。いつかズバリ聞いてみいたい。(続く)

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 佐賀での若き陽水

「文芸はた」第4号 所収
 2018.7.20刊行



陽水と秋水(1)

だいぶ前、東京にいたころ、職場の先輩から「井上陽水は土佐佐賀の出身だそうだね」と言われ、「違います、陽水は福岡の田川出身ですよ」と答えたことがある。

地元に戻って、それは陽水の父親が佐賀生まれだということだとわかった。本人もたびたび先祖の墓参りに帰っており、里帰りコンサートを開いたことがあることも。

さらに陽水は幸徳秋水と何か縁があり慕っているので、似た名を付けたのだという意外な話も耳にした。このことについて過去にいろいろ書かれた(ネットにも)ことがあることも。

私が市長時代の二〇一一年は秋水刑死百年目で、市が記念事業をやることになったので、それなら陽水を呼んでコンサートをやったらどうかということになり、陽水とパイプがあるという人を通して所属事務所に打診をした。

しかし、本人の返事は「自分の名前の由来は親から何も聞いていなし、知らない」と、あっさり断られてしまった。

なんだ、秋水とは関係がないのかと、期待を裏切られ、がっかりした。そして、そのままになっていた。

ところが昨年、同じ福岡出身武田鉄矢が陽水母から過去聞いた話として「陽水(本名アキミ)の名は秋水を尊敬していた祖父の思いをくんだ父親がつけたもの」と最近書いている、と教えてくれる人がいた。(武田鉄矢「鉄矢の幕末偉人伝」9、VISA会員誌2017年6月号)

そうか、秋水も「アキミ」と読める。

しかし、どっちが本当なのだろうか。はっきりとした「陽水」の正体を知りたいたいと思い、調べることにした。

佐賀には陽水につながる井上姓の家は、いまは残っていなかった。しかし、遠縁になるという家が何軒かあることがわかり、順番に訪ねた。

家系図を見せてもらい、私はオッとうなった。確かに幸徳家につながっていた。それは細い糸ではあるが。

中村の郷土史家上岡正五郎先生も関心をもっていたようで、市立図書館保存資料の中に調査した記録のようなものがあり、佐賀の家系図に反映されていた。

それによれば、秋水(明治四年生)の祖父篤親(三代俵屋嘉平次)の代に分家した弟篤昌(俵屋藤兵衛―嘉永七年没)の娘に「よし」がいた。よしは秋水父篤明のいとこになる。

よしは下田の商家平田屋の山崎介三郎(十一代)の弟弁次郎(分家)と縁組をした。平田屋と言えば中村市史にも出てくる江戸中後期下田で最も栄えた廻船問屋であり、文化五年(一八〇八)忠蔵の代、幕府の命で測量に来た伊能忠敬を泊めている。

中村の有力薬種問屋俵屋(幸徳)とは商売上のつきあいが濃かったのであろう。

山崎弁次郎―よしの三男に半次郎が生まれた。半次郎は佐賀に出た。佐賀で三宅助太郎の娘小八重と一緒になった。

「祖父(半次郎)は秋水のハトコだと言っていた」という証言を佐賀で聞いた。

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 山崎半次郎・小八重 墓

小八重には妹小竹がいた。その夫が井上魯吉(三宅家から養子)の四男廣之助であった。この廣之助(明治十七年頃生)が陽水の祖父である。

さらに、小八重には弟仲次郎もいた。仲次郎は大正七年、中村の谷川恒雄―寅(牧子)の一人娘武雄の入り婿となった。寅は秋水の二番目の姉であり、武雄は姪になる。(ただし、仲次郎は娘一人を残し一年後離縁)

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 三宅仲次郎、助太郎 墓

武田鉄矢は、廣之助青年は慕っていた秋水が処刑されたため土佐がいやになって外へ出た、その息子(陽水父)が田川で歯科医になった、と書いている。

しかし、それ以上のことは触れていない。廣之助がどこへ出たかも。佐賀では昭和初期撮影と思われる家族写真(親戚一同)は出てきたが、そのへんの記録はなかった。

廣之助には八人(男二、女六)の子がいた。一番上が陽水の父若水(ワカミ、明治四十一年生)であった。

その下の弟妹たちの消息を捜したところ、まさかと思ったが、下から二番目の妹志津江さんが大分県竹田市久住町にご健在であることがわかった。

志津江さんは大正十四年生まれだが、すこぶるお元気のご様子で、電話でいろんな話を聞かせてもらった。

それによると、井上家は旅館を兼ねた商売を手広くしていたが、廣之助の代に行き詰り、志津江さん小学三年の時(昭和九年頃)、一家をあげて神戸に出た。

以降は家族がいろんな仕事に就き、苦しい生活を支えあった。母小竹昭和十六年、姉春子は同十九年死んだ。

兄若水は歯科で働き朝鮮の京城(ソウル)に渡ってから独学で歯科医の免許をとり結婚もしたが、衛生兵として召集され、南方ブウゲンビル島で終戦を迎えた。

兄嫁フジは娘京子(陽水姉)を連れ自分の生まれ故郷福岡県直方に引き揚げた。兄はあとから復員、直方で合流。父廣之助を神戸から呼び寄せたが、昭和二十二年、喉頭癌で没。

その後、兄は近くの田川郡糸田町(現田川市)で歯科院を開業。下の弟妹たちも兄を頼って神戸から田川へ来た。

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 井上若水(陽水の父)

田川は炭鉱の町。志津江さんと末の妹富士見は炭鉱の仕事で久住町から出て来ていた兄弟と縁があり、ともに久住について行った。若いころは佐賀に何度も帰ったが、年をとったのでもう無理。佐賀がなつかしい。

秋水のことは何にも知らない。父が慕っていたというような話も、先祖がつながっているということも、甥陽水の名前の由来も、と言う。

とはいえ、先祖が幸徳家とつながっているということは系図から間違いない。あとは、名前の由来だ。(続く)

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            佐賀のまち

「文芸はた」第4号所収
 2018年7月20日刊

明徳野球部考(2)

私の明徳義塾高校および明徳野球部に対するアレルギーはだいぶ減ってきた。

しかし、「明徳野球」(野球のあり方、戦術など)には、依然なじめない。抵抗感がある。

言葉を正確に言えば、今の監督の「馬渕野球」と言ったほうがいいと思う。その象徴が松井5連続敬遠(1992年)である。

勝負に徹する。
勝つ野球。
勝ちさえすればいい野球。

甲子園優勝は夏1回であるが、それよりすごい記録をもっている。20大会連続初戦負けなし。明徳は負けない。勝負強い。

守りの野球。試合運びがうまい。足を使う。バントが確実。相手のミスに乗じる。

松井5連続敬遠以降、明徳の野球はセコイとして、バッシングを浴びた。悪者イメージをもたれ、敵役になった。

しかし、それでも実績がものを言う。徐々に馬渕野球が見直されてくる。一目置かれる。特に、野球の玄人筋から。ダミ声の馬渕節に人気が出てくる。

いまでは名物監督とされ、マスコミからもてはやされている。タレント並である。

その人気の秘密は私にも理解できる。なにせ、実績がものを言うからだ。

レギュラーを固定せず、ベンチ総動員でたたかう。選手を巧みに操り、かつ将棋の駒のよう縦横無尽に使う。

そこには、個より組織重視という大原則がある。個は組織のために奉仕することが徹底されている。

野球はチームプレーであるから、一人ではできない。フォアザチームはあたりまえのことで、どこのチームも同じであると言えば、同じである。

しかし、明徳ではその程度が違うというか、異質であると思う。

その結果、卒業後、伸びる選手がいない。

その証拠に、これだけ甲子園に出場しながら、馬渕監督が使った選手でその後活躍する者がいない。プロ野球にも結構ドラフトされているが、これまで活躍した選手はほとんどいない。

あえてあげれば、森岡良介(中日→ヤクルト)、伊藤光(オリックス→DeNA)あたりが、そこそこ名が知られた程度。(伊藤はまだ現役)。2人とも県外から。

その点、大阪桐蔭は対照的だ。甲子園でも強いが、プロでも大活躍しているスターがたくさんいる。(あえて名前はあげない)

その理由は、明徳野球では、個々の選手の将来伸びる素質、可能性の芽を摘んでしまっているからだと思う。

あの丸々と太った大阪桐蔭の西谷監督の懐の深そうな風貌と、ギラギラと突き刺すような目の馬渕監督。その違い。

今年のセンバツで甲子園50勝に達したさいには、心底喜んでいた。また、国体、夏の甲子園、神宮大会と優勝したので、あと残るはセンバツだと、こだわっていた。

誰でも名誉がほしいものだが、あまり表には出さない。しかし、馬渕監督は正直者だ。

私はこれからも、明徳が甲子園に出れば、高知県代表として応援はする。しかし、こんな野球では、将来大成する選手はいつまでたっても出てこないと思う。(終り)、

明徳野球部考(1)

今年の夏の甲子園は100回記念大会。

高知県代表は久しぶり(12年ぶり)に高知商業が復活し、私はホッとしている。明徳義塾の9年連続出場にストップがかかったからだ。

去年の春のセンバツは中村高校が40年ぶりに出場し、地元は沸いた。私も甲子園に応援に行った。

高校野球はあくまで学校の部活動であるのだから、なるべく多くの学校が交代で全国大会に行けばよいと思う。

その意味では、明徳に限ったことではない、特定の学校が独占を続けることは好ましくない。これは、政治や経済の分野でも同じである。独占が続けば必ず弊害が出てくる。

私が高校時代には明徳という高校はなかった。卒業間もなくでき、野球部もできた。高校そのものが全寮制。

最初は県内中学出身選手中心であったが、徐々に県外からの選手が増加。1990年、馬渕監督就任のころには、県外勢が主力を占めるようになった。

それまでの高知県の高校にはないスタイルであり、高知県民から見れば異質であった。すぐに全国に名前のとどろく強豪校になった。

私はそんな明徳でも甲子園に出れば高知県代表としてもちろん応援はしたし、いまもしている。しかし、その他の学校が代表の時とは力の入れ方は違う。心の底からという訳にはいかない。どこか、わだかまりが残る。

しかし、最近は、私はだいぶ変わってきた。

一つは、少子化により、子どもの数、高校生の数がどんどん減ってきた。野球部を単独ではつくれず、複数の高校による連合チームとせざるをえない状況があちこち出てきている。

高校生だけではない、当然ながら高知県の人口もドンドン減っている。

そんな中、県外の中学校から高知県の高校に入学してくれることがありがたいことだ。経済効果という指数にも貢献する。その受け皿になっているのが明徳である。

相撲も、ゴルフ、サッカー、卓球も強い。朝青龍、横峯さくら、松山英樹らも出している。

もう一つは、明徳以外のかつての「古豪」野球部も、同じように県外から入ってくるようになったこと。

今年の高知商業で言えば、レギュラー9人のうち3人は県外からである。明徳義塾は大半が県外からであるから、それほどではないが、以前には考えられなかったことだ。

高知商業は高知市立(市商と言われる)の公立高校であるのに。
高知高校(私立)でも県外勢が増えている。

明徳とは大同小異という訳だ。

そんな中で、今年の明徳のエースピッチャーの市川君は、めずらしく地元の潮江中学(高知市立)出身であったから、高知商業との県予選決勝戦は、変な感じであった。(続く)

ミッキーか戦闘機か

しまんと市民祭にミッキーたちがやってきた。

東京ディズニーリゾート35周年スペシャルパレードは、恒例のなかむら踊り9団体に続いて登場。

ミッキーマウスと恋人のミニーちゃん、ドナルドダック、犬のグーフィーたちが、3台の車の上から愛嬌よく手を振ってくれる。

車の前後は、千葉からのお兄ちゃん、お姉ちゃんに混じって、地元の子供たちがダンスを踊り、はじけている。

沿道には子供や若者ばかりではない。われわれ壮年、老年組も人だかり。

中村市民祭がしまんと市民祭に変わってから14回目になるが、これだけの人出は初めて。地元にこれほど人がいたのかと驚くほど。みんな満足な顔。

あっという間であったが、ミッキーたちが夢の国から夢を届けに来てくれたことに感謝したい。

一方、よさこい祭り前夜祭には、自衛隊ブルーインパルスによる「展示飛行」が行われると聞く。

改造されているとはいえ、飛ぶのは戦闘機。

祭りが行えるのは平和あってこそ。祭りの場に戦争は似合わないと思う。


 高知新聞 声ひろば 投稿
 2018.8.9

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鳥帰る

このほど山陰を旅したさい、訪ねたいところがあった。鳥取県倉吉市。

かつてNHKドラマ「鳥帰る」の舞台になったことから、どんな町なのか、一度立ち寄ってみたいと思っていた。

「鳥帰る」は1996年に放送された単発の山田太一作品。もう22年たつ。

私は人間の心の機微をていねいに描く山田作品のファンである。以前は、NHK、民放を問わず、たくさんつくられていたが、高齢のためか、さすが最近は少なくなったのがさみしい。

山田作品の中の最高傑作が「鳥帰る」だと思う。書き下ろしの脚本がいいうえに、伊豫田静弘の演出もいい。

主演は田中好子。キャンデーズのスーちゃんとしてアイドルであったが、女優になり、この年は40歳となっていた。

田中好子は2011年、多くのファンに惜しまれて55歳で亡くなった。その年、追悼番組として、NHKがこのドラマを再放送したのだから、彼女の代表作品として位置付けられているということだ。

山田太一がインタビューで田中好子は女優としても素晴らしかった、この作品では円熟していたと評していた。

主人公の麻美は母と子1人であったが、母(香川京子)の反対を押し切って、男を追っかけ家を出た。しかし、結婚生活は4年で破綻。東京に捨てられた。

他に頼るところもなく、傷心の思いでふるさと倉吉に帰ってくる。しかし、母の前では正直になれない。うそと強がりを言う。

母のほうも心が開けない。すぐにぶつかり、また飛び出す。…「孤独」と「家族」のはざまで揺れる人間のこころ。

倉吉は赤瓦と白壁土蔵群のコントラストが映える、しっとりとしたまちであった。蔵の裏には玉川が流れ、そこにかかる石橋。ドラマでは、ここで母子が雪かきするシーンがあった。

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戦火にあわなかったこのまちには、江戸~明治~大正~昭和の歴史がそのまま残っている。国の重要伝統的建造物群保存地区指定。酒蔵、醤油蔵、はこた人形、倉吉絣、因州和紙、やきもの、横綱琴桜記念館・・・ドラマに出てきた商店街のアーケードはすでに取り払われていた。

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意外だったのは、観光案内所やお店の人たちに「鳥帰る」の話をしても、誰も知らなかったこと。観光パンフなどにも紹介がない。

パンフは、もっぱら寅さん映画のことを紹介していた。第44作(1991年)「寅次郎の告白」(相手役・吉田日出子)のロケに使われた。

私はこの作品を見たことがあるが、倉吉が登場していたとは気づかなかったので、家に戻ってから見直した。確かに倉吉ではあったが、鳥取のとある町という設定になっていたのでわからなかったのだ。

また、韓国ドラマ「IRISーアイリス-」のことも紹介されていたが、このドラマのことはまったく知らない。

私は不思議に思った。
なぜ、これだけの名作「鳥帰る」であるのに、地元の人が知らず、まちの紹介にも活用していないのか。もったいない話である。

寅さんの映画では、旅の途中でふら~と立ち寄るという設定である。しかし、「鳥帰る」では主人公が生まれ、愛憎がしみついたまちという設定であり、作品の中での位置づけの重さが違う。

はやり、山陰の人たちは遠慮深いのか。地元の代議士石破茂は慶應学生時代、キャンディーズの追っかけをしていたことは有名であり、話題のネタにもなるのに。

そんなモヤモヤな気もちでまちを歩いていたら、2カ所にドラマの痕跡を発見した。倉吉いか工房と森田醤油屋さん。ご主人2人は知っていた。

「いか」とは凧のこと。もともと空に揚げる凧は、関西ではいかと呼ばれていた。関東ではこれに対抗してたこ(凧)と呼んだとか。ドラマに出たという「いか」が展示してあった。

醤油屋さんには、主役のもう一人、杉浦直樹のサイン色紙があった(渥美清も)。ロケ宿舎からおみやげに醤油を買いに来たという。杉浦直樹もすでに故人だ(田中好子と同年、追うように逝った)。

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証拠物件2つを見つけ、ホットした。

前の日、松江から倉吉に向かう途中には、米子水鳥公園にも立ち寄った。中海湿地帯に飛来するたくさんの鳥たちを観察できるところだ。正面には大山がそびえ立つ。

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この公園はドラマのラストシーンに出てくる。季節は冬。4年ぶり母との再会も居づらく再び飛び出した麻美。どこにも行くところがなく、この公園にやってくる。

しかし、昼間なので肝心の白鳥はいない。シーンとしている。さみしさがこみあげてくる。絶望の底に落とされ、じっとうつむいたまま。

すると、夕暮れ迫るころ、周囲のたんぼなどにエサを探しに行っていた白鳥の群れが一斉にねぐらに帰って来る。けたたましい鳴声をあげて。 

ビックリして、鳥を追いかけると、そこに母が立っていた。帰省の列車で偶然一緒になった木崎(杉浦直樹)が仲立ちして、母を連れてきたのだ。

唖然とする麻美。みるみる目から涙が。そして母に抱き着く。

     鳥帰る いずこの空もさびしからむに

安住敦の俳句が字幕で紹介される。作品はこの句からイメージを膨らませてつくられたそうだ。(「鳥帰る」は春の季語)

いろんなところに行っても、鳥は必ず巣に帰ってくる。

念願のドラマの舞台をこの足で踏めて、いい旅の締めになった。

島根原発

7月18日~23日、山陰の島根、鳥取を訪ねた。主な目的は、私も会員になっている脱原発をめざす首長会議主催の学習会が21日松江で開かれたから、これに参加するため。

松江で開かれた理由は、いま島根原発3号機(中国電力)の稼働に向けた動きが山場を迎えているから。

島根原発とは

1号機は1974年稼働(電力会社の原発として3番目)したが、廃炉決定している。
2号機は1989稼動。運転停止中。
3号機は2005年建設開始し、ほぼ完成。中国電力はこれから稼働に向けた手続きを進めようとしている。

その特徴は、

1. 全国の原発の中で唯一県庁所在地(松江市)にある。市中心部までわずか10キロ。30キロ圏内(鳥取県も入る)に47万人住む。
2. 3号機は全国の原発で最大発電能力(137.3KW)をもつ。
3. 福島原発事故以降はじめての新規稼働(再稼働ではない)となる。

学習会には、地元で反対運動に取組んでいる島根原発・エネルギー問題県民連絡会のメンバーも多く参加した。(約120人)

挨拶 三上元・前静岡県湖西市長(首長会世話人)
現地報告 保母武彦・県民連絡会代表(島根大学名誉教授)
講演 安田陽・京都大学特任教授「再生可能エネルギーの最大導入とその障害」
報告 村上達也・前茨城県東海村長(首長会世話人)「日本電源が事前了解権を認めるまで」

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安田教授は、再生エネルギーは世界の主流になっており、日本でも拡大しているものの一気に増えないのは、電力会社が送電線利用を「行列ができるガラガラの蕎麦屋さん」のように、余裕があるのに使いにくくしているため、と説明。

村上前東海村長は、今年3月、東海第2原発の再稼働にさいしては、立地の同村だけでなく30キロ圏内の4市(水戸、日立、那珂、ひたちなか)の同意が必要とする画期的な協定(安全協定)を日本電源と結んだ経過について報告した。

東海第2原発をめぐるこうした新たな動きを受けて、いま島根原発で問題になっているのは、中国電力は、立地の松江市(および島根県)だけでなく、30キロ圏内の他の5市(島根県=出雲、雲南、安来、鳥取県=境港、米子)とも同様の安全協定を結ぶべきだとする声が高まっていること。

原発事故がおこれば、立地市町村もその他も関係ない、同じ被害を受けることは、福島事故で証明をされている。

首長会議は、当日、このことを要求する声明を発した。

学習会終了後は、県民連絡会の集会に参加。上記5市の行政および議会の状況報告等が議員中心にそれぞれの地元からなされた。松江駅周辺をデモした。

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そのあと交流会にも参加したが、うれしかったのは北川泉先生(元島根大学学長)の名前が出たこと。北川先生は、県民連絡会結成時の会代表であられたそうだ。最近は体調を崩されているとのことで、当日も参加はされていなかった。

北川先生は、四万十町(旧大正町)出身であり、以前里帰りされたさい、私も2度お会いしている。四万十市富山地区が地元産米から地酒「とみやま」をつくったのは、同様の地酒を島根県でつくり、地域おこしにつなげたことを、紹介されたことに始まる。酒を通して両地の交流をおこなっている。

翌22日は、鳥取市米子市で緊急集会が開かれ、三上元首長会議世人が話をされるというので、これにも急遽参加をした。

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宍道湖と中海は、島根、鳥取をつないでいる。両県の結びつきは、地理的、歴史文化的にも深い。特に鳥取県西部の米子周辺は、松江と同じ経済圏を形成している。

全国の原発反対運動において、二つの県の住民が同じ地元として、手をとりあって取り組んでいるのは、ここだけではないだろうか。心強い・

いまさら新しい原発を動かすとは時代錯誤。
宍道湖、中海を守ろう。

愛媛県と高知県だって手を組まなければならない。
大きな勇気をもらった。

http://mayors.npfree.jp/?p=5930



暑さ日本一返上

毎日暑い。死にそうだ。

そんな中、7月23日、埼玉県熊谷市で国内最高気温41.1度を観測した。これで、5年前に四万十市で出た記録41.0度が更新された。

ああ、よかった。正直、私はホットしている。熊谷市には悪いが、こんな記録は自慢にはならない。

人は、日本一暑いところと聞いて、どう思うだろうか。それはすごい、ぜひ行ってみたい、住んでみたいと思うだろうか。普通の人は思わない。

逆に、住みにくいところというレッテルを貼られたようなもので、迷惑な話である。

ところが、5年前、2013年8月12日、四万十市西土佐江川崎の観測ポイントで41.0度が出た時は、今回と同じように、マスコミで大きく報道されたものだから、知名度が上がるラッキーチャンスとして、地元では歓迎し、はしゃいだ。

地元全体が浮ついていたので、私はすぐに高知新聞に以下の投書を書いた。


     環境保全でも日本一を

 四万十市は国内最高気温41度を記録し、にわかに注目を浴びた。これを歓迎し、「日本一暑いまち」を観光や地域おこしなどにつなげようという声がある。それも大事なことだが、一方で重い責任をかかえたことにもなる。
 近年の異常気象は、人間の産業活動に伴う温室効果ガスや環境破壊による地球温暖化が原因であることは明らかだ。この夏の猛暑では、高齢化社会が進む中での熱中症患者の増大や、渇水による給水制限、農作物への被害などにより、人間の生活が脅かされている。
 四万十川は日本最後の清流と呼ばれて有名になった。最後という意味は、自然環境や人と川の文化がいまも残っているということだ。この四万十川が異常気象においてもシンボルになったことの意味は重い。
 昨年7月、流域5市町共同で原発に頼らない自然エネルギーへの転換をめざす「四万十川アピール」を発表したように、四万十川の自然や環境を守ることなど、温暖化対策等地球環境を守っていく取り組みにおいても日本一になることにより世論をリードし、注目されなければならない。
流域に住むわれわれとしてはその責任がある。
 
    高知新聞「声ひろば」2013.8.23


それなのに、今回熊谷市に抜かれたことを残念がる声も、なお聞かれる。すぐ抜き返してやる・・・などと。

しかし、よく考えてほしい。この夏の異常な暑さにより、熱中症で何人もの人が亡くなっている。最近は「危険な暑さ」という表現が使われるようになった。まさに、命が危険なのである。

人だけなく、農作物などにも悪影響大である。だから、この暑さを喜ぶ人などいない。

暑さを武器にまちおこしを行うことは、逆転の発想、またはブラックジョークとしては面白いかもしれない。マスコミも取り上げるので、地域の知名度は上がるかもしれない。しかし、それは悪いイメージの知名度である。

四万十市には誇れるものがたくさんある。第一に、「最後の清流」四万十川だ。

清流にはひんやり涼しいイメージがある。市は、これを看板に、住みやすさを売りにして、移住促進にも力を入れているのではないか。

暑さを競うことは、これを否定することになるではないか。地獄へのレースのようなもの。他に自慢できるものがないとPRしているのと同じ。市のスタンスが問われる。

今回暑さ日本一を譲った西土佐地区(旧西土佐村)は市内で過疎高齢化が一番進んでいるところである。

地域で唯一の医療機関である市立西土佐診療所はずっと常勤医師2名体制を維持してきたが、3年前から1名になり、小児診療や夜間診療に制約が出ている。募集しても医師が来てくれない。地域の人々の命が守れない状況で、いま市政の最重要課題になっている。

なのに、暑さをPRすれば、医師はますます行きたくなくなると思うだろう。自分で自分の首を絞めている。

地域を守るために、まず地に足をつけること。
浮ついた発想はいけない。

大水と中村

今回の豪雨により、岡山県真備町で大きな犠牲者を出した背景には、地域として川の怖さを知らなかった、過去に大きな被害を受けた経験がなかった、ということがあったと思う。

その点、中村は過去から何度も被害を受けており、川の怖さを知り尽くしている。
今回、中村周辺の四万十川流域では人的被害を出さずにすんだ。

高知県全体では3人の死者(大月町2、香南市1)が出たが、それでも今回の雨が降り始めてからの累積降雨量は高知県が一番多かったのに、広島、岡山、愛媛などに比べるとはるかに犠牲者が少なかった。

高知県は台風の常襲地帯であり、大雨は毎度のこと。県民のだれもが、危険なポイント、逃げ方など、大水対策を心得ている。

四万十川は暴れ川。
中村の町は、その氾濫により、過去から何度も水に浸かっている。年中行事のように。中村の歴史は水害の歴史と言ってもいいくらいだ。

明治44年、昭和3年の写真を見てほしい。町がすっぽり水没している。今回の真備町と同じだ。

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昭和4年、四万十川は国の直轄河川に指定され、治水事業が始まる。いま、中村の町は堤防に囲まれているが、この堤防はその年からつくられ始めた。

過去最大の浸水は昭和10年8月。堤防はほとんどできていなかった。航空写真が残っている。町は湖に中の小島のようだ。水位は、赤鉄橋の橋げたを越えた。しかし、この時、死者はゼロであった。

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中村の町の家々は、当時もいまもほとんどが二階建て。いざ、水が出たさいに上に逃げるためだ。

また、周囲の山など少しでも高いところを逃げ場として、みんな知っている。ああ、危ないなと思ったら、ただちに逃げることが身についている。

また、四万十川には川漁師など舟をもっている者が多いので、すぐに舟で救出に向かう。

昭和29年、11町村の合併で中村市が誕生し、新しい市役所を建てることになった。天神山を切り取って建てることになった。

山の頂上には天神社(お宮さん)があった。氏子たちは、天神山を市に提供する条件として、昭和10年の出水の水位よりも高い位置に立てるこを申し入れた。

それがいまの四万十市役所の位地である。それだけ、みんな水を恐れていたというととだ。

昭和38年8月の9号台風も大きかった。この時私は小学5年だったので、はっきり覚えている。堤防が切れるかもしれないということで、夜ろくに眠れなかった。翌朝、対岸古津賀の堤防が切れていた。この台風では死者が1人出た。

最近では、平成17年(2005)8月の出水。私がいま住んでいる家にも、庭先まで水が来た。当時は父が一人で住んでいたが、畳を上げ、荷物を2階に移したが、ことなきをえた。

そんなこんな経験から、市内では台風等で水が出るさいは、いちはやく消防団員が堤防の見回りに出るシステムになっている。

四万十市は、大水対策においては、全国で一番の体制ができていると思う。

真備町

岡山県倉敷市真備町が豪雨浸水で大変なことになった。

最初に報道された時、久しぶりに聞く、なつかしい名前だが、あそこには大きな川はないはずなだから、たいした被害には、ならないだろうと思った。

真備町は、私が岡山転勤時代(1989~92)、仕事でよく車で通ったところだ。岡山市から井原市方面に出かける際に。

真備と言う名前は、奈良時代8世紀に活躍した学者・政治家の吉備真備(きびのまきび)に由来する名前ときいた。生誕記念碑が建っていた。

また、作家の横溝正史が戦中疎開をしており、「八ツ墓村」など、岡山を舞台にした推理小説が多いのは、そのためだとも。

岡山県は、昔からほとんど自然災害のないところで、真備町もおだやかな平野の中にあった。当時は、倉敷市と合併前で、独立した吉備郡真備町であった。

ところが、テレビの映像を見て驚いた。町全体が水没していた。小田川が決壊したという。

そういえば、井原に向かう道に沿って小さな川が流れていた。あの川か。しかし、あんな川から、大量の水が流れ込むとは、信じられなかった。

それだけ大量の雨が流域に降ったということだが、それ以外にも理由があることがわかり、納得した。

小田川は真備町で一級河川高梁川と合流しているのだ。普段の雨なら、本流にあたる高梁川に注ぎ込む。

しかし、高梁川上流でも大量の雨が降ったため、本流の水位が先に上がったため、小田川からの流れは合流点でせき止められてしまい逆流(バックウオーター現象と言うらしい)。行き場を失った水は、一気に溢れ、堤防を決壊させたのだ。

川の合流点は怖い。四万十川でも被害が出る警戒ポイントは合流点だ。愛媛県から流れてくる広見川、目黒川の合流点にあたる西土佐江川崎、津野川はいつも危険水位になる。

また、私の家の前で合流する中筋川。この川は高低差が少ないため水はけが悪く、以前は、不破の前で合流し、中村や具同をいつも水没させていた。

この川の水はけをよくするためには、合流点をもっと下流に下げなければならない。そのため、坂本~山路間に、本流の中に堤防(背割り堤)をつくり分水、さらに甲ヶ峯の山を削り、山路川につなげた。

この工事は昭和12年に始まり、延々昭和39年まで続いた。その工事のもようは、私の記憶にもある。

川の合流点の怖さを改めて示したのが、今回の真備町だ。

3年前、茨城県常総市で利根川支流の鬼怒川が氾濫し、中心部がすっぽり水没した。しかし、その際は、一人の死者も出なかった。水位が低かったため、2階に逃げたりしたからだ。

だから、外に逃げるとかえって危ない。家にいて救助を待つ、そのほうが安全とされてきた。

今回、NHKの中継でも、当初、家に留まるようさかんに呼びかけていた。

しかし、それは間違いだった。家にとどまったことにより、平屋建ての住人や、2階があっても上がれない高齢者などが、相当数水死した。過去の経験があだになったということだ。(かといって、外に逃げる手段もなかったのだが。)

毎年、この季節繰り返される豪雨災害。

地震、大雨・・・日本は災害列島であることを常に忘れてはならない。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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