猫が大虎に TPP

 TPP承認法案と関連法案が、12月9日、参議院で可決された。トランプ米次期大統領が離脱を表明しているため、TPPはもはや発動されないは明らかなのに、強引に通した。まるで虎が牙をむきだしたように。

しかし、自民党は最初、おとなしい飼い猫であった。

2012年総選挙の公約は、「聖域なき関税撤廃を前提とする限り、TPP交渉参加せず」であり、「TPP断固粉砕」のポスターを掲げて、政権を奪取した。

その後、TPP交渉に参加したが、国会決議「農産物主要5品目を守れなければ離脱する」を受けて、交渉次第では、いつでも手を引くということをさかんに言っていた。あくまで、受け身のようなポーズをみせていた。

ところがだんだんと猫の気性が荒くなる。農業団体からの強い抵抗を受けたことから、その仕打ちに「農協改革」と称して、農協組織つぶしに爪をとぐ。全国農協中央会組織を改編させた。

2014年総選挙でも勝ったことに自信を得たのだろう、猫の化けの皮がはげてくる。TPPは需要な成長戦略だ。自由貿易なくして日本の将来はない、などと。

数の奢りに自己陶酔してしまって、肝心のアメリカの出方の判断を誤ってしまった。大統領選挙では、両候補がTPP反対を唱えた。それでも、クリントンなら、なんとかなるだろうと勝手に思い込み。しかし、トランプが勝った。

ならば、謙虚に頭を冷やして、しばらく様子を見るのが普通である。国会承認を急ぐ必要はない。

ところが、毒食らわば皿まで。やはり猫かぶりだった。猫は大虎になってしまった。走り出した虎は止まらない。

今度は、TPPは日本がリードするのだと言い始めた。主役きどりだ。外国から見れば恥の上塗りにしか見えない。(一方では、地球温暖化対策のためのパリ協定批准は遅れた)

虎の暴走は、TPPだけにとどまらない。
安保法案、原発、沖縄もそうであるが、今回またカジノ法案も。

凶暴勝手な虎を早く仕留めないと、日本にはネズミ一匹住めなくなってしまう。
虎の遠吠え、ではすまされない。

葛根廟事件

12月4日、道の駅「よって西土佐」で、シンポジウム「葛根廟事件を考える」が開かれた。

同事件とは、太平洋戦争中、満州内蒙古葛根廟でおこったソ連軍による「日本人大量虐殺」(約1300人中、生き残り130人)のこと。

昭和20年8月9日、ソ連が参戦。戦車部隊が満州攻撃をはじめる。満州国興安総省首都興安にいた日本人は、男はほとんどが召集され、老人、女、子供が中心だった。集団で避難途上、8月14日、ソ連軍の追撃を受けた。

生き残りの1人、当時10歳であった大島満吉さん(81歳、興安街命日会代表、東京都)が生々しい体験談を、声を詰まらせながら話してくれた。

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同事件のことを私はほとんど知らなかったので、事前に本(大櫛戌辰「炎昼 私説葛根廟事件」)を読み、大島さんにも質問し、わかったこと。

連合軍(米・英・ソ・中)はソ連の参戦を決めていた。日本軍(関東軍)はそれを察知し、その場合、負けることはわかっていたので、満州国首都新京以南に撤退することを、密かに決めていた。興安でも突然、関東軍が消えた。

避難民の中には、在郷軍人(軍OB)もいて、銃をもっていた。関東軍を追撃するソ連軍は、避難民の中に日本軍がまぎれこんでいるとみて攻撃した。避難民は逃げた関東軍の盾にされた。

軍人(現地召集者も)は、シベリアに送られたものの、大半が生き残って日本に帰れた。死んだのは、女、子どもたち。

西土佐(旧江川崎村、旧津大村)からも、開拓団が満州に送りこまれ、多くの犠牲者を出したが、葛根廟とは遠く離れており、この事件には関係していない。西土佐の犠牲者は、避難途上の飢餓と病気によるものが大半で、一部現地人襲撃もある。

なぜ、西土佐でシンポジウムが行われたのか。
西土佐では、満州犠牲の記録を残そうと、資料展示室(権谷せせらぎ交流館)をつくっている。また、引き揚げ者の2世、3世などを中心に、「西土佐の満州分村を語り継ぐ会」も結成されている。

そのことを聞いた、葛根廟事件生き残りの1人で、事件の追跡調査をしている大櫛戌辰氏(福岡市)が関係資料を西土佐に寄託した。また、四万十市中村には、本人は日本にいて無事だったが、父親を事件で失った青木浩さんがおられた。(高知県関係者犠牲者は16人)

道の駅が会場になったのは、「・・・語り継ぐ会」会長の林大介さん(父が満州引き揚げ者)が、道の駅駅長をされている、から。

道の駅には、11月27日~12月11日、大櫛氏から寄託された葛根廟事件資料の一部のほか、旧江川崎村満州開拓団資料も展示している。

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道の駅「よって西土佐」は、食べ物等の商品販売だけでなく、2階は会議等にも使える地域交流スペースになっており、情報も発信している。ここで、展示も行われており、シンポジウムも行われた。

満州開拓団関係の資料館は全国に2つ。ここ(せせらぎ交流館)と、もう一つは、長野県阿智村。

11月、天皇、皇后が、阿智村資料館を訪ねている。天皇のたっての希望だったという。その感想を、大島さんに聞いたら、「うれしい」と言われた。

戦争の記録はきちんと残し、後世に語り継がねばならない。道の駅が、今後もそうした役割を果たしてくれることを期待している。

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ふるさと納税(その2)

 1年前、ふるさと納税は「政府公認の脱税制度」あるいは「特産品斡旋制度」になっていると、自らの反省を込めて書いた。

 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-218.html

11月28日付高知新聞には、「振り込め詐欺の知恵」と、ドキリとする表現でこの制度の本質を的確に指摘した投稿が載っている。投稿を書いたのは、片山善博・元鳥取県知事(現・慶応大学教授)。

「自治体がよその自治体の税をかすめ取るようなことに狂奔している姿を見るのは嘆かわしい」。

しかし、「ぼやぼやしていると、よそから税をかすめとられてしまう。取られるなら取り返す。自治体はやむを得ずそれに知恵を絞らざるを得ない境遇にある。」

「自治体をこんな不毛な競争に駆り立てる仕組みをつくった国は実に不見識であり、無責任だと思う」と。

再度書くが、問題はこういうこと。
圧倒的に多い、半額を特産品で返礼する自治体の例。

よその自治体にふるさと納税をする人は、例えば、10万円を払えば、2千円の負担だけで、居住地に払う税金は9万8千円軽減される。そのうえ、お礼として5万円分の特産品がもらえる。よって、その人も、よその自治体も、差し引き4万8千円の「お得」に。しかし、地元自治体は9万8千年の損(税収減)になる。

どこの自治体も財政事情はきびしい。だから、税収増のために努力するのは当然のことである。

その努力は、地域経済を活性化し、家計収入を増やすことの見返りとして税収も増えるというような方向で知恵を絞り、汗を流すのが自治体の使命である。そうすれば、拡大再生産で回転する。

ところが、現実は、いかによそより目を引く返礼品をそろえてお金の取り込むか、が主目的になっている。

政府が2008年、この制度をつくった当初は、自己負担4千円だったのが、昨年度から2千円に軽減し、さらに競争に拍車をかけている。

国が率先して脱税をすすめているのだから、国民の勤労意欲も低下する。

私もこんな制度は即刻やめるかべきだと思う。

純粋に寄付をしたい人は、返礼品なんかいらないと思っている。

不純な心をあおってはいけない。
いまのままでは、善意も脱税もごっちゃになってしまう。

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備中 高梁


津山市内の院庄インターから中国道を西へ。有漢インターで降り、高梁川に沿って国道を下ると、約1時間で備中高梁(高梁市)に着いた。

岡山県内では、ここも津山と並んでもう一度来たかったところ。津山は吉井川、高梁は高梁川、ともに川のせせらぎが情緒をかもしだしている。

午後3時をまわっていた。今日中に中村に帰らなければならず、時間がないので頼久寺に直行した。ここの庭園に再会したかったから。

頼久寺庭園は、江戸初期の慶長、元和時代、備中松山城の城番に来ていた小堀遠州がつくったもの。愛宕山を借景とした枯山水で、大波のようなサツキの植え込みが見もの。

最初に来たのは30代であったが、この庭がかもしだす雰囲気が好きになり、たびたび立ち寄った。忙しい仕事の中でも、こころを鎮めてくれた。父を連れて来たこともある。

久しぶりに縁側にすわった。じっと庭を眺めたあと、目を閉じる。無のやすらぎ。あれから年を重ね、詫び、さび、というものが少しはわかってきたような気がする。

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小堀遠州は茶の世界でも有名であり、その後福岡で、遠州好みと言われる高取焼、上野焼にも縁ができた。

頼久寺は臨済宗の寺。山際に、城を見上げるような門構え。ここらは、同じような寺が連なっている。戦いの時、砦の役割も果たしたという。

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その中の一つ、薬師院は寅さん映画(マドンナ竹下景子)のロケに使われた。山田洋次監督も、このまちの雰囲気を気に入ったのであろう。高梁はさくらの夫ひろしのふるさとになっている。だから、いっそう好きある。

ひろしの実家跡に使われた武家屋敷通りは、今回は車でさっと通っただけ。臥牛山の頂上近く、標高430mの高さに建つ備中松山城にも、とても登る時間はなかった。

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しかし、賀陽インターに向かう、初めて通る急な坂道の途中の駐車場から、市街地を一望できた。その先には、松山城の天守閣もポツンと点のように見えた。夕闇迫る中、感動的であった。

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兵庫県の竹田城がきっかけで「天空の城」という言葉が流行語になっている。払暁、雲海に浮かぶ松山城も、いま同じように話題になっているという。

賀陽インターから瀬戸大橋までは約30分。
あとは、いつもの道で、夜遅く中村に帰ってきた。

大阪からの帰り、はじめて2泊3日をかけて日本海側を大回りした。丹後~但馬~因幡~美作~備中。前半は未踏の地、後半は思い出さがし。

かけあしだったが、充実した旅であった。同じコースを、いずれゆっくりとまたまわってみたい。

作州 津山 朝日茂

 津山では、もう一人の墓も訪ねた。「朝日訴訟=人間裁判」で国を訴えた朝日茂。

寺町の一角、作州民芸館に入り、ガラスケースに並んだ地元民芸を見ていたら、その一つに、朝日訴訟の記録資料を展示したものがあったので、驚いた。他の展示とはおよそ異質の内容だが、朝日茂はここのすぐ近く、津山市京町の出身ということで、展示していると書かれていた。

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そうか、朝日茂は津山生まれだったな。以前、右近俊郎「小説朝日茂」を読んだことがあったので、思いだした。

係の人が、墓はすぐそこの本行寺にありますよと教えてくれので、行くと「人間裁判 故朝日茂氏墓所」の看板がすぐに目に入った。「朝日家累代之墓」の脇には、訴訟経緯を解説した記念碑と、「守れ 憲法二十五条」の石柱も。

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昭和33年、重度の結核で国立岡山療養所(都窪郡早島町)に長期入院していた朝日茂は、当時の生活保護基準は低劣で、憲法25条で認められた、健康で文化的な生活を営む権利=生存権を侵害するとして国を訴えた。

朝日茂は、療養所で生活保護給付金月600円をえていたが、兄からの仕送り1500円入ると、これを停止されたうえに、差額900円を医療費自己負担分として国に拠出するよう求められた。

東京地裁の一審では生存権を認める画期的判決(浅沼判決)で全面勝訴。しかし、高裁で敗訴、最高裁審理中の昭和37年、原告死去により、高裁判決が確定。

しかし、その影響は大きく、一審後、生活保護水準の見直し、引き上げが行われた。この裁判は、人間らしい生きかたとは何であるかが争点となったことから、「人間裁判」とよばれ、日本の社会保障運動の原点となった。

「法勲」の戒名を持ち、司法を踏み台に総理大臣になった平沼騏一郎と、底知れぬ司法の壁に挑んだ朝日茂、この二人が同じ津山出身というのも、まぎれもない日本歴史の痕跡なのだろう。(ちなみに、作州といえば、社会主義者片山潜も津山の隣、久米郡出身である。)

「思い出さがし」が目的で今回津山経由を選んだのであったが、予期せぬことで、2人の墓を訪ねることになった。

いま、日本国憲法の価値がするどく問われている最中だけに、この巡りあわせを大切にしていかなければならないと思った。

そんなことで、時間がなくなってしまった。鶴山城(津山城)は、下から石垣を望むだけとなった。しかし、この城は、このほうが風格ある。

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さっと通った裏道の旧出雲街道沿は、風情のある古い町並みと吉井川を活かしたまちづくりが進んでいた。だいぶ雰囲気が変わったな。

以前仕事でお世話になった先も外からサラリと眺めただけで、備中高梁をめざした。

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作州 津山 平沼騏一郎

大阪から丹波、但馬、因幡と日本海をぐるりまわり、作州(美作)の津山に着いたのは、10月25日夜。

津山は、以前転勤で岡山にいた3年間、仕事で毎月通ったところ。以来24年ぶりだ。

いつも岡山からの日帰りであったため、泊まるのははじめて。翌日はゆっくりと、鶴山城や、以前お世話になった取引先周辺の「思い出さがし」でもしようかなと思っていたが、大逆事件サミットからの帰りでもあったためか、ふと津山は平沼騏一郎の出身地であったことに気づいた。

東京多磨霊園に平沼の大きな墓があることは知っているが(行ったことはない)、ネットで調べたところ、市内にも平沼墓があることがわかった。ホテルで地図をもらい、翌朝一番で訪ねた。

旧出雲街道に沿った、城の西側には寺が収集中している一角があった。この寺町に踏み入れたのは初めて。以前は、仕事だけのとんぼ返りであったし、平沼と津山も結び付かなかった。

寺町の高いところに平沼家菩提寺の安国寺。門を入って、すぐ右の植え込みの中に、その墓はあった。1基だけポツンと。「平沼騏一郎墓」、右側面「鶴壽院殿法勲機水日騏大居士」、左側面「昭和廿七年八月廿二日薨 享年八十六」。植え込み入口には、「元内閣総理大臣平沼騏一郎墓」の新しい標柱が建っていたが、元総理の墓にしては、こじんまりとしたものであった。

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戒名の意味全てはわからないが、「法勲」だけはわかる。それは「大逆事件」のシナリオをつくり上げ、司法とは名ばかりの暗黒裁判で社会主義者を撲滅したという「勲」である。

平沼騏一郎は、慶應3年(1867)、津山藩士の家に生まれた。5歳で上京、帝大を出て、司法界に入る。幸徳秋水逮捕時の大審院次席検事兼民刑局長。元老山縣有朋、首相桂太郎の意を受けて、社会主義者を一網打尽にするために、「平沼独裁の捜査本部」(神崎清)が容疑のフレームアップを画策、逮捕の網を全国に広げ、センセーショナルな一大事件に仕立てあげたのだ。

平沼はこれをステップに、翌年検事総長に。さらに、貴族院議員、司法大臣、昭和14年(1939)には、第35代内閣総理大臣に登りつめた。

しかし、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンへ。手記の中で、大逆事件は社会主義という「思想を裁いたもの」であったことを認めている。獄中では、深夜に泣き叫ぶなど奇行が多かったという。病気仮釈放直後、昭和27年没。満84歳。

寺の住職によれば、「戦犯のため」分骨は容易には認められなかったが、先代住職(父)が奔走して、ひそかに持ち帰った。当時も、いまも、墓を訪ねる人は、ほとんどないという。本堂の裏庭は「石林園」と呼ばれる、市指定需要文化財になっているというのに。

住職が門の外にも先祖墓があると教えてくれた。

平沼騏一郎は生涯独身であったので、兄淑郎(元早稲田学長)の曾孫、赳夫を養子とした。この現平沼赳夫代議士が、分散していた墓を近年一つにまとめ、四角に仕切った壁の中に「平沼家墓」をつくったという。騏一郎標柱もその時建てたものであろう。

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「平沼家墓」にも訪ねる人はほとんどなく、代議士地元秘書が彼岸などに花を差しに来るぐらいとか。

また、住職から、まちなかに平沼家住居跡があり、資料なども展示しているらしいという情報をえたので、鶴山城下の観光センターに立ち寄って、詳しい場所を聞いた。

ところが、窓口の若い女性はわからないという。上司を通して調べてもらったら、それは「知新館」のことだろう、ということになった。

しかし、そこは普段は閉められており、見学を希望するなら、管理委託先(福祉団体)に連絡してカギを開けてもらう必要があるというので、そうしてもらった。

やっとたどりついた「知新館」は、昭和13年、平沼古希の祝いに、地元有志が旧居跡地に生家を武家屋敷風に復元し贈呈したもので、戦後、平沼家から津山市に戻されたもの。

昭和63年まで市立郷土資料館として使われていたが、新しい資料館ができてからは、地域の集会・打ち合わせ等に供されているとのことだが、最近は使われることも、私のように、よそから見学に来る者もほとんどいないそうだ。観光センターの対応からも、それはうなずけた。

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入ってみると、座敷、床の間、廊下に庭と、なかなかの風格があった。白壁土蔵もあり、ほこりをかぶったガラスの中に、平沼兄弟の書と写真などが展示されていた。弟騏一郎の書(「尚而和」)は几帳面で窮屈だが、兄淑郎のそれ(「天絵」「楽道」)は、自由、豪快で好対照であった。

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 幸徳秋水と平沼騏一郎。

秋水の墓にはいまも全国から訪れる人が絶えない。記帳ノートには多くのメッセージが寄せられる。毎年墓前祭もおこなっている。生家跡、記念碑(絶筆碑)、資料館、資料室も、同じだ。観光案内等にも、それぞれ紹介。つい先週は、市(行政)と秋水顕彰会の共催で、秋水史跡めぐりを開催した。

それに比べて平沼騏一郎はさみしいものである。地元の総理大臣でありながら、市民に忘れられてしまっているというよりも、避けられている。市観光パンフ等にも、紹介されていない。「知新館」にいたっては、市のお荷物施設になってしまっている。

歴史の審判は明確である。

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丹後、但馬、因幡(3)

 余部鉄橋 

NHKドラマ「夢千代日記」は、冬の暗い海から吹きつける冷たい風の中、黒い汽車が汽笛を吹かせて、ゴトゴトと、この鉄橋を渡るシーンから始まる。主演の吉永小百合の物悲しい顔が窓に映る。

1981~84の3部作。原作、脚本は早坂暁。冬の日本海のわびしさと切なさをかもしだす象徴として、この鉄橋が演出に使われていた。

三方を山で囲まれた「陸の孤島」に、長さ309m、高さ41mの鉄橋が明治日本の最高の土木技術を結集して建設された。明治42年(1909)着工、45年(1912)完成。冬の時代、幸徳秋水らの大逆事件と重なるころだ。

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以来、日本の鉄道橋のシンボルとなったが、昭和61年(1986)、回送車両が突風を受け転落、6人が死亡した事故は記憶に新しい。

そんなこともあって、鉄橋は、2010年、コンクリート橋に。鉄橋の端の部分は歴史遺産として保存されていた。車の橋ならば、これくらいのコンクリート橋なら、いまではあちこちの高速道路などにできているが、鉄道専用橋ならば、なおめずらしいのではないか。

しかし、あの鉄の橋を見たかった。もう少し早く来ればよかった、と悔やまれる。

橋の真下は、「道の駅あまるべ」。記録資料が展示されていた。

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駐車して、山道から登ってみると、山の上に余部駅があった。ホームから旧橋までは展望デッキ「空の駅」になっており、目の前にどんよりとした日本海が広がっていた。

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駅に登ってくるのも大変だろうが、この駅ができたのは鉄橋完成47年後(昭和34年)。それまでは、橋はできても、地元にご利益はなく、隣駅まで歩かなければならなかったそうだ。

この地は、元は兵庫県香住町、いまはやはり合併で「香美町」となっている。高知県には「香美市」があるが、こちらも合併で生まれた市だ。

香住―余部間は、山陰近畿自動車道(自動車専用)が通っていた。さらに、鳥取方面に進むと、延伸工事があちこちでおこなわれていた。

山側を走るため、海はところどころしか見えない。そのうえ、浜坂温泉あたりで薄暗くなってきた。ここから少し入れば、夢千代の舞台、湯村温泉だが、先を急いだ。

 鳥取県(因幡)に入ると岩美町を過ぎ、鳥取市では砂丘の標識が見えたが、以前来たこともあるのでパスし、鳥取駅近くの鳥取民芸美術館に入った。牛戸焼などの地元陶器を見た。

一息入れてから、岡山県津山をめざした。
中国道につながる、新しくできた鳥取自動車道に乗り、途中の智頭で降り、あとは国道53号。奈義山のふもとを通る。

夜8時前。鳥取から1時間半で、津山に着いた。高速道路ができ、ずいぶんと近くなったものだ。

津山は昔の国でいえば、美作(みまさか)である。以前、転勤で岡山にいたころ、何度も来たところ。

これで、私にとって未踏の地であった、丹後、但馬、因幡(東部)の旅は終わった。
今回は海岸線だけの駆け足だったが、日本海側独特の文化、風土に接することができた。いつか、今回行き逃した、ちょっと奥に入った温泉地めぐりなども、できたらいいなと思う。

(終り)

次回は、津山について書いてみたい。

丹後、但馬、因幡(2)

 但馬の中心地豊岡市は、2005年、周辺5町と合併し膨張していた。

駅近くのホテルを出て、朝一番で出石藩城下町、旧出石町へ向かった。円山川を30分ほど遡る。山の中を予想していたら、川に沿った山裾であった。

出石城下に建つ、明治4年建造の辰鼓楼(時計台)が町のシンボル。こじんまりとした碁盤の目の街並みが、城下町の雰囲気をかもしだしていた。

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出石といえば皿そば。通りは蕎麦屋の看板がずらり並んでいた。そばも食べたいが、私の興味は皿のほう。出石焼といわれる白色磁器の焼き物。窯元4軒をさっと回り、皿とぐい吞みを買った。

そばは5枚の皿にのせて出てきた。薬味を変えて食べるのが通とか。麺は細めで、歯ごたえがいい。11月には、新そばげ出るという。ちょっと早かった。

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最近復元した芝居小屋永楽館にも入った。近く片岡愛之助の公演あるというので、いたるところ幟(のぼり)が立っていた。

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出石は「但馬の小京都」といわれる、知る人ぞ知る名所。なのに、なんで豊岡市と合併して、町としての自立を諦めてしまったのだろう。

窯元4軒にそのことを聞いてみたら、2軒は「合併していいことはなにもなかった」、「成り行きでこうなったのでしょう」と諦めの言葉、あと2軒は、あまり触れられたくないのか、どうでもいいのか、反応があいまいだった。

合併の是非を問う住民投票もなかったという。時流に流されてしまったのだろう。リーダーの責任。中村市もそうだったので、ひとのことは言えない。

地名は文化である。中央集権の圧力によって、伝統文化が次々に消されていくのは耐えられない。

旧役場は豊岡市役所出石庁舎となり、ちらり覗いてみたが、人も少なく閑散としていた。兵どもが夢のあと。

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豊岡中心部に引き返し、コウノトリの郷公園に向かった。

私にとって、豊岡のイメージはコウノトリだ。というのも、四万十川支流中筋川流域でも、豊岡をモデルに、ツルに越冬してもらおうと、「ツルの里づくり」に取り組んでおり、交流があるからだ。

飛び込みだが、高橋副館長にあいさつをさせてもらった。現在、ここには、屋外91羽、飼育95羽、計186羽がいるという。

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屋外の鳥は、日本中、遠くは韓国まで遠征する。先月、その1羽が四万十市にも現れていた。足にはめたリングの色で識別できるという。その情報も掲示されていた。

柵に囲まれた飼育場だけでなく、まわりの田んぼ、さらに空を舞うコウノトリをたくさん見ることができた。

コウノトリを増やすのは、単なる観賞用のためではない。ツルと人間の共生。
コウノトリが生きていけないところでは、人間も生きていけない。コウノトリは、地域を守るシンボルである。

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円山川沿いには、広い水田が広がっている。農薬の使用を抑え、日本伝来の農法でつくるコメは、「コウノトリの郷米」としてブランド米になっている。

志賀直哉の小説で有名な城崎温泉(旧城崎町)にも行きたかった。また、豊岡名産のカバン、バック類も見たかった。

しかし、時間がないのであきらめ、鳥取(因幡)方面へ向かった。

(続く)

丹後、但馬、因幡(1)

大阪での第3回大逆事件サミット(10月22,23日)に参加したあとは、京都、兵庫、鳥取の日本海側を回り岡山へ出て、帰ってきた。

だいぶ前に、大阪から舞鶴へ、岡山から鳥取砂丘まで、は行ったことがあるが、その間の日本海沿線、昔の国でいえば、丹後、但馬と、因幡の半分は、まだ行ったことがない未踏の地だ。一度通ってみたいと思っていた。

福岡にいたころ、博多から唐津にかけの玄界灘に向き合った。太平洋側で生まれた人間にとっては、日本海は不気味である。開けっぴろげで無警戒な太平洋に対し、日本の歴史に深くかかわってきた大陸にもまれた日本海は複雑で重々しく、引き締まっている。そんな緊張感をまた味わいたい。どうせなら秋から冬にかけてと思っていた。

やっと念願かなった。
まず、丹後のシンボル、宮津市の天の橋立へ。

大阪からは全て高速道路でつながっているため、2時間ちょっと。あまりの近さに拍子抜けした。これなら日帰りででも、もっと早く来れたのに。

さっそく「股のぞき」の山へ、リフトで登った。観光名所は期待外れが多いので、それを覚悟していた。ところがびっくり。海と空の真っ青なキャンバスの中に、龍のごとく、くねくねと松原が延びていた。なるほど「飛龍観」。

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みんな股のぞき。やらないほうがおかしいぐらいなので、やってみたが、じっくり見れる分、正視のほうがずっといい。

またとない快晴、秋晴れ。季節や天候が違えば、印象も異なるだろうに。こんな日に当たるとは、運がいい。

松原も少し歩いてみた。全長3.6キロ、全部歩くと小一時間かかるというので、15分ほど、神社のところで引き返した。

「木を見て森を見ず」というが、森は素晴らしいが、木はそうめずらしいものではなかった。ただ、意外に砂浜は広く、白かった。

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ここから丹後半島を一周。
海に沿って30分ほどで伊根に着いた。伊根といえば舟屋。小さな湾にびっしり集中していた。舟屋は舟の格納庫付き家。寅さん映画(マドンナいしだあゆみ)で見て以来、興味をもっていた。

湾内一周の定期観光船は、団体客でいっぱい。カモメの群れがついてくる。エビセンをねだる。つまんで手を上げると、ヒューンとさらっていく。北海道知床半島でも体験した光景だ。

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湾に沿った家並(230戸)は、漁村初の需要伝統的建造物群保存地区に指定された。地域の伝統文化を大切にするまちづくり。

平成の大合併によって、2004年、周辺の町村はこぞって合併し、京丹後市となったが、人口2000人の伊根町だけは誇りある自立を選んだ。その勇気は、全国に知られている。

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伊根から先は山道に入り、海は一時消えた。しばらく起伏を繰り返したあと、再び海が現れた。ここから京丹後市(旧丹後町)。今度は絶壁。半島の突端、経ヶ岬であった。

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夕日が段々と落ちてくる。海は鈍い柿色に。太平洋では見られない色。少し歩くと灯台があるというが、時間がないのでパスをした。いま思えば悔やまれる。

 秋の日はつるべ落とし。暗く染まる夕日に追っかけられるように車を走らせる。旧網野町で夕日は不気味な海に沈んでしまった。まだ6時台なのに、旧久美浜町は闇の中。

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県境を越え兵庫県に入ると豊岡市。
ここで宿を探した。

(続く)

大逆事件サミットin大阪

 10月22日、大逆事件サミットが大阪で開かれ、参加した。

同サミットは、大逆事件犠牲者たちの名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる全国の団体・個人が一堂に会し、それぞれの活動報告と経験交流、今後の取り組みを議論する場であり、第1回は、2011年、幸徳秋水刑死百周年記念事業の一環として、中村で開いた。

第2回は、2014年、秋水の盟友堺利彦の生誕地福岡県豊津(みやこ町)で。

第3回の今回は、管野須賀子がキリスト教洗礼を受けた大阪の天満教会で開いた。準備は、大阪の「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」がおこなってくれた。(同会の主要メンバー13人は、今年1月24日の秋水墓前祭に来てくれている。)

全国から16団体、140人。これまでで最も多く、なじみの顔ぶれも多い。幸徳秋水を顕彰する会からは6人参加。

メイン企画のシンポジウム「管野須賀子と大逆事件」は、コーディネーター山泉進明治大学教授のもと、3人からの報告、荒木伝(社会運動研究家)「明治期大阪の社会運動と管野須賀子」、井口智子(松原教会牧師)「クリスチャンとしての管野須賀子」、田中伸尚(ルポライター、元朝日記者)「飾らず、偽らず、欺かず」にもとづいておこなわれた。(田中氏のタイトルは近著「管野須賀子と伊藤野枝」からとったもの)

続いて、参加各団体から活動報告が行われた。

秋水顕彰会からは、今年5月、秋水最初の妻との間に生まれた「秋水の孫」2人が秋水刑死105年目にしてはじめて、肉親として秋水墓参に来てくれたことなどを報告、さらにそうした縁により、このサミットに「秋水のひ孫」の小谷美紀さんが埼玉県から参加していることを紹介させてもらった。

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夜は近くの大阪リバーサイドホテルに会場を移し、交流会(懇親会)をおこなった。秋水らを弁護した弁護士平出修の孫にあたる平出洸氏(平出修研究会)が管野須賀子から平出修にあてた手紙の原本をもって来られたので、みんな競ってカメラに収めていた。

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翌23日は、オプションのフィールドワークがあり、約半数が参加した。

最初に、三浦安太郎墓へ。大逆事件に連座させられた「大阪組」3人(無期懲役)の1人。広大な阿倍野霊園の一角に三浦家墓があった。みんなで手を会わせた。現在の墓守は不明という。すぐ近くに五代友厚の大きな墓があった。

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次に、管野須賀子が作家宇田川文海の弟子だったころの住居跡へ。住吉大社のすぐ隣。いまは違う建物が建っている。

せっかくだからということで、地域のボランテアガイドが、住吉大社界隈を案内してくれた。歴史探訪。

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ここで全体は解散となったが、和歌山県新宮市「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」の一行バスが帰途に、寝屋川霊園(寝屋川市)にある武田九平墓に立ち寄るというので、私も飛び入りで同乗させてもらった。九平は妹の嫁ぎ先津田家墓に一緒に葬られていた。

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ちなみに、「大阪組」の残る1人岡本頴一郎(山口県出身)の墓はいまもわかっていない。

今回、「大逆事件サミット大阪宣言」で、それぞれの団体が連携して、さらに運動の輪を広げていくことを誓いあった。

次回、第4回サミットは、2年後、新宮市で開かれる。


プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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