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愛敬稲荷神社物語

井上ひさし「闇に咲く花 愛敬稲荷神社物語」(1987年、講談社)を読んだ。

この本は、2月11日、建国記念の日に反対する高知県集会で講師に迎えた山崎雅弘氏(歴史研究者)の講演「息を吹き返す大日本帝国の精神」の中で紹介してくれた。

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山崎氏は戦前の日本の天皇中心の国家体制の精神的主柱になった国家神道についての話の中でこの本を紹介した。即ち、日本古来からの神道(神社)と、明治以降の国家神道は違う。

国家神道は天皇が神としてつくりあげられたもので、国民の精神、心を縛り上げる道具、システムとされた。靖国神社は明治になってから国によって作られた。

日本の文学者たちは、戦中はこれに反対の声をあげず、戦後もその反省を書くことはなかったが、唯一この本だけが書いているという。

この本は戯曲であり、いまもいろんな劇団で演じられている。敗戦直後の焼け跡の東京神田、愛敬稲荷神社の境内で繰り広げられる庶民の物語。井上ひさし特有の笑いとユーモアを交えているが、テーマは深刻である。

主人公の神官は、戦中、戦争に行く若者たちに「骨は国が拾ってやる、安心して征きなさい」「神となっておかえりください」と言って送り出した。このことを戦争未亡人から指摘されると、あなたたちも大日本婦人会のタスキをかけて、日の丸の小旗を振りながら、「兵隊さんは命がけ、私達はタスキがけ」と声をはりあげていたではないか、と反論する。

そこに戦死したはずの息子が帰ってくる。しかし、喜びもつかの間、グアム島で現地人を虐待したという罪に問われ、GHQに拘束され、裁判にかけられるため送還される。

息子は野球選手のピッチチャーだったため、現地人と野球をしたさい、コントロールを誤り、顔にぶつけたことがあった。日本軍の残虐をPRしたい米軍によってそのことが虐待とされてしまった。

息子は送還されるさい、父に言う。

「 お父さん、あの頃のことを思い出してください。ご近所の人たちや通りすがりの人たちの持ち寄ったささやかな願いごとや、つつましい決意や、ほほえましい愚痴や、小さな感謝の念で、この愛敬さんの境内が充たされていたころのことをお思い出してください。」

「その頃の境内は、普通の人たちが心の垢を捨てに来て、さっぱりとした心になって帰る、そういうところだった。でも、いつの頃からか神社は死の世界への入り口になってしまった。父さん、出征兵士がいったい何人ここから旅立って行ったんですか? 」 

「 父さん、ついこのあいだおこったことを忘れちゃだめだ、忘れたふりをしちゃいけない。過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗いよ。なぜって、同じ失敗をまた繰り返すに決まっているからね。神社は花だ。道ばたの名もない小さな花。 」

神社は「闇に咲く花」。


・・・息子はグアムで処刑された。

戦争では結局、庶民がだまされ、犠牲にされる。

庶民をだましたシンボルが伊勢神宮を本山とした国家神道だった。

安倍首相は、毎年最初の記者会見は伊勢神宮で行っている。
2016年、サミットは伊勢志摩で開かれ、各国首脳が伊勢神宮を「訪問」した。

大日本帝国の精神が息を吹き返している。
同じ過ちが繰り返されそうとしている。

井上ひさしの警告。

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堺利彦、大杉栄ら寄せ書き

先月1月24日、幸徳秋水墓前祭の日(処刑日)、高知新聞に「大杉栄ら15人分寄せ書き きょう秋水ら刑死109年」の記事が載った。

内容は、秋水ら刑死(明治44年)から約2年半後(大正2年10月11日)、同志であった堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、片山潜ら15人が、東京の料亭、鶏料理の「富嘉川」に集まったさい書いた寄せ書きが見つかったというもの。

高知市一宮中町、歯科医で歴史資料収集家の島崎誠さん(68歳)が2年前に入手したものを紹介したのだ。

高知新聞は第1面の見出し記事に加え、第9面すべてを使って15人全員の寄せ書きを写真入りで「圧政下 闘いの火絶やさず」と、詳しく紹介。

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高知新聞は秋水の地元だということもあるのだろう、これまでも秋水や大逆事件関連の記事を多く書いてくれている。今回の記事も、秋水刑死日に合わせたもので、ありがたいと思った。

記事の翌日、私は東京・正春寺での大逆事件犠牲者追悼集会に参加したので、この記事のことをみなさんに紹介。大杉栄の甥の大杉豊さんも見えており、新聞コピーを配り、貴重な資料、記録であると、詳しく説明をされた。

寄せ書きをした日の前日、大正2年10月10日は、秋水らを逮捕、処刑した時の総理大臣であった桂太郎が没した日であった。そのことが寄せ書きに反映している。

桂太郎は、昨年11月、いまの安倍首相に抜かれるまで、通算首相在任期間が最長だった。同じ長州出身の元老山縣有朋の意を受けて、秋水らへの弾圧を強めたことで知られている。(安倍首相も山口=長州出身)

寄せ書きの内容はすべて新聞でわかるが、私はぜひ本物を見たいと思った。この記事を書いた天野弘幹記者はよく知っているので、天野さんを通して、寄せ書き所有者の島崎さんに、そのお願いをしてもらったところ、承諾をもらえた。

そこで、2月20日、天野さんと一緒に島崎歯科医院に伺った。島崎さんは、待合室にたくさんの資料を並べ、その中から寄せ書き帳を見せてくれた。

寄せ書き帳は思ったより小さく、写真アルバムのような感じ。高知新聞に紹介されているように、絹布装丁、横開き、横24.5センチ、縦18センチ、厚さ3センチ。

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当時の料亭では、お客から色紙にサインをしてもらうという感じで、このような寄せ書き帳を置いていたのであろう。全200ページのうち、最初のほうの12ページに15人が書いている。

寄せ書きを書いたのは15人と言っても、私が知っていた名前は秋水の同志といえる上記4人だけ。料亭に集まったのは、大正元年、大杉、荒畑が創刊した月刊誌「近代思想」の執筆者たちなので、文学者など幅が広い。

その中で、最初の2ページがこれである。

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左 堺利彦「富嘉川開業の広告文を作るの光栄を有したる賣文社の主人」
右 安成貞雄(二郎の兄)「桂の野郎を畳の上で殺したことを惜しむ」

続いて

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左の左 荒畑寒村「桂太郎を閻魔の廰に送り届く」
左の右 佐藤緑葉
右    柴田勝衛

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左 大杉栄「VIVE! KATSURA E.Osugi」
   VIVE=万歳  E=えい=栄
右 小原慎三

堺は抑えた書き方だが、あとの3人は桂太郎への怨念である。新聞で見るのとは違い、本物には迫力があり、熱が伝わってくる。

島崎さんは、ほかにも高知の人物、歴史にかかる幅広い分野の資料をもっておられ、いくつかを見せてもらった。これら以外にもたくさんあるという。

中江兆民の書や書簡、原稿、北門新聞(小樽)
秋水著「麺麭の略取」初版本など書籍、大逆事件当時の時事新報(新聞)
広井勇関連、旧春野町農民運動関連・・・

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島崎さんはこれらの資料に一つ一つ目を通し、きちんと整理されている。島崎さんのような個人収集家によって、公的資料館、博物館等では、カバーできない郷土史の詳細部分が埋められている。貴重な役割である。

垂涎の資料ばかりであり、改めてじっくり見せてもらいたいと思った。

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   島崎誠さん




歴史戦

2月11日、建国記念の日に反対する集会が高知県人権啓発センターであり、山崎雅弘氏の講演「息を吹き返す大日本帝国の精神―歴史問題の読み解き方―」を聞いた。

山崎雅弘氏は初めて聞く名前であった。事前にネットで調べると、在野の歴史研究、文筆家であり、結構本も出しているし、ツイッターなどでいまの安倍政権の歴史観、歴史認識を鋭く批判をしていることがわかった。講演の内容もいまの情勢に合った内容のように思えたので、一日をかけて参加した。会場は200人満席であった。

私は少し早く会場に着いたので、販売中の山崎氏の本3冊全部をすぐに買った。「歴史戦と思想戦―歴史問題の読み解き方―」(集英社新書)、「日本会議―戦前回帰への情念―」(同)、「戦前回帰―大日本病の再発」(朝日文庫)。

3冊の、はしがき、あとがき、をさっと読み、論点を事前に頭に入れてからきいたせいもあるが、大変わかりやすく、最近聞いた講演の中では一番よかったと思う。

話の中身そのものは、これまでいろんなところで聞いたり、読んだりしていることであったが、いまの安倍政権の諸政策、諸行動の根源にある理念・思想を理解しやすいよう、また他の人に説明・説得しやすいよう論理立てて、話してくれた。頭の中にストンと落ちた。

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最初に、「あいちトリエンナーレ事件」から始めた。去年のこの騒動は歴史に残る「事件」になるであろう、それだけ重大な「事件」だった、と言われた。

河村たかし名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」「天皇の権威を傷つける」と激怒したことが大きく報道されたが、なぜ、そんなに怒るのか、一般国民には理解できなかっただろう。(私も理解できなかった)

河村市長のような感覚は「大日本帝国の精神」を大事にする人たちに共通している。少女像を戦時慰安婦の象徴と見る者にとっては、日本軍は彼女らを強制的に性の奴隷にした事実はないと言いたいのだ。

安倍政権も同じであり、慰安婦像に異常な反応を見せる。先の戦争は侵略戦争ではなかった、日本は防衛上、やむをえず戦争をおこした、という考えに立てば、慰安婦像=日本侵略が許せないのだ。河村市長の父は軍人だったそうだ。

「日本」とは何か。日本国憲法の「日本国」と、大日本帝国憲法の「大日本帝国」は異なる。安倍首相は「日本=大日本帝国」と考えるグループであり、その集団の代表が「日本(にっぽん)会議」である。いまの自民党国会議員の8割がこの会(同議員連盟)に属している。

こうしたグループは、ありもしない慰安婦問題を取り上げるのは、韓国、中国が日本に「歴史戦」を仕掛けているのだとみる。「歴史戦」とはサンケイ新聞が最初に使った言葉だそうで、先の戦時下、大日本帝国が使った「思想戦」と同じような使われ方だ。

戦後、日本国憲法の三大柱は、国民主権、平和主義、基本的人権である。「大日本帝国」では、主権は天皇にあって、臣民(臣下)である国民には基本的人権は認められなかった。「特攻」にみられるように、人間の命は軽んじられていた。

天皇中心の国家体制・理念の柱になるのが「国家神道」であり、その行動規範を示したのが「教育勅語」である。天皇は神とされる。

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こんなこと、いまさら古臭いことをと思うかもしれないが、安倍政権のもと、着々とこの「戦前回帰」が進んでいる。教育基本法の改変、教育勅語の復活(憲法や教育基本法等に反しない形であれば教材として使用することは否定されない、という閣議決定)など。

国家神道の総本山は伊勢神宮である。毎年、安倍首相は最初の記者会見を伊勢神宮の建物内でおこなっている。(一宗教団体の施設内で行うのは、そもそも政教分離に反する憲法違反)

2016年サミットで伊勢志摩が選ばれたのはなぜか。各国要人を伊勢神宮に案内し、内外にアピールし、権威付けしたかったから。すぐに、近鉄の観光ポスターに採用された。

大日本帝国では、日本人を世界にまれな優れた民族とみる。自らを優れているとみることは、まわりの国は劣った民族とみることと同じである。中国、韓国への差別、ヘイト攻撃が最近とみに高まっている。

「あいちトリエンナーレ」で、いったん交付を決めていた国の補助金を撤回したのは、このようなヘイト攻撃を国が認めたということであり、国家ぐるみでヘイトをしていることになる。

安倍政権の最終的な目標は憲法改正である。中でも9条。いつでも戦争ができる国の形を復活させたいのだ。

私が今回知ったのは「歴史戦」という言葉があること。その背景には、戦前の日本の歴史を肯定し、日本がおこした戦争を「間違っていなかった」とみる歴史認識がある。

中国、韓国をことさらに反日と描くのは、それらへの反撃という大義名分があるという形で「歴史戦」を展開することにより、実は一方的に差別、攻撃するためである。すでに戦争状態であるということにしたいのである。

安倍政権は、ここまで来ている。戦前回帰を「まさか」そこまではと、決して軽くみてはならない。彼らは本気である。憲法を守るたたかいは、こちらも総力戦でかからなければ、やられてしまう。

そんな危機感を覚えた講演会であった。

山崎雅弘氏の3冊の本はぜひ読んでほしい。絶対おすすめです。

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山崎雅弘レジメ   山崎雅弘集会アピール
 講演レジメ       集会アピール





渡川は生きている

待望のNHK「ブラタモリ」が四万十川にやってきた。河口から源流まで2回に分けてブラブラ。ナビゲーターの解説も的確でわかりやすくよかった。

ただ一つ、時間の制約があったのだろう。冒頭の川の名前は以前は渡川であったが1994年、四万十川に変えられたというくだり。タモリさんは「渡川は消されちゃったんだ、かわいそう」と言っていたのに、詳しい説明は省略された。

人の名前が戸籍で決められるように、川の正式名称は河川法で定められている。それまで俗称とされてきた四万十川のほうが「最後の清流」として有名になったので変えられたのは間違いないが、その川とはあくまで本流だけのこと。

中筋川、後川、梼原川など全部で支流を319もつ川全体の総称=水系の名前は渡川のままである。つまり、いまの四万十川の河川法上の正式名称は「渡川水系四万十川」なのだ。

私もそうだが、下流に住む年配者は渡川のほうがなじみ深いはず。渡川1~3丁目、渡川大橋、渡川病院もあるし、地元高校生たちの活動を描いた映画「渡り川」もつくられた。

地域に根差した名前、言葉は消えることはない。四万十市になっても中村はそのままであるように、四万十川になっても渡川は生き続けている。


高知新聞 「声ひろば」投稿  2020.2.15

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秋水と小澤征爾ファミリー(3)

私は1月25日、東京都渋谷区正春寺(管野須賀子墓がある)で毎年開かれている大逆事件犠牲者追悼集会に今年も出かけた。翌日、山梨に向かった。甲府駅で降り、タクシーですぐ近くの光澤寺にある宮下太吉(大逆事件死刑)の墓を弔った。

そのあと、またタクシーに乗り、旧高田村がある西八代郡市川三郷町に向かった。笛吹川の土手沿いの道を西へ進み、約40分、JR身延線市川大門駅と鰍沢駅(かじかざわ)の間、笛吹川と釜無川が合流するあたりの平野の中に高田はあった。

最初に事前に電話をしておいた小澤家の菩提寺、日蓮宗高田山長生寺を訪ねた。住職さんに本堂の中を案内してもらい、小澤征爾の父開作が昭和13年寄贈したことが刻まれている、大きな「おりん」を見せてもらった。当時、開作は満州で歯科医をしていた。

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  高田山長生寺     「おりん」の土台

小澤家の先祖墓は少し離れた共同墓地にあるという。住職のお母様とお嫁さん?が車で案内をしてくれた。

ファミリーヒストリーにも登場した2基の墓はごく普通の墓で、征爾の祖父新作、父開作らが入っているという(開作は分骨)。花を手向け、線香を焚き、手を合わせた。

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次に、新作、開作時代の小澤家があったという旧道沿いの場所に案内してもらった。そこはいまは他の人の所有に移っており、空き地で駐車場に使われていた。

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私は、明治の高田村時代の歴史に詳しい郷土史家のような方はおられないか聞いた。何年か前まではおられたが、その方は亡くなった、しかし、息子さんがいるので、もしかして何か資料をもっているかもしれないということで、そこも案内してくれた。

息子さんは詳しいことは何もわからないという。高田村史のようなものはないかと聞くと、1冊だけあるということで、「市川大門町史稿本・高田村誌」(1997年、市川大門町教育委員会)を出してきてくれた。幸徳秋水、秩父事件の話を聞いたが、まったくわからないという。

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小澤家の直系の人たちは、みな東京方面に出ている。遠い親戚筋の家は何軒かあるが、古老はみな最近亡くなったので、行ってもたぶん何もわからないだろう。「村誌」なら同じものが図書館にもあるというので、前の日新築移転したばかりの町立図書館に案内してもらった。親切にしていただいた車のお二人とは、ここでお別れした。

図書館玄関には役場の方がいた。訪ねた目的を話すと、小澤家に詳しい方がお一人おられるというので、連絡をとってくれた。

その方は、「小澤開作顕彰会」の事務局長を最近までされていたという伊藤進さんで、すぐに図書館においでくださった。郷土史コーナーでお話をお聞きした。

同じ地元出身でも、小澤征爾は有名だが、ファミリーヒストリーではメインで紹介された父の開作については、ほとんど知られていないということで、もっと開作のことも知ってもらいたいと、2年前に顕彰会をつくったのだそうだ。

伊藤さんは、今回のファミリーヒストリーの制作において、NHKに多大な協力をされた。番組最後に流れる字幕にも、お名前が出ていた。

小澤開作に関連する資料、記録を提供し、縁者も紹介。番組制作はNHKといっても、実際は椿プロダクションが下請けで制作したものであることを、教えてくれた。

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 伊藤進さん

伊藤さんは開作についてのたくさんの資料を持ってきてくださった。しかし、新作については、いまでいえば土方の棟梁のような人物で、消防組頭もやっていた、ずっと地元にいた(東京には出たことがない)、ということぐらいしかわからないと言われた。幸徳秋水、秩父事件についてはわからない、きいたことがないという。

また、「高田村誌」といっても大雑把な記述しかなく、秩父事件の落合寅市の逃亡を思わせるような記録はみたことがない。しかし、寅市本人が書いているという、甲府から鰍沢を通って身延、興津(静岡県清水)へ逃げたというのなら、通る道はここの旧道(中宿通り)しかない。小澤家は旧道沿いにあった、と言われた。

私はNHKで証言をされた小澤清さんの連絡先をご存じないか聞くと、家に帰ればわかるというので、あとで携帯で教えてもらうことをお願いした。

図書館には小澤征爾の兄の小澤俊夫さん(作曲家オザケンの父)のコーナーもあり、たくさんの本が置かれていた。俊夫さんは、NHKでも紹介されたように、ドイツ文学が専門の筑波大学名誉教授で、89歳のいまもお元気で世界の昔話の普及に力を注いでおられる。神奈川県川崎市に小澤昔ばなし研究所を開き、昔話の出版はもっぱらこちらでされており、本には連絡先が書かれていたので、メモをして図書館を辞した。

伊藤さんは開作にかかるたくさんの資料をくださったうえに、市川大門駅まで送ってくれた。山梨の方はみなさん親切だ。いいところに来させてもらったと、こちらの気持ちもあたたかくなった。

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  市川大門駅

身延線で甲府まで戻り、中央線に乗り替えた。途中塩山駅で降り、金子文子生家跡と歌碑を見てから、新宿のホテルに帰ると夜8時を過ぎていた。

翌日27日は夕方の飛行機で帰ることになっていた。伊藤さんから携帯で教えてもらった小澤清さんの住所は都内であった。もしかしてご自宅に伺わせてもらえるかもと思い電話をした。しかし、通じなかった。

小澤昔ばなし研究所には電話が通じた。係りの方が、用件をメールしてくれれば、俊夫さんにつないでくれるという。

28日、家に戻ってからも何度も清さんに電話をしたが、通じない。俊夫さんには、メールを打った。内容は「幸徳秋水の話を聞かれたことがありますか」ということ。

29日、俊夫さんから返事のメールが届いた。「自分もテレビであの場面を見ましたが、幸徳秋水の話はまったくきいたことがありません。従兄弟の思い違いだと思います。」ということだった。

清さんには電話が通じないので、手紙を書いた。秋水の資料などを添えて。

すると、2月3日、清さんから電話がかかってきた。いまは埼玉県の娘さんの家におられるという。そこに私の手紙が回されたという。清さんは、私の質問になんでも話してくれた。以下のとおり。

自分は昭和6年生まれ、祖父の新作は昭和10年没。幸徳秋水の話は自分が小学生高学年のころ母から聞いた。新作の長男開作は家を出たので、次男の父清作が家を継いだ。新作の面倒をみたのは、自分の母よう、であった。新作は晩年、母にこの話をしたという。

祖父は、土方の棟梁だった。ずっと地元にいて、東京に出たことはない。義侠心に厚く、困った人が助けを求めてきたら、理由を問わずに助けた。しかし、ただそれだけで、思想面で秋水に共鳴していたとか、何か社会運動をしていたということではない。祖父は秋水の話は母にしかしなかったと思う。ペラペラ話すような内容ではないので。父からは聞いたことがない。

秋水の話は、いつ、どこで、どうやってかくまったのかという具体的なことは聞いていない。ただ、自分の頭にはずっと残っていた。母は平成4年に亡くなった。もっと詳しくきいておけばよかったと思う。

NHK(椿プロダクション)には、2時間くらいいろんな話をしたのに、テレビで流れたのは秋水の部分だけだった。あやふやな話を公にしたのはまずかったのかもしれない。NHKからは放送後、再度秋水の件で問い合わせがあった(私の抗議に対してだと思われる)。

秩父事件、落合寅市については、何も知らない。秋水に取り違えられたのではないかと言われても、わからない。


清さんは、ほかにもいろいろ話してくださったが(開作は頭がよかったと聞いているなど)、秋水に関する部分は以上である。清さんは、丁寧に、淡々と話をしてくれた。

秋水は山梨県に行ったことがないし、「かくまわれる」ように逃げることはなかったので(逃げる必要もなかった)、この話は間違いであることは確かである。

その中で、今回わかったのは、新作は東京には出たことがなかったということである。つまり、秋水との接触はありえないということがはっきりした。

しかし、清さんの話ぶりからすると、まったくの作り話とも思えない。となれば、晩年の新作の記憶違いか、母の聞き違いか、母の言い伝え間違いかということであろう。(もしかして清さんの聞き違いかも)

新作の晩年というと、大正~昭和10年である。秋水が処刑されたのは明治44年(明治は45年まで)であるから、その当時、秋水の名前は天皇暗殺計画の極悪人として有名になっていたであろう。秩父困民党の幹部で当時生き残りであった落合寅市(昭和11年没)が秋水と間違って伝えられた可能性はあると思う。

今回の山梨訪問では、NHKへの不信をさらに強くした。

NHKがおもしろい話に飛びついて、時代考証や専門家に裏付けをとることもせず、そのまま流してしまったことの問題の重大さは強調しておきたいのだが、そのことを指摘した私に対して、ウソの言い訳をしていたことがわかったからだ。

ここまでくれば、名前を書くが、私の問合せ、抗議に対して、昨年10月、電話で回答をくれたのは番組の小山好晴プロデューサーであった。

小山プロデューサーは、最終的には、事実確認をしないまま放送してしまったことを詫びたのだが、その話の過程において、清さんに再度聞いた話として、

1. 新作は地元だけでなく全国あちこちに出かけていた。どこかで秋水を助けたという話もでた。

2. 新作は身内のほかの者や近所の人たちにも自慢話としてよく話していた。

と言ったのだ。私は、この言葉を信じ、このブログの1回目に書いた。

しかし、これは今回書いたように、清さんや、伊藤進さんの話とは違う。新作は、ずっと地元にいた人だった。また、この話は清さんのお母さんにしかしていない(しかも、ヒソヒソと話した感じ)。現に、小澤俊夫さんは知らないという。

清さんから話を聞いたのは椿プロダクションであろうが、番組制作の最終責任はNHKにある。

初回に書いたように、私はNHKファミリーヒストリーには興味をもって結構見てきた。しかし、こんなにずさんで、視聴者にも不誠実な形で番組がつくられていることを知り、もう二度と見たくなくなった。歴史とは興味本位のエンターテイメントではない。

今回なぜ間違ったのか、真実はわからない。秋水でないことははっきりしているが、落合寅市だというのも「状況証拠」だけで確実な裏付けはいまのところない。

私は引き続き調査を続けていくつもりである。歴史の真実を明らかにするために。
(当面終り。新しい発見あればまた書きます。)

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長生寺から富士川堤防、西山を望む。

秋水と小澤征爾ファミリー(2)

昨年8月12日放送のNHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、征爾の祖父新作が「幸徳秋水をかくまった」と間違って紹介され、NHKも間違いを認めたことは、昨年10月22日付けこのブログで書いた。

この問題について、その後、新たな展開があったので、以下、報告したい。

ひとつは、ルポライター鎌田慧さんが、昨年12月24日付東京新聞「本音のコラム」でこの問題を取り上げてくれたこと。

鎌田さんは、幸徳秋水を顕彰する会会員。私は今回の顛末を幸徳秋水を顕彰する会の機関誌「秋水通信」27号(顕彰会ホームページにリンク)に書いたので、鎌田さんはこれを読んでくれたのだ。「NH  Kも軽くなった」と評していた。

鎌田慧 コラム 東京新聞2019.12.24

もうひとつは、私のこのブログに、「秩父困民党の人をかくまったのが、秋水に入れ替わったではないか」という旨の書き込みをもらった。(府中の府中着者さん、コメント欄で見られます)

私はなるほどと思った。明治17年11月の秩父事件では、幹部の何人かが全国に逃亡している。山梨県と秩父は山を隔てつながっている。それはありうることだ。

私は秩父事件の幹部で山梨県方面に逃げた者の記録が残っていないか調べた。ネットで埼玉県に秩父事件研究顕彰協議会があることを知り、問い合わせたところ、事件の幹部の一人であった落合寅市が山梨県を通って静岡県方面に逃げたという記録が残っており、そのルート上に高田村があることを教えてくれた。

落合寅市
落合寅市
後掲 中澤市朗『歴史紀行 秩父事件』より

秩父郡下吉田村生まれの落合寅市は秩父事件で蜂起した農民の一人。事件を描いた映画「草の乱」にも登場する。その記録とは、寅市が後年書き残した「綸旨大赦義挙寅市経歴」(『秩父事件史料』第二巻所収、埼玉新聞社発行、1972年)である。

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私はこの記録をネット古書で購入して読んだ。これによれば、寅市は最初東京に逃れ、それから八王子→甲府→鰍沢(かじかざわ)→身延→興津(静岡県清水)へと走っている。地図を見ると、確かに高田村は甲府→鰍沢の途中にある。

嘉永三年生まれの寅市は当時34歳。文久二年生まれの小澤新作は22歳。「人並外れた義侠心のあった」新作が寅市に宿を提供したことは考えられる。

秩父事件は、蜂起した農民たちにとってまさに「義挙」であった。秩父は貧しい山村。幕府倒壊、御一新によって生活が楽になると思っていたのに、地租改正、徴兵による負担増に加え、松方デフレ政策により、主産業の養蚕価格が大暴落、農民は高利貸しの餌食に。高利貸しは官と癒着していた。

秩父(武州)は山の中であるが、峠を越えれば、上州、信州、甲州だ。幕末慶応期には武州世直し一揆もあった。

こうした地に、明治十年代になると自由民権運動の波が寄せてくる。大井憲太郎らがオルグに入り、秩父自由党が結成され、秩父困民党へと発展していく。

秩父事件で立ち上がった農民たちは長い間、百姓一揆さながらの「暴徒、暴民」とされ、その子孫たちは日陰者扱いされてきた。

しかし、事実は、自分たちの生活困窮の原因は藩閥政府の悪政にあることを見抜いていた。「自由自治元年」の旗を掲げ、「恐れ多くも天長様に敵対するから加勢しろ」と檄を飛ばし、下吉田村の椋神社に馳せ参じた農民は約三千人。体制変革を展望した革命的行動であった。

驚愕した政府は山縣有朋の命令でただちに軍隊を派遣。近代装備の軍隊の前に、竹槍、火縄銃の農民軍は総崩れとなる。困民党総理田代栄助、参謀長菊池貫平、大隊長新井周三郎らは捕らえられ死刑に。会計長井上伝蔵は北海道に逃亡。西に逃れた落合寅市は副大隊長であった。

高田村の小澤新作は、同じ農民として寅市たちがとった行動に共感、同情したのかもしれない。

幸徳秋水は大逆事件で「逆徒」「極悪人」とされ、処刑された。罠を仕組んだのは同じ山縣有朋であった。

自由平等、貧しい人たちの解放をめざした秋水の社会主義、無政府主義は秩父困民党に通ずるものがある。新作の代には落合寅市だったものが、子孫に口伝えされる中でいつしか幸徳秋水に変わったのかもしれない。
 
落合寅市の話は、まだ続く。

寅市は静岡から奈良、大阪へと走る。さらに四国多度津に渡る。琴平、今治から土佐へ。立川、森村を通り高知、唐人町に入り、板垣退助を訪ねた。

板垣は一部始終を聞き、寅市をかくまってやることを約し、土佐山村の自由党員高橋簡吉を紹介した。寅市は簡吉について高知城下から小坂峠を越え、西川部落に身を隠した。

土佐山村では立志社創設の影響を受け夜学会が開かれていた。夜学会は民権結社山獄社につながり、のちに簡吉は初代土佐山村長になる。

寅市は秩父のことが気になっていた。土佐山に8か月潜伏した後、浦戸から神戸へ。同じコースを東に戻る。山梨県も同じ鰍沢→甲府を通ったので、あるいはこの時、小澤新作の世話になったのかもしれない。甲府からは東京に回らず、雁坂峠を越え秩父に戻った。

しかし、秩父では官憲の捜査が厳しく、またすぐに東京へ出た。旧知の大井憲太郎に会ったことで大阪事件に巻き込まれる。最後は九州門司で拘束された。

明治二十二年、憲法発布の大赦で出獄。その後は秩父に帰り、事件犠牲者の顕彰活動に身を捧げた。昭和十一年没。生涯自らを誇り高く「立憲志士」と呼んだ。

小澤征爾の祖父新作が「かくまった」人物が幸徳秋水でないことははっきりしている。落合寅市が高知へ逃げ、板垣退助にかくまってもらったのは事実である。秋水も高知のわが中村出身だ。同じ高知ということで、落合寅市が秋水と混同されて伝承された可能性は現実味をおびる。

しかし、これには「状況証拠」だけで、確実な裏付けはない。ここまで来たら真実を知りたい。私は山梨県旧高田村に出向くことにした。

なお、落合寅市の逃亡については、中澤市朗『歴史紀行 秩父事件』(新日本出版社、1991年)にも書かれている。(続く)











渡川 わたり川

2月1日、NHKブラタモリが四万十川にやってきた。来週と合わせて2回放送される予定だ。

番組は四万十川河口からスタート。四万十市役所生涯学習課(公民館)の川村慎也係長がナビゲーターになり、川の特徴や歴史について説明していた。

四万十川はこれまでも、またいまでも何度もテレビの旅番組で紹介されている。タレントも数知れず来ている。

ブラタモリのいいところは、こうした普通の旅番組と違い、科学的、実証的というか、学問的視点から、その地域の特徴を解説するところにある。だから、大変勉強になる。

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私はそんなところからこの番組が好きであり、以前からほとんど見ている。四万十川にも来てくれないかなと、ずっと思っていたところであった。

1回目の放送、川村さんの説明はなかなかよかった。この川について、知ってほしい、理解してほしい真実の姿をわかりやすく説明していた。

その中で、一つだけ、冒頭に時間的制約もあったのだろうが、詳しい説明を省略したところがあった。それは四万十川という川の名前についてである。

四万十川は1994年(平成6年)までは渡川(わたり川)と呼ばれていたと、古い地図を示して説明。タモリさんは「渡川は消されちゃったんだ」「かわいそうな気がするな」と言い、そのまま番組は進んだ。

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しかし、これは正確ではない。「渡川」という名前は、いまも残っているからだ。

こういうこと、である。

この川は、江戸時代のころの文献では、渡川とも四万十川とも書かれ、両方の呼び名があった。四万十川と書いて「わたりがわ」と読ませていた記録もある。二つが混在していた。

そうした中、明治になり、河川法がつくられたさい「渡川」のほうが採用されたのだ。

川の正式な名前はどうやって決まるのか。人の名前でもあだ名やニックネームがあっても、正式の名前は戸籍に登録された名前であるように、川の名前も河川法で登録された名前が正式である。

以来、法律で定める正式名称は渡川、俗称が四万十川ということになったのだ。

私の場合は、こどものころは渡川のほうがなじみがあった。赤鉄橋は四万十川橋であるが、バイパスにかかるっている橋は渡川大橋である。具同側の堤防沿いには渡川1~3丁目という地名もある。渡川病院もある。

しかし、1983年、NHKが「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」を放送したことをきっかけに「最後の清流」ブームがおき、またたくまに、四万十川の名前がメジャーになったのだ。

こうしたことから、普段は頭の固いお役所(建設省)にしては異例のことであったが、法律を改正し、四万十川のほうを正式名称に変更したのだ。

だから、いまは四万十川のほうが正しい名前であるということでは、ブラタモリの説明は正しい。

しかし、詳しく言えば、この場合の四万十川というのは、川の本流をさしての名前である。

この川にはたくさんの319の支流があり、そのことが四万十という名前の由来になっているのだが(他説もあるが、番組ではこの説を採用)、支流にもそれぞれの名前があるのは当然のことである。

中でも、下流の中村で合流する中筋川と後川は単独の川としても大きな川である。四万十川は国管理の一級河川に指定されているのだが、中筋川、後川も同じように一級河川に指定をされている。海に注ぎ込む河口を同じくする川で、一級河川を三つももつ川は四万十川だけである。

このような場合、河川法では、単独の川のことを「川」、支流を含めた流域全体のことを「水系」と、それぞれ分けて定義している。

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この川の場合は、川全体の名前は今でも「渡川水系」のままであり、渡川の名前は厳然と生き続けているのだ。

だから、四万十川の正式名称は「渡川水系四万十川」なのだ。

以上、ブラタモリでは省略されていたので、あえて書いておきたい。

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山梨へ 宮下太吉、金子文子

秋水・清馬墓前祭の翌25日、東京へ戻られる亀田博さんと一緒に高知空港9:45発便で羽田へ飛んだ。13時から渋谷区正春寺で開かれる大逆事件処刑110回追悼集会に参加するためだ。

この集会への参加は昨年に続き4回目。近年は1月の最終土曜日、管野須賀子墓のある正春寺で開かれている。今年はちょうど須賀子の命日(処刑日)にあたった。主催は私も会員の「大逆事件の真実をあきらかにする会」。

集会の中身は、毎年ほぼ同じで、須賀子墓を弔ってから始まる。参加者は70名くらい。進行役は同会山泉進事務局長(明治大学名誉教授)。

今回もこの日に合わせて発行された同会機関誌「・・・会ニュース」59号が配布され、投稿記事に従って各地、各団体、個人からの報告が行われた。私からも前日の墓前祭と1年間の活動を報告した。

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その中で、前日の高知新聞一面大の記事「大杉栄ら15人分寄せ書き」が高知市で発見された(収集家が古書店から購入)ことについて触れた。秋水らの処刑から2年後、東京の料亭に集まった同志たちが書いたもの。堺利彦、荒畑寒村も入っている。記事を書いたのは秋水顕彰会会員でもある天野記者。

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新聞にコメントを載せている大杉栄の孫の大杉豊さんもこの集会に参加していたので、別に詳しい説明もされた。

集会後は懇親会。顔なじみになったみなさんと交流を深めた。

新宿の常宿ホテルに泊まって翌26日、山梨県に足を伸ばした。新宿駅始発の中央本線特急あずさ号で甲府まで1時間半。第一の目的は、昨年8月12日放送NHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、秋水を「かくまった」と誤って放送された小澤家先祖の地、旧高田村(現市川三郷町)を訪ね、その真相を解明することであったが、このことについてはまだ調査中であるので、後日詳しく書かせていただくことにしたい。(本ブログ2019.10.22)

甲府には以前東京から仕事の出張で来たことがある。今回、もうひとつ行きたかったのは宮下太吉の墓である。

宮下は「天皇暗殺計画事件」として大逆事件がフレームアップ(でっちあげ)されるきっかけになった「爆弾実験」をしたとされる人物である。宮下、管野須賀子、新村忠雄、古河力作が「謀議」したとされる中に、秋水は含まれていなかったが、「事件」の頭目にされた。

戦後の真相解明の中で、大々的に騒ぎ立てられた「爆弾」とは、七味唐辛子を入れるような親指サイズのブリキ管であったことが分かっている。おもちゃのようなもので、とても人間を殺傷できるようなしろものではなかった。

宮下墓は、甲府駅からタクシーで5分ほど。浄土真宗大谷派光澤寺の広い墓地の中にあった。墓と言っても、本人の名前は刻まれておらず、兄夫婦(藤作、うめ)の墓の隣に、石川啄木の言葉「我にはいつにても起つことを得る準備あり」が刻まれた石が建っている。裏面には、労働者太吉の紹介(1875年、甲府市生まれ)のあと、1972年9月23日、宮下太吉建碑実行委員会、とある。

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この墓の管理者(墓守)はいまおらず、無縁墓となっている。2年ほど前、神戸の秋水顕彰会会員がこの墓を訪ねた時には、寺が期限を切って撤去する旨の告知看板を建てていた。

しかし、その後、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が真宗大谷派本部に申し入れ、歴史的人物の墓として永久保存されることになった。いま看板は撤去されている。墓には草もなく、きれいであった。よかった。

宮下は大逆事件犠牲者であることには間違いがない。当時、明治政府は社会主義、無政府主義者を一掃するための口実をさがしていた。そんな中、飛んで火に入る虫、宮下が「爆弾実験」さえしなければ・・・という思いをもちながら、花を手向け、手を合わせた。寺の関係者に話を聞こうと思ったが、ベルに反応がなく不在であった。

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帰りは、金子文子生家跡と記念碑(歌碑)を訪ねた。塩山駅からタクシーで20分ほど。旧牧丘町杣口(現山梨市)、山の斜面に広がるブドウ畑の中にあった。

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生家跡の外観は本で見た写真と同じだが、いまは第三者の個人から不動産会社の手に渡ったそうで、改装され、ゲストハウスのようになっていた。観光連盟のパネルを貼っていた。文子の史跡であるから、今後も少なくとも解体はせずに保存してほしい。

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記念碑は隣接する広場にある。文子の歌「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづくと見し 母の顔かな」が彫られていた(1976年建立)。

「第三の大逆事件」朴烈事件で裁判にかけられ、監獄に母が面会に来た時の様子だ。記念碑前のブドウ畑には「文子メルローワイン」の看板がくくりつけられていた。隣は寺だが、周りに家は少ない。

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文子は1903年横浜で生まれたが、無戸籍のまま転々とし、8歳の時、母の実家であるここに引き取られ、祖父の子として入籍されたので、ここが生地とされている。その後、親戚の養女とされ朝鮮に渡り、植民地支配の実態を肌で見る。

帰国後、朴烈に出会う。去年、中村で上映した韓国映画「金子文子と朴烈」のとうりだ。墓は朴烈のふるさと韓国聞慶市にあり、去年の7月、墓前で行われた追悼式典に出かけたので、ここも訪ねたいと思っていた。

日も落ち、暗くなってきた。正面には富士山が見えるというが、残念だ。30分ほどいて、待たせていたタクシーで駅に戻った。新宿到着時刻は夜8時になっていた。

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幸徳秋水刑死109年、坂本清馬没45年記念合同墓前祭

1月24日(秋水命日=処刑日)、標記合同墓前祭を行った。例年は秋水だけだが、5年前から5年に一度坂本清馬との合同祭としている。

清馬の命日は1月15日であり、その日は有志10人で弔った。正福寺佐藤住職に読経をあげてもらった。(1月22日記事)

24日の2日前の天気予報は雨であったことから、事前に献花台の上にテントを張った。しかし、曇天ながら、雨は落ちてこず、よかった。

参加者は記帳71名だが、実際はもう少し多く80名くらいか。神戸から8名、東京、大阪、岡山、熊本から各1名と、県外からの方が例年より多かった。

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冒頭、秋水顕彰会宮本会長が代表献花と弔辞を読み上げ。続いて、順次献花。最初に、遺族・関係者、地元田中和夫さん、長尾正記さん(駒太郎実家)、豊中市岡崎悦明さん(小野家)。初めて、坂本清馬関係者として養女ミチヱさんの姪(兄の娘)保岡典江さんが愛媛県旧一本松町からみえてくれた。

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市長(田村副市長)、議長(川渕議員)、教育長(小松生涯学習課長)、中村商工会議所(地曳専務)、中村地区労(小野会長)、中村九条の会(渡辺事務局長)、正福寺佐藤住職。

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市外から、高知市自由民権友の会(岡林会長)、神戸代表津野公男さん、東京亀田博さん、熊本下川征男さん、岡山森雄二さん。

その他の参加者には、あとで、それぞれ墓前で弔ってもらった。

献花者を代表して2人の方に挨拶をしてもらった。

神戸津野公男さん。今年10月17日、神戸で予定している第5回大逆事件サミットの実行委員会を代表して、参加呼びかけがあった。

東京亀田博さん。アナキズム、金子文子研究者で、昨年5月にも韓国秋水研究者金昌徳さんと一緒に秋水墓参にみえ、それをきっかけに、中村と韓国の交流が始まった経過について話をしてくれた。

来年は、秋水刑死110年、秋水生誕150年(明治4年生まれ)となる。これまで刑死10年刻みで記念事業をおこなっているが、来年は1月24日に加え11月7日(秋水誕生日)の少し前にも記念講演会、展示会などを行いたいと思っており、詳細を詰めていきたい。目玉は秋水二つ目の記念碑建立。これらのことを参加者のみなさんに報告した。

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記念講演会は午後2時半から、市立文化センターで。講師尾﨑清(顕彰会福会長)「坂本清馬の思い出」。約50人参加。

尾﨑さんの父の栄さん(元中村市会議員)は戦後清馬の支援をした人であり、いつも自宅に清馬が訪ねてきていた。若い清さんも清馬に声をかけられ、話を聞くこともあった。「管野須賀子は美人ではないが、当時の女性にしては珍しく表情のある人であった」とほおを赤らめた。「革命家は若死にしてはいけない」とも。

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清馬は大逆事件で死刑判決を受けたあと無期懲役に。獄中で24年間を過ごしたが、一貫して無実を主張。1961年、再審請求裁判をおこした(最終棄却)。

長い獄中生活から岩窟王のような風貌になり、周りに近寄りがたいオーラを発していたので、偏屈者として避けられていた。心を開いて話す友は少なかった。尾﨑栄さんは、その中の数少ない一人だった。会場からは「犬を連れて町を歩いているのを見かけた」「こわい人だった」との発言もあった。

会場には、清馬が書き残した直筆手記などを展示した。1964年アサヒグラフで紹介された記事など、関連図書も。

神戸からの参加者8名と、東京からの亀田博さんは、前日の23日、中村に向かう途中、高知市内にある岡林寅松と小松丑治の墓も弔ってくれた。

この二人は、高知市生まれで同じ小学校同級生だが、神戸の同じ海民病院で仕事をしていたころ、平民新聞の読書会を開いていたことで、大逆事件にひっかけられ死刑判決を受けたあと無期懲役にされた。

10月、神戸で大逆事件サミットを開くのは神戸が事件に関係しているためである。

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  岡林寅松墓          小松丑治墓

森長英三郎

1月15日は大逆事件の最後の生き残りで、1961年、再審請求裁判に立ち上がった坂本清馬の45回目の命日であった。幸徳秋水を顕彰する会の役員など10名で秋水墓と同じ並びにある清馬墓で弔った。正福寺住職に読経をあげてもらい。(24日秋水刑死日には、秋水・清馬合同墓前祭を開く)

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これに合わせるように、昨年末、田中伸尚著『一粒の麦死して 弁護士・森長英三郎の「大逆事件」』(岩波書店)が出版された。森長英三郎は、大逆事件再審請求裁判の主任弁護士である。

清馬は秋水の自称門人であり、今でも師の影に隠れたままである。しかし、清馬が裁判に立ち上がらなかったならば、大逆事件の真実がいまほどに解明されることもなく、闇に葬られていたことであろう。清馬が果たした役割は大きかった。

しかし、表の主役は清馬であったが、裏方の主役、屋台骨の柱は森長であった。森長なかりせば、裁判は成り立たなかった。

最終的に請求は却下されたが、日本近現代史上、最悪の思想弾圧という国家犯罪を問う裁判を6年半にわたってリードし、完遂したことに大きな意義があった。

森長は裁判終結後も事件にかかわり続けた。裁判支援組織である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の事務局長として、真相解明を続け、国家の罠にはめられた人たちの家族、親戚を含むすべての犠牲者の名誉回復に取り組んだ。この会はいまも続いており、私も会員としてかかわりをもっている。

本書は、これまでベールに隠れていた部分が多い森長の生い立ちから、生涯をたどりながら、なぜ森長がこれほどまでに大逆事件に精力をつぎ込み、執着したのか、その生きざまに迫ったものである。

森長は1906年(明治39年)、徳島県の山の中で生まれた(名西郡神山町)。小学校の成績はよかったので、県立農業学校まで行かせてもらった。しかし、家の経済事情から、それ以上は望めなかったので、山林労働で金をため、自力で東京へ出た。

自分でのちに「浅草山谷方面で最底辺の放浪生活をする。放浪中、マルクスからカブキまでの雑学を学ぶ」と書いているように、苦学しながら日本大学に入り、弁護士の資格をとる。

著者は「戦争と不況をかかえた資本主義社会がつくりだす不条理や理不尽にあえぐ、自身を含めた底辺に生きる人々に出会ったこと」で、土に源流をもつ「沈黙せざる精神」「骨太の自由主義」を全身に刻み込みながら、人権弁護士として道を切り開いていった、と書いている。

駆け出しのころ、先輩弁護士布施辰治との出会い、宮本顕治スパイ査問事件の弁護(妻の宮本百合子とのやりとり)など、戦前の活動については、私は本書で初めて知った。

著者は、すでに大逆事件関係の本をたくさん書いている。「大逆事件 死と生の群像」「囚われた若き僧 峯尾節堂 未決の大逆事件と現代」「飾らず、偽らず、欺かず 菅野須賀子と伊藤野枝」など。これらは、事件の被告人とされた人物だけでなく、事件に巻き込まれていった家族、親戚を含む周辺の人々の「みちゆき」を追っている。

こうした追跡のなかで、弁護士森長英三郎は避けて通れぬ巨象であった。しかし、その巨象は、自分のことは隠して語らず、書き残していない。

森長は1966年没(77歳)。著者は、法政大学に保管された資料、書簡類を一つ一つ読み開きながら、生地徳島県にも足を運ぶ等、残り少なくなった関係者への聞き取りを重ねることによって、ぼやけた人の影のピントを合わせを繰り返し、森長の輪郭をはっきりさせている。これも森長の仕事と同じように、執念の作業であった。

書名の「一粒の種死して」は、森長が事件の遺族を励まし、苦しんで死んでいった人たちの霊を弔うための「墓誌」として書いた「風霜五十年」の表紙裏に刻まれた言葉、聖書ヨハネ伝の中の一説「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」からとっている。

著者のこの間の一連の仕事は、森長が残した種を受け継ぎ、育てようとするものであると思う。大逆事件に関心をもつ者の必読の書である。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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