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四万十エリアはどこ

バナナマンこと日村勇紀が四万十市にやってきた8月27日テレビ番組「せっかくグルメ」で、「四万十エリア」は四万十市、四万十町、黒潮町(1市2町)だと地図を示し解説していた。黒潮町には四万十川は流れていないが、四万十と名の付く市と町に囲まれているので、ワンセットにしたのであろう。

一方、2016年度、県と高幡地域(梼原町、津野町、須崎市、中土佐町、四万十町)が地域統一の観光キャンペーン奥四万十博をおこなって以降「奥四万十」という言葉も生まれたようで、8月31日付本紙には奥四万十温泉巡りが紹介されていた。しかし、須崎市には四万十川は流れていない。

また、8月5日付本紙には四万十川の愛媛県側の支流広見川の上流部(宇和島市)に「四万十西端」の看板が立てられたという記事も載った。

四万十川が一躍有名になった1980年代以降、いたるところで四万十の名前が使われているが、合併で自治体の名前として四万十市と四万十町が生まれるまでは、四万十という地名はどこにもなかった。四万十は川の名前としてだけ使われてきた。

よって、私は少なくとも四万十を地名として使う場合は、その範囲は最大広く見ても四万十川の本支流が流れている地域(流域)に限定されるべきだと思う。

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高知新聞投稿(写真を除く)
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大塚金之助と牧野富太郎

牧野富太郎の植物学のベースになっているのは膨大な数の標本である。土佐から始め全国を歩き、たくさんの植物を採取した。それらを細かく観察、分類、記録し、1枚1枚を大切に、かつ美しく保存した。

この手法を社会科学の分野に取り入れたのが大塚金之助であった。大塚は牧野より30歳若いが、旧制神戸中学時代に植物学に興味をもち、牧野の植物図鑑を手に六甲山麓を歩いた。

しかし、視力が落ちたこともあってその道を断念し、神戸高商(高等商業学校)へ進み、経済学をめざした。

大塚は1930年代のマルクス経済学では「西の河上肇、東の大塚金之助」と言われた巨頭で、日本資本主義論争では講座派の論客であった。

ともに治安維持法違反という思想弾圧で入獄。大塚は母校、東京商科大学(現一橋大学)の教授職を追われた(戦後復職)。

大塚は若い時米英独に留学し、アダムスミス、マーシャル、マルクスなどの先学の文献、資料を細大漏らさず集め、それらを根気強く分類、整理した。

学生たちには常に「牧野に学べ」と言い、資料の扱い方には細心の注意を払わせ、書棚の本の取り出し方にもうるさかったというが、牧野に会った記録は残っていない。

大塚は社会科学における文献学の第一人者となり、集めた社会経済思想史にかかる国内外の膨大な数の文献資料は二つの図書館の「大塚文庫」(一橋大学とドイツ国立)に保存をされている。

高知新聞「声ひろば」投稿
2023.8.24

高知新聞2023.8.24


秋吉久美子の正体

女優秋吉久美子はずっと気になる存在である。

彼女は私より1年下の1954年生まれだから同世代だ。彼女が映画「赤ちょうちん」(1974年日活、藤田敏八監督)で刺激的な主演デビューを果たした時、私は東京の大学生であった。女の子に興味はあるが付き合ったことがなく、悶々としていた頃である。

そんな時、夕焼色をバックに高岡健二と裸で向き合う、あのポスターが現れた。同世代の男でムラムラしなかった者はいないであろう。

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彼女はいろんな週刊誌のグラビアなので取り上げられていた。そこには私の中学、高校時代の同級生がいた。具体的に特定の誰かと似ているという訳ではない。

美人というよりも、かわいらしく、頭がよいのに、少し鼻っ柱の強く生意気で、気になる女の子はどの学年にも一人はいたはずだ。そんな身近なイメージの女の子であった。

福島県の県立磐城女子高出身だと書かれていたことも印象に残っている。その数年前の甲子園で準優勝したのが磐城高校で、同校は地域で一番の進学校だということが話題になっていた。「小さな大投手」と言われた田村投手の名前は今でも覚えている。

磐城高校は男子高で、女子高は磐城女子高で「磐女(バンジョ)」と呼ばれ、こちらも進学校だというのも、東北出身の友人から教えてもらった。

映画「赤ちょうちん」は南こうせつの歌「神田川」「赤ちょうちん」のイメージを映像化したもので、都会で出会った若い二人の路地裏での同棲生活 ~♪♪いっしょに行った横丁の風呂屋~ の世界だ。

彼女との出会いはそんな経緯だが、かといって別にファンになったというほどではなく、その後の映画やドラマも追っかけていない。

たまたま見た作品では、映画「八甲田山」で高倉健の雪中行軍部隊を道案内する村娘、NHKドラマ「夢千代日記」の芸者金魚、映画「男はつらいよ」の化粧品セールスガールなどが印象に残っている。

しかし、それぞれの時代の映像を見た時点の自分の年と重ねて、ああ、あの同級生も息の長い女優になったもんだな、というような感慨にひたる一方で、この子は、どうもだだの女優ではない、あのクセのある演技は何かイチモツをもってるな、という思いは抱いていた。

そんな秋吉久美子が7月21日、四万十市民大学での講演に現れた。市の広報で知った私は、その日を楽しみに待っていた。

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彼女は2007年から2年間、早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻に在籍したことがあり、その師である北川正恭教授(元三重県知事)は同大学のマニュフェスト研究センターの代表をつとめている。

本市市議会の一会派が同センターに勉強に行った縁で、秋吉久美子を紹介されたのだという。

彼女は講演をするのは初めだということで、話は同研究センターの中村健事務局長との対談形式ですすめられた。

しかし、彼女は雄弁であり、ほとんど一人でしゃべりまくった。演題は「女優である理由」。

開口一番、あこがれの四万十川に来れてうれしい、「日本で一番透明度の高い川」の空気や風は違う、と感激の言葉を繰り返した。そして自分の生い立ちから話を始めた。

静岡県富士宮市で生まれたが、すぐに父の仕事(水産高校教員)で徳島県日和佐町に移った。そこが自分の黄金期で、ひとりで山の中に入って遊んだ。風のささやき、水のきらめき。山ユリの花を見つけ、何と美しいことかと思った。

ヘビや虫も友達で、カニも釣った。山の中にひとりいても怖くはなかった。四国の風と水の中での体験で、人間が失ってはいけないものを知り、励みになり、強くもなり、その後の自分の役に立った。

6歳で磐城へ。そこにも自然があった。高校時代は文芸部。友達と社会のこととかを議論をしても負けなかったが、自分が何になりたいかが欠けていた。

3年の時、深夜ラジオ「パックインミュージック」で映画「旅の重さ」のオーデションをやっていることを知り、1人で上京。小学校の学芸会でピノキオの役しかやったことはなかったが、変な自信があり、何も怖くはなかった。2位になり、小さな役をもらった。四国が舞台の作品で、夏休み中、ロケでまた四国に行った。

大学受験は自信はあったのに、すべり止めまで落ちた。浪人中(高校補習科)、アングラ劇団が来たので見に行ったら、さそわれて5月上京。

すぐに「赤福」のコマーシャルに出て、ポーラ化粧品のドラマにも。そして、藤田敏八監督の「赤ちょうちん」で主演。続く「妹」「バージンブルース」と合わせた藤田三部作でブレイク、いまに至る。

私は講演会場(市立文化センター)で帰りに彼女のサイン入りの本を買った。映画評論家だという樋口尚文氏との対談『秋吉久美子 調書』(2020年、筑摩書房)で、彼女のことを知りたい方にはおすすめの本だ。

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この本で樋口氏が言うように、世間がもつ彼女のイメージは「元祖シラケ派」「浮世離れした」「具体性がない」「定まらなさ」「不思議な」「像を結ぶことから逃走」であろうが、次の言葉に私は一番納得する。(218ページ)

「 70年代に登場した頃の秋吉さんはロリータっぽい風貌とアンバランスなセクシーさが醸す「儚さ(はかなさ)」が魅力の「時の娘」であった。その魅力に射抜かれた多くのファンにとって「不思議なクミコ」は「守ってあげたい」哀願の対象だったかも知れないが、私には秋吉さん一流の「擬態」に見えて、そこに秘めし「知性派」の貌こそが秋吉さんの「正体」であって、そのクールさこそが秋吉さんを追いかけ続けた理由であった。 」

この本は樋口氏の質問に答える形でまとめられている。だから編集、構成は樋口氏がおこなったものだ。

しかし、講演では自分がしゃべりたいことを自由にしゃべれる。本にはない以下のような彼女の本質をつくような言葉があった。

・ 冒頭の徳島県日和佐の自然の中での幼時体験。

・ 主演映画デビュー作品は「赤ちょうちん」ということになっているが、それは公開が最初だということであり、実はその前に松本俊夫監督「十六歳の戦争」という映画の主演をやっている。この映画は、愛知県豊川市の旧海軍工廠を舞台に、徴用で働かされていて米軍爆撃で死んだ少女の話で、難解な内容であったためお蔵入りになり、公開が藤田3部作のあとになった。自分は死んだ少女と現代に生き返った少女(亡霊)の二役をやった。これは貴重な経験であり、もしこの映画に出ていなければ、役者としての自分は藤田3部作で終わっていただろう。

・高校時代、東大安田講堂や浅間山荘事件があり影響を受けた。自分はヒッピーになりたかった。青少年のために脱いだ(笑いながら)。

・自分のしゃべり方でしゃべると社会とぎくしゃくする。しかし、自分の生の言葉でしゃべらないと無理がある。

・常に目立とうとしないように意識している。

・私たちひとりひとりの存在は、人類の歴史の中でいろんな要因で生まれたライブラリーにすぎない。

・自然と向き会うことができる考古学者か動物学者になりたかった。

・6歳から18歳までいた磐城が地震にみまわれた。しかし、この事実は磐城としてではなく、人類として、人間として考えるべき。

・自分が女優になったことは「出会い」から。女優であることは「仕事」ではなく「生涯学習」であり、お役目。お坊さんにも、人間にも退職はない。

・毎回、学び、失敗する。ガンジーはいつまでも生きられるよう学べ、学びがあることで救われる、と言った。


以上、最後は禅問答や哲学のような話になった。彼女は女優を仕事とは考えていない。お役目と考えている。だから、生涯学習なのだ。それが演題の「女優である理由」なのだ。

四万十市民大学は市教育員会の生涯学習課が事務局を務めているので、配慮してくれた言葉ようにも思えるが、そうではないだろう。まさに、彼女にとって女優は「生涯学習」なのだ。

彼女はオフの生活でやりたいことはブックサーフィンだそうだ。いろんな本を5冊ぐらい並べて自由に読む。また、稽古事では、詩吟、書などもやっている。ブログも毎日書いている。詩の世界では出版社による秋吉久美子賞もある。

私はこうした彼女のいまの姿はこの講演で知った。

別に学歴が重要だとは思わないが、50歳をすぎてから早稲田の大学院に入っていること見ても、私が以前から感じていたように、彼女はただの女優ではない、知性派、いや生涯学習(お勉強)派なのだ。

彼女は話の最後にも四万十川に来れてよかったと言ってくれた。ブログによると翌日は川を見て帰ったそうだ。ありがたいことだ。

そこまで四万十川にこだわってくれたのは、彼女の同じ四国、日和佐の自然の中での幼時体験があり、四万十川に自分との同質性を感じているのではないだろうか。

というのも、映画「赤ちょうちん」の脚本を書いたのは本市出身の中島丈博である。中島は自伝映画「祭りの準備」(1975年)で自分が育った四万十川の河口、下田の自然や風土を描いている。そして、そこに暮らす、人間の原種のような人々を赤裸々に描いている。

女優秋吉久美子の「不思議な」「定まらない」イメージができあがったのは映画「赤ちょうちん」である。

ネアンデルタール人のような人類の原種は、もともと「不思議な」「定まらない」個体であった。それが進化の中で規格品に統一されていった。

「赤ちょうちん」の世界は中島しか描けなかった。

彼女がそのことを知っているのかどうかはわからないが、四万十川が生んだ脚本家によって女優秋吉久美子はつくられたのであり、ここが自分の原点であるという帰巣本能が働いたのではないかと思う。

神戸と大逆事件

2023.5.27 
第5回大逆事件サミット(神戸大会) 記念講演(要旨)  
講師 山泉進 全国連絡会 事務局長
          大逆事件の真実をあきらかにする会 事務局長
          明治大学名誉教授

演題 神戸と大逆事件

1.大逆事件の真実

与えられた講演のタイトルが「大逆事件の真実」というもので、とても短時間でお話できることではないのですが、私も「大逆事件の真実をあきらかする会」の事務局長を大原慧さんから引き継いで四十年になります。この会は、大逆事件の死刑判決から四九年目に、坂本清馬さんたちの再審請求を支援する市民組織としてつくられました。会のタイトルに「大逆事件の真実」とはいっていますので、断るのも変ですので、一応、そのことを意識してお話します。

再審請求の提訴から五十年後(処刑から百年後)の二〇一一年、中村で第一回大逆事件サミットが開かれました。それから今年で一二年目になります。再審請求は一九六七年、最高裁で棄却(門前払い)されましたので、法律的に言えば、被告たちは全員いまだに有罪のままです。しかし、私は、いま必要なのは有罪か無罪かよりも、この人たちが何を考えていたのかということを改めて問い直すことだと考えています。吉田松陰や西郷隆盛が有罪か無罪かをいま問う人はいないのと同じです。もちろん、法的救済という意味で、再審請求をあきらめているわけではありませんが、被告たちの思想を検証し、現代に生かしていくという市民による名誉回復がもっと大切なのではないかと考えています。

ところで、事件から百年以上が経過して、いまだに大逆事件に対して関心がもたれ、全国各地で運動が続いているのはなぜか。そのことを考えれば、この事件が単なる冤罪事件だというだけではなく、国家の犯罪だという点に思い至ります。つまり、大審院を頂点とする司法当局の犯罪、あるいは社会主義思想を「根絶」しようとした桂太郎首相以下、当時の行政府による犯罪というばかりではなくて、国民を含めた国家による犯罪だというふうに私は考えています。

それでは、国家とは何か。定義はむつかしいのですが、対外的な戦争というものを考えてみれば、戦争は国家による最大の犯罪です。現在、ロシアによるウクライナ侵略がおこなわれていますので、「正義の戦争」を肯定したくなりますが、私は幸徳秋水たちと同様に、絶対的平和主義の立場にたって、いかなる戦争をも否定します。武力による国際紛争の解決は、人命や財産、文化を破壊し尽します。これを国内的にみれば、思想や信条の異なる人たちを「根絶」することが、これに相当します。それは天皇を中心とする国家体制と教育勅語を基本とする教育がもたらした結果であります。国家の犯罪には国民が加担している。ここがポイントだと思います。現在では、多様性を尊重することの重要性が説かれています。それは、国家が犯してきたことに対する反省と、人間の知恵とがもたらしたものです。

自由民権運動で言われた「天賦人権」の思想は、憲法などの実定法を超えた人間社会における「自由・平等・博愛」の実現は、天が人に与えた権利、人類の知恵が生み出した普遍的な権利という考え方です。大逆事件では単なる一個人の自由や財産などが奪われたのではなく、人類の一員として天から与えられた自由や人権が奪われたのです。だから国家の犯罪ということができます。

秋水らが唱えた非戦論は国家の犯罪を真正面から否定したものです。その思想のいきついた先が「無政府共産」というものでした。国民が抱いている天皇中心の国家という「共同幻想」の否定です。政府にとっては彼らのそうした信念・思想がけしからんということになった。大逆事件を考えるということは、一つの歴史的事件を解明するというだけではなく、国家の犯罪とは何か、そのことを考えるところに核心的な部分があります。そのことが、今でもこれだけ多くのみなさんが集まることになっているのではないか、そのように私は思っています。

2.ロバートヤングと大塚金之助

次には、いまの神戸ではあまり知られていないかも知れない二人の人物の話をします。一人はロバートヤング(Robert Young)で、いま一人は大塚金之助です。

ロバートヤングは一八五八年にロンドンで生まれた、植字工です。一八八八年に神戸にやって来て、一八九一年英字新聞『コウベ・クロニエル(Chronicle)』を創刊します。後に『ジャパン・クロニエル』と改名します。ヤングは社主であり、編集長でもありました。同社には一時、ラフカディオハーン(小泉八雲)もいました。ヤングは大逆事件に強い関心をいだき、幸徳秋水たちを擁護しますが、それは彼が社会主義者であったのではなく、リベラリストの立場から擁護しました。イギリスでは現在は保守党と労働党が勢力をもっていますが、当時労働党はまだ小さく、自由党が弱者である労働者の立場を擁護していました。

自由党は個人の自由や権利を擁護し、弱者に対する社会福祉を重視します。これに対して保守党は国家を重視し、経済的には自由競争を主張します。ヤングは、リベラリストとしての立場から、日露戦争当時においても日本政府による思想弾圧を批判する記事を掲載しました。そのことは、『寒村自伝』のなかにも書かれています。

ヤングは、大逆事件の裁判期間中は一時帰国していましたので、イギリスの『タイムズ』や『デイリー・ニューズ』などの各紙へ積極的に投書し、またインタビュー記事も掲載され、この裁判が非公開で、不公正な裁判であることの実態を伝えました。また独立労働党の機関誌『レイバー・リーダー』には、「被告人たちはMikadoの命をねらった陰謀を企てたというが、この裁判を公平に見ることができる人間であれば、死刑判決という暴挙に対する単なる言い訳としか思われない」と掲載されています。

もう一人は大塚金之助です。大塚は著名な経済学者で神戸高等商業学校(神戸高商)を出てから、東京高商専攻科(一橋)に進み、大学昇格後の東京商科大学の教授になった人物です。しかし、治安維持違反の思想弾圧で免職、戦後は一橋大学(改名)や慶応大、明治学院大で教授をつとめました。一橋の社会思想史では高島善哉、水田洋らが教え子になります。

大塚は大逆事件後の一九一二年、二十歳の時、神戸高商の『学友会報』に「菖蒲花人」のペンネームで「主義者ゴールドマン」という文章を寄せ、冒頭「御存知の御方もあろう。エムマ・ゴールドマンという名は女の名である。亜米利加に居る露西亜女の名である。彼はもと一の女工に過ぎなかったが今は米国で最も名高い女である。僕が彼をここに紹介する理由は書かないでも分る」と記した。

エマ・ゴールドマンはアメリカのニューヨークで『マザー・アース』という雑誌を出していましたが、秋水らの裁判に対して、いち早く抗議運動を呼びかけました。それはアメリカのみならず、ヨーロッパ各国まで伝えられました。ワシントンの日本大使館やニューヨークの日本領事館、あるいはロンドンの日本大使館には、数多くの抗議電報や抗議文が寄せられました。つまり、大塚金之助は、ゴールドマンの著作『Anarchism and Other Essays』の一部を翻訳したにすぎなかったのですが、間接的に大逆事件裁判を批判し、秋水らの思想(アナーキズム)の擁護をおこなったのです。この事件により、神戸高商の校長、図書館長は謹慎処分を受け、大塚は厳重監視のもとにおかれ、授業料免除の特典を剥奪されました。 

神戸は幕末に開港された五港の中で横浜、長崎とともに(ほかに函館、新潟)いち早く、外国人居留地をつくったことで、欧米からの文化や思想を取り入れ、開放的な都市として発展しました。大塚の事件も、取締りの厳しい東京ではおこりえなかったと思います。

以上、神戸の大逆事件で犠牲になった岡林寅松と小松丑治については上山さんのほうで話をされるので、私のほうからは違った側面から、神戸と大逆事件のかかわりについて話をさせていただきました。

(終)

本講演記録は「秋水通信35号」に掲載しており、幸徳秋水を顕彰する会のホームページでごらんになれます。

ホクバンへの期待

7月1日、旧大正町で開かれた北幡シンポジウム(地元実行委員会主催)に参加をした。ホクバンは幡多の人間にとっては独特の響きをもっている。しかし、最近はほとんど耳にすることはなくなっていた。

北播は幡多郡北部の旧3町村をさしているが、平成の大合併によって西土佐村は中村市と合併し四万十市に、大正町と十和村は窪川町と合併し高岡郡四万十町になったことで、郡域が分断されてしまった。その意味では過去の北播はいったん消滅したといえる。

しかし、ホクバンは歴史的に中村の一條文化、宇和島方面の伊予文化、梼原等の津野山文化の三つの文化が融合することによってつくられた独自の文化圏をさす言葉でもある。幡多にはナンバン、トウバン、セイバンはなく、ホクバンしかないことでもわかる。

文化は人物をつくる。シンポで登壇した全国的に著名な5人は地域によってつくられた。

戦中の満州分村移民の悲劇を乗り越え、戦後の青年団運動、シイタケ日本一、元祖こいのぼりの川渡しから、地域を守るためにつくられた住民出資会社、四万十ブランドや道の駅ネットワークを活かした6次産業化など、いずれも人のつながりが地域を守るためには大切であることを全国に発信をしている。

今後もホクバンにはシンポのテーマ「課題解決の先進地域」としての役割を期待しています。


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丹後半島 久美浜

夕日が迫ってくると琴引浜の幻想的な魅力は増してきたが、5時半を過ぎたので離れた。

網野町から久美浜町に入ると、久美浜湾に沿って進む。しかし、暗くなってきたので、湾の沖はよく見えない。

湾を過ぎると、県境を越えて豊岡市に入った。京都府から兵庫県へ。豊岡はこの7年間で3回目。常宿のようになったホテルに泊まった。

翌24日は家に帰らなければならない。まっすぐ帰ろうかなとも思ったが、久美浜湾に後ろ髪を引かれた。前回久美浜を通った時も、暗くなっており湾は見えなかった。

丹後半島の東の起点は天橋立なのだから、西の終点の久美浜湾を見ないのならば、半島を制覇したことにはならない。

朝8時半にホテルを出て、きのうの道を久美浜湾に戻った。渚の公園のようになっているところで車を止めた。無風で波ひとつない。

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地図をみると、湾から海への出口は狭い。海からの砂州が延びたことでふさがれたところを江戸時代、開削したそうだ。きのう見た天橋立で仕切られた宮津湾と同じだ。だから、このあたりは小天橋(しょうてんきょう)と言うらしい。

ともに海につながっているので、淡水と交わる汽水湖だ。浜名湖や宍道湖と同じだ。しかし、丹後半島では湖ではなく湾と呼んでいる。

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湾を時計回りに一周することにした。湾の入り組んだところでは牡蠣の養殖筏が浮かんでいる。しかし、舟もボートも少ない。ひっそりとしている。

小天橋は海水浴場になっていた。朝早いのに、結構な数のサーファーたちがサーフィンを楽しんでいた。砂浜では、小学生たちがゴミ拾いをしていた。土曜日なので先生や親を交えての一斉清掃なのだろう。感心、感心。

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海岸線は弓型にずっと先まで続いている。きのうの琴引浜よりも広い。黒潮町の入野の砂浜よりも広そう。日本海は太平洋よりもでっかい。

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丹後半島の東側は、断崖ありで、山が海に迫っていたがが、西側は対照的に砂浜が多いようだ。海水浴場も多い。

小天橋には温泉もあった。夏の海水浴シーズンが一番のようだが、1年間をとおしてのリゾート地、保養地のようだ。そのような建物が多く建っている。この間、コロナできびしかったのだろう。

久美浜湾と小天橋を見たので、これで満足。湾の残り東半分を巡ってから、豊岡に戻り、但馬空港インターから、北近畿自動車道→播但→山陽(姫路)に出て、まっすぐ家に戻ってきた。

丹後半島は何度も来たい。
今度来るときには、逆回りで、豊岡から天橋立方向に回ろう。
眼に入る景色がちがうだろうから。

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丹後半島 琴引浜

念願の経ヶ岬に立つことができた。しかし、丹後半島にはもう一カ所行きたいところがあった。琴引浜。

山田洋次監督の映画「隠し剣 鬼の爪」(2004年)のロケに使われた浜だからである。

経ヶ岬を出たのは午後4時を過ぎていた。車を久美浜、豊岡方面に走らせ、5時を過ぎたころ、網野町に案内板が見えた。国道からわき道を入ると、少し小高いところ、松林の中のキャンプ場に出た。

歩いて下りていくと、目の前に砂浜が現れた。夕日が迫っていた。海の色が幻想的である。深くて濃い碧。打ち寄せる波がキラキラ赤みを帯びている。映画のイメージと同じである。

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若いカップルが水着姿で降りてきて、どぶんと飛び込んだ。絵になる光景。あとできくと、二人は兄と妹だった。

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映画「隠し剣 鬼の爪」は究極のラブロマンス。ごらんになった方は、この浜でのシーンを覚えていることだろう。

主人公の下級武士、宗蔵(長瀬正敏)は幼いころから家に奉公に来ていた下女のきえ(松たか子)に想いを寄せていた。きえも同じ。

きえは嫁に行った商家で苦労をし、病気で寝込んでいると聞いた宗蔵は、きえを奪うようして家に連れ戻す。しかし、身分の違いから一緒にはなれないし、まわりの噂も気になる。

宗像はある日、きえがまだ見たことがないという海に連れていってやる。きえは大喜び。しかし、その場で、心ならずも、きえに暇を言い渡す。家に帰れと。

きえは、いまのままでいい。せめて、宗蔵が妻を迎えるまでは、お世話をさせてほしと、涙ながらに訴える。しかし、宗蔵はだめだという。

きえは、おそるおそる、「それはだんな様の言いつけでがんすか?」と聞く。

宗蔵「んだ、俺の命令だ」。

きえ「ご命令なら仕方ありません・・・」と涙をぬぐう。

宗蔵「長い間、世話になった・・・」と立ち上がる。

その後、宗蔵は藩の家老から、謀反人とされてしまった剣の道場時代の友人(小澤昭悦)との決闘を命じられる。藩命には逆らえず、友を斬る。

藩内のきたない派閥争いに、武士であることに嫌気がさした宗蔵は、「鬼の爪」で家老を一刺し、友の仇をとったあと、武士の身分を捨てる。一介の商人になり、蝦夷に渡ることを決意する。

宗蔵は旅姿で畑仕事中のきえを訪ねる。そして、夫婦になって一緒に蝦夷に行ってほしいと頼む。

きえは内心うれしいながらも、そんなことは一度も考えたことはありませんと、ととまどう。

宗蔵「ならば、いま考えてくれ」。

きえ、目をつむり、じっと下を向く。

宗蔵「考えてくれたか」。

きえ、はずかしそうに、宗蔵の顔を見上げ、少し笑みをうかべながら、「それはだんな様のご命令でがんすか?」

宗蔵、ちょっと間をおいて、胸を張り 「んだ、俺の命令だ」と、自分に言い聞かせるように言う。

きえ「ご命令なら仕方がありません」と、うれしそうに答える。

宗蔵、きえの手を握る。

・・・ ジ、エンド。

涙が止まらないシーンである。私はこれまで見た映画やドラマのなかで、最高のラブシーンだ。

琴引浜が見事な伏線になっている。

「ご命令なら仕方ありません」

女の言葉は海の底まで深い。

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映画の原作は藤沢周平で、舞台は出羽の国(山形)であることは前作の「たそがれ清兵衛」と同じ。最初、私はこの砂浜は山形県のどこだろうとロケ地を調べてみたら、ここ琴引浜であった。

太平洋の浜辺ではこんなシーンはありえない。だから、私は日本海のほうが好きなのだ。

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丹後半島 経ヶ岬

福井県小浜市の古河力作の墓を訪ねた翌日、6月22日は丹後半島の先端、経ヶ岬に向かった。7年前の秋、丹後半島をはじめて一周したさい、この岬の前の道を通ったことがあるが、秋の陽はつるべ落としで、岬の先端の灯台までは足を伸ばすことができなかった。そのことがずっと悔やまれていたからだ。

古河力作の墓がある妙徳寺を出たあとは舞鶴に泊まることにした。車で40分くらい。薄暗い中、おおい町、高浜町を通った。原発のあるところであり、道の標識にも書かれている。若狭湾は原発銀座であり、高速で通過してきた敦賀にも、美浜町にも原発がある。しかし、それぞれ半島の先にあるため、道からは見えない。

古河力作は国家の犯罪により殺されたが、力作のふるさともまた、原子力政策という国策によってほしいままにされている。ただ、小浜市内には原発の立地はない。矜持なのか、たまたまなのか。経過はわからない。

 舞鶴には以前、仕事で大阪から一度と、小樽にフェリーで渡る時と、2度来たことがあった。舞鶴市の中心街は入り組んだ湾の中の二つの港にあわせ、東と西に分れている。

舞鶴港は戦前は日本海軍の軍港、戦後は海上自衛隊の基地になっているが、これは東港のほうで、フェリーも東港から出ている。

家族5人で渡った満州から、昭和21年、黒田雅夫さんが1人で引き揚げてきたのは東港のほうであろう。

ホテルは西舞鶴にとったので、翌朝は西港を見ながら西に車を走らせた。西港のほうは漁港のようで魚市場があった。しかし、埠頭の一つには海上保安庁の巡視艇が停泊していた。巡視艇は自衛隊の艦船とは違い、武器はそなえていないはずだが、外目には同じように見えた。おっかない。

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由良川を渡り、しばらく進むと、河口に鉄橋がみえてきた。鉄道ファンの乗り鉄、撮り鉄にとっては聖地と言う由良川鉄橋だ。水面というか、海面すれすれ、一直線に線路が延びている。NHKの中井精也や六角精児の番組でも登場していた。

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海岸線には「安寿ロマン街道」「山椒大夫の館跡」という看板も。そうか、安寿と厨子王、森鴎外の小説「山椒大夫」の舞台となったところだな。そんな伝説が残っているのだろう。

宮津の「海の駅」で一息を入れてから、いよいよ丹後半島へ。入り口の天の橋立は7年前に来ているので、今回は、対岸にある成相寺の上の展望台から眺めた。広角レンズで覗くように、宮津湾全体を鳥瞰することができた。少々曇っていたが、すばらしいパノラマだった。

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伊根に立ち寄る。今回は湾内遊覧船はパス。伝統的建造物、舟屋群の狭い道を奥へ。7年の間に、道も観光施設もずいぶんときれいに整備をされていた。周辺との町村合併よりも自立の道を選んだ町民の団結がうかがえた。食事処もふえていた。おすすめの海鮮丼をいただく。韓国からの団体客でにぎわっていた。

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伊根で唯一という酒蔵をさがす。六角精児が訪ねてきて一緒に呑んだ、豪快な女性杜氏さんとはどんな人かと思ったから。場所はすぐそこだった。向井酒造さん。

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あいにく杜氏さんは外出中だった。家のお嬢さんだという。若いころの新聞記事の写真を貼ってあったが、びっくり。それ以上は書けません。TVの再放送があればごらんください。おすすめの「伊根満開」を1本買った。

いよいよ、本命の経ヶ岬へ。今回もナビに従い一部山道のショートカットの道を選んだ。すぐに断崖絶壁の海岸にでる。伊根までの海岸線とは様変わり。その突端が経ヶ岬だ。

今回は、国道からヘアピンカーブの細い道に入る。細い道をくねくね1キロほど進むと、灯台下の結構広い駐車場に着いた。車が数台止まっていた。

ここからも崖絶壁の海を見下ろせたが、灯台は見えない。灯台は眼の前の山の裏側(海側)にある。海抜148メートル地点。案内板には山道を400メートル、約15分登れとある。山頂へは途中から別道になり、灯台は少し下にあるようだ。

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駐車場の管理人さんのような人に聞くと、せっかく来たのだったら、両方に行けばよいという。たしかにそうだ。

登山口に設置していた杖を借りる。それでも日頃の運動不足で、ゼーゼー、ハーハー、前に進まない。やっとのことで、登りきると、頂上には展望台の東屋があった。

海の大パノラマかと思ったら、まわりは植樹した桜の木と雑木が伸びており、海は半分、人家のある丹後町袖志方面の海岸線側しか見えない。せっかく上って来たのに少しがっかり。灯台も見えない。

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東屋で休んでから、気を取り直して、灯台をめざして海側の斜面を下りて行く。すると白亜の灯台が現れた。これだ、これだ。

灯台からは一大パノラマ。東側は断崖絶壁。一面の青。いや碧だ。太平洋とは違う。足摺岬から見る太平洋は太陽に反射をして海面がキラキラ輝いている。しかし、日本海は底知れぬ海の深さを感じる。深い青は碧だ。普

段光る海かしかみていない者は、日本海の碧に、海底まで引き込まれてしまいそう。私が山陰の海に惹かれるのはそのためであり、丹後半島はそれ以上のインパクトがある。

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案内板によると、経ヶ岬灯台は明治31年12月、「明治政府による富国強兵に伴う開運助成政策」でつくられた。真下の海岸から切り出し加工した安山岩を持ち上げて台座や擁壁を組んだ。いまは灯台守はおらず無人で、舞鶴海上保安部がコンピューター管理をしている。

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足摺岬灯台はロケット型で背がヒュ~と高いが、こちらは寸胴型でデンと座っている。男らしくて安定感がある。冬の嵐にみまわれる日本海では、このほうが頼もしい。

ところで、頂上から灯台に下りてくる途中に、頑丈な石の小屋とその周辺にはコンクリートの残骸のようなものがあった。小屋に入ると、海の方向にだけ窓がある。中は木の葉が舞い込んで散らかり、放置されている。

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下の駐車場の男性が、上には以前アメリカ軍が来ていた跡があると言っていたので、これのことかと思った。しかし、アメリカ軍がなぜ。昭和25年ごろの朝鮮戦争では米軍は日本の基地から向かった。そのための海の警戒、見張り台なのだろうかと思った。しかし、本当かな。

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このことについては、はっきりとしたことを知りたいと思い、家に戻ってから、京丹後市の観光協会を通して問い合わせたところ、観光ガイドもされていという地元の区長さんの話を聞けた。

それによると、これらは日本軍の見張り台の跡だそうだ。「望楼」と呼ぶ。つくられたのは、いつかは詳しくは知らないが灯台ができた明治31年のすぐあとの頃ではないかといわれる。

これは確かだと思う。というのも、6月のはじめ、戦争遺跡保存四国ネットワークのシンポジウムとフールドワークで、足摺岬の望楼跡を見てきたばかりだったからだ。日清戦争を経て日露戦争に向かうあたり、日本海軍は全国の海岸線のいたるところに望楼をつくった。足摺岬のものは明治34年。

とすれば、同じ時期にここの望楼もつくられたのだろう。区長さんによれば、灯台守の人が、軍人に対して水を分けてほしいと頼んでも分けてくれなかった。海辺の湧き水が出ることころまで下りて、取りにいったという。

この望楼は戦争が終わるまであったのだろうかと思い、ネットで、いろいろ調べていると「経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張り所遺構 探索ルポ日記」なるブログが出てきた。 →https://besan2005.livedoor.blog/archives/54956724.html

写真入りの大変詳しいルポで、これによれば望楼は大正時代にはいったん閉鎖をされたが、昭和17年、経ヶ岬海軍特設見張り所として機能復活をしている。だとすれば、私が見た石組の見張り小屋やコンクリの残骸のあとは、特設見張り所時代の兵舎などの跡なのであろう。

では米軍は関係がないのかというと、さらにネット記事が出てきた。戦後、駐留米軍が昭和33年までこのあたりの袖志地区にいたと書いている。その後、2014年、米軍経ヶ岬通信所(レーダー基地)が袖志地区にでき、さらに日本の航空自衛隊も隣接をして分屯基地をつくっている。目的は北朝鮮方面からのミサイル対策だという。強引な設置に住民との間で、トラブルもおこっているようだ。

山の上、灯台近くのコンクリの残骸と米軍の関係はわからない。

私は灯台から下りてから、まっすぐ久美浜、豊岡方面に向かったので、今の米軍、自衛隊の施設には気づかなかった。

経ケ岬は近畿地方の最北端。軍事面の要所であることは、昔も今の変わらないということか。家に戻ってから、のんきだった観光気分に冷や水をかけられた。

古河力作の墓

古河力作は大逆事件の犠牲者(死刑)の一人。6月22日、福井県小浜市内にあるその墓を訪ねた。

今回の関西旅の目的の第一は、前日、京都の立命館大学(二条キャンパス)で開かれた、満州引揚者の黒田雅夫さん(京都府亀岡市)が学生に引き揚げ体験を語る会への同席であった。

黒田さん一家は京都廟嶺開拓団の一員として満州に渡り、引揚げの際、いまの四万十市の江川崎開拓団と合流し、一緒に帰国をしたことから、私の市長時代の2011年から、生き残りの方々同士で交流をしているもの。両開拓団ともに多くの犠牲者を出した。黒田さんにお会いするのは約10年ぶりであった。私も少し話に参加をさせもらった。

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翌日は岐阜県関ケ原町にある妻の両親の墓参りへ。いつもなら親戚にあいさつをしたら、すぐに大阪へ引き返すのだが、今回は5月27日、神戸での大逆事件サミットに参加した直後でもあり、前から気になっていた古河力作の墓を訪ねてみようと思った。

米原から高速の北陸道へ、敦賀からは分岐し舞鶴若狭道へと進むと眼下に敦賀港が見えた。敦賀は黒田雅夫さん一家が昭和19年、満州に渡った港だ。米原から1時間とちょっとで小浜インターを降りた。速いものだ。しかし、すでに時間は午後4時になっていた。

若狭は初めて。小浜はサバで有名な町で、京都への「鯖街道」の起点。ひっそりとした港町を散策したかったが時間がないので、港から日本海を眺めるだけにした。ベタなぎであった。スーパー・バローで墓に供える菊花を買った。

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古河力作は1884年(明治17年)、福井県遠敷郡雲浜村(現小浜市)の漁村に生まれた。家は比較的裕福な廻船問屋で、代々同族内で近親結婚を繰り返した(両親もいとこ同士)ためと言われているが、極端に背の低い小人であった。力作は長男で、弟と妹もいたが、彼らも同じであった。まわりから小人(こびと)、一寸法師とからかわれて、屈折、屈辱の中で育った。

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古河家の菩提寺、曹洞宗歓喜山妙徳寺は市の中心部から国道を10分ほど舞鶴方向へ走ったところ。海岸に迫る山の中、カーナビも途中で消えるような、うっそうとした林に隠れていた。周りに人家もなく、不気味な暗さ。山門の先に、苔むした石段が続く。山姥(やまんば)が出てきそう。

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石段を登った先に本堂と庫裏らしき古い建物があった。一瞬この寺は無住ではないかと思った。しかし、すぐに、ワンワンと犬の鳴き声。ああ、人がいる、ほっとした。

外から声をかけると、なんと、背の高い外人の尼さんが出てきた。オッ、外人さんの山姥かと身を構えた。恐る恐る、古河力作さんのお墓はどこでしょうと訪ねた。すると、ニコニコしながら、たどたどしい日本語で、この奥ですよと、丁寧に教えてくれた。

墓はさらに谷の奥であった。バケツに水をもらい、奥に歩いていったが、墓がわからない。キョロキョロしていると、外人さんは追っかけてきてくれた。

古河家の墓所はまわりとくらべても広く、正面に花筒の対の石塔があり、正方形に18基の墓石がぐるり並ぶ立派なものであった。本などで紹介されている力作の墓石の写真はポツンと一つだけなので、寂しい、気の毒だ、と思っていてので、予想外であった。18基の墓石が並んでいるということは、たしかに先祖は地域でのそれなりの力のあった家だったことがわかる。

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その中の一つ、力作の墓石は、父と連記されたものだった。父の名は「慎一」で、戒名の「慎」の字が大きいが、力作の「力」は小さい。その理由はあきらか。

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しかし、実は、この下に力作の骨は入っていない。処刑、火葬されたあとの力作の遺骨は、当時、東京にいた父が引き取り、刑場の近く、東京市ヶ谷にあった同じ曹洞宗の道林寺という寺に埋葬したというが、すぐに道林寺は郊外に移転をしたので、そのさいのゴタゴタで力作の骨がどうなったのかは謎のままなのである。

その後、大正5年、父も亡くなり、ふるさとの妙徳寺に墓をつくった。父の墓石に力作の戒名も一緒に刻んだということのようだ。だから、この墓には力作の骨はなく、霊だけが入っているということになる。

力作の遺書には、自分は墓はいらない、法事もいらない、そんな金があればおいしい菓子を食べてほしいと書いていたので、本人としては墓はどうでもよかったのだろうが。私は2基の花筒に黄色の菊花を挿し、手をあわせた。

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ドイツ人の尼さんの名前はテンシンさん、ここに来て17年になるという。寺の古坂龍宏住職(その日は外出)が以前ドイツに曹洞宗の分院(寺)を建てたさいの縁で日本に来たという。

そんな話をしていると、もう一人の若い男の僧、眞吉さんが帰ってきた。東京から修行に来ているという。たしかに、ここは修行にぴったりの道場で、実際650年前、曹洞宗の道場としてつくられたという。いまも電気はあるが、水道もガスもない。境内の隅に野菜畑があるだけだ。

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檀家は20軒にすぎないという。それもいま地元にいる家は少ないとか。それにしては、墓地には草の1本も生えておらず、掃除、手入れが完璧に行き届いていることがわかった。ただ、あるのは緑の濃い苔だけである。苔は草ではない。山全体が苔に囲まれている。私はこれまでこんなにきれいな墓地を見たことがない。人間の俗世界を超越した異空間だ。

古河家の墓守りはずっといないという。力作が捕まった時、「逆徒」「極悪人」にされてしまった一族は、一夜にして村から姿を消したと聞いているという。

山師になった力作の父は失敗を重ね、家族はばらばらに。力作は小学校を出ると親戚を頼って神戸に出た。その口利きで西洋花屋つとめた。神戸には外人居留地があった。

その後、神戸の花屋が閉店することになったので、19歳の時、その紹介で、東京に出て、滝野川にあった花屋・康楽園につとめる。花屋といっても植物園、農園をもつ育苗業者。花好きに犯罪者はいない。

力作は家族がバラバラになった境遇や、自らの身体的なコンプレックスなどで、差別や社会の貧困に敏感であった。社会主義や無政府主義に関心をもつようになる。愛人社という主義者のグループに入る。幸徳秋水も自ら訪ねている。そして、27歳の時、管野須賀子、宮下太吉、新村忠雄の3人の爆弾謀議にさそわれるハメになる。しかし、力作は最後まで信州の宮下太吉には会ったことがなかった。

大逆事件で処刑をされた12人、さらに無期懲役に減刑された12人を加えた24人の中で見ても、私にとって古河力作はもっとも異様で不可解、謎の人物である。顔の輪郭がもうろうとしている。小人であったせいもあるだろう。

記録によれば、力作は小人のような体なのに、いやそれゆえだろう、豪胆というか、大言壮語の癖があったという。処刑の直前も、腹が減ってはいい死に方ができない、そこの饅頭をくれと言って、うまそうに食ってから、堂々と絞首台の階段を登ったそうだ。

大逆事件の犠牲者は、だいたい高知、和歌山、熊本とか、大阪、神戸など、出身や活動歴からみてグループ分けられる。しかし、力作はポツンと一人、若狭である。また、僧侶でもない。

そのせいもあるだろうが、力作の研究は少ない。あるのは、同じ若狭出身の作家、水上勉が「古河力作の生涯」を書いているくらいである。

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この本は今回の訪問後、読んでみたが、小説かと思ったら、そうではない。論考であった。力作を軸に大逆事件をまとめたもので、水上版大逆事件論だが、作家なら作家らしく創作をまじえてもいいから、水上なりの力作像を浮き上がらせてほしかった。事件の論考なら、専門研究者の本がいくらでもある。しかも、それらからの引用が多いのが気になった。それでも、ほかに力作に焦点をあてた研究がないので、参考になったことには間違いがない、が。

残念ながら、現在、若狭地方や福井県でみても、力作の名誉回復や顕彰をめざす団体も人もいない。この点、せっかくいま大逆事件サミットが5回を重ね、全国的な運動の輪が広がっているのに、ポツンと取り残されている力作がかわいそうだ。それこそ、神戸で大逆事件サミットが5月、開かれたというのに、神戸にいたことがあった力作の話は一つも出なかった。

しかし、深山幽谷、力作の霊は力作の生きざまにふさわしいところに眠っていると思う。俗世間を超越した空間。秋水を始め、他の事件の犠牲者のだれよりも居心地がいいことだろう。

私らのように力作の墓を訪ねてくる人は年に10人もいないという。しかし、力作にとってはそんなことは、どうでもいいこと。力作さん、よかったね、いいところに眠っているね。

妙徳寺のテンシンさんと眞吉さんに、幸徳秋水のパンフと通信を読んでほしいと渡し、時間も夕方6時に近く、薄暗くなりかけたので、辞した。生まれて4か月くらい、保護犬だったというスズちゃんが、ワンワンと別れを惜しんでくれた。力作の声だったのかもしれない。

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 奥四万十とはどこ

NHKBS番組「ゆったり温泉ひとり旅」で「奥四万十温泉郷」なるものが登場し、須崎市の桑田山温泉、中土佐町の黒潮本陣、四万十町(旧窪川町)の松葉川温泉が紹介されていた。

最近、高幡地域の観光キャンペーンなどで使われ始めた「奥四万十」なる「新語」には違和感満載である。

三か所のうち桑田山と黒潮本陣のある久礼は四万十川流域ではなく、しかも海のそばなので「奥」ではない。

四万十川と言えば川であることははっきりしているが、四万十を地名として使うとなるとその場所の特定はむずかしい。

事の始まりは行政の都合による市町村合併で四万十市と四万十町ができたことであり、いまだに県外からの観光客などに混乱を与え続けている。

四万十川が急にメジャーな存在になった1980年代以降、「四万十」がいたるところ氾濫しているが、その対象は最大広くみても四万十川流域に限られるべきであろう。

また、四万十川流域には「温泉郷」と名乗るほど温泉は多くはない。そんなものをこじつけなくとも、四万十川の魅力はゆったりとした自然の流れだけで十分であり、そこにこそ価値があることに自信をもちたいものである。


高知新聞「声ひろば」に投稿
掲載されませんでした。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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