FC2ブログ

四万十川メガソーラー計画用地の背景(1)

また四万十川メガソーラー計画が表に出た。3回目だが、場所は同じ。過去2回はずさんな計画だったため、さすがの行政(四万十市)も「四万十川条例」を盾に許可を出さなかった。

しかし、今回業者は作戦を変えてきた。水面下で、事前に行政側とすり合わせ。今回計画案は、両者による合作のようなもので、これでいけると踏んだところで行政が公表、「条例をクリアーするのなら認めざるをえない」と前向きである。

市の説明では、今回は認めてやりたいと言う本音がアリアリ。舞台裏を見れば、この配慮は計画用地の地権者(地主)への配慮であることは明らか。

今回計画の詳細と、その問題点については、次回(2)以降で書くことにするが、本問題の核心ある当該用地にかかる過去からの経緯について、説明をしたい。

計画用地は四万十市三里の島の宮地区。四万十川河口から約18キロ地点で、最下流の佐田沈下橋と三里沈下橋の間。川が左に大きく蛇行し、右岸に大きな河原を形成している。

70294694_2742814089086270_5277194559607013376_n.jpg   70859944_2744441182256894_6629419121027055616_n.jpg

島の宮地区住民は現在5戸だけだが、過去多い時でも15戸ほどの小さい集落である。元来、半農半漁(川漁)で暮らしてきた。目の前にある河原では、アユの地引網漁も行なわれたぐらい、アユや鯉がよくとれた。(尾﨑正直・現高知県知事の祖父母=加用家もかつてあり、母はここで生まれた。)

70436019_2742813932419619_8681828548329078784_n.jpg  70579657_2742813989086280_3803358407222624256_n.jpg   70310434_2744441572256855_8366239393710604288_n.jpg

今回計画の8.3ヘクタールの用地は、大部分は畑として利用されてきたが、石や砂が多いことからイモや麦ぐらいしか作れなかった。

そこに目を付けたのが地元の土建会社豚座(いのこざ)建設。グループ子会社の中村生コンが昭和42年頃、協力者を通して「牧草地にしたい」と買収を進めた。地元民は、どうせ荒地だからと手放した。

売ってしまった後で、目的が川砂利採りであるとわかったが、どうしようもない。中村生コンは重機を投入、河原との縁には風情のある松林が広がっていたが、それもなぎ倒し、砂利を掘り尽くし、ダンプで運んだ。佐田沈下橋を通って。

住民は当初と話が違うことから、低くなった土地の高さを元に戻すよう要求。中村生コンは近くの山を削り、その土で埋め戻した。産業廃棄物も埋め込んだともいう。

この砂利採掘は豚座建設グループに大きな利益をもたらし、同グループが大きく成長するステップになった。

話はこれで終わらない。山の土を削ったら、岩盤が出てきた。このことが次の事業展開、砕石事業につながった。

70325379_2744441352256877_1743990016209584128_n.jpg   70503799_2744441492256863_8781955046431522816_n.jpg   70836686_2744441412256871_1490415533600800768_n.jpg
  
他社(計5社)と組んで幡多砕石協同組合をつくり、川の対岸(左岸)で本格的な砕石事業に乗り出した。現在、三里沈下橋のすぐ上で山を削り、岩を砕いている。川沿いの狭い県道をダンプがひっきりなしに通る。怖い目にあっている人は多いだろう。雨が降れば、採石場から泥の粒子が川に流れ込んでいる。

川砂利をとったあと埋め戻された広大な用地は、住民も希望し、一時親水公園をつくる計画もあった。しかし、頓挫。あとは放置された。

そのうち、昭和50年代後半から、四万十川は「最後の清流」として有名になった。いままで地元の人間しかいなかった川に続々と観光客が押し寄せて来た。観光屋形船が目の前を行き交う。カラフルなカヌーも。

70557978_2742814515752894_6969436464782245888_n.jpg   70486583_2742814139086265_541549037623443456_n.jpg


跡地はいつしか原野に戻り、四万十川の自然の中に溶け込んだ。しかし、地主としては、ありがたくない。そんな風景は一銭の金も生まない。この用地を利活用し、何かの事業に結び付けたい。

70396455_2744441665590179_5366375741577494528_n.jpg   70417690_2744441818923497_1157553034130096128_n.jpg
     
2011年、福島原発事故以降、太陽光発電が注目されるようになった。これならいける。発電業者に土地を貸せば、安定した地代が入ってくる。四万十川でカネになる3匹目の「どじょう」を狙った。

3年前から、計画を進めてきた。そして今回である。

豚座建設といえば、数ある市内地元土木建設会社の中でも最大規模。公共事業も数多く受注し、四万十市との関係も深い。市長との関係も深い。

今回の四万十川メガソーラー計画の問題の核心はここにある。(続く)

70337674_2742814025752943_3311045285542625280_n.jpg   71185703_2742813825752963_4961377501138911232_n.jpg   70811304_2744442548923424_1371833539552608256_n.jpg


小野道一(3)

3. 再び上京、不遇の晩年

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をやりながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。

戦後、岡崎輝が書いた「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」が、秋水の軟文学好きに対して堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱った。秋水の生活態度には厳しかったようだ。

明治二十四年、道一は日本新聞をやめ、金沢郵便局長になる。逓信大臣となった後藤象二郎の推薦によるものであった。前年娘の輝がジフテリアにかかり回復が遅れていたことから、単身での赴任となった。

しかし、道一はその年十一月腸チフスの大患に。妻英は娘二人(武良、輝)を連れてかけつけ、そのまま二年間金沢に残った。その後、東京に戻り、麻布市兵衛町の借家で再び秋水と同居。しかし、道一の体調は戻らず家で療養、家計は英が女子塾を開き支えた。

そして、輝「小野英子年譜」によれば、明治二十八年八月、道一は病気療生のため伊田の小野家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途次「急死」とある。

輝「従兄秋水の思出」では、「其年八月、私たちの父が極めて不遇の中に急死した」とある。いずれも死因など詳しい状況は書いておらず不自然である。

これについては、輝の孫の岡崎悦明氏(豊中市在住)によれば、道一は神戸摩耶山麓で縊死したのだという。神戸から高知行の船に乗るつもりだったのだろうが。

輝は晩年、豊中から摩耶山の方角を見ると涙が出ると言って悲しそうにしていたという。道一戸籍を確認してもらうと「明治廿八年九月廿五日 兵庫縣於死亡ス」と書かれていた。(九月は死亡確認日か)

自殺記事が当時の新聞に出ているかと調べたが、神戸の新聞には出ていなかった。高知の当時の新聞は戦災で焼け、残っていなかった。

伯父道一の自殺は秋水にとって衝撃であった。秋水は後の明治三十七年平民新聞に書いた「予は如何にして社會主義者となりし乎」の中で、その理由に自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家動衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は、これは道一の死のことであると書いている。

道一は当時「かっけ」にかかっていたという話が伝わっている。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、それだけが原因なのだろうか。ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不義、矛盾のようなものを見たのではなかったのか。 

私はそんな道一に対し、同じ事情で中村を出て東京にいた兄桑原戒平はなぜ手を差し伸べなかったのか、兄弟間で行き来がなかったのではないかと推測をし、そのことを本誌五号に書いた。しかし、その後桑原家に残る古い写真の中に家族同士の交流を示すものが出てきたことから安堵した。 

それでも道一を救えなかったのは、当時兄は小笠原島司として東京を離れていたというような事情もあったのではないかとも思ったりする。

道一の妻英は周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、故郷に帰ってきたことは本誌三号に書いた。

道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。

秋水は明治三十九年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。この話を上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二十二年八月、ハバロフスクで病死した(五十五歳)。その子孫はいま関東方面にいると聞く。
 
小野雲了以下一族の墓は羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(終り)


参考文献 文中紹介以外に、上岡正五郎著・小野俊作編『小野家一族之系譜』(私家本、昭和五十八年)


「文芸はた」6号
2019年7月発行

小野道一(2)

2.幡多郡長から県議会議長

幸徳秋水は明治四年生れだから当時八歳。神風連の乱の翌年、安岡良亮の遺族が中村に戻り、一歳下の良亮の次男秀夫らと遊ぶ中で東京からの新文化を吸収し、自由、民権思想が芽生えたとされている。  

それはそれで間違いではないと思うが、当時の中村は幕末勤王運動の流れを継ぐ保守勢力の牙城であった。一條神社建立(文久二年)や廃仏毀釈横行にそれが表れている。

こうした勢力は新政府のやり方に不満であり、西郷軍に呼応しようした。しかし、政府側に察知、懐柔され、妥協、服従。行余社という結社(藩校「行余館」に由来)をつくっていた。さらに類似の修道社もでき、両社は明治十五年合併し明道会となった。

明道会会長は長老の宮崎嘉道。下の幹部の名に桑原政馬、桑原平八、小野道一があるように、こうした勢力の中心に桑原一族がおり、道一もその一人であった。

廃藩置県後最初につくられた地方制度の区制(幡多三十三区)において中村の初代区長(戸長)は桑原義厚(道一の実父)であり、郡制に移行後の幡多郡長は初代桑原平八、二代桑原戒平、三代小野道一と、桑原が独占している。

この勢いに乗って、道一は県議会議員を四期十年(明治十三~二十三年)、第十代議長(同二十一~二十三年)も務めている。

この十年間が道一の「華の時代」であった。この頃、自由民権運動が興り、県議会でも民権派(自由党)と帝政派(国民党)が対立、抗争。道一は幡多だけではなく県を代表する帝政派領袖であり、いたるところで演説、講演などに登場。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

後藤象二郎が提唱した大同団結運動にも関与しているのは、安岡良亮の長男でいとこになる雄吉が同運動の幹部であったので、誘われたのではないかと思う。

この間、道一は谷干城(初代農商務大臣、のち貴族院議員)とは常に密着した関係にあり、高知県における連絡窓口の役割を果たしており、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。理由は、県からの借入金の返済ができなかったためである。

この問題には兄の桑原戒平が絡んでいる。戒平は政治家よりも実業家向きであった。幡多郡長を道一に譲ったあとは、同族などから資金を募り、同求社(事業会社組織)を立ち上げた。

本社は大阪、分社は高知と中村(事務所は幸徳家の俵屋)。土佐藩貨幣局等の事業の払い下げを受け、樟脳生産、運輸(大阪高知航路開発)、鉱山(田ノ口銅山)などに手を広げた。

道一もこの事業に協力したのだが、単に資金を提供しただけではなく、江川村(旧西土佐村)のアンチモニー鉱山開発は自らが主導している記録があるので、政治家をやりながら事業にも深くかかわっていたことがうかがえる。戒平とは一蓮托生であったようだ。(松岡司「高知県帝政派の研究」『青山文庫紀要』五~十三号所収)

道一はこれの事業のために「県有財産育児慈恵資金」を借りた。資金使途に問題はなかったが、事業が行き詰り、返済不能になったことから、議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

議長職は先に交代していたが、ついに明治二十三年十二月、議員も辞職した。(この間、長男新を病気で失う。)

続く

「文芸はた」6号
2019年7月発行

小野道一(1)

幸徳秋水にさまざまな影響を与えた親戚一族として、安岡、桑原に続き小野について書きたい。 


1.大学南校から中央官吏へ

小野は秋水母多治の実家である。小野家は士族格をもつ山路村庄屋であったが、多治の父雲了(亮輔)は三男であり中村に出て医師になっていた。雲了の妻は同じ小野の伊田(旧大方町)分家雲平の娘須武子(澄)であり、その姉の教は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚に嫁いでいた。

雲了、須武子の子は娘二人、多治と嘉弥であった。普通ならどちらかに婿をとるのであろうが、多治は商家幸徳に、妹の嘉弥は雲了の姉菊が嫁いでいた郷士安岡の次男良哲(長男は良亮)に出し、小野家養子として桑原義厚、教の次男道一を迎えた。道一の兄は本誌五号に書いた桑原戒平である。

道一は嘉永三年生(戒平の六歳下)。兄同様、安岡良亮に学問を、樋口真吉に剣術を学んだ。郷土史家上岡正五郎先生が書いた「中村市史」では、道一は明治初年、谷干城に従って上京、大学南校(東京帝大前身)で法律を学んだとある。干城、良亮、戒平は維新東征迅衝隊の幹部であったという関係が背景にあったと推測されるが、上京の詳しい経緯や時期等についてははっきりしない。道一はその後も生涯にわたり干城と深いかかわりをもつ。

安岡良亮は新政府入りのため明治二年一家で上京。道一も官に入り、明治三年、東京で良亮次女の英と結婚した。いとこ同士であった。(良亮の長女の芳も桑原戒平妻になっていた。桑原兄弟と安岡姉妹が結婚。)

道一、英の末の娘に岡崎輝がおり、英が昭和十二年大阪府豊中市の岡崎家で没したあと書いた「小野英子年譜」があるので、以下の道一の事績はこれに基づいている。

明治六年、道一は度會県(のち三重県)警察部長として赴任中、長男新が伊勢の官舎で生まれた。同時期、良亮は同県参事であり、小野新たに興るべしと命名。隣の官舎には尾崎行正夫妻(咢堂父母)がおり、新婚夫婦の世話をしてくれた。

その後、三潴県(福岡)警察部長を経て、明治九年、熊本県令の良亮が神風連の乱で斬られた時は鹿児島裁判所判事になっていた。

翌年、西南戦争で西郷軍に与し、上奏に加わったことで長崎に軟禁。その後解かれ、東京に戻り大審院に入った。

しかし、明治十二年、二十九才で官を辞し、中村に帰る。理由は養父雲了の老後をみるためと書かれているが、兄桑原戒平も西南戦争後熊本から帰っていたので、私は兄弟で申し合わせたものと推測する。(雲了は明治十七年没)

続く


「文芸はた」6号
2019年7月発行

辛抱治郎

先月のことになるが、7月30日、四万十市民大学で、キャスター・ニュース解説者、辛抱治郎「~情報の正しい判断~ 報道現場から」の講演があった。

同氏は、読売テレビ(大阪)のアナウンサー、キャスターであるが、関西だけでなく日本テレビネットワークを通して全国的にも有名なようで、私も珍しいその名前を知っていたので、どんな話をするのかと思って興味があり、聞きに行った。

早口でペラペラしゃべるので、少し聞きとりにくい面はあるが、逆にそれを売りにしているのだろう。笑いをとりながら(・・・これがミソ)、社会問題等につてもバシっと斬り込む(・・・ように聞こえる)。堅い話をわかりやすい(・・・ように)、巧みな話術で聴衆を引き付ける。

出た話題。

・やしきたかじん番組の裏話。二人の舌禍(失言)をチェックするために、収録してから編集する。東京局は発言に神経質、関西局は割とおおらか。

・世間を騒がした(笑わせた)失言の例。雪印社長、大阪吉兆の女将、伊勢赤福社長(良い対応例)。

・運転免許証返納制度はおかしい。警察の責任転嫁。持ち続けて、不安になれば、使わなければよいだけ。

・長生きのリスク、年金問題。若者が支えられなくなる。

・本庶佑(たすく)のノーベル賞を予言した。山中伸弥とも親しい。自慢話。

・神奈川県で怪奇的な殺人事件が多いのは、核家族が多いから。


これらの話題はたしかに聴いていておもしろい。間違ったことは言っていない。納得できる内容だ。

しかし、笑いをとることが大きな目的であるため、真剣さ、誠実さが伝わってこない。奥様向けのワイドショーか、漫談か、落語をきいている感じ。

そんな話ぶりでも、それだけならば、おもしろかった、で終わるのだが、危険と思ったのは問題発言、異常な発言が混ぜっこにされていたことだ。

例えば

・失言問題・・・「麻生太郎は失言がフリー」、「鳩山首相を<宇宙人>と言ったら、8ヶ月で首相を辞めてしまった」

・差別用語問題・・・○○は狂っていると言ったらカットされた。しかし、「時計が狂っている」という言い方はあるではないか、と笑いをとったのに続いて、「朝日は狂っている」「文在寅(ムンジェイン)は狂っている」「習近平は狂っている」と突然発した。

・テレビ番組企画で太平洋をヨットで進んでいるとき、クジラに衝突しヨットが沈んだ有名な事故にあったが、あれはクジラではなく、「中国の潜水艦だった」。また、自衛隊機に間一髪で救助されたことへの感謝をことさらに強調。


これらのフレーズは、笑いをとるために、冗談半分に発したように装いながら、実は、計画的、意図的なものであると思う。アジテーション(扇動)、プロパガンダだ。理由を説明しない、言いっ放し。質問は受け付けないと開会前に司会からクギをさされている。だから、不誠実、タチが悪い。

私が恐ろしくなったのは、こうした話題が会場から受けていたことだ。みな冗談だと思っているのだろうが、実はこれはヘイトのようなものであり、こうしたことが知らず知らずのうちに、世論を形成していく。本人はそれがわかっている。

実際、会場にはたくさんの人が来ていた。400人ぐらいか。最近の市民大学でこれだけ集まったことはない。しかも、いつもは見かけない若い人が多かった。みんな満足そうな顔をしていた。私は、恐ろしくなった。

某テレビ局を退職した私の学生時代の友人は、辛坊治郎のことを「クーラーの効いているスタジオで、誰かが書いた原稿用紙に唐辛子をかけて読むのを商売にしているような奴」と書いているのを、講演後見つけた。言いえて妙。

市民大学は学ぶためである。しかし、この内容は、偏った社会の見方の紹介であり、学ぶどころか弊害が多いと思う。しかも、本人も冒頭あいさつで言っていたように、13年前にも呼ばれており、2回目だ。なぜ、公平であるべき市教育委員会がこのような人選をしたのか疑う。

辛坊治郎は要注意人物である。

津賀ダム 日韓交流

津賀ダムは、四万十川支流梼原川にかかるダムで、アジア太平洋戦争下の昭和15~19年、朝鮮人強制連行や徴用工を使ってつくられた。場所は旧大正町(現四万十町)で、昨年9月、このブログで紹介した。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-461.html

ダム湖の上に、2009年6月14日、「津賀ダム平和祈念碑」が建てられた。幡多高校生ゼミナールに参加する、日韓の高校生たちの手によって。

68744012_2693452684022411_2553017724263464960_n.jpg   69071865_2693452920689054_8264713818601422848_n.jpg

祈念碑建立から10周年にあたり、8月4日、韓国の高校生も参加して同地で記念の集いがあった。私は、7月22日~26日、韓国を訪問してから帰ってきた直後であり、日韓交流の重要性を強く感じたことから、参加をした。

幡多高校生ゼミナールは、1983年、幡多地域の高校生たちが「足もとから平和と青春の生き方を見つめる」ことを目的につくった自主的サークルで、地域に埋もれた歴史を発掘してきた。

最初、高知県に多く存在した、アメリカのビキニ水爆実験による被災船の調査から始まり、1990年からは津賀ダム朝鮮人強制連行調査を行ってきた。

93年からは韓国ソウル、釜山等へ出向き、韓国高校生との交流をおこなっている。そのもようは、「ビキニの海は忘れない」に続くドキュメント映画第2作「渡川」に収録されている。

津賀ダムにどれだけの数の朝鮮人が連れて来られたかについては、昭和19年、大正町役場資料の中に、男子554人、家族を含めて666人という記録がある。彼らは「募集の名目のもと強制連行された」「石を担いで運んだり、トンネルの発破の作業を行うなど、きつい、汚い、危険な、仕事を主としていた」「現場の下流の両岸にある狭い仮住宅にぎゅうぎゅうづめの状態で生活」「逃亡する者も多く、監視が厳しかった」と書かれている。(「大正町史」、2006年刊)

ここで亡くなった人も多くいたようだが、その数は不明であり、下道集落の墓地の片隅に石を置いただけの墓が3つ確認されているだけ。その石の前で、家族らしき人が、アイゴー、アイゴーと、地に伏して泣いていたのを見たという証言がある。

今回の集いには、韓国釜山の高校生4人(同伴者も4人、計8人)を迎えた。2日前に到着し、宿毛市と四万十町で地元高校生たちと交流をおこなった。

平和祈念碑前での集会には、約70人が参加。挨拶は、実行委員長(山本氏)、四万十町長(メッセージ代読)、韓国民団高知支部代表、地元下道集落代表(中平氏)。アリランの笛演奏の中、全員が献花。

68815928_2693453034022376_4853433337924026368_n.jpg   68297631_2693453167355696_2818493612789071872_n.jpg

続いて、韓国高校生4人(全員女性)による現代版振付のアリランの歌と踊り。びっくりしたが、これがすばらしかった。

68647573_2693453227355690_8454523777919746048_n.jpg

韓国高校生代表による挨拶。最近の日韓情勢がおかしくなっているため、韓国では私たちの訪問を心配する人がいた。しかし、私たちは歴史を共有して平和を守る活動を継続していかなけれならない。津賀ダムは過去の傷痕を癒して、平和と共生の未来へと導く橋渡しとなっている。・・・驚くほどしっかりした言葉だ。

68674299_2693453330689013_7190868498774491136_n.jpg   幡多ゼミ 4

締めは、幡多ゼミOBで現四万十町議の村井真菜さんによる閉会あいさつ。これもすばらしかった。

今回は、日韓関係が最悪の状況下での集いであったので、どんな妨害が入るかもわからいという心配から、事前に警察にも連絡をしておいたそうだが、幸い何のトラブルもなく、集いは終わった。韓国高校生たちも、その日のうちに窪川駅から帰って行った。

68706458_2693453530688993_3224605963449270272_n.jpg

今年は、日本による朝鮮支配から韓国の人たちが立ち上がった3.1事件から100年であり、戦後、韓国解放からも74年たつ。

最近の日韓問題の発端は、徴用工への補償問題。まさに、津賀ダムのようなケースが問題になっているのだ。

日本側は1965年の日韓請求権協定で解決済みと主張いている。しかし、この協定は国と国レベルの内容であり、民間からの請求権までは否定しているものではないということを、日本政府も過去の国会答弁で認めている。

しかも、今回は韓国最高裁判所の決定である。日本も韓国も三権分立。行政は司法に介入できない。なのに、日本政府は韓国行政になんとかしろと追及。法の秩序を破れと言っているのだ。逆の立場で、日本の最高裁判所の決定に外国から異を唱えられていたら、日本政府はどうするだろうか。

日韓請求権協定にしても、当時の韓国は李承晩軍事独裁政権当時であり、真に国民を代表する政権ではなかった。

結局、日本政府は中途半端な形でしか、戦後処理をしこなかった、過去の朝鮮支配への心からの反省がないままである。そのツケが、いままた来ている。

両国の過去の歴史を共有し、真摯に向き合う。この姿勢がないと、同じ問題かこれから先も何度も繰り返されるだろう。

68824818_2693453420689004_8815988715177377792_n.jpg   幡多ゼミ5 高知新聞 津賀ダム交流


八束中学野球部

母校八束中学の野球部が休部になる。

同校のグランドは私の家の前。いつもネット越しに、練習する子供たちの元気な声が聞こえていた。時には、うるさいほどに。しかし、その声が明日からもう聞けなくなると思うと、さみしい。

生徒数の減少とともに野球部員も年々減り、今年は5人(全員3年生)。ここ2年、試合は三原中学と連合を組んでたたかってきた。

今年度の公式試合がきのうの県選手権大会で終わった。1回戦(羽根・吉良川連合)2回戦(旭)と勝ち進んだが、3回戦(西部)で負けてしまった。

私は、きのうが最後になるかもしれないということで、高知市営球場まで応援に出かけた。3点先制し、これはいけると思ったが、生憎の雨、ぬかるんできたマウンドで、大黒柱でエースの山本秀虎君がコントロールを乱し、最終的に3-16という6回コールド負けしてしまった。

2019081923441148a.jpg   20190819234411e50.jpg   

最後の試合にしては、残念無念な結果に終わった。良いグランドコンデションでやらせてやりたかった。悔いが残る。

スタンドには、選手父兄などがたくさん応援に来ていた。毎年、この大会が3年生にとっては最後になるのだが、今年は八束中学にとっも、野球部最後の試合になってしまった。

201908192344103d5.jpg

現在1,2年生の部員はいない。学校そのものも2年後には中村西中に統合されることが決まっている。休部はやむをえないのだ。

私は昭和43年卒業。そのころは、ソフトボール部はあったが、野球部はなかった。周辺中学もソフトボールが中心であった。(私は軟式テニス部だった。)

ソフトから野球部に転換したのは、はっきりきいていないが、おそらく昭和50年前後だと思う。以来、小さい学校ながら、八束と言えば野球と言われるくらいに強くなり、卒業生には中村高校、高知高校、明徳義塾高校から甲子園に出た選手もいる(中村高校がセンバツ準優勝した時の4番バッター植木謙造君など)

八束中学が主催をして、大文字野球大会を毎年春開き、幡多郡内各校を集めていた。私もたびたび観戦した。

しかし、子どもの数が減るのは、どうしようもない。最近は中学だけでなく、高校でも連合チームが多くなってきた。

八束中学は、ここ2年間は部員5人。それでも黙々と練習をしていた。9人揃わないで練習するのは、モチベーションを維持するのは大変だったと思う。指導の先生も同じだ。

68555875_2688743694493310_8070403369212051456_n.jpg   20190819234836b85.jpg

それでも今年の連合チームは結構強く、春の幡多郡大会で優勝。県大会でも3回戦まで進んだのだから、大したものだ。

特に山本―川添のバッテリーは、八束スポーツ少年団時代からのコンビであり、将来有望だ。ぜひとも、二人で中村高校に進んで、甲子園をめざしてほしい。

約40年の八束中学野球部の歴史の最後のページにしっかりと名を刻んでくれた5人にお礼を言いたい。写真はきのうの試合終了後、高知市営球場で。ピース。

20190819234357cf0.jpg   68544218_2688743507826662_3126529204129103872_n.jpg




文子を追っかけ韓国日記(5)

5日目、帰国後まとめ

最終日7月26日は8:25発高松行きなので、帰るだけ。まだ薄暗い5時半タクシーでホテルを出た。仁川空港まで、高速を使い1時間で料金は5900円だから、やっぱり安い。

来るときとは違い、あとは学習効果でスムーズ。10:05高松着。あっけない。外国から帰ってきたというような感じがしない。

これで旅は終わったので、まとめ、感想を書いておきたい。

大変中身の濃い充実した旅になった。ひとえに、金昌徳さんをはじめ韓国、国民文化研究所のみなさんの温かい心のこもった受け入れ体制のおかげである。東京の亀田博さんにも大変お世話になった。

最初にも書いたように、この旅が実現したのは、幸徳秋水と金子文子の導きによる。韓国独立3.1事件から100年の年、日韓関係が悪化の状態の渦中というのも、運命的なものを感じた。

秋水らが逮捕された大逆事件と同じ年(1910年)、日本は韓国を併合。それから100年以上たつというのに、日本政府は植民地支配への、心からの反省がいまだできていない、中途半端な形でしか、戦後処理をしこなかった、そのツケがいま来ている。

今回のことの発端は、徴用工への補償問題。日本側は1965年の日韓請求権協定で解決済みと主張している。しかし、この協定は国と国の締結であり、被害者個人からの請求権までは否定しているものではないということを、日本政府も過去の国会答弁で認めている。

しかも、今回は韓国最高裁判所の決定である。日本も韓国も三権分立。行政は司法に介入できない。なのに、日本政府は韓国行政になんとかしろと追及。法の秩序を破れと言っているのだ。逆の立場で、日本の最高裁判所の決定に外国から異を唱えられたら、日本政府はどうするだろうか。

こんな情勢下、初めての韓国訪問であったから、韓国の反日ムードも高まっているだろうと心配していた。

ところが、まったくそうではなかった。これは日本の報道の仕方に問題がある。もちろん一部には反日の人たちもいるだろうが、日本ではそうした部分だけを、さも国民全体がそうであるかのように、過剰に報道している。それによって反韓、嫌韓をあおる。日本政府がそれを望んでいるからである。対外的な危機をあおれば、国民は結束するから当該政権に有利に働く。

恥ずかしながら、私は最近まで、金子文子の墓が韓国にあり、毎年追悼式を韓国の人たちがおこなってくれていることを知らなかった。

今回、追悼式に初めて参加をして、私は韓国の人たちのこころの広さ、懐の深さを痛感した。日本人の文子を顕彰し、朴烈義士記念館の1Fフロアーいっぱいに詳しい展示をしてくれている。その詳細さは、朴烈以上であった。

今回、私らはソウルからチャーターバスに乗り、聞慶市での追悼式に参加してホテルに泊まり、翌日も同じバスで文子が暮らしていた芙江にも連れていってもらった。これらの費用はすべて韓国側持ちであり、私ら日本人10人は招待された形になっていた。

文子追悼式関連のイベントについては、国からの補助金が出ており、おみやげ(記念タオル、文子をデザインしたマグカップ、メモ帳)まで、持たせてもたった。

20190805150637149.jpg

2日目、芙江での歓迎式費用は、地元の一人の実業家がいっさいを出してくれていると聞いた。歓迎するとなれば、まるごと。それが韓国流なのだと同行の日本人から聞かされた。

聞慶は朴烈の生地ではあるが、文子は住んだことがない。しかし、芙江には7年間住んでいた。

文子は手記に書いているように、芙江では日本人が地元民を虐待し、差別してきたのをみている。普通に考えれば、いまも芙江に人たちは日本人がにくいはず、少なくとも良い思いはもっていないはずである。

なのに、われわれを歓迎してくれる。文子が暮らした足跡をいまも調べ続け、詳しく案内してくれる。芙江では、これまで地元出身の有名人がいないこともあり、文子をまちのシンボル、英雄として、広く知ってもらおうと力を入れているのだと聞いたが、日本ではありえないことだろう。

このことは、安重根義士記念館、西大門刑務所跡の展示を見ても感じた。日帝支配の歴史を忘れてならないと、生々しい展示に徹底している。学校でもこのことを教えているという。

なのに、われわれに対しては極めて友好的である。それは今回受け入れてくださった方々ばかりでなく、ホテルの人、レストランの人、おみやげ店の人、みなそのように思う。反日の人はいったいどこにいるの?

韓国人は国家として、日帝を憎んでいる。しかし、その場合の日帝とは為政者のことであり、日本国民一般ではない。そこをきちんと分けて考えている。なんと、心が広いことだろう。

逆の立場の日本人では、ありえないこと。日本が戦後アメリカに7年間軍事占領されていたこと(サンフランシスコ条約締結まで)とは、問題の深さが異なる。

日本は島国であった。しかし、韓国は、過去の歴史においても、周りの大国(中国)から干渉を受け続けた試練、苦難の歴史があり、いまも南北に分断されている。民族としての鍛えられ方が日本とは違うのだ。大人の対応だ。

私は韓国の人たち=反日、というイメージをずっともってきた。私には、過去の日本が与えた強制、迫害、差別への負い目がある。その裏返しと自己分析している。

しかし、今回の旅で、韓国の人たちの本当の心が幾分なりともわかったような気がする。だから、いま日本政府が仕掛けている対立の構図が許せない。

両国の歴史をきちんと学び、知り、真摯に向きあう。これが大事だと思う。知らないことは怖しい。

韓国の人たちは言っていた。いま、両国は対立しているが、私らの友好は深いし永遠であると。その通りだと思う。

いまの対立を早く克服できるよう、私も今回教えてもらった韓国の人たちに思いを、ひろく日本人に伝えていく努力をしたい。(終り)

201908051506561b5.jpg
国民文化研究所 李鉉盆副会長


文子を追っかけ韓国日記(4)

4日目

金子文子関係のイベントは2日間で終わったので、この日はフリー。翌日の帰国は早朝便なので、残りは実質この日だけ。

私はかねてより、韓国に行くのならば、戦前、日本が支配した痕跡を訪ねたいと思っていた。韓国では、その時代の日本のことを日帝(日本帝国主義)と呼ぶ。

亀田さんと金昌徳さんが案内してくれるというので、最初に安重根義士記念館をお願いした。安重根(アン・ジュン・グン)は1909年10月、満州ハルピン駅頭で伊藤博文をピストルで銃殺した、韓国にとっての英雄である。だから「義士」とされている。(数年前、日本の菅官房長官は彼のことをテロリストと呼んだことは記憶にあたらしい。)

朝9:30、金さんがマイカーでホテルに迎えに来てくれた。記念館はソウルのシンボル南山タワーがある南山公園(丘)の一角にあり、20分で着いた。南山にはかつて日帝がつくった朝鮮神社もあった。

記念館入口には巨大な安重根の像がそびえている。安の書を刻んだ石もあちこちにある。館は2010年立て替えられ、4つの箱がつながったモダンな構造。

20190802131108cce.jpg   67222851_2642712869096393_4288673468104310784_n.jpg

入場無料に驚く。多くの国民が来やすいように。国の位置づけ。入口ホールにも白く大きな像。バックには、同志12人が指を切った血でかいた「大韓独立」の文字。

67110508_2642712925763054_4989627511089397760_n.jpg

安は名門の家に生まれた。教育家で軍人。抗日義兵闘争に参加。その生い立ちから、伊藤銃撃、裁判、31歳で死刑(殉国)にいたる過程が、写真、パネル、人形等で詳細に展示されている。

20190802131032258.jpg   201908021344268d1.jpg

一番衝撃的なのは、伊藤を銃殺する場面が再現されているところ。リアルである。

67411909_2642713875762959_1252998571930681344_n.jpg

幸徳秋水は安の「義挙」を讃える漢詩をつくり、安の絵葉書に書き添えた。絵葉書はサンフランシスコの日本人アナキスト(南繁樹ら)がつくったもの。秋水は最後に湯河原で拘束されたさい、カバンの中に、この絵葉書をもっていた。この漢詩を紹介した当時の韓国新聞(2010年)が展示されていた。

67111631_2642714022429611_1916289084624470016_n.jpg

この記念館に来たかったのは、こうした秋水とのつながりがあるからでもある。
秋水の思想は、その後、韓国独立運動家に影響を与えた。朴烈や金子文子にもつながっている。

高校生たちが課外研究で来ていた。私らが日本人であることに興味をもったらしく、なぜここに来たのかと聞かれた。安と秋水との関係を教えてやった。礼儀正しい高校生に感心した。

安は獄中でたくさんの書を残した。秋水が絶筆漢詩を遺したのと同じだ。また、自伝や「東洋平和論」も書いている。これも秋水に似ている。

旅順で行われた安の裁判には高知県人が多くかかわった。検事の溝渕孝雄、弁護士の水野吉太郎など。そうした関係から安の遺墨が高知県に残されていた。いまはこの記念館に寄贈されているときいている。秋水を含め、高知県とのつながりの重さを感ずる。そのあたりのことに詳しい学芸員は不在であった。

次に、西大門(ソデムン)刑務所跡に連れていってもらう。こちらは亀田さんの推薦。途中、車中からソウル駅の旧建物を見る。東京駅にそっくりであり、日帝建造とわかる。

201908031112564aa.jpg

西大門刑務所は、1908年、日帝がつくった監獄。有料だが、65歳以上は無料。

67390835_2643335469034133_8403421252009590784_n.jpg

安重根は死して英雄になったので、まだ見やすいが、こちらのほうは日本人が見るには心がいたむ。一般囚人も入れられていたが、展示は、日本に弾圧迫害された韓国独立運動家たちのことが中心になっている。

67367462_2643335845700762_8555796353685389312_n.jpg  67411411_2643335762367437_4921148548227006464_n.jpg
201908031113447b9.jpg  67380996_2643336112367402_3621615109450760192_n.jpg  

拷問が行われた部屋、処刑室(ギロチン)、犠牲者の生の写真、女性も多い。亀田さんによれば、政権が変わるごとに微妙に展示が変わるそうだが、もらったパンフにもあるように「韓民族の受難と苦痛を象徴した」、忘れてはいけない歴史として位置付けていることは不変であろう。

日本でいえば、広島の原爆資料館が同じような役割をもっているのだろうが、こちらのほうが、より陰湿であり、苦しい。

この建物は多くの映画やテレビでもロケに使われる。「金子文子と朴烈」の映画にも登場していた。朴烈の仲間が釈放されるシーンで。

このあと仁寺洞(インサドン)入り口で車を降ろしてもらい、金さんとお別れ。仁寺洞は東京の原宿のような通りで、いろんな店があり観光客に人気があるところとか。ここでお茶と軽い食事をする。土産物を買う。

20190801234006b38.jpg

少女像(慰安婦像)は歩いてすぐ。斜め前が日本大使館。小雨が降ってきたので、少女はレインコートを着ていた。観光客らしきは私らだけで、みんな何も気にせずスイスイ通っていく。一般の韓国人にとっては日常風景なのだろう。

像の隣にテントが張ってあり、中に人がいるようだ。像を守っているのだそうだ。像には影も描かれていた。影のほうがインパクトがある。少女が生きているからだ。

67158492_2643366255697721_2437284332914606080_n.jpg   67116821_2643366189031061_9199357311334744064_n.jpg

大きな通りを渡り、景福宮へ。京都の御所、東京の皇居と同じ。中に国立古宮博物館がある。

庭が広い。その中に、韓国伝統衣装をまとった女性が多い。みなレンタルだという。京都でもレンタルの着物を着てブラブラ歩いている若い女性をみかけるが、同じだ。

201908021344165a5.jpg

博物館は無料。朝鮮王朝時代の展示が中心。日本は中国、朝鮮から文化が入ってきていることから、日本で見るものと、そんなに差はない。しかし、重厚、荘厳ではるかに深みがある。

雨が降ってきた。正面の大通りを歩く。世宗大王、李舜臣将軍(秀吉軍を撃退)の像は迫力がある。王宮を背景に、こんな見事なレイアウトの像は日本にはない。

67140678_2354618151486306_4961814642910298112_n.jpg   67842589_638792646604266_5906808658934628352_n.jpg

仁寺洞に戻り、夕食をとってから、ホテルにタクシーで戻った。(続く)

秋水、文子で日韓交流

7月23日、韓国聞慶市(ムンギョン)で開かれた金子文子追悼式に参加してきた。

きっかけは今年5月、韓国独立運動、アナキズム研究者の金昌徳(キムチャンドク)さんが幸徳秋水を訪ねて四万十市中村に見えたこと。秋水の自由平等思想は韓国独立運動家に影響を与えたという。

在日朝鮮人だった朴烈(パクヨル)とその妻文子は関東大震災の年、東京で弾圧逮捕され、大逆罪で死刑判決を受けた(無期懲役に減刑)。6月、四万十市と高知市で自主上映した韓国映画「金子文子と朴烈」で描かれた通りである。

文子の墓は朴烈の生地聞慶にあり、韓国独立のために闘った日本人として顕彰され、毎年命日、墓前で追悼式が開かれている。昨年、文子は韓国政府から独立有功叙勲も受けた。墓は朴烈義士記念館の敷地内にあり、2人の詳細な展示の中に秋水も紹介されていた。

いま日韓が対立しているように見えるが、それは為政者レベルでのことであり、しかも過剰に報道されている。

今回肌で感じたのは、韓国国民一般は日本に対して友好的であること。過去の歴史に関しても、為政者と国民を分けて考える冷静さと懐の深さをもっている。追悼式、交流会でも大変な歓迎を受けた。

韓国はかけがえのない隣国。日本国民としても冷静対応で、今後も継続的に友好交流を一層深めていくことが大切だと思う。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2019.8.2
高知新聞 日韓交流 2019.8.2

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR