清馬と秋水

 1月15日は、坂本清馬の42回目の命日であった。この日にあわせ、幸徳秋水を顕彰する会では、正福寺にある清馬墓に説明板を設置した。

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 坂本清馬(1885~1975)

「 父は中村の人で室戸生まれ。海南中、高知二中を中退し上京。秋水の思想に共鳴し、たびたび同居。大逆事件に連座し、1911年死刑判決を受けるが、無期懲役に減刑。1934年出獄。戦後は中村に住み、事件最後の生き残りとして、1961年森近運平妹栄子とともに再審請求の訴を起こすも棄却された。  幸徳秋水を顕彰する会 」

 清馬墓は幸徳秋水墓と同じ並びにあり、向かって右に5つ目。2人は同じ大逆事件の犠牲者でありながら、秋水には大きな説明板が立っているが、清馬のものはこれまでなかった。このため、全国から秋水の墓を訪れる人は多いが、すぐそばに清馬の墓があることを知る人は少なかった。

 清馬が再審請求裁判を起こしたことで、事件が風化し闇に葬られてしまうのを防いだ。このことの意義は極めて大きいにもかかわらず、地元でも清馬は秋水の陰に隠れていた。

2年前、清馬没後40年にあわせて、その年の秋水墓前祭は初めて清馬との合同祭とした。今後も5年に一度を目安に合同祭にすることにしている。

今回は、墓案内板だけでなく、墓地入口に建てている誘導板2枚も二人の連名に変えた。やっと師の秋水と対等の扱いになったことで、清馬はどう思っているだろうか。清馬は秋水の門人と自称していただけに、敷居が高いと思っているかもしれない。

しかし、そんなことはない。あなたは、秋水と同等の扱いを受けて当然である、胸を張って師と並んでほしいと、言ってやりたい。

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さて、いよいよ恒例の秋水墓前祭が近づいた。今年で刑死106年になる。

1月19日には、秋水および一族、祖先の墓石を高圧洗浄機で水洗いした。長年積もった苔などの汚れがきれいにとれた。これだけの墓掃除はおそらく初めてではないだろうか。

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今回は、秋水墓手前の山際に並んでいる江戸時代の俵屋関係の墓も洗浄した。幸徳家は江戸中期、大阪からやってきて、中村に以前からあった俵屋(薬種商)を継ぎ、代々俵屋嘉平次を名乗った。秋水は5代目嘉平次になる。ほとんど知られていないが、この墓石の一群も秋水の祖先である。

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墓前祭は1月24日午後0時半から正福寺で。
引き続き、午後2時から記念講演会「田岡嶺雲と幸徳秋水」(講師 別役佳代 土佐史談話会会員)も市立文化センター大会議室で開かれる。
多くの方のご参加をお待ちしています。

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兼松林檎郎(高知新聞投稿)

高知新聞「声ひろば」投稿(2017.1.15)

 兼松林檎郎

 昭和南海地震で全国最多の犠牲者を出した中村では、南海地震を語る場合、先輩たちから必ずこの人の名前が出る。
 兼松林檎郎は戦後間もないころの青年団運動のリーダーであった。昭和20年8月の敗戦の翌9月、早くも中村町青年団を結成し、団長に。21年、幡多郡連合青年団、22年、高知県連合青年団へと組織を広げ、それぞれ団長に就いた。
 彼が常に訴えたのは「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」。
 その活動のシンボルが地震被災からの復旧支援活動であった。震災直後、道路寸断の中、高知市から海路下田に着いた救援物資は地元青年団が人海戦術で町中に運び込んだ。幡多郡下青年団もこぞって中村に救援隊を派遣した。
 被災した子どもたちのために、自分たちの手で保育園を立ち上げ、無償で自主運営。いまの市立愛育園の前身だ。
 さらに、高校に行けない勤労青年のために「幡多郡連合青年団立幡多公民高等学院」をつくり、合宿所も併設した。
 青年たちの力が希望の光となり、瞬く間に中村の町は復興した。
 しかし、戦時中から結核にかかっていた彼の命は、昭和29年、36歳で燃え尽きた。だから、いまでも伝説的に語り継がれるのであろう。
 いつの時代も青年が動けば社会が動く。いまの青年にも奮起を期待したい。

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   兼松林檎郎墓






安岡良亮 一族の墓(4)

 墓の説明は以上で終わり、以下は、まとめとしたい。

私がいま安岡良亮について調べているのは、地元が生んだこの人物を広く知ってほしいためである。特に地元の人たちには。そのためには、自分自身がよく知らなければならない。

要するに、安岡良亮はどんな人物だったのか。

安岡良亮は、文政8年(1825)~明治9年(1876)、日本近代の幕開けとなる幕末維新期51年を生き、その後の時代の行方を決める象徴的な事件にかかわり、また人物に影響を与えた。

事件とは二つ。
① 倒幕運動に参加し、旧勢力のシンボルでもある新選組近藤勇を斬首に処した(命じた)こと。
② 熊本神風連の乱では、逆に旧勢力(不平士族)により斬り殺されたこと。

近藤斬首については説明はいらないと思う。神風連の乱については、明治9年、良亮はこの事件の犠牲になったが、神風連は制圧された。

乱後、政府は熊本に谷干城を派遣し、防備を強化した。もし、地元勢力である神風連が温存されていたら、翌年、西南戦争において、西郷軍に合流したであろうし、熊本城(鎮台)は落城していたであろう。そうなれば、全国の反政府勢力が勢いを増し、明治政府は瓦解していたであろう。

谷干城は同じ土佐人で近藤勇斬首をともに命じた盟友であった。谷は英雄となり、帝国憲法発布後の初代伊藤博文内閣で農商大臣、のち貴族院議員になった。しかし、良亮はその捨て石になった。

次に、影響を与えた人物とは、幸徳秋水と尾﨑咢堂(行雄)である。

秋水の母は良亮の従弟(いとこ)であったが、秋水が明治4年に生まれた時は、良亮は東京に出ていたので、二人は直接交わることはなかった。

しかし、先に書いたように、良亮が死んだことにより、家族は中村に帰ってきた。長男雄吉だけは、慶應義塾に入っていたので、東京に残った。雄吉は弟秀夫たちに、田舎にはない、珍しい絵本や雑誌を送って来た。「絵入自由新聞」「団々珍聞」などである。

秋水は安岡の家に入りびたりだったので、これらの本を読んで、触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくった。また、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりつくり、町を歩いたりした。こうしたことは、秀夫の回想記「雲のかげ」に書いてある。

仮に、良亮が生きていれば、身内を引き立てていたであろうから、秋水は違った道を歩んだのではないか。

良亮の死が、のちの社会主義者秋水を生んだといえる。

一方、「憲政の神様」尾崎咢堂は、良亮から直接の薫陶を受けている。

戊辰戦争において、土佐の東征軍、板垣退助率いる迅衝隊は甲府から江戸へと進軍するさい、地元からも兵士を募った。その中に八王子近くで合流した尾﨑行正(咢堂の父)がいた。

良亮隊(半隊長)に属した行正は、よほど良亮に魅かれたのであろう、維新後もずっと熊本まで、影のように従った。良亮を支える公務についたが、家僕同然であった。

安政6年(1859)生まれの咢堂が、父に連れられ、明治元年、東京に出たさいは、駿河台にあった良亮の屋敷に落ち着いた。咢堂は良亮から七書の講義などを受けている。以降、家族ぐるみで、高崎、伊勢、熊本にも従っている。

ただし、咢堂は途中、慶應義塾に入ったことから熊本にはついて行っていないが、学校休みの時、熊本に家族を訪ねたことを、「咢堂自伝」に書いている。

良亮死後も尾﨑一家(妻、弟2人)は中村についてきて、安岡家にしばらく同居し(戸籍では同居人)、明治14年、以前いた伊勢に移っている。咢堂は、明治23年から昭和27年まで、衆議院議員25回当選の最長記録をもっているが、その選挙区が三重県だったのは、こんな事情によるものである。

良亮の長男雄吉は咢堂の5歳上であり、先に慶應義塾に入っていた。おそらく、咢堂に慶應をすすめたのは良亮であろうと思われる。


安岡良亮は、勤王倒幕に参加し、近藤勇、神風連との運命的めぐり合わせなどをみると、こわもての、強者(つわもの)のようなイメージがある。

確かにその通りであろうが、それだけではない。人心を掌握する能力にもたけていた。

「咢堂自伝」によれば、良亮は明治政府に入り、最初は「弾正台大忠から集議員判官、民部少丞」などについていたが、大久保利通の命で、高崎県、度會(三重)県、白川(熊本)県のトップとして、派遣される。いずれも難治(治めるのがむずかしい)の県とされていたところであり、良亮の力量を買っての指名であったものと思われる。

高崎、度會では実績をあげ、熊本でも硬軟両様を駆使し、不平士族との融和を進めていたところであった。

しかし、最後は命を落とす。陽が当たる中央官僚に比べ、現場まわりの地方行政官の悲哀、無念を感じる。

良亮は、家庭でも家族想いの父であった。次女英(ふさ)が晩年「八拾年の思出」に書いている。英が子供のころ、母の具合が悪いときは、父はつきっきりで看病し、やさしく食事も与えていた。また、次男秀夫も、高崎時代、家族で伊香保温泉に行った思い出を、先の手記に書いている。

安岡良亮は、そのような奥深い人物であった。

繰り返しになるが、その一族も、多士済々であった。

だから、多くの人に知ってほしい。

(終)

安岡良亮 一族の墓(3)

 間崎、羽生山、2カ所の墓を訪ねたあとに、間崎の別のところにも安岡の名前が刻まれた墓石があるという情報が入ってきた。場所は間崎(地区)にある間崎家の墓所のそばで、安岡と間崎の名前が混在しているという。

間崎家といえば、その名前の如く、一條家時代から続く間崎(地区)の名門で、江戸期には大庄屋をつとめてきた家である。いま全国に散らばっている間崎姓のルーツは、ここの間崎家であると言われている。(初崎と実崎の間にあるから間崎という地名になった。)

幡多郡でも、下田、江ノ村、津野川、伊与喜などにも分家している。山内容堂に切腹を命じられた、かの土佐勤王党間崎滄浪は江ノ村の間崎出である。

すぐに、いまもある間崎家本家を訪ね、聞いてみると、確かにその通りだが、なぜ混在しているのか、うちで祀っていいものかわからないので、放置しているという。

ガソリンスタンド脇を入った、その場所に案内してもらうと、草、木、ツルに隠れていた。鎌で刈り払うと、2列に並んだ墓石の一群が出てきた。

数えると、なんと22基。内訳は、安岡7、間崎5、野波1、東1、識別不能8(戒名だけ)であった。

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それぞれ写真に撮り持ち帰った。安岡家系図、間崎家系図(ともに上岡正五郎文書)に目を通して、名前をチェックしてみると、間崎は特定できなかったが、安岡の名前の主はすべてわかった。

一番古い名前は、傳七真儀であった。傳七は、かの「忠臣 久左衛門久儀」の次男である。

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記録によれば、兄貞助良久が本家を継いだのに対し、傳七は間崎一族の家(津蔵渕庄屋=隣地区)にいったん養子に出た。しかし、橋上村(現宿毛市)庄屋に転じたさい、長男次平眞武に家督を譲り、本人は安岡姓に戻って橋上に移った。

しかし、隠居後、墓はもとの間崎(地区)につくった。橋上村庄屋職は次男久次衛門に継がせた。「宿毛市史」の庄屋一覧にその子孫たちの名前が載っている。

長男次平眞武以降の墓は、この間崎の墓の中にあるが、次男久次衛門以降の墓はないので、橋上村にあるものと思われる。宿毛歴史館に、場所を問い合わせている。

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疑問なのは、橋上村の次男久次衛門以降が安岡姓なのはわかるが、長男次平眞武以降は間崎姓であるはずなにの、墓名は安岡になっていることである。

間崎本家の墓群のそばに、安岡と間崎が混在した墓石があるのは、そんな複雑な事情のためではないか。現に、傳七、次平に続く名前は、間崎家系図の中にも載っている。(両家の系図に重複している)

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ところで、橋上村安岡家の流れ(祖=傳七真儀)に、安岡正篤(まさひろ、明治~昭和)がいる。著名な思想家、陽明学者であり、太平洋戦争終戦の天皇詔勅に筆を加えたことは、知る人ぞ知るところであろう。

安岡正篤は大阪の堀田家の出であるが、一高時代に、当時東京にいた安岡盛治の養子になり、東大帝大在学中、盛治の一人娘婦美と結婚している。

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盛治も養子(高知大西家より、妻光恵)であり、その父(養父)は安岡良純であった。良純は天保年間、橋上村生まれで、明治になってから高知県官吏を経て、東京に出て税務官吏を務めた。

東京では安岡雄吉(良亮長男)と親族交流があったようで、正篤の一高、東大時代の身元保証人には、雄吉がなっていた。

一部に、正篤は安岡雄吉家の養子であったと伝わっているが、これは誤りである。

安岡正篤と安岡良亮のそれぞれの流れを遡れば、正篤の8代前と良亮の6代前が「忠臣 久左衛門良儀」で一致する。そこで枝分れし、良亮、雄吉が中村本家筋、正篤が橋上分家筋ということになる。正篤の墓(安岡家墓)は東京染井霊園にある。

なお、「やさしい論語教室」などで、よくテレビ、ラジオなどに登場する安岡定子は正篤の孫娘である。

安岡良亮 一族の墓(2)

 羽生山の安岡家墓は、先に書いた安岡家子孫女性(良亮弟良哲のひ孫)に案内してもらった。羽生山は中村の町中にあり、市街地の目の前である。

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安岡(良哲)家を継ぐ直系男子(墓地管理者)は県外におられるが、永く帰ってこられていないということで、墓は草木に覆われていた。

持ってきた鎌で刈り払うと、中央に納骨堂と、そのまわりに並べられた古い墓石が現れた。納骨堂は昭和52年安岡隆一建立とあり、扉を開けて霊誌板を見せてもらった。

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家族の名前も含まれているが、当主を古い順に並べると、隼太(別名周蔵、弘化4年=1847没)、良輝(故五郎、明治5年没)、良哲(明治30年没)、友衛(大正10年没)、隆一(昭和62年没)、亮(平成19年没)となっていた。隼太~友衛は、写真の通り、隅に墓石も並べられていた。

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安岡家系図によれば、隼太は源蔵の子。源蔵(寛政7年没)の墓石は間崎にあるので、安岡家は隼太時代に中村に戻って来たものと思われる。

子孫女性が言うには、母(友衛娘)から聞いた話によれば、間崎にいたころ、四国遍路に一夜の宿を貸したさい、お礼にということで、「虎胆丸」(体毒下し)なる薬の作り方を教えてくれた。以降、その薬づくりを家業として、中村に戻って来た。確かに、先に紹介した「安岡家覚書」にも、貞助のころの話として、そんな記述がある。中村では名の通った薬になったという。

安岡家は間崎時代、農業を営みながらも「郷士」として認められていた。中村に戻ってきた場所は土居=武家屋敷の一角、いま旧邸跡碑が建っているところ(丸の内)、大神宮の南側と思われるが、良亮以降の良哲、友衛の家は大神宮北の郡代官所(現刑務所)隣であったというから、当時は、大神宮をはさんで、本家、分家に分かれていたようである。

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「中村市史」によれば、隼太の子良輝(故五郎)は、弓術の達人であり、10才下の樋口真吉に目をかけ、影響を与えた。 

良輝の子が良亮であった。良亮も九州に修行、遊学をして文武を極め、「漢学塾帰子周堂」を開き、多くの門弟を集めていた。

良亮は、樋口真吉らとともに倒幕運動に参加。通常は、家の長男は地元に残るが、弟の良哲は眼が悪かったため、兄のほうが東征に参加した(迅衝隊半隊長)。東京板橋では、千葉流山で捕縛された新選組近藤勇に斬首の刑を課した。そのまま会津に転戦している。

凱旋帰国後は、明治新政府に仕えるため、家族を引き連れ再び上京。今の群馬県、三重県を経て、明治9年、初代熊本県令(知事)の時、不平士族神風連の乱で斬られ、命を落とした。秋水はのちに、「俺の親戚の出世頭は良亮伯父だった」、と無念を語っている。

遺された妻千賀は、慶應義塾に入っていた長男の雄吉だけを東京に残し、秀夫ら下の子供たちをつれて中村に帰ってきた。その家に親戚の子どもたちも集まってきて、にぎやかに遊んだ。その中に幸徳秋水がいたことは有名な話である。秋水は秀夫の1歳上であった。

雄吉は2度洋行。後藤象二郎による大同団結運動に加わり、入獄したこともあるが、その後代議士に。秀夫(慶応義塾出)は時事新報主筆をし、中国関係の本なども出したが、兄弟とも秋水とは思想を異にしていた。しかし、秀夫は秋水処刑後の引き取りに立ち会っている。秋水のことを書いた回想録「雲のかげ」もある。2人とも中村に帰ってくることはなかった。

中村の安岡家を継いだ良哲は、維新後は地元殖産事業として、自宅前畑で桑の栽培実験を繰り返すなど、養蚕業の普及につとめた。「中村市史」には、幡多郡の養蚕業の草分けとして詳しく紹介されている。良哲の妻は、小野家出で秋水母多治の妹であった。

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良哲の息子友衛(秋水従弟)は医者になった。秋水母多治の最期を診たのは友衛。秋水が最初の妻(西村ルイ)を離縁するさい、妻実家の福島郡山に送っていったのも、東京で修学時の友衛であった。

友衛の息子隆一、孫亮はともに中村を離れていたが、没後は安岡家納骨堂の中に帰って来ている。

良亮妻千賀と長男雄吉の墓は神奈川県藤沢市にある。

なお、良亮の娘英(ふさ)は、東京で夫(小野道一、元高知県会議長)を亡くしたあと、中村に帰ってきて、明治38年、中村で最初の幼稚園設立に貢献(園長)したことが、「中村市史」に書かれている。墓は市内太平寺にあったが、いまは撤去されている。

安岡良亮 一族の墓(1)

 安岡良亮(りょうすけ、別名亮太郎)は中村の人。幕末維新で活躍した幡多の勤王党リーダーの1人で、戊辰戦争では捕縛した新選組近藤勇を斬首に処した。

明治新政府に入り、今の群馬県、三重県を経て、初代熊本県令(知事)となったが、明治9年、不平士族神風連に襲撃され殉職した。安岡は幸徳秋水母の従弟であった。

私は、昨年4月末、地震被災直後の熊本に出向いたさい、熊本城近くの花岡山にある安岡の墓を訪ねたことは、当時ここに書いた。

 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-256.html

墓は、草に覆われ、荒れていた。訪れる人もないようで、熊本の人からは忘れられた存在になっているように思え、寂しい気持ちで帰ってきた。

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しかし、忘れられているのは、地元中村でも同じである。幡多郷土資料館に展示コーナーがあり、市内丸の内の旧邸跡にも案内碑が建っているが、いまの市民で安岡良亮を知る者はほとんどいない。

最近、同じ中村の土佐勤王党で、先輩格にあたる樋口真吉については、いろんなところで紹介され、話題にのぼるようになった。

しかし、幕末から維新にかけての時代転換の局面で、歴史に刻まれた事績にかかわったという意味では、安岡良亮は樋口真吉に勝るとも、決して劣ることはない。

そのうえ、安岡の残された子、孫や兄弟たちも、中村の歴史に名を刻んでいる。さらに、遡れば祖先も、である。

そこで、私は昨年秋から、安岡良亮について、資料を集め、少しずつ調べている。安岡良亮の人間像を浮かびあがらせるとともに、その家族、祖先がどのように生き、どのように歴史にかかわってきたのか、一族の全貌を知りたいと思って。

まず、一族の墓を探してみた。

良亮の墓は熊本にあるが、先祖墓は中村にあるはずである。しかし、どこにあるのか、これまで聞いたことがなかった。

良亮は安岡家の長男であった。しかし、明治政府に仕えるため、家族を引き連れ中村を離れたことから、いまはその直系の末裔は地元にはいない。

地元で安岡家を継いだのは、弟良哲(よしやす)であった。その良哲のひ孫にあたる女性が市内にいるというので、訪ねて聞いたところ、先祖墓は市内2カ所に分かれているという。江戸時代の古い墓は間崎に、幕末以降の墓は羽生山に。

しかし、間崎の墓については、17年前、性根(霊)を抜き、土だけを羽生山の墓に移した。その時、墓石は倒し、以来放置しているというので、地元間崎で、代々墓を祀って(世話をして)きた家に頼んで、12月、その場所に案内してもらった。

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四万十川河口に近い間崎といえば大文字。墓は、大文字の送り火が焚かれている山の近く、集落の裏山3カ所に分かれてあった。

一番古い墓は、暗い林に覆われ、落ち葉と土に埋もれていたので、探すのに少し時間がかかった。

掘り出して土を払うと「安岡久左衛門良儀 享保八年十二月七日」の文字が読み取れた。享保8年=1723年。これが、あの「忠臣」とされる久左衛門かと、興奮した。夫人の墓と2基あった。

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安岡家の家系については、地元郷土史家上岡正五郎先生(故人)が詳しく調査をし、一部「中村市史」にも書いている。今回、図書館に保存されている上岡文書(資料)に目を通した。系図も整理されていた。

それによれば、安岡家の祖は藤原房前に始まり、丹波、鎌倉、紀州熊野を経て、淡路島にいた頃、慶長5年(1600)、山内一豊の弟康豊に従って来た安岡伝八郎良勝が、中村における初代である。

以降、久左衛門良次、八右衛門良延と続いたあとが、「久左衛門良儀」である。

山内一豊は、関ケ原の戦いのあと土佐一国(24万石)を与えられたが、中村だけは独立した中村藩(2万石、のち3万石)として弟康豊に分け与えた。安岡家は中村藩の家臣となった。

しかし、元禄2年(1689)、中村藩は5代山内直久の時、幕府若年寄に推挙されたにもかかわらず、これを辞退したことから、将軍綱吉の怒りに触れ、わずか89年で取り潰されてしまった。(その後、本藩=土佐藩に吸収された)

その時、久左衛門は江戸仕置役(30石)であった。主君のお家断絶という混乱の中、久左衛門は事後処理に奔走、特に藩借金の処理に身をとして当たり、主君最悪の事態を救った。

しかし、自らは他の家臣同様、録を失い、中村に帰ったあとは、浪人となり郊外間崎に移り住み、帰農した。

墓の二つ目は少し下ったミカン畑の一角にあった。やはり草に覆われていた。そこでは、久左衛門の長男貞助と、一代おいてその孫にあたる源治と恵助(早世)の墓が確認できた。

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貞助は、父久左衛門の江戸における事績などを家伝「白沙之記」として書き残している。身内以外には「知らすな」という意味であり、「安岡家覚書」として図書館に保存されている。

三つ目の墓は、その近くにあったが、名前の判読ができない状態である。

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間崎4代、最後の源治は寛政7年(1795)没と、刻まれていた。

間崎で確認できたのは、ここまでであった。

安岡家は、源治の息子隼太の代に、中村に戻って来た。隼太以降の墓は、中村の羽生山にあった。(続く)

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自由之碑 

 市内右山にある太平寺の下の道はいつも車で通るっているが、寺に入ることはめったにない。28日、久しぶりに階段を上って、庭の隅に立つ「自由之碑」を見てきた。

碑は明治24年11月に建てられたもので、私の背丈よりも高い2メートルくらいの石に長文の漢字が刻まれている。といっても苔むしているためとても判読はできないが、「中村市史」に、その内容が載っている。

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明治22年2月、帝国憲法が発布され、翌23年7月、わが国最初の衆議院選挙がおこなわれることになり、政府支持の国民党と反政府の自由党が争った。

自由党は自由民権運動発祥の地高知で生まれた。だから、高知県では、両派の抗争は熾烈をきわめ、ついに死者まででた。太平寺下で両派乱闘となり、自由党側の27歳の杉内清太郎が短刀で刺されたのだ。相手はすぐに自首した。市史では「右山事件」とされている。

碑には、その死を悼む内容が刻まれている。長文の最後は・・・

 生愛自由 
 死為自由
 人貴自由
 碑表自由

「自由を愛し自由のために死ぬ人は貴い」という意味。
 
 竹内綱撰
 大江卓書

2人はともに宿毛の自由党員で、竹内綱は吉田茂の父である。

この「自由之碑」は自由党のシンボルとして、いろんなところで紹介されている。

幡多での両派抗争事件は、ほかにも「下田事件」「和田事件」「伊予野事件」(小筑紫)などもあった。「伊予野事件」では、逆に国民党派運動員が自由党派から銃で殺されている。

宿毛は自由党の牙城であった。しかし、中村は国民党のほうが強かった。

幸徳秋水母の実家の叔父小野道一(妻は安岡良亮娘の英子)は国民党派の県会議員で、議長もつとめた人であった。

なのに、右山事件当時、19歳の幸徳秋水は民権運動にあこがれ中村から出奔し、大阪で中江兆民の書生になっていた。

その後、秋水は兆民に従って東京に移る。続いて小野道一も政治を離れて、家族で東京に出てきたことから、独身の秋水は小野家にしばし同居することになる。

身内同士ゆえに、考えが両派に分かれていたとしても、日常生活においては大きな問題ではなかったようだ

しかし、明治28年、小野道一が急死したことから、秋水は別に家を構えて、最初の結婚をすることになるのだが(相手は元久留米藩士の娘西村ルイ)、私は小野道一および、その残された家族(安岡良亮娘と孫)について、いま興味をもって調べている。少しずつ、書いていきたいと思っている。

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兼松林檎郎

 12月21日は、南海地震から70年目の日であった。全国で最も多い死者286人を出した中村では、南海地震を語る場合、この人の名前が必ず出る。

兼松林檎郎は、戦後間もないころの青年団運動のリーダーであった。昭和20年8月の敗戦の翌9月、早くも中村町青年団を結成し、団長に。当時27歳(大正7年生)。

昭和21年3月、幡多郡連合青年団、22年3月、高知県連合青年団へと組織を広げ、それぞれ団長に就いている。

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林檎郎が、いつも訴えたのは「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」。

その活動のシンボルが、南海地震被災からの復旧支援活動であった。震災直後、道路寸断の中、高知市から海路下田に着いた救援物資は地元青年団による人海戦術で町に運ばれた。さらに、継続して幡多郡の青年団は中村に救援隊を派遣した。

いまでいうボランティア活動だが、特筆すべきは、それだけにとどまらず、青年団は行政をリードし、戦後復興の一翼を担ったこと。

その一つが、愛育園を立ち上げたこと。被災後の子どもたちを預かるために、青年団で土地を求め、バラックの施設をつくった。県の認可もえて、正式の保育園として認めさせた。役員は無報酬で運営。当時、青年団がつくって保育園として全国から注目を浴びた。

この愛育園は、その後中村町→中村市に移管された。現在も、同じ場所、同じ名前で続いている。公立の保育園としては、めずらしい名前となっているのは、そんな経過による。

いま、中村市街地にある、この「愛育園」と「もみじ保育園」の統合計画が進んでいるが、こんな歴史のある愛育園の名前は、ぜひ残してほしいと思う。

もう一つが、幡多公民学校の設立。正式名称は、「幡多郡連合青年団立 幡多公民高等学院」。戦後の混乱の中、向学心があっても経済的事情で高校へ行けない青年のために、授業は毎月1週間、年限3年の学校をつくった。

学校法人として認可も受け、卒業生は高校卒の資格が与えられた。講師陣は中村高校教員中心に、各分野から応援参加した(簿記の幸徳正三税理士氏など)。学院は10年間続き、多い年で1学年50~60人集まった。清水、北幡など、遠距離青年のために合宿施設も併設した。

こうした、一般的な青年団活動の領域を超えるような取り組みができたのは、林檎郎の指導力によるところ大であった。

しかし、林檎郎は戦時中から結核をわずらっていた。1954年(昭和29年)1月、36歳で没する。痩身色白の姿のどこ、そんなエネルギーは潜んでいたのか。短い時間とわかっていたからこそ、命を燃やしたのだろう。

1967年(昭和42年)、「幡多郡青年」(当時の仲間たち)は、中村城跡三の丸に「兼松林檎郎をたたえて」の碑を建てた。「南海大地震記念碑」のとなりに。

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いま、林檎郎を知る人はわずかになった。今回、そんな何人かに話を聞いた。また、1993年(平成10年)にまとめられた「青春の軌跡―幡多郡連合青年団活動の記録」も読んだ。

いま聞く林檎郎はカリスマ的であり、かなりの部分神格化、偶像化されている。

なぜか。戦争から解放され、新しい時代へ急旋回する、混乱と混沌の時代に、救世主のように突然現れ、あっと言う間に消えてしまったからであると思う。

一方で、彼の思想と行動は、「犠牲的奉仕活動」の域を出ず、社会の矛盾を追求し、変革をめざすような広がりをもっていなかった、という話も聞いた。

公民学校は自分の家の敷地を提供して建てたものであり、合宿青年の賄は母親、妹などが家族ぐるみで対応した。場所は、小性町のいま中村病院があるところで、そこには戦前父親が経営していた兼松病院があった。彼は家の財産を「食いつぶした」のだ。

彼は「政治」からは一線を引いていた。

しかし、昭和30年代後半から40年代、彼の指導や影響を受けた青年団活動家たちの中から、幡多郡下自治体に「革新首長」が多く生まれている。

「三川」と言われた、長谷川賀彦(中村市長)、矢野川俊喜(土佐清水市長)、小野川俊二(大方町長)のほか、中平幹運(西土佐村長)などである。

また、教育の分野でも、生活に密着した綴り方運動や、勤評反対運動などが、幡多郡で大きく盛り上がった背景には青年団運動があり、その中心に林檎郎がいたことは間違いない。

私は実物の林檎郎を知らない。伝説化された林檎郎しか。

しかし、その名前を知る人すらも少なくなってきている。誰かきちんとした記録を残してほしいと思う。

兼松家墓は市内右山にある。

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南海地震記念碑の教え

  南海地震から70年     

      南海地震記念碑 に刻まれた言葉
        四万十市 中村城三の丸跡

昭和二十一年十二月二十一日午前四時十五分突然起つ

た南海大地震は史上稀なものでわが中村町は一瞬にし

て全壊一千百余半壊六百余全焼六十六戸實に全町の八

割を失い加うるに二百七十八の生命を奪い千数百の重

軽症者を出してさながらこの世の地獄を現出した

震源地は潮の岬西南五十粁の海底であるにかかわらず

中村町の被害が特に大きかつたのは地盤が軟弱である

事が重大な原因であると学者は指摘している

太平洋戦禍につぐ震禍で中村町の復興は至難であると

思われたが不屈の町民性と燃ゆるが如き郷土愛はその

後四ヶ年にしてほとんど復興を完成したその間各方面

から寄せられた特別の同情援助に對しては永遠に感謝

を忘れてはならない

安政大地震すぎて九十二年今又次の震災に遭うて後人

に遺す言葉は


「 災害は忘れかけた頃やつてくる 」


      一九五〇年一二月二一日


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大河ドラマへの期待

 NHK大河ドラマ「真田丸」が終わった。

大河ドラマは、以前はたいてい見ていたが、最近は興味関心があるテーマに限っている。今年「真田丸」を見たのは、真田幸村について詳しく知りたかったから。信州上田の武士が、なぜ大坂方に味方したのか。(以前の大河「真田太平記」は見逃していた)

結構楽しめた。三谷幸喜の脚本だけあって、エンターテイメント中心で、かなり脚色されていたようであるが、そこには元武田信玄輩下の弱小一族が戦国乱世を生き残ろうとする、融通無碍のしたたかさがあった。

所属政党を変え、あるいは党名を変えて離合集散を繰り返す、いまの政治集団が重なってみえた。しかし、幸村は、最後は豊臣への「義」を通した。いまの政治の世界で「義」とは何か。考えさせられた。

来年の大河「おんな城主直虎」は見るつもりはない。またまた、時代劇か、と思うからだ。

最近の大河のテーマは、戦国もの、幕末維新ものなどの繰り返しで、代り映えがしない。特定の英雄を取り上げるのでは、もう扱う人物も底をついたのではないか。通算57作目、再来年の「西郷どん」もまたか、という感だ。

NHKはもっと近現代史を扱うべきだと思う。かつてNHKには、そんなチャレンジもあったのに。1984年「山河燃ゆ」、1986年「いのち」がそうだ。昭和を扱っていた。

特に、「山河燃ゆ」の原作は山崎豊子「二つの祖国」で、アメリカ移民の家に生まれた兄弟が敵味方に別れて戦うという、シリアスなテーマだった。戦争を真正面から取り上げていた。

また、1980年「獅子の時代」(山田太一オリジナル脚本)は、幕末維新を扱ったものとはいえ、架空の人物2人を主人公にして、近代日本の起点となった明治維新とは何だったのかを、底辺の人たちの視点から問題提起する、重厚な作品であった。

そんな時代もあったのに・・・

それに比べ最近は、女性を主人公にするとか、いろいろ工夫はしているようだが、そういう女性にしても知る人ぞ知る有名人であり、英雄史観の域を出るものでない。歴史を深く考えるというよりも、エンターテイメント中心になっている。

それはそれでおもしろいが(私も楽しんでいる)、もっと悩み考える、現在の問題につながるテーマにも挑戦してほしい。

歴史を学ぶことは、現在を知るため。

明治維新以降日本が歩んだ道が、なぜ昭和20年8月15日に行きついたのか。

その後、日本が歩んできた「平和の道」が根底から覆されようとしている今だからこそ、日本人みんなが考えなければならない。

最近のNHKは「アベチャンネル」と言われている。
そんな汚名を晴らしてほしい。
プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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