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松本けんじに期待する

2019.11.10  しんぶん赤旗 インタビューを受けた記事です。

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秋水を生んだ風土と人々(12)日韓連帯

 12.日韓連帯

 話は今年に飛ぶ。

 五月、韓国ソウルの幸徳秋水研究者、金(キム)昌(チャン)徳(ドック)さんが中村にみえた。東京の初期社会主義研究会会員で金子文子研究者の亀田博さんと一緒に。亀田さんには会ったことがあったが、金さんは初めて。秋水顕彰会メンバーで二人を秋水墓、生家跡、絶筆碑、図書館資料室などに案内した。

金さんは、韓国アナキズム運動を受け継ぐ社団法人国民文化研究所の総務理事で、かつ韓国アナキスト独立運動家記念事業会の事務局長。秋水の思想は死後、韓国アナキズム運動、対日独立運動に影響を与えたという。(二人は、今回高知市草の家の案内で槇村浩も訪ねた。)

秋水が大逆事件で拘束された明治四三(一九一〇)年は日本が韓国を併合した年。秋水は韓国、朝鮮の独立運動に関心を寄せていた。その前年、安重根(アンジュングン)がハルピン駅頭で伊藤博文をピストルで撃った「義挙」を讃える漢詩をつくったことは有名である。

秋水はクロポトキン「麺麭の略取」を翻訳出版、日本で最初のアナキストとされているが、大杉栄、伊藤野枝が関東大震災で虐殺されたように、弾圧で日本ではアナキズムは広がらなかった。しかし、韓国では浸透した。

今年は韓国三一独立運動から百年。「第三の大逆事件」を描いた映画「金子文子と朴烈(パクヨル)」(六月、中村、高知で上映成功)の通りである。

金子文子の墓が朴烈の生地、韓国慶聞(ㇺンギョン)市にあり、毎年命日に追悼式が行われていると、金さんからお誘いを受けたので、七月二三日参加した。ソウルから貸し切り高速バスで二時間の山の中。文子墓は朴烈義士記念館の敷地内にあり、展示では秋水も紹介されていた。

韓国政府は昨年文子に日本人二人目の独立有功メダルを授与したこともあって(一人目は弁護士布施辰治)、式典は例年より多数の地元市長など約百人参列。私も「幸徳秋水地元の元市長」と紹介され、献花した。イベント会場では、女優チェ・ヒソ(映画の文子役)の挨拶、研究発表、シンポジウム、文子を讃える市民コーラスなどがあった。

二日目は芙(プ)江(ガン)に移動。文子が養女とされ少女時代暮らした家や小学校、警察署跡などの案内を受けた。

日本からの参加は山梨県(文子故郷)の金子文子研究会会員や亀田さんなど十名であったが、ソウルから往復一泊二日の費用は全額主催者持ちの招待であり、心温まる歓迎を受けた。日本人でありながら、韓国で愛され大切にされている文子。韓国の人たちは「反日帝」ではあっても「反日本人」ではない。その懐の深さ、広さに涙が出た。

安重根裁判の弁護士は旧野市町出身の水野吉太郎で無罪を主張している(最終死刑)。高知県と韓国の縁(えにし)。

秋水を知ることは日韓の歴史を知ること。いまの日韓問題の背景、真実につながる。元凶は日帝(大日本帝国)さながらの安倍政権。秋水が日韓連帯を呼びかけている。(終り)

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 右端 金昌徳さん    金子文子墓に献花

週間 高知民報連載(全12回) 終り 2019.10.6

秋水を生んだ風土と人々(11)帝政派の牙城

11.帝政派の牙城

 本連載もあと一回。冒頭に書いたように、私のテーマは「秋水はなぜ高知ではなく中村に生まれたのか」である。

明治四年生れの伝次郎は、同二十年、十六歳の時、中村を出奔し単身上京。自由党林有造の門をたたいたが、保安条例で土佐人は追報された。翌年再び飛び出し、大阪にいた中江兆民の書生になり、その後の運命を決定づけた。兆民から民権思想を学び、秋水の号ももらう。

中村が高知と違うのは、元禄二年、中村藩改易以降、城下町でなくなったこと。常駐家老がいた安芸、佐川、宿毛などとも異なる。家臣は百姓同然の郷士や地下浪人に身を落とした。町の運営は実質的に町人の手に。町人が実力をもち、町人の中から学者(遠近鶴鳴)も生まれた。

しかし、町人は世の動きを見るに慎重、穏健である。学問も朱子学で権威に忠実。幕末勤王運動においても、武市半平太の土佐勤王党結成の血判状に加わった者は、樋口真吉をはじめ幡多からはほとんどいなかったように、連携をとりながらも一線を画していた。

明治になり、一時鹿児島の西郷隆盛に呼応する動きを見せたこともあるが、新政府に簡単に懐柔され妥協、服従。明道会という保守的結社をつくっていた。

こうしたグループは板垣退助らの民権派(自由党)に対して帝政派(国民党)と呼ばれていた。この対立は明治前半期高知県政界の基本構図となる。

明治十二年、県議会が開かれたが、その勢力は高知から東は民権派、西の高岡郡、幡多郡は宿毛を除き帝政派が強かった。中でも中村は帝政派の牙城であった。

中村にも民権派はおり板垣を迎え、十五歳の伝次郎が歓迎の辞を述べたこともあるが、少数派であった。

この連載で紹介してきた母方親戚筋の安岡、桑原、小野、木戸はみな帝政派。小野道一はその領袖として県会議長までつとめた。彼らはみな士族格。母多治が小野の出であったためである。

幸徳家は商人で経済力があったがゆえに、小野家との異例の縁組をした。しかし、明治になり四民平等になったとはいえ、士農工商の身分の差は厳然として残っていた。たとえ相手が郷士であっても。

木戸明の塾で伝次郎は、同年代の親戚の子らの中で飛び抜けて成績優秀であった。しかし、彼らは士族の子。自分は商人の子で「町の子」と呼ばれた。なぜ親戚なのに自分だけそう呼ばれるのか理解できない。幼き伝次郎の中に巣くったコンプレックスのようなもの。そんな反発が伝次郎を早熟な自由党シンパにしてしまったのではないか。

しかも伝次郎は二歳にして父亡き子に。卑屈な気持ちも加わっていたのではないか。

このようにして、中村という歴史風土の中で、「平民」にこだわる、身分、階級に敏感な少年が育ち、中江兆民との出会いに至るのである。(続く)

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 幸徳秋水(12歳頃)    母多治

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.29  

秋水を生んだ風土と人々(10)木戸明

10.木戸明

木戸家の祖は江戸寛永の頃、摂津国吹田から幡多郡佐賀を経由して中村に来た商人。吸田屋と称し中村を代表する豪商となり、俵屋(幸徳)などとともに交代で町老をつとめた。

木戸明は天保五年生れ。父広之助は分家、望んで百姓に転籍後、地下浪人(士分)に列した。母佐和は安岡良輝の妹、安岡良亮と明は従兄弟になる。妻和佐は桑原家から。

は安岡良輝、樋口真吉に学問、武道を習った後二四歳で上洛し岩垣月洲の門に入り国学経書を学ぶ。上洛は三度に及び、江戸の梁川星巌とも親交を深めた。

文久、慶應年間、勤王運動、特に国防、海防活動に没入し、私財を投じて大砲を鋳造、四万十河原で実射後藩に献納。ために「破産勤王」と言われるほどであった。

維新東征には参加しなかったこともあって、安岡良亮、桑原戒平、小野道一らのようには官に入らず、地元後進の教育活動にその後の人生を捧げた。

中村大神宮隣の自宅に家塾遊焉義塾を開設。身分を問わず近隣の子どもたちを集めた。

安岡、桑原を通して木戸家ともつながる商家の伝次郎も入門。「孝経」の素読から始まり、「三国志」、「唐詩選」へ。栴檀は双葉より、八歳にして小野の祖母(須武子)の還暦を祝う漢詩をつくるなど、神童伝説を生んでいる。

秋水の格調高い漢文調の文章は、木戸明に叩き込まれた土壌の上に、ジャーナリストとして時事論説、評論を積み重ねた産物である。

土壌は思想面でも。秋水は絶対主義的天皇制という人民支配システムについては激しく攻撃したが、天皇そのものについての論及はほとんどない。獄中で書き上げた最後の書「基督抹殺論」は天皇のメタフォー(隠喩)との見方もあるが、「日本の名著」とされる秋水「廿世紀之怪物帝国主義」(明治三四年)には、若き頃の書とはいえ「日本の皇帝は・・・戦争を好まずして平和を重んじ給ふ」「自由と平和を重んじ給ふ」というようなくだりがあり、儒教的倫理感の呪縛から脱せていない。

秋水は「日本人の詩には和臭があつて到底彼地の人には見せられんけれども、木戸先生のはその平仄から四聲の配置から唐詩選中の詩にも恥しからぬものがある」と評価していた(岡崎輝著)。

しかし、明治三六年、秋水が新刊「社会主義神髄」を明に贈った葉書が四万十市立郷土博物館に保存されているが、その内容は到底師の理解の及ぶところではなかった。

師岡千代子「風々雨々」によれば、明治三九年夏、夫婦で帰省時、愛弟子を心配する師が訪ねて来て、秋水を説得した。師が帰ったあと、秋水は寂しそうにふさぎ込んでいた。それを見た母多治は「木戸先生は普通の年寄りぢゃもの、わたしゃ伝次郎の味方ぢゃけん」と息子を励ました。

明は中村中学、高知中学でも教壇に立った。高知では濱口雄幸(ライオン首相)、野村茂久馬(土佐の交通王)らを教えた。城山三郎「男子の本懐」では、濱口のことを「雲くさい」と評したと書かれている。

大正五年、八五歳で没。墓は正福寺の秋水隣だが、秋水東向きに対し北向き。頑くなに思想を容認しないかのように。墓碑の撰文は中村の弟子吉松茂太郎(海軍大臣)

大正八年、教え子たちは中村小学校玄関前に銅像を建てたが、戦時金属供出された。戦後、為松公園登り口に顕徳碑を建てた。題字は野村茂久馬。(続く)

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    木戸明

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.22

秋水を生んだ風土と人々(9)小野英、輝

9.小野英、輝

明治二八年、叔父小野道一の自殺は、当時二四歳の秋水にとって衝撃であった。

本連載冒頭で紹介したように、秋水は明治三七年、平民新聞に「予は如何にして社會主義者となりし乎」を書いた。そこに自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は「従兄秋水の思出」において、これは道一の死のことであり、秋水へ与えた「精神的打撃は甚大」であったと書いている。

輝は道一、英(ふさ)夫婦の三女。当時七歳、東京で同居していた秋水を兄と呼んでいた。

道一は当時「かっけ」にかかっていた。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不条理のようなものを見たのではないか。 

道一の妻英は安岡良亮の次女。周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、高知県保育(幼児教育)の魁として名を残している。

小野家としては、道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。秋水は明治四十年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。このエピソードを作家上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

英は秋水が東京に戻るさい、「傳次さんよ、今度東京へ行っても亦先のやうな危いものはどうしても書かれんぜ、お母さんはもう七十一ぢゃけん、何時どんなことがあるかも知れんから、お母さんの生きている間に再び牢に入るやうなことをしてはならんぜ」(輝前掲著)と念を押した。

しかし、秋水は中村から船で大阪に出て、親戚の桑原政明の家に泊まってから紀州新宮の大石誠之助のもとに立ち寄ったことで、大逆事件の罠にはめられることになった。

秋水は獄中から母に何度も手紙を書いている。その手紙を母に読んでやるのはいつも、小学校教員になっていた輝であり、母の返事も輝が代筆をした。

英は晩年は大阪豊中の岡崎家に引き取られ、輝に言われ「八拾余年の思出」を書き残した。幕末維新の頃の中村のまちの人たちの暮らしを伝える貴重な記録となっている。昭和十二年没、八七歳。

輝は文筆に優れ、戦後昭和二二年「従兄秋水の思出」を書いたほか、丘佐喜子のペンネームで「南国新聞」(中村の地方紙)にもたびたび寄稿。昭和四三年没、七九歳。

なお、小野家を継いだ行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二二年八月、ハバロフスクで病死。五五歳。

小野雲了以下一族の墓は中村の羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(続く)

小野英(前)と娘の輝  上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
小野英(前)、輝(後)

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.15

秋水を生んだ風土と人々(8)小野道一

8.小野道一

小野は秋水母多治の実家である。小野雲了、須武子の子は娘二人、多治と嘉弥子であった。普通ならどちらかに婿をとるのであろうが、多治は商家幸徳に、妹の嘉弥子は雲了の姉菊が嫁いでいた郷士安岡の次男良哲(良亮の弟)に出し、小野家養子として桑原義厚、教の次男で甥の道一を迎えた。道一の兄は前号に書いた桑原戒平である。

道一は嘉永三年生れ、戒平の六歳下。兄同様、安岡良亮に学問を、樋口真吉に剣術を学んだ。維新後、谷干城に従って上京、大学南校で法律を学んだ。干城、良亮、戒平は維新東征迅衝隊の幹部であったという関係が背景にあったと推測されるが、上京の詳しい経緯や時期等についてははっきりしない。道一はその後も生涯、干城と深いかかわりをもつ。

安岡良亮は新政府入りのため明治二年一家で上京。道一も官に入り、明治三年、東京で良亮次女の英と結婚した。いとこ同士であった。(良亮の長女の芳も桑原戒平妻になっていた。桑原兄弟と安岡姉妹が結婚。)

道一は度會県(三重)、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島裁判所、大審院を歴任後、兄戒平と同時期中村へ帰り、兄に続き第三代幡多郡長、さらに県議会議員を四期十年(明治十三~二三年)、第十代議長も務める。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

一は民権派(自由党)と対立する帝政派(国民党)の領袖であり、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。道一にとってこの約十年間が「華の時代」。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。兄戒平が立ち上げた同求社に協力したことで一蓮托生であった。

道一は県から資金を借り入れたが、事業が行き詰り返済不能に。議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をしながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。岡崎輝「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」。しかし、秋水の当時流行りの軟文学好きに対しては、堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱るなど、秋水の生活態度には厳しかったようで、秋水を悩ませた。

明治二四年、道一は日本新聞をやめ、逓信大臣となった後藤象二郎の紹介で金沢郵便局長になる。しかし、腸チフスの大患にかかる。二年後東京に戻り、中央新聞に就職していた秋水と再び同居。

道一の体調は戻らず家で療養していたが、明治二八年八月、療生のため伊田(旧大方町)の小野分家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途中、神戸摩耶山の麓で縊死。四六歳。神戸から高知行の船に乗ろうとしたのであろうが。

輝は「父が極めて不遇の中で急死した」とだけ書いている。(続く)

小野道一 上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
 小野道一

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.8

秋水を生んだ風土と人々(7)桑原戒平

7.桑原戒平

桑原家の祖は初代中村藩主山内康豊に従ってきた医師。中村藩改易後は江ノ村に移り庄屋となり周辺に分家。戒平は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚の長男として弘化元年生まれた。

母教は小野家出身で、教の妹須武子は小野雲了の妻となっていたので、その娘多治(秋水母)と戒平は従姉弟になる。

戒平は学問を安岡良亮に、剣術を樋口真吉に習った。維新東征では迅衝隊十二藩隊半隊長差引役、会津で負傷。安岡良亮長女芳と結婚した。

新政府に入り、清国に留学派遣。明治八年、安岡良亮が先に赴任していた白川県(熊本)へ七等出仕。同九年、神風連の乱に遭遇。県令良亮は斬られたが難を免れ、県令代理として事件処理に奔走。翌年も西郷蜂起の西南戦争があったが、収束後中村に帰郷。初代桑原平八(同族)に続き、二代目幡多郡長(明治十三~十五年)になった。

戒平の長男、順太郎は秋水より一歳上。後年、秋水は「順太郎さんを見よ、あんなに大人しうせねばいかんといって、順太郎さんのお陰で何遍母に叱られたか知れん。子供のときには大に順太郎さんを怨んだものだよ。」(岡崎輝「従兄秋水の思出」)と語っている。

戒平は事業意欲も盛旺。親戚縁者から資金を募って同求社を立ち上げた。旧土佐藩貨幣局の事業の払い下げを受け、大阪港路開設、樟脳の輸出等のほか、板垣退助から権利譲渡を受け、田ノ口銅山採掘にも乗り出した。本社大阪、分社高知、中村。

戒平は明治十八年七月、高知の弥生新聞(帝政派)が読者人気投票で選んだ「土佐十秀」の中の「商法家」部門において二百十四票を獲得して一位となった。他は「慷慨家」板垣退助、「理論家」植木枝盛、「画家」川田小龍など、高知の錚々たる顔ぶれの中で幡多から唯一登場。高知市立自由民権記念館に、その記事が展示されている。

しかし、事業はそれこそ「武士の商法」で、たちまち行き詰った。戒平は中村にいられなくなり、家督を弟義忠に譲り、東京へ出た。
事業破綻は親戚縁者に累を与えた。俵屋(幸徳)は同求社に事務所を提供していた。運悪く、その頃、秋水が通っていた中村中学が廃校となり、高知中学に吸収されることになった。しかし、秋水は家の経済状況悪化からすぐには転校できず、安岡秀夫らに一年遅れて高知へ出たが、授業についていけず落第、学校放棄。秋水最初の挫折となった。

戒平には官時代の人脈があった。上京後は北豊島郡長、八丈島島司、小笠原島司から日本統治後まもない台湾新竹支庁長などを歴任。台湾では総督の乃木希典、児玉源太郎に仕えている。

東京では親戚として秋水と行き来があったようで、師岡千代子は「風々雨々」の中で「私が嫁いだころには、最う白髪童顔の好い加減の老人であったが、見るからに何處か剛腹な人であったやうに記憶して居る。如何にも尊大なこの人だけは、何時までも秋水を鼻垂れ小僧扱ひにしてゐた」「さすがの秋水もこれには参って居た」と書いている。

戒平は老いてからキリスト教に入信。大正九年、七六歳で没。墓は晩年暮らした鎌倉にある。(続く)

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 桑原戒平

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.1

秋水を生んだ風土と人々(6) 安岡雄吉、秀夫

6. 安岡雄吉、秀夫

秋水の生涯を振り返ってみると、同族親戚の出世頭だった熊本県令安岡良亮の死は、当時五歳の伝次郎最初の運命の分かれ道であった。

一つは、良亮は熊本に桑原戒平など同族、同郷人を多く引き連れて行っていたように、将来は秋水も官への道が開けていたであろうにということ。二つは、良亮家族や戒平、小野道一(東京)らが次々に中村に帰って来たこと、である。(桑原、小野について次号以降に書く)

良亮長男の雄吉は慶應義塾に入っていたので東京に残り、妻千賀と下の子どもたちが良亮の部下であった尾崎行正に伴われた。行正は妻と行雄の弟二人を連れしばらく安岡家に同居している。

こうした親戚には秋水と同年代の子どもがたくさんいた。都会帰りのハイカラな子どもたちは安岡家に集まり、秋水も加わり一緒に遊んだ。

安岡良亮の三男に秋水より一歳下の秀夫がいた。秀夫のもとには東京の兄雄吉から、当時田舎にはない珍しい絵本や雑誌が送られてきた。「絵入自由新聞」「団々珍聞」など。

水はこれらを読んで触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくったり、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりを手に町を歩いた。早熟な民権少年、自由党かぶれはこうして培養された。

安岡秀夫は、秋水死後の回想記「雲のかげ」にこうしたことを書いている。木戸明の漢学塾にも一緒に通ったが、秋水にはかなわなかったということも。

秀夫はのちに秋水と同じようにジャーナリズム界に入り、福沢諭吉主宰の新聞社時事新報で論説主筆を務めた。しかし、秋水とは対照的に穏健体制派の記者であった。

この違いは安岡雄吉も同じであった。雄吉は官に入ったが、良亮長男であることを看板に政界に転じる。後藤象二郎提唱の大同団結運動に参加、挫折したあと、明治二五年、第二回帝国議会選挙高知二区(幡多郡、高岡郡)に帝政派(国民党)から出馬したが、林有造、片岡健吉の民権派(自由党)に敗れた。(十二年後一回当選)

思想、党派は異なったが、東京においても秋水と雄吉、秀夫の親戚としてのつきあい、交流はずっと続いた。

雄吉は学者肌であり、二度洋行留学。英国ではマルクスも勉強、帰国後、秋水、秀夫を呼んでマルクス主義は日本には合わないと説いた。秀夫は秋水処刑後の骨を拾った。

その後、中村の安岡家はどうなったか。安岡良亮は長男であったが家を出たので、中村の安岡家を継いだのは弟良哲(よしやす)であった。良哲妻は秋水母の妹、嘉弥子。良哲は幡多に初めて養蚕業を導入、郷土の殖産事業に功を残した。

良哲の長男友衛は医者になった。友衛は東京に遊学中、従兄の秋水は最初の結婚をするも、すぐに離縁。相手(西村ルイ)を福島郡山に送り届けるという尻拭いをさせられている。友衛は中村で医師として秋水母の最期に立ち会う。

墓は良亮熊本、雄吉藤沢、秀夫東京多磨霊園。良哲、友衛は中村羽生山だが、現直系子孫は地元にはいない。(続く)

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安岡雄吉 後列左        安岡秀夫

週間 高知民報連載(全12回)  2019.8.25

秋水を生んだ風土と人々(5)安岡良亮

5.安岡良亮

秋水の母多治の実家小野家は代々山路村庄屋を務め、名字帯刀を許された士族格の名門であった。父雲了(亮輔)は三男のため中村に出て医師になっていた。

小野家は同格の他の庄屋や郷士たちと「ひきつりひっぱりあって」(幡多弁で親戚つながりの意味)いた。その代表格が安岡家であった。

安岡家の祖は中村藩(藩主山内康豊=一豊の弟)の重臣であったが、元禄二年、中村藩改易後は禄を失い、間崎村に移り、郷士になった。

雲了の姉菊は、その後中村に戻っていた安岡良輝(故五郎)に嫁いだ。二人の長男が良亮で、多治の従兄になる。

安岡良亮は樋口真吉らと遠近鶴鳴(町人学者)の塾で学問を学び、幕末幡多勤王運動のリーダーとなった。維新東征には迅衝隊(隊長板垣退助)の第二小隊半隊長として参加、小軍監に抜擢された。千葉流山で捕らえた新選組近藤勇に、谷干城と斬首を命じたことは有名。

良亮は新政府に仕えるため明治二年、家族を引き連れ上京。

弾正台大忠、集議判官、民部少丞から高崎県(群馬)参事、度會県(三重)参事、さらに白川県権令、白川県が熊本県に改まってからの初代県令(知事)となった。

これらの県はいずれも廃藩置県後、政情不安で難治の県とされていたところであり、良亮の人心掌握力を買った大久保利通の任命であった。

良亮には忠実な部下がいた。迅衝隊が甲府進軍のさい現地で馳せ参じて来た尾崎行正で、以後高知県士族となり、良亮に影のようについて来た。東京駿河台の屋敷では離れに同居、その子尾崎行雄(咢堂)は良亮から直々に学問を教わった。行雄はのちに「憲政の神様」と言われた。

熊本では不平士族の敬神党(神風連)が暴発寸前であった。良亮は硬軟両用の融和策を使い効果をあげていた。しかし、廃刀令が出たことでこれを抑えきれず、ついに明治九年十月、斬り込みに遭い命を落とした。

翌年には鹿児島の西郷隆盛も立ったが(西南戦争)、谷干城は熊本城(鎮台)を死守し、英雄となった。迅衝隊の盟友二人の運命は熊本で分かれた。

旧大方町出身のタカクラ・テルに「幸徳秋水の墓に詣づるの記」という小文がある。「小生幼児母より寝物語に聞き申し候安岡熊本縣令惨殺の物語に関してにて御座候。母はその物語の終りに常に申し候ひき。此の安岡懸令の妹(注・従妹の誤り)こそは秋水の母なる人なり」、母は秋水母の遠縁であったと聞いている、と。幸徳富治(駒太郎長男)にも同じようなことを書いた手記(「伯父幸徳秋水」)がある。

テル(高倉)の母美弥(吉田)と秋水母多治の関係については判然としないが、美弥の母智恵が間崎姓であり、間崎姓の本家は安岡家と同じ間崎村の庄屋であったことからではないかと推測される。

神風連の乱当時秋水は五歳。後に中村の出世頭は良亮であったと残念がっていたと、師岡千代子が書いているように、良亮の死は同族親戚に衝撃を与えた。(続く)

安岡良亮


週刊 高知民報連載(全12回) 2019.8.11

秋水を生んだ風土と人々(4)商家・俵屋

4.商家・俵屋

幸徳家のルーツは京都。安倍清明の流れを受けた陰陽師であったとされ幸徳井(かでい)と称し、のちに大阪に出て幸徳になり、医業を営んでいた。

五代篤興(梅林)の長男篤胤は薬の扱いを通じた人脈があったのであろう。享保年間(年次不詳)、土佐中村の薬種問屋俵屋に誘われ、堺から渡った。

俵屋は一條家時代から続く中村土着の有力商人。篤胤は俵屋の暖簾を継ぎ、俵屋嘉平治を名乗るようになり、中村幸徳家の初代となった。

中村三代目嘉平治(篤親)には息子が二人。長男篤道は役人志向が強かったことから、次男篤明(秋水の父)が俵屋を継ぎ四代目嘉平治となった。

篤道には子がなかった。弟篤明夫婦からもらう約束ができていたので、篤明の長男亀治を養子にした。

伝次郎は次男であったが、そんなことで、生まれた時から、五代目嘉平治を継ぐ運命にあった。ところが秋水二歳の時、父が病死。母多治は三十代にして寡婦、母子家庭になったので、伯父の篤道夫婦が俵屋に戻り、差配するようになった。篤道は伝次郎の父親代わり、後見人に。幸徳家は一つ屋根の下に二家族が住むという、複雑な家となった。

さらに、篤道は役人時代(久保川村庄屋)に目をかけていた農家の三男長尾駒太郎を下僕として俵屋に入れた。駒太郎は実直、真面目で店の番頭を任せるまでになったので、自分の養子(廃家予備)にしたことから、ますます複雑になった。

幸徳家の墓は中村の裁判所裏、正福寺にあり、毎年一月二四日、秋水墓前祭を開いている。秋水、篤明、駒太郎らの墓が並んだ一角は県内外から墓参者が絶えない。

その手前の山際にも古い墓があるのだが、気づく者は少ないので、二年前、「俵屋・幸徳家先祖墓」の看板を立てた。中村幸徳家の初期の墓石や、幸徳家が入る前の俵屋の元禄期以降の墓石が並んでおり、「町人のまち中村」を今に伝える史跡としての価値もある。

幸徳家が中村に移る以前の大阪の菩提寺は竹林寺(大阪市西区本田)。自分の家系に深い関心をもっていた秋水は、明治三九年、アメリカから帰朝後里帰りのさい、大阪に立ち寄り、あちこち歩いた末この寺を捜しあてたことが、妻師岡千代子「雨々風々」に書かれている。

竹林寺は昭和二十年三月、大阪空襲で丸焼けになったが、黒くすすけた幸徳家先祖墓(梅林建立)が一基だけ残っていた。昭和五七年、大阪の社会党関係者たちの提案、協力を得て、この墓石を正福寺に移設した。

俵屋は宇和屋(遠近)、吸田屋(木戸)などとともに町老(年寄)を務める「おまち中村」の代表格の商家であり、当然婚姻も互いに結び合った。篤道の妻は富田(百足屋)、養子亀治(秋水兄)は木村(叶屋)から迎えた。秋水の姉二人も、民野は福島(亀田屋)、寅(牧子)は谷川(和泉屋)へ嫁いでいる。

しかし、秋水の父篤明だけは士族格の山路村庄屋小野家の三男で医師の小野雲了(亮輔)の長女多治を迎えた。(続く)

俵屋・幸徳家先祖墓(正福寺 )
 俵屋・幸徳家先祖墓

週刊 高知民報連載(全12回) 2019.8.4
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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