憲法違反 安保法1年

 きょう9月19日は、憲法違反の安保法(戦争法)が国会で強行採決されてから1年になることから、全国統一集会が各地で開かれた。四万十市でも、台風接近の雨の中開かれ、以下の集会宣言を採択しました。私もあいさつをしました。


  戦争法を発動させない全国統一19日集会in四万十

    集 会 宣 言 

 昨年の9月19日、参議院で安保法制=戦争法が安倍自公政権によって〝強行採決〟されました。〝成立〟後1年目となる今日、私たちは、「戦争法を発動させてはならない」「戦争法を許してはならない」、この意思を示すために全国に連帯し本集会を開いています。

戦争法は、憲法第9条が禁じている国際紛争解決のための武力行使を可能とするものであり、憲法違反であることは明らかです。しかも、「憲法9条のもとでは集団的自衛権は行使できない」と、戦後半世紀にわたって日本政府が繰り返し解釈してきた立場を180度くつがえし、日本を「海外で戦争する国」につくりかえることは、憲法を土台から壊してしまう立憲主義の否定であり、断じて認めるわけにはいきません。

ところがいま、安保法制=戦争法をめぐって重大な事態が進展しています。それは内戦状態になっている南スーダンにおいて戦争法を発動し、自衛隊が「殺し、殺される」初めてのケースとなるきわめて深刻で現実的な危険が切迫していることです。日本の自衛隊員から戦後初めての戦死者が出る、日本の自衛隊員による武器の使用によって海外で住民の犠牲者がでる、このような「殺し、殺される」戦場に日本の若者を絶対に送ってはなりません。

だからこそ、知識人や文化人が、子どもをもつママやパパが、未来ある若者や学生が、そして多くの市民が「戦争法廃止」の声を上げ続けてきたのです。

そうした主権者が声をあげ後押しすることによって、先の参議院選挙では、「戦争法廃止、集団的自衛権の閣議決定撤回、立憲主義の回復」を原点とする野党の共闘が実現し、全国32の一人区すべてで統一候補が誕生しました。そして、野党と市民の共闘によって11の選挙区で勝利をかちとったことは今後につながる大きな希望となっています。

一方、安倍首相は、選挙では語らなかった改憲について、「いかにわが党の案をベースにしながら3分の2を構築していくか。これがまさに政治の技術」と公言し、憲法そのものを変えることに執念を燃やしています。

私たちは、改憲・暴走政治をストップさせるために、「アベ政治は許さない」「政治は変えられる」という思いを共有し、野党と市民が肩を並べ、共同を広げ、次期総選挙でも「立憲野党」の共同が発展することを求めていきます。

本集会を契機に、さらにたたかいを前進、発展させ、戦争法の廃止と立憲主義をとりもどす決意を重ねて表明し、集会の宣言とするものです。

2016年9月19日
戦争法を許さない幡多の会

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木戸明 高知新聞投稿

  先にも書きましたが、高知新聞「声ひろば」(2016.9.19)に投稿が載ったので、紹介させていただきます。


   木戸明没後100年

 9月13日は、幕末維新期、中村が生んだ儒学者木戸(きど)明(めい)(1834~1916)没後100年にあたった。
 明は勤王倒幕に参加し、私財を投じて海防のために大砲を造ったりしたが、維新後は同志の多くが立身出世を求め中央に出る中、地元に残り、中村大神宮脇に遊焉(ゆうえん)義塾を開いて子弟教育に努めた。
 幸徳秋水も9歳の時から教えを受けたことから、秋水を顕彰する会と四万十市教育委員会では、先に明の墓(市内正福寺、秋水墓隣)に解説板を建てた。塾生には吉松茂太郎(海軍大将)らもいる。また、市内在住の明のひ孫にあたる方を講師に記念講演会も開いた。
 明は旧制の中村中学、高知中学で教壇に立ち、高知時代の教え子には、後の首相濱口雄幸や「土佐の交通王」野村茂久馬らがいる。
 教育一筋50年。教え子は3千人に及ぶと言われている。講演会場には秋水や濱口などからの手紙も展示されていた。
 地元の歴史や人物を知ることは、地元の将来を考えること。いま忘れられた存在になっている地元の先人を、多くの人に知ってほしい。

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 高知新聞 声ひろば投稿
 2016.9.19

仁尾惟茂

  前号木戸明に続く・・・

 幸徳秋水を顕彰する会では、9月11日、木戸明没後100年記念講演会「教育者木戸明の生涯」を開いた(四万十市教育委員会後援)。そのさい、講師の木戸秀雄氏(明ひ孫)から配布された資料の中に、4人から送られた葉書(写し)があった。

幸徳秋水、濱口雄幸、由比質、仁尾惟茂。
この中で、由比質、仁尾惟茂は初めて知る名前であった。
葉書は、秋水以外は年賀状。

調べてみると、由比質は高知中学時代の教え子、いまの高知市出身で、のちに旧制松山高校初代校長をつとめた教育者で、明治41年、熊本五高教授時代に出した年賀状であった。

仁尾惟茂(にお これしげ)については、「中村市史」に載っており、読んで驚いた。安岡良亮、濱口雄幸とも、深いかかわりがあるからだ。

仁尾は嘉永元年(1848)、幡多郡伊屋村(いまの四万十市双海)生まれ。18歳で、会津戦争に従軍。この前後、木戸明の教えを受けたものと思われる。その後新政府に入り、群馬、三重、熊本各県に派遣された。

これら3県には中村の先輩、安岡良亮も赴任していることから、これに従ったものと思われる。

熊本では安岡県令(知事)の下で「一等警部」についていたが、明治9年、不平士族神風連に襲撃された。安岡は殺されたが、惟茂は重傷を負ったものの、一命をとりとめた。

その後、大蔵官僚として出世し、大蔵省参事官、朝鮮国財政顧問、専売局長官を経て、貴族院議員(従三位勲一等)となった。(1932没)

安岡良亮については、先の5月14日付ブログで書いたように、私は今年4月、熊本市花岡山にある墓を訪ねている。安岡は木戸明の縁筋にあたり、幸徳秋水母の従妹でもあった。

惟茂は、神風連の乱で幸運にも、生き残った一人だったのだ。

そして大蔵官僚時代の後輩に濱口雄幸がいた。惟茂が専売局初代長官であり、2代目を濱口に引き継いでいる。濱口は木戸明の高知中学時代の教え子であるから、2人は木戸同門であった。

惟茂の明宛年賀状は、明治36年。日露開戦前夜。
戦費調達のため、煙草、塩専売制度導入に腐心していたころ。

惟茂もまた、幕末、明治、大正、昭和の大波を泳いだ一人なのだ。
墓は東京青山霊園。

それにしても当時の人たちの達筆ぶりには恐れ入る。


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 左より、濱口雄幸、由比質、仁尾惟茂

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 幸徳秋水


 



木戸明没後100年

 きょう9月13日は、幕末維新期、中村が生んだ儒学者、木戸明(きどめい、1834~1916)没後100年にあたる。

木戸明は、幸徳秋水幼き頃の師である。そこで、9月5日、幸徳秋水を顕彰する会と四万十市教育委員会では、木戸明墓(市内正福寺)に、以下のような解説板を建てた。新聞でも報道された。

  木戸明(1834~1916)

  儒学者。通称駒次郎、号鶴洲。18歳で京の巌垣月洲に入門し国学経書を学ぶ。帰国後勤王倒幕に参加。海防のための大砲を製造。維新後は遊焉義塾を開き地元教育に専念。幸徳秋水、吉松茂太郎、安岡雄吉・秀夫兄弟ら門弟多数。中村中学、高知中学でも教え、高知の教え子に濱口雄幸、野村茂久馬らがいる。書や漢詩に堪能で詠詩、揮毫も多い。
         
  2016.9.13
  没後100年記念事業
  幸徳秋水を顕彰する会 
  四万十市教育委員会
 
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 また、9月11日、木戸明ひ孫の木戸秀雄氏を講師に、「木戸明没後100年記念講演会 ― 教育者木戸明の生涯 ―」を開いた。中央公民館の会場には、木戸家所蔵の木戸明書(漢詩)や写真、師の巌垣月洲、親交のあった間崎滄浪や梁川星巌らの書(掛け軸)も同時展示され、市民など約90名が集まった。

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明は地元の先輩、樋口真吉や安岡良亮らの影響を受け、尊王攘夷、海防のために、地元で大砲をつくり藩に提供したりしているが、戊辰東征などには従軍しておらず、「派手な」記録は残っていない。

木戸明は学問の人であり、その最大の功績は教育者として地元教育に専念したことである。明は京へ3度往復しているが、維新後は、地元に残り、中村大神宮横の自宅に「遊焉(ゆうえん)義塾」を開いた。

幸徳秋水は9歳の時からこの塾に入り学んだ。最初に「孝経」の素読から、次に「三国志」「唐詩選」へ。東洋的儒学思想を学ぶ。秋水はずばぬけて秀才だった。のちの秋水の格調高き漢文体の文章は、ここに淵源がある。

塾生には、安岡雄吉・秀夫兄弟(良亮息子)、吉松茂太郎(海軍大将)、仁尾惟茂(初代専売局長官、貴族院議員)らもいる。

また、木戸明は、中村中学、高知中学(ともに旧制)でも教壇に立ち、高知時代の教え子に、後の首相の濱口雄幸のほか、野村茂久馬(土佐の交通王)、由比質(旧制松山高校初代校長)らがいる。

木戸明没後3年(大正8年)、中村小学校校門前に木戸明銅像が建てられたさい、濱口雄幸が資金提供を申し出た手紙(写し)も展示されていた。銅像は太平洋戦時下、銅材提供の犠牲になった。

濱口は師に毎年、年賀状を書いたという。偉くなる人はマメである。仁尾、由比の年賀状と一緒に、残っている。

教育一筋50年。私塾や学校を通して、教えを受けた師弟は3千人に及ぶと言われている。

秋水は自由民権から最終的に社会主義に至る。その最初の本、「社会主義神髄」を明治36年(1903)出版したさいに、木戸明に贈った葉書が残されている。(市立図書館「秋水資料室」に寄託)

しかし、ゴリゴリの儒学者の木戸明には秋水の新しい思想を理解することは、到底できなかった。

明治39年(1906)秋水が静養のため帰郷したさい、秋水の行く末を心配した木戸明が訪ねてきて、社会主義をやめるようにすすめる。秋水は必死で師を説得しようとしたが、結局物別れに終わる。秋水は寂しさをこらえきれないような顔をして、師を玄関から送った。

そんな秋水を見て、母多治は、「木戸先生は普通の年寄りぢやもの、わたしは傳次の味方ぢやけん!」と言った。母は秋水の理解者であった。妻師岡千代子は、その時の情景を「風々雨々」に書き残している。

また、明のひ孫で歌人だった国見純生もこんな歌を書いていることを、初めて知った。

  諫めて去にし木戸明を「普通の年寄りぢゃけん、吾は秋水の味方ぢゃけん」そのは母言ひしか

木戸明は、秋水が処刑された時は、門下生から罪人を出してしまって申し訳ないと周りに詫びたという。

思想的には真逆のまま譲らなかった二人であったが、師弟のこころのきずなは、最後まで続いたものと信じたい。

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中脇初枝 市民大学

 8月31日、四万十市民大学で地元出身作家中脇初枝の講演会があった。演題は、「『世界の果てのこどもたち』が生まれるまで~幡多から旧満州に渡った人たち~」。会場の西土佐ふれあいホールは、約150人でいっぱいになった。
 
 中脇は2年前にも市民大学で幡多の昔話について講演をしており、そのことは2014.9.2に書いた。また、小説「世界の果てのこどもたち」(講談社)が去年出版されたさいも2015.6.26書いた。その後、この本は、昨年度本屋大賞3位になった。

ここでは、本人が講演で語った、この小説を書いた「思い」について紹介をしたい。

1. 自分がこどものころ住んでいた市内具同の近所に、在日朝鮮人のおばさんがいて、自分(私)のことを、いつも「べっぴんさん」と呼んでくれた。この人は字が書けず、その後不幸な死に方をした。その頃、なんで朝鮮の人がここにいるのか不思議に思った。いつか、この人のことを書きたいと思っていた。また、黄砂が中国から飛んでくるのも不思議に思っていた。

2. 幡多の昔話を採取している中で、幡多からも満州に開拓団で行った人が多いことを知った。しかも、同じ四万十川の上流の北幡地方からと聞いて驚いた。

3. 中国残留孤児(元開拓団)、在日朝鮮人(開拓団近くに住む)、横浜生まれ日本人(開拓団を訪問)、という3人の女の子を主人公にしたのは、戦争というものを、同じ「重み」と同じ「深さ」で描きたかった、から。3国の対比年表づくりに苦労した。

4. 食べ物の話が多い。3人の女の子が1つのおむすびを分け合ったところがある。食べ物は平和の象徴。やなせたかし=アンパンマンもそう言っている。おむすびという言葉は、中国、朝鮮にもある。3国は共通文化。

5. 横浜空襲の話を入れたのは、その悲惨さを知ってもらいたかったから。東京よりも狭い範囲に集中して爆弾が落とされた。電柱も残らなかった。戦後、市民が記録6巻にまとめている。一方で、日本も中国を爆撃している。重慶など各地を。

6. 藤原てい(気象台職員妻)、宮尾登美子(開拓団教員妻)など、満州引き揚げ者の記録はたくさんあるが、そうしたものは、もともと書ける人(学問した人)が書いたもの。書けない人(在日の人など)、一番つらい思いをした人の声を書かないと、その人が死んでしまえばすべてなくなる。そんな人たちが生きていたことを伝えたい。

7. いま体験を語れる人は、当時こどもだった。こどもはみんな大人になる。こどもの記憶が大人を支える。自分も「べっぴんさん」と言われた幸せな記憶が支えてくれている。

8. タイトルの「世界の果て」とは、つらい人、見放された人のこと。シリア難民、南スーダン難民(こまい靴に、こまい足)など。「世界の果て」がなくなることを願っている。


 講演の最後は、幡多の昔話を紹介してくれた。幡多は昔話の宝庫であり、今年「ちゃあちゃんのむかしばなし」(福音館書店)を出版した。

中脇の小説の主人公はすべてこども。その根源には昔話がある。

こどもの記憶が大人をつくる。名もなき人たちの言葉や、人が生きていくにあたっての大切なこと、教訓などは、昔話という形で、こどもの記憶を通して、のちのちに伝えられる。

中脇は、今回、満州引き揚げ者、残留孤児、在日朝鮮人、元中国軍兵士、元日本軍兵士、横浜空襲体験者などへの聞き取りを多くおこなっているが、それらは、昔話の採取と同じだったのだろう。

過去を知ることは、未来をつくるため。
昔話は過去の話ではない。

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広報と広告(2)

広報誌に有料広告は必要なのか。みんな、どう思うだろうか。

それよりも、問題は、広報誌をどれだけ身近に感じているである。多くの人はパラパラとめくって必要な記事だけをサラリと見て、あとは放ってしまうだけであろう。開くだけでも、ましなほうかもしれない。だから、広報誌に広告が載っているかどうかも気づかないのではいないか。

しかし、広報誌には、一人ひとりがその地域で生活し、暮らしていくためには必要欠くべからざる情報が満載されている。医療、健康保険、税金、保育園、学校、災害対策、慶弔、諸行事、そして施政方針など・・・。

広報誌は無料で原則全世帯に配られる。だから、水や空気と同じで、普段はあって当たり前と思っているが、これがなくなれば、たちまちに困る。

広報誌は無料とはいっても当然、発行・配布費用がかかっており、それらは市の財政、ひいては市民が負担する税金で賄われている。

多くの自治体、特に地方の自治体は人口が減り、これに伴い、税収も年々減っている。財政事情はきびしい。四万十市もそうだ。

どこの自治体も行政改革などで、ギリギリ支出(歳出)を切り詰め、収入(歳入)がえられるところでは少しでも得ようと努めている。広報誌に有料広告を載せるのは、こうした手段の一つだといえる。

しかし、みなさんに考えてほしいのは、広報誌に有料広告を載せることは、本当に必要な「努力」といえるのだろうか。

自治体運営の原則は公平平等。
広く市民に情報を伝え、市民からも広く情報を得なければならない。

広報誌に有料広告を載せるということは、市民のための大切な誌面を「売る」ということである。結果、情報スペースがその分だけ削られるということになる。

また、広告には、こんな問題もある。仮に、広告の内容に問題がありトラブルになった場合、またその広告主が何か社会的問題を起こした場合、市は掲載責任を問われることになる。市は広告を載せただけであり、商品内容等には関知していません、と言っても通用しない。これについては、「広告掲載要綱」において、業者を厳選することにしてはいるが、常にそんなリスクをかかえることになる。

「広報しまんと」では、裏表紙の下段約半分に広告を載せているが、その販売価格は1カ月7万円(プラス消費税)である。年間にすれば84万円の収入になる。(今年1~8月号の広告内訳は、不動産販売3、文具販売2、福祉施設、学校制服販売、コインランドリー各1)

これを発行費用の一部にあてるというのなら、広報の誌面を縮小してその分発行コストを抑えるのと、同じとも言える。

また、よくある無料のタウン誌と同じように、思い切って広告のページを半分ぐらい(またはそれ以上)にして、発行コストのすべてをまかなうという方法も考えられなくはない。

広報誌の役割はNHKに似ている。公共放送のNHKはマーシャルを流さない代わりに、国民の受信料でまかなっている。もし、受信料を払いたくないというのなら、NHKはコマーシャルを流すことになろうし、民送と変わらなくなる。

その代わり、台風、地震、交通情報のような国民の命に直結するような、きめ細かいな情報は流されなくなるであろう。また、Eテレでつくられているような教養・教育番組も少なくなるであろう。(NHKが公共放送としての役割をいま本当に果たしているかは別の問題)

先に紹介したように、「暮らしの手帖」の花森安治は、広告を載せることは「魂(たましい)を売ること」と言った。

これは、画家(芸術家)が自分だけで絵を描き上げるように、「暮らしの手帖」という自分の作品は隅から隅まで自分の手(責任)で仕上げたいという、花森編集長の熱意、願望のあらわれでもある。それだけ自分の作品に対する思い入れが大きかったのだ。

これは広報誌についても同じだ。広告を載せるかどうかは、自治体としての主体性、ひいてはトップ(首長)の思い入れにもかかわっている。

広報誌を単なる市民への回覧板のようなものとみるのか、首長からのメッセージと位置付けるかである。

広報誌は、首長が住民と情報交換できる唯一の恒常パイプである。

住民への情報提供、および住民からの情報収集は、自治体の生命線である。これをコスト問題とからめてはいけないと思う。

四万十市は、今年度から、市立図書館運営と市民病院給食業務を民間委託した。コスト削減のためである。一方で、3年前から副市長を外部(中央官庁)から迎え、2人にしている。

自治体の究極の使命は、住民の命と暮らしを守ること。

そのために、必要なコストと無駄なコスト。

真剣に、考えてほしい。(終)

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広報と広告(1)

 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」を見ている。「暮らしの手帖」を創刊した大橋鎭子(社長)と花森安治(編集長)の物語だ。

「暮らしの手帖」(前身)は、戦後間もない昭和21年創刊。食料や物不足で戦後の混乱が続く中、国民の暮らしが少しでも豊かで楽しいものになるために役立ちたいと、衣・食・住、全般にわたり、生活の工夫、改善のための様々な提案をした。

根底には、戦争への反省から、一人ひとりが自分の暮らしを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中にしたい、という思いがあった。

広告を載せないというのも理念の一つであった。生活者としての「公平な視点」を徹底するためである。

ミシン、アイロン、トースター、洗濯機などの商品試験を行い、生活者の視点か
ら問題点、改善点などを指摘した中で、メーカーなど各方面から強い反発があったが、これを続けられたのは、生活者からの支持とともに、広告を載せなかったからだ。

しかし、実は、創刊間もないころ、一度だけ広告を載せたことがあった。その時のいきさつがドラマに描かれていた。

資金不足の中で、常子(大橋)は雑誌を続けるためには、広告を載せざるをえないと判断。これに対し、花山(花森)は、広告を載せれば魂(たましい)を売ることになり、自由な編集ができなくなると、頑としてこれを拒否。

追い込まれた常子は、花山の了解をえないまま、独断で広告を載せた。花山は怒って去り、二人は絶交状態になる。案の定、広告主から、記事に対して注文(要望)がくるようになる。

常子は花山に頭を下げ、花山はやっとのことで戻る。

このシーンは胸に迫るものがあった。私の体験と重なったからだ。
・・・ならば、市の広報誌には、広告は必要なのか???

四万十市が毎月発行する「広報しまんと」には有料広告欄がある。しかし、私は市長就任後、広報誌に広告を載せるのはおかしいと判断し、これをやめた(休止した)。

広報誌は、全国どこの自治体も発行している。自ら定める「広報発行規則」に基づいて。

「規則」はどこも似たようなものであろうが、四万十市は広報発行の「目的」を

「 本市の行政その他諸般の事項を広く一般市民に周知徹底させ、市政の民主化を図るとともに、正しい世論を喚起し、相互理解と協力を促進するため 」

とし、「掲載事項」は、以下の通り定めている。

(1) 諸法令、諸例規等の市民への周知に関すること。
(2) 市の諸施策及び行事等市民への徹底に関すること。
(3) 市政に対する民意の反映に関すること。
(4) 市内各種団体の市政に対する協力に関すること。
(5) その他必要と認められる事項

むずかしいことを書いているが、要は、市の情報を広く市民に伝え意見交換をすることだ。また、

「 広報には広告欄を設け、有料広告の掲載をすることができる 」

とも、定めており、別途「広告掲載要綱」で料金、募集方法等の手続きを決め、実際の運用を行っている。

今回、県立図書館に出向いて、高知県内34市町村の広報誌を全部調べてみたところ、現在有料広告掲載をしている自治体は9あった。四万十市は私が市長をやめたあと広告が復活したので、この中に含まれている。このほか、高知県の広報誌「さんSUN高知」も有料広告を載せている。

みなさんのところの広報誌はどうであろうか。(続く)

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満州分村慰霊

 8月22日は、江川崎満州分村犠牲者慰霊の日。

今年も、江川崎保育園隣にある満州分村殉難碑と戦没者忠霊塔に、引き揚げ者が集まった。

昭和17年から19年にかけて、旧江川崎村から村を分ける形で429人が満州に渡ったが、敗戦後の引き揚げの中で、襲撃、飢餓、病気などにより、7割以上の人が生きて「母村」に帰ることができなかった。

江川崎満州分村については、このブログですでに2回書いている。

 満州分村 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-187.html
 満州大清溝 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-146.html

昭和20年8月15日は、日本敗戦の日。戦争が終わった日。しかし、満州では地獄のような戦争が始まった日である。

開拓団は奥地に入植しているので日本の敗戦を知ったのは8月19日になってから。8月22日、引き揚げ(脱出)を開始した。

毎年、この日に生存者が集まり、満州で命を落とした家族や仲間たちに手を合わせている。

しかし、生存者も年々少なくなり、今年は6名。

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忠霊塔の扉を開けると、戦没兵士の名前と一緒に、満州での犠牲者たちの名前が記された位牌が並んでいる。線香とローソクを立て、供え物を置き、一人ずつじっと手を合わせた。

江川崎村開拓団員の位牌の数は316。
ほかに、津大村開拓団員(昭和33年、両村が合併にして西土佐村になる)の位牌が44ある。

きょうの江川崎の最高気温は38度。
じりじりと焼け付く暑さは、71年前の満州も同じだっただろう。

昨年、地元出身作家中脇初枝が取材調査にもとづき江川崎開拓団をモデルにした小説「世界の果てのこどもたち」を書いた。本屋大賞4位になっている。

8月31日には、その中脇初枝が江川崎に来て、市民大学講演「『世界の果ての子どもたち』が生まれるまで~幡多から旧満州に渡った人たち~」がある。

私はこの小説をもってきて、犠牲者たちにその報告をした。

慰霊の集まりがいつまで続けられるかわからない。

しかし、・・・
「あなたたちのことはみんな決して忘れません」と。

大文字送り火

土佐の小京都中村の夏の風物詩、大文字の送り火に今年も手を合わせてきた。

場所は四万十川河口近くの間崎地区。土佐清水に向かう国道からすぐ右手に十代地山(通称大文字山)見える。私が住んでいる実崎の隣で同じ旧八束村であることから、ほぼ毎年出かけている。

この行事がいつごろから行われてきたかはっきりとした記録はないが、16世紀、土佐一條家初代房家が京都を懐かしんで始めたものと言い伝えられている。

地元間崎地区の人たちが3班に分かれ、毎年交代で松明を集めてきて山の斜面に並べ、神事のあと、薄暗くなったころの7時15分、点火する。夜空に字が少しずつ浮かびあがり、20分ほどで大の字が完成する。今年の夏は雨が少なく乾燥しているため火の勢いがよく、例年になく豪快な字になった。

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伝統行事としての大文字送り火が行われているのは全国で京都とここだけ。最近京都は毎年8月16日と決まっているが、ここは旧暦(7月16日)を続けている。

私は京都の送り火を鴨川べりから見たことがあるが、山との距離があるため、大の字は遠く小さくしか見えない。しかし、ここは目の前に、ど~んと迫ってくる。手でつかみとることができるぐらいで、迫力が全然違う。
 
それなのに見物する人は少ない。山のふもとの広場にやぐらを組んで盆踊りも行っているので、そうした地元の人たちが中心であり、中村の町や市外からも来る人もいるにはいるが、せいぜい合わせて数百人というぐらいだろうか。ひしめきあうという感じには遠い。

これだけの伝統行事であり、小京都中村のシンボルとして、市のほうでもPRをしているのに、不思議である。地味なためであろうか、一度見れば十分と思っている人が多いようである。

これに比べて、8月末に行われる四万十川花火大会(9千発)はものすごい人気である。最近は市の人口を上回るような数万人規模である。市外、県外からの人のほうが多い。ホテルは満室。

こうした影響を受け、3年前から、大文字送り火にも花火がセットされるようになった。送り火が消えかかる終盤の8時、盆踊りを一時休んで、ドドーンと花火があがる。

花火は、もっと多くの人たちに送り火を見に来てほしい、伝統行事に参加してほしいという、地元の人たちの気持ちの表れであり、地元企業からの協賛金でまかなっている。

花火は数百発で、わずか10分ほどで終わる程度にすぎないが、しばしの間、送り火と花火の競演が見られる。

・・・しかし・・・私は複雑な気持ちになる。送り火に花火は似合わないのではないかと。

大文字の送り火は、あくまでお盆の送り火であり、あちらの世界に戻るご先祖様を静かに見送るもの。一方、花火は、季節や行事に関係なく行われる「祭り」である。

京都の大文字に花火はない。仮に花火が行われたとすれば、みなさんどう思うであろうか。せっかく伝統行事に触れようと思って来たのに、興ざめと思う人も多いだろう。

花火がセットされるようになってから、送り火を見に来る人は、少しは増えたようにも思うが、大勢には影響がないような気がする。

花火ならどこでも見られる。
しかし、大文字送り火は、ここと京都だけ。

送り火は、しみじみと味わったほうがいいと思う。

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高知と徳島

 甲子園の神様のイタズラか。問題提起なのか。

8月18日、高校野球準々決勝は、明徳義塾(高知)と鳴門(徳島)の隣県対決となった。(結果は明徳義塾が3-0で勝った)

敵なのか、身内なのか。皮肉にも、先の7月10日投票の参議院選挙では両県がはじめて合区された直後であるだけに考えさせられた。

1. 地域代表か国代表か

 私がこどもころは、夏の全国高校野球大会予選は高知、徳島で争う南四国大会があった。それが1978年から1県1校(北海道、東京は2校)になった。

 当時もいまも予選参加校数は都道府県によって大きな差がある。(今大会では、神奈川196、愛知、大阪188、に対し、鳥取25、高知32、徳島34)しかし、それとは関係なしに、1県1校ということは、各校が都道府県という「地域代表」として認められているからである。

「1県1校」ないし「1県1人」という考え方は、スポーツだけでなくいろんな大会で広く認知されている。

これに対し、いまリオ・オリンピックの最中であるが、日本の各選手は全国いろんなところの出身者がいるが、全員が国代表であることは誰もが認めることであろう。


2. 憲法違反

では、国会議員は地域代表か国代表か。これは国代表であることはあきらかである。(各県代表には県議会議員がいる)しかし、選挙区が各地域別に分かれて、それぞれ人口(有権者)が異なることから、指定枠数(定数)をめぐって、不平等になっているのが現状である。

国民の投票権は基本的人権の一つであり、これに差があることは憲法違反であると、何度も最高裁判決で指摘されている。この判断は正しいと思う。

「定数調整」の弥縫策として導入されたのが先の合区である。しかし、これは高校野球南四国大会の復活であり、歴史に逆行。しかも、高知、徳島と鳥取、島根だけが「犠牲」になるものであり、県民感情からも受け入れがたいとして大きな反発があがっている。私も反対である。

3. 公平平等

 これの解決策をめぐって自民党筋から憲法改正すべきという議論がある。「地域枠」として各県1人保障するという考え方である。

しかし、これはどう考えても理屈が通らない。高校野球と同じように、例えば各県定数1とすれれば、それなりにすっきりする。しかし、野球と選挙を一緒にしてはいけない。「基本的人権」よりも「地域」を優先することは、とても憲法上認められない話であろうし、人口の多い東京の議員が高知と同数のたった1人では、都民が納得しないであろうし、実際問題として議員の負担が大きすぎることになり、とても耐えられない。

各県に定数1を保障したうえで、あとの上乗せ分に格差を残したままにするのなら、大同小異である。

しかも、憲法改正論は、本丸である憲法9条改正のための地ならしにしようという、魂胆(悪知恵)がすけてみえる。

となれば、根本的解決策は2つしかない。
選挙区を全国一本化にするか、議員定数の増加である。

全国一本化については、過去に参議院に全国区という制度があり、いまも比例区として受け継いでいる。しかし、これならば、結局人口の多いところに地盤をもつ議員が有利になることは容易に予想できる。また、選挙を身近に感じてもらうためには、選挙区は残したほうがいいと思う。

私は定数増がベストだと思う。

「痛みをともなった改革」「身を斬る改革」などが流行語になっているいまの状況では、定数増などとんでもないと思われるかもしれない。

しかし、よく考えてほしい。本来、国会議員は国民の声の代弁者であることから、その数が多いほど、多様な意見が国会に寄せられることになる。

もちろん定数増といっても議員歳費が国民の税金負担に跳ね返ってくる以上、無制限というわけにはいかず、おのずと制約はあるだろう。

一つの目安として考えられるのは政党交付金を廃止し、その財源でまかなえる範囲までである。

各政党の運営資金は、それぞれの政治活動の中でカンパを集めるとかして、自力で資金を集めるのが本来の姿である。なぜ、支持もしない政党のために税金が使われなければならないのか。相変わらず不正なカネの問題が跡を絶たないのをみても、「政治の浄化」を理由に導入された政党交付金制度が失敗したことは明らかである。現状では議員歳費総額よりも政党交付金のほうがはるかに多い。

 以上が私の意見。

そもそも、こうした議員定数不公平という問題が長い間放置されている背景には、この不公平の「恩恵」を戦後の保守政治が享受してきたことがある。自民党得票率が30%台なのに、議席では圧倒的多数を占めるという現状がある。

みんな、よく考えろ。
甲子園の神様は、これを指摘したかったのだ。。


プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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