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追悼 田頭文吾郎

6月17日、田頭文吾郎さんが亡くなった。87歳。

文吾郎さんは25歳から共産党中村市会議員3期、高知県会議員8期をつとめ、78歳で議員は引退したものの、それ以降も最後まで、農業と政治の二足わらじで、幡多の大衆運動のシンボル的存在であった。

私は子どものころからその名前を知っているほど中村では有名人で、「ブンゴロー」という名前がかっこよく、英雄的な響きをもっていた。

私が文吾郎さんの顔を初めて見たのは学芸高校2年生で高知市内にいた時。夏の甲子園予選で地元の中村高校を応援に高知市営球場に行ったさい、スタンドで見かけた。

笑顔で「よ~」と、まわりに声をかけていた。この人があのブンゴローなのかとしげしげとみつめた。この年、中村高校野球部は南四国大会まで行った。(その後、昭和52年、文吾郎さんの長男克文さんが主将となり、「二十四の瞳」でセンバツ甲子園準優勝をした。克文さんは、現在高岡高校校長で高野連会長))

私はずっと地元を離れていたので、文吾郎さんと接することはなかった。私が50歳のころ、たまたま帰省していた時、中村駅から同じ列車になったので、思い切って挨拶し、途中の高知駅までご一緒させてもらったことがある。話をしたのはその時だけであった。

そんな私に文吾郎さんと深い縁ができたのは、市長選挙に出るために55歳で帰って来てから。私は当時の民主党、共産党、社民党の推薦をもらったので、文吾郎さんも全面的に応援してくれた。

地域を連れまわしてもらい、選挙カーにも乗ってくれた。こちらは選挙の素人なので、挨拶、握手や、マイクの使い方、演説の仕方まで、熟練のノウハウを事細かく教えてもらった。厳しくチェックされ、何度も注意された。

文吾郎さんは会う人みなに「よ~ 元気だったかい」と声をかける。さすが、顔が広い人だなと関心をした。しかし、よく聞くと、あれは知らん人だ。しかし、相手は自分のことを知っている。声をかけられて悪く思う人はいない、とケロっと笑っていた。

文吾郎さんには、共産党は好きではないがあいつは別だ、という「田頭党」がたくさんいた。だから選挙には強かった。定数2で共産党県議を8期もつとめたのだから、驚異的なことである。

しかし、文吾郎さんも最初から選挙に強かったわけでない。苦労と努力、経験の積み重ねの結果である。敵味方関係なく親身に接し、相談事を受けるとすぐに対応する。そうして信頼関係と人脈をコツコツと積み上げていった。私は文吾郎さんのことを悪く言う人に会ったことがない。幡多弁で「選挙ば~ 面白いもんはないゾ~」が口癖だったという。

文吾郎さんは昭和7年4月16日、中村の京町生まれ。姉3人、弟2人がいた。父親が事業に失敗し、戦中、一家で郊外の敷地に引っ越し。父は田んぼを借り、百姓(小作)になった。戦後、農地解放で自作農になったとはいえ、生活は楽ではなかった。

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文吾郎さんは旧制中学1年生で敗戦。3年生の時、学制改革により、中村中学は新制中村高校に移行。大半の生徒はスライドで高校に進んだが、家の経済状況を考えた文吾郎さんは、断念した。

文五郎さんは、土方仕事(日雇い)に従事した。農業のかたわらというより、土方仕事が中心であった。戦後は、道路改良や後川治水堤防工事など仕事はいくらでもあった。

昭和29年中村市誕生に合わせて、天神山を切り取って市役所庁舎を建てたさいには、ツルハシ一つで山を削る作業にも従事したという話を聞いた。長男として家計を支え、弟2人は高校に進ませた。

戦後解放の自由な息吹の中で青年団運動にも参加。すぐに頭角を現し、地元後川村青年団長 →中村市連合青年団長 →幡多郡連合青年団長 →高知県連合青年団副団長に就いた。

こうした活動の中、20歳で共産党に入党。昭和32年、被選挙権を得た25歳の誕生日のその日が告示日であった中村市会議員選挙に立候補。最年少議員となった。

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3期目満期直前に市議を辞め、県会議員選挙に挑戦。この時は届かなかったが、4年後当選した。

再選はならなかったが、次は当選。しかし、また落選と当落を繰り返したが、3回目の当選以降は8期まで連続当選をした。6期目は無投票であった。

後半は、少し若い自民党の土森正典さんと、自共で指定席であった。土森さんも9期連続当選し、この4月で引退した。土森さんは県議会議長を3回もつとめた。しかし、共産党の文吾郎さんはずっと一議員で通した。無冠こそ勲章。与野党を問わず、また歴代知事からも一目も二目も置かれる存在であった。

私は市長選で再選がならなかったあと、「たった1回落ちたば~で諦めてどうすりゃ~」とハッパをかけられた。いまでも忸怩たる思いである。

文吾郎さんは議員になってからも農業をずっと続けた。田んぼ2町歩をつくっていた。百姓が大好きであった。だから、農業問題では譲れなかった。

橋本大二郎知事と議会での「コメ論争」は有名で、知事はついに国の減反政策には従わないと表明。知事の県政スタンスは大きく変わっていった。

文吾郎さんは理論家というよりも典型的な実践家タイプの政治家であったが、この時ばかりは、実践と理論の統一を確信したのではないだろうか。

文吾郎さんは仲間や支持者から「文ちゃん、文ちゃん」と気安く呼ばれていた。しかし、ずっと年下で、おつき合いも浅い私などは、とても恐れ多くてそのようには呼べなかった。「田頭さん」か「文吾郎さん」であった。

若いころからスポーツが得意で、走るのも速かった。四万十市体育協会会長も長くつとめ、シニアソフトボールでも生涯現役であった。

そんな文吾郎さんが、3年前、肺がんの手術をした。ヘビースモーカーでたばこだけは頑としてやめなかったとか。選挙で回っていても一服タイムは欠かせなかった。

肺がんは覚悟の上のことであろうが、その直後に最愛の奥さんを突然失った。それでも、ふんばって農業を続けていた。

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昨年、ガンが再発し、以降入退院を繰り返した。私が最後にお会いしたのは今年3月、自宅を訪ねた時であった。その時は、かなり痩せられていたが、まさか3か月後にこんなことになるほどとは思わなかった。

しかし、家族は覚悟をしていたのであろう。多くの人が参列をした告別式で、長男克文さんは「父は中村と中村の人たちが大好きでした。その人たちのために仕事ができ、また大好きな農業もでき、幸せな人生だったと思います」と、確信をもった言葉で、お礼を述べていた。

戒名は「文武一徹居士」。ピッタリである。

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私は若い頃からのあこがれの文吾郎さんと、最後の少しの間ではあるがお近づきになれたことをうれしく思っている。しかし、できればもっといろんな話を聞いておけばよかったと悔やまれもする。

田頭文吾郎は間違いなく中村が生んだ歴史的人物の一人である。その足跡をたどり、記録に残せればと思っている。

そうした意味で文吾郎さんとの付き合いは続く。
文吾郎さん、これからもどうぞよろしくお願いをいたします。

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NHKのイラク報道

安倍首相は何のためにイランへ行ったのか。参議院選挙まえの実績づくりにしようという魂胆から、アメリカから頼まれもしないのに仲介役を買って出たものだが、結果は日本の恥をさらしただけでなく、両国の緊張対立に火をつけた結果になった。

イランの最高指導者ハメネイ師はトランプとの対話を明確に拒否、とりつく島もなかった。安倍の面目まるつぶれである。トランプからも仲介は時期尚早だったといわれる始末。世界に日本の恥をさらすことになった。

NHKは行く前は、さかんに「よいしょ」報道をしていたが、いまはダンマリである。

新聞各紙は、ハメネイ師がアメリカとの対話を拒否したことを見出しで報じているが、NHKはそのことには触れず、「ハメネイ師の平和への信念や、核兵器の製造や保有の意図はないことを確認できた」ことは「地域の平和と安定の確保に向けた大きな前進」などと、ピント外れな報道をしている。

さらに、日本タンカー攻撃事件もおこった。ハメネイ師との会談最中に、である。犯人はだれであるかわらないが、日本の首相訪問に合わせ、両国の緊張を高めたいグループ(国)がやったことは、間違いないだろう。緊張が高まり一番喜ぶのはトランプだが・・・

安倍はトランプのメッセンジャーを自作自演した。メッセンジャーだけなら子供でもできる。日本独自の主張はしたのか。

そもそも最近の両国間の緊張の高まりは、トランプが一方的に関係国核合意からの離脱を表明したことに始まる。安倍が申し入れるべきはイランではなく勝手気ままなトランプに対してである。

NHKはそんな解説はいっさいしない。政府に都合がいように報道し、まずくなればダンマリ。

これでは、戦前の大本営発表と同じである。

関東幡多の会

関東幡多の会の第8回総会・親睦会が今年も5月25日、東京のホテル(東武ホテル・レバント東京)で開かれた。私は第1回に参加して以降は参加していないが、その後も継続して開かれていることはうれしいことである。

この会の発足は2012年3月10日で、私もかかわったので、そのあたりの経緯を書いておきたい。

ことの発端はその2年半前。2009年11月に東京で開かれた関東高知県人会に、私は出席した。その席で、中村出身の平田一郎さんに初めてお会いした。平田さんは、県人会の世話役をされていた。

平田さんが言うには、東京では県下市町村それぞれの出身者の会(集まり)がたくさんあるのに、四万十市には中村市時代からないので、寂しい思いをしている、なんとか四万十市出身者の会をつくれないものかと。

私はぜひ一緒につくりましょう、市としても応援をしますよ、と答えた。

2011年、市は「四万十市ふるさと応援団」制度を立ち上げた。四万十市出身者や縁のある方、たんに四万十市が好きな方でもいい、全国から広く募集した。すぐに登録者は1000人を超えた。

一方、平田さんらは、中村高校同窓会東京支部のみなさんを中心に呼びかけ、世話役をしてくれるような方々を集めてくれた。

そして、2012年3月10日、私も上京し(藤田豊作市会議員も一緒に)、新橋の土佐料理屋で世話人会を開いた。

東京のメンバーは、平田さん(初代事務局長、現相談役)のほか、中野正三さん(会長)、久禮孝博(副会長)さん、山崎進一さん(幹事長)ら12人。その場で、会の目的、規約、名称などを決め、会が発足した。

会の目的は「親睦」とあわせ、「四万十市の発展に資する」ことを明記してもらった。

そのうえで、一番議論したのが会の名称。「中村」の名前を入れるかでどうかで。関東中村会、関東幡多中村会、中村四万十会などの有力意見も出たが、中村では西土佐が含まれないということもあり、最終的に「関東幡多四万十会」とすることで一致した。

ここで言う「幡多」とは「幡多郡」の意味ではなく、東京にはすでに「東京四万十会」という高岡郡四万十町出身者の会(主に窪川町)があるので、そちらとの混同を避けるために「幡多の四万十=中村、西土佐」という意味付けをしたのだった。

会の世話人にみなさんは、もちろん全員、四万十市ふるさと応援団にも入団してくださった。

そして、いよいよその年の6月30日、関東幡多四万十会の第1回総会を五反田ゆうぽうとで開いた。それまでの経緯から、四万十市ふるさと応援団との共催による「交流会」とした。120人の参加者があり、大いに盛り上がったのは言うまでもない。

私は翌年市長を引いたので、第2回以降には参加はしていないが、以降も中野会長以下のご尽力により、総会は毎年5,6月に開かれており、すっかり定着したようである。

しかし、総会の形は、2016年の第5回から変わった。「関東幡多四万十会」の名称が「関東幡多の会」に変わり、あわせて「四万十市ふるさと応援団」との共催ではなくなり、単独開催となったことである。

名称については、発足当初から意見があった。世話人の中心は中村高校OBであるが、同校には幡多全域から進学するので、四万十市生まれ以外の方も含まれている。そんな配慮から、「目的」に「四万十市出身者等の」と「等」を入れ、幡多全域からも参加できるようにしていた。

その後の詳しい議論の経過はきいていないが、もともと幡多は歴史文化面でもまとまりのある地域であるから、それならば名称も「幡多の会」にしたほうが、広く参加者を拡げやすし、会の運営もしやすいということになったのだろう。

会の規模拡大、発展のためには、これはこれでまっとうな話であると思う。重要なのは、関東に住む方々の考え、思いである。

しかし、四万十市の立場から言えば、お隣の宿毛には東京宿毛会、土佐清水には関東土佐清水会があり、やっと四万十市の会ができたのに・・・・・・という思いはある。この時、四万十市側はどんな意見を言ったのだろうか。

なにより、四万十市ふるさと応援団との共催でなくなったことによって、幡多地域出身者以外の一般団員の参加が難しくなったことだ。(もちろん門戸開放はしていると思うが)

ここのところ、四万十市ふるさと応援団の活動の姿がみえない(市事務局によるネットニュースの発行が減っている。団員から市広報へ投稿もない。)ことも、こうしたことが原因の一つになっているのではないかと、気になるところである。

一方で、最初のころにはなかったことであるが、最近では幡多の会のメンバーによる里帰りツアーが行なわれ、つい先日もお迎えしたようであり、すばらしいことであると思う。

私自身も長くふるさとを離れていたので、そうした人たちのふるさとを思う気持ちはよくわかる。そうした思いを大切に、互いの交流を深めていってもらいたいものである。


関東幡多の会ホームページ →https://kochi-hata.com/

次郎物語

ジャガイモを掘りながら、NHKラジオ「すっぴん」を聞いていたら、懐かしい名前の池田秀一がゲストに招かれていた。

その名前は、私が小学校6年生のころのNHKテレビドラマ「次郎物語」の主人公次郎の少年役をしていた。

テレビの主題歌はペギー葉山が歌っており、

 ひとりぼっちの次郎はのぼる・・・
 ・・・
 次郎、次郎、見てごらん。
 松の根は岩を砕いて生きてゆく~

というフレーズはよく覚えている。

久しく名前を目と耳にすることはなかったが、ラジオインタビューを聞いて驚いた。昭和24年生れの池田は、NHKでは子役であったが、その後もずっと俳優として結構いろんなドラマに出ているそうだ。NHK大河ドラマや、民放「太陽にほえろ」など。しかし、その番組を見なかったからだろう。とんと気づかなかった。

最近は、声優としての仕事のほうが中心のようで、アニメ「機動戦士ガンダム」の主人公シャア(というそうな)の声役で有名とか。私にはまった縁のない分野であるが。なるほど渋い声だ。

私にとっては池田秀一というよりも「次郎物語」だ。NHK放送と、どっちが先だったかは覚えていないが、小学校6年の読書の時間に、担任の東近三子先生がこの本を読み聞かせてくれた。

先生が読んだあと、みんなも自力で読まされたような気がする。そして、その読書感想文を書かされた。

東近先生には、ほかにも作文をたくさん書かされた。それを時々文集にまとめてくれた。ある時の文集に、私の「次郎物語」感想文を載せてくれ、ほめられたことがあった。

「次郎物語」は下村湖人の自伝的小説で、幼少期から青年期まで全5巻書かれ、結局未完に終わった作品である。東近先生に読んでもらったのは、幼少期の第1巻の一部であったので、だいぶ後から全巻を読んだ。

私は、このブログを書いていうように、文章を書くことが好きとまでは言えないが、あまり抵抗もなく書けているのは、遡れば、東近先生に書かされた作文に行く着くものであり、その一つが「次郎物語」であったことは間違いない。

「次郎物語」には、そんな恩義がある。

斑唐津

私はやきものに興味をもっている。趣味と言えるかどうかわからないが、結構いろんなやきものを集めている。

以前、転勤や出張の多い仕事をしていたので、全国各地をまわったさい、休日や時間の合間をみて、その土地の窯場や陶芸作家を訪ねた。

全国のちょっと名の知れた窯場はたいてい歩いた。

伝統的窯場は西に多い。六古窯(備前、丹波、信楽、越前、常滑、瀬戸)のほか、九州沖縄では、壷屋、薩摩、小代、小鹿田、小石原、上野、有田、伊万里、唐津、中四国では、萩、島根、鳥取、砥部、大谷、内原野、関西では、京都、伊賀、赤膚、出石などだ。

関東は、笠間、益子など。
北海道にも転勤でいたので、結構徘徊した。

東京、大阪にいた時は、全国の作家たちが、個展を開くので、見に出かける。都会にはこだわりの専門店も多い。いつしか、かさばらないものとして、ぐい吞み、徳利などの酒器をメインに買うようになった。

いまは地元に引っ込んだので、そうした出会いも少なくなった。もっぱら以前に買ったものを眺めたり、触ったりして楽しんでいる。それぞれに出会った時の思い出が埋め込まれているので、古い日記をめくるような、楽しさや恥じらいがある。

好みもいろいろに変わったが、いま気に入っているのは斑(まだら)唐津である。斑唐津とは、藁灰釉をかけて焼くと器の表面に釉薬が流れて斑模様になる、唐津焼の手法の一つ。

この独特の斑模様は、唐津の土でないと出ない。砂が混じった、唐津でしか取れない粘土。

唐津とは唐(中国)につながる津(港)という意味であるように、唐津の焼き物は中国、朝鮮から伝わったもの。瀬戸焼がセトモノになったように、唐津焼もカラツと呼ばれ、焼き物全般をさす言葉にもなっているくらいだから、ともに日本を代表する焼き物産地であるということだ。

20数年前、福岡に転勤していたころ、唐津にはたびたび出かけた。そうした中で、ご縁ができた作家の一人に府川和泉さんがいる。

彼女は当時30代前半で、修行から独立をして間もないころだった。山の中に窯をつくり、こんな寂しいところに若い女性が大丈夫なのだろうかと、余計な心配をしたものだった。「空(そら)」という陶房名をつけていた。

彼女の作品は、唐津の伝統にのっとったもの。奇をてらわず、コツコツと焼く。地味な中にも、女性らしい柔らさや温かみのあるものだった。

私が福岡を離れてからは、会う機会はなくなったが、作品はいろんな縁で求めてきた。

6年前、はじめて高知市で個展(3人展)を開くという案内をもらい、びっくり。久しぶりに本人に再会した。

そして、今度は、いの町の土佐和紙工芸村で個展(2人展)という葉書をもらったので、5月30日、またお会いした。

前回は斑唐津が少なかったので、今回は多めにとあらかじめ頼んでいたところ、約束どおり、たくさんもってきてくれた。

どれも素晴らしい作品ばかりだった。垂涎とはこのことを言うのだろう。この間の彼女の「進化」というよりも「深化」がにじみ出ている。

日々、黙々と土と対話をしていると、土のほうから、こういう形にしてほしいというようなリクエストが伝わり、勝手に指先が動くという。自然体のフォルム。

人間がつくるのではなく、土が人間をつくる。何事も極めるということは、日々の地味な作業の積み重ねなのだろうが、彼女の作品には、それだけではない、唐津という風土、歴史が大きなバックにある。

唐津には6年前に久しぶりに訪ねたが、また行きたくなった。大陸につながる玄界灘の濃いブルー。土と海が呼んでいる。

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以前の唐津の記事
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-24.html

高知を勇気づけた作家たち

「高知市民の大学」というのがあり、5月21日、そこに呼ばれて、幸徳秋水の話をしてきた。

同大学とは、「時代や地域が必要とするテーマを取り上げた講義を開き、市民の知的開発及び教養の向上の機会を提供する」ことを目的に、同大学運営委員会、高知市教育委員会、高知市文化振興事業団の共催で開いているもの。昭和54年からスタートしている。現在は、ややこだわり、専門的なテーマで、1講座15回コースを年2回開いている。会場は、かるぽ~と会議室。

私は高知市民ではないので、この大学のことは最近まで知らなかった。今回、高知大学の先生から依頼があったものだが、同運営委員会はどうも高知大学関係者(現役、OB)が中心になっているらしい。市民に開かれた大学にしようということで、行政(高知市)と連携して開いているようだ。行政からは補助金(運営費)が出ている。

高知市では、ほかに昭和26年から続いている「夏季大学」もある。こちらのほうは、幅広い市民を対象に、芸能人や文化人を含む気軽に聴ける講師陣としている。会場も、かるぽ~と大ホール。四万十市民大学は、こちらのほうと同じ内容だ。

「市民の大学」今回の講座(85期)は、「高知を勇気づけた作家たち(その2)」というテーマ。高知県にゆかりのある作家について話をするもの。

幸徳秋水は一般的な意味での作家ではくくれない多彩な顔をもつ。思想家、ジャーナリストであり、革命家、社会主義者、アナーキスト・・・。ここでいう作家とは、文章を書く人、モノ書き、という意味ぐらいに、広くとらえている。漫画家だっている。
 
今回選ばれた15人は、以下のとおり。

田岡嶺雲、河田小龍、倉橋由美子、中脇初枝、横山泰三、岡本弥太、幸徳秋水、上林暁、平尾道雄、馬場孤蝶、司馬遼太郎、槙村浩、寺田寅彦、青柳裕介、田岡典夫

2015年、先に開かれた「その1」(77期)では以下のとおり。

紀貫之、河田小龍、植木枝盛、大町桂月、寺田寅彦、大原富枝、吉井勇、安岡章太郎、宮地佐一郎、宮尾登美子、山本一力、坂東眞砂子、横山隆一、やなせたかし、西原理恵子

講師も多彩。それぞれの一家言のあるひとたち。このシリーズは大学の先生は少なく、高知県立文学館やそれぞれの人物記念館等の学芸員が多い。

高知市民の大学

いわゆる作家ではくくれない者が多いのが高知県の特徴か。

その中でも漫画家が多いのが目立つ。横山泰三、青柳裕介、横山隆一、やなせたかし、西原理恵子。「まんが甲子園」は高知だもの。

絵師河田小龍、科学者寺田寅彦は2回とも登場している。

幸徳秋水以外でも、田岡嶺雲、植木枝盛、槙村浩は、思想家、社会運動家といえる。中江兆民がもれているのが気になる。

紀貫之は、たまたま土左日記を書いた、平安時代の役人であり、歌人だ。


私は、今回、幸徳秋水はなぜ高知ではなく中村で生まれたのかについて持論を話した。

秋水は町人(平民)の子であったが、母方は士族であった。そんな異例の縁組ができた背景には、中村藩断絶以降、中村は町人中心のまちになったという歴史がある。秋水は身分や階級に敏感な子として育った。中村の歴史や文化が秋水を生んだ。

このことについては、以前、このブログに書いている。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-435.html

さもしい演出

アメリカトランプ大統領が来日している。安倍首相の対応ぶりがさもしいこと、このうえない。

日米関係の重要性は誰もが認めることであり、令和改元後の最初の国賓としてアメリカ大統領を迎えることは、当然と言えば当然であり、そのこと自体に私はケチをつけるつもりはない。

昨夜の豪華な宮中晩さん会も歓迎の意を示す意味で当然であろう。オバマ大統領の時も行われたし、他の国賓を迎えたさいも、たびたび開かれていることだ。

私が言いたいのはアベの心根である。

トランプと仲がいいことを見せびらかそうと、周りの迷惑も顧みず、異常なまでの演出をしているからである。額も能力もない者が、大物の尻にくっついて、虚勢をはる。はしゃぎまわる。虎の威を借るキツネか、金魚の糞。アベには、アメリカと対等独立であるべき日本の代表という誇りや気概が微塵も感じられない。自らの中身の軽さを示してる。

そのシンボルが大相撲観戦。よりによって千秋楽。国技館には天皇も座る貴賓席があるのに、わざわざ土俵に近いところの升席を撤去させ、イス席をつくらせた。厳戒警備のため、一般客を締め出し、まわりの席も大量に確保。

なのに、トランプは相撲には興味がないようで熱戦にも無反応で、正直な顔。特別トロフィー授与のために土俵に上がるさいは、特製の木の階段をつくってやり、さらになんとスリッパ。

はだしか、草履であがるのが日本の流儀、伝統文化であるだろう。相手国の文化を尊重するのが真の友好だろう。

相撲協会は官邸の無理難題にはさからえず、屈辱であったろうが、これは相撲協会だけではない、日本文化、日本人が踏みつけられたのだ。

ゴルフもそうだ。千葉県でやるとなると、警備や交通規制が大変だ。みんなに迷惑がかかる。重要な日米協議のために来日したのだろう。オバマはゴルフはやらなかった。常識があった。

しかし、トランプはしたたかである。こんな演出に協力したのは、アベに貸しをつくるためである。

トランプはトランプでアメリカ国内支持維持に必死である。そのためには、アメリカが言うところの日米貿易改善が急務である。アメリカ農民票をゲットするためには、日本にもっとアメリカ農産物を買えと圧力をかける。

記者会見では、8月には、いい発表ができるだろうと堂々と予告した。TPPは関係ないと。トランプもあせっている。

日本政府は国内向けには、TPP以上に不利な妥結はしないとさかんに言っているが、すでに裏取引ができているのだろう。7月には参議院選挙があるので、そのあとに発表するシナリオのようだ。記者会見でアベは、だんまり。

日本の農家、国民を犠牲にしてまで、トランプの歓心を買うためにシッポをふり、仲のよさを演じてもらう。それは、自分の権力維持のため、国民をだまして参議院選挙(衆参同日選も)に勝つためである。

拉致問題もそうだ。今回もトランプは拉致被害者家族に会った。2回目。安倍が頼んだのだろう。しかし、アメリカはやる気がないのは見え見え。

家族たちの憔悴した顔が象徴している。これまで何度もアベに利用され、裏切られてきている。今回も同じであることはわかっている。しかし、政府に頼るしかない。そこにつけこんで、利用しまくる。北朝鮮問題では、日本は完全に茅の外に置かれているのに。

日本は独立国家である。アメリカの属国ではない。
しかし、アベでは、対等平等の日米関係はますます遠くなる。
アベには、一日もはやくやめてもらうしかない。

高知の偉人とは

高知市ひろめ市場前の道を少し西に進んだところ、高知城歴史博物館裏入口前のNTT高知支店の建物壁際に「土佐ゆかりの偉人」の看板があることをご存知の方は多いと思う。現在18人の人物の顔写真と解説文が載っている。

今回調べたところ、この看板は、観光客向けにNTTが約20年前に設置し、最初12人からスタートし、以後何度か追加削除を続け、今年の4月から5人を追加、3人をカットし18人になった。

私はこれまでここに幸徳秋水と中江兆民の名前がないのが不満であったが、今回の入れ替えでこの2人が加わった。これは当然であり、遅きに失した感はあるが、よかったと思う。

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今回加わったほかの3人は、紀貫之、義堂周信・絶海中津(2人セット)、小野梓。カットされたのは、見性院(山内一豊妻千代)、坂本乙女(龍馬の姉)、大町桂月、である。

ちなみに、18人中残りの13人は、長宗我部元親、山内一豊、野中兼山、中浜万次郎、山内容堂、武市半平太、岩崎弥太郎、坂本龍馬、板垣退助、中岡慎太郎、牧野富太郎、濱口雄幸、寺田虎彦、である。

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これまではNTTが歴史愛好家などの意見を任意に聞いて人物選定をしていたようだが、今回は高知城歴史博物館の監修を受け選定をし直し、パネルの中身も新調したそうだ。だから、この顔ぶれは実質的に高知県の公式認定といってもよいくらいの重みをもつといえるだろう。

こうした中で、幸徳秋水、中江兆民の師弟が選ばれたことは、やっと二人が地元で正当に評価をされたといえるものであり、私も安堵している。

そのうえで、言いたいことがいくつかある。

1.「偉人」とは「偉い人」という意味だが、だれがえらいか、えらくないのかの選定はむずかしい。その基準は人の判断によって異なるのは当然である。

ここの18人は、歴史上の有名人物であることは間違いないが、戦国武将の長宗我部や山内などが、えらい人であるというのには違和感がある。この看板は、土佐ゆかりの「人物」とするのが適当であると思う。(高知城歴史博物館はそのような意見を言ったが、NTTは受け入れなかったという。)

なお、この看板は、今年3月までは「土佐の偉人」であったが、紀貫之のような土佐以外生まれの人物も今回選定したので、「土佐ゆかりの」に変更をしたという。これは正しい。

2.高知県ホームページの高知県の歴史紹介コーナーの中に「高知の偉人」があり、11人が掲載されている。

長宗我部元親、山内一豊、野中兼山、中浜万次郎、武市瑞山(半平太)、坂本龍馬、板垣退助、中岡慎太郎、牧野富太郎、岩崎弥太郎、吉田茂。

http://www.pref.kochi.lg.jp/info/ijin.html

ここでは、NTT看板にある幸徳秋水、中井兆民など8名が漏れている一方で、看板にはない吉田茂が入っている。(吉田茂の父竹内綱は宿毛出身だが、吉田茂は東京生まれ)

NTT看板の18人は高知県公認の顔ぶれといえるだろう。それなのに、高知県ホームページの顔ぶれと一致しなのは、いかがなものか。

高知県は「偉人」という言葉が使われていることを含めて見直しを行い、NTT看板の18人に合わせることを提案したい。

秋水で日韓交流

5月13日、韓国ソウルから金昌徳(キムチャンドック)さんが、幸徳秋水を訪ねてみえた。東京のアナキズム、金子文子研究者の亀田博さんと一緒に。

金昌徳さんは、国民文化研究所の総務理事で、韓国アナキズム学会の副会長、韓国アナキスト独立運動家記念事業会の事務局長をされている。

日本語も堪能で、たびたび来日されているそうだが、高知県ははじめてで、私も初対面。今回は日本帝国主義の朝鮮支配からの独立運動に影響を与えた二人の高知県人、幸徳秋水と槙村浩の調査研究が目的。前日は槙村の高知市内を歩いた。

今年は朝鮮独立3.1運動から100年。日本は改元。幸徳秋水を顕彰する会では6月16日、韓国映画「金子文子と朴烈」を上映予定で、グッドタイミングでの来訪となった。

午前10時、顕彰会メンバー4人で2人を中村駅で迎えたあと、最初に市立図書館内「秋水資料室」に案内。韓国の国営テレビ局KBSのカメラマン1人も同行取材。秋水をテーマにした番組をつくるそうで、終日、金さんだけでなく、亀田さんや私も、インタビューを受けた。中平市長も在席されていたので、飛び込みで、挨拶をさせてもらった。

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市役所建物内の図書館に秋水資料室があることは、四万十市として秋水を顕彰しているという姿勢を示すものであり、金さんへのアピールとなっただろう。

昼食をはさんで、秋水墓、生家跡、遊焉義塾・木戸明邸跡、為松公園内の絶筆碑、郷土博物館へ。

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秋水らが最後に逮捕された1910年(明治43)は、日韓併合と同年である。首相は桂太郎。

その前年、伊藤博文がハルピン駅で朝鮮独立運動家安重根にピストルで撃たれた。秋水は、安の「義挙」を称える漢詩をつくったことは有名。秋水は、朝鮮、中国の独立運動に関心を寄せていた。

日本におけるアナキストの第1号は秋水である。1906年、アメリカサンフランシスコから帰国し、議会主義から直接行動論へ「余が思想の変化」を発表。クロポトキンの「麺麭の略取」も翻訳した。秋水の本は朝鮮でも出版された。

秋水刑死後、秋水思想は、申采浩(シンチェホ)など、朝鮮独立運動家に影響を与えた。そんな流れの中で、朴烈、金子文子が登場するのである。

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日本では幸徳秋水は有名だが、金子文子はあまり知られていない。しかし、韓国では逆であり、文子とその裁判を弁護した布施辰治は有名だが、秋水のことが知られ、評価されだしたのは最近になってからのことだという。文子と布施は、韓国国家から名誉称号をもらっている(日本人では2人だけ)。

2011年、韓国SBSテレビが、韓国独立に影響を与えた日本人3人、金子文子、布施辰治、幸徳秋水を取材に来日し、中村にも来たことがある。当時市長であった私もインタビューを受けた。

博物館の屋上(天守閣)から一望できる中村のまちの眺めを、カメラマンが感嘆の声をあげながら、さかんに取り込んでいた。韓国には、これほどの緑の景色はないそうだ。

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佐田沈下橋、香山寺、一條神社も案内をした。

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夜は、カメラマンを含め計7名で中村料理を囲んで日韓交流。大いに盛り上がった。

今年の3月1日、ソウルの広場で独立運動100年式典が開かれたさい、日本の外務省は、反日ムードが高まり危険だから韓国への旅行は控えるようにと発信をした。

しかし、実際はそんなことはなく、参加日本人は大歓迎であったという。韓国国民は過去の日帝支配と一般国民をきちんと分けている。

反日をあおっているのは安倍政権である。そのほうが支持率が上がるから。徴用工、従軍慰安婦問題でも、異常なほどの発言を繰り返していうのはそのためである。ヘイトを国が主導している。

金子文子は栃木刑務所で抗議の自殺をした。その遺骨は韓国に運ばれ、朴烈のふるさと聞慶(ムンギョン)に丁重に葬られている。そばには朴烈記念館もできている。毎年7月23日の文子命日には、そこで式典が開かれるそうだ。

金さん、亀田さんから誘われたので、今年の7月行ってみようかなと思っている。

なお、安重根は死刑になったが、その裁判(旅順の関東都督府地方法院、当時の清国)で弁護士をつとめたのは水野吉太郎と鎌田正治。水野は高知県香南市出身。鎌田は鳥取県生まれだが、のちに水野に従い高知に来て、ともに活動をした。

また、検察官の溝渕孝雄や小松憲兵(警察)など、裁判に関与した人間に高知県関係者が多かった。これは偶然だが、こんな経緯から、安が獄中で書いた漢詩などが、高知県に残されていた。いまはソウルの安重根記念館に寄贈されている。
こうした面での韓国ー高知の交流も行われている。

このことについては、自由民権運動研究者、公文豪さんが詳しい。

知事訪中に疑問

尾﨑知事は4月24日~29日、中国北京を訪問した。その目的は何だったのか疑問である。

県ホームページ「知事の動き」よれば、尾﨑知事は安倍首相の特使としての任務をもった自民党二階幹事長を団長とする訪中団に加わり、ほぼ連日行動を共にしている。

二階氏は中国が提唱する「一帯一路」国際フォーラムへの出席に合わせ、各国首脳と精力的に会談。初日、習近平中国国家主席との会談では安倍首相からの親書を手渡し、訪日を促したことが大きく報道された。また、ベトナム首相、ネパール大統領らとも会談。いずれにも尾﨑知事は同席(記者会見にも)している。

習近平との会談を載せた高知新聞記事(4月25日付、共同通信配信、同紙は同行せず)の写真には日本側の一番隅に知事が写っている。

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しかし、高知新聞にも書かれていないように、習近平との席においては当然ながら知事の発言機会はなく、ただ「お供」のように同席するだけのことが高知県知事としての公務とどう関係するのであろうか。

このことを県秘書課に問い合わせたところ、二階氏は安倍首相の特使であり、日中関係改善を地方の立場からサポートするため、とのことであるが、本来国家間の問題は沖縄基地問題のようなケース(沖縄だけが大きな負担を強いられている)を除けば、基本的に国政マターであろう。

知事も政治家であるから、自らの政治信念等から国政に絡む行動をとることは自由である。しかし、それならば知事公務ではなく政務(私費)として峻別すべきではないか。

県秘書課は、今回知事は本県観光や園芸産品のトップセールス等も行なっているというが、以下の全体スケジュールを見ればわかるように、二階氏に帯同した行動の合間に少し組み込まれているに過ぎない。いかにも、主要な目的をカモフラージュするために、とってつけたように見える。

尾﨑知事には、政務と公務を混同するような、こうした出張は控えてもらいたい。


 知事訪中スケジュールは以下の通り。

24日 

午前 東京から中国・北京市へ。

午後 北京市で「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラム結団式。
二階俊博自民党幹事長と習近平国家主席との会談に同席。
記者会見に同席。

25日 

午前 「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラム分科会「資金融通」に出席。

午後 スマートレストラン「海底撈花鍋」を視察。
シートリップ北京・日本地域マーケティングゼネラルマネージャー&戦略的パートナー。
中国旅遊集団公司・旅行事業グループ副総裁。
エイチ・アイ・エス北京・総経理、春秋旅行社・総経理との懇談。タニン・チャラワノンCP(チャロン・ポカパン)グループ資深董
事長主催夕食会。

26日

午前 北京市。「一対一路」国際協力ハイレベルフォーラム開幕式。

午後 宋濤中国共産党対外連絡部(中連部)部長との昼食会。
「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラム会議。
二階俊博自民党幹事長とベトナムのグエン・スアン・フック首相との会談に同席。

27日

午前 北京市。精華大学への図書贈呈式、大賀蓮植樹式。
二階俊博自民党幹事長と同大学書記との会談に同席。同大学書記主催昼食会。

午後 日中地方交流対話に出席し、プレゼンテーション。日本産品発信イベントでプレゼンテーション。
中日友好協会会長との夕食会。

28日 

午前 二階俊博自民党幹事長と胡春華国務院副総理との会談に同席。二階幹事長とアリババ集団のジャック・マー董事局
主席との会談に同席。

午後 日中緑化協力記念林を視察。
北京国際園芸博覧会の日本館と中国館を視察、植樹式に同席。同博覧会の開幕式に同席。

29日

午前 二階俊博自民党幹事長とビディヤ・デヴィ・バンダリ・ネパール大統領の会談に同席

午後 記者会見に同席。
駐中国特命全権大使主催昼食会。
中国から帰国。東京泊。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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