広報と広告(1)

 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」を見ている。「暮らしの手帖」を創刊した大橋鎭子(社長)と花森安治(編集長)の物語だ。

「暮らしの手帖」(前身)は、戦後間もない昭和21年創刊。食料や物不足で戦後の混乱が続く中、国民の暮らしが少しでも豊かで楽しいものになるために役立ちたいと、衣・食・住、全般にわたり、生活の工夫、改善のための様々な提案をした。

根底には、戦争への反省から、一人ひとりが自分の暮らしを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中にしたい、という思いがあった。

広告を載せないというのも理念の一つであった。生活者としての「公平な視点」を徹底するためである。

ミシン、アイロン、トースター、洗濯機などの商品試験を行い、生活者の視点か
ら問題点、改善点などを指摘した中で、メーカーなど各方面から強い反発があったが、これを続けられたのは、生活者からの支持とともに、広告を載せなかったからだ。

しかし、実は、創刊間もないころ、一度だけ広告を載せたことがあった。その時のいきさつがドラマに描かれていた。

資金不足の中で、常子(大橋)は雑誌を続けるためには、広告を載せざるをえないと判断。これに対し、花山(花森)は、広告を載せれば魂(たましい)を売ることになり、自由な編集ができなくなると、頑としてこれを拒否。

追い込まれた常子は、花山の了解をえないまま、独断で広告を載せた。花山は怒って去り、二人は絶交状態になる。案の定、広告主から、記事に対して注文(要望)がくるようになる。

常子は花山に頭を下げ、花山はやっとのことで戻る。

このシーンは胸に迫るものがあった。私の体験と重なったからだ。
・・・ならば、市の広報誌には、広告は必要なのか???

四万十市が毎月発行する「広報しまんと」には有料広告欄がある。しかし、私は市長就任後、広報誌に広告を載せるのはおかしいと判断し、これをやめた(休止した)。

広報誌は、全国どこの自治体も発行している。自ら定める「広報発行規則」に基づいて。

「規則」はどこも似たようなものであろうが、四万十市は広報発行の「目的」を

「 本市の行政その他諸般の事項を広く一般市民に周知徹底させ、市政の民主化を図るとともに、正しい世論を喚起し、相互理解と協力を促進するため 」

とし、「掲載事項」は、以下の通り定めている。

(1) 諸法令、諸例規等の市民への周知に関すること。
(2) 市の諸施策及び行事等市民への徹底に関すること。
(3) 市政に対する民意の反映に関すること。
(4) 市内各種団体の市政に対する協力に関すること。
(5) その他必要と認められる事項

むずかしいことを書いているが、要は、市の情報を広く市民に伝え意見交換をすることだ。また、

「 広報には広告欄を設け、有料広告の掲載をすることができる 」

とも、定めており、別途「広告掲載要綱」で料金、募集方法等の手続きを決め、実際の運用を行っている。

今回、県立図書館に出向いて、高知県内34市町村の広報誌を全部調べてみたところ、現在有料広告掲載をしている自治体は9あった。四万十市は私が市長をやめたあと広告が復活したので、この中に含まれている。このほか、高知県の広報誌「さんSUN高知」も有料広告を載せている。

みなさんのところの広報誌はどうであろうか。(続く)

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満州分村慰霊

 8月22日は、江川崎満州分村犠牲者慰霊の日。

今年も、江川崎保育園隣にある満州分村殉難碑と戦没者忠霊塔に、引き揚げ者が集まった。

昭和17年から19年にかけて、旧江川崎村から村を分ける形で429人が満州に渡ったが、敗戦後の引き揚げの中で、襲撃、飢餓、病気などにより、7割以上の人が生きて「母村」に帰ることができなかった。

江川崎満州分村については、このブログですでに2回書いている。

 満州分村 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-187.html
 満州大清溝 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-146.html

昭和20年8月15日は、日本敗戦の日。戦争が終わった日。しかし、満州では地獄のような戦争が始まった日である。

開拓団は奥地に入植しているので日本の敗戦を知ったのは8月19日になってから。8月22日、引き揚げ(脱出)を開始した。

毎年、この日に生存者が集まり、満州で命を落とした家族や仲間たちに手を合わせている。

しかし、生存者も年々少なくなり、今年は6名。

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忠霊塔の扉を開けると、戦没兵士の名前と一緒に、満州での犠牲者たちの名前が記された位牌が並んでいる。線香とローソクを立て、供え物を置き、一人ずつじっと手を合わせた。

江川崎村開拓団員の位牌の数は316。
ほかに、津大村開拓団員(昭和33年、両村が合併にして西土佐村になる)の位牌が44ある。

きょうの江川崎の最高気温は38度。
じりじりと焼け付く暑さは、71年前の満州も同じだっただろう。

昨年、地元出身作家中脇初枝が取材調査にもとづき江川崎開拓団をモデルにした小説「世界の果てのこどもたち」を書いた。本屋大賞4位になっている。

8月31日には、その中脇初枝が江川崎に来て、市民大学講演「『世界の果ての子どもたち』が生まれるまで~幡多から旧満州に渡った人たち~」がある。

私はこの小説をもってきて、犠牲者たちにその報告をした。

慰霊の集まりがいつまで続けられるかわからない。

しかし、・・・
「あなたたちのことはみんな決して忘れません」と。

大文字送り火

土佐の小京都中村の夏の風物詩、大文字の送り火に今年も手を合わせてきた。

場所は四万十川河口近くの間崎地区。土佐清水に向かう国道からすぐ右手に十代地山(通称大文字山)見える。私が住んでいる実崎の隣で同じ旧八束村であることから、ほぼ毎年出かけている。

この行事がいつごろから行われてきたかはっきりとした記録はないが、16世紀、土佐一條家初代房家が京都を懐かしんで始めたものと言い伝えられている。

地元間崎地区の人たちが3班に分かれ、毎年交代で松明を集めてきて山の斜面に並べ、神事のあと、薄暗くなったころの7時15分、点火する。夜空に字が少しずつ浮かびあがり、20分ほどで大の字が完成する。今年の夏は雨が少なく乾燥しているため火の勢いがよく、例年になく豪快な字になった。

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伝統行事としての大文字送り火が行われているのは全国で京都とここだけ。最近京都は毎年8月16日と決まっているが、ここは旧暦(7月16日)を続けている。

私は京都の送り火を鴨川べりから見たことがあるが、山との距離があるため、大の字は遠く小さくしか見えない。しかし、ここは目の前に、ど~んと迫ってくる。手でつかみとることができるぐらいで、迫力が全然違う。
 
それなのに見物する人は少ない。山のふもとの広場にやぐらを組んで盆踊りも行っているので、そうした地元の人たちが中心であり、中村の町や市外からも来る人もいるにはいるが、せいぜい合わせて数百人というぐらいだろうか。ひしめきあうという感じには遠い。

これだけの伝統行事であり、小京都中村のシンボルとして、市のほうでもPRをしているのに、不思議である。地味なためであろうか、一度見れば十分と思っている人が多いようである。

これに比べて、8月末に行われる四万十川花火大会(9千発)はものすごい人気である。最近は市の人口を上回るような数万人規模である。市外、県外からの人のほうが多い。ホテルは満室。

こうした影響を受け、3年前から、大文字送り火にも花火がセットされるようになった。送り火が消えかかる終盤の8時、盆踊りを一時休んで、ドドーンと花火があがる。

花火は、もっと多くの人たちに送り火を見に来てほしい、伝統行事に参加してほしいという、地元の人たちの気持ちの表れであり、地元企業からの協賛金でまかなっている。

花火は数百発で、わずか10分ほどで終わる程度にすぎないが、しばしの間、送り火と花火の競演が見られる。

・・・しかし・・・私は複雑な気持ちになる。送り火に花火は似合わないのではないかと。

大文字の送り火は、あくまでお盆の送り火であり、あちらの世界に戻るご先祖様を静かに見送るもの。一方、花火は、季節や行事に関係なく行われる「祭り」である。

京都の大文字に花火はない。仮に花火が行われたとすれば、みなさんどう思うであろうか。せっかく伝統行事に触れようと思って来たのに、興ざめと思う人も多いだろう。

花火がセットされるようになってから、送り火を見に来る人は、少しは増えたようにも思うが、大勢には影響がないような気がする。

花火ならどこでも見られる。
しかし、大文字送り火は、ここと京都だけ。

送り火は、しみじみと味わったほうがいいと思う。

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高知と徳島

 甲子園の神様のイタズラか。問題提起なのか。

8月18日、高校野球準々決勝は、明徳義塾(高知)と鳴門(徳島)の隣県対決となった。(結果は明徳義塾が3-0で勝った)

敵なのか、身内なのか。皮肉にも、先の7月10日投票の参議院選挙では両県がはじめて合区された直後であるだけに考えさせられた。

1. 地域代表か国代表か

 私がこどもころは、夏の全国高校野球大会予選は高知、徳島で争う南四国大会があった。それが1978年から1県1校(北海道、東京は2校)になった。

 当時もいまも予選参加校数は都道府県によって大きな差がある。(今大会では、神奈川196、愛知、大阪188、に対し、鳥取25、高知32、徳島34)しかし、それとは関係なしに、1県1校ということは、各校が都道府県という「地域代表」として認められているからである。

「1県1校」ないし「1県1人」という考え方は、スポーツだけでなくいろんな大会で広く認知されている。

これに対し、いまリオ・オリンピックの最中であるが、日本の各選手は全国いろんなところの出身者がいるが、全員が国代表であることは誰もが認めることであろう。


2. 憲法違反

では、国会議員は地域代表か国代表か。これは国代表であることはあきらかである。(各県代表には県議会議員がいる)しかし、選挙区が各地域別に分かれて、それぞれ人口(有権者)が異なることから、指定枠数(定数)をめぐって、不平等になっているのが現状である。

国民の投票権は基本的人権の一つであり、これに差があることは憲法違反であると、何度も最高裁判決で指摘されている。この判断は正しいと思う。

「定数調整」の弥縫策として導入されたのが先の合区である。しかし、これは高校野球南四国大会の復活であり、歴史に逆行。しかも、高知、徳島と鳥取、島根だけが「犠牲」になるものであり、県民感情からも受け入れがたいとして大きな反発があがっている。私も反対である。

3. 公平平等

 これの解決策をめぐって自民党筋から憲法改正すべきという議論がある。「地域枠」として各県1人保障するという考え方である。

しかし、これはどう考えても理屈が通らない。高校野球と同じように、例えば各県定数1とすれれば、それなりにすっきりする。しかし、野球と選挙を一緒にしてはいけない。「基本的人権」よりも「地域」を優先することは、とても憲法上認められない話であろうし、人口の多い東京の議員が高知と同数のたった1人では、都民が納得しないであろうし、実際問題として議員の負担が大きすぎることになり、とても耐えられない。

各県に定数1を保障したうえで、あとの上乗せ分に格差を残したままにするのなら、大同小異である。

しかも、憲法改正論は、本丸である憲法9条改正のための地ならしにしようという、魂胆(悪知恵)がすけてみえる。

となれば、根本的解決策は2つしかない。
選挙区を全国一本化にするか、議員定数の増加である。

全国一本化については、過去に参議院に全国区という制度があり、いまも比例区として受け継いでいる。しかし、これならば、結局人口の多いところに地盤をもつ議員が有利になることは容易に予想できる。また、選挙を身近に感じてもらうためには、選挙区は残したほうがいいと思う。

私は定数増がベストだと思う。

「痛みをともなった改革」「身を斬る改革」などが流行語になっているいまの状況では、定数増などとんでもないと思われるかもしれない。

しかし、よく考えてほしい。本来、国会議員は国民の声の代弁者であることから、その数が多いほど、多様な意見が国会に寄せられることになる。

もちろん定数増といっても議員歳費が国民の税金負担に跳ね返ってくる以上、無制限というわけにはいかず、おのずと制約はあるだろう。

一つの目安として考えられるのは政党交付金を廃止し、その財源でまかなえる範囲までである。

各政党の運営資金は、それぞれの政治活動の中でカンパを集めるとかして、自力で資金を集めるのが本来の姿である。なぜ、支持もしない政党のために税金が使われなければならないのか。相変わらず不正なカネの問題が跡を絶たないのをみても、「政治の浄化」を理由に導入された政党交付金制度が失敗したことは明らかである。現状では議員歳費総額よりも政党交付金のほうがはるかに多い。

 以上が私の意見。

そもそも、こうした議員定数不公平という問題が長い間放置されている背景には、この不公平の「恩恵」を戦後の保守政治が享受してきたことがある。自民党得票率が30%台なのに、議席では圧倒的多数を占めるという現状がある。

みんな、よく考えろ。
甲子園の神様は、これを指摘したかったのだ。。


お盆の風習

 高知新聞「声ひろば」投稿
 2006.9.7


 私は今年のお盆に帰省していて、あらためて気づいたことがある。

私の実家がある旧中村市実崎は四万十川の河口に近い戸数八十ほどの地区だが、お盆には各家が相互に仏壇を拝みに回る風習がある。留守の家も玄関を開けおくので、みんなが勝手にあがり、仏壇に線香をあげる。お盆の初日の午前中などは、地区中ゾロゾロ歩き回っている。

家ごとに回る先は言い伝えで決まっており、いまは親戚づきあいをしていなくとも、祖先が同じとか昔なにかの縁があったとからしいが、根拠ははっきりしない。わが実家では二十戸ほどをまわっている。

私が子供の頃は、各家とも上がり口にお盆専用の仏壇の棚を組み、四隅に竹の笹を飾っていた。その笹が夜ジリジリという音を発するのは、ご先祖様が帰ってきている声だと聞かされ、こわかった。お盆が終わると、その笹や供え物は私ら子供が四万十川に流しに行った。

今回の帰省中、川の対岸(竹島)の菩提寺の住職に尋ねたが、この謂われはわからない、近在ではほかにはないとのことである。

県下各地を転勤している地元の教員も、初盆の家や近い親戚を回るのはめずらしくはないが、このように地区総出で回る風習は知らないという。私も転勤で全国を歩いたが、巡り合ったことがない。おそらく、お盆には祖先の霊を地区全体で一緒に迎えようとの申し合わせがいつの頃かにあったものであろう。

最近、この風習を簡素化してはどうかとの声も出ているようだが、地域のつながりが薄れてきている昨今だからこそ、地域特有のこのような風習はぜひとも残してほしい。

なお、読者の方で、このような風習をご存知の方がいれば、ぜひ教えていただきたいものである。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2006.9.7


伊方原発再稼働

 8月12日、伊方原発3号機が再稼働した。熊本地震以降では、はじめて。

高知県では、伊方からの距離は、わが四万十市と梼原町が最短で50キロ圏内。また、四万十川の愛媛県側支流広見川の源流域(三間川)は30キロ圏内である。不安は尽きない。

四国内では、今年度13%の電力供給余力があり、安定供給の目安8%を大きく上回っている。いま原発なしでも電力は足りているのに、なぜ再稼働しなければならないのか。

多額のカネ(設備投資)を投じた原発設備を使わないのはもったいないということ。ただ、それだけである。要は会社の収支上のこと。経営優先の判断だ。「安全よりも経営」。今年度株主総会では、社長は「これからは稼ぐ時代」と堂々と言ったという。

今年4月の熊本地震では、震源は大分県から鹿児島県に及んでいる。断層でつながっているのだ。いまも揺れは続いている。

このため、7月に新たに就任した鹿児島県三反園知事は、県民の不安は大きいとして、九州電力に川内原発の一時停止を求めている。

伊方原発の沖合には、奈良県から別府湾まで伸びる日本で一番長い断層(中央構造線)が走っている。多くの地震学者が、熊本の揺れはこの断層を刺激していると指摘している。

豊臣秀吉の時代には、この断層がズレて、伏見城を倒壊させた「慶長豊後地震」(1596年)がおこっている。先日、大河ドラマ「真田丸」でやっていた。

なのに、愛媛県中村知事は平然としている。鹿児島県知事と大違いである。高知県尾﨑知事もとなりに気を使っているのか、だんまりである。

四万十市では、6月、「原発避難計画」を策定した。県の「指導」を受けてつくったものであり、広報8月号に載っている。

「避難計画」はないよりもあったほうがいいし、私はこの計画を否定するつもりはない。しかし、この計画の実効性については、大いに疑問である。

計画に書かれているのは初動対応についてだけ。1.情報連絡体制の整備、2.屋内退避、3.一時移転・避難、4.安定ヨウ素剤の配布服用。

福島原発事故の例でもわかるように、一度事故がおこったら、被害は無限大に広がる。風向きなどで、どの方角に放射能が広がるか予想はできない。屋内退避で済むことはまずありえない。遠くへ避難することが最優先になる。

しかし、この計画では、市外への避難についてはどこへ逃げるかを定めていない。国からの指示を待つとしている。

そもそも、四万十市だけの判断でどこに逃げるかを決めることはできない。受け入れ側の事情があるからだ。しかも、地震の場合は、津波、がけ崩れ等による道路の寸断などで、容易には動けなくなるだろう。どんな事態になるかだれも予想でいない。

避難計画は、一つの市だけで策定するのは無理というものである。県だってそうだ。隣県の事情もある。

そもそも、原発事故を想定した避難計画というものは、だれがつくっても万全というものはなく、机上の空論(気休め)になってしまうのは明らかだ。

現に、伊方原発は、40キロに及ぶ細長い佐田岬の付け根にあることから、事故がおこった場合は、半島の住民約1万人は逃げ場を失う。このため愛媛県は海の向こう大分県に船で避難するという計画をつくっているが、こんな計画が実現可能とはだれも思っていない。

津波が来れば船など近寄れない。しかし、原発を再稼働させるためには、形だけでも計画をつくらなければならない。再稼働ありき。お墨付きを与えることに意味があるだけだ。

住民の命を守るための計画ではなく、原発再稼働のための計画なのだ。

一番確実な避難計画は、原発を止めること。
これに尽きる。

中村が輝いたセンバツの日

 高知新聞「声ひろば」投稿
 2008.3.29


 第八十回記念センバツ高校野球のテレビ中継で過去のなつかしい映像が流れていた。昭和五十二年、中村高校の「二十四の瞳」である。 

当時、幡多の高校が甲子園に出ることなど夢のまた夢であり、にわかに信じられなかった。しかし、選手はまぎれもなくみな地元の子で、しかも私の妹の同級生たちであった。

その子たちが恥ずかしい負け方だけはしないでほしいとの心配をよそに快進撃。センバツ一千試合目となった準々決勝では優勝候補の天理高校を破り、準優勝をした。

山沖投手が投げる剛球は田頭主将を軸にした十二人の固いチームワークが生みだしたもの。無欲な人のつながりや絆こそが大きな力となることを教え、野球を超えたさわやかな感動を全国に与えてくれた。

優勝した箕島高校の尾藤監督も「私も中村高校で野球がしたい」と話していた。

当時、私は就職直後の赴任地、九州・大分にいた。見ず知らずの土地で淋しい思いをしていたころで、このチームの活躍にどれだけ勇気づけられたことか。知る人も少なかった自分の出身地が一躍有名になり、しばらくはいちいち説明しなくとも「あの高校野球の・・・」と言われた。いまでも時々話題にあがる。

あれ以降、ふるさとを意識するようになり、ふるさとへの誇りが生まれ、その想いをいまも大切に育てているつもりである。

あの時は地元も心が一つになって応援をした。あれから三十一年。いま中村市がなくなっただけに、「中村」の名を歴史に刻んだ偉業として「二十四の瞳」をあらためてたたえ、お礼を言いたい。

そしてできることならば「中村」の名に興奮をする日がまた訪れることを願っている。


拙著「わがふるさと中村」所収

中村が甦った夏

中村高校が夏の甲子園高知大会で決勝へ進んだ。

昭和52年、春のセンバツ大会で甲子園準優勝したことがあるが、夏の県大会決勝進出ははじめてのことで地元は久しぶりに沸いた。私も決勝戦、春野球場に応援に出かけた。

結果は常勝明徳義塾に2-4で敗れ、39年ぶりの甲子園への夢はかなわなかった。明徳義塾の優勝は7年連続、県立高校の決勝進出は22年ぶりであった。

いま思い出しても、39年前のフィーバーぶりはすごかった。私の妹と同級の田頭主将、山沖投手を中心としたわずか12人のチームが「さわやかイレブン」「24の瞳」などと呼ばれ、一種の社会現象なり、今でいえば流行語大賞をもらっていたであろう。

12人の最大の功績は、無名であった四国の片田舎「中村」の名を全国に知らしめたこと。足摺岬に向かう観光バスがわざわざ迂回して中村高校前を通ったぐらいであった。当時、四万十川には誰も関心を寄せていなかった。

しかし、まもなく状況は一変。四万十川は「最後の清流」として有名ブランドになった。

そして、平成の大合併の大波が押し寄せ、中村市はひとたまりもなく呑み込まれ、四万十市になった。

しかし、どっこい、中村市はなくなったが、中村はいまも生き続けている。中村駅、中村郵便局、中村小学校、中村中学校・・・そして中村高校。

今回、中村高校野球部が中村の健在ぶりを、世に示してくれた。
多くの人に中村の記憶を甦らせてくれた。
私はそれがうれしい。

紫電改

 紫電改は太平洋戦争末期、ゼロ戦に代わる新鋭機として開発された戦闘機。きょう7月24日、その姿を見るために、愛南町にある紫電改展示館を訪ねた。

宇和島方面にでかける際、すぐ近くを何度か通っている。しかし、いつも時間がなく一度も立ち寄ったことがなかったので、やっとのことだ。

展示館は国道から海側に半島を10分ほど入った、展望のきく山の上(馬瀬山公園)にあった。

戦闘機を見るのは初めて。こんなにも大きいものか。全長9.34m、主翼11.99m、高さ3.96m。見上げてしまう。全身緑色で、でっぷりと威圧していた。

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この機体は、昭和53年、展示館下の久良湾の海底40mから引き揚げられ、修復されたものである。

昭和20年7月、広島、呉を爆撃して引き返す米軍機を迎え撃つため、長崎県大村基地から21機の紫電改が飛びたち、豊後水道上空で空中戦となった。6機は帰還しなかった。そのうちの1機であったとされている。

6人の飛行士の写真や手記等も展示されていたが、この機に載っていたのは、誰かは、特定できていない。

海底からの引き揚げの生々しい写真やテレビ映像、機体の部品なども展示されていた。

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紫電改はゼロ戦をしのぐ性能だったと言われているが、敗戦間近の資材不足などから、わずか400機ほどしか製造されなかった。うち4機がいまも残っているが、3機は戦利品としてアメリカへ(スミソニアン航空博物館など)、日本ではこの1機だけだという。

ここは足摺宇和海国立公園の一角。展示館のそばには煙突のような宇和海展望タワーがそびえたっていた。すばらしい景観。タワーから眼下に久良湾を一望できた。

驚いたことに、紫電改がここに墜落(着水)したのは、昭和20年のきょう7月24日ということを知った。

71年前と同じ景色の中で、戦争のことを、われわれのことを忘れないでくれと、必死で叫んでいる声が聞こえてきた。だから私をこの日に呼び寄せたのか。

紫電改の引き揚げおよび展示館建設は、愛媛県が行なった。
しかし、レジャー施設と隣あわせていることの違和感。

展示館の管理運営はタワー会社に委託されている。入場無料。

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草とのたたかい

 梅雨が明け、草とのたたかいが本格化する。

去年から家の前の畑で野菜づくりを初めた。それまで荒らしていたので、春先に草を焼いたあと根を掘り起こし、管理機で耕した。

そのあと、いろんな野菜を植えた。キュウリ、ナス、トマト、ピーマン、シシトウ、ズッキーニ、スイカ、カボチャ、オクラ、サツマイモ、じゃがいも、いたまねぎ・・・

素人なので、隣の畑に来る師匠におしえてもらいながら。

1年目にしては、全体としてまずまずの出来だった。曲がったキューリ、握りこぶしのようなナス、など形の悪いものが多かったが、それがまた楽しい。

ここらでは、家の前の野菜畑を「しゃえんじり」と言う。苗を植え成長を楽しみ、収穫を味わう。「しゃえんじり」でとれたての新鮮野菜を食べることほど贅沢なものはない。形が悪いほど味はよい。

しかし、楽しいことばかりではない。草とのおつきあいはうんざりする。夏になれば野菜の成長も早いが、それ以上に草も伸びる。取っては伸び、また取っては伸びる。追っかけっこである。

少しでの手を抜けば、ボウボウの林になる。梅雨が明ければ、草のほうがますます元気を出すので、こちらはついていけなくなる。

こんなにしんどいのなら、野菜は買ったほうが安いとつくづく思う。

しかし、無農薬で安心して食べられ、しかも取り立てを楽しむことができるとなれば、やはりやめられない。今年は、さらに面積を2倍以上に増やした。

去年と種類は変わらないが手のかからない、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ(目赤と言う)、カボチャ、スイカなどを増やした。

しかし、その分、草とのたたかいもはげしくなる。
持久戦・・・
今年は負けてしまいそう。

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プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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