名護市長選挙の真実(5)

太平洋戦争下、唯一の本土戦の舞台とされた沖縄。その最後の決戦地を訪ねた。沖縄に上陸した米軍が日本軍を追い詰めたとろ。いまは糸満市。沖縄平和祈念公園になっている。公園の中心に摩文仁の丘がある。

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「平和の礎(いしじ)」には、沖縄戦で命を落とした人々の名前が全員、都道府県、国別に刻まれている。沖縄県14万9456人、県外7万7425人、外国1万4587人(うちアメリカ1万4009人)、計24万1468人。

圧倒的に沖縄県が多い。しかも、ほかが全員軍人であるのに、沖縄県だけはほとんどが民間人である。戦闘に巻き込まれたのだ。

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ガマ(洞窟)などに逃げ込んだ民間人は、日本軍から渡された青酸カリや手りゅう弾で自決した者も多い。断崖から海へ身を投げた者も。太平洋と東シナ海の境、本島最南端の喜屋武岬にも「平和の塔」が建っていた。

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ひめゆり部隊が命を落としたガマには慰霊塔(ひめゆりの塔)と資料館があった。沖縄がなぜ日本の盾にされたのか、沖縄戦の実態をリアルに示す展示であった。

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琉球王朝は、もともとヤマト(日本)とは別の国であった。東南アジア、中国、日本との交易で栄えた。戦を好まず、友好的な民族であった。

日本の江戸時代になって島津(薩摩藩)の侵攻を受けたが、ずっと独立は維持していた。しかし、明治10年、「琉球処分」で強権的に日本に併合され、沖縄県とされたのだ。

日本は太平洋戦争に敗れ、全土がアメリカに占領された。沖縄を除く部分は1951年サンフランシスコ平和条約で独立を果たしたが、沖縄は見捨てられ、アメリカの占領が続き、基地の島にされてしまった。

同条約の裏側でアメリカによる沖縄支配を温存させる日米安保条約と日米地位協定がこっそり結ばれたからだ。いま、わずか日本国土面積のわずか0.6%沖縄に米軍基地の74%が集中しており、基地内は治外法権である原点はここにある。

沖縄米軍のほとんどが海兵隊である。しかし、最初からこうではなく、本土で問題を起こす海兵隊は地元からいやがられるため、1950年代から60年代にかけて岐阜や山梨から、移駐させたのだ。

海兵隊を沖縄に封じ込めるという日米両政府の合意。日本の犠牲を沖縄に押し付ける。沖縄は捨て石にされたのだ。

「核抜き本土並み」を訴えた本土復帰(1972年)も、そうはならなかった。

そしていまの辺野古である。

今月の国会で安倍首相は、普天間の本土移転は「理解が得られないから」と堂々と答弁をした。沖縄の理解が得られないのは、かまわない。本土のほうの意向が優先されるというのだ。

これほど、あからさまに沖縄をバカにした話はない。ヤマトによる琉球差別はいまも続いているということだ。

今回の名護市長選挙は琉球対ヤマト政府の戦いであった。稲嶺さんは敗れたが、しかし、沖縄の民意が敗れた訳ではない。有権者アンケートでも67%は辺野古基地反対であった。

相手候補は基地問題は語らなかったし、語れなかった。公約にもできなかった。

辺野古反対の沖縄の民意は不動である。
たたかいは、まだこれから。
たたかいは続く。

沖縄の現実から目をそらさないこと。まなざしを注ぐこと。
日本の民主主義が問われている。

(終り)

稲嶺進さんを称える

 名護市と四万十市は友好交流をしており、2010年、名護市誕生40周年記念式典には招待され、翌年災害時相互支援協定を締結し、2014年友好都市サミットでは稲嶺進名護市長を四万十市にお招きしている。

この時は、私は四万十市長を降りていたので、市民に呼びかけ、公式行事終了後「名護市と連帯・交流する集い」を開き、稲嶺市長と屋比久議長(今回選対本部長)を激励させてもらった。

そんなおつきあいを通して、私は市民を大切にする市政をすすめる稲嶺さんの姿勢とその誠実な人柄にひかれたことから、今回市長選挙出陣式の前日妻と名護に入り、選挙事務所を激励し、3泊4日応援に動いた。

稲嶺さんは政治家から最も遠いタイプ。真面目、実直な市職員から、収入役、教育長をつとめた、もともと保守の人。訥々とした話し方で、とても演説向きではない。しかし、だからこそ堅い意志と信頼がにじみ出ている。

8年前、市議会保守系議員から、「辺野古を止めるにはアンタしかいない」と担ぎだされ、革新系はあとから加わった。いまのオール沖縄の原点だ。

今回相手候補は、経済活性化を叫んだが、経済は平和と安心があってこそ成り立つ。また、米軍基地は経済振興の最大の障害になっている。

稲嶺さんが市長になったことで、基地再編交付金はストップされた。しかし、この8年間で名護市の財政規模(予算)は287億円から382億円に増加。市の貯金にあたる基金積立金も38億円から72億円に。

県内11市の中で経済成長2位、中学卒業までの医療費無料化に最初に取り組み、国保税も一番安い。基地再編交付金に頼らなくとも、安心、安全、住みよいまちづくりを見事に進めてきた。

さらに50年先を見越したデザインを描き、「未来へ進む」「子どもの夢未来紡ぐ名護のまち」へ堅い決意に燃えていた。

しかし、選挙は票取り合戦。実績をあげ立派な政策のほうが強いとは限らない。どんな方法、手段でも票を多く集めたほう、奪ったほうが勝ちである。

相手はそこが巧妙だった。基地問題を一言も語らず、争点をぼかす。公開討論を逃げ、誹謗中傷、デマをたれ流す。さらに、権力、金力で組織団体を締め付け、囲い込み、期日前投票に送り込む。

勝ちさえすればいい軍隊は強い。政策はないほうが動きやすい。ポスターは顔と名前だけ。その場その場で、なんとでも言える。権謀術数、あらゆる手を使えるからだ。

両候補の人柄・資質の違いは歴然。まともには勝てないと相手は必死になる。こちらは「あんなヤツに負けるはずがない」というスキもあり、本当の敵(安倍政権)の終盤の総攻撃に耐えられなかった。

それでも稲嶺さんには自信があった。市民を信頼していた。

「辺野古はもうだめだというが、埋め立ては1%だけで、まだ止められる」
「争点をはぐらかされてしまった・・・」
目はうるみ、無念の言葉を絞り出し、崩れるように消えた姿を見て、私は心配になった。

しかし、翌朝、黄色ジャンバーに黄色旗をもって、子どもの見守りのために笑顔で交差点に立つ、いつもの稲嶺さんの姿があった。

稲嶺さん、ありがとう。たたかいはここから、たたかいはいまから。あなたの後ろには全国の仲間がいます。ともにがんばりましょう。

 高知民報 2018.2.18


 高知民報 稲嶺進2018.2.18



名護市長選挙の真実(4)

ゴーゴー、パタパタというオスプレイの異様な音が聞こえるだけ。米軍普天間飛行場は、その全貌を隠していた。

那覇に戻る途中、夕闇迫るころ、車が渋滞する時間。カーナビが宜野湾市のど真ん中を示している。

国道幹線道路に沿って左側は金網が続く。しかし、金網の向こうは林になっており、中が見えない。戦闘機、ヘリも見えない。

基地の周りは市街地で住宅が密集している。基地の端の信号を左折し、過去に米軍機が墜落した沖縄国際大学方面に向かう。金網は続くがやはり中は見えない。

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やっと国際大学近くに基地ゲートを見つけたので、車を降りて使づいてみた。そこからだけは中を覗くことができた。しかし、ヘリの翼の一部がかすかに見えるだけ。するとゴーという音とともに、オスプレイが戻ってきて、着陸態勢に入った。ゲート横は申し訳の程度の児童公園になっていた。

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車に戻り、さらに先に進み、先に米軍ヘリの窓枠が落下した普天間第二小学校を捜した。普天間第二幼稚園も隣にあった。下校時間をとうにすぎているので子供はいない。グランドも閑散としていた。隣は基地。林に覆われている。さらに車を走らせると、元の国道に戻った。

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ぐるり一周した住宅地の中に緑はほとんどなかった。あるのは広大な基地の緑だけ。この緑によって基地の中は覆いかくせても、音だけは隠せない。ゴーゴー、パタパタ。

航空写真では市街地のど真ん中を占領している基地は裸同然。しかし、市民の日常生活の目線からは、基地はすっぽり隠されているというのが実感だ。

鉄道線路のそばで暮らしている人がそうであるように、ゴーゴー、パタパタという、はじめての人間には耳障りにきこえる音も、長年暮らしていると普通の生活音に聞こえるのかもしれない。

航空写真と日常生活の落差。慣らされるという死角を利用して、米軍はここに居座り続けている。

普天間は、戦後、アメリカ占領軍が銃剣とブルドーザーで強奪したもの。日本が独立したいま、なぜ日本政府は普天間即時全面返還を求めないのか。求めることができないのか。

1996年、日米間で普天間飛行場が条件付きで返還合意した。普天間から辺野古への「移設」問題はここに始まる。

しかし、前回(3)書いたように、返還8条件の中に、辺野古の滑走路は短いことから、必要な時には米軍による那覇空港利用という項目がある。そんなことを翁長知事が認めるはずがない。

また、普天間は飛行場だけであるが、辺野古には巨大軍港も併設される。

辺野古は普天間の「移設」」ではなく、「新基地建設」なのである。

続く





名護市長選挙の真実(3)

辺野古は「普天間移設」ではなく「新基地建設」である。普天間は返還されない。
選挙応援中、辺野古にも足を運び、その現実を見てきた。

名護市は広い。市役所がある市中心部は東海岸にあるが、辺野古は西海岸(太平洋)である。山(丘)を越え、車で30分ほどかかった。

国道から海へ入るところで迷った。埋め立て予定地は、米軍キャンプシュワブの前であるので金網に囲まれ、入れない。遠くから見るしかないということで、なんとか隣接する辺野古漁港にたどりついた。

防波堤に立つと、渚の先に工事用クレーンが見えた。しかし、水平目線のため、その先が見えない。工事がどれでだけ進んでいるのかよくわからない。その日は日曜日であったためか、人影も見えず、静か。

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反対運動テント小屋で、航空写真地図により説明を受けた。これまで埋め立てが強行された箇所は、全体からすれば1%程度にすぎない。工事はかなり進んでいるように思われているが、まだわずか。大々的に工事の模様を報道するのは、反対派を諦めさせようという政府の意図を受けたものなのだ。

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知事や市長の許可制限はまだたくさんあるので、工事は簡単には進まない。さらに、「ジュゴン訴訟」と言われる国際裁判も有利に進んでいる。

辺野古には滑走路が二つ(V字)をつくる計画だが、あまり知られていないのが巨大軍港もできること。予定地は半島を境に浅い砂浜と深い海に分かれている。

その深い側に長さ272メートルの護岸ができる。普通の軍艦だけでなく、強襲揚陸艇(LCAC)も接岸できる。弾薬庫もできる。これらは普天間にはない機能だ。

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日米で交わした普天間返還8条件というものもある。その中の1つに、緊急時の民間空港米軍利用がある。辺野古の滑走路は短いので、那覇空港を使わせてほしいというのも。

しかし、これは翁長知事が許可するはずがない。だから、稲田防衛大臣(当時)が「普天間が返還されない可能性がある」とポロリ発言したとき、政府があわてたのだ。

また、米軍そのものも辺野古はどうしても必要な基地ではない。日本がつくってくれるというのなら使おうか、という程度のもの。

というのも、米軍再編成計画の中で米海兵隊は漸次グアム、ハワイ、オーストラリアなどに移すことになっているからだ。辺野古ができても早晩必要なくなる。そのあとは日本の自衛隊が使いたいのだ。

また、新基地建設という巨大プロジェクトは日本のゼネコンにとってもおいしい話である。現在の工事は、大成建設、五洋建設、東洋建設が受注している。大成建設には菅官房長官の息子も入っている。

ほかのゼネコンも群がってくることは明らかである。当然、政治献金としてその一部が自民党に還流する。

自衛隊が将来使うには、日本の防衛上の危機をあおらなければならない。北朝鮮の脅威をことさらに強調するのはこのためである。北朝鮮がミサイルを打ち上げるたびに、一番よろこんでいるのはアベ首相である。

アメリカは財政的に、軍事費予算は限界にきている。日本に期待するのは、自衛隊によるその補完。自衛隊をアメリカ軍の完全コントロールのもとに、世界中で使うこと。日本政府もそれを望んでいる。

集団的自衛権を認めた安保法制、さらには憲法9条に3項を加えることを狙っているのはそのためである。

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名護市長選挙の真実(2)

敗戦が決まった瞬間の稲嶺さんの表情がこの選挙のすべてを示していた。

私はネット動画を見ていた。支援者の拍手に迎えられ、選挙事務所前広場に設けられた最前列イスに座った瞬間であった。NHKが相手候補「当確」のテロップを流したのだ。

みんな一瞬ザワザワと、何がおこったのかとお互いの顔を見合う。稲嶺さんの顔がだんだん紅潮し、うなだれるように目線を下に。隣のイスの翁長知事は顔をこわばらせ、じっと前を見る。呆然自失。沈黙が続く。二人とも現実がのどにつかえ、なかなか呑み込めない。稲嶺さんがメガネの下に手を当てる。

沈黙がさらに続く。しびれをきらした取材記者たちが、稲嶺さんを立ち上がらせマイクを向ける。しかし、稲嶺さんは、なかなか声が出ない。

「結果は真摯に受け止めなければならない・・・」

敗因を聞かれても声が出ない。時間をかけて言葉の一つ一つを絞り出すように、

「10年、20年、30年先を見越して取り組んできたが、目先のことにみんな目が行ってしまった。」

「辺野古はもうだめだというが、埋め立てられたのは1%だけであり、まだ止められる」

「争点をはぐらかされてしまった・・・」

立っているのもやっとで、見かねた支援者がマイクに割って入り、稲嶺さんを抱きかかえるようにして事務所に導いた。

こんな光景をはじめて見た。開票のさいは、普通、候補者は別の場所で待機し、結果が出てから支援者のところに顔を出し、敗戦の弁あるいは勝利の弁のあいさつをする。だから、どんな結果になったにせよ、心を鎮めてからマイクを握るものである。インタビューはそのあとだ。

支援者と一緒に開票を見守るというのは、今回相手候補も同様であったので、一族のきずなを大切にする、沖縄特有のものなのだろう。

選挙終盤戦、相手側からのなりふり構わぬ総攻撃にさらされことから、私はこの選挙きびしい結果になることを覚悟していた。おそらく選対幹部なども同様であったと思う。

しかし、稲嶺さんは、自分は必ず勝てると信じていた。市民は自分を選んでくれるという自信があったのだ。

まわりは稲嶺さんの気持ちを気遣い、配慮して、稲嶺さんに「覚悟」を耳打ちしていなかったのだろう。

とりまきは選挙情勢を客観的にみることができるし、そうでないといけない。しかし、候補者本人は、特別の思い入れがあることから、まわりが見えないものである。特に独自の権限をもつ首長の場合は。だから「お山の大将」とか「裸の王様」といわれるのだが、これは自分の経験からもわかる。

自分に自信がある場合特にそうなる。稲嶺さんは、市民のためを思い全身全霊をかけて市政に取り組んできたのだ。そんな自分を市民が選んでくれないはずはない。市民を信頼していた。

稲嶺さんは、いわゆる政治家タイプではない。最も遠い人だ。真面目、実直な市役所職員から、収入役、教育長をつとめた人だ。訥々とした話しかたで、とても演説向きではない。しかし、だからこそ信頼、誠実がにじみ出ている。

もともと保守の人で、8年前、議会保守系議員から、辺野古を止めるにはアンタしかいないと懇願され、かつぎ出された。革新系はあとから加わったのだ。いまの「オール沖縄」の原点はここにある。

今回相手候補は、経済活性化を叫んだが、経済は平和と安心があってこそ成り立つ。また、米軍基地は経済振興の最大の障害になっている。

稲嶺さんが市長になったことで、基地再編交付金はストップされた。しかし、この8年間で名護市の財政規模(予算)は287億円から382億円に増加。市の貯金にあたる基金積立金も38億円から72億円に。

県内11市の中で経済成長2位、中学卒業までの医療費無料化に最初に取り組み、国保税も一番安い。

基地再編交付金に頼らなくとも、見事に安心で安全、住みよいまちづくりを進めてきて、その実績をあげてきた。

さらに、50年先を見越したデザインを描き、次の4年間に取り組むことも決めていた。「子どもの夢未来紡ぐ名護のまち」へ、堅い決意で燃えていた。

それが稲嶺さんの強い自信と確信になっていたのだ。自分が負けるはずがないと。

しかし、選挙は残酷である。いくら見事な実績をあげ、立派な政策をつくっても、有権者がそれをみて、きちんと選択をしてくれるわけではない。

選挙は票取りゲーム。結果は数で決まる。どの票も1票は1票。どんな方法、手段でも多く集めたほう、奪ったほうが勝ちである。

相手はそこが巧妙だった。基地問題を避け、はぐらかす。堂々の論戦を逃げ、誹謗中層、デマをたれ流す。さらに、政府の権力、金力で組織団体を締め付け、囲い込み、期日前投票に送り込む。小さな城に大軍勢が総攻撃をかけたのだ。

勝ちさえすればいい軍隊は強い。大義名分はどうでもいい。政策はないほうが動きやすい。その場その場で、なんでも言える。権謀術数、あらゆる手を使えるからだ。相手にはそのノウハウにたけていた。

それでも稲嶺さんは自信があった。自分は絶対勝てると。
市民を信頼しきっていた。稲嶺さんは言葉を用意していなかったのだ。

それが、あの敗戦の弁になったのだ。

そんな選挙だった。

(続く)

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名護市長選挙の真実(1)

稲嶺進市長が敗れた。残念である。

結果は結果として厳粛に受け止めなければならないが、この選挙がどんな選挙戦であったのか、応援に駆け付けた一人として、この目で見た実態を書き留めておきたい。

名護市と四万十市は友好交流をしている。2010年、名護市誕生40周年記念式典には招待され、翌年災害時相互支援協定を締結、2014年友好都市サミットでは本市にお招きしている。

この時は、公式行事終了後、市民有志で「名護市と連帯・交流する集い」を開き、稲嶺市長と屋比久議長(今回選対本部長)を激励させてもらった。

そんな交流を通して、私は市民本位の市政をすすめる稲嶺さんの姿勢とその誠実な人柄にひかれたことから、今回出陣式の前日(1月27日)名護入り、選挙事務所で激励し、3泊4日、応援に動いた。

まず、最初に、辺野古新基地をめぐる全国注目の選挙であり、市民世論調査でも最大関心事は基地問題であるという結果がでていたことから、市民も熱く燃えているだろうと思っていた。

確かに、出陣式は大勢詰めかけ盛り上がったが、街頭などの一般市民の反応は静かで、意外というよりも異様さ、不気味さが感じられた。

道路交差点で幟をもち、手を振ってもドライバーの反応はわずか。地域をまわっても、稲嶺さん支持者とみられる人でも多くを語らない。

稲嶺さんは、基地を認めないことを公約の前面に出していた。しかし、新人の渡具知候補の政策には基地問題はまったくなし。

渡具知候補や応援市議の演説もたびたび耳にしたが、辺野古の「へ」の字が出たことはなかった。長々とした演説のほとんどは、稲嶺さんの悪口ばかり。

1.ゴミ分別が16区分になっていているのは面倒だ。(しかし、これは稲嶺さんの前の市長のころから続いているやり方)

2.プロ野球日ハムがキャンプをやめたのはおかしい。(老朽化した市民球場の改修のためであり、新装後は戻ってくる約束がある)

3.市の借金が増えた。(数字のごまかし。実質的にはほとんど増えていない。)

併せて、子どもの保育料や給食費を「無料」にしますなどと、財源根拠もなく、耳障りのいい、ことを連呼していた。

基地問題の争点かくし(はずし)は徹底していた。

市民の最大関心事に対して自分の意見・考えを言わないことほど、不誠実なことはない。堂々として政策論争を行うのが選挙本来の姿なのに。

市民各層が呼びかけ公開討論会には、「忙しい」という理由で逃げ続けた。プレスインタビューも拒否。ボロを出したくない。まともな論戦ができないからだ。

本音(基地推進)を隠し、どんな方法でも、勝ちさえすればいいという作戦は徹底していた。政策なんかどうでもいい。公設掲示板のポスターは、顔と名前だけで、メッセージはなし。のっぺらぼうだ。

稲嶺陣営は法廷ビラのほかにも細かい政策を書いたビラを何種類もつくっていた。しかし、相手はペラペラの中傷ビラだけ。「小泉進次郎来る」だけは大きく作り全戸に入れていた。

選挙前から地元2紙の情勢予想は稲嶺有利であった。告示直後でも、大接戦だが稲嶺先行と出ていた。無党派層でも稲嶺支持が多いと。

まともな戦いでは勝てないとみた渡具知陣営は、どんな手を使ってでもいいから、票を奪い取る作戦にでたのだ。

稲嶺さんの本当の相手はバックにいる安倍政権。菅官房長官、二階堂幹事長が事前に何度も入り、各種経済団体などを徹底的に根回し。利権につながる、たっぷり甘い飴をふんだんにばらまいたことだろう。

名護を崩し、秋の知事選挙にも勝たない限り、辺野古に新基地はつくれない。追いこまれた政府がなりふりかまわず、名護市民の票を奪い取りに来たのだ。

前回自主投票だった公明党、維新を抱き込み、特に創価学会をフル回転させたことも大きかった。おそらく、これほど政府まるがかえで介入した地方選挙は過去にないであろう。

それは、期日前投票に有権者の44・4%が行ったことでわかる。最終投票率が76.9%だから、投票者のなんと半数以上の57%が先に投票を済ませたことになる。

当日投票の出口調査では稲嶺有利という数字がでていたことから、期日前投票では相手票がかなり多くを占めていたということになる。会社、団体ぐるみで、根こそぎ動員をかけたのだ。マイクロバスなどを手配して。どの名前を書くかは自由でも車に乗せてもらうと、なかなかそうはいかないものだ。

これは選挙干渉にあたり、公職選挙法違反であるが、そんなことおかまいなし。勝ちさえすればいい。それだけ、政府が無茶苦茶な選挙にしたということだ。裏では、相当なカネも動いたことだろう。

私が名護を離れた翌日、投票3日前、自民党小泉進次郎が入り、あの巧妙なアジテートで市民をさらに混乱、惑わせた。進次郎は最終日にも来た。最後の3日間で、流れが大きく変わった。

では、稲嶺陣営の作戦、体制はどうだったのか。
負けてからではもはや遅いが、反省点はいくつもあるように思う。

1. 相手候補を軽く見ていたこと。相手の元市会議員はいち早く手を上げたが、自民党県本部はギリギリまで公認を渋った。しかし、他にすべて断られたことからやむなく公認したぐらい、評判が良くなかったようだ。そんなことから、あんなヤツに負けるはずがないという楽観意識を最後までぬぐいきれなかった。

本当の敵は相手個人ではなく、バックの安倍政権だったのに。権力をもつ者が局地戦で総がかりで攻めてきた時の怖さを実感できていなかった。

2. 告示直前の南城市長選挙で「オール沖縄」候補が現職に競り勝った。当選した瑞慶覧長敏さんが何度も応援に来て威勢のいい発言をしていたが、これが楽観論に輪をかけた。全国から私のような応援団もたくさん来ていていたが、全体としてピリピリした緊張感のようなものは伝わってこなかった。逆に相手陣営は、危機感をもち、必死になった。

翁長知事はこの雰囲気に気づいていたようで、出陣式で「こんなに威勢よく集まっても、1票1票積み上げないと勝てない」と警告していた。

3. 辺野古が最大争点ではあるが、辺野古がすべてでない。私も辺野古に行ってきた。名護市は広い。辺野古は東海岸(太平洋)にあるが、市の中心市街地は西海岸(東シナ海)にある。だから、普天間などと違い、多くの市民にとっては、われわれが思うほどに基地を身近な問題として感じていなかった。

このことは稲嶺陣営でもわかっており、他の多くの政策チラシもつくっていた。しかし、目玉になる、市民に響くものがなかった。観光用にパンダを誘致するということもPRしていたが、これは逆に相手側から「パンダより給食費、保育料を」と斬り返しにあっていた。


こんご辺野古はどうなるのか。大いに心配である。
しかし、新市長は、辺野古問題は公約に掲げていなかった。国と県の裁判の推移を見守るとだけ。だから、市民は白紙委任をした訳ではない。

市民の過半数は辺野古反対であることは、はっきりしている。給食費、保育料無料に惑わされたお母さんも多いだろう。

ジュゴン国際裁判なども続いている。
まだまだ、諦めてはいけない。
われわれは沖縄へのまなざしを閉ざしてはけない。
それは、沖縄を見捨てることにつながるのだから。

(続く)

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安岡良亮の息子たち(3)

以上書いたが、私の関心は秋水と安岡家の関係にある。

秋水両親は当時としてはまれな商家幸徳と士族格小野(祖父士族、父医師)の縁組であった。小野は安岡、桑原と厚い姻戚関係にあった。中でも安岡は中村の文武の名門で通っていた。秋水は身内の出世頭は良亮であったと言っているように、母方係累のほうから刺激、薫陶を受けている。

秋水刑死から十二年後(大正十二年)、秀夫は幼き頃の回想を「雲のかげ」(夕刊時事新報)に、あえて「南極老生」のペンネームを使い、抑えながら(秋水をKと表現)書いている。 

また、英の娘岡崎輝も戦後解放後の昭和二十二年、「従兄秋水の思出」に詳しく書いている。

父小野道一は中村で財を失い明治二十三年東京に出たさい、秋水は中江兆民の書生をしながら国民英学会に通っていた。ほどなく神楽坂の小野家に同居し、家族同然の生活をしている。そこに秀夫がたびたび遊びにきた。三人(輝、秋水、秀夫)で深川八幡へよくお詣りをした。

二人は将来どんな仕事に就くべきか相談した結果、「自ら言はんと欲することを言い、正しく思うことをやれ、人に頭を抑えられずに天下を闊歩しうる無冠の帝王」新聞記者に限ると意気投合し、秀夫は時事新報、秋水は自由新聞(板垣退助主宰、兆民紹介)に入った。

しかし、その後二人が進んだ方向は真逆であった。秀夫は黒龍会に関与していたとの記述もある。

これについて雄吉も同様で、自由民権かぶれの秋水と違い、雄吉が代議士に出たのは国民党からであった。

学者雄吉は英国留学のさいマルクスも勉強した。しかし、帰国後、秋水と秀夫を呼んで講義をし、マルクス主義は日本には合わないと言った。

輝は「秀夫叔父はジミで兄(秋水)は派手」、「雄吉叔父は所詮影の人兄は實行者」と対比している。

さらに、小野道一も国権派を代表する県会議員であった。

結局、秋水取り巻きの縁者はみな国権派であった。自由党の牙城であった宿毛に対して、中村は元来保守派の拠点であった。そんな政治風土の中で、幸徳秋水は突然変異的存在にみえる。

早熟で多感な少年であっただけに、まわりがみな士族の子なのに自分だけが町人の子であることが幼き心に深く刻んだもの。「平民社」「平民新聞」と「平民」にこだわったもの。遠因は両親の縁組にあったのでは。

しかし、そうではあっても、一族だれも秋水を避け、疎んじる者はなく、最後まで秋水を心配し、暖かい手を差し伸べていたことは間違いない。

「傳次とは主義が違ふが、主義はとも角、親戚だし傍輩だし、ほつておくわけにも行かなければむごくもある、一切の始末は俺がしたよ」。処刑後の処理のこと。

輝が伝える後年秀夫の言である。

(終り)

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「安岡良亮とその一族(下) 雄吉 秀夫 英」

安岡良亮の息子たち(2)

雄吉と三男秀夫の間に儁次郎(しゅんじろう)がいたことはあまり知られていない。記録(写真も)がほとんど残っていないためであろう。

小野英の娘岡崎輝(筆名丘佐喜子)が「南国新聞」(中村で発行、昭和四十三年三月二十一日付)に寄せた連載「続わがふるさと(27)」には「次男儁次郎は俊秀な頭脳と秀麗な容貌の持主だったが札幌農学校を卒り学習院に勤務したが二十四歳で病死した」と書いている。また、「農学士」「学習院教授」「未来ノ大臣ト云ワレタ人」と書かれた記録(メモ)も上岡正五郎先生調査資料に綴られている。

札幌農学校卒業生名簿で明治十八年本科五期卒業生十二名の中に儁次郎の名前を確認できる。しかし、生年、没年、墓も不詳である。

三男秀夫は明治五年東京生。父の遭難により、母と中村に帰ってきてからは一歳上の秋水と兄弟同然に遊んだ。

明治十八年、ともに通学していた中村中学が突然廃校になり高知中学に統合されたさい、秋水は家の経済事情もあり、すぐには高知に転校できなかったが、秀夫はそのまま高知に出た。その後、慶應義塾に入る。兄同様経歴が前掲「慶應名流列伝」に出ている。沢翠峰・尾崎吸江共著「良い国良い人 東京における土佐人」(大正六年)にも。

秀夫は明治二十六年、時事新報社に入る。同社は福沢諭吉経営、戦前の五大紙に数えられていた大新聞(現在のサンケイ新聞につながる)であった。

秀夫は終始一貫、社の方針に従った穏健な論説記者であった。「風采温順」「言語柔和」

得意分野は外交、特に支那問題。論文「支那の六国借款」「支那全権は何を為すべきか」のほか、単行本「日本と支那と」「小説から見た支那の民族性」を出版している。

その主張は、大陸進出を図る日本を後押し、その論理的支柱になるような内容である。

中学生向け月刊雑誌「少年」には、日露開戦の明治三十七年から大正十年まで十七年間、「時事解説」を執筆。日露戦については、詳しい戦況記事となっている。ただし、明治四十三~四十四年に名前がみえないのは、秋水が大逆事件の渦中にあったことから筆を自粛したものと思われる。

大正元年、雑誌「奉公」には、南米訪問記(時事新報特派員、軍艦生駒に乗り南米から欧州へ)を載せている。

秀夫の妻は土佐出身政治家甲藤大器の娘。甲藤は後藤象二郎の大同団結運動に参加し、兄雄吉とともに「政論」で筆をふるった人。

秀夫末裔は隼太―保直まではわかるが、以降不詳。秀夫没年も不詳。墓は東京多磨霊園にあるというメモがあり、種々調べたが、場所を特定するには至っていない。

兄弟姉妹で一番上の長女芳は母千賀の出里桑原の長男戒平(母の兄義厚の子、従兄)に嫁した。戒平は良亮と一緒に維新東征に参加し、官に入る。夫婦で熊本に帯同したが、神風の乱では難を免れた。

戒平はその後中村に帰り父のあと幡多郡長を務めたが、田ノ口銅山事業に失敗。中村を出て、東京豊島郡長、小笠原島々司、台湾新竹支庁長などを務めた。晩年は鎌倉に隠棲し、樋口真吉伝を書いた。墓は鎌倉。

次女英(ふさ)は、幼いころ男なればと惜しまれた。小野道一(従兄)に嫁す。道一は桑原戒平の実弟で、秋水母多治の父小野雲了の養子となり、小野家を継いでいた。

道一はかつて谷干城に従い上京。大学南校で法律を学び、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島県判事、三重県警察部長を務めたあと帰郷。幡多郡長、さらに高知県会議員、議長にも就いたが、兄事業失敗の責めを負い、議員辞職を余儀なくされ、明治二十三年一家で上京。新聞社、郵便局などに務めたが、明治二十八年自死。英は自力で生きるため、娘二人を連れ、房州(千葉県館山)で教員となった。

英は明治三十八年、帰郷に合わせて中村に設立された幼稚園の園長に迎えられた。幼稚園はその後町立に移行。高知県における幼児教育のさきがけとなった。晩年「八拾余年の思出」を書き残している。昭和十二年、八十七歳で没。夫婦墓は太平寺にあったが、今は撤去。

三女(結)、四女(玖摩)、五女(伊勢)については、特記すべきことはない。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族(下) 雄吉 秀夫 英 」

安岡良亮の息子たち(1)

明治九年十月、初代熊本県令(知事)安岡良亮は不平士族神風連の斬り込みにあい殉職した。五十二歳。

良亮と東京に残っていた妻千賀(桑原義敬娘)の間には八人(男三、女五)の子がいた。千賀は翌年、まだ幼い秀夫ら下の子を連れて、中村に帰ってきたことは前号(本ブログ 2017.1.6~1.12)に書いた。

長男雄吉(おきち)は安政三年中村生まれ。当時二十歳、慶應義塾に学んでいた。その経歴等は三田商業研究会編「慶應義塾出身者名流列伝」(明治四十二年)、片岡仁泉編「近代土佐人」(大正三年)に載っている。

安岡雄吉は明治十一年ごろから内務省、元老院、東京府庁などに宮仕えしたが、わずか五年で辞め、「隠遁的生活」に入り、「専ら読書に耽る」。

ところが、明治二十三年国会開設を前に後藤象二郎が自由党分裂各派に大同団結運動を呼びかけると、その幹部として名乗りをあげ、機関誌「政論」で政府攻撃を繰り返す。ついには新聞条例にひっかけられ、裁判で禁固刑の処分を受けるが、憲法発布の大赦により刑執行は免れた。

しかし、政府の懐柔策で後藤が突然入閣したことにより運動は挫折。雄吉は明治二十五年、第二回帝国議会選挙高知第二選挙区(幡多郡など)に国民党(吏党)から出馬した。

選挙は政府の大干渉が行われ、自由党との抗争は激烈を極めた。結果、雄吉はいったん片岡直温とともに当選したが、陣営側の選挙違反裁判(票操作)に問われ、林有造、片岡健吉の自由党に敗れた。

再び読書生活に入ったが、明治三十年から二年間は英国留学し、欧州各国も視察。帰国直後には、母校慶應で帰朝演説会「べレスフオード卿の演説に就て」(他国同盟への意見)を求められた。演説録は慶応義塾学報(12号)所収。同学報(61号)には論文「宗教局外観」(宗教の自由を訴え)も寄せている。

明治三十五年、東京より選挙出馬したが、落選。しかし、二年後日露戦争開戦の年、再び高知から出馬し、今度は当選している。

この選挙の運動費明細が残されており、日当を支払った先に中村の幸徳駒太郎(秋水義兄)の名前がある。駒太郎は当然ながら親戚にあたる雄吉を応援したのだ。

雄吉は盲腸炎を患ったことから明治四十一年次期選挙は断念し、神奈川県藤沢市片瀬に百姓家を求め、またも隠遁。その年、秋水がこの家を訪ね中村の小野英(雄吉姉)に報告した手紙が「秋水全集」書簡集に収録されており、その中で「雄吉兄」と一緒に「おばアさん」(良亮妻千賀、翌年没)も杖をつきながら見送ってくれたと書いている。

その後、雄吉は二度目の洋行、また満州へも行っているが、世間との交渉を疎い、酒を友に学者的生活を続けた。

大正九年、六十二歳で没。執筆の準備をしていた「後藤象二郎伝」を仕上げることができないままに。

互いの父の代から深い縁(前号で書いた)があった尾崎咢堂(行雄)からは弔意の手紙が届いた。尾崎は慶應後輩で、雄吉から明治十二年、借金百円をしていた証文が残っている。良亮殉職に対し政府から弔慰金が千円(吊祭料三百円、家族扶助料七百円)出ていることから、その一部を回したのかもしれない。

雄吉妻は神奈川県士族出。末裔は長男隆司―篤夫―由恵と続き、いまは横浜在。今回、所蔵の貴重な資料を見せていただいた。雄吉家墓は藤沢市片瀬泉蔵寺にある。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族 (下) 雄吉、秀夫、英 」

二つの成人式(続き2)

国は法律で国民の祝日として成人の日を定めていますが、ただその日が休日になるだけで、どんなセレモニーをやろうと、やるまいと自由です。

いま成人式は市町村単位で開くのが一般的になっていますが、これは義務付けられたものではなく、慣例になっているにすぎません。ですから、そのやり方も自由です。やらなくてもいいのです。

やるのなら、例えば、敬老式のようなやり方もあるでしょう。国民の祝日ということでは同じです。

四万十市では、敬老式典は市が行うことはしていません。各地区が自主的に地区単位で開いています。開いていない地区もありますが、ほとんどの地区は開いています。市はこれに対し、75歳以上の方全員に祝い金(1千円)を支給しています。それをセレモニーの費用の一部に充てているところが大半です。

また、「厄落とし」をみんなで開いている地区もあります。これには市は補助金を出していませんが。

他の市町村も同じやり方だと聞いています。

こうした中で、成人式はどうあるべきか。私は、各地域、職場、家族等で、成人を祝う場をたくさん開いてやったほうがいいと思います。

過去には元服といったように、大人と認められるということは人生の大きなエポックであるからです。

しかし、いまの時代、行政が公費を使って主催するセレモニーについては、公平平等なやり方であるべきです。そのためには、統一会場でやるのがいいと思います。理由は先に書いたとおりです。

市主催の成人式とその他の催しが時間的に重なることは、新成人を混乱させることになるので、避けてやったほうがいいと思いますが、どちらに参加するかは本人の自由ですので、それもできないことではないと思います。

四万十市が西土佐会場で行っている成人式については、その企画や運営について地元青年団から多くのご協力をいただいていますが、主催はあくまで市です。市が案内状を出し、設営も市が行っています。

このやり方については、中村会場も同じであり、青年団や婦人会に協力をしてもらっており、青年代表、婦人会代表は壇上に座ってもらっています。青年代表は実行委員長になってもらっています。

繰り返しになりますが、成人式には多彩なやり方があっていいし、あったほうがいいと思います。

私がこだわっているのは、その中で、行政がかかわるもののやり方についてです。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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