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安岡良亮一族の墓(5)

明治9年、熊本神風連の乱で殉職した初代熊本県令安岡良亮(りょうすけ)の家系と墓について調べたことを、2年前、このブログに「安岡良亮一族の墓」(1)~(4)として書いた。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
2017.1.6~12

即ち、中村における安岡家の初代伝八郎良勝は中村藩(藩主山内康豊)の家臣であったが、元禄2年(1689)、4代久左衛門良儀の時、中村藩が改易されたため禄を失い、間崎村に移り住み、郷士となった。(のちに中村に戻り、良亮は10代目)

5代貞助良久の弟に伝七眞儀がいた。伝七は分家して橋上村(現宿毛市)の庄屋になった。

この橋上に移った安岡分家の墓を捜したいと思い宿毛歴史館に問い合わせていたところ、このほど、その場所らしきところを知っているという地元の人を紹介されたので、2月17日、訪ねた。

橋上に行くのは初めてであったが、国道56号線宿毛市芳奈交差点から県道を北に走ると15分ほどで旧橋上村の中心部に着いた。

ここでその方と待ち合わせ。すぐそばに旧庄屋跡があり、ここですと教えてもらった。石段の上の広い一角は、いまは菜花の畑になっているが、なるほど重々しい雰囲気が感じられる。

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90歳でもなお元気なその女性は、自分のおばあさんからそんな話を聞いたという。安岡家の人は、みんな頭がよかったということも。

それらしき墓は、この畑から見える後方の山の上にあるという。

70代男性も加え、3人で登る。斜面の道はシダで隠れており、鎌で刈りながら進む。ヒノキの植林部分に入ると日陰になり、シダや草は少なくなった。さらに登ると、墓が一列に現れた。これだという。

数えると15基ある。

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手前の3基は濱口と刻まれているが、残りは全部安岡。「宿毛市史」によれば、濱口は安岡の後の庄屋の名前だ。(3基は、濱口仁太右衛門の次男、長女、後妻の墓。安政、文久、慶應年間没。本人墓はない。)

安岡の中央の一番大きな墓石の表は戒名、裏には「橋上郷大保長 俗称安岡傳七真寅 行年八十歳 病終時安永七戊歳三月十二日」とある。

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「傳七真寅」となっているが、隣の妻の墓は橋上郷大庄屋安岡「傳七眞儀」妻となっている。

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これについては、間崎にも夫婦連名の墓石があり、この連載(3)に写真を掲載しているとおり、「橋上村安岡傳七眞儀夫婦」と刻まれている。裏面に没年月日も同じ日付が刻まれている。実家のほうにも霊をまつったのだろう。

郷土史家上岡正五郎先生(故人)作成の安岡家系図でも「傳七眞儀」となっているので、「傳七真寅」は「傳七眞儀」と同じ人物とみて間違いないだろう。

同系図では、傳七眞儀の後は、久次右衛門儀寅(文化7年没) ― 弥平太(文政13年没)と続いている。この二人の夫婦墓もあった。弥平太四女墓も。また、傳丞夫婦墓もあり、系図に書かれている弥平太の弟「傳之丞」のことであろう。

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弥平太のあとの、左蔵良稌 ― 左吉弥三郎の墓はなかったが、「左吉妻」という墓はあった。

系図には出てこない墓としては次のものがあった。

「上土居九樹両村大庄屋安岡傳七夫婦」( 没年 士嘉永元申九月二十一日 姉天保十亥十一月二十日 ) ・・・ 伝七という名前は世襲的に複数使われているようだ。

「安岡伊蔵夫婦」( 同 明治二十一年二月、同三十年旧十二月二十八日オツル )

「安岡新吾夫婦」( 同 明治四十年旧七月二十〇日、昭和二年旧七月二十九日条子 )

「安岡甚三夫婦」( 同 昭和三年四月三十日 行年五十三歳 昭和三十年一月〇〇 加太 行年七十七才 三男昇建立 )

「陸軍伍長安岡益雄」( 同 昭和十九年九月三十日 太平洋方面戦闘に於て戦死 行年二十四才 )

墓に案内してくれた90歳の女性が言うには、甚三夫婦の墓を建てた三男昇さんは市内片島に住んでいた。以前は墓参りに来ていたし、戦死した安岡益雄も同四男であり覚えている、とのことであった。この方が墓守をしていたが、いまは無縁墓になっているのであろう。

系図で左吉弥三郎に続く、良純―盛治―正篤の墓がここにないのはわかっていた。

上岡正五郎記録によると、良純は天保年間橋上生まれだが、明治に入ってから高知県官吏を経て東京に出て税務官吏を務めた。以降東京に住む。

良純には男子がなく娘光恵の婿養子に迎えたのが高知大西家からの盛治であった。

盛治夫婦にも男子がなく娘婦美の婿養子に迎えたのが、当時東大生であった大阪堀田家の正篤(まさひろ)である。

正篤は思想家、陽明学者となり、大平洋戦争終結の天皇詔勅に筆を加えたことで広く知られている。

正篤の東大時代の身元保証人は安岡良亮の長男雄吉(元代議士)であった。正篤の墓は東京都立染井霊園にある。良純、盛治墓も東京のどこかにあるのであろう。

橋上を出た良純と、上記伊蔵、新吾、甚三は同族なのであろうが、どういう関係なのか、また左蔵良稌、左吉弥三郎の墓がなぜここにないのか(左吉妻の墓はあるのに)、さらに安岡のあと橋上庄屋になった濱口仁太右衛門本人の墓はどこにあるのかなど、はっきりしないことが残っている。

しかし、安岡正篤につながる橋上村安岡分家の墓が見つかり、過去の記録が裏付けられたことで、2年越しのモヤモヤがすっきりした。(終り)

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 松田川上流の橋上

秋水墓前祭と天皇制

1月24日、幸徳秋水の命日。今年も恒例の墓前祭を中村の正福寺で開いた。

墓前祭は敗戦の翌年、幸徳家による墓前供養として始まったのが最初で、労組(中村地区労)、社共などが引き継ぎ、今は顕彰会主催。「刑死108年」となる今年も京都、岡山からを含む約70が参加した。

明治44(1911)年、秋水ら24名が死刑判決を受けた(12名は無期懲役に減刑)罪名は「大逆罪」(旧刑法73条)。天皇、皇族に対して「危害ヲ加へ又ハ加エントシタル者ハ死刑に処ス」と規定されていた。

一部にあった爆弾論議をフレームアップして、大々的な「天皇暗殺陰謀事件」(大逆事件)にでっちあげ、非戦・自由・平等思想普及阻止のための弾圧、みせしめに利用した。

戦前国家では天皇は神聖にして犯すべからずの絶対君主。全ての権力は天皇に集中。軍隊は「皇軍」であり、「臣民」は有無を言わさず戦争に動員された。

天皇中心の国家体制=天皇制は日本の敗戦で終わるかに思われたが、戦後も「象徴」として温存され、その一つが元号である。

秋水ら刑死の翌年、明治は大正に。さらに昭和から平成に変わり、平成も今年で終わる。

この間、昭和54年元号法制化、今回は初めての生前譲位による代替わりというのに、天皇制のあり方をめぐる自由闊達な国民的議論はなきに等しく、マスコミタブーは増幅されているように思える。

安倍政権出現により戦後保守本流政治は堰き止められた。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法強行など戦前システム回帰をめざす別流にバイアスがかかり、特に最近の従軍慰安婦、徴用工をめぐる問題での韓国政府への異常なまでの口出し・介入は、大逆事件と同じ年に強行した朝鮮併合を想起させる。

幸徳秋水は「思うに、百年ののち、だれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い遺して絞首台にのぼった。

その百年はすでに過ぎたが、あの時代に秋水たちが提起した問題や、彼らの首をくくった社会構造のようなものは、いまだ根本は変わっていない。

今年の秋水墓前祭ではそんな思いを強くもった。

(幸徳秋水を顕彰する会事務局長)


「高知民報」2019.2.10投稿

高知民報2019年2月10日

幸徳駒太郎の生家長尾家について(2)

3. 幸徳正夫さん長尾家墓参

さっそく幸徳正夫さんに報告をしたところ、それは本当かとビックリ。お父さん(正三氏)からは長尾家のことは何も聞かされていなかったし、父も知っていたのかどうかわからいとのこと。

九月十六日、正夫さんは長尾家への墓参と挨拶がしたいとご夫婦で帰省された。顕彰会宮本会長、尾﨑副会長、私の三人がお供して長尾家に向かった。

長尾正記さんは笑顔で開口一番、「顔を見てすぐわかったよ」。
確かに、血は争えないものでよく似ておられる。

長尾正記さんと幸徳正夫夫妻

正夫さんご夫妻は長尾家墓に手を合わせられた。家に上がり仏壇にも。じっと静かに。

話の中で、お二人が昭和十七年度生まれの同学年であることがわかった。親しみがぐっと深まる。

家の前は四万十川。正記さんはアユもツガニも採るという。中村かが車で三十分。上流すぐは旧西土佐村。正夫さんはこの辺まで来たのは初めとのこと。

別れに正記さんは「また帰ったら寄ってよ」と、おみやげに山で育てた栗をいっぱい正夫さんに渡してくれた。

正記さんは、中村の駒太郎墓も秋水墓も行ったことがないというので前もって、市役所で謄本をとってもらった日に案内をした。

駒太郎、秋水墓の前で 長尾正記さん

いつごろから途絶えていたのかわからないが、両家の親戚付き合いが復活したことをともに喜びたい。

次の秋水墓前祭からは、長尾さんにもご案内し、ぜひとも参加をしてもらいたいと思っている。(注、追記 墓前祭にはご参加くださった。)


 4.「義兄」ではない駒太郎

駒太郎が幸徳家に献身したことはよく知られている。

俵屋の後継ぎであった秋水が中村を飛び出し、自らの主義に身を投じ活動ができたのは駒太郎がいたからである。このことは秋水だけでなく、周りの者(師岡千代子、岡崎輝など)も書いている。

秋水は罰金を払えなくなった時など何度も駒太郎に援助を頼んでいる。駒太郎はその都度応えている。

秋水刑死直前、母多治が今生の別れに上京したさいも同行、その後堺利彦から秋水遺骨引き取りにも行き、中村で葬儀も出している。

こうした中、今回の調査で改めて確認をしたのは、駒太郎は秋水の「義兄」と書かれることが多いが、戸籍上では秋水の「義従兄(いとこ)」であるということ。

何度も書いたように、駒太郎は秋水の伯父篤道(父の兄)のほうと養子縁組をしているからである。大原慧氏本に整理されている幸徳家系図でも間違いなくそうなっている。

不正確な記述が流布している背景には、秋水自身が「兄」と書いていることがあると思う。しかし、これは当然のことである。

秋水は一歳で父を亡くした。ものごころがついた時には、伯父篤道夫婦が同居(二世帯同居)していたので、伯父の養子駒太郎は実質同じ家族であった。

戸籍の分類はあくまで形式にすぎない。

秋水の最大の恩人であり最も信頼を寄せていた駒太郎は、秋水にとっては生涯「兄」であったのだろう。

駒太郎は秋水刑死二年後の大正二年、五十八歳で没している。
夫婦の墓は秋水墓の左隣にある。


5.その後の幸徳家

現在これら秋水一族で幸徳姓を名乗っているのは駒太郎の子孫だけである。

秋水には戸籍上子はいない(実子小谷ハヤ子はいる)。実兄亀治(篤道養子)の一人息子幸衛の二人の子はアメリカ(前号投稿)。長姉民野(福島)は子なし。次姉寅(谷川)は娘一人。

篤道は駒太郎の嫁は民野にしたかったが、駒太郎はこれだけは固辞。奉公人としてのけじめにこだわる駒太郎の人柄があらわれている。

だからこそ駒太郎は幸徳の名を残すことに腐心した。子二人で富治がいたが、姉明にも婿(武次郎)をとっている。

実質幸徳家を継いだ富治は南国新聞を立ち上げるなど自由人的に生きた。武次郎も入野村で酒造業を始め村長にまでなった。ともに根を守った。武次郎の子は男二人(勇、正三)で正夫さんは正三の次男。(富治の一人娘三春は別姓池に)

敗戦翌年、富治が公然と秋水墓前法要をおこない、すぐに秋水名誉回復の輪が広がった背景には、俵屋の暖簾を守った実直温厚な駒太郎の人柄から一族が秋水顛末以降も周りから目立った迫害を受けなかったことが大きい。

 そんな大功労者駒太郎はどんな顔をしているのか、写真が残っていないのが残念である。(終り)

長尾家で 左正記夫妻、右幸徳正夫夫妻


「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」
58号所収 2019年1月発行



  





幸徳駒太郎の生家長尾家について(1)

1.駒太郎生家発見

エアポケットであった。

久保川村長尾家から幸徳家に養子に入り、伝次郎(秋水)が中村を出奔したあとの幸徳家を支えた駒太郎について、私はかねてよりその生家長尾家はいまどうなっているのか知りたいと思っていた。

しかし、誰からともなく、長尾家のことはわからないというような話が伝わっており、気にはなりつつもそのままになっていた。

そんな中、秋水研究会六月例会のさい、顕彰会宮本博行会長(第四代、二〇一七年就任、元四万十市会議員)から、うちの近くの久保川にはいま長尾姓の家が二つあるという話題が出た。宮本会長の自宅も久保川と同じ旧大川筋村(その後中村市→四万十市)にある。

たぶんその長尾は駒太郎の生家とは違う長尾だろうとは思ったが、念のため七月十五日、四万十川本流を遡った山間地に、農家らしいその一軒をさがし、飛び込みで訪ねてみた。

ちょうどご主人の長尾正記さんがおられ、聞くと、名前は知らないがそんな人がうちの先祖にいたというような話は聞いているとのこと。驚いた。

仏壇の先祖位牌を見せてもらうと、明治、大正時代のものに林太郎、勝太郎という親子の名前がある。近くの先祖墓にも案内してもらった。駒太郎と同じ太郎だ。

しかし、駒太郎の名はなかった。家系図はないという。久保川にあるもう一軒の長尾家は分家というから、調べる必要はない。また、過去にも長尾家がほかにあったとは聞いていないと言われる。だとすれば、駒太郎の名がないのは家を出たからかもしれない。

そこで日を改めて、四万十市役所で長尾家先祖の戸籍をとってもらった(私も同行)。しかし、駒太郎の名前は出てこなかった。

以上の経過を電話で東京の幸徳正夫さん(駒太郎ひ孫)に報告。あとは駒太郎の戸籍から調べるしかないと思い、正夫さんに戸籍をとるための委任状をお願いした。

すると駒太郎の戸籍(戸主幸徳亀治、前戸主幸徳克作)に「養兄」として「明治十五年六月二十八日本郡大川筋村長尾林太郎弟入籍ス  亡養父克作養子」「安政二年九月八日生」と記載されていた。

これでつながった。

長尾家戸籍、墓石、位牌から整理をすると、長尾家は和七(文久元年没)から始まり、その息子が平作で、平作と妻ミキの間に生まれた兄が林太郎で、その弟が駒太郎である。

林太郎以降は→勝太郎→増美→正記(現当主)と続いている。

林太郎孫の増美は大川筋村会議員→中村市会議員をつとめた地元有力者だった。正記さんはその長男(林太郎ひ孫)であることが確認できた。八月十三日。

 
2.大原慧氏調査

 幸徳秋水の家系については、かつて大原慧氏(大逆事件の真実をあきらかにする会第三代事務局長)が詳細に調べている。(大原慧「幸徳秋水の家系について」『幸徳秋水の思想と大逆事件』所収、一九七七年)

当時は、戸籍謄本は第三者でも閲覧ができたので、当然、幸徳家の戸籍は閲覧したであろうし、幸徳家伝来の系図、年譜書等(現在所在不詳)も見たと記述している。

そこには駒太郎は久保川村農家長尾家の「三男」であり、秋水の父篤明の兄篤道(別名克作)が久保川村庄屋に赴任していた明治三年、十六歳の時、篤道家の「下僕」として中村に連れて来たと書いてある。

篤道は役人志向が強く、商家俵屋を継いだのは弟篤明であった。しかし、篤明は明治五年没した。

篤明の長男亀治はすでに子のいない兄篤道の養子に出していたので、俵屋を継いだのは弟伝次郎であった。しかし、伝次郎はわずか一歳。篤道夫婦が俵屋に同居し伝次郎の「後見人」になるとともに、駒太郎を篤明家の「中継ぎ養子」とした。

駒太郎は伝次郎が少し長じてから長尾姓に戻ったとある。

その後、駒太郎は先に書いた日付(明治十五年)、二十八歳の時、篤道の「廃家予備養子」になった。「予備」とは、亀治が先に養子に入っているので、亀治に万一のことがあった場合という意味である。

このように駒太郎は幸徳兄弟二家の都合で、ころころと「居どころ=籍」が変わっている。

しかし、大原氏の記述には、駒太郎が篤道の「廃家予備養子」になった日付は書かれているが、「中継ぎ養子」「長尾姓に戻る」の日付がない。今回私の調査でもわからなかった。「三男」ということも。(注 追記  その後の調査で「三男」であることは確認できた。)

私が推測するには、これらのことは大原氏が見たという幸徳家系図、年譜書等に書かれていたのではないだろうか。

仮に、いまでは閲覧不能な(直系親族がいないので)篤明家(秋水家)戸籍にそんな記載があったのであれば、大原氏はその日付を当然書き写したであろう。

系図や年譜書は私家製である。駒太郎に納得させ、そのようなことで一族合意したとすれば、戸籍登録まではしなかったのではないか。

または、明治初年のことであり、戸籍制度そのものが整備されていなかったのかもしれない。

いずれにせよ、もらわれてきた下僕駒太郎は言われるままだったのだろう。

そんな中、当然ではあるが、大原さん調査は長尾家までは及ばなかったようであり、今回はじめて駒太郎の生家が判明したことになる。(続く)

 長尾家前を流れる四万十川
長尾家前を流れる四万十川

「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」
58号所収 2019年1月発行



国立のまち

1月28日、東京から戻る日、夕方の飛行機まで時間があったので、国立に行ってきた。4年ぶり。

国立は学生時代2年間住んだところなので懐かしく、時間ができた時など、以前から時々出かけている。

国立駅に着き南口に出ると、何か建物建設工事中。大きな看板に「赤い三角屋根の旧国立駅舎再築工事中」とある。

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そうか、そうか、よかった。

私たちの学生時代、国立駅といえば、おとぎの国に出てくるようなかわいらしい赤い三角屋根の駅舎であった。駅前はロータリーになっており、正面に大学通、左右に、旭通、富士見通と、放射線状にまっすぐの道が延びている。

その軸になるのが駅であり、赤い三角屋根は国立のまちのシンボルであった。

その駅舎は、国鉄がJRになり、だいぶ前、駅が高架になったさい、じゃまになった。一部に保存すべきであるとの議論や運動があったようだが、結局取り壊された。国立駅はどこにでもあるような殺風景な駅になってしまった。

前回4年前に来た時に、三角屋根が消えているのを見て、寂しく思った。

しかし、その時、行政の国立市がかかわって三角屋根を復元するような動きがあるということを耳にしたので、ぜひそうなってほしいと思っていた。

看板によれば、三角屋根は大正15年、駅ができた時からあったもの。国立市はこれを文化財に指定し、総事業費3億1千6百万円で復元事業に着手したのだ。

底地もJRから買収したという。工期は2018年6月~2020年2月。竹中工務店施工。

行政としてのすばらしい判断だ。国立市に拍手を送ろう。

母校一橋に向かって歩く。駅を出た右側にあった東西書店はなくなり、ドラグストアーに変わっていたが、その他は4年前と変わらないまちなみ。喫茶白十字や増田書店は学生時代のまま。洋書の銀杏書房も健在だ。

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名物の桜並木は冬枯れで閑散としているが、48年前、受験のために最初に降り立った時もこの季節だったので、イメージに合っている。

増田書店に入ると、地元プロカメラマンが撮った大学キャンパスの写真集があったので、買った。その中に、旧駅舎の写真が載っていた。そうそう、こうだった。

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大学構内は平日なのに閑散としていた。広い校内には、以前はなかった研究棟などがその後建っているが、赤レンガ造りで統一しているので、周囲の緑と調和をしており、全体の落ち着いた雰囲気は変わらない。兼松講堂は改修工事中。

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生協の食堂や書籍コーナーを覗いたが、やはり学生が少ない。試験中だろうか。「中村政則の歴史学」は1冊だけ置いてあった。

本館にも入った。以前学長室があったあたりは、事務室に変わっていた。

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恩師中村政則先生の研究室があり、そこでゼミを行っていた歴史研究棟(いまはどう呼ばれているかわからない)はそのままであった。

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私は国立の2年間は中和寮に住んでいた。(その前の2年間も当時小平分校内にあった一橋寮)

大学通り向かいの西校舎を通り抜け、中和寮に向かった。私らの時代は前期1,2年は小平分校であったが、その後、西校舎に移転。全学生が国立になった。

以前はほとんど建物がなかった西校舎は窮屈になっている。

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中和寮の建物はそのまま。しかし、時代を反映してか、玄関はセキュリティーロックがかかっていた。ブザーを押し、入れてもらい、管理人さんにいろいろ聞く。

いまは大学院生寮になっている。私らのころは2人で使っていた部屋は個室使用。食堂はなくなっていた。管理人さんも管理会社から派遣。寮の裏側のラグビー場はそのまま。

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以前の院生寮は西校舎にあり、ボロボロの木造であった。火がつくとすぐに燃え尽きると言われていた。

いまの学部生(1~4年)はみな小平の一橋寮。私らのころの一橋寮は4人部屋だったが、いまはこちらも個室とか。しかし、一橋寮には食堂はあるのだろう。あってほしい。

寮の良さは一緒の釜の飯を食うことで、団結や友情も生まれる。私自身、学生時代の思い出は寮のほうが多いし、いまもつながりをもっている友人は寮生が中心。

旭通を歩いて駅方面に戻る。途中に谷川書店という古本屋があり、いつも立ち寄っていたが、なくなっていた。ご主人が亡くなったためとか。思い出がひとつ消えた。

白十字に入り、コーヒーを飲む。学生時代は、敷居が高くて、なかなか入れなかった店だ。

国立はいつ来てもいい。思い出がいっぱいだ。

次に来る時は、赤い三角屋根の駅舎が復元されていることだろう。楽しみだ。

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三角屋根の旧国立駅舎




大逆事件処刑109回追悼集会

1月26日、上京し、標記集会に2年ぶりに(3回目)参加してきた。

この集会は、大逆事件で秋水らが処刑された直後、生き残った堺利彦らが集まり、無念の思いで同志を偲んだのが始まりである。活動が窒息させられた冬の時代も「茶話会」と称して、毎年密かに続けられた。

いまの形になったのは戦後で、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が発足(1960年)してからは、同会主催で、管野須賀子墓のある正春寺(渋谷区代々木3丁目)で開かれている。

毎年1月、大逆事件に関連した催しをやっているのは、この集会と中村の秋水墓前祭。秋水墓前祭は今年は刑死「108」周年なのに対し、この集会は「109」回となる。

今年も全国から約80人が集まった。最初に、須賀子墓を全員で弔ったあと、寺のお堂の中で集会を行った。

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毎年この日に合わせ、同会の機関誌、「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」の最新号が発行・配布される。今年も58号(80ページ)が配られた。

機関誌には全国各団体、個人から投稿があり、執筆者はたいてい参加をしているので、順次その内容に添って報告スピーチが行われた。

同会の山泉進事務局長(明治大学名誉教授)が「巻頭言」を書いているので、最初に開会あいさつし、司会もおこなった。

次に、この1年間の物故者への追悼の言葉を関係者が述べ、黙祷。今年は5人(森岡邦廣、池田千尋、藤原智子、柏木隆法、内田剛弘)。私は、幸徳秋水を顕彰する会初代会長であった森岡邦廣さんについてお話をした。また、2日前の秋水墓前祭の報告もした。

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新宮、岡山井原、大阪、京都(岩崎革也研究会)、新潟小千谷、真宗大谷派、国際啄木学会、平出修研究会などからも次々に報告。横浜事件再審裁判の原告木村まきさんからも。

新しい映画(ドキュメント)「熊野から」をつくった田中千世子さんからは映画紹介があった。新宮などではすでに上映をされた。

今年は平成最後の年であることもあり、会場から天皇制についての発言もあった。元号は天皇制の象徴である。

私は3回目の参加で、だいたい様子がわかってきたが、この集会は、何かを決めるものではない。人権弾圧のない社会をめざす活動に参加をしている、または関心がある団体、個人が集まり、それぞれの取り組みなどを報告し、交流をすることで、刺激等をもらいながら、自分たちの活動に活かしていくということ。

だから、大逆事件という名前をつけているが、それだけではない、幅広い人たちが参加をしている。

思えば、大逆事件から108年を過ぎたというのに、このような集会が続いているということ自体、天皇制の存続を含め、あの時代に秋水たちが提起した問題や、秋水たちの首をくくった社会構造のようなものは、いまだ根本は変わっていないということだろう。

最近の安倍強権政治がそのことを示しており、参加者みんな危機感をもっている。

幸徳秋水刑死108周年墓前祭

1月24日、秋水108回目の命日、恒例の幸徳秋水墓前祭を開いた。

例年、この日は雪が舞うなど、寒い日となることが多いが、今年は天気に恵まれた。例年と同じぐらい約70名集まった。

最初に、幸徳秋水を顕彰する会宮本博行会長が追悼文を読み上げたあと、順次菊の花を献花。

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今年は遺族関係者として長尾正記さんが初めて参加された。

秋水が家を出たあと幸徳家を支えたのは駒太郎であった。駒太郎は久保川村の長尾家に生まれた。幸徳家(俵屋)に下僕として入ったが、その真面目な人柄と仕事ぶりを見込まれ、28歳の時、秋水の伯父篤道(父の兄)の養子になる。

秋水は2歳の時父篤明を亡くしているので、伯父は父親代わり。同じ屋根の下に同居していた。だから、秋水は駒太郎のことを兄と呼んだ。

長尾家がいまはどうなっているのかずっとわからないままであったが、昨年、同じ久保川地区に残っていることが判明。今年の墓前祭にご案内をしたところ、快く参加してくれた。

駒太郎の墓は秋水の隣。自分の実家の子孫(兄のひ孫)が来てくれて、心強く思ったであろう。

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今年も県外からは2名が参加。京都府南丹市の奥村正男さんと岡山市の森雄二さん。お二人には簡単なスピーチをしていただいた。

このうち奥村さんは京都丹波岩崎革也研究会会員(元代表)で、今年の墓前祭記念講演会「岩崎革也と幸徳秋水」の講師としてご招待。

岩崎革也は、秋水より2歳年上の地主、資本家、銀行家(頭取)で、京都府の須知町長も務めた人物で、平民社に対して多額の寄付を行うなど、秋水、堺利彦らの活動を経済的に支援した、いわばスポンサーであった。

秋水らが刑死直後、堺利彦が犠牲者遺族慰問のために全国を回り、中村にも来ているが、その金300円を出したのも革也であった。

私は昨年3月、革也の地元を訪ね、このブログで紹介をしているので、ごらんいただきたい。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-416.html

講演会には40名が残ってくれた。秋水と革也の縁で、両地の交流が深まるきっかけになるであろう。

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秋水が大逆罪で刑死した西暦1911年は明治44年。明治は翌45年で終わり大正、さらに昭和に。

大逆罪(旧刑法73条)とは天皇家だけを対象にしたもので、危害を加えんと「謀議」をするだけでも死刑。天皇は絶対君主であり、神であった。

日本は敗戦により、軍備は撤廃、戦力も放棄。天皇は人間となった。

しかし、制度としての天皇制は一部温存された。その一つが元号である。

昭和はそのまま継続し、敗戦翌年の昭和21年、駒太郎の長男富治が幸徳家の墓前供養として始めたのがいまの墓前祭の最初である。

秋水が「思うに、百年ののち、だれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い残して死刑台にのぼった、その100年後は平成になっていた。

さらに平成も今年で終わる。初めての生前譲位による代替わりであるが、誰がどう決めたのか、国民的議論にはほど遠かった。

天皇制のあり方につながる元号の是非の議論もタブーとして封印されている。

憲法は瀕死の状態で、軍備はますます増強、共謀罪では「謀議」も復活。

平成最後の秋水墓前祭。秋水の嘆きが聞こえて来た。

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桑原戒平(4)

以上は、「文芸はた」第5号への投稿をそのまま転載したものであり、昨年9月時点で書いたものであるが、その後、新たにわかったことなどについて、以下追記をさせていただきたい。


1. 同求社について

同求社は戒平が西南戦争終結後中村に帰って来てから立ち上げた事業組織である。

土佐藩が行っていた事業の払い下げ等を受け、親戚縁者等から資金を募ったことはわかっていたが、その内容、規模等は不明であった。

このほど、郷土史家松岡司氏による研究論文「高知県帝政派の研究」(青山文庫紀要5~13)の中に、書かれていることを知った。

それによれば、同求社は明治10年頃より準備が始められ、県下数百名の同志から資金を集め同16年1月設立。本社は大阪南安治川、分社は高知農人町と中村。

幡多郡江川村(元西土佐村)でアンチモニー(アンチモン)鉱山開発・製造や大阪・高知間の運輸(汽船速凌丸)など。

さらに、幡多郡田ノ口銅山も開発し、同鉱山には17年5月時点で従業員200人いたという。

びっくりするほどの規模の士族授産事業であり。出資を募った範囲の広さや、本社が大阪だったとは。弥生新聞(帝政派)の人気投票において「商法」部門で戒平が県下1位になった背景は、こういうことだったのか。

アンチモニー開発は実弟の小野道一が主導をしたと書かれている。道一はその後の事業破綻の犠牲者のように思っていたが、共同事業のような形で深くかかわっていたとこがうかがえる。

2. 戒平が中村を出た経緯について

同求社は「士族の商法」で破綻する。戒平は中村にいられなくなり東京に出て北豊島郡長になるのだが、その後は中村に戻ってきた記録がないと、先に書いた。

しかし、東京の戒平子孫の方から連絡があり、娘清の手記に少なくとも一度は戻っているという記述があることがわかった。

戒平は明治19年8月、北豊島郡長の職に就いているが、当時、普通なら4年任期のところ約2年で同21年7月に辞め、いったん中村に帰ってきていた。そして約2半後の同23年12月に再び出て、今度は小笠原島司になっている。

なぜ帰ってきたのかの記述はないそうだが、間違いなく同求社の破綻整理のためであろう。

私は、同求社破綻後に中村を出たものと思っていたが、そうではなく、少なくとも最初中村を出た頃は、経営悪化していたかもしれないが、破綻まではしていなかったのではないかと思われる。引き継いだのは道一だろうか。

県会議長までも務めた小野道一がこれの責めを負い(県から貸付を受けていた)、議員を辞職し、一家で東京に出たのも同じ明治23年7月である。兄弟ともに、同年に出たことになる。

また、桑原家長男であった戒平は中村を出る時に家督を弟の義忠へ譲って出たものと思っていたが、実際はそれより前、維新東征の際であり、国事に奔走するためであったこともわかった。

安岡良亮が弟良哲に、自分はいつ命を落とすことになるかもわからないからと家督を譲ったのと同じである。戒平、良亮ともに、中央志向が強かったのであろう。

その後、戒平が中村に帰ってきたことがあるかどうかは、いまのところわからない。

3. 東京での桑原家と小野家、幸徳家の関係について

私は互いの行き来の記録を見つけられないことから、事業破綻がきっかけで断絶状態になったのではないかと思わせる書き方をした。しかし、そうではなく、親戚同士として普通の行き来があったことがわかりホットした。

一つは、その後桑原家の古いアルバムを見せてもらったが、その中に小野家との交流を示す写真が出てきたこと(両家のこどもの写真)。

二つは、師岡千代子が書いた「雨々風々」中に戒平と秋水の交流をうかがわせる記述が見つかったこと(戒平は憎めない爺さんで、秋水はいつまでも洟垂れ小僧に見られていた・・・と)。

三つは、秋水日記、たとえば明治32年9月に、桑原民衛(一族の譲長男)がたびたび秋水家を訪ねてきている記述があること。


以上1,2,3から思うことは、戒平、道一兄弟ともに、浮き沈みの激しい、時代に翻弄された一生であったということ。

兄戒平はそれでも命を全うしたが(大正9年没)、弟道一は明治28年自死している。

その原因の一つがが兄弟の断絶にあったのではないかと推測したが、そのような関係ではなかったことはわかった。

では、なぜ。
最後は生活も苦しく、病気になっていたというから、それが主因なのか。

道一の娘岡崎輝は「従兄秋水の思出」に、秋水が平民新聞に、自分が社会主義者になった理由の一つに、うち続く身内の不幸があったと書いているのは、道一の一生があまりに惨めであったということだと、記している。

私の最大の関心はここにある。
引き続き調べていきたい。(終り)


蕨岡 桑原墓   遠祖 桑原長義墓
 蕨岡 桑原墓        遠祖 長義墓

羽生山 桑原墓   桑原義厚墓(戒平父)
 羽生山 桑原墓      義厚墓(戒平父)

桑原家墓 寿福寺 
鎌倉寿福寺 桑原家墓(戒平)




桑原戒平(3)

3. 佐竹音次郎、沖本忠三郎、永橋太郎


晩年は鎌倉に隠棲した。鎌倉で小児保育園を営んでいた佐竹音次郎からの勧めがあったためである。

音次郎は元治元年(一八六四)下田村竹島の農家生まれ。明治十九年、向学の志を立て二十二歳で上京し戒平の家の門を叩いた。面識はなかったが同郷先輩を頼ったのである。

戒平は快く書生として住み込ませた。先に書いた三人の書生の一人であったものと思われる。

音次郎は軍人志望であったが、年齢制限にかかった。そこで戒平は北豊島郡下の巣鴨小学校校長の職を紹介した。音次郎が中村でとった教員免許をもっていたためである。

音次郎はその後医者になり、明治二十七年、鎌倉の腰越に医院を開業する。

患者の中に家の事情で育てられない赤子がいたことで、孤児を預かる「小児保育院」を併設。「保育」とは音次郎が初めて使った言葉で「保んじて育む」という意味であった。「保育の父」と言われる所以である。

音次郎はキリスト教に入信。「聖愛一路」の精神から、孤児救済のための事業に専念する。鎌倉に同三十九年、鎌倉小児保育園を設立した。

音次郎の事業を二人三脚で献身的に支えたのが妻熊(熊子)であった。熊は下田村鍋島の郷士沖本忠三郎(嘉永元年生)の二女。忠三郎は維新東征迅衝隊十二藩隊で戒平の部下であった。のち熊本で警部をしたと記録されているから、安岡良亮や戒平に従ったのであろう。

熊は明治九年神風連の乱の直前熊本で生まれたのでその名をつけられたものと思われる。

既刊の記録では、音次郎に熊を紹介したのは安岡友衛だとされている。友衛は安岡良亮の弟良哲の長男(明治五年生、従兄秋水の一年下)であり、東京で医学を学び中村で開業していた。音次郎とは医者つながりで交流があったのかもしれないが、音次郎のほうが八歳上である。戒平が自分の元部下の娘を音次郎に紹介し、その仲立ちを中村でしたのが友衛であったと考えるのが自然であろう。

忠三郎の娘には長女幸(幸子)もいた。幸は十五歳で東京に出て、牧師植村正久に就いてキリスト教に帰依。のち同郷の東京帝大教授弘田長の指導を受け小児科医となり、音次郎の腰越医院を継いだが、関東大震災で圧死した。
 
才女二人を育てた沖本忠三郎については今後調べたい。

戒平の書生には三原村出身の永橋太郎(音次郎と同年生)もいた。永橋は八丈島、小笠原、台湾にも同行し、官務につきながら家族の世話もした。ふるさとに帰ったあとは、三原村長(明治三十四~四十年、大正九~十年)を務めている。

永橋村長は明治三十七年、国政選挙で高知二区(幡多郡など)から出馬し当選した安岡雄吉(良亮長男)の応援をした記録が残っている。

戒平は、東京にいても郷里中村、幡多の人脈を大切にした。しかし、自らは土佐に帰省した記録は見あたらない。

同求社の事業失敗で親戚に迷惑をかけたことから、帰りたくとも帰れなかったのであろう。

親戚側でもそれは深いわだかまりとして残った。

戒平は安岡家とは東京でも行き来があったようで、清は雄吉やその弟秀夫にかわいがってもらったとある。

しかし、小野家、幸徳家とは溝を埋めることができなかったのではないか。

県会議員を辞めた実弟小野道一は、これも中村にはいられなくなり明治二十三年東京へ出た。当時独身であった秋水を下宿させたりするが、困窮生活であった。病気にもなり、ついに同二十八年、原因不明の自死。

この間、兄戒平は一時島司で東京を離れていたとはいえ両家の手記等(岡崎輝「従兄秋水の思出」など)に互いの名前は出てこない。

同じ東京にいながら兄は救いの手を差し伸べなかったのか。弟が拒絶したのか。秋水の記録にも、安岡家との行き来は出てくるが、戒平の名前は出てこない。

戒平は音次郎の影響もあって七十歳を過ぎてから鎌倉メソジスト教会会員となり、夫婦で洗礼を受けた。聖書を携え熱心に教会に通った。

大正九年三月十四日、七十六歳で昇天。
鎌倉保育園すぐ近くの寿福寺に葬られた。

辞世の句の「みつかい」は「(神の)御使い」。「罪」とは神への罪か、それとも・・・と思う。

みつかいのつばさの音や雪の空
雪の空罪のしるしのあともなし              

「文芸はた」第5号
 2018年12月刊所収  転載は以上で完。 追記が続く。

桑原戒平(2)

2.北豊島郡長、小笠原島司、台湾新竹支庁長


戒平には中央官吏時代からの人脈があったのであろう。上京後、北豊島郡長(明治十九~二十一年)に就いた。板橋に構えた屋敷には、車引き(運転手)のほか、書生三人、女中二人がいた。旧山内侯も迎えたこともあったという。

続いて、八丈島島司、小笠原島司に。島の責任者はいえ、いまの感覚では左遷のようなイメージがあるが、海洋進出をめざしていた当時は重要な国境拠点であった。

さらに、日清戦争で日本統治となってまもない台湾北部新竹支庁長に(明治二十九~三十二年)。途中から、新竹国語伝習所長も兼務した。

台湾総督として仕えたのは乃木希典と児玉源太郎であった。二人とも熊本時代が重なっている。ウマが合ったのは融和型の乃木のほうで、強圧型の児玉とはぶつかった。結局、児玉に辞表を書き、官を辞した。

戒平には六人(四男、二女)の子がいた。長男の順太郎は清国留学中の明治三年に生まれた。秋水より一年上であり、幼いころ中村で一緒に遊んだ仲であった。

後年、秋水は「順太郎さんを見よ、あんなに大人しうせねばいかんといって、順太郎さんのお陰で何遍母に叱られたか知れん。子供のときには大に順太郎さんを怨んだものだ。」(岡崎輝「従兄秋水の思出」)と語っていた。

順太郎は鉄道技師となり、後に朝鮮で鉄道敷設を行ったりしたが、当時は徳島にいた。戒平は台湾から徳島に引き揚げ、しばらく滞在した。

その後再び上京、王子、小石川などに住んだ。娘清はまもなく結婚し家を出たので、手記には以降の戒平の様子はあまり書かれていない。官を辞したあとは公職にはつかず、悠々自適の生活を送ったようである。

明治三十四年、若き頃の剣術の師であった樋口真吉の伝記『樋口先生』の編集出版をした。また、西南戦争などを記録した『西南紀伝』の編集にも協力したと書かれている。(続く)

「文芸はた」第5号
2018年12月刊所収

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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