大分へ(3)

大分駅前のホテルに泊まったので、フリーになった2日目は一番に目の前の駅に寄ってみた。

大分駅は2年前リニューアルされており、見違えるよう。駅ビルは専門店街となりシネコンも入っていた。大分特産品を販売する広い売り場の品ぞろえもすばらしい。専門店入口には、オープンを待つ人たちのかたまりができていた。

新しいJRホテルもでき、屋上には(のぼらなかったが)空中温泉もできていた。
正面広場には、大友宗麟像とザビエル像が。

20170529093057025.jpg    2017052909305567b.jpg

駅裏へは通り抜けになり、大きな広場ができていた。以前駅裏には、大分鉄道管理局時代の野球部のグランドが残っていた記憶がある。ほかはがらんとした殺風景なものであったので、驚きである。

表も裏もない、駅全体が新しい「まち」になったことで、商戦では地域一番店だったトキワデパートも安閑としていられなくなったのではないだろうか。まちの中心軸が変わったような気がする。

別府に向かうことにし、途中の西大分で柞原神宮(豊後一宮)に寄った。山の中腹、うっそうとした森の中にあった記憶そのままであり、往時と同じく異様な神霊を漂わせていたが、本殿に大友宗麟奉納太鼓があることは初めて知った(気づいた)。宗麟は、どこまでも私についてくる。

 20170529093057504.jpg    20170529093443bed.jpg

別府で大学時代の友人に会ったあと、鉄輪温泉、明礬温泉を通って、安心院(あじむ)に向かった。途中にアフリカンサファリがあった。このサファリは私がいた40年前にオープンしたもので、一度だけ入ったことがある。全国のこの種の施設はバブル後ほとんど閉鎖されたときくが、ここはまだ残っていた。

 20170529093035eb4.jpg

最近は温泉人気で別府への観光客が増えているそうだから、そうした客をうまくとりこんでいるのだろう。そういえば、NHKブラタモリでも2回にわたり紹介されていたなあ。

安心院へは、前の日も会った「あめんぼ」の古参メンバーの一人、堤記夫さんを訪ねた。堤さんは、20年目くらい前、大分市内から移住し、地鶏を放し飼いしている。

私がいたころ、安心院町は町の特産品とすべくぶどうの普及を進めていたが、それがうまくいかず、多くの農園跡地が放置された。町も合併し、いまは宇佐市の一部になった。そのぶどう農園跡地に堤さんが「入植」したのだ。

安心院は由布岳の裏側に広がる高原地帯であり、ここまで来たのは初めて。のどかな田園風景が広がっていた。大自然の中で、畑を耕し、果樹を植え、地鶏と一緒に暮らす。新鮮卵は大分市内の有名洋菓子店に送られ、おいしいシフォンケーキに変わる。たくさん卵をいただいた。以前のイメージとは一変した、大地の中で暮らす堤さんの生活をうらやましく思った。

 20170529093408466.jpg    20170529093403b79.jpg

帰りには道を少しそれ、別府湾を一望できる十文字原展望台に立った。噂には聞いていたが、はじめて。佐賀関から国東半島まで、ぐるり目の中に飛び込んできた。冬の晴れた日には、四国まで見えるそうだ。

別府湾には、過去に瓜生島という島があったが、慶長豊後地震(1596)で一夜にして海の底に沈んだという記録が残っている。私がいた当時本格的調査が行われ、ほぼそれが真実だということがわかり、話題になっていた。しかし、いまはその地震が愛媛県の伊方原発沖を通る中央構造線断層が動いた地震であったことで注目を浴びている。

去年の熊本地震では別府周辺も被害を受けている。中央構造線は長野県から大分、熊本までつながっている。そう思うと、目の前のパノラマが不気味な光景に見えてきた。(続く)

 20170529093350971.jpg

大分へ(2)

 戸次から判田を通り、大分の中心部に入る直前の敷戸で、西寒田(ささむた)神社を示す道路標識が目に入った。同神社は藤で有名。ちょうどいまが花の見ごろだなと思い、立ち寄った。バッチリ満開であった。

 201705262152109cf.jpg

いよいよ市街地に入る。まず、以前住んでいた上野町の社宅跡に向かった。国道10号古国府交差点から左折し上野の山を越えたところ。右折すれば滝尾自動車学校、私が運転免許をとったところだ。

山の上には大分上野ヶ丘高校(旧制一中)がある。その近くに、大友館跡があるので、いったんそこに車を止めた。

大友家は臼杵に本拠を移す前は、ここ府内(今の大分市)を拠点としていた。府内を見下ろすところに館跡の一部が残っている。昔来た時の記憶よりもずいぶんと小さいもので、住宅地の一角に石碑と標識があるだけであった。

 20170526215140062.jpg    20170526215206493.jpg

山を下りたところに上野中学があり、その校庭に面したところに社宅があった。場所はすぐわかった。当時ここの独身寮に住み、自転車で10分ほどの職場まで通った。休みの日の早朝、職場の野球部の練習のため勝手に中学グランドを使ったりしたものだ。

いまは、社宅があった場所には高層マンションが建ち、テニスコートはその駐車場になっていた。隣の若宮八幡宮はそのままであったが、マンション南側には駅裏方面に伸びる広い環状道路ができており、様変わりであった。

 201705262152085ad.jpg    201705262152020fb.jpg

大分市役所前にあった職場(農林中央金庫大分支店)も近くのビルに移転していた。跡地は更地になっていた。社宅といい職場といい、以前の姿が見られないのは寂しいものである。いま転勤職員はみんな借り上げマンションに住んでいるときく。

朝5時に臼杵港に着いたので、いつもと違い昼までが長い。あちこち思い出探しをしているうちに、やっと11時になった。この旅の第一の目的、中央町のフンドーキン会館に着いた。

私は大分時代、地域の合唱団に入っていた。というとかっこういいが、合唱団といっても、うたごえサークルだ。いろんな職場の人間が集まって、フォークソングなど好きな歌をうたう。

最初は大分うたう会と称していたが、そのうち「あめんぼ」と命名した。会はいまも続いているが、それから40年たつというので、当時の古参メンバーが中心になって、40年記念のうたごえ喫茶をやることになった。そこに来ないかと私も誘われたのだ。

当時のメンバーは私を含め男は髪が白くなり、女性は体型が変わり、孫の世話に追われている者もいるが、気持ちは昔のまま。

会場は約100人で熱気ムンムン。配られた歌集の中からリクエストを受けて、次から次へとみんなで歌う。「青春」「若者たち」「切手のない贈りもの」「故郷」・・・午前11時から午後2時過ぎまで、ぶっ通しで歌った。私は一番好きな「たんぽぽ」をリクエストした。

フィナーレは、「翼をください」「遠い世界に」の大合唱となった。

一息入れたあとは、中心メンバー約20人での打ち上げ。延々夜遅くまで続いた。初日は長い一日なった。(続く)

 201705262154121c3.jpg    201705262154135b1.jpg    20170526215413a75.jpg



大分へ(1)

少し前になるが、4月29日から3日間、大分県へ出かけた。

大分は私が昭和51年農林中央金庫に就職して、社会人としてのスタートを切ったところ。生まれて初めて飛行機に乗って、東京からドキドキしながら赴任(最初の転勤)したことを思い出す。

3年半勤務して、また東京に戻ったが、大分では多くの方々にお世話になった。そうしたみなさんに久しぶりに、ゆっくり会うために。

また、地元に帰ってから郷土史にかかわる中で、土佐一條家と大友家(宗麟)が姻戚関係を結んでいたことなど、豊後(大分県)と幡多、土佐とは歴史的に深い関係にあったことを知った。そうした史跡などもあらためて訪ねたいと思った。

 29日未明宿毛発佐伯行フェリーに乗るつもりであったが、船のエンジントラブルで突然欠航になったことから、急いで八幡浜まで走り、臼杵行きフェリーに滑り込んだ。

これも大友家のお導きなのだろう。臼杵は大友宗麟時代の居城があったところ。
土佐一條家4代兼定の母は宗麟の姉、妻は宗麟の娘であった。

兼定は長宗我部に追われ、臼杵の宗麟のもとへ逃げた。宗麟はキリシタンであったことから、兼定も洗礼をすすめられキリシタンになった。

兼定は大友の援軍をえて、失地回復をめざし再び四国に上陸、南予方面の豪族たたちもこれに加わったが、四万十川合戦(1575)で長宗我部元親に再び敗れた。宇和島沖の孤島戸島に逃れ、そこで生涯を終えた。

土佐一條家と大友家は、こうした深い関係にあることから、私は市長時代の6年前、公務で大分県に出かけたさい、中野五郎臼杵市長を訪ね、両市の交流を呼びかけた。そのさい、臼杵城跡にも登った。

今回はフェリーが着いたのは払暁の午前5時であったことから、薄暗い中、城跡は下から眺めて通った。

 20170523115810ebc.jpg    201705231212210d6.jpg

大分が地元(本社)のジョイフルで休憩。モーニングサービスを食べてから、臼杵石仏前の国道を通って大分市に入り、月形、吉野を経由して、戸次(へつぎ)にある長宗我部信親墓を探した。

カーナビに従い、以前はなかったバイバスを通ると、道沿いに信親墓の標識が立っており、すぐわかった。

  20170523115811512.jpg    2017052311581526c.jpg    

長宗我部にとって、大友家は因縁の関係。四万十川合戦では敵として戦ったが、12年後の戸次川の合戦では一転大友の援軍として戦った。

長宗我部は一條家を押さえたあと、またたく間に四国を制覇した。しかし、すぐに豊臣秀吉に屈服し、土佐一国に戻された。

当時、九州では薩摩の島津が勢力を拡大し、秀吉に対抗していた。島津は北上し、大友の領地を脅かしていた。大友は秀吉に援軍を乞い、秀吉は長宗我部、十河(讃岐)に命じ四国連合軍を編成させ大友援軍として送りこんだ。元親、信親親子は自ら九州に乗り込み、戸次川をはさんで島津軍に対峙した。

この戦いで四国連合軍は大敗を喫した。元親嫡男信親は討ち死にした。元親はかろうじて土佐に逃げ帰ったが、長宗我部凋落はここから始まった。

信親墓は十河一族の墓と一緒に地元の人たちの手で祭られていた。まわりは公園のようになっていた。88体の地蔵も並んでいた。

 20170523120439c51.jpg    20170523115822dd2.jpg

戸次川は長宗我部にとって因縁の地であることから、土佐史談会会員などがたびたびこの地を訪ねている。両地の交流も行われている。今月20,21日、高知市、南国市で開かれた恒例の長宗我部まつりには、大分県から大友鉄砲隊(保存会)も参加していたようだ。

私がいま住んでいる四万十市実崎の旧庄屋宮崎家の祖、宮崎勘兵衛は戸次川合戦の生き残りであり、私の家の墓と同じ山にあるその墓には、そんな記録が刻まれている。(続く)



幸徳秋水 ひ孫

幸徳秋水を顕彰する会の今年度総会を5月14日に開いた。この総会に、幸徳秋水ひ孫の小谷美紀さん(埼玉県草加市)を招待した。

幸徳秋水は生涯3度結婚をしている。2度目の師岡千代子、3度目の管野須賀子は有名だが、最初の妻西村ルイについては、記録がほとんど残されていないことから、これまであまり知られていなかった。

私がこの間、西村ルイについて、いろいろ調べてきたことは、このブログでもすでに何度も書いてきた。

西村ルイは、秋水に離縁されたさい、身ごもっていた。その子(ハヤ子)は、ルイが再婚した相手(横田)の子として入籍され、育てられた。

さらに、ハヤ子(結婚してから小谷姓)は6人の子を育てた。そのうちいまも健在の秋水孫にあたる2人の女性がちょうど1年前の昨年5月、秋水墓参のために、はじめて中村を訪ねてくれた。

今回招待した小谷美紀さんは、この2人の兄弟の二女である。美紀さんのお父さん(故人)は、小谷家の長男にあたるため、美紀さんはハヤ子とずっと一緒に暮らしてきた。

ハヤ子の存在が昭和57年、朝日新聞スクープで世に知られた時、美紀さんは中学生であった。社会科教科書に出てくる人物が自分のひいじいさんとわかりびっくりしたが、誇りにも思った。社会科の先生にも呼ばれ、いろいろ聞かれたそうである。

ハヤ子は翌昭和58年亡くなったが、美紀さんからみたおばあさんは、しつけなどがきびしい中に、気品をそなえていたという。

美紀さんは、ルイの記憶もわずかにあるそうだ。ルイは昭和48年亡くなった。当時4歳だった美紀さんは、東京滝野川の病院に見舞いに行ったこと、近くを都電が走っていたことを記憶している。ルイもまた、上品なひいおばあちゃんだった。

美紀さんを、秋水墓、絶筆碑、生家跡、資料室(図書館)などに案内した。墓ではじっと手を合わせていた。

資料室には、これまでルイの顔写真を展示していなかったので、新たに作成した写真パネルを美紀さんの手で展示してもらった。秋水の大きな写真の下に。2人とも再会を喜んでいることだろう。新聞4社の取材があり、翌日の記事になった。
 →https://www.kochinews.co.jp/article/99227/
https://mainichi.jp/articles/20170516/ddl/k39/040/577000c

美紀さんを、一條神社や四万十川佐田沈下橋、下田河口へも案内。新緑がまぶしかった。

顕彰会総会では挨拶をしてもらい、夜には歓迎懇親会を開いた。皿鉢をかこみ、ひいじいさんの郷土料理を堪能してもらった。

2泊3日で美紀さんは帰っていった。

美紀さんに見せてもらった弟さんの写真は、秋水そっくりである。次は、ぜひ弟さんにも来てもらいたいと思う。

なお、美紀さんは、自分のブログに今回の旅のことを書いている。
 →http://nikoxgodiego.blog115.fc2.com/?no=2610

201705201211250dd.jpg    20170520121137a9d.jpg    2017052012154396e.jpg

201705201211352be.jpg    20170520121110496.jpg    20170520121128d08.jpg






幕末維新博に望む

 きょうは五・一五事件(昭和7年)の日。武装した海軍青年将校たちが総理官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害した。

政党内閣は終焉し、以降軍人出身首相が続く。

当時、青年将校たちが唱えていたのが昭和維新。明治の心を取り戻すことであった。

彼らが拠り所とした明治維新とは何だったのか。

ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がしたように、アジア周辺諸国が次々に西洋列強に植民地化される中にあって、日本は急変身によって独立を保つことができた。これは「輝かしい歴史」であったはずである。

しかし、日本における近代とされる新国家の主権は絶対的権力をもつ天皇におかれ、国民の権利は抑圧され、女性にあっては参政権すら認められなかった。一方で華族制度で新たな特権身分がつくられた。

 富国強兵のもと、軍備は拡張され、それを背景に列強に割り込んで大陸に進出。

これに公然と反対し、平和・自由・平等を訴えた幸徳秋水らが抹殺された大逆事件で明治は幕を下ろした。

 「志士」たちが描いた新国家とはこんな国だったのだろうか。それとも途中で変質してしまったのか。

 いや、明治維新という変化プロセスの中にこそ、その後の国のありようが内蔵されていた。明治維新は百姓、町人など一般庶民が立ち上がった革命ではなく、しょせん武士階級の中だけでの主導権争い、政権交代にすぎなかったのではないか。

昭和20年の敗戦によって、新憲法が制定され、はじめてわれわれは主権を、基本的人権を、言論の自由を獲得した。そう思っていた。

しかし、いままた教育勅語が息を吹き返し、共謀罪が国会で審議されている。維新と名のついた政党もこれに絡んでいる。その先には、憲法そのものの見直しも射程に入っている。

大政奉還、明治維新から今年、来年で150年になり、志国高知幕末維新博が県をあげていま開かれている。

当時活躍した地元の人材を知り、また新たな人物を発掘し、観光資源としても活用していくことにも異議はない。

しかし、最も大切なことは、そうした人物たちの集合体としての明治、われわれの祖父母や曽祖父母が現に生きてきた明治とはどんな時代だったのかを真剣に考える機会とすることである。

 明治は過去の物語ではない。いまにつながっている、いまの問題なのだから。

 高知新聞「所感雑感」投稿 2017.5.15

幕末維新博に望む 所感雑感 

共謀罪に反対する声明

 幸徳秋水を顕彰する会 は共謀罪反対声明を出しました。

        共謀罪に反対する声明

1910年(明治43年)の「大逆事件」では、幸徳秋水ら26名が逮捕され、うち24名が死刑判決を受けました(12名は翌日無期懲役に減刑)。理由は、天皇暗殺や社会転覆を企てる「謀議」をおこなったというものでした。
 明治政府の狙いは、朝鮮侵略に反対し平和と自由平等を訴えていた幸徳秋水らの運動を弾圧、根絶やしにすることにあり、その口実となる「事件」をつくり
だし、フレームアップしたものでした。
 「大逆事件」以降、言論の自由は完全に封殺され、日本は侵略戦争の道をひた走り、その結果、国民は塗炭の苦しみを味わっただけでなく、周辺諸国にも多大の被害を与えました。
 戦後、「大逆事件」をリードした元検事は、秋水らの「思想を裁いた」ものであったことを認めています。
このほど、テロ対策、オリンピック対策を名目に共謀罪(「テロ等組織犯罪準備罪」)という法案が閣議決定され、国会に上程されました。
これは、犯罪行為が発生する以前から人を逮捕できるという法律であり、「未遂」「予備」「共謀」を例外とするわが国刑法の原則を無視したものであることから、過去の国会でも三度廃案になったものです。
共謀罪では、人と人のコミュニケーションそのものが犯罪の対象となることから、捜査機関の判断によって恣意的な検挙が行われたり、日常的に市民一人一人の人権やプライバシーが監視される怖れがあります。
政府は共謀罪がないと「国際組織犯罪防止条約」を批准できないと言っていますが、この条約はマフィアなどの国際経済犯罪対策であり、テロとは明確に区別されており、真の狙いを隠すカモフラージュであることは明らかです。
戦後憲法で認められた内心の自由、言論の自由などのわれわれの大切な基本的人権が侵害されることがあってはなりません。
私どもは、再び「大逆事件」をつくりだす暗黒社会に逆戻りするような共謀罪には反対であることを、ここに表明します。


2017年 4月 15日

幸徳秋水を顕彰する会

秋水桜

 遅かった今年もやっぱり咲いてくれました。中村の正福寺にある幸徳秋水墓の上には、隣接する裁判所庭から塀越しに桜の大木が枝を伸ばしています。
 明治44年4月(旧暦)、秋水処刑から3か月後、盟友堺利彦は秋水墓を訪れ、次のような歌と句を残しています。

 行春の青葉の桜に鶯の啼きしきる処君が墓立つ

 行春の緑の底に生残る

 同じ桜の木だったかどうかはわかりませんが、いまでは非道な裁きを詫び悲しむように秋水を抱きかかえ、涙の花びらを散らしています。
 この恩讐を超えて咲く桜を、私どもはいつのころからか秋水桜と呼んでいます。
 今年4月6日には、まだ五分咲きでしたが、小雨降る中、この桜の下に有志で集い、即興の歌や句をつくり、語り合いました。
 俳句の世界で「秋水忌」(1月24日)が厳寒期の季語のようになっているのと同じように、「秋水桜」が世の中に平和と春を告げる象徴となり、多くの人たちに親しまれることを願っています。

 高知新聞「声ひろば」 2017.4.24

201704251032009ea.jpg    20170425103159951.jpg    201704251031253fd.jpg



四万十市長選挙 応援演説

 四万十市長選挙告示日(4月16日)、新人大西正祐候補出陣式でおこなった応援演説です。


 おはようございます。田中全です。
過去2回の市長選では皆様に大変お世話になり本当にありがとうございました。

前回4年前の選挙では皆様も私も大変くやしい思いをしました。そのくやしい思いを遂げてくれるために、大西さんが出馬してくれることを、私はうれしく思いますし、全力で応援したいと思います。

みなさん、この4年間の中平市政をどうみていますか。ぼや~として、非常にわかりにくいと思うのではないでしょうか。何をやっているのかわからない。

確かに、新しいことはほとんどやっていません。夢とビジョンと言いますが、抽象的な言葉だけです。独自の理念や具体的政策がないということです。

しかし、私にはよくわかります。目指している方向が。

具体的に言いましょう。

私は4年間で、3つの課をつくりました。
地震防災課、商工課、林業課です。独自の政策をやりたかったからです。

このうち南海地震対策を中心とする地震防災課、これはさすがにいまも残っています。

商工課は、以前は商工観光課であったものを、2つに分けて独立させたものです。
中村は、以前は「おまち」といわれ大変賑わいのあるまちでした。私は、この「おまち中村」を復活させたいと思いました。

その目玉に天神橋の真ん中にある土豫銀行跡地、これを地権者から市に、町の活性化のために役立ててほしいと、無償で寄付をしていただいたことから、私は、映画館、コンサートなどの多目的機能をもった施設をつくりたいとの構想を議会に示しました。

しかし、ごらんのように、いまも雨ざらしのまま放置され、今後の方向性すら決まっていません。中心市街地活性化策は、いま何もおこなわれていません。商工課はもとの課に戻されました。

林業課は、農林課から独立させました。本市第一次産業の最大資源は林業です。四万十川ヒノキのブランド化を目指そうとしました。そのため、地元木材を使って家を建てた場合は市が補助するという制度をつくりましたが、いまはその補助が削減されています。林業課も、もとの課に戻されました。

ほかにも、2つの課がなくなりました。水道課、社会体育課です。計4課なくなりました。

それに代わって始まったのが民間委託です。市が本来自分でやらなければならない、市民の生活や文化に密着した仕事を放棄し、民間企業に譲りわたしている。図書館運営、市民病院給食などです。

市民病院の問題でいえば、8年前、私の市長就任時には常勤医師は5名まで減りました。夜間救急も止まっていました。私はこれを在任中11名まで増やして、もうすこしで夜間救急復活できるというところまできていました。

だから、現市長も前回市長選挙では、さかんに夜間救急を復活すると言って公約にかかげていました。しかし、当選するやいなや、最初の議会で、夜間救急は当分むずかしいと努力を放棄したのです。

いま、医師は10人に、また1人減っています。西土佐診療所も2人から1人に。このままでは、西土佐は無医地区になるかもしれないという、大変なことになっている。

要は、市民の生活に密着したところの市の事業や仕事を縮小撤退している。

一方で、2人目の副市長を国土交通省から迎えています。

今の市は国や県の方針に沿った仕事しかしないようになっています。県は国の高知支店、本市は出張所のようになっています。市長に独自の理念や政策はなく、国の言うままにしていればいいということです。

本来市町村は国から独立しています。自治権というものがあり、地方自治法で保障されている。しかし、これでは自治権の放棄です。

今回の選挙は、誇りある中村、四万十市をとりもどす戦いです。地方自治を守る戦いです。

あと1週間、私もがんばります。みなさんも一緒にがんばりましょう。

点検 四万十市政(5-終)

7. 中平市政の評価(まとめ)

〇 行政改革 機構改変 副市長2人制

 現市政になってから始められた新しい施策等を考えるさいのポイントになるのが2015年4月、四万十市合併10年を迎えたことである。

小泉内閣のころ「平成の大合併」を推進するために、国は本来削減される地方交付税を合併すれば10年間は猶予するという特例措置「合併算定替」を設けていた。2015年4月以降、本市は毎年平均6億5千万円の交付税が削減されるとされていた。本市のような合併自治体にとっては、その対応策が大きな課題であった。

収入が減るならば支出も減らさなければならないのは当然である。そこで考えたのが強力な行政改革、一言でいえば市役所内の人員削減である。

合併そのものが大きな行政改革であり、私の代も含めて継続的に人員削減と抑制を進めてきていたが、さらに強力に進めようというものであった。

しかし、ここで重要なのは、私のころは毎年6億5千万円といわれていた交付金削減額は、全国からの強い要望等もあり、実際は約3割削減(約2億円)にとどまっていることである。

にもかかわらず、人員削減はこの4年間、それを盾に強力に進められ、機構改変=課の合併が進められた。

私の代には、地震防災課、林業課、商工課と3つの課を増やしたが、その後、先にも述べたように、林業課、商工課はもとの課に戻され、さらに加えて、建設課と水道課、生涯学習課と社会体育課が合併され、いまに至っている。(税務課は収納対策課を分離された。)

人員削減のもう一つの方法は、市の事業の一部の民間委託(民営化)である。図書館管理運営業務と市民病院給食業務がその対象となった。次は、保育園だと思われる。

しかし、そうした人員削減と矛盾するのが副市長を2人制にしたことである。選挙公約にもないままに突然に。人件費コストは副市長1人で4年間4700万円。若い職員を3~4人採用できる額である。

人口3万5千弱の本市程度の規模の市で、副市長を2人おいているところは全国でもまれである。国交省から迎える副市長の効果はそれ以上のものがあると「具体的」に説明できれば別だが、これまでそんな説明はない。

〇  総合計画、産業振興計画

全国市町村は、ほぼ10年単位で将来見通しである「総合計画」を策定している。本市では、四万十市合併の際「新市建設計画」の名で作成していたが、2015年には合併10年を迎えることから、私は2013年から新たな「総合計画」の策定作業に着手することを表明していた。(2013年3月議会市長説明要旨)

市長交代により、新たな総合計画は現市長の下で作成されたが、その特徴は、高知県がすでに策定し全県的に取り組んでいる「高知県産業振興計画」の四万十市版産業計画とセットで策定したことである。

国、県との連携が必要なことは当然のことではあるが、重要なのは、そんな中で、策定の手法を含めて、いかに地元の特色、独自性とオリジナリティ―を出していくかである。

現安倍政権になってからの地方対策は、「地方創生事業」にみられるように、政府内に「ひと、まち、しごと創生本部」がつくられ、その企画、要綱に沿った地方の計画に限って補助金を交付するというやり方である。カネがほしければ、政府の言う通りの計画をつくりなさい、と言うことである。

国内にはいろんな地域がある。自然、風土、文化、歴史、生活等が異なる。だから、国がすべてを画一的に決めてしまうのではなく、それぞれの地域には自治権といって、自分たちの裁量で決める権利が、憲法で認められ、地方自治法に定められている。人権と地方自治は民主主義の両輪である。

にもかかわらず、最近、地方自治体はますます国の出先機関化してきている。
あたかも、県は国の支店、市町村は県の出張所のようである。

こうした状態が続けば、市町村は、国や県の顔色ばかりを見て仕事をするようになる。国や県の企画に合った仕事しかしなくなる。

大切なのは上(国、県)ばかりでなく、足下(地域住民)に目を向けることである。地元の施策は地元で創意工夫する。でないと、市としての独自の企画力や創造力も退化し、自治体としての存在意義が失われてしまう。

〇 中学校給食

中学校給食は前回市長選挙において現市長の公約にあげられていたものであり、2016年度からスタートした。

私も次のステップの事業として考えていたが、それを前倒しで実施することとなったものであり、私も賛成である。

〇 コールセンター誘致

四万十市は、地元雇用確保策として、、現市長になったから東京からコールセンターを誘致し、2014年3月、旧田野川小学跡地において事業開始した。

誘致は高知県の紹介によるものであり、同年1月には、誘致企業(DIO)、四万十市、高知県の三者間で基本協定書が締結され、新聞でも大きくとりあげられた。

しかし、実際事業を開始した企業は別の企業(エボラブルアジア)の子会社(E.A.高知コンタクトセンター)であった。協定書を交わしたDIOは同年8月倒産(破産処理)した。

誘致にあたっては、市から多額の補助金を出しており、その補助金審査段階から不可解な手続き(審査したのは倒産企業)がおこなわれたことは、先に指摘した通りである。

  詳しくは →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-115.html

E.A.コンタクトセンターは、1年半後の2015年9月、社長交代し、社名もHTC四万十センターに変更された。(親会社は同じだが、新社長は親会社役員ではなく、不可解な体制である)

同社向けには、いまも市からの補助が続けられているが、2015年3月決算書によれば、相当な額の資金が大分県佐伯市にある別の子会社に貸付金として流用されている。

雇用が少ない本市にとって、貴重な雇用の場であるだけに、将来にわたる事業継続と安定的雇用確保のためにも、誘致当初からの不可解な経緯について、市は説明責任があると思われるが、いまだなされないままである。
 
〇 2つの成人式

本市では合併12年を経ていながら、いまだに成人式が2カ所(中村、西土佐)に分かれて行われている。県下にはこんな自治体はなく、全国にもないもとの思われる。

このため、私は合併10年を前に、2014年1月から一本化すべく手続きを進め、その方向でほぼ決まっていたし、西土佐地域(区長会)からも合意を得ていた。

ところが、その後、一本化は突然に先送りとなり、いまに至っている。

成人式は、将来の四万十市を担う青年に心一つになってもらい、市民が期待を託す場である。その青年が同じ場に集まれないということは、ゆゆしきことである。

   詳しくは →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-226.html

〇 市長メッセージ

 四万十市の発展を願い、いろいろ書かせていただいたが、以下でまとめとしたい。

4月23日の市長選挙で選ばれる、新しい市長に期待することは、「市長メッセージ」をどんどん発信してほしいということ。

市長は会社で言えば社長である。社の内外に向かって、常に社の方針や課題等について、メッセージを発しなければならない。自分の言葉で言わなければならない。社長が何を考えているのかわからないのでは、社員は不安になる。

この4年間、残念ながら市長のメッセージはほとんどなかった。市広報誌でも、市ホームぺージでも。それ以外でも。

市長は何を考え、四万十市をどういう方向にもっていこうとしているのか。

「夢とビジョンのある四万十市」をキャッチフレーズにしている以上、その夢とビジョンを大いに語ってもらいた。抽象的な言葉だけだはむなしく響く。大切なのは具体的中味である。

市民はそれを期待している。
 
  詳しくは →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-74.html

(終り)

  DSC_3166-1.jpg


 

点検 四万十市政(4)

5. 絆を結ぶまちづくり ― 対話と協調

〇 地域づくり支援員制度

過疎高齢化が進む中で、住み慣れた地域で生活が続けられるよう、保健・医療・福祉連携事業とも照準をあわせ、市内16地区に市の若手職員を「地域づくり支援職員」として任命配置した。

地区の将来をともに考え悩む中で、自らも「地域のために役立つ公務員」としての使命を自覚し、成長してもらいたいとの期待もあった。

2011年に、16地区、36名を配置し、さらに2地区4名を増員した。支援職員は、各所属部署で本来業務をかかえた中での兼務であり、かなりきついものであったが、それぞれがその使命を自覚し、自主性をもって、生き生きと取り組んでいた。各地域からも歓迎、期待されていた。

しかし、現在は休止状態になっているようである。

〇 地域おこし協力隊

2012年8月、本市の中山間地域の活性化に意欲がある人材を都市地域から募集し、地域おこし協力隊として3名採用(期間3年)し、西土佐地域に配置した。

当時は全国的にもまだ採用が少なかったことから、同年10月から始まった連続ドラマ「遅咲きのヒマワリ」のモデルにされ、話題になった。

3名のがんばりもあって、地域でも歓迎されたことから、現在は6名(西土佐4、中村2)に増員されている。

〇 ふるさと応援団

地元出身者や四万十大好き人間を登録して、ネットなどで情報発信交流をおこない、四万十市の宣伝やふるさと納税につなげようと、四万十市ふるさと応援制度を2010年度から始めた。在任中に登録1300名を超え、現在は1700名程度になっているようである。

しかし、相互交流については、当初は本市からのネット発信は毎月2~4件行っていたものが最近は毎月1件になっているほか、当初は団員から届く情報を「団員からの便り」として市広報に毎月掲載し市民にも公開していたが、最近は掲載されなくなっている。双方の情報交換があってこその交流であり、より工夫改善が必要と思われる。

また、関東と関西在住の団員とは、こちらから直接出向いて交流の場を設け、その中で、関東については、地元出身者の会である「関東幡多四万十会」が誕生し、合同交流会がいまでも続いているが(計5回)、関西については2012年の1回きりで、その後は行われていないことは気になるところである。

一方で、市は2016年度から、新しく「四万十市観光大使」制度を設けた。主旨は「ふるさと応援団」と同じであるので、両者の整合性と役割分担をどうしていくのかが今後の運用課題になると思う。

〇 FB交流(フェイスブック)

ネット社会の進展とともに、SNSによる情報発信は近年きわめて需要になってきていることから、市として2012年10月からインターネット交流サイトFB(フェイスブック)に登録した。

同月から、テレビドラマ「遅咲きのヒマワリ」が始まったこともあって、「いいね」(友達)はすぐに1000名を突破、現在は2300名に達しており、県下市町村の同じサイトでは断トツのトップである。

私個人も同時にサイト登録し、いまでも毎日発信につとめている。
四万十市議会も昨年から同サイトに登録している。


4. 誇りをもったまちづくり ― 歴史・文化・教育

〇 文化センター建設
 
 昭和44年に建設され、老朽化したままの文化センターの建て替えは、中村市時代からの課題であるが、財政面、用地面の問題等から永年棚上げ状態に置かれてきた。

私はこの課題に着手するために、本市にふさわしい文化施設はどういうものかについて市民各層に議論をしてもらうため2012年度に「文化の入れもの研究会」を立ち上げ、答申をえた。

そのうえで、まず建設資金の確保が必要なことから、2013年度に文化センター建設基金を設け、初年度1億円を積み立てた。しかし、翌年度(現市政)からは積み立てが止まっている。

一方で、建て替え用地(現位置を含め)については、私の代では選定までにはいたらなかったが、その後市内右山の市立公民館に隣接するJA高知はた中村支所との合築構想が浮上しており、昨年から両者協議が進んでいるようである。

この案には私も賛成であり、ぜひ実現をしてほしいと期待しているが、昨年のうちには協議結果がまとまると議会でも公表していたのに、いまだに発表をされていないことから気になるところである。

最近、高知県下JA合併一本化が決まり、JA高知はたも参加することになったことから、その影響を受けるのではないか心配をしている。

〇 武道館建設

為松公園への登り坂中腹にあった木造の旧武道館が老朽化し使用に堪えなくなったことから、市内武道団体などから新たな武道館建設の強い要望が出ていた。

一方で、安並運動公園内の屋外プールは長年閉鎖されたまま、あとの利活用(プール新設も含め)が決まっていなかった。

そこで、プールを撤去し、その跡地に新たな武道館を建設することにし、2012年度事業着手。現市政になってからも計画通り工事が進み、2014年度完成した。
プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR