中高 ありがとう

中村のまちが異様な興奮状態からやっと平常に戻った。
中高の甲子園終了とともに。

興奮はセンバツに出場できそうだということで昨年12月ごろから徐々に高まり、1月27日の正式決定で爆発、3月20日の試合で最高潮に達した。

私が地元に戻ってから9年、こんなに市が盛り上がったことはなかった。5年前、テレビドラマ「遅咲きのヒマワリ」のロケと放送があったさい、似たような状況になったが、市民の心が一つになるという点では、今回には遠く及ばない。

40年前の甲子園初出場の時、私は地元にいなかった。間違いなく、その時以来であったのだろうが、今回はその意味合いはだいぶ違うと思う。

前回の時は、中村市であったが、いまは四万十市である。当時も中村の町はだんだんと勢いをなくしてきていた。しかし、準優勝パレードの写真をあらためて見ると、天神橋アーケードなどの商店街には、まだまだ賑わいが残っていた。「おまち中村」としての権威と風格を保っていた。

しかし、いまは残念ながら見る影もない。私自身、「おまち中村」の復活を公約にかかげ苦闘したが、4年間ではどうしようもなかった。

人口減に高齢化、子どもの声が聞こえないという閉塞感の中で、このイライラと不安を何かにぶつけたいという市民共通の思いを、たった16人の野球部員がかなえてくれたのだ。

応援バスは地元55台に加え、名古屋、東京からも。列車、マイカーでも続々。甲子園の周りは幡多勢の渦巻きとなり、5000人収容のアルプススタンド(1塁側)は、幡多弁が沸騰した。

マイカー組の私は地元ではチケットを確保できず、球場でもアルプス席は売り止めのため、内野席に入り、アルプス隣に陣取った。私と同じように、溢れ組が、内外野あちこちで一緒に声を張り上げた。

試合は前橋育英高校に1-5で敗れたが、最終回に1点をとったことだけで大満足。勝者の校歌にあわせて手拍子をとり、みんなニコニコすがすがしい顔であった。選手も監督も同様であった。

こんなに気持ちのいい敗戦はないだろう。
みんな、異口同音に中高ありがとう。

次は夏。県代表になることは、容易ではないことはわかっているが、選手たちは甲子園の土をとらずに、さわやかに去った。

次に甲子園に連れてきてもらう時は、中村の町はどうなっているだろうか。今回示したように、地元の心が一つになれば、新たな展望が見えてくるものと信じている。

 201703271238017c9.jpg   20170327123752ee6.jpg   20170327123809686.jpg

 2017032712403526d.jpg   20170327124038277.jpg   20170327123755e9e.jpg

 201703271240589c8.jpg   201703271240595c9.jpg   20170327124058d88.jpg


   





 

 

森友問題の本質

 籠池証言の真偽が問題になっている。昭恵夫人が100万円寄付したとか、10万円の講演謝礼を受け取ったとか。

しかし、「私人」である昭恵夫人がいくら寄付しようと、いくら謝礼をもらおうと、法的には問題がないことだ。

これがなぜ問題になっているのかというと、事件発覚当初、安部首相が国会答弁で苦しまぎれに、予防線を張るために、言わなくてもいいのに、カネの授受はなかった、あったのなら首相も議員もやめると、強弁したからだ。

その後、次から次へと新たなことが明らかになり、自民党はメールまで公開せざるをえなくなった。しかし、このことで安倍首相は、また墓穴を掘ったといえる。

メールは頻繁に行われていた。家族同然の付き合いであったことが浮き彫りになったからだ。

昭恵夫人は森友学園の教育理念や方針に共鳴した。幼稚園の講演に頻繁に出かけ、新たに設立する「瑞穂の国小学院」の名誉校長就任も快諾した。

安部首相も共感し、しつけが行き届いた教育だと、国会で発言した。

それは、そうだろう。幼稚園児が運動会で、「安部首相がんばれ」「安保法案よかったね」と激励してくれるのだから。

森友の教育理念は愛国心教育にある。戦前の教育勅語を礼賛し、幼稚園児に唱和させているくらいだ。教育勅語は、国民が天皇の臣民(家臣)であり、戦になれば、天皇のために命を捧げよというものだ。その先に特攻隊員の「天皇陛下万歳」があった。

こうした歴史の反省に立ち、戦後、新しい憲法がつくられ、国民主権の世の中になった。戦争も放棄した。

なにの、いままた戦前の世の中を懐かしみ、愛国心を鼓舞する勢力が着実に勢いを増してきている。憲法改正をめざす日本会議というグループだ。安倍首相は同じ思想、理念の持ち主である。

籠池氏は関西における日本会議幹部であり、安倍首相を信奉している。安倍晋三記念小学校と命名したかったぐらいだ。

森友問題の発覚により、安部首相がこうしたグループと深い関係にあることが世の中に明らかになった。

さらに、夫人のお供が送ったファックスも出てきたことで、いかに安部首相に権力が集中しているかも明らかになった。あんな内容のやりとりが、お供の女性によってできるはずがない。役所の中で「安部夫人マター(案件)」が幅を利かせている証拠であり、典型的な「口利き=政治的関与」である。

それだけ、安部首相は独裁的な権力をもってきているということであり、夫人までが水戸黄門の印籠になっている。マスコミ統制も効いている。これらのことが明らかになったことが、森友問題の本質である。

憲法違反の安保法案にもとづく南スーダンへの自衛隊派遣、その自衛隊の(戦闘状態を告げる)日報の隠蔽、さらに共謀罪・・・こうした今の危険な政治状態が「アベ政治」だ。

「アベ政治を許さない」の声をわれわれ一人一人があげていかないと、このままでは日本は歴史を逆戻りさせるという、とんでもない方向に進んでしまう。

四万十中村

 このほど四万十市主催の観光ボランティア養成講座(4回)が開かれ参加した。

第3、4講座の講師はトレイルブックス代表の仲間浩一氏(自称・風景通訳家、福岡県)であった。観光ガイドの役割、使命、方法などについて、自らの豊富な経験に基づき、スライドを使いながら話をされた。中身の濃い内容で、学ぶところが多かった。

仲間氏は、高知県西部、特に四万十川流域にはこれまでも何度も足を運んでおられるようで、地元の者しか知らないようなこともよく知っていた。また、灯台下暗し、地元の人間が気づかないことを、外からの目で的確に指摘されていた。

その一つが「四万十中村」である。
この表現(キャッチフレーズ)をポスターデザイン案にも載せていた。

これはどういう意味だろう???
私は少し考え、ハッと気づいた。
そして、なるほどと思った。

私は中村に誇りをもっている。

だから、中村市が四万十市に名前を変えたのは、残念至極である。
40年ぶりに甲子園に出場する中村高校は、前回は中村市の中村高校であったが、今回は、四万十市の中村高校となった。

四万十市になっても中村の町は中村であることには変わりはない。駅や郵便局、小中学校と同じように、中村高校も中村のままだ。中村という地名(言葉)は地元に根を張っている。

しかし、外から見れば、中村よりも四万十のほうが、圧倒的に知名度が高いことは認めざるをえない。多くの観光客は、中村のことを四万十と呼ぶ。これがくやしい。

だから、私はそんな人たちと話す時には、意識的に(やや意地になって)「中村」を連発するようにしている。

というのも、行政でいえば、四万十市に隣接して四万十町もできた。(四万十高校もある)どちらも四万十だ。また、高知県中西部の四万十川流域全体も四万十だ。愛媛県だって、観光呼び込みで広見川流域(四万十川支流)を「勝手」に四万十と呼んでいる。

一口に四万十と言っても、具体的にはどこを指すのか、漠然としているのが実態なのだ。そもそも、四万十川はあっても、四万十と言う地名はどこにもないのだから。

いまの中村を正確に言えば、四万十市中村である。
しかし、これでは、堅くて窮屈だ。いかにもお役所的。

残念だが、中村だけでは、いまいち全国に通用しない。
かといって四万十では、朦朧としている。

以前は、よく土佐中村と言われていた。
しかし、歴史を遡れば、土佐と幡多は別だ。
幡多中村が正しい。
しかし、これではますます全国に通用しない。

そこで、四万十中村だ。

四万十中村があるのなら、
四万十下田、四万十江川崎だってある。
それでいい。

眼から鱗とは、このことだろう。


歴史と観光

 「志国高知幕末維新博」について2回書いたので、ついでに6年前にこんなことがあったことも書きとめておきたい。

高知県では、2010年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」放送にあわせて観光キャンペーン「龍馬であい博」をおこなった。

テレビ効果もあって、一定観光客が増えたことから、翌2011年も継続企画として「龍馬ふるさと博」をおこなおうとしたが、ドラマはすでに終わっており、目玉がなかった。そこで、奇抜なことを考えた。

桂浜の龍馬像の隣に、中岡慎太郎、武市半平太の像もつくって「維新志士3人」を並べようというものであった。観光関係の一部の人たちからの提案を受けたもので、追加2人の像は急ごしらえで、キャンペーンが終われば撤去するという。

これについては賛否両論が出た。県外からは「おもしろい」という声が多かったように思うが、県内からは、興味本位はよくない、ふざけているという反対の声も強く出た。

熱烈な龍馬ファンからは、桂浜は龍馬の「聖地」であり許せない、というものもあった。龍馬記念館森健四郎館長(当時)は、高知新聞に強い反対意見を寄せていた。

議論は沸騰した。本音はやりたいが、困った県は、県下市町村長に意見を求めてきた。当時、四万十市長であった私は、以下のような反対意見を書いた。


  桂浜3志士像への意見

 観光とは本来、外の人を迎え、地元の自然や歴史、文化等を知ってもらうことによって、自らも学び、教えられ、自分の価値やアイデンティティーを発見し、誇りと自信をもつことあると思います。そこに人の交流が生まれ、深くて長い付き合いが始まることで、様々な物語がつくられ、地域振興に向けたエネルギーが醸成されるなど、無限の可能性につながっていきます。
 テレビ人気に便乗すること自体は悪くはありません。しかし、テレビは「お芝居」であり、龍馬やその時代の歴史の一側面をクローズアップしたフィクションです。本物の龍馬像は、自ら学び、自らの脳裏に刻みこむものです。そのように考える場を提供するのが、地元の役割、責任であります。
  昨年からの、龍馬をテーマにした県の観光戦略にはそうした視点が弱いように思います。今回の3志士像や駅前にテレビセットを移す企画も、そういう場になっているとは思えません。
 本物を深く追求するというより、一過的な話題やものめずらしさを提供してただ人さえ集めればよい、というふうにしか見えません。
  これによって確かに少しは人が来るでしょうし、来るきっかけにもなるでしょう。しかし、その大部分は二度と来ないでしょう。底の浅さを見透かされ、深い交流が生まれるチャンスをみすみす摘んでしまい、一過性の客を自らつくっているようなものだと思います。
 今回の企画はいかにも県外からの発想です。地元では批判が多い。地元の人間が誇りや自信をもって語れないということは、大きな問題です。郷土愛、地元への熱い思いを冷やし、誇りや自信を萎縮させます。
 地域振興は、じっくり、地道に行なうべきものです。急がば回れ、二兎を追うものは一兎も得ず、といいます。あせりは禁物です。
 本県には、すばらしい歴史と文化があり、人材はそびえる山となっています。山は大きなほどに、眺める角度によって姿を変えます。
 広いすそ野のすみずみを歩いてもらいながら、奥深い谷々にも分け入ってもらうよう誘導するのが、県の観光のあり方だと思います。

 2011年3月11日
 田 中 全

・・・・・・・・・・・・
 
意見をメールで送ったのは、6年前の今日の午前中である。
その日の午後、東北地方で大地震が発生した。

地震によって、県の奇抜案は採否を決める前に、吹っ飛んでしまった。世の中、それどころではなくなったのは、みなさんご記憶のところであろう。

後で、意見集約結果だけ送られてきた。私のような意見は首長の中では、少数意見であった。地震がなければ、県はやりたかったのだと受け取れた。

その表れが、高知駅前の3志士像である。さすが桂浜には、はばかられたのであろうが、地震から4か月後設置された。

これらの像は発砲スチロール製で、サイズは当初案よりも小さくなった。今回の幕末維新博にあわせて、お色直しされたようだ。

3人の「本物」の像は、それぞれ別のところにある。
地元の私としては、高知県民の「軽さ」をさらしているようで、あの前を通るときは、うつむいて歩くようにしている。

 DSCF0356_20120213215340[1]

幕末維新博に望むこと

 志国高知幕末維新博が3月4日から始まっており、本市サテライト会場「しまんと特別企画展」については、きのう書いた。

本市企画は、独自の視点といい、展示の工夫といい、本市の歴史を紹介するのに的確であり、自信をもってお勧めできる内容であるが、今回の県下統一観光キャンペーンについての尾﨑知事の発言や、それに引きずられたマスコミ等の報道ぶりを見ると、心配な面がある。

今年と来年が大政奉還、明治維新から150年になるのに合わせて、その時期多くの人材を出した高知県が、その歴史と人物を振り返り、彼らを地元資源として観光PRに活用しようとする県の狙いそれ自体には、異議を唱えるつもりはない。同じ四国でも他3県なら、やろうとしてもできない企画であり、賛同もできる。。

今回の企画の発端は、同日オープンした県立高知城歴史博物館にある。山内家伝来資料を中心に展示されており、私も早めに出かけたいと思っている。

展示の目玉は、初めて公開される、坂本龍馬が京都で暗殺される5日前に書いたとされる書簡(手紙)。この中に「新国家」という言葉が初めて使われている。龍馬が暗殺される直前まで、新国家の建設に強い思いをもっていたことがわかる貴重な資料である。

尾﨑知事もさかんにこの書簡をPRしている。だからであろう、高知県作成の公式ガイドブック表紙には、龍馬像がデンと座り、「よみがえる維新の息吹」とアピールしている。

しかし ???
これでは、また、また、また、龍馬かよ~ とまず思う。

2010年、龍馬であい博(NHK「龍馬伝」)
2011年、龍馬ふるさと博
さらに「リョーマの休日」キャンペーン・・・いまも継続中・・・

企画の狙いは、龍馬だけではないはずである。
こうも書かれている。

「 土佐(高知県)は、歴史ロマンの宝庫である。欧米列強に肩を並べる近代国家となった明治・新国家の成立は、幕末・土佐の偉人たちを抜きには語れない。熱き志を胸に、自然豊かな故郷に安住せず、京や江戸へと旅立った若き志士たち。高知を巡れば、彼らの息吹を感じることができる。 」

たしかに、観光中心の「公式ガイドブック」とは別につくられた、幕末維新の土佐「人物紹介」「探訪図会」は、県下歴史関係資料館等の研究員(学芸員)が最新の知見をふまえて、多彩な人材等を紹介している。

龍馬、慎太郎、半平太などのいわゆる「志士」だけでなく、板垣退助、植木枝盛、中江兆民、幸徳秋水らまで。

なかなかの読みごたえがあり、資料的価値もある。しかし、これらの内容を知事や観光スタッフがどれだけ理解をしているか疑問である。

例えば「新国家」である。
龍馬がめざしたとされる「新国家」はその後どんな国家になったのか?

確かに明治新国家は「列強と肩を並べる近代国家」になったというのは一面事実である。しかし、その中身は、主権は絶対的権力をもつ天皇にあり、国民の権利は制約され、教育勅語により天皇の「臣民」となることが強要された。女性の参政権は認められなかった。

軍国主義の途をひらすら進み、朝鮮・中国等の周辺諸国を侵略、植民地化していき、ついには昭和20年の敗戦を迎えた。その間、周辺諸国を含めておびただしい数の犠牲者を出した。

そんな「新国家」の起点となったのが明治維新である。なぜ、こんなありようの国になったのか。それは明治維新の評価にもつながる。

歴史をテーマにした観光企画をおこなうということは、たんに有名な人物を英雄のように取り上げるのではなく、彼らが果たした役割や限界を知り、かつ彼らがかかわった歴史がその後どうなり、どう今につながっているのかを考えてもらうこと、歴史の大局の流れをしっかりとつかんでもらうことにあると思う。

さらに言えば、高知県人であるわれわれ自身が、自らの歴史を深く知り、考えるきっかけにする問題提起の場にも、しなければならない。

歴史は複眼的に見ること。

「龍馬はえらかった」「明治維新はすばらしかった」だけでは、底が知れてしまう。

キャンペーンの旗振り役であり会長である尾﨑知事には、その辺をよく理解したうえで、発信してもらいたい。

 201703091424177b4.jpg

川とともに歩んできた歴史

 志国高知幕末維新博が3月4日から始まった。本市の幡多郷土資料館もサテライト会場になっているが、資料館はいま耐震リニューアル工事中のため、中央公民館に所蔵品の一部を移して、「しまんと特別区画展」をおこなっている。(期間2019年1月まで、入場料200円)

県全体の企画は、今年が大政奉還から、来年が明治維新から、それぞれ150年にあたるということで、幕末維新にかけて生んだ多くの人物を中心に高知県を観光面で広くPRしようというものである。だから、主な対象期間は幕末維新期に絞られている。

しかし、本市では、もっと幅を広げて、「川とともに歩んできた歴史」を切り口に、独自テーマを「四万十川と土佐一條家からはじまる小京都物語」としている。

 2017030816594039e.jpg    20170308165939f37.jpg

特別企画展は、「通史展示」と「維新展示」に分けている。

「通史」は、原始以前から近現代までを6期に分け、まず第1期は、四万十川沿いから出土した弥生土器を中心に展示。

「維新」は、江戸後期から明治にかけての地元ゆかりの人物14人を紹介。分野は、いわゆる「志士」にこだわらず、多彩である。私なりに分類すると、

学者・・・遠近鶴鳴、木戸明
志士・・・間崎滄浪、樋口真吉、安岡良亮、川谷銀太郎
民権・・・島村重助、藤倉忠吉、幸徳秋水
医師、福祉・・・弘田玄冲、佐竹音次郎
絵師・・・島村小彎
軍人・・・吉松茂太郎
庶民・・・中平泰作(泰作さん)

パネルでの経歴紹介中心だが、現物としては、以下が展示されている。

① 幸徳秋水が描いた不破八幡宮奉納絵馬
② 同 木戸明あて葉書
③ 安岡良亮の熊本神風連の乱での死を伝える野並魯吉書簡
④ 樋口真吉所持長刀
⑤ 島村小彎落款、

中村は町人中心のまちである。武家は少なかった。遠近、木戸は町人出の学者だ。だから、幕末勤王運動においても高知のような過激派はいなかった。パネルで樋口真吉は「幕末を静観した幡多の重鎮」と正確に書かれている。

展示品はスペースの関係で決して多くはない。しかし、生年順にいえば、泰作さんから幸徳秋水まで、町人文化が生んだ中村特有の人物が選ばれており、なるほどと思う。各人が生きた期間がオリジナル年表(地元、日本)の中にも組み込まれており、彼らの立ち位置がわかりやすい。

県下統一企画に相乗りしつつも、高知とは違う中村独自の視点でまとめている。入口に掲示されている以下の解説も的確だ。ぜひ多くの方に見てほしい。

 「 幡多は一條氏下向以降京都の文化が流入し、町人の間に学芸や教養が培われてきた。それを背景に幕末には中村地域の豪商の家から遠近鶴鳴や木戸明といった学者が誕生した。彼らが開いた私塾には地域の郷士たちが集い、その教えは樋口真吉や安岡良亮など幡多の維新志士達に強い影響を与えた。幡多の志士に戦いで命を失った者が少ないのは、幡多地域で先導的な役割を担っていた樋口真吉らが知識や見分に基づいて時勢を読み、いたずらに動乱に飛び込んでいくことに慎重であったためと考えられる。
 明治になると町が生んだ学者達の思想は、商家に生まれたジャーナリスト、幸徳秋水へと引き継がれ、当時世界でも先進的な帝国主義批判へと繋がっていく。 」

なお、「幕末期を駆け抜け、初代熊本県知事に」の安岡良亮について、最近私は少し詳しく調べており、このブログ2017.2.14~19に紹介している。

 20170308165934f65.jpg    20170308165940cc0.jpg

 2017030816594558b.jpg    201703081701033af.jpg




森友学園事件と報道の役割

 大阪府豊中市の国有地が、森友学園に時価よりも格安の価格(9億5千6百万円 →1億3千4百万円)で払い下げられた「事件」について、この間の報道をみていると、その及び腰ぶりにはあきれてしまう域を超えて、恐ろしい。

真実の追及により問題の本質に迫るというプレスの役割はどこにいったのか。高市総務大臣による通信停止脅迫発言に代表されるような、政府によるマスコミの統制が効いていることを感じさせる。

その典型がNHKである。きのう2日になって、やっとトップニュースにした。それまでは2月13日に起こった北朝鮮金正夫氏殺害事件を17日間も、ずっとトップに流し続けていた。またか、またか、というほどに。

民報は少し早めに報道を始め、キャスターによるコメントも不十分ながらついていたが、きのうまでNHKは、報道はしてもサラリとスーパーが流れるだけで、キャスターは黙したままであった。

自民党政治家の口利きが明らかになったことで、NHKもトップにせざるをえなくなったのだろうが、今回の事件は、安倍首相および昭恵夫人が主役になっているだけに、恐る恐るといった感じがみえみえ。これを「忖度」というのだろう。

事件の問題は二つある。

1. 国民の財産である国有地が破格バーゲンに出されたこと。地中からゴミが出てきたという国からの入知恵によって。国は共同正犯である。

2. 子供に戦前の教育勅語を朗読させ、「安保法制よかったね」と言わせるような森友学園の教育の異常さ。思想教育、政治教育は教育基本法に反する。そんな学校の名誉校長に首相夫人が就任していただけでなく、これを「しつけがよい」として、首相が礼賛。さらに、学校法人認可権をもつ大阪府がスピード認可を促すサポートもしている。大阪府も共同正犯。

逃げられなくなって白状した鴻池祥肇参議院議員(兵庫県)は、ご記憶のかたもあるであろうが、一昨年、安保法案を参院で強行採決した特別委員会委員長である。

鴻池氏も森友学園の教育は自分の考えに一致していると発言をしている。「安保法制よかったね」と言ってもらうのだから、うれしくてたまらないのだろう。

これだけの異常さの背景には、森友が安倍首相が深くかかわった学校であるこという事実があることは、誰の目にも明らかである。

これをしっかりと追及し、真相究明するのが「社会の木鐸」としてのプレスの役割だ。

現状を見ると、政府と軍部の情報だけをそのまま流し続け、軍国主義の露払い役になった戦前日本の報道機関と同じに見える。空恐ろしい時代がまたやってきたような気がする。

プレスよ、しっかりしろと言いたい。

安積開拓と秋水妻(3―終)

 西村ルイ(秋水最初の妻)については、2つの謎があり、今回の安積訪問でその解明の手がかりを見つけたかった。

1. ルイの父西村正綱は、明治27年、最初の組から16年も遅れて、なぜ、どんな目的で、福岡県黒木町から安積へ移住したのか? 安積では何をしていたのか?

2. 幸徳秋水にルイを紹介したとされる、中江兆民同門の友人森田基(画家)とは、どんな人物で、西村家とどんなつながりがあったのか?

 今回の旅では2つの疑問とも明らかにはできなかった。しかし、それぞれの背景らしきものはある程度見えてきた。

今回、西村正綱の名前は、どこにも見つけることができなかった。入植者名簿にも、記念碑に刻まれた名前にも。また、案内をしていただいた中島さんから提供していただいた、「百年史」等のたくさんの資料の中にも。

資料は、入植初期についてはよく残されていたが、久留米開拓地が南部と北部に分裂して以降、特に北部については火事で焼失したこともあり、ほとんどないということだった。西村正綱が入ったのは北部(喜久田村対面原)である。

しかし、紙の資料が残されていないにしても、名前だけなら開拓記念碑に刻まれているはずである。しかし、そこにもないということは、そもそも西村正綱は開拓民(農民)として移住したのではない、と思わざるをえない。

現に、久留米開墾事業はすでに明治24年に終了していた。その頃は、最初の入植から続く生活苦の中で、地元高利貸、商人などから借金のかたに土地をとられるなどして、多くの開拓民が離散しており、半数も残っていなかった。

そんな時期に、この地に新たに移住することは考えられないことと、中島さんは強調されていた。

正綱妻千鶴の兄2人、太田榮と茂の墓が開拓地にあることは前からわかっており、今回現地を確認することができた。

新たにわかったことは、榮は明治16年、この開拓地(北部)を離れ、福島県官吏となり、同22年には、近隣の安積郡多田野村の初代村長になり(明治39年没)、長男陽太郎も明治41年から同村長(2代続けて)をつとめたということ。

茂も、同じ明治16年開拓地を離れ、やはり長野県官吏となった。しばらくしてから、帰ってきて同39年から喜久田村村長をつとめた。(昭和2年没)

茂については、東京在住の孫女性の連絡先がわかった。茂の息子は東京に出て、江東区でメリヤス事業を始めたが、昭和20年3月10日の大空襲で事業も家族3人も失ったという。しかし、西村家の情報は得られなかった。

榮の子孫の連絡先は不明。郡山周辺におられるという情報もあるが・・・

弟の伝も開拓地を離れた(時期は不明)ことが記録されていた。しかし、明治27年、西村家族が移住してきた時は、伝の住所に同居したことになっているので、その頃伝だけはまだ残っていたのであろう。

伝のその後の消息は、墓の場所も含めて全く不明である。

西村ルイは、生前、生まれ故郷の福岡県黒木町の思い出は時々話をしたが、安積のことはほとんど話さなかったという。いい思い出はなかったのであろう。そんな中、わずかに話したことの中に、一家で開拓地に入るさい、荷車に載せて運んでいる家財道具が立派だったので、道々羨望の目で見られたということ、また、父正綱は、酒好きで、開拓地でも玄関に酒を並べて飲んでいたということ、がある。

正綱はやはり開拓農民としてではなく、何等かの仕事(公職?)で招かれたのではないか。現に、正綱は視学官(教育行政官)をしていたらしいという話も残っている。

しかし、今回、教育関係資料が残っているという安積歴史博物館(安積高校内)にも行き、調査を依頼したが、追っかけ、そんな記録は見つからないという報告が届いた。さらに調べてくれるというが・・・何の記録も残ってないというのも、不思議である。

正綱は移住9年後の明治36年に没している。長男軍次郎(ルイの兄)は安積から東京深川に出たことははっきりしている。しかし、その時期は不明なので、正綱が没したのは安積か東京かは、わからない。軍次郎は深川では繊維関係の仕事を始めたという。

この仕事は太田茂息子兄弟(三男、四男)がやっていたという江東メリヤス合資会社と関係があるのではないか。母千鶴はよくメリヤス工場に出かけていたという話が残っている。このメリヤス工場のことではないだろうか。

私は、今回開成山神宮前にそびえ立っている「森尾茂助・太田茂開墾率先碑」を見て驚いた。この大きな顕彰碑は大正7年、2人のリーダーを称えるために建てられたものだが、いたみがひどくなったということで、平成13年10月、補修が行われていた。

 DSC_2108.jpg    DSC_2103.jpg

その補修費用を提供した人たちの名前が手前の石に刻まれているが、寄付者総数32人の中で、福岡県八女郡黒木町の見野幸子さんが総額の半分以上の50万円を寄付していた。

見野家は西村家と古くから姻戚関係にあり、同じ黒木町で両家の墓所は隣接している。西村正綱・千鶴夫婦の墓もそこにある。

 DSC_2038.jpg    DSC_2122.jpg

見野幸子さんは西村軍次郎の娘として生まれてから見野家養女になった人である。幸子さんは、自分の祖母(千鶴)の兄の顕彰碑のために、多額の資金提供をしたのだ。

幸子さんはいまもご健在であるが、ご高齢のため、そのあたりの事情や思いをおききすることはできないのが残念である。

今回の旅では、幸徳秋水とルイを結びつけた「森田基」についても、輪郭が見えてきたような気がする。

私は、森田基は中江兆民門下であったということから、同じ土佐人であり、この糸が近隣開拓地に入植していた旧土佐藩士のだれかから西村家につながったのではないかと、推測している。

今回、土佐藩主力が入植した「廣谷原」と久留米入植地(北部)の「対面原」とは比較的近い位置関係にある(車で10分ほど)ことがわかった。

また、太田榮は安積南部にある多田野村村長を明治22年からつとめており、同村の山田原地区にも、別の土佐藩20戸が入植していたこともわかった。

裏付けはまだないが、こんな事実を知ったことも、今回の旅の収穫である。
調査は今後も続けたい。

最後に、今回お世話になった久留米開墾報徳会中島武会長には、心からお礼を申し上げたい。

(終)

 DSC_2423-1.jpg

安積開拓と秋水妻(2)

 2日目は、あらかじめお願いをしていた久留米開墾報徳会会長の中島武さんにご案内いただいた。報徳会は久留米入植者子孫の方々の集まりである。

中島さんの車に乗せていただき、市中心部から南へ20分で水天宮へ。このお宮さんは、福岡久留米にある水天宮を分祀したもの。境内にはたくさんの記念碑などが立っており、脇には久留米資料館もあった。

安積開拓全体の顕彰会組織はほかにあるが、単独の会があり、単独の資料館をもっているのも9藩中久留米だけ。安積開拓において、久留米藩の果たした役割が大きかったことの証左だ。

 20170214195349609.jpg     20170214195401175.jpg
館内には、いろんな資料が展示保管されていた。開成館の展示よりも生々しい。詳細な年表、入植者名簿、歴代区長写真、当時の借金証書など。刀を鍬にかえ、慣れない農作業に苦しんだ、久留米藩士のうめき声が聞こえてくるようだ。

 
201702141959345dd.jpg    20170214195926537.jpg    20170214195922620.jpg

ここらには、久留米公民館、久留米郵便局などもあり、地名も郡山市久留米(1~3丁目)であるが、いまはすっかり住宅地に変わっていた。農家はほとんどないというが、墓地は当時のまま残っていた。

 20170214195934608.jpg

久留米藩からの入植者は多かったため、最初に入植したここらあたりだけでは、土地が不足してきて、途中からは、少し離れた北部に移った者も多い。その北部(旧喜久田村対面原)にも案内してもらった。やはり20分ほどかかった。

北部にも同じ水天宮が、さらに金毘羅宮もあった。遠くに白く雪をかぶった安達太良山を望むところで、南部と違い、一面水田や畑が広がり、いかにも開拓地という雰囲気を残していた。

 201702161236227e2.jpg    201702142005119f4.jpg

 一角に墓地があった。その中に太田榮(兄)と太田茂(弟)の墓が並んであった。2人は兄弟であり、さらに下の弟伝と3家族で入植をした。

3人の男の間には、妹千鶴もいた。千鶴は西村正綱の妻であり、ルイの母であった。西村正綱一家は、明治27年、最初の組の入植から16年も遅れて、ここに移住し、弟伝の家に同居したことは、戸籍記録からわかっている。しかし、伝の墓はなかった。

茂は久留米藩開拓のリーダー2人の中の1人であった。茂はもっぱら猪苗代湖からの用水開削を担当し、もう1人のリーダー森尾茂助は農地開墾のほうを担当したと、記録されている。

 201702161236117b2.jpg

この北部に来る途中、土佐藩が入植した廣谷原という地区も案内してもらった。一部は郊外流通団地になっているが、大半は農地のところである。豊受神社という土佐藩士が建立した神社には、土佐藩入植者の名を刻んだ記念碑があった。

安積は広い。土佐藩からは、合計101戸(久留米藩に次いで多い)入植したが、廣谷原に入植したのは75戸で、残りはだいぶ離れた2地区に入っている。

 (続く)

 20170216123627edf.jpg    20170216123623bac.jpg    20170216123635792.jpg


   

安積開拓と秋水妻(1)

 1月28日、大逆事件処刑107回追悼集会が東京渋谷区正春寺で開かれ、昨年に続き参加した。約100人。管野須賀子墓前で読経、手を合わせたあと、各団体、個人から活動報告が行われた。私からも、1月24日秋水墓前祭のもようなどを報告した。鎌田慧、田中伸尚、早野透、鍋島高明各氏らも参加していた。

 翌29日、福島県郡山市へ向かった。秋水は明治29年ごろ、安積開墾地(現郡山市)にいた旧久留米藩士西村正綱の娘ルイと最初の結婚をした。このことは、このブログでも何度も書いてきた。この旅の目的は、ルイの足跡をさがすためである。

東北新幹線で約1時間半。郡山は5年前、隣町の三春に伊藤寛前町長を訪ねたさい一泊したことがあるが、ゆっくり歩くのははじめて。駅から出ると、さすがに寒い。ブルブル。まず、開成山神宮へ向かった。タクシーで20分ほど。道端には前の週に降った雪の塊が残っている。神宮は、安積開墾事業のシンボル、精神的拠り所として明治9年、伊勢神宮から分祀してつくられた。

 20170214194750e87.jpg     20170214194812e60.jpg

開墾事業は、当初福島県主導で着手されたが、明治11年からは、大久保利通らの提唱で、士族授産のための大規模国営事業に拡大されてから、最初に入植したのが旧久留米藩士156戸であり、参加9藩の中で最大規模であった。

神宮脇には、最初の指導者中條政恒(福島県典事、作家宮本百合子祖父)、阿部茂兵衛(開成社社長)の顕彰像が立っていた。周りは広い運動公園になっている。

 2017021423275699a.jpg     20170214232757447.jpg

すぐ近くの開成館(開拓資料館)へ。庭には「安積開拓発祥の地」の標柱が建てられ、粗末な当時の開拓民住居も復元されていた。館に入ると、生活用具、古文書、地図、写真、各藩の紹介パネルなどが展示。

 201702141948083f7.jpg    20170214195350459.jpg    20170214194810c09.jpg

「開拓と文学」コーナーでは、宮本(中條)百合子、久米正雄らが紹介されていた。百合子は少女時代、学校の夏休みなどに、祖父政恒夫婦がいる開拓地に、東京からたびたび遊びに行っている。その体験にもとづき17歳の時(大正5年)書いたのが、処女作「貧しき人々の群」である。

 20170214194809e8f.jpg

館を出て、15分ほど歩き、安積歴史博物館まで足を延ばした。明治22年、県下最初の福島県尋常中学校(旧制中学)として建てられた洋風建物で、国の重要文化財になっているだけあって、風雪を経た風格がある。同中学は現在安積高校になっており、裏には現校舎がある。

冬季は土日しか開館していないというので、その日が日曜であったことは、ラッキー。展示は安積開拓関係のものもあったが、メインは福島県教育史。古い教科書や卒業生の記録など。卒業生に3人の芥川賞作家がいるとは知らなかった(中山義秀、東野辺薫、玄侑宗久)。

また、安積高校は2001年、センバツ高校野球21世紀枠がはじめて設けられた年、その推薦枠で甲子園出場したことを知った。同じ枠で今年は、わが地元中村高校が出場する。安積にさらに親近感が増した。

板張りの長い廊下と教室は、映画に出てくる明治時代の学校そのまま。時代をタイムスリップできる建物そのものが最高の展示物である。2階講堂は、たびたび映画・テレビのロケにも使われているという。最近もテレビ「坊ちゃん」(二宮和也)に。

 2017021419540124d.jpg     20170214195402137.jpg

日も暮れてきた。

ちょうど近くに、ドッグカフェ 「 One豆Cafe 」さん があることがわかったので、トコトコ歩いて、あったかいコーヒーをいただいた。

この愛犬同伴喫茶は、四万十市具同の 「 WanLife 」さん (福島県本宮市出身。わが息子伝次郎がいつもお世話になっており、この旅の間も泊めていただいている)のお友達ということで、名前を聞いていた。

やはり、わが中村と安積はつながっている。(続く)

 DSC_5020.jpg

プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR