女優秋吉久美子はずっと気になる存在である。
彼女は私より1年下の1954年生まれだから同世代だ。彼女が映画「赤ちょうちん」(1974年日活、藤田敏八監督)で刺激的な主演デビューを果たした時、私は東京の大学生であった。女の子に興味はあるが付き合ったことがなく、悶々としていた頃である。
そんな時、夕焼色をバックに高岡健二と裸で向き合う、あのポスターが現れた。同世代の男でムラムラしなかった者はいないであろう。

彼女はいろんな週刊誌のグラビアなので取り上げられていた。そこには私の中学、高校時代の同級生がいた。具体的に特定の誰かと似ているという訳ではない。
美人というよりも、かわいらしく、頭がよいのに、少し鼻っ柱の強く生意気で、気になる女の子はどの学年にも一人はいたはずだ。そんな身近なイメージの女の子であった。
福島県の県立磐城女子高出身だと書かれていたことも印象に残っている。その数年前の甲子園で準優勝したのが磐城高校で、同校は地域で一番の進学校だということが話題になっていた。「小さな大投手」と言われた田村投手の名前は今でも覚えている。
磐城高校は男子高で、女子高は磐城女子高で「磐女(バンジョ)」と呼ばれ、こちらも進学校だというのも、東北出身の友人から教えてもらった。
映画「赤ちょうちん」は南こうせつの歌「神田川」「赤ちょうちん」のイメージを映像化したもので、都会で出会った若い二人の路地裏での同棲生活 ~♪♪いっしょに行った横丁の風呂屋~ の世界だ。
彼女との出会いはそんな経緯だが、かといって別にファンになったというほどではなく、その後の映画やドラマも追っかけていない。
たまたま見た作品では、映画「八甲田山」で高倉健の雪中行軍部隊を道案内する村娘、NHKドラマ「夢千代日記」の芸者金魚、映画「男はつらいよ」の化粧品セールスガールなどが印象に残っている。
しかし、それぞれの時代の映像を見た時点の自分の年と重ねて、ああ、あの同級生も息の長い女優になったもんだな、というような感慨にひたる一方で、この子は、どうもだだの女優ではない、あのクセのある演技は何かイチモツをもってるな、という思いは抱いていた。
そんな秋吉久美子が7月21日、四万十市民大学での講演に現れた。市の広報で知った私は、その日を楽しみに待っていた。

彼女は2007年から2年間、早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻に在籍したことがあり、その師である北川正恭教授(元三重県知事)は同大学のマニュフェスト研究センターの代表をつとめている。
本市市議会の一会派が同センターに勉強に行った縁で、秋吉久美子を紹介されたのだという。
彼女は講演をするのは初めだということで、話は同研究センターの中村健事務局長との対談形式ですすめられた。
しかし、彼女は雄弁であり、ほとんど一人でしゃべりまくった。演題は「女優である理由」。
開口一番、あこがれの四万十川に来れてうれしい、「日本で一番透明度の高い川」の空気や風は違う、と感激の言葉を繰り返した。そして自分の生い立ちから話を始めた。
静岡県富士宮市で生まれたが、すぐに父の仕事(水産高校教員)で徳島県日和佐町に移った。そこが自分の黄金期で、ひとりで山の中に入って遊んだ。風のささやき、水のきらめき。山ユリの花を見つけ、何と美しいことかと思った。
ヘビや虫も友達で、カニも釣った。山の中にひとりいても怖くはなかった。四国の風と水の中での体験で、人間が失ってはいけないものを知り、励みになり、強くもなり、その後の自分の役に立った。
6歳で磐城へ。そこにも自然があった。高校時代は文芸部。友達と社会のこととかを議論をしても負けなかったが、自分が何になりたいかが欠けていた。
3年の時、深夜ラジオ「パックインミュージック」で映画「旅の重さ」のオーデションをやっていることを知り、1人で上京。小学校の学芸会でピノキオの役しかやったことはなかったが、変な自信があり、何も怖くはなかった。2位になり、小さな役をもらった。四国が舞台の作品で、夏休み中、ロケでまた四国に行った。
大学受験は自信はあったのに、すべり止めまで落ちた。浪人中(高校補習科)、アングラ劇団が来たので見に行ったら、さそわれて5月上京。
すぐに「赤福」のコマーシャルに出て、ポーラ化粧品のドラマにも。そして、藤田敏八監督の「赤ちょうちん」で主演。続く「妹」「バージンブルース」と合わせた藤田三部作でブレイク、いまに至る。
私は講演会場(市立文化センター)で帰りに彼女のサイン入りの本を買った。映画評論家だという樋口尚文氏との対談『秋吉久美子 調書』(2020年、筑摩書房)で、彼女のことを知りたい方にはおすすめの本だ。

この本で樋口氏が言うように、世間がもつ彼女のイメージは「元祖シラケ派」「浮世離れした」「具体性がない」「定まらなさ」「不思議な」「像を結ぶことから逃走」であろうが、次の言葉に私は一番納得する。(218ページ)
「 70年代に登場した頃の秋吉さんはロリータっぽい風貌とアンバランスなセクシーさが醸す「儚さ(はかなさ)」が魅力の「時の娘」であった。その魅力に射抜かれた多くのファンにとって「不思議なクミコ」は「守ってあげたい」哀願の対象だったかも知れないが、私には秋吉さん一流の「擬態」に見えて、そこに秘めし「知性派」の貌こそが秋吉さんの「正体」であって、そのクールさこそが秋吉さんを追いかけ続けた理由であった。 」
この本は樋口氏の質問に答える形でまとめられている。だから編集、構成は樋口氏がおこなったものだ。
しかし、講演では自分がしゃべりたいことを自由にしゃべれる。本にはない以下のような彼女の本質をつくような言葉があった。
・ 冒頭の徳島県日和佐の自然の中での幼時体験。
・ 主演映画デビュー作品は「赤ちょうちん」ということになっているが、それは公開が最初だということであり、実はその前に松本俊夫監督「十六歳の戦争」という映画の主演をやっている。この映画は、愛知県豊川市の旧海軍工廠を舞台に、徴用で働かされていて米軍爆撃で死んだ少女の話で、難解な内容であったためお蔵入りになり、公開が藤田3部作のあとになった。自分は死んだ少女と現代に生き返った少女(亡霊)の二役をやった。これは貴重な経験であり、もしこの映画に出ていなければ、役者としての自分は藤田3部作で終わっていただろう。
・高校時代、東大安田講堂や浅間山荘事件があり影響を受けた。自分はヒッピーになりたかった。青少年のために脱いだ(笑いながら)。
・自分のしゃべり方でしゃべると社会とぎくしゃくする。しかし、自分の生の言葉でしゃべらないと無理がある。
・常に目立とうとしないように意識している。
・私たちひとりひとりの存在は、人類の歴史の中でいろんな要因で生まれたライブラリーにすぎない。
・自然と向き会うことができる考古学者か動物学者になりたかった。
・6歳から18歳までいた磐城が地震にみまわれた。しかし、この事実は磐城としてではなく、人類として、人間として考えるべき。
・自分が女優になったことは「出会い」から。女優であることは「仕事」ではなく「生涯学習」であり、お役目。お坊さんにも、人間にも退職はない。
・毎回、学び、失敗する。ガンジーはいつまでも生きられるよう学べ、学びがあることで救われる、と言った。
以上、最後は禅問答や哲学のような話になった。彼女は女優を仕事とは考えていない。お役目と考えている。だから、生涯学習なのだ。それが演題の「女優である理由」なのだ。
四万十市民大学は市教育員会の生涯学習課が事務局を務めているので、配慮してくれた言葉ようにも思えるが、そうではないだろう。まさに、彼女にとって女優は「生涯学習」なのだ。
彼女はオフの生活でやりたいことはブックサーフィンだそうだ。いろんな本を5冊ぐらい並べて自由に読む。また、稽古事では、詩吟、書などもやっている。ブログも毎日書いている。詩の世界では出版社による秋吉久美子賞もある。
私はこうした彼女のいまの姿はこの講演で知った。
別に学歴が重要だとは思わないが、50歳をすぎてから早稲田の大学院に入っていること見ても、私が以前から感じていたように、彼女はただの女優ではない、知性派、いや生涯学習(お勉強)派なのだ。
彼女は話の最後にも四万十川に来れてよかったと言ってくれた。ブログによると翌日は川を見て帰ったそうだ。ありがたいことだ。
そこまで四万十川にこだわってくれたのは、彼女の同じ四国、日和佐の自然の中での幼時体験があり、四万十川に自分との同質性を感じているのではないだろうか。
というのも、映画「赤ちょうちん」の脚本を書いたのは本市出身の中島丈博である。中島は自伝映画「祭りの準備」(1975年)で自分が育った四万十川の河口、下田の自然や風土を描いている。そして、そこに暮らす、人間の原種のような人々を赤裸々に描いている。
女優秋吉久美子の「不思議な」「定まらない」イメージができあがったのは映画「赤ちょうちん」である。
ネアンデルタール人のような人類の原種は、もともと「不思議な」「定まらない」個体であった。それが進化の中で規格品に統一されていった。
「赤ちょうちん」の世界は中島しか描けなかった。
彼女がそのことを知っているのかどうかはわからないが、四万十川が生んだ脚本家によって女優秋吉久美子はつくられたのであり、ここが自分の原点であるという帰巣本能が働いたのではないかと思う。