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中村町人文化と幸徳秋水(上)

幸徳秋水(伝次郎)は明治四年、両親にとって六番目の末っ子として生まれた。

父幸徳篤明は四代俵屋嘉平治を襲名する商家であり、母多治は医師小野雲了(亮輔)の娘。小野家は代々山路村庄屋をつとめた士族格の家柄で、雲了は小野家三男のため中村に出て医師となっていた。

幕末とはいえ士農工商の身分制度が厳然たる江戸封建時代、最下級商人のもとに最上級士族の娘が嫁ぐことは異例なことであった。

これには中村という町の歴史的背景がある。

一條家、長宗我部に続き、関ケ原合戦のあと、中村を支配したのは山内康豊。土佐藩初代山内一豊は弟康豊に中村を分け与え、独立した中村藩(二万石、のち三万石)とした。

しかし、元禄二年(一六八九)、中村藩五代直久(大膳)が幕府若年寄に抜擢されたにもかかわらず、これを辞退したことを口実に、将軍綱吉から取り潰された(幕府直轄後土佐藩に併合)。

禄を失った家臣は散り散りになり、武家屋敷は残らず取り壊された。城に代って奉行所が置かれ、以後は上級武士二名が高知から交代で来るのみで、中村には藩直属武士がいなくなり、さらに洪水、火事などの災害も加わり、町は荒廃した。

こうした中村を支え、復興したのが町人であった。宇和屋、俵屋、吸田屋などが町老(年寄)になり、商人中心の自治的運営がなされた。藩もこれを認め、中村の町はいわば特別行政区的存在になった。

中村がいまでも「おまち」と呼ばれ、格の高い響きをもつのは、このためである。(「中村市史」)

商人の間では、和歌、俳諧、絵画等が流行した。こんな雰囲気の中、宇和屋から学者遠近鶴鳴が生まれた。

鶴鳴は商いで京阪に出た際、篠崎小竹(大阪)から朱子学、岩垣松苗(京都)から国学を学び、さらに一條家学問と土佐南学の流れも受け継ぎ、私塾鶴鳴塾を開いた。

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 遠近鶴鳴墓

樋口真吉(足軽)、安岡良亮(郷士)、木戸明(吸田屋、のち地下浪人に)などはここで学んだ。町人学者のもとに士族の子弟が通ったのである。

秋水の父篤明も俳諧を趣味とする文人であった。商売、文化両面から幸徳家(俵屋)は一目置かれる存在であった。

小野雲了は格式ばかりうるさく貧乏な士族の家より、生活が楽な商家のほうがいいかもしれないとの配慮もあって、長女多治を幸徳家に嫁にやった。

そんな決断をした雲了ではあるが、多治の妹嘉弥子はやはり自分の姉菊が嫁いでいた郷士安岡家良輝の二男良哲(良亮弟)と縁組させた。

また、小野家には男子がいなかったことから、蕨岡の庄屋桑原家の二男道一と養子縁組し、その嫁には安岡良亮の二女英(ふさ)を迎えた。

英の姉芳(よし)は道一の兄戒平に嫁いでいたので、兄弟と姉妹同士が一緒になったことになる。

さらに、安岡家は木戸家とも姻戚関係にあった。(良亮と木戸明は従兄弟) (続く)


二〇一八年一月二十四日、幸徳秋水刑死一〇七年墓前祭記念講演会要旨
当日の演題は「中村町民文化と幸徳秋水」
「秋水通信」24号所収





プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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