幸徳秋水 ひ孫

幸徳秋水を顕彰する会の今年度総会を5月14日に開いた。この総会に、幸徳秋水ひ孫の小谷美紀さん(埼玉県草加市)を招待した。

幸徳秋水は生涯3度結婚をしている。2度目の師岡千代子、3度目の管野須賀子は有名だが、最初の妻西村ルイについては、記録がほとんど残されていないことから、これまであまり知られていなかった。

私がこの間、西村ルイについて、いろいろ調べてきたことは、このブログでもすでに何度も書いてきた。

西村ルイは、秋水に離縁されたさい、身ごもっていた。その子(ハヤ子)は、ルイが再婚した相手(横田)の子として入籍され、育てられた。

さらに、ハヤ子(結婚してから小谷姓)は6人の子を育てた。そのうちいまも健在の秋水孫にあたる2人の女性がちょうど1年前の昨年5月、秋水墓参のために、はじめて中村を訪ねてくれた。

今回招待した小谷美紀さんは、この2人の兄弟の二女である。美紀さんのお父さん(故人)は、小谷家の長男にあたるため、美紀さんはハヤ子とずっと一緒に暮らしてきた。

ハヤ子の存在が昭和57年、朝日新聞スクープで世に知られた時、美紀さんは中学生であった。社会科教科書に出てくる人物が自分のひいじいさんとわかりびっくりしたが、誇りにも思った。社会科の先生にも呼ばれ、いろいろ聞かれたそうである。

ハヤ子は翌昭和58年亡くなったが、美紀さんからみたおばあさんは、しつけなどがきびしい中に、気品をそなえていたという。

美紀さんは、ルイの記憶もわずかにあるそうだ。ルイは昭和48年亡くなった。当時4歳だった美紀さんは、東京滝野川の病院に見舞いに行ったこと、近くを都電が走っていたことを記憶している。ルイもまた、上品なひいおばあちゃんだった。

美紀さんを、秋水墓、絶筆碑、生家跡、資料室(図書館)などに案内した。墓ではじっと手を合わせていた。

資料室には、これまでルイの顔写真を展示していなかったので、新たに作成した写真パネルを美紀さんの手で展示してもらった。秋水の大きな写真の下に。2人とも再会を喜んでいることだろう。新聞4社の取材があり、翌日の記事になった。
 →https://www.kochinews.co.jp/article/99227/
https://mainichi.jp/articles/20170516/ddl/k39/040/577000c

美紀さんを、一條神社や四万十川佐田沈下橋、下田河口へも案内。新緑がまぶしかった。

顕彰会総会では挨拶をしてもらい、夜には歓迎懇親会を開いた。皿鉢をかこみ、ひいじいさんの郷土料理を堪能してもらった。

2泊3日で美紀さんは帰っていった。

美紀さんに見せてもらった弟さんの写真は、秋水そっくりである。次は、ぜひ弟さんにも来てもらいたいと思う。

なお、美紀さんは、自分のブログに今回の旅のことを書いている。
 →http://nikoxgodiego.blog115.fc2.com/?no=2610

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幕末維新博に望む

 きょうは五・一五事件(昭和7年)の日。武装した海軍青年将校たちが総理官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害した。

政党内閣は終焉し、以降軍人出身首相が続く。

当時、青年将校たちが唱えていたのが昭和維新。明治の心を取り戻すことであった。

彼らが拠り所とした明治維新とは何だったのか。

ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がしたように、アジア周辺諸国が次々に西洋列強に植民地化される中にあって、日本は急変身によって独立を保つことができた。これは「輝かしい歴史」であったはずである。

しかし、日本における近代とされる新国家の主権は絶対的権力をもつ天皇におかれ、国民の権利は抑圧され、女性にあっては参政権すら認められなかった。一方で華族制度で新たな特権身分がつくられた。

 富国強兵のもと、軍備は拡張され、それを背景に列強に割り込んで大陸に進出。

これに公然と反対し、平和・自由・平等を訴えた幸徳秋水らが抹殺された大逆事件で明治は幕を下ろした。

 「志士」たちが描いた新国家とはこんな国だったのだろうか。それとも途中で変質してしまったのか。

 いや、明治維新という変化プロセスの中にこそ、その後の国のありようが内蔵されていた。明治維新は百姓、町人など一般庶民が立ち上がった革命ではなく、しょせん武士階級の中だけでの主導権争い、政権交代にすぎなかったのではないか。

昭和20年の敗戦によって、新憲法が制定され、はじめてわれわれは主権を、基本的人権を、言論の自由を獲得した。そう思っていた。

しかし、いままた教育勅語が息を吹き返し、共謀罪が国会で審議されている。維新と名のついた政党もこれに絡んでいる。その先には、憲法そのものの見直しも射程に入っている。

大政奉還、明治維新から今年、来年で150年になり、志国高知幕末維新博が県をあげていま開かれている。

当時活躍した地元の人材を知り、また新たな人物を発掘し、観光資源としても活用していくことにも異議はない。

しかし、最も大切なことは、そうした人物たちの集合体としての明治、われわれの祖父母や曽祖父母が現に生きてきた明治とはどんな時代だったのかを真剣に考える機会とすることである。

 明治は過去の物語ではない。いまにつながっている、いまの問題なのだから。

 高知新聞「所感雑感」投稿 2017.5.15

幕末維新博に望む 所感雑感 

共謀罪に反対する声明

 幸徳秋水を顕彰する会 は共謀罪反対声明を出しました。

        共謀罪に反対する声明

1910年(明治43年)の「大逆事件」では、幸徳秋水ら26名が逮捕され、うち24名が死刑判決を受けました(12名は翌日無期懲役に減刑)。理由は、天皇暗殺や社会転覆を企てる「謀議」をおこなったというものでした。
 明治政府の狙いは、朝鮮侵略に反対し平和と自由平等を訴えていた幸徳秋水らの運動を弾圧、根絶やしにすることにあり、その口実となる「事件」をつくり
だし、フレームアップしたものでした。
 「大逆事件」以降、言論の自由は完全に封殺され、日本は侵略戦争の道をひた走り、その結果、国民は塗炭の苦しみを味わっただけでなく、周辺諸国にも多大の被害を与えました。
 戦後、「大逆事件」をリードした元検事は、秋水らの「思想を裁いた」ものであったことを認めています。
このほど、テロ対策、オリンピック対策を名目に共謀罪(「テロ等組織犯罪準備罪」)という法案が閣議決定され、国会に上程されました。
これは、犯罪行為が発生する以前から人を逮捕できるという法律であり、「未遂」「予備」「共謀」を例外とするわが国刑法の原則を無視したものであることから、過去の国会でも三度廃案になったものです。
共謀罪では、人と人のコミュニケーションそのものが犯罪の対象となることから、捜査機関の判断によって恣意的な検挙が行われたり、日常的に市民一人一人の人権やプライバシーが監視される怖れがあります。
政府は共謀罪がないと「国際組織犯罪防止条約」を批准できないと言っていますが、この条約はマフィアなどの国際経済犯罪対策であり、テロとは明確に区別されており、真の狙いを隠すカモフラージュであることは明らかです。
戦後憲法で認められた内心の自由、言論の自由などのわれわれの大切な基本的人権が侵害されることがあってはなりません。
私どもは、再び「大逆事件」をつくりだす暗黒社会に逆戻りするような共謀罪には反対であることを、ここに表明します。


2017年 4月 15日

幸徳秋水を顕彰する会

秋水桜

 遅かった今年もやっぱり咲いてくれました。中村の正福寺にある幸徳秋水墓の上には、隣接する裁判所庭から塀越しに桜の大木が枝を伸ばしています。
 明治44年4月(旧暦)、秋水処刑から3か月後、盟友堺利彦は秋水墓を訪れ、次のような歌と句を残しています。

 行春の青葉の桜に鶯の啼きしきる処君が墓立つ

 行春の緑の底に生残る

 同じ桜の木だったかどうかはわかりませんが、いまでは非道な裁きを詫び悲しむように秋水を抱きかかえ、涙の花びらを散らしています。
 この恩讐を超えて咲く桜を、私どもはいつのころからか秋水桜と呼んでいます。
 今年4月6日には、まだ五分咲きでしたが、小雨降る中、この桜の下に有志で集い、即興の歌や句をつくり、語り合いました。
 俳句の世界で「秋水忌」(1月24日)が厳寒期の季語のようになっているのと同じように、「秋水桜」が世の中に平和と春を告げる象徴となり、多くの人たちに親しまれることを願っています。

 高知新聞「声ひろば」 2017.4.24

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四万十市長選挙 応援演説

 四万十市長選挙告示日(4月16日)、新人大西正祐候補出陣式でおこなった応援演説です。


 おはようございます。田中全です。
過去2回の市長選では皆様に大変お世話になり本当にありがとうございました。

前回4年前の選挙では皆様も私も大変くやしい思いをしました。そのくやしい思いを遂げてくれるために、大西さんが出馬してくれることを、私はうれしく思いますし、全力で応援したいと思います。

みなさん、この4年間の中平市政をどうみていますか。ぼや~として、非常にわかりにくいと思うのではないでしょうか。何をやっているのかわからない。

確かに、新しいことはほとんどやっていません。夢とビジョンと言いますが、抽象的な言葉だけです。独自の理念や具体的政策がないということです。

しかし、私にはよくわかります。目指している方向が。

具体的に言いましょう。

私は4年間で、3つの課をつくりました。
地震防災課、商工課、林業課です。独自の政策をやりたかったからです。

このうち南海地震対策を中心とする地震防災課、これはさすがにいまも残っています。

商工課は、以前は商工観光課であったものを、2つに分けて独立させたものです。
中村は、以前は「おまち」といわれ大変賑わいのあるまちでした。私は、この「おまち中村」を復活させたいと思いました。

その目玉に天神橋の真ん中にある土豫銀行跡地、これを地権者から市に、町の活性化のために役立ててほしいと、無償で寄付をしていただいたことから、私は、映画館、コンサートなどの多目的機能をもった施設をつくりたいとの構想を議会に示しました。

しかし、ごらんのように、いまも雨ざらしのまま放置され、今後の方向性すら決まっていません。中心市街地活性化策は、いま何もおこなわれていません。商工課はもとの課に戻されました。

林業課は、農林課から独立させました。本市第一次産業の最大資源は林業です。四万十川ヒノキのブランド化を目指そうとしました。そのため、地元木材を使って家を建てた場合は市が補助するという制度をつくりましたが、いまはその補助が削減されています。林業課も、もとの課に戻されました。

ほかにも、2つの課がなくなりました。水道課、社会体育課です。計4課なくなりました。

それに代わって始まったのが民間委託です。市が本来自分でやらなければならない、市民の生活や文化に密着した仕事を放棄し、民間企業に譲りわたしている。図書館運営、市民病院給食などです。

市民病院の問題でいえば、8年前、私の市長就任時には常勤医師は5名まで減りました。夜間救急も止まっていました。私はこれを在任中11名まで増やして、もうすこしで夜間救急復活できるというところまできていました。

だから、現市長も前回市長選挙では、さかんに夜間救急を復活すると言って公約にかかげていました。しかし、当選するやいなや、最初の議会で、夜間救急は当分むずかしいと努力を放棄したのです。

いま、医師は10人に、また1人減っています。西土佐診療所も2人から1人に。このままでは、西土佐は無医地区になるかもしれないという、大変なことになっている。

要は、市民の生活に密着したところの市の事業や仕事を縮小撤退している。

一方で、2人目の副市長を国土交通省から迎えています。

今の市は国や県の方針に沿った仕事しかしないようになっています。県は国の高知支店、本市は出張所のようになっています。市長に独自の理念や政策はなく、国の言うままにしていればいいということです。

本来市町村は国から独立しています。自治権というものがあり、地方自治法で保障されている。しかし、これでは自治権の放棄です。

今回の選挙は、誇りある中村、四万十市をとりもどす戦いです。地方自治を守る戦いです。

あと1週間、私もがんばります。みなさんも一緒にがんばりましょう。
プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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