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追悼 田頭文吾郎

6月17日、田頭文吾郎さんが亡くなった。87歳。

文吾郎さんは25歳から共産党中村市会議員3期、高知県会議員8期をつとめ、78歳で議員は引退したものの、それ以降も最後まで、農業と政治の二足わらじで、幡多の大衆運動のシンボル的存在であった。

私は子どものころからその名前を知っているほど中村では有名人で、「ブンゴロー」という名前がかっこよく、英雄的な響きをもっていた。

私が文吾郎さんの顔を初めて見たのは学芸高校2年生で高知市内にいた時。夏の甲子園予選で地元の中村高校を応援に高知市営球場に行ったさい、スタンドで見かけた。

笑顔で「よ~」と、まわりに声をかけていた。この人があのブンゴローなのかとしげしげとみつめた。この年、中村高校野球部は南四国大会まで行った。(その後、昭和52年、文吾郎さんの長男克文さんが主将となり、「二十四の瞳」でセンバツ甲子園準優勝をした。克文さんは、現在高岡高校校長で高野連会長))

私はずっと地元を離れていたので、文吾郎さんと接することはなかった。私が50歳のころ、たまたま帰省していた時、中村駅から同じ列車になったので、思い切って挨拶し、途中の高知駅までご一緒させてもらったことがある。話をしたのはその時だけであった。

そんな私に文吾郎さんと深い縁ができたのは、市長選挙に出るために55歳で帰って来てから。私は当時の民主党、共産党、社民党の推薦をもらったので、文吾郎さんも全面的に応援してくれた。

地域を連れまわしてもらい、選挙カーにも乗ってくれた。こちらは選挙の素人なので、挨拶、握手や、マイクの使い方、演説の仕方まで、熟練のノウハウを事細かく教えてもらった。厳しくチェックされ、何度も注意された。

文吾郎さんは会う人みなに「よ~ 元気だったかい」と声をかける。さすが、顔が広い人だなと関心をした。しかし、よく聞くと、あれは知らん人だ。しかし、相手は自分のことを知っている。声をかけられて悪く思う人はいない、とケロっと笑っていた。

文吾郎さんには、共産党は好きではないがあいつは別だ、という「田頭党」がたくさんいた。だから選挙には強かった。定数2で共産党県議を8期もつとめたのだから、驚異的なことである。

しかし、文吾郎さんも最初から選挙に強かったわけでない。苦労と努力、経験の積み重ねの結果である。敵味方関係なく親身に接し、相談事を受けるとすぐに対応する。そうして信頼関係と人脈をコツコツと積み上げていった。私は文吾郎さんのことを悪く言う人に会ったことがない。幡多弁で「選挙ば~ 面白いもんはないゾ~」が口癖だったという。

文吾郎さんは昭和7年4月16日、中村の京町生まれ。姉3人、弟2人がいた。父親が事業に失敗し、戦中、一家で郊外の敷地に引っ越し。父は田んぼを借り、百姓(小作)になった。戦後、農地解放で自作農になったとはいえ、生活は楽ではなかった。

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文吾郎さんは旧制中学1年生で敗戦。3年生の時、学制改革により、中村中学は新制中村高校に移行。大半の生徒はスライドで高校に進んだが、家の経済状況を考えた文吾郎さんは、断念した。

文五郎さんは、土方仕事(日雇い)に従事した。農業のかたわらというより、土方仕事が中心であった。戦後は、道路改良や後川治水堤防工事など仕事はいくらでもあった。

昭和29年中村市誕生に合わせて、天神山を切り取って市役所庁舎を建てたさいには、ツルハシ一つで山を削る作業にも従事したという話を聞いた。長男として家計を支え、弟2人は高校に進ませた。

戦後解放の自由な息吹の中で青年団運動にも参加。すぐに頭角を現し、地元後川村青年団長 →中村市連合青年団長 →幡多郡連合青年団長 →高知県連合青年団副団長に就いた。

こうした活動の中、20歳で共産党に入党。昭和32年、被選挙権を得た25歳の誕生日のその日が告示日であった中村市会議員選挙に立候補。最年少議員となった。

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3期目満期直前に市議を辞め、県会議員選挙に挑戦。この時は届かなかったが、4年後当選した。

再選はならなかったが、次は当選。しかし、また落選と当落を繰り返したが、3回目の当選以降は8期まで連続当選をした。6期目は無投票であった。

後半は、少し若い自民党の土森正典さんと、自共で指定席であった。土森さんも9期連続当選し、この4月で引退した。土森さんは県議会議長を3回もつとめた。しかし、共産党の文吾郎さんはずっと一議員で通した。無冠こそ勲章。与野党を問わず、また歴代知事からも一目も二目も置かれる存在であった。

私は市長選で再選がならなかったあと、「たった1回落ちたば~で諦めてどうすりゃ~」とハッパをかけられた。いまでも忸怩たる思いである。

文吾郎さんは議員になってからも農業をずっと続けた。田んぼ2町歩をつくっていた。百姓が大好きであった。だから、農業問題では譲れなかった。

橋本大二郎知事と議会での「コメ論争」は有名で、知事はついに国の減反政策には従わないと表明。知事の県政スタンスは大きく変わっていった。

文吾郎さんは理論家というよりも典型的な実践家タイプの政治家であったが、この時ばかりは、実践と理論の統一を確信したのではないだろうか。

文吾郎さんは仲間や支持者から「文ちゃん、文ちゃん」と気安く呼ばれていた。しかし、ずっと年下で、おつき合いも浅い私などは、とても恐れ多くてそのようには呼べなかった。「田頭さん」か「文吾郎さん」であった。

若いころからスポーツが得意で、走るのも速かった。四万十市体育協会会長も長くつとめ、シニアソフトボールでも生涯現役であった。

そんな文吾郎さんが、3年前、肺がんの手術をした。ヘビースモーカーでたばこだけは頑としてやめなかったとか。選挙で回っていても一服タイムは欠かせなかった。

肺がんは覚悟の上のことであろうが、その直後に最愛の奥さんを突然失った。それでも、ふんばって農業を続けていた。

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昨年、ガンが再発し、以降入退院を繰り返した。私が最後にお会いしたのは今年3月、自宅を訪ねた時であった。その時は、かなり痩せられていたが、まさか3か月後にこんなことになるほどとは思わなかった。

しかし、家族は覚悟をしていたのであろう。多くの人が参列をした告別式で、長男克文さんは「父は中村と中村の人たちが大好きでした。その人たちのために仕事ができ、また大好きな農業もでき、幸せな人生だったと思います」と、確信をもった言葉で、お礼を述べていた。

戒名は「文武一徹居士」。ピッタリである。

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私は若い頃からのあこがれの文吾郎さんと、最後の少しの間ではあるがお近づきになれたことをうれしく思っている。しかし、できればもっといろんな話を聞いておけばよかったと悔やまれもする。

田頭文吾郎は間違いなく中村が生んだ歴史的人物の一人である。その足跡をたどり、記録に残せればと思っている。

そうした意味で文吾郎さんとの付き合いは続く。
文吾郎さん、これからもどうぞよろしくお願いをいたします。

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NHKのイラク報道

安倍首相は何のためにイランへ行ったのか。参議院選挙まえの実績づくりにしようという魂胆から、アメリカから頼まれもしないのに仲介役を買って出たものだが、結果は日本の恥をさらしただけでなく、両国の緊張対立に火をつけた結果になった。

イランの最高指導者ハメネイ師はトランプとの対話を明確に拒否、とりつく島もなかった。安倍の面目まるつぶれである。トランプからも仲介は時期尚早だったといわれる始末。世界に日本の恥をさらすことになった。

NHKは行く前は、さかんに「よいしょ」報道をしていたが、いまはダンマリである。

新聞各紙は、ハメネイ師がアメリカとの対話を拒否したことを見出しで報じているが、NHKはそのことには触れず、「ハメネイ師の平和への信念や、核兵器の製造や保有の意図はないことを確認できた」ことは「地域の平和と安定の確保に向けた大きな前進」などと、ピント外れな報道をしている。

さらに、日本タンカー攻撃事件もおこった。ハメネイ師との会談最中に、である。犯人はだれであるかわらないが、日本の首相訪問に合わせ、両国の緊張を高めたいグループ(国)がやったことは、間違いないだろう。緊張が高まり一番喜ぶのはトランプだが・・・

安倍はトランプのメッセンジャーを自作自演した。メッセンジャーだけなら子供でもできる。日本独自の主張はしたのか。

そもそも最近の両国間の緊張の高まりは、トランプが一方的に関係国核合意からの離脱を表明したことに始まる。安倍が申し入れるべきはイランではなく勝手気ままなトランプに対してである。

NHKはそんな解説はいっさいしない。政府に都合がいように報道し、まずくなればダンマリ。

これでは、戦前の大本営発表と同じである。

関東幡多の会

関東幡多の会の第8回総会・親睦会が今年も5月25日、東京のホテル(東武ホテル・レバント東京)で開かれた。私は第1回に参加して以降は参加していないが、その後も継続して開かれていることはうれしいことである。

この会の発足は2012年3月10日で、私もかかわったので、そのあたりの経緯を書いておきたい。

ことの発端はその2年半前。2009年11月に東京で開かれた関東高知県人会に、私は出席した。その席で、中村出身の平田一郎さんに初めてお会いした。平田さんは、県人会の世話役をされていた。

平田さんが言うには、東京では県下市町村それぞれの出身者の会(集まり)がたくさんあるのに、四万十市には中村市時代からないので、寂しい思いをしている、なんとか四万十市出身者の会をつくれないものかと。

私はぜひ一緒につくりましょう、市としても応援をしますよ、と答えた。

2011年、市は「四万十市ふるさと応援団」制度を立ち上げた。四万十市出身者や縁のある方、たんに四万十市が好きな方でもいい、全国から広く募集した。すぐに登録者は1000人を超えた。

一方、平田さんらは、中村高校同窓会東京支部のみなさんを中心に呼びかけ、世話役をしてくれるような方々を集めてくれた。

そして、2012年3月10日、私も上京し(藤田豊作市会議員も一緒に)、新橋の土佐料理屋で世話人会を開いた。

東京のメンバーは、平田さん(初代事務局長、現相談役)のほか、中野正三さん(会長)、久禮孝博(副会長)さん、山崎進一さん(幹事長)ら12人。その場で、会の目的、規約、名称などを決め、会が発足した。

会の目的は「親睦」とあわせ、「四万十市の発展に資する」ことを明記してもらった。

そのうえで、一番議論したのが会の名称。「中村」の名前を入れるかでどうかで。関東中村会、関東幡多中村会、中村四万十会などの有力意見も出たが、中村では西土佐が含まれないということもあり、最終的に「関東幡多四万十会」とすることで一致した。

ここで言う「幡多」とは「幡多郡」の意味ではなく、東京にはすでに「東京四万十会」という高岡郡四万十町出身者の会(主に窪川町)があるので、そちらとの混同を避けるために「幡多の四万十=中村、西土佐」という意味付けをしたのだった。

会の世話人にみなさんは、もちろん全員、四万十市ふるさと応援団にも入団してくださった。

そして、いよいよその年の6月30日、関東幡多四万十会の第1回総会を五反田ゆうぽうとで開いた。それまでの経緯から、四万十市ふるさと応援団との共催による「交流会」とした。120人の参加者があり、大いに盛り上がったのは言うまでもない。

私は翌年市長を引いたので、第2回以降には参加はしていないが、以降も中野会長以下のご尽力により、総会は毎年5,6月に開かれており、すっかり定着したようである。

しかし、総会の形は、2016年の第5回から変わった。「関東幡多四万十会」の名称が「関東幡多の会」に変わり、あわせて「四万十市ふるさと応援団」との共催ではなくなり、単独開催となったことである。

名称については、発足当初から意見があった。世話人の中心は中村高校OBであるが、同校には幡多全域から進学するので、四万十市生まれ以外の方も含まれている。そんな配慮から、「目的」に「四万十市出身者等の」と「等」を入れ、幡多全域からも参加できるようにしていた。

その後の詳しい議論の経過はきいていないが、もともと幡多は歴史文化面でもまとまりのある地域であるから、それならば名称も「幡多の会」にしたほうが、広く参加者を拡げやすし、会の運営もしやすいということになったのだろう。

会の規模拡大、発展のためには、これはこれでまっとうな話であると思う。重要なのは、関東に住む方々の考え、思いである。

しかし、四万十市の立場から言えば、お隣の宿毛には東京宿毛会、土佐清水には関東土佐清水会があり、やっと四万十市の会ができたのに・・・・・・という思いはある。この時、四万十市側はどんな意見を言ったのだろうか。

なにより、四万十市ふるさと応援団との共催でなくなったことによって、幡多地域出身者以外の一般団員の参加が難しくなったことだ。(もちろん門戸開放はしていると思うが)

ここのところ、四万十市ふるさと応援団の活動の姿がみえない(市事務局によるネットニュースの発行が減っている。団員から市広報へ投稿もない。)ことも、こうしたことが原因の一つになっているのではないかと、気になるところである。

一方で、最初のころにはなかったことであるが、最近では幡多の会のメンバーによる里帰りツアーが行なわれ、つい先日もお迎えしたようであり、すばらしいことであると思う。

私自身も長くふるさとを離れていたので、そうした人たちのふるさとを思う気持ちはよくわかる。そうした思いを大切に、互いの交流を深めていってもらいたいものである。


関東幡多の会ホームページ →https://kochi-hata.com/

次郎物語

ジャガイモを掘りながら、NHKラジオ「すっぴん」を聞いていたら、懐かしい名前の池田秀一がゲストに招かれていた。

その名前は、私が小学校6年生のころのNHKテレビドラマ「次郎物語」の主人公次郎の少年役をしていた。

テレビの主題歌はペギー葉山が歌っており、

 ひとりぼっちの次郎はのぼる・・・
 ・・・
 次郎、次郎、見てごらん。
 松の根は岩を砕いて生きてゆく~

というフレーズはよく覚えている。

久しく名前を目と耳にすることはなかったが、ラジオインタビューを聞いて驚いた。昭和24年生れの池田は、NHKでは子役であったが、その後もずっと俳優として結構いろんなドラマに出ているそうだ。NHK大河ドラマや、民放「太陽にほえろ」など。しかし、その番組を見なかったからだろう。とんと気づかなかった。

最近は、声優としての仕事のほうが中心のようで、アニメ「機動戦士ガンダム」の主人公シャア(というそうな)の声役で有名とか。私にはまった縁のない分野であるが。なるほど渋い声だ。

私にとっては池田秀一というよりも「次郎物語」だ。NHK放送と、どっちが先だったかは覚えていないが、小学校6年の読書の時間に、担任の東近三子先生がこの本を読み聞かせてくれた。

先生が読んだあと、みんなも自力で読まされたような気がする。そして、その読書感想文を書かされた。

東近先生には、ほかにも作文をたくさん書かされた。それを時々文集にまとめてくれた。ある時の文集に、私の「次郎物語」感想文を載せてくれ、ほめられたことがあった。

「次郎物語」は下村湖人の自伝的小説で、幼少期から青年期まで全5巻書かれ、結局未完に終わった作品である。東近先生に読んでもらったのは、幼少期の第1巻の一部であったので、だいぶ後から全巻を読んだ。

私は、このブログを書いていうように、文章を書くことが好きとまでは言えないが、あまり抵抗もなく書けているのは、遡れば、東近先生に書かされた作文に行く着くものであり、その一つが「次郎物語」であったことは間違いない。

「次郎物語」には、そんな恩義がある。

斑唐津

私はやきものに興味をもっている。趣味と言えるかどうかわからないが、結構いろんなやきものを集めている。

以前、転勤や出張の多い仕事をしていたので、全国各地をまわったさい、休日や時間の合間をみて、その土地の窯場や陶芸作家を訪ねた。

全国のちょっと名の知れた窯場はたいてい歩いた。

伝統的窯場は西に多い。六古窯(備前、丹波、信楽、越前、常滑、瀬戸)のほか、九州沖縄では、壷屋、薩摩、小代、小鹿田、小石原、上野、有田、伊万里、唐津、中四国では、萩、島根、鳥取、砥部、大谷、内原野、関西では、京都、伊賀、赤膚、出石などだ。

関東は、笠間、益子など。
北海道にも転勤でいたので、結構徘徊した。

東京、大阪にいた時は、全国の作家たちが、個展を開くので、見に出かける。都会にはこだわりの専門店も多い。いつしか、かさばらないものとして、ぐい吞み、徳利などの酒器をメインに買うようになった。

いまは地元に引っ込んだので、そうした出会いも少なくなった。もっぱら以前に買ったものを眺めたり、触ったりして楽しんでいる。それぞれに出会った時の思い出が埋め込まれているので、古い日記をめくるような、楽しさや恥じらいがある。

好みもいろいろに変わったが、いま気に入っているのは斑(まだら)唐津である。斑唐津とは、藁灰釉をかけて焼くと器の表面に釉薬が流れて斑模様になる、唐津焼の手法の一つ。

この独特の斑模様は、唐津の土でないと出ない。砂が混じった、唐津でしか取れない粘土。

唐津とは唐(中国)につながる津(港)という意味であるように、唐津の焼き物は中国、朝鮮から伝わったもの。瀬戸焼がセトモノになったように、唐津焼もカラツと呼ばれ、焼き物全般をさす言葉にもなっているくらいだから、ともに日本を代表する焼き物産地であるということだ。

20数年前、福岡に転勤していたころ、唐津にはたびたび出かけた。そうした中で、ご縁ができた作家の一人に府川和泉さんがいる。

彼女は当時30代前半で、修行から独立をして間もないころだった。山の中に窯をつくり、こんな寂しいところに若い女性が大丈夫なのだろうかと、余計な心配をしたものだった。「空(そら)」という陶房名をつけていた。

彼女の作品は、唐津の伝統にのっとったもの。奇をてらわず、コツコツと焼く。地味な中にも、女性らしい柔らさや温かみのあるものだった。

私が福岡を離れてからは、会う機会はなくなったが、作品はいろんな縁で求めてきた。

6年前、はじめて高知市で個展(3人展)を開くという案内をもらい、びっくり。久しぶりに本人に再会した。

そして、今度は、いの町の土佐和紙工芸村で個展(2人展)という葉書をもらったので、5月30日、またお会いした。

前回は斑唐津が少なかったので、今回は多めにとあらかじめ頼んでいたところ、約束どおり、たくさんもってきてくれた。

どれも素晴らしい作品ばかりだった。垂涎とはこのことを言うのだろう。この間の彼女の「進化」というよりも「深化」がにじみ出ている。

日々、黙々と土と対話をしていると、土のほうから、こういう形にしてほしいというようなリクエストが伝わり、勝手に指先が動くという。自然体のフォルム。

人間がつくるのではなく、土が人間をつくる。何事も極めるということは、日々の地味な作業の積み重ねなのだろうが、彼女の作品には、それだけではない、唐津という風土、歴史が大きなバックにある。

唐津には6年前に久しぶりに訪ねたが、また行きたくなった。大陸につながる玄界灘の濃いブルー。土と海が呼んでいる。

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以前の唐津の記事
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-24.html
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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