中高 ありがとう

中村のまちが異様な興奮状態からやっと平常に戻った。
中高の甲子園終了とともに。

興奮はセンバツに出場できそうだということで昨年12月ごろから徐々に高まり、1月27日の正式決定で爆発、3月20日の試合で最高潮に達した。

私が地元に戻ってから9年、こんなに市が盛り上がったことはなかった。5年前、テレビドラマ「遅咲きのヒマワリ」のロケと放送があったさい、似たような状況になったが、市民の心が一つになるという点では、今回には遠く及ばない。

40年前の甲子園初出場の時、私は地元にいなかった。間違いなく、その時以来であったのだろうが、今回はその意味合いはだいぶ違うと思う。

前回の時は、中村市であったが、いまは四万十市である。当時も中村の町はだんだんと勢いをなくしてきていた。しかし、準優勝パレードの写真をあらためて見ると、天神橋アーケードなどの商店街には、まだまだ賑わいが残っていた。「おまち中村」としての権威と風格を保っていた。

しかし、いまは残念ながら見る影もない。私自身、「おまち中村」の復活を公約にかかげ苦闘したが、4年間ではどうしようもなかった。

人口減に高齢化、子どもの声が聞こえないという閉塞感の中で、このイライラと不安を何かにぶつけたいという市民共通の思いを、たった16人の野球部員がかなえてくれたのだ。

応援バスは地元55台に加え、名古屋、東京からも。列車、マイカーでも続々。甲子園の周りは幡多勢の渦巻きとなり、5000人収容のアルプススタンド(1塁側)は、幡多弁が沸騰した。

マイカー組の私は地元ではチケットを確保できず、球場でもアルプス席は売り止めのため、内野席に入り、アルプス隣に陣取った。私と同じように、溢れ組が、内外野あちこちで一緒に声を張り上げた。

試合は前橋育英高校に1-5で敗れたが、最終回に1点をとったことだけで大満足。勝者の校歌にあわせて手拍子をとり、みんなニコニコすがすがしい顔であった。選手も監督も同様であった。

こんなに気持ちのいい敗戦はないだろう。
みんな、異口同音に中高ありがとう。

次は夏。県代表になることは、容易ではないことはわかっているが、選手たちは甲子園の土をとらずに、さわやかに去った。

次に甲子園に連れてきてもらう時は、中村の町はどうなっているだろうか。今回示したように、地元の心が一つになれば、新たな展望が見えてくるものと信じている。

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森友問題の本質

 籠池証言の真偽が問題になっている。昭恵夫人が100万円寄付したとか、10万円の講演謝礼を受け取ったとか。

しかし、「私人」である昭恵夫人がいくら寄付しようと、いくら謝礼をもらおうと、法的には問題がないことだ。

これがなぜ問題になっているのかというと、事件発覚当初、安部首相が国会答弁で苦しまぎれに、予防線を張るために、言わなくてもいいのに、カネの授受はなかった、あったのなら首相も議員もやめると、強弁したからだ。

その後、次から次へと新たなことが明らかになり、自民党はメールまで公開せざるをえなくなった。しかし、このことで安倍首相は、また墓穴を掘ったといえる。

メールは頻繁に行われていた。家族同然の付き合いであったことが浮き彫りになったからだ。

昭恵夫人は森友学園の教育理念や方針に共鳴した。幼稚園の講演に頻繁に出かけ、新たに設立する「瑞穂の国小学院」の名誉校長就任も快諾した。

安部首相も共感し、しつけが行き届いた教育だと、国会で発言した。

それは、そうだろう。幼稚園児が運動会で、「安部首相がんばれ」「安保法案よかったね」と激励してくれるのだから。

森友の教育理念は愛国心教育にある。戦前の教育勅語を礼賛し、幼稚園児に唱和させているくらいだ。教育勅語は、国民が天皇の臣民(家臣)であり、戦になれば、天皇のために命を捧げよというものだ。その先に特攻隊員の「天皇陛下万歳」があった。

こうした歴史の反省に立ち、戦後、新しい憲法がつくられ、国民主権の世の中になった。戦争も放棄した。

なにの、いままた戦前の世の中を懐かしみ、愛国心を鼓舞する勢力が着実に勢いを増してきている。憲法改正をめざす日本会議というグループだ。安倍首相は同じ思想、理念の持ち主である。

籠池氏は関西における日本会議幹部であり、安倍首相を信奉している。安倍晋三記念小学校と命名したかったぐらいだ。

森友問題の発覚により、安部首相がこうしたグループと深い関係にあることが世の中に明らかになった。

さらに、夫人のお供が送ったファックスも出てきたことで、いかに安部首相に権力が集中しているかも明らかになった。あんな内容のやりとりが、お供の女性によってできるはずがない。役所の中で「安部夫人マター(案件)」が幅を利かせている証拠であり、典型的な「口利き=政治的関与」である。

それだけ、安部首相は独裁的な権力をもってきているということであり、夫人までが水戸黄門の印籠になっている。マスコミ統制も効いている。これらのことが明らかになったことが、森友問題の本質である。

憲法違反の安保法案にもとづく南スーダンへの自衛隊派遣、その自衛隊の(戦闘状態を告げる)日報の隠蔽、さらに共謀罪・・・こうした今の危険な政治状態が「アベ政治」だ。

「アベ政治を許さない」の声をわれわれ一人一人があげていかないと、このままでは日本は歴史を逆戻りさせるという、とんでもない方向に進んでしまう。

四万十中村

 このほど四万十市主催の観光ボランティア養成講座(4回)が開かれ参加した。

第3、4講座の講師はトレイルブックス代表の仲間浩一氏(自称・風景通訳家、福岡県)であった。観光ガイドの役割、使命、方法などについて、自らの豊富な経験に基づき、スライドを使いながら話をされた。中身の濃い内容で、学ぶところが多かった。

仲間氏は、高知県西部、特に四万十川流域にはこれまでも何度も足を運んでおられるようで、地元の者しか知らないようなこともよく知っていた。また、灯台下暗し、地元の人間が気づかないことを、外からの目で的確に指摘されていた。

その一つが「四万十中村」である。
この表現(キャッチフレーズ)をポスターデザイン案にも載せていた。

これはどういう意味だろう???
私は少し考え、ハッと気づいた。
そして、なるほどと思った。

私は中村に誇りをもっている。

だから、中村市が四万十市に名前を変えたのは、残念至極である。
40年ぶりに甲子園に出場する中村高校は、前回は中村市の中村高校であったが、今回は、四万十市の中村高校となった。

四万十市になっても中村の町は中村であることには変わりはない。駅や郵便局、小中学校と同じように、中村高校も中村のままだ。中村という地名(言葉)は地元に根を張っている。

しかし、外から見れば、中村よりも四万十のほうが、圧倒的に知名度が高いことは認めざるをえない。多くの観光客は、中村のことを四万十と呼ぶ。これがくやしい。

だから、私はそんな人たちと話す時には、意識的に(やや意地になって)「中村」を連発するようにしている。

というのも、行政でいえば、四万十市に隣接して四万十町もできた。(四万十高校もある)どちらも四万十だ。また、高知県中西部の四万十川流域全体も四万十だ。愛媛県だって、観光呼び込みで広見川流域(四万十川支流)を「勝手」に四万十と呼んでいる。

一口に四万十と言っても、具体的にはどこを指すのか、漠然としているのが実態なのだ。そもそも、四万十川はあっても、四万十と言う地名はどこにもないのだから。

いまの中村を正確に言えば、四万十市中村である。
しかし、これでは、堅くて窮屈だ。いかにもお役所的。

残念だが、中村だけでは、いまいち全国に通用しない。
かといって四万十では、朦朧としている。

以前は、よく土佐中村と言われていた。
しかし、歴史を遡れば、土佐と幡多は別だ。
幡多中村が正しい。
しかし、これではますます全国に通用しない。

そこで、四万十中村だ。

四万十中村があるのなら、
四万十下田、四万十江川崎だってある。
それでいい。

眼から鱗とは、このことだろう。


歴史と観光

 「志国高知幕末維新博」について2回書いたので、ついでに6年前にこんなことがあったことも書きとめておきたい。

高知県では、2010年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」放送にあわせて観光キャンペーン「龍馬であい博」をおこなった。

テレビ効果もあって、一定観光客が増えたことから、翌2011年も継続企画として「龍馬ふるさと博」をおこなおうとしたが、ドラマはすでに終わっており、目玉がなかった。そこで、奇抜なことを考えた。

桂浜の龍馬像の隣に、中岡慎太郎、武市半平太の像もつくって「維新志士3人」を並べようというものであった。観光関係の一部の人たちからの提案を受けたもので、追加2人の像は急ごしらえで、キャンペーンが終われば撤去するという。

これについては賛否両論が出た。県外からは「おもしろい」という声が多かったように思うが、県内からは、興味本位はよくない、ふざけているという反対の声も強く出た。

熱烈な龍馬ファンからは、桂浜は龍馬の「聖地」であり許せない、というものもあった。龍馬記念館森健四郎館長(当時)は、高知新聞に強い反対意見を寄せていた。

議論は沸騰した。本音はやりたいが、困った県は、県下市町村長に意見を求めてきた。当時、四万十市長であった私は、以下のような反対意見を書いた。


  桂浜3志士像への意見

 観光とは本来、外の人を迎え、地元の自然や歴史、文化等を知ってもらうことによって、自らも学び、教えられ、自分の価値やアイデンティティーを発見し、誇りと自信をもつことあると思います。そこに人の交流が生まれ、深くて長い付き合いが始まることで、様々な物語がつくられ、地域振興に向けたエネルギーが醸成されるなど、無限の可能性につながっていきます。
 テレビ人気に便乗すること自体は悪くはありません。しかし、テレビは「お芝居」であり、龍馬やその時代の歴史の一側面をクローズアップしたフィクションです。本物の龍馬像は、自ら学び、自らの脳裏に刻みこむものです。そのように考える場を提供するのが、地元の役割、責任であります。
  昨年からの、龍馬をテーマにした県の観光戦略にはそうした視点が弱いように思います。今回の3志士像や駅前にテレビセットを移す企画も、そういう場になっているとは思えません。
 本物を深く追求するというより、一過的な話題やものめずらしさを提供してただ人さえ集めればよい、というふうにしか見えません。
  これによって確かに少しは人が来るでしょうし、来るきっかけにもなるでしょう。しかし、その大部分は二度と来ないでしょう。底の浅さを見透かされ、深い交流が生まれるチャンスをみすみす摘んでしまい、一過性の客を自らつくっているようなものだと思います。
 今回の企画はいかにも県外からの発想です。地元では批判が多い。地元の人間が誇りや自信をもって語れないということは、大きな問題です。郷土愛、地元への熱い思いを冷やし、誇りや自信を萎縮させます。
 地域振興は、じっくり、地道に行なうべきものです。急がば回れ、二兎を追うものは一兎も得ず、といいます。あせりは禁物です。
 本県には、すばらしい歴史と文化があり、人材はそびえる山となっています。山は大きなほどに、眺める角度によって姿を変えます。
 広いすそ野のすみずみを歩いてもらいながら、奥深い谷々にも分け入ってもらうよう誘導するのが、県の観光のあり方だと思います。

 2011年3月11日
 田 中 全

・・・・・・・・・・・・
 
意見をメールで送ったのは、6年前の今日の午前中である。
その日の午後、東北地方で大地震が発生した。

地震によって、県の奇抜案は採否を決める前に、吹っ飛んでしまった。世の中、それどころではなくなったのは、みなさんご記憶のところであろう。

後で、意見集約結果だけ送られてきた。私のような意見は首長の中では、少数意見であった。地震がなければ、県はやりたかったのだと受け取れた。

その表れが、高知駅前の3志士像である。さすが桂浜には、はばかられたのであろうが、地震から4か月後設置された。

これらの像は発砲スチロール製で、サイズは当初案よりも小さくなった。今回の幕末維新博にあわせて、お色直しされたようだ。

3人の「本物」の像は、それぞれ別のところにある。
地元の私としては、高知県民の「軽さ」をさらしているようで、あの前を通るときは、うつむいて歩くようにしている。

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幕末維新博に望むこと

 志国高知幕末維新博が3月4日から始まっており、本市サテライト会場「しまんと特別企画展」については、きのう書いた。

本市企画は、独自の視点といい、展示の工夫といい、本市の歴史を紹介するのに的確であり、自信をもってお勧めできる内容であるが、今回の県下統一観光キャンペーンについての尾﨑知事の発言や、それに引きずられたマスコミ等の報道ぶりを見ると、心配な面がある。

今年と来年が大政奉還、明治維新から150年になるのに合わせて、その時期多くの人材を出した高知県が、その歴史と人物を振り返り、彼らを地元資源として観光PRに活用しようとする県の狙いそれ自体には、異議を唱えるつもりはない。同じ四国でも他3県なら、やろうとしてもできない企画であり、賛同もできる。。

今回の企画の発端は、同日オープンした県立高知城歴史博物館にある。山内家伝来資料を中心に展示されており、私も早めに出かけたいと思っている。

展示の目玉は、初めて公開される、坂本龍馬が京都で暗殺される5日前に書いたとされる書簡(手紙)。この中に「新国家」という言葉が初めて使われている。龍馬が暗殺される直前まで、新国家の建設に強い思いをもっていたことがわかる貴重な資料である。

尾﨑知事もさかんにこの書簡をPRしている。だからであろう、高知県作成の公式ガイドブック表紙には、龍馬像がデンと座り、「よみがえる維新の息吹」とアピールしている。

しかし ???
これでは、また、また、また、龍馬かよ~ とまず思う。

2010年、龍馬であい博(NHK「龍馬伝」)
2011年、龍馬ふるさと博
さらに「リョーマの休日」キャンペーン・・・いまも継続中・・・

企画の狙いは、龍馬だけではないはずである。
こうも書かれている。

「 土佐(高知県)は、歴史ロマンの宝庫である。欧米列強に肩を並べる近代国家となった明治・新国家の成立は、幕末・土佐の偉人たちを抜きには語れない。熱き志を胸に、自然豊かな故郷に安住せず、京や江戸へと旅立った若き志士たち。高知を巡れば、彼らの息吹を感じることができる。 」

たしかに、観光中心の「公式ガイドブック」とは別につくられた、幕末維新の土佐「人物紹介」「探訪図会」は、県下歴史関係資料館等の研究員(学芸員)が最新の知見をふまえて、多彩な人材等を紹介している。

龍馬、慎太郎、半平太などのいわゆる「志士」だけでなく、板垣退助、植木枝盛、中江兆民、幸徳秋水らまで。

なかなかの読みごたえがあり、資料的価値もある。しかし、これらの内容を知事や観光スタッフがどれだけ理解をしているか疑問である。

例えば「新国家」である。
龍馬がめざしたとされる「新国家」はその後どんな国家になったのか?

確かに明治新国家は「列強と肩を並べる近代国家」になったというのは一面事実である。しかし、その中身は、主権は絶対的権力をもつ天皇にあり、国民の権利は制約され、教育勅語により天皇の「臣民」となることが強要された。女性の参政権は認められなかった。

軍国主義の途をひらすら進み、朝鮮・中国等の周辺諸国を侵略、植民地化していき、ついには昭和20年の敗戦を迎えた。その間、周辺諸国を含めておびただしい数の犠牲者を出した。

そんな「新国家」の起点となったのが明治維新である。なぜ、こんなありようの国になったのか。それは明治維新の評価にもつながる。

歴史をテーマにした観光企画をおこなうということは、たんに有名な人物を英雄のように取り上げるのではなく、彼らが果たした役割や限界を知り、かつ彼らがかかわった歴史がその後どうなり、どう今につながっているのかを考えてもらうこと、歴史の大局の流れをしっかりとつかんでもらうことにあると思う。

さらに言えば、高知県人であるわれわれ自身が、自らの歴史を深く知り、考えるきっかけにする問題提起の場にも、しなければならない。

歴史は複眼的に見ること。

「龍馬はえらかった」「明治維新はすばらしかった」だけでは、底が知れてしまう。

キャンペーンの旗振り役であり会長である尾﨑知事には、その辺をよく理解したうえで、発信してもらいたい。

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プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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