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自衛隊の中東派兵

1月11日、海上自衛隊の哨戒機2機が沖縄から中東ソマリア海へ飛び立った。後続の護衛艦も2月に派遣されることになっている。

何のために派遣なのか。日本の石油タンカーの航行安全確保のための情報収集活動が目的だというが、「情報収集」とは具体的には何のことか? 

これは言葉の遊びであることは、関係者はみんなわかっている。本当はアメリカの意を受けた軍事行動であることが。しかし、マスコミはこのことに突っ込まない。

アメリカのトランプ大統領はかねてより、イラン包囲網を築くための有志連合を呼びかけている。しかし、日本は以前からイランとも友好関係を維持していることから、板挟み状態になっている。

そのため、アメリカの意を受けるが、イランにも配慮する必要があることから、イランに接するホルムズ海峡を避け、少し離れたサウジアラビア沖のソマリア海への派兵となったのだ。要は、アメリカへの忖度であり、このことを昨年11月、閣議決定した。

しかし、その後状況は急変した。今年に入り、アメリカはイランの最高司令官をロケット弾で殺害。イランはすぐに報復攻撃した。きょう現在は小康状態であるが、両国は戦争状態に入っている。

アメリカの行動は明らかな先制攻撃であり、国際法に違反している。国連事務総長も批判している。

こんな無法をまかり通している危険な時に、ノコノコト自衛隊が中東に出ていくことは、世界各国から、日本はアメリカに加担をしているとみられることは明らかである。

現に、中東3か国訪問を予定していた安倍首相は、これを見合わせることを発表した。しかし、その後、小康状態になったことで、もとに戻し、予定通り行ってきた。

最初の訪問国はサウジアラビアとし、記者会見で自衛隊派兵への賛成をとりつけたと自慢顔に言っていたが、サウジはアメリカの同盟国であり、以前からイランに敵対している国である。有志連合にも早々に参加を表明している。

そんな仲間内の国に行くのは、自衛隊派兵反対世論を抑えるための日本国内向けパフォーマンスであるからである。

憲法違反の安保法制が施行されたことにより、自衛隊はまさに名実ともに軍隊となり、海外どこでも戦争に参加できるようになった。安倍政権はその実績づくりを着々と進めており、今回の派兵はその重要なステップである。

イラク戦争の時、自衛隊がサマーワに派兵されたが、その時は、実際は戦闘地域ではあったが、「非戦闘地域」だからという説明があった。しかし、今回ソマリア海は非戦闘地域であるかと問われても、答弁をはぐらかしている。

そのうえで、河野太郎防衛大臣は、仮に攻撃があった場合は、大臣の命令で反撃=「海上警備行動」ができるとまで言っている。政府として、今回が戦闘地域への軍隊の第1号だと位置づけているのである。

このような重要な決定が国会審議を経ずに一内閣の一存で決められる。国民の知らないところで、戦争へ参加するということだ。

きのうの報道によれば、アメリカは、駐留米軍への日本の財政的負担(おもいやり予算)の大幅増を要求してきているが、カネの問題だけでなく、軍事をともなう日米防衛負担の見直しも求めている。

すでに日本の自衛隊はアメリカ軍の一部となっており、実質的にアメリカ軍の指揮命令のもとに動いているが、さらにこれを進め、アメリカが海外でおこす戦争への自衛隊の派兵を求めているのである。

今回の自衛隊派兵は、その一環である。

こんな大事なことをマスコミは報道しない。逆に、NHKなどは、政府の方針を容認・促進するようなトーンで、国民世論を危険な方向へ誘導している。

いまこそ戦争反対の声をあげなければならない。

中村喜四郎

私はいま政治家中村喜四郎に注目している。元自民党衆議議員で、宮澤内閣で建設大臣を務めたが、いまは野党の立場に転じ、広田一と同じ無所属に会に所属している。

きっかけは、昨年11月行われた高知県知事選挙において、野党共同候補松本けんじの総決起集会に応援弁士として突然現れたこと。

私は中村喜四郎の名前は、かすかに覚えていた。1994年、ゼネコン汚職事件で逮捕された茨城県の旧田中派現職代議士として、当時大きく報道された。

しかし、25年も前のことであるから、その後すっかりその名前を忘れていた。すでに政界から消えてしまったものと思っていた。ダーティーなイメージを残したまま。

ところが、突然に私の前に現れた。まだ政治家を続けているのかと驚いた。そして、なぜこんな政治家が応援に来るのか、違和感があった。

しかし、決起集会での演説の迫力はすざましいものであった。いまの自民党批判をぶち上げた。いまの自民党は昔の自民党ではない。内部での自由な発言、議論は封じられてしまっている。野党が手を組んで、こんな自民党を倒さなければならないと。鬼気迫る熱弁であった。みんなが圧倒された。

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高知県知事選挙は、危機感を強めた自民党が菅官房長官を送り込むなど、組織を引き締めたこともあり、惜敗をした。しかし、松本けんじが応援のお礼に上京し、野党各党をまわったさい、中村の呼びかけで、各党幹部が集まり、慰労会を開いてくれた。いまや野党結集、反自民のキーマンは中村だというのが、もっぱらの評価になっているようだ。

そんな中、昨年末に、常井健一著「無敗の男 中村喜四郎全告白」(文藝春秋社)という新刊本が出版されたので、すぐにネットで買って、正月をはさんで読んだ。

本の腰巻には「25年の沈黙を破ってついにすべてを語った!」「ゼネコン汚職で逮捕されるが<完全黙秘>をつらぬき、検事をして<男の中の男>と言わしめた伝説の男。ムショ帰り後も当選を続け、今も現役の<選挙の鬼>」と、派手に書かれている。

本の中身は、選挙になぜ強いか、無所属でもなぜ自民党に勝てるのか、地元で鉄壁の後援会がなぜできたのか、ということがメインになっている。両親も国会議員で、父親の名前を襲名したこと、選挙区(茨城7区)の全有権者に隈なく足を運んでいることなど。

与党、野党を問わず、選挙で一番効果があるのは、政策うんぬんではなく、有権者とスキンシップを重なることであることがわかる。地道に足を動かし、汗を流すことである。

中村の生い立ち、家庭の内情、政治家としての立ち位置など、さまざまな角度から人物像をあぶりだしている。

中村は、逮捕から復帰後は無所属を通しているが、自民党会派に入っていた期間もあった。しかし、民主党政権を経て、自民党が政権を奪還して以降は完全無所属を通してきた。安保法案採決では退席、共謀罪法案には反対。いまは岡田克也らの無所属の会に所属。

自民党がおかしくなったのは、野党に力がなくなり、一強体制になったから。自民党に自浄作用がなくなったから。

この国もおかしくなった。国民が政治を避け、あきらめている。投票率も低下を続けている。安倍政権は、国民に政治をあきらめさせることに成功している。

だから、この国を救うには、強い野党をつくらなければならない。そのためには、
野党が結集をしなければならない。

「共産党だからダメとか、応援できないとか、そういう考えを持っていたから自民党の強い時代が今まで続いてしまったんだ。野党が強くなるためには、政策の話よりも選挙で党派を超えて戦うことなんです。野党は戦わないから忘れられる。戦ってなんぼの政党、野党共闘。戦わないから風頼みと言われてバカにされる。」

その通りだと思う。勝たなければ話にならない。
ますます、中村喜四郎に注目したい

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正福寺 宗教活動再開

幸徳家の墓があり、かつて菩提寺であった正福寺(中村山手通)は長らく休眠状態であったが、このほど佐藤嘉辰住職(50歳)が着任し、宗教活動を再開した。

正福寺本堂

正福寺は鎌倉時代の承元元年(1207年)、朝廷の怒りを買い土佐中村へ配流されることになった法然上人を迎えるために地元民が建立。配流先は讃岐に変更になったが、法然は落胆する住民に身代わりの袈裟を贈ってくれた。この袈裟は、いまも市立郷土博物館に所蔵されている。

以後、浄土宗の有力寺院として栄え、幸徳家、木戸家(秋水漢学の師木戸明)など、主に中村の町人たちの菩提寺となった。

しかし、幕末勤皇運動のあおりを受け、明治初年、廃仏毀釈で廃寺に。本尊仏像は大分県佐伯市潮国寺に避難したままとなっている。本堂跡には裁判所が建ち、墓地だけが残された。

明治36年、兵庫県の寺の名籍を移す形で再興。大逆事件後、秋水墓参者は裁判所窓越しにチェックされたという言い伝えが残っている。

戦後には本堂、庫裏も改修されたが、住職が定着しないままであった。このため、檀家が離散し、周辺の寺院に移ったり、幸徳家のように神道(一條神社)に鞍替えした家もある。

佐藤住職は京都市生まれで、京都商業、佛教大学で野球部所属。卒業後、松竹芸能に入り、お笑いタレントを目指したが、病気を機に「改心」。仏門に入り、浄土宗本山知恩院で修業したという異色の経歴をもつ。

須崎市の浄土宗発生寺から派遣されて来たもので、この間、精力的に動いている。今年8月お盆には、秋水墓の前で経を唱えてもらった。

佐藤嘉辰住職

9月には本堂で最初の法話が行われたが、さすが興味をひく、飽きさせない見事な口上であった。

秋水墓のある寺に住職が復活することは歓迎すべきこと。檀家名簿が残されていないということから、幸徳秋水を顕彰する会としても協力し、墓石名から元の檀家をさがしだし、住職を案内したりしている。
 

「秋水通信」27号記事 2019.12.10発行

蘆花公園

11月18日、蘆花公園に足を運んだ。京王線「芦花公園駅」から歩いて15分ほど。前にも2度来ているが、その時は4月、8月だったので、秋の雰囲気にもひたりたくて。

蘆花とは徳富蘆花健次郎のこと。蘆花は明治40年、当時は武蔵野の原生林の中に畑が点在するここ粕谷(いまは世田谷区)に青山から引っ越して来て、恒春園と名付け、晴耕雨読の生活を始めた。その様子は随筆「みみずのたはこと」に書かれている。

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明治43年6月、幸徳秋水らが拘束された。蘆花は事件のなりゆきが気になっていた。翌44年1月18日、秋水ら24人に死刑判決が出る。

蘆花は天皇への助命嘆願文を書き、兄蘇峰→首相桂太郎に届けようとした。しかし、届く前、判決からわずか6日後の1月24日、死刑が執行されてしまった。翌日新聞で知り、まさかこんなに早く、茫然となる。

その日は、蘆花が農家の古家を移築し書斎として棟上げをした日であった。書斎はそんな経緯から秋水書院と名付けた。当時、その名前を公にすることはできなかったので、公然とよばれるようになったのは戦後である。

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悶々としていたところに、一高生が講演を頼みに来たので、即承諾。一高に出向き「謀反論」講演をおこなった。「諸君、謀反を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。」と、秋水らを擁護した。

昭和2年没。その後愛子夫人は家と広大な土地を都に寄付、いま都立公園になっている。秋水書院の中にも入れる。

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私が最初にここを訪ねたのは、公職時代の2011年8月、秋水書院を見たかったから。

園内には蘆花記念館のあり、資料が展示されている。秋水のことも触れられていたので、係りの人と今後交流をしましょうということになり、帰ってから秋水の顔写真を送ると、お返しに秋水書院の写真が届いた。この写真は、いま四万十市立図書館内の秋水資料室に展示してある。ここで求めた天皇直訴文のレプリカとともに。

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今回は時間があったので、公園をぐるり歩いた。蘆花夫妻の墓もある。一部テニスコートになっているが、武蔵野のくぬぎ林がそのまま残っている。

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紅葉のまっさかりで、落ち葉につつまれた雰囲気。その中に藁ぶき屋根の秋水書院と居宅跡。明治時代にタイムスリップしたようだ。

武蔵野はやはり秋が一番いい。

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飛鳥山から古河庭園へ

就職後、東京では4カ所の社宅に住んだ。一番長かったのは、北区中里、通称「田端の高台」の5年間(1984~89年)。すぐ下が崖だった。

高台とは、武蔵野丘陵が途切れる東端のことで、上野の山から王子の飛鳥山まで。崖下を電車の京浜東北線が走っているのでわかる。

11月15日、上京して時間があったので、思い出さがしに、久しぶりにそのあたりを歩いてみた。

山手線大塚駅からチンチン電車の都電荒川線に乗り替え、飛鳥山で降りた。目の前の飛鳥山公園に上がる。

ここには社宅からジョギングをしてきて、公園の中を何周もしたところ。もともと飛鳥山は8代将軍徳川吉宗が桜の名所として開発した有名なところで、当時は桜以外にもツツジを斜面いっぱいに植えていた。5月は満開に咲き、桜のあとも楽しませてくれていた。

しかし、いまはそのツツジはなく、斜面には岩山風に改造されていた。山の頂上にあった展望タワーはなくなっていた。中央広場の噴水はそのままだが、いまの季節は水を止めていた。

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当時はこどもたちがたくさん来ていた。ちょうどバブル経済にうかれているころだったので、にぎやいでいた記憶があるが、その日は平日の午後3時を過ぎ、肌寒くなった時間帯であったせいもあるのだろう、人影もまばらで、さみしい感じがした。公園全体が小さくなったような気もする。人間の記憶なんて、いいかげんなものだ。

渋沢栄一記念館に入ろうと思ったが、改修のため閉館中。残念。公園を出て、高台に沿って南へ歩く。大蔵省印刷局工場(現・独立法人国立印刷局)、平塚神社の大きな銀杏の木も、入り口の団子屋さんも以前のまま。うれしい。

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すぐ古河庭園に着く。都立のせいか、入場料は150円(65歳以上70円)。以前は100円だったが、相変わらず安い。

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シンボルの黒い洋館、前庭のバラ園と下の段の日本庭園。バラはまだちらほら咲いている。モミジには少し早いが、他の紅葉が池のまわりに映えている。和洋折衷の美は、昔と全く同じだ。

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だが、違うものがある。私の中の「古河」という名前へのこだわりだ。

改めて、もらった資料、掲示板で確認をした。この庭園は旧古川財閥の邸宅跡である。明治の元勲陸奥宗光の別宅であったものを古河が譲り受け、3代目古河虎之助が大正3年のころ、周辺土地も買い増しして、贅を尽くし、いまの形にした。

古河と言えば足尾銅山。田中正造が鉱毒被害からの救済を訴え、天皇に直訴。直訴文を書いたのは幸徳秋水だった。しかし、鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、谷中村は消されてしまった。

学生時代、荒畑寒村「谷中村滅亡史」を読んでいたので、そのことは知っていたが、その後、中村に帰り、秋水の顕彰事業にかかわるようになってからは、自分自身の問題になった。天皇直訴文(写し)は四万十市立図書館の秋水資料室に展示している。

戦後、財閥解体により、古河は庭園を手放し、いまは都が管理している。日本を代表する庭園であることは間違いない。私はこれまで見たどの庭園よりもすばらしいと思う。

和洋折衷の庭園様式は日本の近代文化そのものである。それを見事に表現している。

しかし、その見事さは、谷中村の人たちの犠牲、血と涙を搾り取ることによって、つくられた。そのうめき声が聞こえる。日本近代史の一大事件であった。

私の中で葛藤が煮えたぎるこの場所には、これからも何度も来たい。

いまは民間マンションになっている社宅跡を見ていたら、暗くなってきた。去りがたかったので、駒込駅前の居酒屋に入り、30年前の余韻にもう少しひたった。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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