弾道ミサイル お芝居

北朝鮮よりも、日本政府の異常な反応のほうが、ずっと怖しい。

孤立した悪ガキの強がりに便乗して、危機感をあおり、国内矛盾から目をそらせるやり方。一番喜んでいるのは安倍首相であろう。

対外危機をあおることによって、有無を言わせず国論を誘導するやり方は万国共通の歴史である。日露戦争しかり、鬼畜米英の太平洋戦争しかり、最近ではイラク戦争しかり(大量破壊兵器はなかった)である。

北朝鮮の国内矛盾はもう限界に達しているのであろう。ミサイル発射実験を繰り返すのは、第一には、国民の不満を抑え込むための強権誇示であり、第二には、最強国アメリカとの取引によって実質援助をもらうためである、と思う。

仮に、アメリカに向けて本当にミサイルを発射すれば、ただちにアメリカの反撃にあい、たちどころに北朝鮮は崩壊する。そんなことは、金正恩自身が一番よくわかっている。

北朝鮮の子供じみたパフォーマンスは無視すればいい。野良犬の遠吠えだって、放っておけば、そのうち静かになる。反応すれば、相手が図に乗るだけである。

韓国はさすが冷静である。本来ならば、韓国のほうが怖いはずである。しかし、長年の経験から、隣国のやり方を熟知しているので、「またか」と思っている。

今回は、具体的にグアムを標的にすると言い、飛行ルートとして、島根、広島、高知の名前が出たため、これ幸いにと、自衛隊がPAC3(地対空誘導弾)を配備した。

高知県にいたっては、「ミサイル落下時には直ちに、頑丈な建物に避難するか、近くに建物がなければ物陰に身を隠す、地面に伏せて頭部を守るなどの行動をとってください」とする、県民向けの警告を出した。

これに基づき、四万十市では、昼食時間帯に、マイク放送を流している。さながら「空襲警報発令」であり、ぞっとする。

そこまでやるのか。そんなことよりも、確実にやってくる南海地震対策や、無限に被害が広がる原発事故対策(撤去しかない)のほうを、真剣に取り組んでほしい。

それでも「万一の場合」に備えた準備はしておく必要があるという人も多くいるかもしれない。

しかし、重要なのは武力によらない方法で、北朝鮮を封じ込めていくことである。関係諸国の包囲網、それは対話である。韓国はこの路線を堅持している。

しかし、安倍首相は「対話より圧力」と言って、さかんに対立をあおっている。対話への努力などする気はサラサラない。拉致問題への取り組みが一向に進まないのはその表れである。

金正恩と安倍晋三、「危機」がないと困る二人の利害は共通している。裏取引があるのではないかと疑いたくなるほどである。

政府の広報機関に墜したNHKも連日トップニュースであおっている。国の切実な問題である自衛隊日報隠蔽、森友・加計はそっちのけ。

今回の子供じみたお芝居を真顔で演ずる政府首脳部は、たいした役者であるが、私には滑稽な猿芝居に見える。

しかし、これを笑ってすませては、大変なことになる。歴史は繰り返す。明治以降の日本がたどった戦争への道は、このようなやり方でつくられていったのだろう。いま政府の対応を公然と批判しにくい重苦しさを感じる。

きょうは8月15日終戦の日。

旧暦と新暦

きょうからお盆である。

地元実崎では、この1年間に亡くなり初盆を迎える家にはお供え物をもって手をあわせに行く習慣になっている。今年は2人であった。

隣部落の間崎に住んでいた従姉も初盆にあたるため、行こうと思ったが、間崎は旧暦でお盆をしているので、9月4日(初日)に来てほしいと言われた。

そういえば、間崎の伝統行事、大文字の送り火も毎年旧暦の7月16日に合わせてやっている。今年は9月6日(最終日)である。各家のお盆行事も大文字に合わせているので、お坊さんもその日に来るという。

なるほどそういうことかと納得したが、恥ずかしながら、今になって初めて知った。

中村の一條さんも、不破の八幡さんも、以前はすべて旧暦で行っていたが、戦後、新暦に移行してからは、お祭りの日を固定している。かつての伝統行事は、いまはほとんどそうである。

本家、京都の大文字送り火にしても、伝統よりも観光優先で、いまは毎年8月16日に決まっている。

その意味では、中村の大文字送り火はいまでも旧暦でおこない、伝統を守り続けているのは、すばらしいことである。その地元の間崎の各家もそれに従っている。これもさらにすばらしいことであると思う 。

いまのわれわれは新暦カレンダーに縛られている。しかし、それでいて、立春、立夏、立春、立冬などの旧暦を基にした二十四節気は、いまでも生きており、結構耳にする。

そのギャップはわずらわしいようでもあるが、こころに遊びというか、余裕を与えてくれるようで、悪い感じはしない。花鳥風月をめでる日本人のDNAを受け継いでいる証であろう。

わが実崎の同姓の家が集まる田中先祖講も毎年旧暦の10月9日と決まっている。どんな理由によるものかはわからないが、宮崎、乾、山本なども別の旧暦の日に集まっている。

新暦がすべてではない。
何事も画一的、固定観念で見てはいけないように、こころと頭の中に、もう一つのカレンダーをもつことも悪くはないと思う。

台風の恵み

台風5号は無事去った。迷走台風でこの1週間やきもきしたが、雨風ともさほどではなく、大山鳴動して・・・高知県内ではけが人一人も出なかった。学校も夏休み期間中のため、影響がなかった。

私は家の前の畑で野菜をつくっているため、風で倒されることや、水に浸かることを心配していたので、ほっとしている。去年は、だいぶ倒された。

だから、いまは台風が近づくと、厄介なものが来たと思っている。しかし、子どものころは、そうではなかった。

台風が近づくと、わくわくした。まず一番は、学校が休みになるから。台風のコースがそれた時は、がっかりした。

二番は、遊びが増えるから。必ず、風車を作った。竹を割って、ナイフでプロペラを削った。キリで穴をあけ芯棒を差し込む。それを竹筒に入れると出来上がり。

堤防にあがり、風に向ければ風車はブンブン回る。ブルブル握る手に伝わる感触がたまらなかった。

濁流あふれる川も迫力があった。スリル満点で、胸が高鳴った。

台風が去ったあとの川の淵では、チヌがたくさん釣れた。大人は、竹の先にミミズと針をたくさんつけた「ズズグリ」というやり方で、ウナギをたくさん引っ掛けていた。田んぼでは、逃げ場を失った大きな鯉をつかまえた。

台風が近づくと、大人たちは稲の刈り取りを急いだり、川舟が流されないよう岸に縛り付けたり、大変だったろうけれども、そんな大人たちも結構台風を楽しんでいるようにも見えた。上流からは、材木や生活道具などの一部も流れてきた。

ここらでは、昔から台風が来るのも、水に浸かるのも年中行事。1年間を通して川と付き合う中での一部にすぎない。

川の怖さも、ありがたさも、知り尽くしている。危ないところも、逃げ方も知っている。だから、台風で死者が出たという話は聞いたことがない。

こんな川との生活の中で、沈下橋という独特の形がうまれたのだ。

台風が来ると困る。
しかし、まったく来ないというのも寂しい。

第二の人生(2)

「土佐の寅さん」こと間六口(はざま むくち)さんは、四万十市の漫談家であり、いまや市民、いや高知県内では知らない人がいないくらい有名になった。「土佐のお笑い話芸の会」代表である。

六口さんの十八番は、バナナのたたき売り。しなる竹でバチバチ台をたたきながら、絶妙の口上で笑いの渦を巻き起こす。敬老会などでは、おばちゃんたちに大人気、四万十のスターである。

最近では県外にも呼ばれ、先月には石巻市雄勝町でも2時間ライブを行い、震災被災地に笑いで元気を与えてきた。

六口(本名 坂本純一)さんは、いま71歳。こどもの時から、周りを笑わせるのが好きで、学校を出た時、その道に進もうともしたが、親の反対で公務員(労働省職業安定所)になった。

しかし、熱い思いを持ち続けてきた。定年を迎えたのを機に、満を持して本格的にこの道を極めようとチャレンジしたのだ。名前の「間」は市内の生まれたところの地名、「六口」はおしゃべりという意味である。

バナナのたたき売り以外にも、六口さんは、会うたびに、次々にメニューを広げている。

高齢者を元気に、がモットーなので、福祉にかかる勉強、情報収集を欠かさず、また時事ネタもタイムリーに織り込んでいる。公務員時代の六口さんのことは知らないが、おそらくいまのほうが多忙で、生き生きとしているのではないだろうか。見事な第二の人生である。

六口さんと同じような生き方をした先人に伊能忠敬(1745~1818)がいる。

忠敬は、下総国(千葉県)佐原の商家に婿入りし、伊能家を豪商といわれるほどに大きくしたが、50歳で家督を息子に譲り、隠居した。

以後は、江戸に出て、もともとやりたかった星学暦学の勉強を始める。15歳も年下の師について。そして、56歳から死ぬ72歳まで、蝦夷地からスタートし、全国を歩き尽くし、日本地図を完成させた。17年間で3万5千キロ、約4千万歩に及ぶ。

前号で紹介した私の元上司は、忠敬と同郷であり、忠敬の生き方を自分の目標、指針にしてきたそうだ。一生の中で、二度の人生を生きた人として。

間六口さん、伊能忠敬に共通するのは、第一の人生中も、もともとやりたいこと、好きなことを持ち続け、さらにレベルアップをめざす向上心をもっていたこと。

義務では続かない。
好きなことをするのが大前提。
私としても、身につまされる二人である。

間六口 写真



第二の人生

農林中央金庫時代の元上司から、また本が届いた。篠塚勝夫『 二度の人生 ―第三生活の日々― 』(自家本、146ページ)。

昨年6月届いた最初の本は、元上司が古稀(70歳)にあたり、四国巡礼をされた旅日記であり、そのさいわが家にも泊まられたことは、このブログでも書かせてもらった。(「四国遍路」2016.6.7)

今回の本は、62歳で仕事から完全リタイアし、「第二の人生」をスタートさせてから今年72歳を迎えるにあたり、新10年間を「小括」したもの。(まだ続くので「総括」ではない)言わば、第二の人生の中間報告である。

副題が「第三生活の日々」となっているのは、 第一 学び・学習の時代、 第二 職業を通しての社会貢献時代、 に続く時代 と区分していることによるものだが、要は、仕事から完全リタイア後の生活を振り返ったものである。

元上司は仕事に厳しく、論理や理屈建てを大切にされる方だったので、仕事の進め方や書類の書き方等にもうるさかった。自らはガッチリとした文章を書き、私などは厳しく指導をされた。

そんな元上司だから、リタイア後もいろんな場面で文章、記録を書いてきたようで、それらを整理編集したものが今回の本である。

私は仕事を通しての姿しか知らなかったが、これを読むと、以前とは違う人がそこにいる。見事な変身である。

考えれば、仕事に厳しかったということは、自らを厳しく律し、コントロールできたからであろうし、そういう人は、リタイア後もその能力を別の方向にきりかえ、集中できるということであろう。

元上司には、障害をもった子どもさんがいる。リタイア後は、障害者支援、福祉活動に広く深くかかわっておられる。特別支援学級、就労支援など。

また、いま居住の千葉県佐倉市の地域活動にも積極的に参加。高齢化が進む中での地域の助けあいや絆を強める取り組み。いろんな世話役をすすんで引き受けている。さらに、東北震災後は、何度もボランティアとして、現地に出向いている。

もちろん、こうした奉仕的活動だけでなく、畑を耕し、生涯学習教室にも足を運び、自己啓発にも努め、思索や思想を深める。

以前の職場関係との付き合いは抑制するよう心掛けているという。

そうした新しい生活の中での、さらなるステップアップを求めての四国巡礼であったのだ。

なるほど、それではいまの自分は何なのかと思う。
はたして第二の人生なのだろうか。

55歳で早期退職をし、地元に帰ってきてから9年になる。自分が生まれそだったふるさとのために役に立ちたいと、の思いからであった。その思いも、地元に骨を埋める覚悟も、不動である。これは、はっきり言える。

しかし、いま、およびいまから、どのような形で地元のために尽くすかというと、現時点ではっきりとした方向を見出せていない。

幸いにも、地元に帰ってからすぐに念願通りの公務につかせてもらった。行政経験はなかったが、ふるさとへの思いだけは誰によりも強く持っているという自負があり、どんな場面でも、しんどいとか思ったことはなかった。

ふるさとのために走り回れるなんて、こんな幸せなことはない。やりがいがあり、充実した時間だった。

しかし、その時間は4年間で突然止まってしまった。思いだけでは通用しない、総合的な力量が不足していたことは認めざるをえないが、その総括は、まだ自分の中では終わっていない。不完全燃焼で、煙がくすぶったままである。

以前の仕事に区切りをつけ、ふるさとに帰ってきたという意味では、いまは第二の人生なのだろう。しかし、このまま人生のゴールを迎えるという意味での納得できる生活スタイルは、まだ持ち合わせていない。

くすぶったままの煙を再点火させるか、違った火種をさがすのか、腹固めには、いましばらく時間がかかりそうだ。

目的は同じだが、次のステップに向け、飛び方や飛ぶ方向を定めなければならない。それは第三の人生と言ってもいいのかもしれない。

そんなことから、なんとも悩ましい元上司の本である。

 20170731114413c25.jpg


プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR