大水と中村

今回の豪雨により、岡山県真備町で大きな犠牲者を出した背景には、地域として川の怖さを知らなかった、過去に大きな被害を受けた経験がなかった、ということがあったと思う。

その点、中村は過去から何度も被害を受けており、川の怖さを知り尽くしている。
今回、中村周辺の四万十川流域では人的被害を出さずにすんだ。

高知県全体では3人の死者(大月町2、香南市1)が出たが、それでも今回の雨が降り始めてからの累積降雨量は高知県が一番多かったのに、広島、岡山、愛媛などに比べるとはるかに犠牲者が少なかった。

高知県は台風の常襲地帯であり、大雨は毎度のこと。県民のだれもが、危険なポイント、逃げ方など、大水対策を心得ている。

四万十川は暴れ川。
中村の町は、その氾濫により、過去から何度も水に浸かっている。年中行事のように。中村の歴史は水害の歴史と言ってもいいくらいだ。

明治44年、昭和3年の写真を見てほしい。町がすっぽり水没している。今回の真備町と同じだ。

 DSCN0355.jpg   DSCN0392.jpg   DSCN0390.jpg

昭和4年、四万十川は国の直轄河川に指定され、治水事業が始まる。いま、中村の町は堤防に囲まれているが、この堤防はその年からつくられ始めた。

過去最大の浸水は昭和10年8月。堤防はほとんどできていなかった。航空写真が残っている。町は湖に中の小島のようだ。水位は、赤鉄橋の橋げたを越えた。しかし、この時、死者はゼロであった。

 DSCN0391.jpg   DSCN0394.jpg

中村の町の家々は、当時もいまもほとんどが二階建て。いざ、水が出たさいに上に逃げるためだ。

また、周囲の山など少しでも高いところを逃げ場として、みんな知っている。ああ、危ないなと思ったら、ただちに逃げることが身についている。

また、四万十川には川漁師など舟をもっている者が多いので、すぐに舟で救出に向かう。

昭和29年、11町村の合併で中村市が誕生し、新しい市役所を建てることになった。天神山を切り取って建てることになった。

山の頂上には天神社(お宮さん)があった。氏子たちは、天神山を市に提供する条件として、昭和10年の出水の水位よりも高い位置に立てるこを申し入れた。

それがいまの四万十市役所の位地である。それだけ、みんな水を恐れていたというととだ。

昭和38年8月の9号台風も大きかった。この時私は小学5年だったので、はっきり覚えている。堤防が切れるかもしれないということで、夜ろくに眠れなかった。翌朝、対岸古津賀の堤防が切れていた。この台風では死者が1人出た。

最近では、平成17年(2005)8月の出水。私がいま住んでいる家にも、庭先まで水が来た。当時は父が一人で住んでいたが、畳を上げ、荷物を2階に移したが、ことなきをえた。

そんなこんな経験から、市内では台風等で水が出るさいは、いちはやく消防団員が堤防の見回りに出るシステムになっている。

四万十市は、大水対策においては、全国で一番の体制ができていると思う。

真備町

岡山県倉敷市真備町が豪雨浸水で大変なことになった。

最初に報道された時、久しぶりに聞く、なつかしい名前だが、あそこには大きな川はないはずなだから、たいした被害には、ならないだろうと思った。

真備町は、私が岡山転勤時代(1989~92)、仕事でよく車で通ったところだ。岡山市から井原市方面に出かける際に。

真備と言う名前は、奈良時代8世紀に活躍した学者・政治家の吉備真備(きびのまきび)に由来する名前ときいた。生誕記念碑が建っていた。

また、作家の横溝正史が戦中疎開をしており、「八ツ墓村」など、岡山を舞台にした推理小説が多いのは、そのためだとも。

岡山県は、昔からほとんど自然災害のないところで、真備町もおだやかな平野の中にあった。当時は、倉敷市と合併前で、独立した吉備郡真備町であった。

ところが、テレビの映像を見て驚いた。町全体が水没していた。小田川が決壊したという。

そういえば、井原に向かう道に沿って小さな川が流れていた。あの川か。しかし、あんな川から、大量の水が流れ込むとは、信じられなかった。

それだけ大量の雨が流域に降ったということだが、それ以外にも理由があることがわかり、納得した。

小田川は真備町で一級河川高梁川と合流しているのだ。普段の雨なら、本流にあたる高梁川に注ぎ込む。

しかし、高梁川上流でも大量の雨が降ったため、本流の水位が先に上がったため、小田川からの流れは合流点でせき止められてしまい逆流(バックウオーター現象と言うらしい)。行き場を失った水は、一気に溢れ、堤防を決壊させたのだ。

川の合流点は怖い。四万十川でも被害が出る警戒ポイントは合流点だ。愛媛県から流れてくる広見川、目黒川の合流点にあたる西土佐江川崎、津野川はいつも危険水位になる。

また、私の家の前で合流する中筋川。この川は高低差が少ないため水はけが悪く、以前は、不破の前で合流し、中村や具同をいつも水没させていた。

この川の水はけをよくするためには、合流点をもっと下流に下げなければならない。そのため、坂本~山路間に、本流の中に堤防(背割り堤)をつくり分水、さらに甲ヶ峯の山を削り、山路川につなげた。

この工事は昭和12年に始まり、延々昭和39年まで続いた。その工事のもようは、私の記憶にもある。

川の合流点の怖さを改めて示したのが、今回の真備町だ。

3年前、茨城県常総市で利根川支流の鬼怒川が氾濫し、中心部がすっぽり水没した。しかし、その際は、一人の死者も出なかった。水位が低かったため、2階に逃げたりしたからだ。

だから、外に逃げるとかえって危ない。家にいて救助を待つ、そのほうが安全とされてきた。

今回、NHKの中継でも、当初、家に留まるようさかんに呼びかけていた。

しかし、それは間違いだった。家にとどまったことにより、平屋建ての住人や、2階があっても上がれない高齢者などが、相当数水死した。過去の経験があだになったということだ。(かといって、外に逃げる手段もなかったのだが。)

毎年、この季節繰り返される豪雨災害。

地震、大雨・・・日本は災害列島であることを常に忘れてはならない。

いのちの仕舞い

映画「四万十 いのちの仕舞い」(溝渕雅幸監督)をみた。

四万十市(中村)で診療所を営む小笠原望医師の医療活動をもようを紹介するドキュメンタリーで、昨年市内で全国先行上映され、その後2月にも上映されたが、他の予定とぶつかり、見逃していた。

そんな中、7月7日、四万十町(窪川)で自主上映会があったので、でかけた。小笠原先生の舞台挨拶もあるということもあってか、大雨の中であったが、たくさんの人が集まっていた。

小笠原先生は地元では誰もが知る人気医師である。「人気」というのは、当然ながら丁寧で親身のある診療から絶大な信頼を得ているという意味がメインであるが、それだけでなく、話(講演)がうまい、時にはギターでうたう(高校のころ<私の1年上>から作詞作曲をしていた)、泣かせ笑わす、川柳の会を主宰、エッセイも書く(朝日新聞販促冊子に9年間連載中)という、マルチタレント並の活動をされているからだ。

そんな超多忙な体にもかかわらず、四万十市民病院が医師不足で困っていた時には、短期間ではあったが、応援してもらったこともある。

私の両親もかかりつけ医として大変お世話になった。(最期は病院、施設で送った)

そんなことから、私は他の多くの人よりは、医師小笠原望については、知っているつもりである。

映画の中ではどう描かれていたのか。

監督スタッフは往診に同行。患者に向き合う姿を追う。やさしく声をかける先生。カメラが密着する。

一番多く登場した患者は、私の近所でよく知っているおばさんだったので、身につまされた。先生を信頼し、自宅で家族に見守られ、満足そうな「いのちの仕舞い」だった。

施設で「仕舞い」を迎えた患者も紹介された。家族の涙。

先生が患者と向き合うシーンの合間合間に、四万十川の四季折々の風景が描き出される。菜の花、桜、アユ漁、シラスウナギ漁、ホタル舟。

うちの川はこんなに美しかったのか。
普段の川とは違う川がスクリーンにある。

患者の姿と四万十川。

小笠原医師の言葉が紹介される。
「人のいのちも自然の中のもの」

映画の主役は二人いる。
小笠原医師と四万十川

どちらを欠いても、この映画は成立しない。

小笠原先生のように訪問診療を行なう医師は少なくなったとはいえ、全国にまだ多くいるだろう。都会には、訪問診療だけを専門に行っている医師もいると聞く。

医療だけをテーマにした映画なら、どこでだってつくれる。
むしろそうのほうが医療問題の核心を突くことができるかもしれない。

しかし、この映画は四万十川でしかつくれなかったのだろう。
少なくとも、溝渕監督にとっては。

それは、四万十川が「最後の清流」として有名になったから。多くの人(特に都会の人)に、美しいイメージをもたれているから。

映画のタイトルは「四万十」。

語りでは「四万十川」と「四万十」が使い分けられていた。前者は川の名前、後者はこの周辺地域の地名として。

しかし、ここらには四万十という地名(固有名詞)は存在しない。ここに住む者のだれも、四万十というという言葉を発することはない。

使うのは、例えば、中村であり、窪川である。これが地に根を張った名前、馴染んだ名前、生活そのものである。

四万十とは、県外の人など、よその人が使う言葉。

四万十市のことを指す場合、四万十町のことを指す場合、また漠然と四万十川流域全体(本支流)を指す場合、いろいろある。しかし、はっきりした定義は誰もできない。霞のように、朦朧としている。綿毛のように、ふわふわ飛んでいる。

映画では、肌触りのある地名は出てこなかった。(四万十市=旧中村市という字幕はあったが・・・)

小笠原医師はいつもと同じ先生なのに。
ここはどこなのだろう。

きっとメルヘンなのだ。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-252.html

 201807131037262d3.jpg   20180713103727f05.jpg



 

オウム裁判と大逆事件

7月6日、オウム真理教事件の死刑囚7人の死刑が執行された。

1980年代末から90年代半ばにかけて、世間を驚愕させた事件(坂本堤弁護士一家殺害、松本サリン、地下鉄サリンなど)であり、犠牲者は死者29人、負傷者6千人超にのぼるというから、いずれ死刑執行があるものと思っていたが、いざその日を迎えると、動揺をおぼえた。突然のことであったから。

最初に思ったのは、なぜこのタイミングなのか、ということ。政局などを踏まえた高度な政治的判断があったものと考えられ、いろいろ勘ぐられているが、ここでは深入りしない。

次に思ったのは、大逆事件のこと。同事件では幸徳秋水ら12人が同時(管野須賀子だけは翌日)に処刑された。

今回、上川法務大臣は記者会見で、7人同時処刑は最近ではなかったことと言っていた。おそらく大逆事件以来のことではないかと思う。

そこで、私が強く思ったのは、改めて、大逆事件がいかにひどい裁判であったかということ。

まず、二つの事件を比較すると、逮捕から死刑執行に至るまでの経過、手続きが大きく異なっている。

オウム事件から。

主犯の麻原彰晃(松本智津夫)が上九一色村で逮捕されたのは1995(平成7)年6月。ただちに起訴され、一審、二審を経て、最高裁で死刑確定したのが06年9月。この間、11年3カ月かかっている。

今回処刑された者など他の被告らも合わせると、189人が起訴され、2011年12月までに、13人死刑、5人無期懲役が確定。

事件はこれで事実上終結したが、その後も一部逃亡者などの逮捕、出頭、その裁判などがあり、これらの追加裁判が終結(再審請求などを除く)したのが今年2018年1月。

そして、7月6日、死刑囚13人のうち6人の刑が執行された。

主犯とされる麻原彰晃でいえば、逮捕されてから、死刑執行まで23年1カ月の期間を要している。(死刑確定からは11年10カ月)

一方、大逆事件(別名幸徳事件ともいわれる)

「首魁」とされた幸徳秋水が「天皇暗殺謀議」を理由に、湯河原温泉で逮捕されたのは1910年(明治43)6月。

刑法73条(大逆罪)で起訴され、いきなり大審院(いまの最高裁)で公判が始まったのが同年12月。

翌年1月18日死刑判決(確定)。死刑24人、有期刑2人。(ただし、12人は翌日「恩赦」で無期懲役に)

1月24日、秋水ら11人、翌25日、管野須賀子死刑執行。

秋水逮捕から死刑判決まで、8カ月。
判決から秋水死刑執行まではわずか、6日。

23年1カ月と 8カ月の差。
11年10カ月と 6日の差。

さらに、大逆事件裁判は大審院の一審だけ(大逆罪規定による)、非公開(根拠なし)であった。経過と形式だけをみても、大逆事件裁判の異常さが表れている。

さらに、裁判の中身はひどいものであった。

オウム事件では、複雑怪奇な事件の背景、犯罪経過の解明が綿密に行われたものと思う。だから、これだけの時間を要した。事実関係について、(被告側弁護士は別にして)各方面からの有力な反論や疑問が出たとは聞いていない。

さらに、死刑確定後も、世論の動向(納得感)等、もろもろの状況等を勘案。死刑囚とはいえ一人の人間である。人権は最大限保障されなければならない。そうした、もろもろの配慮があったからこそ、刑の執行までに時間を要したのであろう。

一方、大逆事件では、そんな配慮は微塵もなかった。最初から結論ありきであった。

国家にとって都合が悪い人間は抹殺しなければならない。天皇暗殺、皇太子暗殺、決死の士を募る、等の事件のシナリオを検察がつくりあげた。

誰も人を殺していない。その行為も行なっていないので、未遂でもない。あえてこじつければ、計画・相談。

裁かれたのは「行為」ではなく、彼らの「思想」であった。

当時、秋水は世界的にも名前が知られていたので、裁判に対して、海外からの批判が寄せられ、その波はごうごうと高まっていた。

だから、死刑執行を急いだ。

今回、死刑執行の場所(拘置所)は、東京3人、大阪2人、広島1人、福岡1人に分かれた。

報道によれば、一つの拘置所で死刑執行できるのは、一日3人まで。理由は、教戒師面会等、最期の時間を与える手続きがあるからだという。これも人権への配慮であろう。

大逆事件の処刑の場は、12人全員東京監獄。同じ日に(管野須賀子だけ翌日)絞首台へ送った。

大逆事件は国家犯罪であった。

日本は事件の同年、韓国を併合。
以後、戦争への道を突き進み、昭和20年8月15日の敗戦を迎えた。

「平成」は来年で終わる。(今回の死刑執行の理由の一つと報道されている。)

秋水らは処刑も明治43年(1911)であり、やはり翌年、明治が終わった。

私は元号に反対であるが、次の元号の時代がかつてのような戦争の時代の再来にならないことを願う。

川谷銀太郎

前回書いたように、慶應4年2月発生した堺事件では、フランス水兵への発砲・殺傷の責任を取らされた土佐藩兵20名が切腹を命じられた。しかし、切腹は11名で中止となった。

残った9名は土佐に戻され、改めて渡川以西への流罪とされた。9名の名前は、妙国寺慰霊碑の側面に刻まれていた。橋詰愛平から川谷銀太郎まで。

 20180629182444769.jpg   20180627152234065.jpg

渡川(四万十川)以西への流罪は、土佐藩の刑罰の一つとされていたもので、当時、高知の城下から幡多がいかに僻遠の地とみられていたかがわかる。

同年5月、9人は、中村の川向うの入田(にゅうた)に送られた。

入田では庄屋の宇賀祐之進が受け入れ、見正寺に預けた。9名は、村人たちに学問や武術を教えるなどして、交流をはかった。

まもなく、明治改元の恩赦があり、11月には無罪放免となり、それぞれ地元の高知市周辺に戻ったので、入田にいたのはわずか半年ばかり。

しかし、戻ったのは8名であった。川谷銀太郎がこの間没している。病死と記録されているが、原因は諸説あり、確定はされていない。

ただ、はっきりしていることは、地元の相撲大会に出たことが、原因の一つらしいこと。

8月15日、恒例の宮相撲が隣村具同の八社宮境内で行われた。川を挟んで中村側との対抗戦であった。

入田側の形勢が悪くなったことから、銀太郎が助っ人として土俵にあがった。
銀太郎は筋骨隆々であったという。次々に、相手を負かしてしまう。

形勢が悪くなった中村側には、「大阪関脇」、蕨岡の巨漢駒が岳がいた。さすがの銀太郎もプロの力士にはかなわない。駒が岳は、銀太郎をかんぬきにして、締め付け、振り回した。

真実、この場面がどうであったのかはわからない。はやり病にかかったという説もある。しかし、このケガ(傷)が原因であったことは間違いないようである。銀太郎は9月5日死ぬ。26歳。

銀太郎は香美郡山北村の出であった。知らせを受けた母が遠路かけつけるが、直前息を引き取った。

妙国寺の切腹では永らえた命をあっけなく落としてしまう。

入田の村人たちは、銀太郎をあわれんで、墓を建てた。母は涙ながらに、形見の刀をかついで帰ったという。

 20180629182441b90.jpg

地元では、以後、没50年、100年供養と、今日にいたるまで墓を大切に祭っている。

そして、今年8月5日には、150年供養を行うことになっている。

新ロイヤルホテル四万十で行われる前夜祭には、堺で事件犠牲者の顕彰活動に取り組んでくれている人たち十数人を迎え、紙芝居をしてもらうなど、交流をはることになっている。

また、当日も、墓前供養に続き、入田桜堤公園に会場を移して、野本亮・高知県歴史民俗資料館学芸課長による講演も行われる。

ぜひ、おいでください。

なお、四万十市では、いま幕末維新博において、幕末維新~明治に活躍した地元の先人14人(幸徳秋水、樋口真吉、安岡良亮ら)の事績を公民館に紹介展示しているが、この中に、地元に縁がある人物として、川谷銀太郎も入れている。これもごらんいただきたい。

 20180629183048a69.jpg

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR