俳人 黛まどかさん(2)

昭和三十七生まれのまどかさんは、短大を出て都市銀行に勤務していたが、杉田久女の俳句に出会ったことがきっかけでこの道に入った。

東京きもの女王に選ばれるほどであったことから、「美人女流俳人」として話題をさらっていた。雑誌、テレビなどでさかん露出していたことから、俳句はやらない私でも、その名前と顔はよく知っていた。

ちょうど同年の俵万智さんが短歌の世界で注目を浴びた時期と重なる。二人で女流ブームをつくっていた。

まどかさんは、その頃、角川俳句奨励賞を受賞しているくらいだから、俳句の実力も評価されていたのだろうが、俳句のわからない私は彼女が詠んだ句の一つも知らないまま、どうせ美人だからチヤホヤされるのだろうくらいにしか思っていなかった。

そんな彼女との距離が縮まったのは、私が地元に帰ってきてから。秋水顕彰会の方々と接する中で、彼女も会員であることを知らされた。私はへえ~と思った。

聞くと、彼女は神奈川県湯河原生まれで、おじいさんは秋水が最後に逮捕された時管野須賀子と逗留していた天野屋旅館の番頭をしていた。おじいさんから、幼いころから秋水の話を聞いていた。だから秋水に対して親近感をもっているらしいというのだ。

彼女が顕彰会に入会したのは二〇〇〇年。その年の夏、中村に来たのがきっかけだ。目的は、地方新聞十二社連合企画「黛まどか日本恋めぐり」。テーマは「同志の恋 幸徳秋水と管野須賀子」で、その調査と取材のためであった。

同年八月二十四日付高知新聞には、まどかさんの文章と秋水絶筆碑前、四万十川河口に立つ写真が載っている。

 この時あちこちを案内したのは当時の顕彰会会長森岡邦廣さんであった。まどかさんは、この時二つの句を残している。あとの句は秋水墓で詠んだもの。

 夏怒涛真向にしていごっそう
 ほうたるの高きに舞つて星となる

その年の十二月、森岡会長が奔走した結果、中村市議会は「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で行った。森岡さんを動かした力の一つには、まどかさんの来訪があったのではないかと私は思っている。

そんなまどかさから直接いろんな話を聞いてみたいと思い、市教育員会に要望を出し、昨年九月、市民大学講師においでいただいたのだ。

まどかさんは秘書の坂口さんと二人で見えられた。その日は台風の影響で飛行機が飛ぶか不安だったので、朝一番で新幹線を乗り継いで来てくれたと聞き感激した。

演題は「言葉の力、余白の力」。俳句は世界で一番小さな文学で、日本の文化そのもの。体操の床運動と同じように、型(枠)があるから美しい。季節感、小さな生き物への鑑賞力、日本語ほど名詞が多くて表現が多様な国はない。ていねいに、わかりやすく、余韻を残して語ってくれた。

まどかさんはご自分の巡礼については触れなかったが、松尾芭蕉の句をさかんに紹介された。芭蕉の名句の多くは奥の細道などの旅の中で生まれている。旅を住家とした芭蕉のように、まどかさんにとって巡礼は「吟行」なのだと思った。

懇親会で秋水のことを聞いたところ、おじいさんが天野屋におられたのは、秋水が逮捕されてからあとのことだそうだ。その天野屋は最近廃業し、跡地はレジャー施設になっていると嘆いていた。秋水は湯河原の門川駅で逮捕されたのだが、地元では海岸の砂浜で逮捕されたのだという話も伝わっているそうだ。

まどかさんは翌朝、ロイヤルホテル裏にある秋水墓に参り、「十六年ぶりにお参りをさせていただきました。戦わずして平和な社会を私たちの世代で実現させなくてはいけないと、あらためて思います」と記帳をされた。

私は講演会でまどかさんの新刊本『ふくしま賛歌―日本の「宝」を訪ねて』(新日本出版社)を求めた。震災直後から県内各地を歩き、地元新聞に連載した俳句紀行をまとめたものであった。福島は芭蕉が奥の細道で歩いた地であり、飯館村とは前から俳句を通して縁があった。

原発事故に対しては、「効率を優先して本来の意味を失い、手間を惜しみ対価を払って人任せで生きる都会の生活。それを効率的或いは豊かな暮らしと呼ぶのなら、私たちは引き換えに真に「生きる」ということを放棄してしまっていることになる。」と断言している。

この人はただの俳人ではない。いや、すぐれた俳人だからこそ、社会をえぐり本質をみている。

四国遍路でどんな句集ができるのか楽しみである。(終)



  大方文学学級発行「大形」300号記念号 2017年11月10日

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俳人 黛まどかさん (1)

今年の四月下旬、俳人黛まどかさんの秘書で東京にいる坂口郁子さんから私の携帯にかかってきた。

いま、まどかさんは四国遍路を歩いており、そちらに近づいているが、黒潮町入野付近にかかる五月三日は泊まる宿がなく困っている、ついては黒潮町でなくてもいいから、中村周辺で宿を探してもらえないかという依頼であった。
 
まどかさんは、私が属している「幸徳秋水を顕彰する会」会員であり、そうした縁から、昨年九月、四万十市民大学の講師としてお迎えした。

講演後、来年春には念願の四国巡礼に出かけたいと思っており、日程が決まれば連絡をくれると言われていた。だから、もうそろそろだなと思っていたところだった。

私は中村のほうにはホテルや民宿がたくさんあるので、なんとかなるでしょうと簡単に依頼を引き受けた。

しかし、宿はなかなか見つからなかった。知っている限りの先に電話をしたがどこも満室。それもそのはず、五月三日といえばゴールデンウイークの真最中、しかも中村では土佐一條公家行列があり、今年は地元出身歌手の三山ひろしが馬に乗るというし、入野浜ではTシャツアート展の人気イベントはだしマラソンが行われることになっていた。

私は判断が甘かったことを痛感。こうなれば、せっかくの機会なので、わが家でご接待をさせてもらおうと思っていたところ、市内後川にいい宿が見つかった。

そこは普通の民宿とは違い、おしゃれな家の一部を一日一組限定で提供しているお宅だった。営業というよりも趣味の延長のようなもので、あまり宣伝はせず紹介客をメインにしているとのこと。

私はご夫婦とは面識があったが、そんなことをされているとは知らなかった。しかも、たまたまその日は空けておられるということであった。まどかさんは、幸運な人だなと思った。

いよいよ五月三日になった。私は短歌、俳句、川柳には興味はもっている。しかし、なかなか本格的に始める度胸ときっかけがなく、いまだに無粋な人間を通している。

そこで、宮川昭男、尾﨑清、大林文鳥という地元俳界の達人たちにお声をかけた。この三人は秋水顕彰会会員でもあり、昨年市民大学のあとの懇親会にも同席し、まどかさんとはすでにお友達になっている方々である。

午後三時頃、みんなで鞭の道の駅ビオス大方で待っていると、国道の向こうからリュックサックを背中に担いだまどかさんの姿が見えてきた。お供の和田始子さんと二人で。

今年のゴールデンウイークは天気が悪く、その時間帯も雨が降っており、二人ともビニール合羽を着ていた。

二人は道の駅隣観光センターのテーブルにリュックをよっこらしょとおろし、雨に濡れた顔をふくと、やれやれというような笑顔であった。

まどかさんは四月五日、徳島の一番札所霊山寺をスタート。最初は仲間数人と歩いていたが、途中から和田さんと二人きりになった。高知県に入る手前では、足が腫れて病院に行ったそうだが、それでも歩き続け窪川の三十七番岩本寺に着いた。

そこで、どうしてもはずせない仕事があって一週間ほど東京に戻っていたが、五月二日から再開し、最初は伊与喜に泊まったという。

みんなで八か月ぶりの再会を喜び合い、しばし談笑。リュックをもたせてもらうとズシリと重い。これをこんな細い女性が担ぐとはと驚いたが、「女は余計なビン物(化粧品)があるので重いのですよ」とケロリと言われた。

それもそのはず、まどかさんの健脚ぶりは世界で試され済みである。まどかさんは、一九九九年、キリスト教聖地サンチアゴ巡礼を行い、フランスからピレネー山脈を越えスペインまで踏破している。二〇〇一~〇二年には、韓国釜山~ソウルも歩いているのだ。(四国巡礼はこれらより距離が長い)

その日はもう少し距離を稼ぎたいというので、入野浜を突き切った下田の口で再度合流することにした。アドバイス通り、Tシャツアート展を覗いてくれた。

下田の口から後川の宿まで車で送り、翌朝また迎えに行った。佐田沈下橋がすぐそこなので寄っていきませんかとすすめてみたが、少しでも早く歩きたいというので、そのまま引き返した。宿は心づくしの料理も出て、大満足だったそうだ。私は安堵した。

ほかのお遍路さんにも聞いたことがある。観光が目的ではないのでとにかく歩きたい、歩くことが喜びであると。やはりそうかと納得した。

五月四日も雨。下田の口の上林暁生墓碑掲示板前から二人を見送った。その日の宿は下ノ加江。

まどかさんは別れた三日後には、同行の和田さんが名古屋に戻った(予定通り)ことから、それ以降は単独での旅となったが、その後も順調に旅を続け、今日時点(五月二十九日)では香川県のゴール近くを歩いているようである。このまま結願を果たすことは間違いないだろう。

私はまどかさんの遍路姿を見て、また昨年と今年接する中で、この人は本物だなと確信した。それまでまどかさんに抱いていたイメージを払拭した。そして思った。まどかさんは大変な美人である。だから損をしているなと。(続く)


  大方文学学級発行「大形」300号記念号 2017年11月10日

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幸徳秋水と幕末維新先人史跡めぐり  

11月12日、幸徳秋水を顕彰する会では「幸徳秋水と幕末維新先人史跡めぐり」を行った。 

昨年は秋水だけを対象にしたが、今年は「志国高知幕末維新博」開催に合わせ、秋水につながる中村の先人たちも加えた。市広報でも募集、高知新聞記事にもなり、38名の参加があった。

最初に公民館から市役所マイクロバスで羽生山墓地へ。登り口からは町を見下ろしながら歩いて上へ。高齢者もいるので心配したが、みんな元気。

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江戸の元禄2年、中村藩は将軍綱吉の命で改易になる。以降の中村は、町人中心の町となった。一條家の学問を受け継ぎ土佐伝来の南学をミックスした「一條南学」の祖、町人出身学者遠近鶴鳴、その教えを受けた樋口真吉や、初代熊本県令安岡良亮の先祖(祖父隼太、父良輝)らの墓へ。神風連の乱で斬られた良亮の墓は熊本にある。

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また、商人として幕末をたくましく生き、多くのとんち話を残し、いまでは中村名物お菓子として有名な泰作さん(中平泰作)、自由党活動家から大逆事件当時中村町5代目町長になった二代目藤倉忠吉墓も。

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山を下りたあとは、秋水生家跡から秋水漢学の師木戸明邸(遊焉義塾)へ。木戸家現当主秀雄氏(明ひ孫)から庭に入れてもらい、当時の塾の模様などを資料に基づき詳しい説明を受けた。塾では漢学だけでなく、西洋訳書も教えていた。隣が安岡良亮邸跡。

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為松公園では秋水絶筆碑を説明。ほかに木戸明、樋口真吉、藤倉忠吉の各顕彰碑も。樋口については、山入口の生家跡(現駐車場)も。郷土資料館(お城)はリニューアル工事中(来年3月オープン)のため入れなかった。

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正福寺墓地では、秋水をはじめ幸徳家一族墓、坂本清馬墓、木戸明一族墓をそれぞれ説明。毎年1月24日秋水墓前祭への参加も呼びかけた。最後は図書館秋水資料室へ。

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秋水は商家の出(俵屋)。樋口真吉、安岡良亮は下級武士(郷士)だが、遠近鶴鳴(宇和屋)の教えを受けている。また、木戸明(吸田屋)、藤倉忠吉(堺屋)も商家の出。

江戸期の中村を支えた町民文化の流れの中に、秋水を位置付けることができるのではないか。武家文化の宿毛との違い。そんな視点を考えさせられた。

参加者から顕彰会入会申し込みもあり、また天気にも恵まれ、充実した一日であった。

幸徳幸衛の家族たち

前号で書いた画家幸徳幸衛の生涯については、幸衛母方(木村家)の従弟木村林吉が書いた『眼のない自画像』(2001年、美術の図書三好企画刊)に詳しい。

私は木村著を読んで以降、幸衛がアメリカに残した家族がその後どうなったのかずっと気になっていた。

幸衛は大正10年、31歳の時、ロサンゼルスで高橋松子と結婚。松子は日系二世で英語がしゃべれるので重宝がられ、早川雪舟が手掛けていた米国映画の脇役などに出ていた女優であった。すぐに明子、光が生まれ、ささやかな幸福をつかんでいた。パリへ送られてきた、幸衛の身を心配する松子の愛情あふれる手紙が何通も遺品の中に残されている。

しかし、幸衛はパリで旅券を二度も紛失し、アメリカへ帰ることがかなわないまま一人シベリア経由日本へ帰る。どんな思いだったのか。朝鮮からは特高警察の尾行がついた。

木村はアメリカに捨てられた形となった家族のその後のことは触れていない。幸衛の縁者で幸衛遺品を所蔵しており、このほど県立美術館に寄贈した田中和夫氏によれば、木村は幸衛家族の消息までは調べなかったようであり、田中氏自身も知らないという。

私は今回の展示を機に、その消息を知りたいと思った。各方面に問い合わせた結果、現在ロス在住の光の息子Russellタカシヤマザキ(64歳)にたどりつくことができた。タカシは日本語が話せないので、少し話せる妻(日系)から電話できかせてもらった話は以下のようなものであった。

夫が日本に帰ってしまったMartha松子は、やむなくヤマザキと再婚。新たに男の子も1人できた。しかし、日米開戦により一家は敵国人としてアリゾナキャンプ(収容所)に入れられた。さらに45歳のころ夫が交通事故死。50歳の時、3度目の結婚をカワムラとした。晩年も明るく、よくしゃべり、孫タカシの結婚式ではダンスも踊った。1997年、97歳で没。

その3年前には、ロサンゼルスタイムズのインタビューで「私の最初の結婚は見合い(arranged)であったが、うまくいかなかった(less than satisfactory)」と語っている。

Robert光はアリゾナキャンプから米国陸軍情報部(MIS)へ入り、戦後まもなく東京へ。部隊ははっきりしないが、通訳や翻訳の仕事をしていたというからGHQではないだろうか。

東京に13年いる間に結婚、二人の子(ミツノ、タカシ)が生まれた。帰国後は政府関連のエンジニアの仕事をしていた。2007年没。墓はロスの軍人墓地にある。

光の姉Dolores明子はロスで暮らしていたが、夫ヤマシタをガンで失ってからは、次のパートナーとハワイへ。長い間リューマチを患い、最後は車イス。2000年没後はハワイ大学に献体、1年後海に散骨された。娘一人がロスにいる。

妻子三人の中で光だけが中村の父の墓を訪ねている。最初は東京からひそかに。二度目は1980年、ロスから家族で。光は自分らを捨てた父に対してどんな思いだったのだろうか。中村在住の田中和夫氏等の縁者には接触しなかったようで、秋水顕彰会の記録にも残っていない。

しかし、このほど高知市在住であった幸徳富治娘池三春(2010年没)の家族に聞くと、三春は生前アメリカのヤマザキと交流があり、チョコレートなどが送られてきたことがあったという。また、東京在住の秋水姉寅(牧子)の孫今井君代(1985年没)の家族からも同じ話を聞いた。ヤマザキとは光のことだろう。きっかけは1980年来日のころではないかと思われるが、詳しい経緯はわからない。

今回調査中、“KotokuYukie” http://www.72note.com/yukie/yukie.html なるWebsiteを見つけた。松子の姉の孫RickTagawa(ニューヨーク在住)が制作したもので、戦後の松子、光、明子などの写真がアップされている。ぜひアクセスされたい。

 今回一番驚いたのは光が米軍に入隊していたこと。かつて秋水は将来の日米戦を予想したが、まさか自分の身内が米軍に入るとは思っていなかっただろう。歴史のいたずらか。

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   幸衛と松子       Robert光       木村林吉著


画家幸徳幸衛の凄み

幸徳幸衛の絵画がいま県立美術館コレクション展「高知の洋画」の中で展示されているので見てきた。

幸衛は幸徳秋水の甥(兄の子)。明治38年15歳の時、秋水に連れられアメリカに渡った。秋水はすぐに帰国したが、幸衛は絵の勉強がしたいと残る。

しかし、まもなく秋水は大逆事件で刑死。身内としてアメリカでも迫害を受ける中、結婚、子も2人できたが、単身パリに修行に出た後、昭和4年一人でシベリア経由27年ぶりに中村に帰る。

地元でも風景画などを描き続けたが、昭和8年43歳で病没。アメリカに残した家族には会えないままであった。

中村の縁者が所蔵していた幸衛遺品をこのほど県立美術館に寄贈。その中の絵画、スケッチブック、スーツケースなどが展示されている。

幸衛は秋水刑死後、号を「死影」とした。展示の中の代表作、パリで描いた「眼のない自画像」は、社会から白眼視され、踏みつけられた人間の崩された顔であり、鬼気迫るものがある。

単なる絵画展ではない。大逆事件は秋水一族の人生をも歪めてしまったという、暗黒社会の襞(ひだ)に触れるような凄みがあった。


  高知新聞「声ひろば」投稿
   2017.11.10

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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