北海道高知県人会

 6月9日、北海道高知県人会に6年ぶりに出席してきた。

私は農林中央金庫時代の1997年から2年間、札幌に転勤した。ちょうど20年前になる。その時、高知県人会に入り、交流を深めた。

そのころ、本市古津賀出身の東功さんが北海道新聞の編集長をされており、大変お世話になった。東さんは、すぐに社長になられたが、その後病気で急逝されたのが惜しまれる。

明治の開拓では、多くの高知県人が北海道に渡っている。代表的なのが、坂本龍馬の甥坂本直寛がリーダーであった北光社。明治30年、いまの北見地方に入植している。直寛の孫が画家坂本直行で、今では北海道を代表するお菓子六花亭の包装紙に直寛が描いた野の草花の絵が使われていることは有名。

初代北海道庁長官(知事)は宿毛の人、岩村通俊である。そんなこともあって、北見市と高知市、訓子府町と津野町、滝上町と越知町、浦臼町と本山町、積丹町と香美市、江別市と土佐市などが、それぞれ友好都市交流をしている。

わが四万十市も中村市時代から、友好都市枚方市(大阪府)を介して、オホーツクに面した別海町とトライアングルで交流をしている。

道内には、高知県人会がいくつもあり、札幌、旭川、北見、滝上などで連合会をつくっている。それらが年1回、一堂に会して交流会を開いている。最近は、よさこいソーラン開催時期にあわせて。

私は四万十市長時代、招待を受けて公務としても一度出席した。その時は、大学同期の高橋はるみ北海道知事を訪ね、誘ったら一緒に出席してくれたことを思い出す。はるみさんは、今も現職で4期目というから驚く。

市長を引いてからも毎年案内状をもらっているので、それならば、ついでに思い出探しを兼ねて、道内をまわってこようと思い、妻、パグ犬伝次郎と一緒に出掛けることにした。

毎年、高知県からも多く参加するが、今年は高知県松尾産業振興部長(知事代理)、浜田県会議長、今西本山市長、池田津野町長が参加していた。いずれも旧知のみなさんだ。

 20170626210552dc8.jpg    201706262104220c3.jpg

道内からも、長屋滝上町長とともに、曽根別海町長が参加されていた。6年前は、水沼町長にお声をかけ、初めて参加していただいたが、水沼さんは昨年在職中に亡くなられたので、今回曽根町長とお会いするのは初めてであった。がっちり握手をさせていただいた。

別海町からは、お付き合いを続けている元役場職員の佐藤良幸さんも今回お誘いしたら、参加してくださり、感激であった。

旧大方町馬荷出身で札幌在住の川村澄雄さんにも久しぶりにお会いできた。土佐町出身の医師で、四万十市民病院にも常勤で勤務してくださり、いまもなお毎月、本市民間病院においでくださっている矢野昭起先生ご夫妻も参加されていた。参加者は総勢102人と久しぶりに3桁台に達したと、事務局もよろこんでいた。

 ところで、私は札幌時代、中央区宮の森の社宅に住んでおり、すぐ近くに円山公園があった。その周りをよくジョギングした。あるとき、公園内の木立の中に銅像を発見した。岩村通俊像であった。

今回、なつかしいので、その銅像にまた会いに行った。木立は緑の林になっていた。改めて、裏の銘盤を見ると、岩村の経歴紹介の末尾に、「北海道百年を迎えるにあたり、その功績を永く後代に伝えるため、これを建立する。昭和42年10月 北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 会長廣瀬経一」と刻まれていた。

 201706262105599ce.jpg    20170626210429e0c.jpg

今回、これと同趣旨の銅像はほかにあるのかネットで調べたところ、ほかに3つあった。黒田清隆、ホーレスケプロン、永山武四郎。いずれも北海道開拓に名を遺した人だ。

黒田とケプロンの像は、大通り西10丁目の大通公園内に並んで建っているという。ああ、あの像か。私が地下鉄西11丁目駅で降りて、西4丁目の職場まで通勤するさい、いつも往復通ったところだ。広場の真ん中の目立つところに、2像デンと並んで建っていた。今回、また訪ねてそれを確認した。やはりいい場所だ。

永山の像は、旭川の常磐公園にあるという。見たことはないが、公園は街中にあり、入口の目立つところに建っているという。

そこで、私は今回考えた。4像の場所はどうして決めたのだろうかと。永山(薩摩人)については、本人が街づくりを指揮した旭川に建てられたという理由はわかった。しかし、あとの3像は?

黒田、ケプロン像は札幌の中心、大通公園に立ち、周りに遮るものは何もない。それに比べて、岩村像は、小高い円山の下の公園の中、しかも入口のような目立つところではなく、公園の端のほうの林の中にある。公園内を歩く人も、よほど周りをキョロキョロしないと気づかない。2カ所の違いは、写真のとおりである。

 20170626210419e59.jpg    20170626210418820.jpg

岩村像は、50年前に建てられたころは、公園内の木もそう伸びていなかったのかもしれない。また、いまは緑豊かな季節なので、像は木陰に隠れているが、落葉した季節には、いまよりは見やすいだろう。

しかし、いずれにせよ、目立つ場所という意味では、2カ所の差は歴然としており、不公平である。岩村と同じ高知県人としては、不満を感ずる。

3人の功績に差があったのか。黒田は永山と同じ薩摩の人で、岩村の次、2代目の北海道庁長官である。普通なら、初代長官のほうが前面に出るだろう。

しかし、黒田はのちに総理大臣にもなっている。また、ケプロンは黒田が招へいしたアメリカ人。これなのか。つまり、2人をセットで建てるには、広い大通公園のほうがいい。そのワリを食ったのが岩村ということなのだろうか。

今回ネットで調べたところ、岩村の像は戦前にもあり、昭和11年、大通り西11丁目に建てられたが、同18年、戦時金属供出の犠牲になっている。黒田、永山像も同時に供出されたとあるが、戦前、建立されていた場所は書かれていない。

つまり、昭和42年、開道百年記念に岩村像が再建されたさい、場所は昔あった大通りから円山公園に変えられたのだ。

そこで、提案したい。岩村像を、札幌駅に近い、旧赤レンガ道庁の庭、できれば玄関横のスペースに移したらどうか。岩村は初代道庁長官なのだから、それぐらいの場所を与えても当然ではないだろうか。

今年はちょうど開道150年。これについては、ぜひ北海道高知県人会が先頭に立って、要望活動に取り組んでいただきたいと思う。

僭越ながら、今回、久しぶりに岩村通俊像を見て、強くそう思った次第。

なお、岩村像は、旭川の常磐公園内にも、もう1基あるようだ。昭和26年建立されたもので、こちらのほうが古いが、私が言いたいのは、昭和46年、開道百年にあわせてつくられた4基の場所の不公平について、である。

追悼 久保知章さん

獣医師で元三原村長の久保知章さんが6月16日、食道がんで亡くなった。78歳。

私が久保さんに初めてお会いしたのは2009年、地元にUターンして市長選挙に出るための挨拶まわりをしていた頃である。山に囲まれた小さな村(当時人口約1600)の村長のイメージとは違い、柔和で、ちょっと垢抜けした品の良さを感じた、ことを覚えている。あとで、獣医さんだと聞かされた。

私はその年の5月に市長になったが、久保さんは同年12月、再選をめざした選挙に破れたので、首長同士として重なるのはわずか半年ばかりであった。だから、隣村とはいえ、公務上では特に印象に残る接点もなかった。

久保さんは昭和13年、三原村生まれ、8人兄弟の一番上。宿毛高校から大阪府立大学農学部獣医学科に進まれた。卒業後は明治乳業に入社、釧路工場専属獣医師として北海道の酪農家を助ける仕事をされた。いま四万十市と友好交流している別海町での仕事が一番印象に残っていると、よく言われていた。

その後、高知県に帰り、三原に隣接する大月町役場の獣医となった。その頃は、大月町にも多くの牛、馬、豚がいたのだ。しかし、大動物の管理指導は県行政に移行する流れの中で、中村東町に小動物を対象にした動物病院(中村動物病院)を開業した。

久保さんはふるさとへの思いが強い人だった。中村で仕事をしながらも、いつも三原村のことが気にかかっていた。実家とは、いつも行き来していた。

そうした中、ふるさとの状況を憂い、2005年、村長選挙に立候補、見事思いを遂げた。しかし、村政運営では大変苦労をされた。熱意や理屈だけでは通用しないのが地方の行政。副村長選任の同意が3年間得られないなど、議会にはいじめぬかれた。私も同様の経験をしただけに、久保さんの無念さがよくわかる。

しかし、中村動物病院に戻ってからも、いつも笑顔を絶やさなかった。他の動物病院が土日休みでは困るだろうと、土日を優先して開いた。私の家の先代パグ犬「まる」もお世話になった。飼い主の気持ちになって考えてくれる、赤ひげのような獣医さんだった。動物にやさしい人は、人間にもやさしくなれる。

カラオケ大会では、自慢ののどを披露されるお姿をたびたび見かけた。それでも私は、久保さんとは、公務が忙しかったこともあり、あまり個人的に接することはなかった。

お付き合いが深くなったのは、私も久保さん同様、1期4年で市長選挙に破れて時間ができ、幸徳秋水を顕彰する会に本格的にかかわるようになってから。久保さんは同会の副会長であった。

久保さんは謙虚で、あまり強引なものの言い方をされない方である。ニコニコして、周りに気配りされながら、ゆっくりしゃべられる。しかし、そばにいると、その人柄と見識の深さが伝わる。芯の強さと、頑固さも。

久保さんの話を聞いて、その生き方の原点は60年安保だと思った。大学時代、その運動に参加された。日本の平和、民主主義を守るために、また秋水がめざした自由、平等、博愛が実現する社会を目指すために、なにをしなければならないか久保さんはわかっていた。いろんな集会や講演会などには、かならず久保さんの顔があった。

2年前、幸徳秋水を顕彰する会会長に推された時、そんな大役は自分にはふさわしくないと、さかんに固辞されたが、論客と個性派ぞろいの会のまとめ役として、久保さんが適任であることはみんなの一致するところだった。実際、この2年間で会は大きく前進した。

久保さんが体調不良を口にされたのは、1年ほど前。食道にがんが見つかった、それもかなり進行していると。しかし、ニコニコしながらそんなことを言うので、にわかには信じられなかった。実際、それからもいつもどおり会には出席され、顔色もよいので、真剣にがん治療をされているとは思えなかった。

だいぶあとからわかったことだが、手術もできない箇所で、しかも適当な薬や治療法がなく、半ば自然に任せるしかないということだったようだ。だから、入院もせず、最後まで自宅ですごした。

迷惑をかけられないというご本の意向で、秋水顕彰会会長は、任期2年で、この5月の総会で引いていただいた。当然ながら、総会には出席できなかった。私が最後にご自宅でお会いしたのは、亡くなる1カ月半ほど前。最終段階は、ご家族だけですごされた。

亡くなられたあとご家族から聞かされたのは、がんが発見された時、医者から余命1年と宣告されたが、1年9カ月もってくれたので、よかったという言葉。そんなこととは知らなかった。久保さんはそんな深刻な状態であるにもかかわらず、われわれに心配かけまいとしたのだ。そして、きわめて平静に、笑顔を絶やさずに過ごされた。だから、われわれは、ついそれに甘え、いろんな問題を相談したりしたことを、いま反省している。

久保さんの精神力、意志の強さには感服させられる。やさしいからこそ、強くなれる。獣医師であるため、ご自分の寿命というものを冷静にうけとめることができたこともあるだろう。

息子さん2人も獣医になりながら、県外で開業しているので、この病院は自分の代で終わりだと照れ笑いしながら言われていたが、本当は満足した笑いであった。

告別式でご長男が挨拶をされていた。久保さんは望み通り獣医になり、ふるさとのためにもチャレンジするなど、自分の意志通り、好きなことをしてきたのだから、本人は満足だろうし、少し早かったけれど、家族もこれでよかったのだと納得しています、と。

誠実に、真面目に、真剣に生きた人。それが久保さんであった。

私も多くのことを教えていただきました。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。

 2017062515161452a.jpg
 幸徳秋水墓前祭 2016.1.24

青年団と太陽館

  太陽館は興行師だった澤田雅男さんが大正15年(1916)、中村で最初の常設映画館としてつくったもの。同じ年、四万十川橋(赤鉄橋)もできた。中村のまちが近代化され、賑わいが絶頂にあったころのシンボルであった。

雅男さんの息子が寛さんだった。寛さんは予科練に入ったが、松山航空隊に配属されていた20歳の時、敗戦となった。最後は特攻要員だったという。

中村に帰った寛さんは父の仕事を手伝うかたわら、青年団運動に没頭した。リーダー格の兼松林檎郎らとともに中村町連合青年団をつくった。

昭和21年12月、南海地震が発生。死者約300人、中村のまちは壊滅状態になった。支援物資の運搬、配給など、青年団は震災復興の先頭に立った。

青年団は被災した子どもたちの面倒もみた。150人ほどのこどもを一條神社に集めていたが、その後土地も確保し、バラック建ての急場の保育所をつくった。中村町青年団立愛育園と命名した。いまの市立愛育園の前身、場所も同じ。

青年団は、自分たちが学ぶ学校もつくった。幡多郡連合青年団立幡多高等公民学院。学校法人としての認可もえた。いまの中村病院の場所だ。

愛育園も幡多高等公民学院も青年団の自主運営だった。行政から一部補助はあったものの、青年団にはカネがない。その資金をどうつくるかが大きな課題であった。

そこで、太陽館が登場する。澤田寛さんの提案で、幡多郡各所で映画の移動上映会を開くことになった。

太陽館のフィルム、機械を持ち出して、各市町村の青年団がもちまわりで学校や広場で上映。各地とも大入りだった。

その代表が戦後最初の総天然色洋画、グレゴリーペック主演の「小鹿物語」であった。

戦後間もないころの 廃墟と混乱の中、青年団が果たした役割はめざましいものがあった。その活動を支えたのが太陽館であった。

以上のことは、1998年に発行された「青春の軌跡 ― 幡多郡連合青年団活動の記録」(同編集委員会)の中で、寛さんが書いているし、回顧座談会でも語っている。

太陽館は単なる興行だけの映画館ではない。中村に根差し、中村の文化をつくり、新しい時代を切り開いてきた。

寛さんは、太陽館を閉館した8年後の2013年、87歳で亡くなった。いまその建物が解体中である。残念でならない。

 19366306_1613765141991176_910974421093398602_n.jpg

太陽館ありがとう

東京オリンピックが開かれたのは昭和39年、私が小学校6年生の時だった。

その記録映画ができたということで、学校全体だったか同学年だけであったか忘れたが、貸し切りバス乗って、太陽館に見に行ったことがある。

その日は授業はないし、バスにも乗れるということで、みんなおおはしゃぎ。しかし、中村のまちに着き、太陽館に入る時はみんな緊張顔だった。

太陽館はおまち中村の賑わいのシンボルだった。田舎のこどもにとっては、中村はそれだけ敷居が高かったし、太陽館はあこがれの的であった。

当時、中村には映画館が四つあったが、子どもにとって一番なじみ深かったのは、怪獣映画もやっていた東宝系の太陽館で、「キングコング対ゴジラ」「モスラ」は強烈だった。

太陽館は黒木和雄監督、中島丈博脚本の映画「祭りの準備」のロケに使われたこともある

太陽館は最後まで踏ん張っていたが、2005年に閉館した。しかし、建物はそのまま残り、栄町の飲み屋街の一角で威厳を漂わせていた。その建物がいま解体中である。

思えば2005年は中村市がなくなった年でもある。太陽館と中村市は運命共同体であったということだ。

ありがとう太陽館、さようなら中村市


高知新聞「声ひろば」投稿
2017.6.19

20170619110745566.jpg


太陽館 解体

中村最後の映画館だった太陽館の建物が解体工事中である。

太陽館の開業は大正15年(1926)。同じ年に四万十川橋(赤鉄橋)もできた。太陽館は中村近代化の象徴であり、文化の殿堂であり、おまち中村の賑わいのシンボルであった。

私の記憶に一番残っているのは昭和39年東京オリンピックの記録映画を八束小学校の授業の一環として貸し切りバスで見に行ったこと。6年生だった。その日は、学校はないし、バスには乗れるし、映画も見れる、ということで、みんなでワイワイ騒ぎならが、しかし、入館する時は少し緊張していたのを覚えている。

  DSCN0033.jpg

当時中村には映画館が四つあった。東宝系の太陽館、東映系の末広、日活系の中劇、洋画系の北劇だ。この中で、私に一番なじみがあったのが太陽館である。「キングコング対ゴジラ」の怪獣映画を見たことも強烈に覚えている。

11月の一條さん(一條神社大祭)の時には、中村のまちは人であふれていた。神社にお参りをすませた後の楽しみは、相撲大会、サーカスを見るか、映画を見るか、だった。

そのころ、太陽館売店では椎の実を鍋で炒って売っていた。1袋10円とか20円で。みんな椎の殻を歯でパリッと割って食べながら、映画を見ていた。パリッ、パリッという音と、足下に捨てた殻を靴で踏むバリッという音が館内中響いていた。

太陽館には2階席もあり、両脇には座敷席もあった。1,2階合わせて800席もあったときく。それでも入り切れずに、立ち見の人も多く、入れ替え時の席の取り合いがすごかった。こどもにとっては、必死だった。

そんなに賑わっていた太陽館も段々と入る人が少なくなってきた。私も地元を離れてからは縁遠くなってしまった。しかし、それでも帰省したさい、前を通るといつも派手な看板が上がっていた。また、まちのあちこちに経営者澤田寛さん独特の字体の看板が建ち、それが中村のまちには欠かせない風景となっていた。

他の3館が閉館になっても、太陽館だけはずっとふんばっていた。最後のころは、毎日開けることはできなくとも、話題作だけ上映するとかして、高知県西部において唯一の映画の灯を守り続けていた。

しかし、澤田さんが高齢になり後継者がいなかったこともあり、ついに2005年以降は銀幕が上がることはなかった。同じ年に中村市もなくなり、四万十市になった。中村と太陽館は運命共同体であった。

太陽館には、中村市民みんなの思い出が詰まっている。それぞれの記憶の中に刻み込まれている。

私は、市長時代、太陽館の建物を保存し、おまち中村の再生のシンボルになるような施設として活用できないかと考え、ご家族に打診をしたことがある。しかし、すでに体調をこわされていた澤田さんとは、詰めた話にはならなかった。

私が市長をやめたあと、その年2013年に澤田さんは87歳で亡くなった。

私はその後も太陽館の前を通るたびに、この建物はどうなるのだろうかと心配をしていた。入口には看板、ポスターがずっとそのまま残り、郷愁を漂わせていた。

そんな中、先月5月23日、たまたま前を通りかかったところ、解体の準備がされていた。驚いた私は、建物の中に入り、写真を撮らせてもらった。ごらんの通り、過去の栄光は残骸となっていた、屋根の一部には穴が空いていた。

  201706052140323ff.jpg    20170605214028173.jpg

市役所最上7階の議会フロアーの窓からは、赤く錆びた太陽館の屋根を見下ろすことができる。解体には重機が入れないので約1カ月かかるという。

 20170605214039b4d.jpg    20170605214015745.jpg

いつかはと思っていたが、突然消えてしまう。
なんとかならなかったのかという思いは強い。
ありがとうというには、まだ心の整理がつかない。

土地は天神社所有。跡地利用は未定と聞いているが、できれば中村の文化の伝統を受け継ぐような活用をしてほしいと思う。行政も積極的にかかわってほしい。
 
 2017060521403564b.jpg
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR