「日露戦役」 と 「集団的自衛権」

実家の墓は近くにあるが、何かないと行かないもので、この彼岸に出かけた。
八束実崎では、集落の墓が四万十川を見下ろす山の上にまとまっている。地元では「上の山」と呼んでいる。

山の一番下の段にお堂と広場がある。お墓の特等席といえるところだ。そこには、戦没者の墓20基が並んでいる。その中でも、ひときわ大きな墓が4基ある。日露戦争での戦死者である。1基は私の家の親戚。

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なぜ、日露戦争の墓が大きいのだろうか。
それは、江戸時代までは国といえば藩のことであったし、国民という概念はなかった。日露戦争は、明治維新を経て、日本がはじめて統一した「国家」「国民」としてたたかった戦争だったからだ。
当時の大国ロシアに小国日本が挑むという構図だった。司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」で「国家存亡の戦い」と書いている。
だから、この戦争への従軍者に対しては手厚い対応がなされた。
軍人恩給などである。

特に、戦死者に対しては、遺族に対して多額の恩給が出たのに加え、墓も大きなものがつくられた。実崎では、この4基の墓石があまりにも大きいため、地区民総出で山に上げるのが大変だったと聞いている。
 
私の祖父も陸軍の一兵卒として、この戦争に従軍をした。乃木希典大将指揮下、旅順総攻撃において、ロシアの機関銃を浴び、左腕を負傷し、傷病兵となった。しかし、何とか生きて復員し、従軍年金と傷病年金の二つをもらった。

祖父の「従軍記章」が家に残っている。従軍顕彰の胸にかかげる記念メダルだ。その名前は「明治三十七八年従軍記章」となっており、「日露」の文字はない。

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明治以降、昭和20年まで、日本は多くの戦争をしてきている。その戦争の名称は、「日露戦争」「満州事変」など、いろいろ呼ばれているが、それはあくまで世上使われている「通称」であり、日本国家が正式に使った、いわば「公認の名称」は、この「従軍記章」にしるされた名称といえるのではないだろうか。
ちなみに、明治以降、主な戦争の「従軍記章」における名称は以下の通り。

台湾出兵 - 明治七年従軍記章
日清戦争 - 明治二十七八年従軍記章
北清事変 - 明治三十三年従軍記章
日露戦争 - 明治三十七八年従軍記章
第一次世界大戦 - 大正三四年従軍記章
満州事変・上海事変 ― 昭和六年乃至九年事変従軍記章
ノモンハン事件 - 国境事変従軍記章
支那事変 ― 支那事変従軍記章
大東亜戦争 - 大東亜戦争従軍記章

日本はなんと多くの戦争をしてきたのだろう。その中でも、昭和20年の敗戦(それ以前を一般に「戦前」という)までの、国の方向を決めたのが日露戦争であった。

戦争の通称はいろいろ。「出兵」「事変」「大戦」「事件」など。これらが、どう違うのかの定義はない。時の政府が都合いいように使い分けてきたのだろうが、政府公認の「戦争」として「従軍記章」にしるされているのは「大東亜戦争」だけである。(この戦争は、ほかに「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」などとも呼ばれている)

ちなみに、八束実崎の墓地にある、日露戦争戦死者の4基の墓には「日露戦役」と刻まれていた。

戦後日本は平和憲法のおかげで、どんな戦争にも参加をしていない。イラク・サマーワに自衛隊が派遣をされたが、「戦闘」には参加できない縛りになっていた。

しかし、いままた新しい名称の戦争がつくりだされようとしている。
「集団的自衛権」という名の戦争が。
もうこれ以上、日本人戦死者の墓を増やしてはいけない。

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美濃と近江

妻の両親の彼岸の墓参りに、美濃の国へ行って来た。
大阪に2泊して。

妻の父は4年前、母は今年1月、他界した。
父は、いまの岐阜県関ケ原町今須の生まれ。
若いころから、ずっと大阪に出てきていたが、家の長男だったこともあり、いまは母と一緒に、ここの菩提寺(曹洞宗妙応寺)に眠っている。
この5月に納骨をしたばかりであるが、最初の彼岸でもあり、出かけた。

今須には、これまでも何度も出かけているが、いつ行っても興味深いところだ。
元は今須村だが、いまは関ヶ原町に編入をされている。
関ヶ原といえば、伊吹山(1377m)の麓、天下分け目の古戦場で有名であり、小早川秀秋の松尾山をはじめ、各武将が陣取った山々に囲まれている。

今須はその西の端、つまり美濃の国のどんづまり、近江(滋賀県)との国境にあたる。旧中山道の宿場町で、京都からいえば、数えて11番目、美濃の玄関口にあたる。いまなら、大阪から名神高速で約2時間だ。

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いまでは、名神高速のほか、国道21号、JR東海道線、新幹線が並行して走っており、騒がしいと言えば騒がしいが、旧中山道の古い道やその雰囲気をかもしだす家並も断片的に残っている。

名所、旧跡もたくさんあるが、その代表が「寝物語の里」。
私は以前にも訪ねたことがあるが、今回、久しぶりに寄ってみた。
旧中山道を流れる、小さな溝ひとつをはさんで、美濃と近江の国に分かれており、家も隣接しているので、寝ながらにして隣の国の話を聞ける。中世の頃から、京の文人をはじめ数寄者の世界では有名だったとか。多くの古い書物にもでてくるという。
源義経を追ってきた静御前が隣の宿(隣国)の声を聞いて、家来(江田源蔵)に会えたという言い伝えが、記念碑には書かれている。
また、俳人芭蕉もここを訪ねて来て、句をひとつ残している。

正月も美濃と近江の閏月(うるうづき)

最近では、司馬遼太郎が「街道をゆく」(第24巻、近江散歩、奈良散歩)の冒頭で紹介をしている。司馬が取材に訪れたのは昭和59年。

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古い石の標柱が国をはさんで2本立っている。
旧跡寝物語 美濃国不破郡今須村
近江美濃両国境寝物語 近江国長久寺村

ここは、車一台が通れるくらいの狭い道で、家もそう多くはなく静閑で、古道の雰囲気をいまに残している。
県や国の境界は、全国どこにでもあるのだろうが、ここが歴史的な旧跡として残っているのも、うなづける。

今回は、少し時間があったので、関ヶ原の不破の関跡も訪ねてみた。こちらは、はじめて。車が生き交う国道21号沿いにあった。入口の門はぎょうぎょうしいくらい大きかった。ここは、日本の古代、律令時代、鈴鹿の関(伊勢)、愛発(あらち)の関(越前)と並んで天下三関と言われた。
 資料館もあるが、あいにく3連休あとの休館日であったので、今度来た時に中を見学することにした。

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筒井泉吉

いまは彼岸。
きょう、筒井泉吉没後80周年記念行事が、市内百笑にある墓地(墓前祭)と文化センター会議室(記念講演)で行なわれた。

戦前の言論・出版等の自由がない時代、反戦・平和・自由を訴えたことにより、時の政府により逮捕され、処刑された人物として、地元では幸徳秋水がいる。
幸徳秋水は、誰もが知っている存在であり、地元には「幸徳秋水を顕彰する会」があり、毎年1月の命日(処刑日)には、墓前祭が行なわれている。
私も毎年参加をしている。

中村には、もう一人、同じように犠牲になった人物がいる。
筒井泉吉である。

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筒井泉吉は、1914(大正3)年、安芸郡生まれであるが、3歳の時、家族で中村に移る。中村高等小学校を出てからは、電力会社やバス会社の労働者として、プロレタリア作家同盟幡多支部結成し、機関誌を発行するなどして、反戦・平和活動をおこなっていた。

1933(昭和8)年7月、特高警察による全県一斉検挙によって高知市で逮捕された。同じころ、東京では小林多喜二も逮捕されている。
警察での取り調べは厳しく、苛烈な拷問を受け、家族が面会に出向いた時には、すでに死亡していた。警察医の診断は「心臓かっけ」。
同年9月19日のことである。わずか、満19歳であった。

幸徳秋水は、形だけの暗黒裁判とはいえ、一応裁判にかけられ、判決を受けての処刑であった。しかし、筒井泉吉は、裁判にすらかけられず、警察の取り調べの中で、虐殺をされた。死因は、突然の病気として片づけられた。

筒井泉吉の名は、その後も埋もれたままである。
その名を知る市民は、ほとんどいない。

ここ中村には、幸徳秋水だけでなく、その志の高さゆえに、時の権力の犠牲になった人物がもう一人いることを忘れてはならないだろう。

伊豆田峠

四万十市と土佐清水市の境界にあたる伊豆田峠は、今のトンネルができてからは峠の面影すらなくなってしまったが、かつては運転手泣かせの難所であった。

先日、葛篭山(つづらやま、標高417m)に約40年ぶりに登ってみた。頂上まで車で登ることができるが、その道は、トンネルの津蔵渕側手前右から旧道に入る。しばらく登ると旧トンネルにぶつかり、行き止まる。旧トンネルの入り口は土でふさがれており、いまでは木や草が生い茂っているが、かすかに残る道の黄色いセンターラインが突然消えているので、以前の姿を想像することはできる。

いまのトンネル(中村側)     旧トンネル跡(中村側)、入口が埋められている。

その行き止まりの手前の右側に、今度は急に狭くなった道がある。舗装ははげ、石がゴロゴロころがり、車がやっと登れるほどのまさに山道だ。これが旧々道だ。この道をしばらく登ると、葛篭山に登る道と分岐をするので、あとはまっすぐ進めば、頂上に着く。

一方、旧々道は分岐を右折して、そのまま進めば峠を越えて、下り坂となり、清水側の麓の市野々でいまの国道につながっている。
この旧々道はいまでは草が茂り、山の斜面が一部崩れたりしていて、車ではとても通れず、人がやっと歩ける林道として使われているぐらいで、また途中に人家もないので、生活道としての役割はとうに終わっている。

しかし、この道は、いまでは信じられないことだが、かつてはれっきとしたバスが通っていた道なのだ。

旧々道(中村側)     伊豆田峠2

この道がつくられたのは1910年(明治43年)。郡道以南(謂南)線として。それまでは,峠を越えるには人が歩いて通る、けもの道のような道しかなかったが、はじめて車が通れる復員9尺(約2.7m)の道ができたのだ。
その頃は、清水方面から中村方面に行くには、下ノ加江からの船便が中心であったので、麓の伊豆田村では「道路が伊豆田の坂を超えて来よる」と大騒ぎだったそうである。1921年(大正10年)には、中村―清水間の定期バスの運行も始まった。バス料金は2円60銭(中村―清水)だったそうだ。(「土佐清水市史」)

以降、この道が幹線道路になったが、険しい山の斜面を切り崩して道を開いたので、断崖絶壁の危険な箇所がたくさんあった。一番高い地点の峠は標高247m。そう高くないように思えるかもしれないが、海岸沿いのゼロメートルから上り坂になるので、高さの実感は相当なもので、バス運転手にとっては命が縮む思いだったそうだ。

実際、車の転落事故も多かった。一番大きかった事故が、1957年(昭和32年)6月、県交通バスが転落し、多くの犠牲者を出し、うち5人が死亡したというものだ。このバスは、貸し切りバスで、大方町伊田地区の婦人会の人たちが足摺岬に「遊山」に行くために、乗っていた。当時の道にはガードレールというものはなかった。
そんなこともあったためだろうか、その頃、峠には夜になると幽霊がでるという不気味な話がまことしやかに伝わっていたことを、私は覚えている。

開通した時には歓迎された道も、太平洋戦争後は悪路のシンボルのようになっていた。そこで、峠の中腹にトンネルを掘ることになった。県が(県道になっていた)総事業費3億円、期間5年をかけた大工事を行ない、1959年(昭和34年)3月、完成した。初代の伊豆田トンネル(長さ368m)だ。その時も、あの伊豆田の坂にトンネルができたということで、大きな話題になった。私は小学校1年生だったが、父が兄弟と一緒にわざわざバスに乗ってトンネルを見に連れて行ってくれた。その大きさに、ビックリしたものだった。

その頃、伊豆田峠を舞台にした映画がつくられた。五所平之助監督「雲がちぎれる時」だ。原作は田宮虎彦「赤い椿の花」で、新藤兼人が脚本をてがけた。
主演は佐田啓二、峠を通るバス運転手の役。車掌は倍賞千恵子でデビュー間もない20歳だった。この2人のラブロマンスなのだが、実際はもう一人の女性(有馬稲子)が絡む、結構複雑でドロドロした男女関係が描かれている。
映画のクライマックスは峠からバスが転落するシーン。実際のバスを落とした撮影が話題になった。明日はトンネルが開通するという最終便を運転していた運転手は死亡、車掌は奇跡的に助かるが、結局悲劇として映画は終わる。

映画1     映画2

映画のタイトルは、雲に届くような峠で男女の愛が引き裂かれた、という意味なのだろうか。この映画が封切られたのは1961年(昭和36年)だが、佐田啓二はその3年後、山梨県で実際の車事故にあい死亡しているので、因縁の映画になった。

佐田啓二といえば、俳優中井貴一と中井貴恵の父だ。その中井貴恵が今月7日、絵本の読みきかせの会で四万十市に来ていた。あいさつで、高知県は大好きだが、幡多に来るのははじめてだと言っていたので、私は会場から質問し、お父さんのこの映画のことを知っていますかと聞いたら、どうもはっきり知らないようであった。何と言っても佐田啓二は、当時は大スターで、毎年何本もの映画に出ていたし、また父が死んだ時、この娘はまだ6歳だったのだ。

この映画の主な舞台は土佐清水市側であるが、中村側でも県交通中村営業所バスターミナルの懐かしい風景が出てくる。思えば当時はバスが主役の時代であった。「おまち中村」も輝いていた。いまは、バスは日蔭の存在だし、子どもたちは車掌というものすら知らないだろう。もちろん、バスを舞台にした、こんな映画がつくられることは、もうないだろう。
その意味では、この映画は、伊豆田峠の難所の風景だけでなく、日本がモ―タリゼーション社会になっていく過程の時代背景を知るうえでも、貴重な記録映像になっていると言えるだろう。

このトンネルのおかげで、伊豆田峠越えは飛躍的に楽になった。しかし、人間が便利さを求める、道路の改良はその後もとどまるところを知らない。映画でのセリフにもあるが、峠道はトンネル完成により、距離で5.5キロ、時間で45分も短縮された。だが、それでも中村―清水間は、バスでなお2時間45分もかかっていた。

県道は、その後1970年(昭和45年)、国道321号に昇格し、サニーロードの愛称がついた。足摺観光ブームなどで、車の交通量も増えたことから、峠の麓にさらに長いトンネルを掘ることになった。それが、いまのトンネルであり、1994年(平成6年)に完成した。長さ1670m。これで、坂といえるほどの坂ではなくなったし、ましてや峠というのはおこがましいぐらいだ。車で普通に走っても、ものの5分もあれば通過できる。峠が消えた・・・
国道321号全体の改良も進んだので、いまでは路線バスでも中村―清水間は55分だ。マイカーなら、40分というところだろう。

折しもいま、政府が「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産の候補として推薦することを決めたところである。
日本全体からいえば、伊豆田の峠道など、四国の南のはての、名もない存在ではあるだろうが、これも立派な近代化遺産として、少なくとも地元の人間だけは忘れてはならないだろう。

伊豆田峠     旧々道2

ごんぎつね

最近、少々絵本にはまっている。

先の市民大学での柳田邦男の話、映画「じんじん」上映会、中井貴恵による読み聞かせの会では、いずれも、絵本は子どものためだけにあるのではなく、大人にとっても大切なものであり、人生を生きぬくための大きな力を与えてくれる、ということを教えてもらった。柳田邦男の『大人が絵本に涙する時』も読んでみた。

そこで、きょう図書館に行って、『新美南吉童話集』を借りてきてた。
昭和18年に29歳で亡くなってから有名になった新美は、宮沢賢治と並ぶ日本の代表的童話作家とされているが、私は代表作「ごんぎつね」だけしか知らなかった。
しかし、ほかにもたくさんの童話を残している。
「手袋を買いに」「銭坊」「巨男の話」「張紅倫」「正坊とクロ」「のら犬」「一枚のはがき」「名無し指物語」など・・・が「童話集」に納められている。

どれも短編なので、すぐに読んでみたが、ほとんどが悲しい話ばかりだ。ほのぼのとしたものもあるが、少数だ。
しかし、それゆえに、人間社会の真実を突いている.
だから、心を打つのだろう。

「ごんぎつね」も、あらためて読んでみた。

いたずら好きの子どもキツネごんは、ある時、村人(兵十)が川でとっているウナギを篭からぬすんでしまう。しかし、ごんは、そのウナギが孝行息子が病気で寝込んでいる母親に食べさせるものだったことを知って、いたく反省をする。ごんは、そのお詫びに、夜な夜な、兵十の家の土間に栗や松茸などを届けるようになる。兵十は不思議に思うが、誰が届けてくれるのかわからない。ある夜、ごんは土間から出るところを兵十に見つかってしまう。兵十は、あの悪さをするキツネだと思い、火縄銃で打ってしまう。そして、土間に栗が置いてあるのを見て驚く。「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは」、ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずく。そして、「兵十は火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました」で終る。

悲哀です。
自分では、一生懸命尽くしているつもりでも、それが理解されず、受け入れられない。逆にひどい仕打ちを受けることも・・・・・・
そんな理不尽やもどかしさを覚えることは、誰でも経験があるのではないでしょうか。

もうひとつの 9.11 - 1973年、チリ・クーデター

2001年のきょう、アメリカで同時多発テロが発生した。
ニューヨークの国際貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ映像は衝撃だった。その1年前、私は海外出張でこのビルの屋上にのぼっていただけに、なおさらであった。
テロは、アルカイダによる攻撃であり、その後のアメリカによるアフガン、イラクへの報復戦争につながった。いままた、シリアにも・・・
この事件は、記憶に新しいが、40年前、もうひとつの9.11があったことも、忘れてはならないだろう。

1973年9月12日。 
私はその日のことを、はっきりと覚えている。大学2年の時だった。
午前中の経済学の講義で、その教授は冒頭、青ざめたような真剣な顔で「きのうチリで反革命がありました」と言い、しばらくその背景などについて説明があってから、講義の本題に入ったのだ。
私は、当時、南米のチリのことなど何も知らなかったので、驚いたというよりも、どういうことなのか、ほとんど理解ができなかった。
しかし、ことの真相は、いまでは歴史的事実として明らかになっている。

これもアメリカが深くかかわった「事件」であった。
世界で初めて自由選挙により誕生した社会主義政権(正しくは、社会主義をめざそうとした政権)を軍部がクーデターにより転覆させたのだ。
当時のチリ政権は、社会党を中心とする人民連合政府であり、アジェンデ大統領は3年前の1970年の大統領選挙で当選した国民的英雄であった。
アジェンデは、キューバとも友好関係を結び、企業や鉱山(銅)の国有化などを進めていったが、旧来からの反対勢力も根強く、資本家側がストライキを行なうなど、国内経済は混乱を深めていた。

アメリカ(ニクソン大統領)にとって、この反米的政権は看過できない存在だった。社会主義は「暴力革命」でのみ生まれるとしてきた「常識」が覆されるからだ。
アメリカは、チリ国内の反政府戦力にあらゆる支援を行ない、ついには軍部を動かし、大統領宮殿を攻撃させた。アジェンデは、最後まで大統領辞任を拒否し、国民への最後のラジオ放送をおこなったあと、銃で自決した。

新しい大統領には、クーデターを指揮したピノチェト将軍が就いた。軍事政権は、アジェンデ支持者らへの弾圧を徹底して行ない、国外亡命者を含め、数十万人が犠牲になったと言われている。
ピノチェト軍事政権は16年間続き、民政に戻ったのは1989年であった。この間、アメリカは軍事政権を支え続けた。
クーデター当時、日本政府(田中角栄首相)も軍事政権支持を表明している。
・・・・・・

南米では、9.11と言えば、アメリカ同時多発テロよりも、この日のことをさす場合が多いそうだ。


チリ・クーデター
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC

ごあいさつ - 幡多と土佐

幡多とは、高知県の西南地域のことを言います。

江戸時代には、いまの高知県全体が土佐藩の支配下にあったので、土佐といえば高知県のことであると言って間違いではありません。
しかし、ずっと幡多に住む者にとっては、土佐よりも幡多という言葉のほうに親近感を覚えるのではないでしょうか。また、自分たちの地域を土佐でひとくくりされることに、妙な抵抗を感じる者も多いと思います。
というのも、歴史を遡れば、律令制以前には、幡多(波多)と土佐(都佐)は別の国でした。だから、いまでも 幡多は、言葉などいろんな文化が違います。

その幡多の中心が中村でした。応仁の乱のころ、京都の公家一條家によって開かれた町であり、一條家の殿様は長く土佐(広義)の国司でした。
8年前、中村市が合併で四万十市になってからは、四万十のほうがはるかに有名なことから、中村の名前を知らない県外の方が多くなっているようです。ある観光客に、「ここは四万十なのに、なんで駅の名前が中村なのですか」と聞かれ、愕然としました。

ま~、時代の流れとともに、これも仕方がないのかもしれません。
しかし、地名は生きものであり、われわれの祖先が営々と積み上げてきた文化そのものです。文化を大切にするということは、その違いを尊重しあうということです。
私は、自分のふるさと幡多を、そして中村をすばらしいところだと思っています。自慢に思っています。もちろん、ここに骨を埋めるつもりです。

そんな「いちがいな」(幡多弁、こだわり)わたしが、日々思っていることを、これから書いていこうと思います。よろしくお願いします。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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