小石原、上野、高取

小鹿田(おんた)の山を越えると福岡県に入り、次の山を登ったとところが小石原である。車でわずか40分ほど。以前は小石原村であったが、知らぬ間に、隣の宝珠山村と合併して東峰村になっていた。

 この小石原の焼き物が江戸の宝永年間、小鹿田に伝わった。小鹿田の兄貴分であり、民陶の世界では小鹿田とセットで分類される。一子相伝は崩れ、よそからの独立も多いので、窯の数は約50と小鹿田よりも多く、その分、伝統にこだわらない作風も増えている。

 私は伝統好みなので、以前から馴染みのある窯を選んで歩いた。柳瀬、梶原、太田、川崎など。小鹿田と似ているが、雰囲気が少し違う飛鉋(とびかんな)の皿や鉢などを買った。

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 秋の日は釣瓶落とし。昼を過ぎてから、ここに入ったのですぐに暗くなってきた。筑豊方面に山をくだり、添田町の英彦山麓を走って、田川にその日の宿をとった。かつての炭鉱の町だ。

 井上陽水はここ田川生まれだが、父は幡多の人であり、先祖の墓が土佐佐賀にあると聞く。かなり前、陽水は土佐佐賀で「里帰りコンサート」をやったことがある。父は田川で歯科医院をやっていたそうだが、どんな経緯からここにきたのかは知らない。

 翌日、上野(あがの)に向かった。わずか30分ほどだ。福智山の麓に窯が20ほど点在している。小堀遠州好みの遠州七窯の一つで、茶陶の世界では有名。格が高いだけ、値段も高く、食器類はあまりつくっていない。 

 ここも以前は赤池町であったが、いまは金田町、方城町と合併して福智町になっていた。平成の合併の猛威さがわかる。上野焼会館で各窯の展示を一通り見てから、やはり伝統窯を回った。熊谷、高鶴、高田など。重鎮の熊谷保興さんがちょうどおられ、茶室でお茶を入れていだだき、恐縮した。一緒に写真もとらせていただいた。
庭のもみじが見ごろで池に映って、見事だった。

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 上野から、やはり30分ほどで高取に着く。といっても高取焼と称している窯は、いまは各地に分散しているので、訪ねたのは、初期のころの窯があった鷹取山の麓、内ヶ磯である。いまは直方市。

 ここら辺は、昔の国境で複雑だ。鷹取山は筑前の国(黒田藩)であるが、上野がある福智山は豊前の国(小笠原藩→細川藩)である。上野焼は小笠原藩が、高取焼は黒田藩がはじめたものだ。いずれも、秀吉の朝鮮出兵のさい、朝鮮から連れてきた陶工たちによってである。

 高取焼も遠州七窯で、茶陶づくりがルーツ。本家筋は、いまは小石原(前日訪ねた)と福岡市に移っているが、内ヶ磯時代は唐津の影響を受けている。唐津が好きな私は、この地でその作風をいまに伝えている友枝観水さんを訪ねた。お会いするのは2度目。寒い日で、薪ストーブにあたりながら、高取焼の歴史について、詳しく教えてもらった。徳利とぐい呑みを買った。

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 そのあと、八幡インターから高速に乗り、博多(福岡市)に向かった。夕方近くになっていたが、以前3年間住んだところであり、当時の社宅跡を城南区鳥飼に訪ねてみた。聞いてはいたが、民間マンションに変わっていた。街も地下鉄が延伸するなど、九州の一極集中がますます進んでいる。

 夜は転勤で博多に来て間もない姪に会い、一緒に中洲の「河太郎」でイカを食べていたら、ちょうど大相撲九州場所でこちらに来ている、荒汐部屋の親方(元・大豊)と荒獅子関(序二段)と隣席になった。親方は元時津風部屋であるから、宿毛出身の豊ノ島関の話題などで盛り上がった。

相撲の世界も楽ではないようだ。
激励の握手をさせてもらった。

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首長の責務 ― 特定秘密保護法案への態度

今朝(11月27日)の高知新聞を読んで驚いた。
 きのう衆議院で強行採決された特定秘密保護法案への賛否を問う、県下首長(市町村長34人)アンケート結果が載っていた。

 反対・慎重意見が多いのは当然であると思うが、意外だったのが、態度保留も多いことと、地元・四万十市長が賛成していることである。

 34人の回答一覧表は掲載されていないので詳細はわからないが、解説記事を読む限りでは、同法案そのものへの賛成は「賛成」2、「どちらかといえば賛成」5の計7人である。このうち後者の5人は、今国会での成立には議論不足等から反対しているので、今国会成立に賛成は2人だけ。

 一方、同法案の今国会での成立への反対は14人(うち5人は、法案そのものにも反対)。

残る18人は、「情報が少なく、現時点では判断できない」等として「どちらともいえない」が13人、「国会審議中」等として回答辞退が5人である。

 この種のアンケートは私が市長在職中にも、原発政策への態度等、たびたびあった。いずれも国政がらみの重要な問題であったが、だからこそ一番身近なところで住民の命と自治をあずかる首長の責任として、自分の態度をあいまいにせず、なるべく明確に回答をしてきたつもりだ。もしいまも私が市長であったならば、躊躇なく同法案そのものに「反対」する。
 
なのに、このアンケートでは態度留保が過半と異常である。その理由が記事にもあるように、本当に情報不足等にあるとすれば、それは首長としての責任放棄であり、情けない。もっと情報を集め、勉強しろと言いたい。

 しかし、日頃からよく知っている、こうした首長の名誉のために言えば、この異常さこそ、この法案の異常さ(本質)なのである。自由にモノが言えなくなっているのだ。多くの国民やマスコミ、ジャーナリストが反対をしているこの法案の問題点については、首長ならみんなわかっている。しかし、いまの巨大与党の力で同法案の成立が見通されているなかでは、あえて旗色鮮明にすることによる、あとの禍(わざわい)を恐れているのである。現在、県下選出国会議員6人のうち与党が5人、しかもこの法案対策責任者(衆院国家安全保障特別委員会与党筆頭理事)は地元中谷元自民党代議士である。

 高知新聞の隣の社会面で高知大学の小幡尚准教授(近代日本の治安維持法制が専門)が言っている。「国会のネット中継を見ていて、この世の終わりという感じがした・・・」「法律は必ず拡大解釈される。権力を甘く見てはいけない。息苦しい社会になる」。この息苦しさが、アンケート結果から伝わってくる。

 同法案の今国会成立に賛成した2人のうちの1人、中平正宏・四万十市長のコメントも載っている。
「安全保障に著しく影響があり、国益を損なう心配のある情報は秘密にすべきだ。」

 「国益」とは何だろうか? 最近、盛んに使われている。戦前には「国体」という言葉があった。ポツダム宣言で日本は無条件降伏をしたと言われているが、実際は「国体の護持」だけは譲らないまま、8月15日を迎えた。「国体」にこだわったため、戦争の終結が遅れたのである。

「国体」とは「国の体制」であり、天皇を頂点とする意思決定システムのことである。

「国体」は決して「国民」のことではなかった。「国体」のために、どれだけ多くの「国民」が犠牲になったことか。歴史をみれば明らかである。

「国益」も「国体」と同じである。
この法案は、ベールをはがせば、基本思想は戦前の治安維持法につながる国民監視の治安法案なのである。また、地方自治の理念にも反し、国がすべてを決めていくシステムになってしまう。
二度と同じ過ちを繰り返してはならない。

四万十市はもとの中村市である。大逆事件で処刑された、中村生まれの幸徳秋水は、「国体」の犠牲者のシンボルである。中村市議会は2000年12月、「幸徳秋水を顕彰する決議」を、全会一致で採択している。画期的な決議であった。

 「幸徳秋水はこの90余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、20世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を諮るべきである。よって中村市議会は郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。」

 今回の四万十市長の態度や発言の意味するところは重大である。
 われわれは、もっと郷土の歴史に誇りをもち、真剣に学ばなければならない。それが日本の歴史を学び、先人たちへの責任を果たしていくことにつながるのだと思う。

これからでも遅くはない。
国民の良識を示すことによって、特定秘密保護法案が廃案、または少なくとももっと議論が深まるまで、継続審議になることを願っている。

小鹿田(おんた)

 今月18日から22日まで、九州北部のやきものの里を訪ねてきた。
  大分県の小鹿田(おんた)、福岡県の小石原、上野(あがの)、高取、佐賀県の唐津だ。

 私は農林中央金庫勤務時代、大分と福岡で仕事をしたことがあるので、前回の記事に書いたように、これらの窯場には何度も足を運んでいるが、仕事もフリーになったので、久しぶりに「思い出さがし」に出かけた。
九州には、有田、伊万里など、ほかにもたくさんの窯場があるが、今回は自分好みの里を辿って、本命の唐津に向かった。

 宿毛からフェリーで佐伯に渡り、最初に日田の皿山、小鹿田に着いた。6度目の訪問だが17年ぶりだ。
小鹿田は江戸時代から続く窯場で、柳宗悦やバーナードリーチなどによって発掘・評価された、いわゆる民芸運動の原点のような存在として有名になった。日田の中心部から車で小1時間かかる。隠れ里のような谷あいで、窯元が肩を寄せ合って、伝統技法を守り、火を焚き続けている。つくられるものは日常雑器であり、その素朴な味ゆえに支持をえて、近年ファンが着実に増えている。

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 今回は、はじめてここの民宿(山のそば茶屋)に泊まったので、いろんな話も聞けた。ゆっくりと里の雰囲気を体感する中で、これまでとは違い、やきものの里としてだけでなく、中山間地集落のあり方についても考えさせられることが多くあった。

 今回知ったのだが、小鹿田といっても地区は二つに分かれている。やきのもの里は皿山地区で、全14戸のうち10戸が窯元である。黒木(小袋)、坂本、柳瀬、どれも江戸時代から続く窯で、親が子に伝える、一子相伝だ。

いま全国の中山間地は、過疎高齢化が進む中で「限界集落」という、いやな言葉があるように、集落の維持がむずかしくなっているところが多い。しかし、ここでは、どの窯元にもしっかりと後継者がいる。ロクロを回すのは男の仕事だが、その下ごしらえの土づくりは主に女の仕事。近くの山から原土を掘ってきて、谷川の水を利用した唐臼(からうす)で細かく砕いてから、何回も水で濾過する。杉の産地、日田であるから、火を焚くマキはたくさん出る。製材所から切れ端を集めて来る。ほとんどが3世代の家族労働だ。小さな子供が多いのには驚いた。

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 かつては半農半陶の生活で、どこにでもある寂しい山里の風景であったが、民芸運動のシンボルとなる中で、平成7年には国の重要無形文化財に指定された。やきのもファンだけでなく、日本の原風景のような、静かな山里のたたずまいにあこがれて訪ねて来る人も多い。

 平成20年には重要文化的景観にも指定をされた。文化的景観とは、自然・風土の中で人の暮らしを通じて形づくられた風景のこと。つまり、風景が文化財になるという、文化財の新しい概念である。現在、文化庁によって全国の35地区が指定をされているが、小鹿田の指定は5番目、九州で最初であった。

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 小鹿田の指定は、最初は皿山地区だけであったが、その後、もう一つの池ノ鶴地区も追加指定を受けた。私は今回、はじめて皿山のさらに上流にある、この池ノ鶴地区にも足を運んだ。わずか3戸の農家が急峻な棚田を守っていた。小鹿田がこのように奥行きの深い谷とは知らなかった。

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 皿山地区は、いまの日本の中山間地集落としては希有な存在である。元気があり、勢いがある。集落としての世代継続が円滑、順調に行なわれている。理由は、やきのもという、しっかりとした生業があるからだ。地元でとれる土と木、そして水が原材料だ。また、土掘りや窯焚は共同作業でおこなうなど、お互いの支え合いのシステムができている。

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 これからの日本で、中山間地の集落機能を維持していくことのカギの一つは、その地域において自力で収入をえる「小さな経済」をつくっていくことだ。地元でとれる農産物、林産物などを活用し、付加価値の付いた特産品等をつくることである。皿山は多くの幸運に恵まれた例ではあるが、そのモデルである。

 なお、重要文化的景観については、小鹿田のあと四万十川流域(5市町、5地区)も指定を受けた。先月、本市で全国文化的景観地区連絡協議会四万十大会を開き、各地から関係者が集まり、経験交流と勉強会を行なった。日田市長もみえていた。来年は、この大会を日田市で開くことになっている。

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カラツと唐津

私は趣味といえるかどうかわかりませんが、やきものに興味をもっています。といっても、陶芸教室のようなところで自分でつくるのではなく、できた作品を目で眺め、手でさわり、また買って使ったりすることにです。

 以前の仕事で岡山に勤務をしていた時、備前焼に出会ったのがきっかけですが、その後福岡ですごした三年間でその魅力にはまり込んでしまいました。

 福岡周辺の北部九州には伝統的な窯場がたくさんありました。福岡県の上野(あがの)、高取、小石原、佐賀県の有田、伊万里、唐津、長崎県の波佐見、大分県の小鹿田(おんた)、熊本県の小代、山口県の萩など、高速を使えば車で日帰りができるので、休日にはよく出かけました。

 その中で最も多く通ったのが唐津でした。唐津は、福岡市(博多)から玄界灘に沿って一般国道を車で走り、約一時間の距離であり、隣町という感じでした。虹の松原に代表される美しい海岸線、唐津城下の古い街並み、唐津神社の秋祭り「唐津くんち」、そしてイカなどのおいしい魚で有名ですが、その名の通り、歴史を遡れば唐(中国)につながる津(港)であり、大陸文化流入の痕跡を多く残しています。

 唐津焼もその一つです。室町末期の安土桃山時代、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄、、慶長の役)で連れて来られた朝鮮(李氏王朝)の陶工たちによって伝えられたものです。岸岳の麓などに古い窯跡が残っています。
千利休により始められた茶の湯の世界では「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれたように、唐津でつくられた碗や皿などは京を中心に全国に流通していました。

唐津焼の特徴は、地元でとれる独特の砂気まじりの粘土を使って、斑唐津、絵唐津、朝鮮唐津、三島唐津と呼ばれるような多様な技法があることです。いずれも「侘びさび」の世界に通ずる、李朝風の雰囲気をかもしだしています。
今ではあまり聞かなくなりましたが、私が子どものころには、陶器や屋根瓦のことをみんな「カラツ」と呼んでいました。その「カラツ」が「唐津」であったことに、恥ずかしいことですが、その時はじめて気付きました。「セトモノ」が「瀬戸物」(愛知県の窯場)であるのと同じです。

 やきものは土と炎の芸術です。土も炎も人間の原点のようなものです。人は土に生まれ、土に帰ります。やきものの魅力は、その作品を通して、それをつくった人を知り、それが生まれた風土、自然、歴史などにふれることができることにあります。

 私は唐津で最初の頃は、やきものを商店街の店などで買っていましたが、そのうちにそれでは飽き足らず、作品をつくっている作家を訪ねるようになりました。作家は山の中に窯(登り窯や穴窯)をつくり、薪を焚きながら、土と一緒の生活をしています。いまでも、年賀状などで親交が続いている浜本洋好さん、川上清美さん、藤ノ木土平さんなどは、みんな個性的で、世俗的な価値観から超越をしたような、人間的魅力にあふれていました。

 太平洋の透き通るような青しか知らなかった私にとって、博多から唐津がある松浦半島一帯にかけての日本海の黒ずんだような濃いブルーは、大陸につながる異国の色であり、その象徴が唐津のやきものでした。

 私は福岡のあと札幌に異動になりました。北海道は一転して新しい国であり、伝統に縛られない自由な活動をしている陶芸家たちを広い道内に訪ねる旅もゆかいなものでした。

 その後は東京に戻り、勤務の最後は大阪で迎えましたが、都会では都会なりの楽しみ方がありました。全国の陶芸家たちが個展などの作品展示会を開くからです。あちこちのデパートや美術画廊、陶芸の店などで開いていました。そこで親交のある陶芸家に再会をしたりしました。

 東京からは、近郊の益子(栃木)、笠間(茨城)に出かけましたし、全国に出張の多い仕事でしたので、そのついでや大阪時代を通して、六古窯(常滑、瀬戸、越前、信楽、丹波、備前)も訪ねました。

 四国には窯業地は多くありませんが、砥部(愛媛)、大谷(徳島)のほか、もちろん高知県内の内原野(安芸)、能茶山(高知)にも立ち寄っています。どこに行っても、私が買うのは徳利やぐい呑みなどの酒器が中心です。

 地元に帰って来てからのこの四年間は、やきものを楽しむ余裕などありませんでしたが、これからは時間ができそうなので、またあちこちの窯場に出かけてみたいと思っています。

最初に行きたいのは、もちろん唐津です。
斑唐津のぐい呑みほど、底知れぬ深みと風格のあるものはありません。
                  
  「文芸なかむら」26号(2013年7月)

県庁おもてなし課

四万十おきゃく映画祭で、遅まきながら「県庁おもてなし課」をみた。
あまり期待はしていなかったが、なかなかよかった。期待以上だった。
笑いあり、涙ありの軽快な展開の中に、高知県の現状や観光名所もさわやかに紹介されていた。高知県の広報映画のようにみれば、そうもみえるが、全国に通用するエンターテイメント性が十分にある。

最後の締めのセリフが特によかった。
・・・地元に住むわれわれ自身が高知県を好きで、自慢をするようにならない限り、観光PRはうまくいかない。地元に誇りをもてずして、他人を惹きつけ、感動させることができない。
主人公の県庁職員の言葉だ。その通りだと思う。

そのうえで、苦言を二つ。
コミック映画だから、仕方がないのだが・・・

1.おもてなし課が取り組んでいた「高知県レジャーランド構想」はいまさら何なの?という感じ。バブル時代の話かと思った。一昔前の「国民休暇県」も思い出した。
高知県は観光で生きるしかない。だから、豊かな自然、残された自然を活かして、多くの人に楽しんでもらおうという狙いで、ハングライダー、ホエールウオッチング、カヌーなどが紹介されていた。
しかし、観光とは多面的だ。高知県には自然だけでなく、独特の歴史、文化、人物、暮らしなどがあり、それらを学び、体験してもらう、さらには移住してもらうようにすることこそ観光の本質である。本当の豊かさ、価値とは何かを考えてもらう、問題提起がほしかった。
三宅喜重監督が高知県に来たのは今回がはじめてだそうだ。

2.主演の錦戸亮(ジャニーズ)は許せるが、相手役の堀北真希はミスキャスト。かわいすぎるからだ。あんなに控えめで、理知的な女性は高知県にはいない(ごめんなさい!!)。もっと、たくましい。
ギャップが大きすぎる。
堀北真希のかわいらしさが全面に出過ぎていた。

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太陽館

 中村の文化のともしびが、また一つ消えた。
 太陽館の経営者だった澤田寛さんが亡くなった。
 享年88歳。きのう通夜、きょう葬儀だった。ご冥福を祈りたい。

 太陽館は「おまち中村」の賑わいのシンボルだった。私が子供のころには、中村には4つの映画館があったが、一番馴染み深かったのが太陽館だ。東宝・大映系の映画を上映していた。「おまち」にでかけ、太陽館で映画を見て帰るのが最高のぜいたくだった。

 いろんな映画を見たのだろうが、はっきりした記憶で一番古いのが、小学校4年の時みた「キングコング対ゴジラ」。小中学校では映画をみにいく授業があり、いつも太陽館だった。「東京オリンピック」の記録映画もみた。
 館内には2階席もあった。2階の袖には、桟敷席もあった。芝居小屋のようだった。入口に売店もあった。いつも客であふれていた。

 太陽館が中村で最初の専用映画館として、いまの場所にオープンしたのは西暦1926年。元号でいえば、大正15年と昭和元年が一緒だった年。四万十川に鉄橋がかかったのもこの年だ。大正デモクラシーによるモダン文化が流入し、中村の「おまち文化」が花開いたころといえるだろう。
 この場所には、天神山(いまの市役所)から注ぎ込む、天神池と呼ばれる池があり、その埋め立て地に、澤田寛さんのお父さん(雅夫さん)が太陽館を建てたそうだ。隣には、相撲場もあったという。

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 私は高校から中村を離れたので、それ以降は、太陽館に入った記憶はあまりない。テレビの時代になり、中村の映画館も他の3つ(北劇、中劇、末広)は早々と閉館になったが、太陽館はふんばり続けていた。
 澤田さんが書く、角ばった赤と青い字の看板が道路脇の電柱などにかかっているのを、帰省したさいよく見かけた。ああ、まだ太陽館は、やっているのだと思った。あの独特の字は、中村のシンポルカラ―になっていた。澤田さんが中村の文化の孤塁を守り、一人でたたかっているようだった 

 最後のころは、話題作品だけの不定期上映になっていたらしいが、ついに2005年、幕を降ろした。
 その後も、建物や入口の看板はそのまま残しているので、中村の商店街の衰退を象徴するような、「文化の残骸」を見るようで、寂しさを禁じ得ないまま、いまにいたっている。

 太陽館は中村の文化の象徴であった。市民みんなのこころに刻まれている。建物も、映画文化華やかなりし頃の構造をそのまま残している。いまの映画館は、イオン高知のシネコンに見るように、ほとんどが商業施設の中に封じ込められてしまっている。
 そのことからいえば、太陽館の今残る建物の入り口付近の雰囲気は、文化財的価値があると思う。

 そんなことから、私は市長時代、この建物の入り口付近の構造をそのまま残す形で、市が映画上映を含めた多目的ホールをつくることができないかと思い、澤田さんに相談を持ちかけたが、すでに澤田さんは体調を崩されていたこともあって、話は前に進まなかった。そのまま今日を迎えたことは残念なことである。

 しかし、何という偶然だろうか、今日から「四万十おきゃく映画祭」(~17日まで)が始まった。映画館がなくなった中村に、全国から映画ファンを集め、地元も一緒に楽しみながら、地域おこしにもつなげようという企画だ。たくさんの映画上映とともに、監督、俳優などの対談、講演会等も予定をされており、てんこ盛りの内容だ。
この映画祭がどういう結果に終わるのか、私は大きな関心を持っている。
 今回が第1回とうたっていることから、来年以降も続けるということなのだろうから、ぜひともこの中村に映画館を再生させ、まちに賑わいを取り戻す原動力になるような取り組みになることを期待したい。

それは太陽館が発信し続けてきた中村の文化を継承するということである。

(3年前)

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(きのう)

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大原富枝

先日、友人に会うために本山町にでかけた。
その際、地元本山町出身の作家、大原富枝文学館も初めて訪ねた。

 大原富枝はたくさんの作品を残しているが、私がこれまでに読んだのは、代表作「婉という女」と「於雪 土佐一條家の崩壊」だけである。ともに学生時代のことで、その後は縁がなかった。
「婉という女」は映画の話題作(監督今井正、主演岩下志麻)だったので、映画にあわせて原作を読んだ。
「於雪・・・」は、中村の一條家の歴史が書かれていることから、出版と同時に読んだ。
野中兼山の娘と一條兼定の愛妾、ともに実在した女性が主人公だ。

どちらも作品も女のドロドロとした執念が書かれていた。男では書けないものだ。
それは作者自身の体験にもとづくものなのだということを、今回知った。

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大原富枝は女学校時代に結核をわずらい、ずっと家で療養生活をする中で、「書くことは生きること」と決め、29歳で単身上京する。そして、平成12年(2000年)、87歳で死ぬまで、独身を通した。

今回、晩年に書かれた自伝「吉野川」を読んだ。上京のきっかけは、付き合っていた男に裏切られたことが引き金になったことを告白的に書いていた。私はこれまで、大原富枝は純粋に文学一筋に生きた人と思っていたが、意外というか、やはりこの人も女だったのだ。

高知県を代表する女流作家として、もう一人宮尾登美子がいる。彼女も結核をわずらい、その後子供と家庭を捨て、高知新聞編集者と一緒になって上京したことは有名な話である。

女は強い。特に高知県の女は。
他人には言えないような、そうした体験を肥やしにして、自らの文学を築きあげて行ったのだ。

今回、改めて「於雪・・・」も読んでみた。
長宗我部の陰謀によって滅ぼされた土佐一條家最後の「御所様」一條兼定が、女の目から描かれている。
キリシタンとしての洗礼を受け、ドンパウロと呼ばれた兼定。宇和島沖の戸島に逃げ延び、幽閉された形で最期を迎えた。奇怪で謎のような人物。いまでも、島民から「御所様」と呼ばれているという。
私は、以前から、島の人たちが守ってくれている兼定の墓を訪ねてみたいと思っていた。近いうちに行ってみようという思いを強くした。

文学館の展示の半分は野中兼山についてであった。
ここら周辺は、土佐藩から野中家が管理を任せられた領地。「婉という女」を書いた背景にも、そんなふるさとへの特別な思いがあったのだ。

文学館を出て、すぐ近くの吉野川に面した帰全山公園にも行ってみた。
以前から、気になっていたところだ。その後、窪川に移転し、いまは農業大学校になっている旧県立帰全農場の創立の地である。私らの世代には、なじみ深い学校だ。中学卒業後、ここに進む者が多かった。
太平洋戦争中、高知県からは多くの満州開拓団が大陸に送られたが、開拓団員は帰全農場内に設けられた「満州拓土訓練所」で訓練を受けてから大陸に渡った。開拓団は、江川崎、十川など北幡(幡多郡北部)からが特に多かった。

公園には野中兼山の銅像が立っていた。この一角は、兼山が母親の廟所を建てたところで、「帰全」の名前も兼山に由来することを書いた解説板があった。
「全」の文字が以前からひっかかっていたが、これで納得をした。
片道3時間をかけた甲斐があった、本山訪問であった。

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景観と津波対策

10月4日、全国文化的景観地区連絡協議会四万十大会が開かれ、参加した。私が市長在職中に大会誘致を決め、1年前から準備してきたものだ。大会の主催は文化庁だが、準備全般の事務局は四万十市生涯学習課(公民館)が担当した。

文化的景観とは自然・風土の中で人の暮らしを通じて形づくられた風景のこと。つまり風景が文化財になるという、文化財の新しい概念である。現在、文化庁によって全国の35地区が文化的景観に指定をされている。
四万十川は、2009年、流域全体(5市町、5地区)が指定を受けた。流域全体が文化的景観に指定されているのは、四万十川だけである。
今回の大会は、この35地区を中心とする経験交流、研修会であり、全国から大勢の関係者がやってきた。

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 大会を通した議論の中で、私は一つのことに気づき、教えられた。大きな収穫であった。それは地震津波対策についてである。

 いま本市の最重要課題は、南海トラフ巨大地震対策である。あの東日本大震災のあとは、特に喫緊の課題として取り組んでいる。東海から九州沖縄にいたる長い太平洋沿岸において、この幡多地域が津波被害が最も大きいと予想されるエリアなのだ。

 津波において、一番の対策はすぐに高台へ逃げること。だから、市ではいま山などの高台への避難路、避難場所の整備を進めている。四万十川を遡上してくる津波に対して、河口の下田、初崎から、川の両岸、八束、竹島、古津賀にかけて150か所を選び、3か年計画(2012~14年度)で整備中だ。高台まで距離のある下田水戸と初崎には避難タワーを建設した。

 こうした津波避難路、避難場所の整備事業は市の地震防災課が主管し、全庁的な連携のもとに取り組んでいる。現場の作業は地元土木建設業者に発注することから、建設課や都市整備課との連携は特に重要だ。

 しかしながら、この事業は単なる土木建設事業ではない。文化事業でもある。
四万十川下流のこの地域にふさわしい新たな景観を創造する事業につながっているのだ。

沈下橋のことを考えてほしい。
沈下橋はいまでは四万十川を代表する風景、シンボルになっており、文化的景観の中心構成要素になっている。
しかし、この沈下橋をつくった当時は、だれもそんなことは考えていなかった。欄干がない、あんな形の橋をつくったのは、あくまで洪水対策のためである。四万十川は年中増水する。地元では水が出ると言う。しかし、大きな橋をつくるカネもない。ならばと、河川敷スレスレの高さに、安上がりの橋をつくったのだ。
この川と暮らしてきた生活の中で生まれた、合理的な知恵である。

今回、下田水戸に津波避難タワーをつくった。4年前、最初のタワーをつくったが、その後の東北の震災を受け、今年3月、さらに隣により高いタワーをつくり、二つをつなぎ合わせてツインタワーとした。こんな大がかりな構造のタワーは全国ほかにはない。

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場所は、地区からの要望、提案受け、江戸幕末、土佐藩が夷敵(外国)にそなえて築いた砲台跡とした。次の敵は津波というわけである。普段からみんなが知っている場所ならば、いざという時、すぐに集まりやすい。この場所の一角には、以前から神社もあり、地元になじみ深いところであった。タワーの下には縁台を置き、夏の夕涼みや盆踊りなどにも使われ、高齢化が進む地域のおばあちゃんたちの新たなたまり場になっている。
このタワーはお城のようなもので、はやこの地区のシンボルとして、地域に溶け込んだ風景になっている。
地域の新しい物語ができているのだ。

 その他、整備中の避難路についても、新たに山を削ったりするところはわずかで、大部分はすでにある神社、寺、墓などに続く道の整備だ。古い城跡(鍋島)や学校跡(竹島、実崎)、山神様の祠などもある。
そんな場所は、最近は近寄る人もなく、草木に覆われていたところばかりである。いずれも過去の流域の人たちの暮らしの中で大切な場所であった。そこの雑木や草を刈り払い、復元している。
先人がつくってきた風景や物語がいま甦ってきているのだ。
 
 地域の人々の生活の中でつくられるのが文化的景観である。だから、景観は時代とともに変わっていく。
津波対策事業は、地域の風景を決して壊すものではなく、過去の風景を復元し、また新たな景観や物語を創造するという視点からも取り組むことが重要である。
大変意義深い事業であると思う。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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