名護との絆

 名護市と四万十市は友好交流を行なっている。

 旧中村市は、1974年、大阪府枚方市と友好都市提携を結んだ。両市にとって、ともに初めての提携であった。

 その後、枚方市は沖縄県名護市、北海道別海町とも提携を行なった。そこで、枚方市を軸として、これら4つの市と町が持ち回りで「友好都市サミット」を開くなど、各種交流を深めているのだ。

 私が市長になったのが2009年5月。その翌年2月、名護市長に稲嶺進さんが就任された。同年8月、「友好都市サミット」は、名護市制施行40周年を記念して同市で開かれた。

 私は、辺野古への米軍基地移設反対をかかげて当選した稲嶺市長に祝意を伝えるためにもぜひとも出席をしたかったが、あいにく四万十市民祭と日程が重なってしまったことから、やむなく副市長に代理出席してもらった。

 続く2011年7月、同サミットは別海町で開かれた。私はいよいよ稲嶺市長に会えるなと期待をして参加をしたが、今度は稲嶺さんの都合で名護市からは副市長が参加をされた。このサミットは、東日本大震災を受けて、将来大規模災害がおこったさいには互いに助け合うことを誓った「広域的大規模災害における友好都市間の相互応援協定」を結ぶという意義深いものであったが、私としては稲嶺さんにお会いできなかったことが大変心残りであった。
 次のサミットは、四万十市と枚方市の友好都市提携40周年を記念して、2014年、本市で開くことを決めて、別れた。

 しかしながら、私は今年4月の選挙に敗れ、5月で市長を退任した。残念ながら、市長同士として稲嶺さんに会う機会を失ってしまった。

 稲嶺市長は来年1月、再選をめざす市長選挙を戦う。辺野古への米軍基地移設の賛否を問う全国注目の大一番だ。

 きのう沖縄県仲井真知事は辺野古埋め立てを承認した。これは、沖縄県民だけでなく、日本国民全体に対する裏切りである。

 私は持論をもっている。地方自治体の首長(知事、市長村長)は、いわゆる政治家ではないということだ。少なくとも、私は自分のことを政治家とは思っていなかったし、そう呼ばれることがいやだった。

 首相は国会議員の中から選ばれるが、首長は有権者から直接選挙で選ばれる。よって、地方自治法で、首長には議会に制約されない強い執行権が付与されている。会社でいえば、代表権をもつ社長と同じだ。

 だから、首長は自らが掲げた公約に対しては、そこらへんの議員などよりも(もちろん議員も公約を守らなければならないのは当然であるが)、はるかに重い責任をもつのである。

 仲井真知事は、2回目の知事選挙で、それまでの主張を変え、普天間基地の県外移転を公約にした。そのことを県民、国民に約束をして勝った。なのに、今回また寝返った。この人にとっては、公約は選挙に勝つための道具でしかなのだ。首長が政治家、いや政治屋に落ちぶれてしまった。

「復興予算」というカネで県民を買収する。特定秘密保護法→靖国参拝に続く、安倍イズムの周到なシナリオだろう。いずれも民意と大きくかい離をしている。

 その民意をもう一度示すのが1月19日の名護市長選挙である。この選挙は、安倍イズムと国民の戦である。その先頭に稲嶺さんが立っている。

 四万十市民として稲嶺さんに、固い絆のエールを送ろう。
 そして、来年、稲嶺市長を本市に迎えよう。

一條兼定公

 このほど(12月3日)、一條兼定公の廟(墓)を宇和島沖に浮かぶ戸島に訪ねた。

 兼定公は土佐一條家の第4代御所さま。長宗我部元親の諜略により中村から豊後臼杵に追放された後、キリシタンとなって失地回復をめざしたが、渡川合戦でも再び敗れ、ここに逃げ延び最期を迎えた。

 墓は港を見下ろす山の中腹、龍集寺という浄土宗の寺にあり、住職さんに案内してもらった。島人によって造られた立派な廟の扉は、ドン・パウロの洗礼名をもつ兼定公にふさわしくステンドグラスになっていた。仏教の寺の中に立つキリスト教会というふうで、謎の多い御所様にはふさわしく思えた。

 戸島は面積わずか2.4平方キロ、人口約4百人の小さな島であるが、ハマチなどの養殖業が盛んで活気があり、小学生23人、保育園児18人いるという。主産業がある強みである。

 本家中村では毎年一條大祭(いちじょこさん)を行なっているように、戸島の人たちも、兼定公をいまでも宮さま、一條さまと呼んで、毎年欠かさず島をあげて法要を行なってくれている。一條家を通した幡多と南予の歴史的つながりの深さであろう。

 中村に羽生小路があるように、島には宮下小路、寺町小路の名もある。ここには中村よりもさらに小さな京都が残っていた。

 来年7月は兼定公四百三十回忌。ぜひ再訪したいと思う。


 高知新聞「声ひろば」
 2013.12.22

(戸島には宇和島港から高速船で約50分で行けます。)

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雲がちぎれる時

 伊豆田峠の中腹に最初のトンネルができたのが昭和三十四年。私は小学校一年生だった。当時としては驚くほどに長いトンネル(368m)ができたということで大騒ぎになり、父と兄弟でバスに乗って見にいったことを覚えている。

 その後、平成六年、麓にさらに長いトンネル(1670m)が貫通してからは、峠道は坂というほどの坂でなくなった。今ではアッと言う間に通り過ぎてしまう二車線の快適区間になった。

 私はこの九月、車で久方ぶりに葛篭山(テレビ塔)に登ってみた。いまのトンネルの手前を右に旧道に入り、しばらく登ると入口が塞がれてしまった旧トンネルにぶつかる。その右側に、石がころがるデコボコのひどい山道がある。これが旧々道で、途中で切り抜きを右に曲がって清水方面に向かっている。まっすぐ進めばテレビ塔だ。

 この旧々道を以前はバスが通っていた。切り抜きで車を止め、少し先を歩いてみたが、草木が茂り、とても前に進む勇気はなかった。清水側の市野々にも回り、そちらの登り口からも車で上がってみたが、途中木が倒れ、道を塞いでいた。

 トンネルができるまでの峠道とは、どんな道だったのだろうか。その頃を私は知らないので、映画「雲がちぎれる時」をDVDで観てみた。昭和三十六年の松竹作品で監督五所平之助、脚本新藤兼人。伊豆田峠でのバス転落事故を題材にしたもので、実際にバスを落としたロケが話題になった。私は中村の中劇でこの映画を観たことをかすかに覚えている。

 この作品は、昨年秋、市が企画した「映像の幡多上映会」でも、「祭りの準備」「足摺岬」「孤島の太陽」「四万十川」とともに候補にあがっていた。

 主演はバス運転手役の佐田啓二。相手役が二人おり、幼なじみの有馬稲子と車掌の倍賞千恵子(この時デビュー直後の二十歳)。佐田と倍賞は純愛関係にあったが、以前佐田と深い関係にあった有馬が地元(清水)に戻ってきたことから、佐田の心が揺れる。その葛藤の中で、過去のドロドロとした有馬との関係が浮かび上がり、それが映画の主題になっている。

 結局、有馬が再び去り、佐田の心が賠償のもとに戻り、結婚を約束した直後、トンネルが開通する前夜の最終便を運転する二人のバスが伊豆田峠から転落する。倍賞は佐田に抱きかかえられ奇跡的に助かるが佐田は死ぬ。峠で二人の愛がちぎれてしまうという悲劇で終わる、暗い映画だ。

 ロケは県交通の協力をえて、主に清水を舞台に行なわれた。伊豆田峠の断崖絶壁の道の映像が随所に出てくる。よくもあんな険しく狭い道をバスが通っていたものだと驚く。県交通中村営業所のなつかしい風景も映っている。

 私は今回はじめて映画の原作、田宮虎彦『赤い椿の花』も読んでみた。田宮の作品にしてはめずらしい長編だった。映画では脚色され、佐田と有馬の男女の絡みが軸になり、倍賞は脇役のような存在になっているが、原作は田宮自身が「あとがき」に「けわしい山道を走るバスの運転手を」書きたかったとあるように、命を削るようなきびしい労働環境にあるバスの運転手と車掌の物語であった。

 地元では話題を呼んだこの映画も全国的にみれば、当時もその後も高く評価されることもなく、今では埋もれた作品といえるのだろうが、昭和三十年代、地方においてバスが果たしていた役割を映した記録としてみれば、貴重な歴史資料になると思う。

 当時、バスは生活の主役であり花形であった。子どもにとって、バスに乗って中村に行くことは一大イベントだった。実崎の停留所でバスを待つ時の気持ちの高まりと乗ってからの期待、不安。満員で通過されることもたびたびで、その都度、大人たちが臨時を出せと言って騒いでいた。車掌は外にぶら下がっていた。帰る時は、県交通で先を争って席を取り合った。

 いまの子どもたちは、バスの車掌も、あのピッピッピと鳴らす笛の音も知らないのだろう。私にとって「おまち中村」の思い出は、あの満員バスと重なる。

 実際にバスの転落事故も多く、昭和三十二年、伊豆田峠で大方町伊田婦人会の人たちを載せた足摺行き貸し切りバスが落ち、運転手を含め五人が死亡。伊才原や佐田でも落ちた。どこも狭くてギリギリの道だった。

 当時県交通の運転手だった二人に話を聞いたが、伊豆田峠は中村―清水線が幹線だったので楽な方で、本当に怖かったのは富山の大用、竹屋敷方面や大正に抜ける杓子峠だったと言っていた。

 この映画の三年後、佐田啓二は山梨県で実際に車事故に遭い命を落とした。奇しくもそのあと追うように、映画で佐田のエキストラ役(顔は映らない)をつとめた運転手も病気で亡くなったという。佐田にとっても関係者にとっても因縁の映画になった。

 ちょうど九月七日、佐田啓二の娘、女優中井貴恵が絵本の読み聞かせの会で中村に来ていた。中村は初めてだというので、私は文化センターの会場で、お父さんの縁もあるので、今後も幡多、中村をよろしくとお願いしておいた。


「文芸なかむら」27号
 2013年12月

議会の節度

 土佐清水市議会の見識が問われている。
 12月議会において、市長が提出した副市長選任議案をまたもや否決した。9月議会に続いて2度目の否決である(2度とも6対7)。高知新聞で大きく報道されている。

 問題と思うのは、否決の明確な理由がないこと。副市長候補者は、誰もが知っている、直前までの市現役課長であり、人物に問題があるなら仕方がないが、そうではないらしい。副市長不在がこのまま続けば、円滑な市政運営にますます支障をきたし、一番困るのは市民である。議会は市民に対してどう説明するのだろうか。

 市長選挙直後の人事案件はむずかしい。選挙戦が激しいほどそうだ。議会で理屈が通らなくなる。隣の市のことではないかと言われるだろうが、私も市長時代、同様の経験をさせられただけに、書かずにはおられない。

 土佐清水市では今年5月に市長選挙があり、三つ巴の戦いで、新人候補が現職らを破り当選した。どんな選挙でも候補者も支援者も必死でがんばる。当然のことだ。市長選挙おいては、たいていの議員はいずれかの候補を応援する。その候補が当選すればいいが、落選をすれば悔しい思いをする。これも当然だ。しかし、その悔しさには、節度というものが必要である。

 土佐清水市では、当選をした市長よりも他候補を応援した議員の数が多かった。

 議会は主に市長(執行部)側が提案をする議案を審議するチェック機関であるから、賛否両論あるのは当然であり、予算を伴う議案等が否決されることはたびたびある。ただ漫然と賛成をするのではなく、厳しい意見を述べることは、むしろ議会が正常に機能をしていることの証でもある。

 しかし、副市長、教育委員などを選ぶ人事案件は他の議案とは性格が異なる。提案権は首長にしかないのだ。首長が提案し、議会はそれに同意をするか否かである。否決はできても、ほかの候補者を立てることはできない。

 他の議案ならば、議案を修正したり、最初から議員提案として別個の議案を提出ができる。しかし、人事案件については、それができないことに、地方自治法で定められている。

 その理由は、執行機関を円滑に運営していくためには、人と人の関係はきわめて重要であることから、首長に裁量権を与えているのである。しかし、問題のある人物が指名されることを防ぐため、そのチェック機能を議会にも与えている。このチェック機能がしばしば乱用される。

 よく考えてほしい。市長が選挙で当選をしたということは、人事案件についても市民から負託を受けたということである。その負託に対して、明確な理由もなく否決をするということは、市民の総意を踏みにじるということである。先の国会と同じ、数の横暴である。

 今回の背景にある裏事情は知らないが、たとえば議会の多数派に他に推薦をしたい人物がいるということならば、それは市長の裁量権を否定することになる。4年間がまんして、次の選挙でがんばればよい。

 また、事前に相談がなかったとか、根回しが足りない、とかになると議員のメンツの問題であり、何をかいわんやである。

 新聞報道によると、2度目の否決の理由に「前回と同じ者を提案してきた」ことがある。市長は本来就任直後の6月議会に提案をすべきところを見送り、9月議会に提案。その後も、推薦理由を何度も説明し、そのうえで納得のいく反対理由が出てこないことから再度提案をしたのだろう。だから、そんなことは理由にならない。

 選挙後にある程度の「しこり」が残ることはやむをえないが、ここまで来ると単なる「いじめ」にしか見えない

 そんな議会ならばいらないと、市民から見放されてしまうのではないだろうか。

角道謙一と住専問題

角道謙一さんが亡くなった。86歳であった。
私が30年間仕事をした農林中央金庫の元理事長である。

 角道さんは大阪生まれの海軍士官学校出。農林省(農水省)で事務次官を務めたあと、農林中金に迎えられた。野武士を思わせる白髪がトレードマークで、職員3千人の組織のトップとしては異色の、きさくで物腰の低い人であった。

 角道さんが理事長に在任された1991~2000年は、いわゆる住専問題で日本が揺れた時期と重なる。農林中金を頂点とする農協系統金融システム(農協→各県信連→農林中金)が世論やマスコミからの集中攻撃にさらされたが、角道さんは、その中にあってわれわれの立場を断固として主張し、農協組織を守りきった人である。

 住専問題については、もはや忘れてしまった人も多いと思うが、問題の本質は、バブル経済をつくりだし、その収束にもつまづいた当時の大蔵省が自らの金融政策の失敗の責任を、農協系統金融システムの問題に転嫁をするという、一大演出であったといえる。
 
そもそも住専(住宅金融専門会社)とは、1970年代、大蔵省が主導して銀行等に子会社としてつくらせた会社であり、銀行等と同じ大蔵省直轄の金融機関という法的位置づけであった。当時は住宅建設が盛んだったにもかかわらず、銀行はまだ住宅ローン等の個人ローンには積極的でなかったことから、住宅ローンを専門に行なう別働隊としての子会社をつくらせたのである。そのトップには大蔵省のOBがこぞって送りこまれた。

住専は、会社名で言えば、日本住宅金融、住宅ローンサービス、地銀生保住宅ローンなど、当時の分類で、都銀、興長銀、信託銀、地銀、相銀、生保、証券など、業態ごとの共同出資で計8社つくられた。一番最後にできたのが、農協系統グループによる協同住宅ローンであり、私はその設立(1979年)にかかわり、最初の出向メンバーになった。

各社とも出だしの業績は順調であったが、その後、母体行である銀行本体が住宅ローンに本格的に取り組むようになってきた、つまり親が子の領分に手を出してきたことから、住専各社は、やむなく本来の個人ローンから徐々に不動産開発案件等をてがけるようになり、その時期が、バブル経済時期と重なった。地価がドンドン上がり、世の中、狂ったように不動産投資が行なわれた時期である。

そうした中、政府は不動産投資の過熱化を抑え、地価の沈静化を図るため、各銀行に対して不動産融資の総量規制に乗り出した。しかし、住専と農協系統をその対象からはずしたのである。

住専各社の資金調達は、母体行からの借り入れを基本としていた。しかし、母体行からだけでは足りず、徐々に他業態からの借り入れも増やしていた。農協系統は恒常的に資金余剰であったことから、住専は格好の融資先であった。

農協(各県信連、共済連など)にとっては、住専は大蔵省が直轄する信用度の高い安全な融資先であり、銀行と同じ位置付けであったことから、この総量規制を機に、農協→住専へと大量に資金が流れたのである。資金の蛇口をこのような方向に向けたのは大蔵省であった。

ほどなく住専の巨額の不良債権(総額6.4兆円)があぶりだされることになる。これをどこが負担するかが大きな社会問題になった。

借りたカネは返す。住専にそれができないのなら、株主である親会社(母体行)が肩代わりをするのが当然である。子の不始末は親がみる。これが社会の常識である。しかも、信用が第一の銀行がその責任を果たさなければ、世の中の秩序というものが崩れてしまう。これが、農協側の主張であった。

これに対し、銀行側の主張は、借りたほうも悪いが、貸したほうも悪い。応分の責任を取るべきだという、子の不始末に頬かむりをするものであった。

政治も巻き込んだ調整が行なわれ、母体行に重いが、農協も負担をするという方向でまとまった。しかし、双方がどうしてもこれ以上は負担できないという額として6850億円が残った。

1996年通常国会は住専国会と言われたほどに揺れた。結局、この額は、日本の金融システムを守るという観点から、公的資金を注入する、つまり国民の税金を投入するということで決着した。そのさい、政府(大蔵省)がさかんに言ったのが、農協を救済するためにはやむをえないということ。農協を悪者にしたのだ。借金を踏み倒す者よりも、貸した者が悪いということだ。マスコミもそれに乗って、大々的な農協批判キャンペーンを行なった。世論もそれになびいた。

角道さんは、国会に参考人として呼ばれ、喚問を受けた。同時に呼ばれた銀行代表(全銀協会長、富士銀行頭取)は、弁舌さわやかに銀行の言い分を述べた。しかし、角道さんの言葉は決して流暢ではなかった。ぼそぼそ、トツトツと。普段通り、歯がゆいほどにゆっくりと質問に答えていた。

言葉の重さというものは、流暢さとは別物である。どれだけ理屈が通っているか、また発言者がどれだけ信念をもっているか。その差は歴然としていた。

 住専8社は1社(協同住宅ローン)を除き、破綻処理された。農協系統グループの協同住宅ローンは、他住専同様、相応の不良債権を抱えていたが、どこにも迷惑をかけず、自力で再建をなしとげ、いまも営業を続けている。

 金融機関の破綻処理に公的資金が投入されたのは、日本ではこの時が初めてであったことから、6850億円という額に、みんなが驚いた。しかし、その翌年(1997年)には、山一証券と拓銀、翌々年には、長銀、日債銀の破綻などが続いた。その他、経営安定化のための資金を含めると、何兆円という規模の公的資金が次々と投入をされたことは記憶に新しい。

 これに並行して、金融界の再編淘汰はすさまじいものがあり、たとえば当時の都市銀行はどこも残っていない。都市銀行という分類もなくなった。いまでは、東京三菱UFJ、みずほ、三井住友が3大メガバンクと呼ばれている。

 金融界の再編はとどまるところを知らない。次の波がやってくるのも時間の問題であろう。そうした中、あれからまだ17年なのに、住専問題のことは、霞の中に消えかかっている。

 しかし、金融機関の大義が問われた巨大な渦の中で、筋を通した人がいたことを、私は忘れない。

 角道謙一さんに合掌。

中村と四万十

(6年前に書いたものです) 

 ふるさと中村を離れて久しい。高校を出てからは東京での生活が中心であったが、就職後は九州から北海道まで転勤も経験した。各地で自分の出身地をきかれると、自信をもって「高知県の中村です」と答えた。中村を知らないという人には、京都のお公家さんがつくった町で「土佐の小京都」と言われ、高知市よりも歴史が古いと胸を張った。勝手な自己満足かもしれないが、私のこだわり、誇りであった。

 昭和五十二年、中村高校が甲子園で準優勝してしばらくは「あの高校野球の・・・」と言ってくれる人がふえた。その後、最後の清流ブームが押し寄せてきてからは「あの四万十川の・・・いいところですね」と、こちらがいちいち説明する必要もなくなった。

 私の実家は四万十川の河口近くで、子供の頃、夏は一日中、真っ黒になって泳いだり、魚を釣ったり、シジミを掘ったりした。どの家にも川舟があり、川は生活の場そのものであった。地元ではホンカワ(本川)と呼んでいたが、この川が有名になりテレビなどに登場するとうれしくてたまらなかった。職場で私の四万十川自慢、ふるさと自慢は評判になり、上司・先輩から「よー、四万十川」とからかわれたりした。

 いまや四万十川を知らない日本人はほとんどいない。全国ブランドになった。しかしながら、最近の私は四万十川の話題を振られても「昔はもっとよかったけれど・・・」とあまり深入りしないようにしている。地場零細企業が急成長し全国展開のために本社を東京に移し地元色が薄れるというか、自分だけのものと思っていた宝物をいつのまにかみんなが手に入れてしまったことを知ったあとのむなしさのようなものであろうか。以前のようなときめきが今ではなつかしい。

 二年前に中村市が四万十市になった。平成の大合併という激流の中で、合併の是非は措くとしても、なぜ中村の名前を残せなかったのだろうか。合併で市の名前が変わろうとも、中村の町がなくなったわけではないし、ほかにも新しい名前の市や町がたくさんできているではないかという人がいる。

しかし、四万十市の場合、多数合併ではなく、西土佐村とだけの合併でしかも規模からすれば、高知市が春野町を編入するのに市の名前を変えるようなものである。西土佐村の人たちも同じ生活圏である中村というなじみ深い名前に抵抗はなかったはずである。

 ふるさとの人たちは、自分の市の名前が全国ブランドになったことを本当に喜んでいるのだろうか。私は、四万十川がいまほど全国に知られていないときにこの名前になったのなら、これほどの寂しさは感じなかったであろう。ふるさとを離れた人間にとって、ふるさとの呼び名が全国ブランドに変わることは、自分という存在の原点が拡散してしまうようなものである。しかもその後、隣に四万十町もでき、地元同士でふるさとを曖昧模糊にしてしまったように思う。
 
 中村も四万十も私にとってかけがえのないふるさとであり、ともに大切に思う気持ちに変わりはない。しかし、いまでは二つの言葉の響きには大きな違いがある。
 
 いま私は、中村を紹介するのに苦労した頃をなつかしく思い出している。中村はローカルブランドのままでいつまでも地元に深く根を張っていてほしい。ナンバーワンでなくオンリーワンがいい。私はこれからも中村出身ということにこだわっていこうと思う。


高知新聞「月曜随想」2007・9・3
田中全『わがふるさと中村』所収

唐津 侘びとさび

 11月21日朝、博多から唐津に向かった。いよいよ、この旅の最終目的地だ。胸が高まる。

 西に向かい、姪浜から都市高速に乗る前に、インター近くの障害者支援施設「工房陶友」に立ち寄った。ここでは器などを窯で焼いて販売している。ここの陶芸教室に、私の妻が通っていたのが縁で、代表の大脇友弘さんとは、いまFB(フェイスブック)友達になっている。年末恒例の「陶友祭」向けて、追い込み作業中であったが、妻は以前お世話になったみなさんに会え、感激。馴染みのある器をたくさん購入した。これからも、九州やきのも巡りでは、欠かせないところになった。

 都市高速は、隣の前原まで延びていた。いったん一般道に降り、佐賀県に入ると、新しく西九州自動車道ができていたので、終点、北波多インターまで車を走らせた。ここにある岸岳の麓が唐津焼のルーツだ。朝鮮から連れてこられた陶工たちがここに窯をつくった。

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 唐津では最初からお付き合いのある浜本洋好さんを訪ねた。その後、東京の個展ではお会いしたことがあるが、唐津でお会いするのは17年ぶり。今年の東京での個展から帰られたばかりであった。個展直前に窯出しをしたので、作品もたくさんあった。私の好きな斑唐津や朝鮮唐津のぐい呑みや徳利が、展示室だけではなく、作業部屋にも見事に並べられていた。ツバをぐいっと呑み込む。息が止まりそうであった。
 浜本さんも歓待をしてくださり、約3時間たっぷり、作品を眺め、さわるなど、楽しませてもらった。どれもこれも、ほしいものばかりで、選ぶのに苦労をしたが、酒器や皿、椀などをいただいた。

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 そのあと、唐津駅前の市中心部に出た。唐津焼協同組合の展示場や、古い商店街の中にある唐津焼販売店などを、暗くなるまで梯子した。以前と違うのは、地元でも唐津焼を観光資源として重視し始めたようで、各窯元などをていねいに紹介するパンフなどもできていた。作家の数も、だいぶふえていた。

 駅に近いホテルに泊まり、翌22日は、朝、鏡山に登った。唐津の町と虹の松原、玄界灘を一望できる。唐津湾に浮かぶ城、おむすびのような高島などが手にとれる。玄界灘は太平洋とは違う、濃いブルー。
唐(中国)や朝鮮につながる津(港)であったここは、異国のようでもあり、また日本の原点のような城下町。底知れぬ、深さと渋さ。侘びとさびの世界に通じている。自分はやはり日本人なのだ・・・この雰囲気が身にしみこむ。

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行政としての唐津市は、平成17年、松浦半島一帯の8町村と合併したが、唐津の名はそのまま残っていた。中村市はたった1市1村の合併であったのに、四万十市に名を変えた。残念なことだが、住民意識の底の深さが違うのだろう。唐津焼の古い窯跡などは、旧唐津市内だけでなく、松浦半島一帯に分布しており、いまの窯元や作家なども同様に広く点在をしていることからすれば、大・唐津市の名前は歴史に裏付けられた、ピッタリの名前だと思う。

旧鎮西町の窯を訪ねたあと、呼子の港に出た。朝市は終わっていたが、お昼の時間になったので、名物のイカ丼を食べた。とれたてのイカを、その地で食べることほど、贅沢なものはない。

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玄海町(原発がある町。ここだけ合併をしていない)の窯にも立ち寄ったあと、旧相知町へ向かった。ここは歌手、村田英雄の故郷で、その記念館がある。それよりも、蕨野の棚田を訪ねた。全国に棚田は多いが、ここの棚田が名実ともに規模日本一。重要文化的景観にも指定されている。麓の集落から、峠道に添って、複数の谷ごとに網をかけたように棚田が広がっている。日も傾き、暗くなりかけており、帰りの時間が迫っていたので、ゆっくりと見られなかったのが残念。しかも、稲が刈り取られたあとの、寂しい景色であった。いずれあらためて、早苗や稲穂の季節に来てみたい。

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山を降りれば、すぐに多久インターであった。夕方5時近かった。ここから長崎自動車道に乗り、久留米を経て、来た道の大分自動車道に入り、別府、大分から佐伯に着いたのは8時ごろ。高速に乗ればアッという間だ。
佐伯からはフェリーで3時間20分、宿毛着深夜0時過ぎ。中村の家には1時着。
4泊5日、「九州やきのも 思い出さがし」の旅が終わった。

唐津を最後にしておいてよかった。
やはり、カラツ(やきもの)は唐津であった。
侘びとさびの世界へ、これからも何度も行くつもりだ。
 

四万十川アピール

「福島を忘れない! 伊方を稼働させない」
12月1日、「NO NUKES えひめ 1万人集会」があり、松山へ行ってきた。
幡多からバス3台満員で。会場の松山城下広場には、四国内だけでなく、全国から大勢の人が集まっていた。

あいさつは、鎌田慧(ジャーナリスト)、秋山豊寛(宇宙飛行士)、山本太郎(参議院議員)らが行ない、三宅洋平の音楽もあるなど、多彩な企画だった。城山を一周する市街地デモ行進では、小雨を吹き飛ばす熱気だった。

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 昨年7月、四万十川流域の首長に呼びかけ、5市町長共同で脱原発をめざす「四万十川アピール」を発表した。愛媛県伊方原発から四万十市や梼原町までの距離は50キロ圏内である。
このアピールの趣旨に沿って、今回はじめて私はこのような集会に参加した。
「四万十川アピール」の全文は以下の通りです。

 
 <四万十川アピール>

 原子力発電に頼らない自然エネルギー(再生可能エネルギー)への転換を進めます

 四万十川は源流から河口まで、全国の河川で唯一、流域全体が重要文化的景観に指定をされています。
 文化的景観とは、自然とかかわる日々の暮らしの中で人々が造り出してきた風景のこと。四万十川は日本最後の清流と言われていますが、それは単に豊かな自然が残っているからだけではなく、流域には、棚田、沈下橋、伝統漁法など、自然と調和し、共生してきたわれわれの祖先の生活の姿がいまもなお息づいているからです。
 日本人は昨年3月11日、東日本大震災を経験しました。巨大防潮堤を軽々と砕き、乗り越え、原子力発電所をものみこんだ大津波。自然の猛威の前には、人間による制御など到底及ぶものではないことを思い知らされました。
 福島第一原子力発電所の事故では、大量かつ高濃度の放射性物質が放出、拡散され、広い地域が放射能で汚染されました。その影響は、はかり知れないものがあります。多くの人々が、住み慣れた土地を離れ、職を失い、厳しい生活を余儀なくされており、いまだその解決の目途はたっていません。
 われわれは人類の英知による科学技術の進歩を否定するものではありませんが、日本が有数の地震津波国である以上、今後も原子力発電所はその脅威から逃れることができない宿命にあると言えます。
 四万十川流域に暮らすわれわれは、流域の豊かな自然や環境を守り、また祖先から引き継いでいる生活、文化等を後世に伝えていく義務があります。
 そのためにも、今後は原子力発電に頼らない自然エネルギー( 再生可能エネルギー)への転換を進めていくことを、ここに表明します。

2012年7月6日

檮原町長  矢野富夫
津野町長  池田三男
中土佐町長 池田洋光
四万十町長 高瀬満伸
四万十市長 田中 全

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http://shimanto.or.jp/wordpress/?p=1188
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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