久栄岸橋

久栄岸橋(くえきしばし)が土中から姿を現した。
中村の街中を流れていた、旧後川にかかっていた橋である。

中村は、四万十川本流と支流の後川の合流地点、デルタ上に乗っかった町である。後川は安並、佐岡、古津賀を通り、直線的に流れているが、これは矯正された流れであり、以前はいまの東町交通公園あたりまで食い込み、旧警察署から八反原方面に湾曲して流れていた。

橋は中村の東玄関口にあたり、古くは木の橋であったが、大正13年、幡多地方で最初のコンクリート製の橋(長さ63m、幅6m)となった。

当時は、両岸に柳の木が生い茂り、夏には大人も子ども水浴びをする町民憩いの川であった。上林暁の小説にもたびたび登場する、中村の町のシンボルであった。

しかし、昭和10~15年、川の付け替え工事により、いまの流れとなった。

旧河川は、どぶ川のごみ捨て場として残っていたが、戦後の都市整備事業の中で、昭和30年ごろまでに埋め立てられた。その際、橋は壊されることなく、そのままの姿で埋め込まれた。場所は、いまの一條通り4丁目と5丁目の境界の道路上である。

いわば手抜き工事で埋め込まれたので、橋げたの下部分は地中で空洞になっていた。来るべき南海地震への対策として、これを放置することはできないことから、このたび、市の事業として、いったん橋を掘り出し、橋げたを壊してから空洞部分にも土を入れて、地盤を固める作業を行なっているのである。

1月17日には、工事現場で、市民向けに事業説明会が行なわれた。郷土史研究者が橋の歴史等について説明。東山小学校の生徒らも、社会科見学として参加した。

久栄岸橋は、かつては中村の人たちの生活に溶け込んでいた。橋は消えても、中村の生活文化遺産として、後世にしっかりと語り伝えていきたいものである。

この場所には、橋の所在を示す標識のようなものを残すことにしている。

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石見寺山

 正月4日、石見寺山にはじめて登った。

山は比叡山、麓にある寺(石見寺)は延暦寺に見立てられている。まわりは旧東山村。中村の町を囲む後川(鴨川)の対岸にあたる。小京都の借景だ。

 私は5年前、ふるさとに帰り、毎日この山を眺めてきた。いつでも登れる、いつかは登りたい、近くて遠い山だったが、新年が後押ししてくれた。

 四国八十八霊場の石仏が道しるべとなっている山道は思いのほか険しかった。汗をかきかき、椎などの常緑樹の林をくぐり抜け、約一時間で頂上へ。

 視界がぱっと開けた。太平洋、四万十川河口、赤鉄橋、中村の街並、堂が森、北幡の山々が手に取れる。三六〇度のパノラマ。

 こんなにすごい景色が全国のどこにあるだろうか。

 灯台の下は暗い。地元のすばらしさは地元ではわかりにくい。山を降りると、正月帰省客のUターンラッシュのいつもの報道がされていた。

 風景や歴史、文化だけでは人は食っていけない。しかし、人は何に価値を見つけ、自らの存在意義を何に求めるのか。

 もう一度じっくり考える年にしなければならないと思った。

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父を送る

 1月19日、父を送りました。
 父は大正14年生まれで、享年90歳(満88歳)でした。

 父は祖父が大正8年に開設した八束郵便局を引き継ぎ、郵政事業一筋に携わってきました。この間、地元八束の皆さん、並びに郵政関係者の皆さんには大変お世話になり、支えていただきました。

 父は旅行が好きで、郵便局長仲間と一緒にたびたび出かけていました。もともとの「家業」の農業のほうは、母に任せるというより、もっぱら押し付けていました。母は文句も言わず、農業のかたわら、冬場には家の前の四万十川で青ノリやシラスウナギを採っていました。

 父は、退職後も相変わらず、マイペースで気ままな生活をしていました。好きな本を読んだり、短歌をつくったり。家の周りを散歩するのが日課でした。

 体への無理がたたったのか、若い母のほうが先に足腰が弱ってきて、ほどなく寝たきりのような状態になりましたが、母の介護は父がほとんど一人でやりきりました。在職中には母をほったらかしていた、あの父にしては信じられないような献身的な7年間でした。父は母に対してきっちり、埋め合わせをしたのだと思います。

 こうして7年前に母が先に逝きましたが、父はその後も比較的元気でずっと家にいました。しかし、最近は「同級生たちもほとんどいなくなった。もう十分に生きてきたので、早くポックリといきたい」などと、さかんに言っていました。
 父が最近、『文芸なかむらに』に寄せた短歌に、こんなのがあります。

 妻逝きて 独立独歩で吾は生き 頓死願いつ 日日を過ごせり

 寂しさも 孤独もなく 生きており 寝付かず ただ頓死を祈りつつ

 父は、1月10日の夜は普段通り寝ましたが、翌朝、布団の中で意識を失っていました。救急車で市民病院に運ばれました。検査をしたところ、脳のすき間に血がたまっている、硬膜下血腫でした。意識が戻らないまま、8日後、静かに眠るように息を引き取りました。大変やすらかで、満足そうな顔でした。
 
 父の希望どおりの最期でした。父はあちらで、やったぞと言って、笑顔で母に会っていることでしょう。きっと神様が、母の介護をしっかりとやったご褒美をくれたのだと思います。

 残された家族としては寂しい思いはありますが、大願を果たした父に対して、「よかったね」と言ってやりたいと思います。

 私もいずれ父にあやかたいです。

二つの「四万十」に不信感

(2006年、高知新聞への投稿)

 3月20日、合併により新たに四万十町が誕生した。
これで市と町、二つの「四万十」が隣接することになったが、私はこうなった経過に強い不信感を覚える。
それは二つの合併の軸になった旧中村市と旧窪川町の主体性に対する不信感である。

 まず、両者ともに、そもそも自立への努力説明がほとんどなされないまま、最初から合併ありきのスタンスであった。周辺町村との複数の合併構想に揺れ、当初の構想と異なる組み合わせという結果になったが、その過程では、新しい市・町づくりの具体的プラン等の中身の議論は少なく、いずれの組み合わせでも合併後の名前「四万十」だけが先行・既成事実化していたように思える。

 旧中村市と旧窪川町は、人口、経済力等、どの指標をみても圧倒的に地域の中核であることからすれば、歴史と由緒のある自らの名前の継続を自信を持って主張することは至極当然と思うが、最初から気前よくそれを放棄し、なぜ「四万十」にこだわったのか。しかも、合併の是非を含め、住民投票等による民意に諮ることもないまま、誰がどのようにして四万十に決めたのか納得感がない。

 おそらく行政首脳部は全国的に有名になった四万十ブランドにあやかろうということであろうが、それは合併のリーダーとしての自信のなさの表れではあっても、四万十川を本当に愛し大切にすることにはならない。

 それどころか、二つの「四万十」が並存することは、結果的には寄ってたかって最後の清流の希少価値を引き下げたことになるのではないか。

 全国的にも、最近の政府主導による平成の大合併は、中身よりも枠組み優先の弊害が多くみられるが、二つの「四万十」には、その名前に恥じないような透明な行政運営のもと、実態のある議論により、誇りのもてるふるさとづくりを進めていただくよう、強く望みたい。      


高知新聞「声ひろば」2006・3.24
「わがふるさと中村」所収


ラグビー

 きのう全国高校ラグビー大会の決勝戦があり、東海大仰星(大阪)が桐蔭学園(神奈川)を破り優勝した。

 私はラグビーをしたことはないが、見るのが好きだ。東京秩父宮や大阪花園のラグビー場には何度も行った。

 好きな理由は、チーム(組織)でたたかうことに徹したスポーツであるからだ。私が信奉する協同組合理念「一人は万人にために、万人は一人のために」を地で行っている。

 組織のために個を殺す。個を活かすために組織が動く。スクラム、モール、ラックなどのプレーは個の塊(かたまり)である。ボールを活かすも殺すも塊である。泥まみれのぶつかり合いは、人間の闘争心の原点であり、テクニックとは無縁。スター選手はいらない。

 もう一つの理由は、紳士のスポーツであること。ノーサイド精神だ。ゲームが終われば、敵も味方もない。だから、延長戦はない。同点なら両チーム優勝(決勝戦)か、くじ引き(予選)だ。チーム関係者は、みんなネクタイをつけて応援する。

 ラグビーにはアマチュアリズムの伝統がある。長くプロ化を排してきた。最近でこそ、プロに近い社会人ラグビーが目立ってきたが、人気は学生ラグビーのほうが高い。私も高校、大学ラグビーが好きだ。

 その学生ラグビーであるが、最近では、高校は西、大学は東が強いことが完全に定着している。

 きのうの高校ラグビーも西(大阪)が勝った。これで、全国大会では1998年以降、16大会連続で西が優勝している(2011年は東西両校優勝)。そのほとんどが関西勢だ。

 大学ラグビーは逆で、1986年以降、28年連続して関東の大学が優勝している。今年はベスト4がすべて関東勢で、1月12日に決勝戦(帝京―早稲田)が行なわれる。

 なぜ、こうなってしまったのだろうか。
 まず、高校については、野球で言えば、過去は西が強かったような気がするが、昨年夏は前橋育英(群馬)が優勝したように、いまは東西の差はないと思う。

 サッカーはどうか。Jリーグ誕生以降、サッカー人気に押され、学生間でも泥臭くみえるラグビーよりも、派手で、個が目立つサッカーに選手がシフトしていると言われている。Jリーグのチームは関東中心に東に多い。ならば、高校サッカー優勝校も東が多くなっているかと思い、調べてみたが、そうでもない。過去と大きな変化はなく、東西均衡している。

 高校ラグビーについては、原因がよくわからない。

 しかし、大学ラグビーについては、原因ははっきりしている。西の高校の有力選手の多くが関東の大学へと進むからだ。いま4連覇中の帝京大学は、レギュラー選手の大半は関西、九州の高校出身者だ。他の強豪大学も同じ。名前は関東でも中身は関西だ。「羊頭狗肉」という言葉を思い出す。

 これではおもしろくない。ラグビー界のためにもならない。サッカーに押され、ますます人気が落ちていくだろう。強いチームが西と東にバランスよくあってこそ、応援にも熱が入るし、普及にもつながる。

 こうした現象を防ぐためには、特に関西の有望選手は地元の関西の大学へと進んでほしい。大学での関西勢の優勝は、1983~85、3連覇した同志社大学が最後である。そのチームには、平尾、大八木など、高校時代、京都・伏見工業で全国優勝したメンバーがそのまま地元に残っていた。

 スカウト合戦になれば、ヒト、モノ、カネがモノを言う。規模が大きい、力の強い方が勝ち残る。前号で書いた箱根駅伝もだ。スポーツの世界も、競争原理至上主義、経済の新自由主義と同じなのだ。

 2020年の東京オリンピックに向けて、東京一極集中はさらに進むだろう。
 地方を守っていくためには、相当の覚悟で臨まなければならない。

箱根駅伝

 正月の楽しみの一つが大学箱根駅伝だ。今年も2日間、テレビの前で楽しませてもらった。今年は、これまでと違い、自分自身が去年から本格的???(というと恥ずかしいけれど)に、ランニングを始めたことから、ことさら興奮をしてしまった。

 この駅伝は大正9年(1920年)に始まり、今年が第90回という、長い伝統をもつことから、国内の各種駅伝大会の中で最も人気がある。

 その理由は、東京~箱根(108キロ)を往復するというコース設定のすばらしさに加え、正月2,3日に行なわれるという日程がいいこと、にあるらしい。テレビ中継が始まってからは、家でゴロゴロして見る正月番組として完全に定着をしている。視聴率も30%近くで、いわゆる「お化け番組」という。

 ところで、この駅伝を楽しんでいる自分が言うのはおかしいことはわかっているけれども、私はこの番組を、いつも心苦しい、後ろめたい気持ちで見ている。

 というのは、この駅伝は「東京一極集中」「東高西低」を象徴し、促進する一大イベントであるからである。この大会の主催者は関東大学陸上競技連盟であり、関東の大学でなければ出場できないのだ。

 学生、社会人を問わず、どんなスポーツでも国内で最も権威がある大会は「全日本」と名のつく大会であろう。そこで名実ともに日本一を決める。

 しかし、唯一の例外が大学駅伝であると思う。

 実は大学駅伝でも、「全日本」を冠した大会が11月、伊勢路で行なわれており、全国の大学が出場できることになっているが、この大会の歴史はまだ45回で箱根の半分。また、「全日本選抜出雲駅伝」もあるが、これも25回である。

 大学の駅伝チームは、これら3つの大会を年間目標に据えているが、ダントツに位置づけが高いのが箱根。全国の高校生ランナーにとっては、箱根を走ることが夢である。だから、有望選手はみんな、関東へ、関東へと進学する。大学側も猛烈なスカウト合戦を展開しているときく。新興大学などは、知名度アップのための営業戦略として、ケニア出身の留学生なども受け入れている。高校野球の「甲子園」と同じ現象である。

 私は、もろもろの東西対抗戦では、西を応援する。プロ野球もアンチ巨人で,トラキチを通している。大相撲では東の横綱の位が高いのが気に入らない。理由は理屈抜き、自分が西の生まれだからだ。東は権力の象徴にみえる。

 ならば、お前はなぜ東京の大学に進んだのか、東京本社の会社に就職をしたのか、と問われれば、返す言葉はありません。若いころは、こんなことは考えたことがなかった。還暦をすぎ、人生の第一ステージを終えた、いま時点での「総括」として、こう思うのです。

 競争、格差、貧困、過疎、高齢化・・・いまの日本社会の諸問題の象徴が「東京一極集中」。近代日本、特に戦後69年の歩みが、こんなに「いびつな」社会にしてしまった。なのに、TPP、新エネルギー政策(原発への回帰)など、さらにアクセルを踏み込んでいる。

 東京には多くの情報が集まるが、だからといって、東京にいれば、すべてが見えるわけではない。矛盾がより大きく露出している地方にいてこそ、「真実」がよく見え、日本全体を見通せる、のだと思う。

 私はそう確信している。
 いまさら、東京に未練はない。

 だから、今年も「幡多と中村から」発信していきたい。
 ここで考えていきたい。

 駅伝選手のように、息をハ~ハ~切って「走り」ながら。
 今年もどうぞ、よろしくお願いします。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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