侏儒国

侏儒(しゅじゅ)と読みます。小人(こびと)のことです。侏儒国とは小人の国。「魏志倭人伝」に出てくる、邪馬台国の向こうにあるとされる国である。この国は幡多地方にあったが巨大地震で消えた、と言う。

幡多地方は過去から繰り返し地震津波の被害を受けてきた。約100年に一度来るとされる次の南海地震(南海トラフ巨大地震)に向けた防災対策を、幡多6市町村連携して取り組んでいる。

四万十市では地震津波対策を進めるにあたってのアドバイザーとして、昨年度から都司嘉宣先生(つじよしのぶ、元東大地震研究所准教授)に就任していただいている。都司先生を講師として、2月22日、合同の防災講演会(研修会)を本市中央公民館で開いた。そこでの話。

「魏志倭人伝」には卑弥呼のいる邪馬台国が記されており、その場所がどこか(北九州、近畿?)の論争があるが、ほかにも「皆倭種国」、「侏儒国」などが紹介されているそうだ。そこまでは知らなかった。

都司先生は、邪馬台国=北九州説に立ち、そこから方角、距離の記述を解き、侏儒国は幡多にあたると言う。侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の「人」が住んでいた、と記されている。

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2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長がわずか1mほどの「こびとの人種」の化石が見つかっており、フローレス島人(ホモ・フローレシエンス)と名付けられた。この人骨は1.8万年前に生きた異種人種(今の人類=ホモ・サピエンスとは違う)であり、こうした異人種はこれまで20種類ほど知られているという。

フローレス島人が、海流に乗って幡多にやってきた・・・という推論である。

都司先生は、今回、四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけた。人間の顔をした猿とか、小さな妖怪など、伝説・架空の生きものとされているが、この「猩々」が「こびとの国」の人ではなかったのか。(猩々には、猩々バエ、猩々トンボ、などの言葉もある)

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高知大学岡村真教授グループが県内の古い地層を調査し、2000年前に巨大地震があった痕跡が出てきたと、最近発表している。その頃といえば、「魏志倭人伝」の時代とも重なる。侏儒国の話とつながる。

都司先生は歴史地震学の第一人者。「歴史地震」とは、過去の資料・記録から地震の規模や被害を読み解き、その地方の地震の「くせ(特徴)」を割り出し、いまの対策に活かす手法。歴史学や考古学につながる分野である。

講演のあと調べてみたが、侏儒国=幡多説、はほかにもあった。
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai08.htm


いまのところ幡多地方では、人骨の発掘など「こびとの国」を裏付けるものは見つかっていない。

ロマンに富んだ推論である。やはり、幡多はよそとは違うのか?
しかし、重要なことは、ロマンにとどめず、巨大地震への警告として受け止めなければならない、ということだろう。

江藤新平

 先に東洋町に出かけたのは町長に会うほかに、もう一箇所、行きたいところがあったからだ。江藤新平が最後に捕縛された場所である。

その場所をしるした石碑は甲浦小学校近くの「平和公園」(平和の塔、忠霊塔、日露戦役記念碑などもある)の一角に建っていた。「江藤新平君遭厄之地」と刻まれている。大正6年、甲浦青年団建立とある。

傍らの「江藤新平・甲浦遭厄の標」には、「東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する」と書いてある。

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 解説文は以下の通り。

 「 明治5年、司法卿や参議に就任。明治6年政変後に野に下る。明治7年、板垣退助、後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は日本近代政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など、国民の基本的人権の礎を築いた。佐賀の乱(明治7年)により、政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日、ここ甲浦の地で捕縛された。」

 江藤新平は地元の佐賀から薩摩に逃げ、西郷隆盛に会ったあと、土佐の同志を頼って宇和島に上陸した。そのあと山を越え、西土佐に入った。権谷、津野川を下り中村へ。宿毛に林有造を訪ねたが高知にでかけており不在で、平田に引き返したあと三原に入り、清水側から伊豆田峠の遍路道を越え、津蔵渕に降り、四万十川河口を下田に渡り、伊屋(現・双海)から舟で高知へ向かった。追手を巻くためか、複雑なコースをたどっている。(以上「中村市史」による。)

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 高知では、ひそかに林有造、片岡健吉に会ったが、取り締まりがきびいしいことから逃亡は困難と判断。大阪経由で東京に出て自首し、自らの主張を述べようとしたが、大阪に渡る直前、甲浦でつかまってしまう。

新平は東京行きを願ったが佐賀に帰され、裁判にかけられ即日斬首。自分がつくった司法制度により裁かれるという皮肉。判事は元部下。司法卿までつとめた人間をさらし首にするという、政敵大久保利通の怨念がこもった措置であった。新平41歳。

新平は幡多では、行きずりの民家で一宿一飯を受けている。津野川、伊豆田峠、伊屋などでは、その家の名もわかっている。伊屋の家には、新平がお礼にと残していった、炭火式火あぶりが残されている。
 
権力の絶頂から政変で罪人とされ、さらし首。
私は前の仕事で福岡にいたとき、佐賀県も担当し、多くの人たちとお付き合いをした。頑固で一徹、議論好き、そして酒が強いところは土佐人と共通している。

 明治維新の功は薩長土肥にあるが、その後の明治政府においては薩長が主導権を握り、土肥は排除されていく。立ち回りが下手というか、要領が悪いのが土肥。その典型が江藤新平であるだけに、親近感があり、同情を禁じ得ないところである。甲浦青年も碑に「遭厄」(わざわいにあう)と刻み、新平の無念を伝えている。

政変後の権力者は容赦がない。
そういえば歴代首相では長州(山口県)出身者が最も多い。
今の安倍普三氏もその一人である。

東洋町

 2月19日、東洋町に行ってきた。
 同町は高知県の東端で徳島県と接している。私はこれまで室戸岬を越えて東には行ったことがなかった。われわれ幡多、西の人間からすれば、高知市から東、特に安芸市から向こうは同じ県とはいえ、ほとんど縁がない。ましてや、室戸から向こうとなると、国そのものが違うという感じだ。

中村から高知市までが110キロ、さらに110キロも先なのだ。片道5時間。高速を使えば、松山、高松、徳島のほうがはるかに近い。

そんなに遠い東洋町へなぜ出かけたかというと、同じ県内なのだから一度は行って見たかったことと、「核騒動」のその後がどうなっているのかを知りたかったためだ。松延町長に会った。

 7年前、当時の町長が突然、独断で、高レベル放射性廃棄物最終処分場の誘致に向けた調査に名乗りをあげた。核廃棄物処分場に地元から手をあげたのは全国初ということで注目を浴びたが、これが混乱の始まり。町長は、過疎が進み、行く先が見えない町の将来のための「切り札」として、多額の補助金等がもらえる同施設の誘致を考えたという。

町長は民意を問うとして辞任し、再選挙に打って出たが、受け入れ拒否を掲げた対立候補に大差で敗れた。議会も受け入れ拒否を決議し、この問題そのものはすぐに決着した。

しかし、余波が大きかった。もともと東洋町になる前の地域間対立(昭和34年、甲浦町と野根町が合併)が潜在する土地柄のうえに、新町長の強引な町政運営も手伝って、様々な地域の問題が噴出。町が多くの裁判にかかわるなど、混乱はむしろ拡大した。新町長は、1期4年で今度は逆に大差で退陣を余儀なくされた。いまは、松延町長がその収束に腐心をしているところだ。

 原発は地域を分断する。最近、高知新聞で伊方原発(愛媛県)ができたさいの地元の実情を振り返る連載記事があった。町は地元には原発を誘致することを隠して、町職員がひそかに土地の買収交渉を進め、目処がたったところで四国電力が表に出る。地元は大混乱するが、もう遅い。対立と不信。住民同士は正直にモノが言えなくなる。地域社会が崩壊する。

東洋町の主産業は農業(ポンカンの産地)と漁業。甲浦港は、かつては大阪―高知を結ぶフェリーの中継港であったが、フェリーも途絶えて久しい。わずかに甲浦から徳島方面に鉄道(第三セクター)でつながっているので、経済圏はむしろ徳島県だ。

いまの人口は2800人台にまで減少。過疎化に歯止めがかからないのは高知県内どこもそうだが、ここをふんばり抜くためには、地域のまとまりや結束力、人と人とのつながりが大前提になる。

 今でもマスコミからの取材は多い。触れられたくない過去を早く忘れてほしい、と町長は言う。得体のしれない怪物に翻弄された傷の深さは、夕暮れの海の底までつながっているのだろうか。

 暗い気持ちで中村に帰りついたのは、夜10時を過ぎていた。

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高知龍馬マラソン

 2月16日、高知龍馬マラソン(42.195キロ)を走った。
 大会へは応募7995人から抽選に受かった5586人がエントリー。関東地方の大雪などで来られなかった選手がかなりいたようで、実際走ったのは4853人。県庁に近いスタート地点の電車通りは選手で埋め尽くされ、午前9時の号砲から、私がいた最後尾がスタートするには6分近くかかった。

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私は昨年10月、四万十川ウルトラマラソン60キロを走ったが、フルマラソンは初めて。ウルトラでは、とにかく9時間半の制限時間内にゴールすることが目標だったが(結果は9時間16分)、今回は少し自信がついたので、一応の目標を制限時間(6時間)より早い5時間半と、「歩かず完走」におき、できれば5時間を切りたいとの欲ももった。1キロ7分ペースで走れば、5時間を切れる計算になる。

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コースは電車通りを東に走り、南国市に入ったところで南に折れ、太平洋へと向かう。20キロまではセーブしながら、予定通り6分半ペースで走れた。幸い、快晴微風の絶好の条件。まわりも調子がよさそうだ。

しかし、中間点を過ぎたころから、だんだんとピッチが落ち、苦しくなってきた。23キロ地点には最大の難所、高さ45メートルの浦戸大橋の登りがある。ランナーの半数は歩いていたが、なんとか止まらず登りきった。橋を降りると桂浜だが、ここらあたりからペースは7分を超えた。

太平洋に沿った直線の「花街道」の中間、30キロを過ぎると8分台。前半の貯金がなくなる。35キロで9分台。ここらからは、走っているのか歩いているのか分からない。体もフラフラ。まわりも半数ちかくが歩いているが、とにかくその誘惑には負けないように、足を絞り出す。

40キロでは10分台。ゴールの春野運動公園陸上競技場の手前1キロの登りは壁のようだった。フィニッシュは5時間17分13秒。スタートの6分遅れは靴に付けた磁気チップで自動計測されるので、これがネットのタイム。

途中までは、あわよくば5時間切りを狙っていたので、ウルトラの時のような達成感はなかったけれど、「歩かず完走」ができたことには満足できた。今回はラップタイムを意識することができるようになった分、余裕ができたということにしておこう。

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この大会は市民マラソンにスタイルを替えて(名称も、高知マラソン→高知龍馬マラソンに)から2年目にしては、沿道の応援も多く、また給水所などの体制もしっかりしていた。水以外にも、バナナ、チョコレート、アンパンなどのほか、きゅうり、ブロッコリー、トマト、ちくわなどの「郷土食」もたくさん並べられていた。四万十川ウルトラの2000人に比べると、はるかに選手が多いので、どれだけの「おもてなし」があるのか心配だったが、期待以上だった。

しかし、きょうの高知新聞記事によると、公認ボランティアはわずか40人とか。ということは、コース誘導や給水所にいたのは大半が「仕事」で動員された人たちなのだろうか?

四万十川ウルトラでは、スタッフの大半が市民ボランティアで1800人も集まる。100キロのコースは、ボランティアなくしてはつくれない。

また、今回のゴールの陸上競技場には選手以外には入ることができなかった。家族などはスタンドまで。だから、選手たちは淡々とゴールするという形になり、家族や友人などと抱き合う感動のシーンが見られなかったのは残念であった。ウルトラのゴール、中村高校の夜のグランドのような、みんなが涙を流す、市民と一体となったドラマはなかった。

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フルマラソンとウルトラ、距離と達成感の違い。5千人(将来は1万人をめざすという)と2千人、ランナー数の違い。街と海、山と川、コースの違い。

四万十川ウルトラは今年で20回目。龍馬よりも先輩だ。
ともにその特色を活かしながら、切磋琢磨して、たんなるスポーツというよりも、交流人口の拡大をめざした「地域元気プロジェクト」に育てたいものだ。
 

梼原町のエネルギー源

きのう梼原町矢野富夫町長を訪ねてきた。
大雪を心配したが、車の運転には支障なかった。

梼原町は再生可能エネルギーの利用により、現在エネルギー自給率28.5%で全国一。さらに100%の環境モデル都市をめざしている。福島第一原発事故以降、自然エネルギー活用のシンボルの町として、にわかに注目を浴び、視察が絶えないところだ。

おととしの7月、私と矢野町長ら四万十川流域5市町長は、原発に頼らない自然エネルギーへの転換をめざす「四万十川アピール」を共同で出した。その先頭を切った取り組みをしているのが梼原町である。

町長に会う前に、小水力発電と木質ペレット製造施設を見せてもらった。私が同町を訪ねるのは3回目だが、これらの施設を見るのは初めて。

小水力発電所は町中心部からすぐ下流の梼原川にあった。5年前、以前からあった堰堤の脇に落差6メートルの「滝」をつくり、その中にタービンを設置し、ミニ発電所としている。出力53キロワットで、すぐ上にある梼原小中学校(統合校)が使う電力の90%と、町内街路灯82基の100%に充てられている。

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木質ペレット製造施設は森林組合の隣にあった。利用価値の少ない、間伐材などの端材を砕いてペレット(粒状)にする施設である。木質バイオマスとも言う。破砕する木材の量は、現在年間1700トン。町内の老人ホーム、雲の上ホテル、歴民館などの公的施設の熱エネルギー源として活用されている。

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風力を利用した風車(600キロワット)も2基、愛媛県境、四国カルストの山の上に設置されているが、そこまでは行けなかった。また、地熱を利用した温水プール(雲の上ホテル)もある。

ほかに、一般家庭でも創り出せるエネルギーとして、町が助成金を出し、太陽光パネルの普及にも努めている。現在、町内1800戸のうち、6.4%が設置しているそうだ。

梼原町のこうした取り組みは、1999年に策定した「新エネルギービジョン」に始まる。自然と共生したまちづくりは、公共建物への地元産材利用や棚田オーナー制度導入など、にも表れている。

矢野町長には、地元産スギ、ヒノキをふんだんに使った役場庁舎の町長室で会った。木のにおいがプンプンしている。広いエントランスホール。役場内には銀行や農協支店も入っている。

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 1年ぶりに会った町長は、2050年までには、エネルギー自給率100%にすると意気盛ん。大型風車(2000キロワット)をあと8基設置したい。うち3基できれば100%に達する、残りは売電すると。
 
梼原町は人口3700人と少ない。しかし、森林面積90%、四万十川源流の水、高原の光と風・・・無限のエネルギー源がある。原発に頼らないエネルギー政策。梼原町はいまの時代の先端を走っている。街並みも整備されたコンパクトシティー。龍馬脱藩の道、津野山神楽などの歴史文化遺産も。本当の豊かさが、ここにはある。

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伊方原発からの距離は50キロ。高知県内では梼原町と四万十市が一番近い。

他に頼らず、自らの豊かさに気づき、活用する。
四万十市も中央ばかりを向いてはいけない。
モデルはすぐ近くにあるのだ。

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田中光顕と一條神社

 先日、用があって佐川町に出かけた。そのさい、久しぶりに深尾家の城下町を散策してみた。

佐川と言えば清酒司牡丹。白壁の酒蔵通りがシンボルになっているが、明治期、多くの人材を生んだことでも知られている。植物学者牧野富太郎と維新志士田中光顕が両翼であろう。

しかしながら、両者ともに、いまでは高知県の人以外は、知る人が少なくなったという。特に田中光顕は、よほどの歴史好きでないと知らないであろう。

田中光顕は土佐勤王党の一員で、坂本龍馬や中岡慎太郎の僚友であった。龍馬と慎太郎が京都近江屋で暗殺されたさい、最初にかけつけている。高杉晋作を通して長州との縁が深かったことから、明治政府の要職につき、最後は宮内大臣を長く務めた。

雅号を青山(せいざん)と言った。晩年は、若くしてたおれた幕末志士たちの顕彰につとめ、書画、手紙などの遺品を多く収集していた。大正時代、光顕が郷土に寄贈した、これらのコレクションをもとに開設されたのが青山文庫である。

 日露戦争のころ、こんな話が残っている。
ロシアのバルチック艦隊が近づき、日本が不安の渕に沈んでいた時のこと。ある夜、明治天皇夫人昭憲皇后の夢枕に坂本龍馬が現れ、「この海戦は必ず日本が勝ちますので、ご安心くだされ」と言って消えた。当時、宮内大臣であった田中光顕がこの話を世に紹介し、新聞各紙が大きく取り上げた。

東郷平八郎率いる日本海軍はロシア艦隊を撃破した。坂本龍馬は日本の守護神としてあがめられ、京都霊山の龍馬墓の前には大きな顕彰碑まで建てられた。それまで龍馬はさほど世に知られた存在ではなかったが、これを機に国民的英雄になった。

また、昭憲皇后は一條家の出(一條美子)であった。そこで一條家の霊をまつる一條神社も、日本海軍にとっては縁起のよい守護神とされた。軍港であった宿毛湾に立ち寄った軍艦からは、多くの海軍将校たちが中村の一條神社に参拝している。その記帳簿が残されている。

ところが、いまでは昭憲皇后の夢枕話は本当のものか疑わしいと言われている。宮内大臣として天皇家の近くにいた田中光顕が、維新の世直しの中、志半ばでたおれた若き日の同志たちを顕彰し、その名誉のためにつくりだした話ではないかと。また、明治政府内の土佐閥拡大のためとも。

夢枕話の真偽のほどは別として、この話を広めたのが田中光顕であることは間違いない。おかげて、一條神社もひところ有名になった。

そういう意味では、田中光顕は中村にとっても功労者と言えるかもしれない。

田中光顕 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%89%E9%A1%95

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高知県知事の責任 ― 伊方原発再稼働

きょうの高知新聞に、伊方原発(愛媛県)の再稼働に関する、尾﨑高知県知事へのインタビュー記事が載っているが、県民の安全を守らなければならないという知事の責任の重さをどう考えているのか、疑問に思う内容である。

原発再稼働のための事実上の条件になっている「地元同意」については、「高知県の同意を条件とすることは求めない」と言っている。理由は、距離の近いところ(愛媛県と伊方町)の発言力が強いは合理的な姿だと。

また、高知県と四国電力は継続的に勉強会や事務協議をおこなっており、疑問点があれば納得するまで質問を繰り返しているから大丈夫だと。

そして、原発のあり方については、「新エネルギー開発などが十分でない過程において、一時的にせよ(再稼働を)現実論として受け入れなければいけないと思う」と言っている。

まず、距離の問題である。これでは、隣接する高知県は距離が遠いから心配ない、だから発言を遠慮するということ。伊方から高知県までの距離は、愛媛県と接する四万十市と梼原町が最も近く50キロである。いまの冬場は北風が高知県に向かって吹いている。伊方から実験で飛ばした風船が幡多地方まで届いていることでもその「近さ」が証明されている。さらに、四万十川の愛媛側の支流・広見川の源流点までは30キロである。上流に降った放射能は河口まですぐに流れてくる。

大飯原発(福井県)の再稼働に関しては、隣接する京都府知事と滋賀県知事が自分らの同意を条件とするよう強く求めている。高知県とは好対照だ。

また、勉強会などで疑問点を解明しているから大丈夫だというのもどうか。福島第一原発事故を通して、電力会社のデータ隠しなどの隠ぺい体質があれほど明らかになっている。しかも、これまで勉強会で何を解明したのかも、県民には何も明らかにしていないのに。

 高知新聞はきのう、この知事インタビューの前段として、四国4県を対象とした世論調査(4県紙共同)の結果も載せている。

それによると、伊方原発再稼働については、反対が60.7%(反対26.5、どちらかといえば反対34.2)で賛成36.3%(賛成11.0、どちらかといえば賛成25.3)を大きく上回っている。4県の中では高知県が最も反対が多く69.4%である。

また、「地元同意」の範囲は、四国4県と山口県とすべきが48.6%と最も多い。高知県に限れば58.6%。(ほかの回答は、愛媛県と伊方町、30キロ圏内7市町など)。

「地元同意」については、私が市長在職中の2012年5月、高知新聞から同様の県下首長(34人)アンケートがあり、31人が高知県も関与すべき(うち私を含む9人は市町村も関与すべき)と回答している。
 
こういった県民や市長村長の意向を、尾﨑知事はどう受け止めているのだろうか。

原発事故はいったんおこれば、放射能は広く大気中に拡散する。大気には、県境などはない。風向きによって無限に拡散していく。

尾﨑知事は、インタビューで「私としては地元同意をする立場にはないが、賛成と言うのか、反対と言うのか分からない。」「勉強会をやっている最中だから、四電の回答を見て最終的に決断させていただかないといけない話だ。」などと、脈絡のはっきりしない、意味不明な言い方をしている。逃げた言い方だ。

尾﨑知事の日頃からの発言などをきくと、原発再稼働ありきで、前のめりになっている。自然エネルギーへの転換等に向けた具体的施策など、力強い発言はみられない。

だから、ややこしい判断を求められる「地元」は返上したいのであろう。

あたたかいおもてなしが身上の「高知家」の家族を増やしていくためにも、脱原発で安全・安心を看板にすることこそ最も有効。いまこそ、そのチャンスだと思うのだが・・・

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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