市長の公約

 3月23日、香美市長選挙が行なわれた。香美市は8年前、3町村(土佐山田、香北、物部)が合併して誕生。これまで2回の市長選挙は無投票であったが、今回は現職(元土佐山田町長)が引退表明したことから、一転して4人による選挙戦となった。

結果は元市総務課長が当選した。私が注目をしたのは、それぞれの公約である。中山間地を広くかかえ、過疎高齢化、人口減等が進む中で、活路として合併を選択したのは四万十市も同じだからだ。

公約の中で、候補者の1人が、副市長を2人制にすると訴えていたのが目をひいた。内政と外交担当に分け、「国・県・大学・民間との連携強化を図り、チャンスを逃さない柔軟な行政を目指す」と。
 
香美市が町村合併を選択した理由の一つは、他と同様、統一的かつ効率的行政運営を行なうことにあった。合併自治体はどこも、機構の統廃合や職員数の削減等、行政改革を徹底して行なってきた。また、残った職員も官民格差の是正等、国からの強い指導等もあって、給与や退職金の削減等を強いられてきた。この間、一方では、防災対策等、新たな行政課題が増えていることにより、職員一人当たりの業務負荷は相当に増えており、どこもギリギリの人数でがんばっているのが実情である。

こうした中で、特別職である副市長を増やすとは、大胆な公約である。私の場合は4年間、副市長1人でやってきた。内政、外交ともに最終責任者は市長であるが、どちらかと言えば、行政経験豊富な市役所出身副市長に内政を任せ、私は市長でしかできない外交に軸足を置いた。それで十分に対応できたと思っている。

いま、県下で副市長を2人置いているのは高知市(人口34万人)だけ。全国的にみても、四万十市(同3万5千人)、香美市(同2万7千人)ていどの規模の自治体で副市長を2人置いているところはまれである。厳しい地方財政下、2人になれば給与等、相当な負担になる。市長にとっては楽であろうが、それは市民の負担につながる。だから、市民にとっては重要な問題である。

しかし、それぞれの市の実情によっては、これも一つの政策であり、市民に問う公約としては、ありうることだと思う。こうした選択は市民に積極的に問うべきである。結果として、この候補は敗れたが、公約として掲げた姿勢は正しかったと思う。

 こう書いたのは、四万十市では残念なことがあったからだ。

昨年4月の市長選挙において、現市長の公約の中には副市長2人制はなかった。にもかかわらず、就任直後、突然これを発表、ただちに四万十市として初めての2人目の副市長を国土交通省(出向)から迎えた。

また、こんなことも。
現市長の公約の中には「市民病院の24時間救急を復活します」があった。市民病院は、医師の急速な減少に伴い、2007年以降、夜間救急を返上(夜10時までに短縮)していることから、その復活には市民からの切実な願いがある。

私は4年間、そのために努力してきた。何よりも医師を増やさなければならないことから、駆け回って、少しずつ増やしてきた。しかし、まだ足りない。引き続き努力しなければならない。そうした中、現市長も私と同様の公約を出したことから、市民は安心した。

ところが、現市長は就任後最初の6月市議会において、「任期中の24時間救急の復活はむずかしい」と早々と表明。これからがんばってくれると期待していた市民は唖然とした。県や大学とのパイプを通して医師も増やしますとの約束も、この約1年間、果たされないまま。逆に、この間、病院の経営収支は改善してきているにもかかわらず、あえて問題にしている。現市長にとって、公約とは何だったのだろうか。 

 勝ちさえすれば、あとは何でもあり。公約は選挙のためだけ。こうした政治手法は、安倍政権とそっくりである。

昨年後半、あれだけ大もめした特定秘密保護法は、一昨年暮れの総選挙、昨年夏の参議院選挙、いずれにおいても自民党の公約にはなかった。また、いま問題になっている集団的自衛権の憲法解釈変更も、そうだ。

また、原発について、自民党公約では、「すべてのエネルギーの可能性を掘り起こし、社会・経済活動を維持するための電力を確実に確保するとともに、原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立を目指す」と、「脱原発依存」を全面に出していた。しかし、このほど決めた政府のエネルギー基本政策では、原発を「重要なベースロード電源」と位置付け、その「再稼働をめざす」とまで明言している。

これがプロの政治というものであろうか???
私はこんなプロにはなりたくない。

四万十市は地方自治法に基づく、れっきとした独立自治体である。
決して、国の出先機関ではない。

幸徳秋水 刑死百周年墓前祭 追悼のことば

<2011年1月24日、幸徳秋水刑死百周年墓前祭において、記念事業実行委員長として,秋水の墓前に捧げた言葉です。>

 幸徳秋水先生の刑死百周年墓前祭にあたり、謹んで追悼のことばを捧げます。

母なる川四万十川に代表される美しい自然に囲まれ、京都の文化を受け継ぐ人情こまやかな町、中村に生を受けた先生は、明治の世にあって、優れたジャーナリストとして、また自由・平等・博愛を神髄とする思想家として、そして国民大衆の基本的人権の確立をめざす社会主義運動の指導者として活躍をされました。

先生が生きた明治とはどういう時代であったのでしょうか。いま小説「坂の上の雲」がテレビドラマで放映されている中、あらためて問い直されています。

幕末・維新を経て、日本という国家や日本人という国民が形成される途上にあったのが明治であります。欧米諸国に追いつくため目覚ましいスピードで近代化を進めていきました。近代化は文明開化であります。人々は新しい文明を享受する生活に大きく変わりました。しかし、近代化は一方で人々の平穏な暮らしを犠牲に肥大化していく富国強兵、軍事国家への道でもありました。
先生はそういう国家に対して、いち早く警鐘を乱打されました。日露戦争においては、勇気をもって声高く非戦論をこう唱えられました。

「われわれは絶対に戦争を否認する。これを道徳の立場から見れば、おそろしい罪悪である。これを政治の立場から見れば、おそろしい害毒である。これを経済の立場から見れば、おそろしい損失である。社会の正義は、これがために破壊され、万民の利益と幸福とは、これがためにふみにじられる。」

ロシアでもトルストイが同様の主張を行ないました。戦争に公然と反対する主張は世界の歴史上初めてことであり、ともに人類の進歩、英知を示す画期的な出来事でありました。先生が時代の先覚者といわれる所以であります。

しかし、先生の訴えられる非戦平和、自由平等の思想の広がりを恐れた明治政府は、世にいう大逆事件をつくりあげ、先生はその犠牲者として、東京市ヶ谷刑場で悲しくも露と消えられました。
あの憎むべき弾圧事件がなく、先生が天寿をまっとうされていたとすれば、その後の日本の歴史が大きく変わっていたであろうことを思う時、悔やみても余りあるものがあります。

先生は死刑宣告をされたあと、「事ここに至っては何をかいわんやです。また、いおうとしても、いうべき自由がないのです。思うに、百年ののち、だれか私に代わっていってくれる者があるだろう」との言葉を残されています。

先生、今日その百年の日を迎えました。

先生亡きあと、日本は軍事国家の道をひた走り、先生が予想をされた通り、ついにアメリカと開戦。国は焦土と化し、国民は塗炭の苦しみを味わいました。
しかし、先生の主張はこの間も地下水となって脈々として受け継がれ、戦後の日本国憲法として花開きました。戦争放棄をうたった世界に誇る平和憲法であります。男女平等も実現し、基本的人権が保障されています。

いま元号では大正、昭和を経て平成の時代になっています。中村町は、その後中村市、そして6年前、四万十市となり、今日の日にあわせるように今月新庁舎が落成しました。
西暦1983年には、先生の絶筆となりました漢詩を刻んだ記念碑を中村の町が一望できる為松公園に建立しております。
20世紀最後の年の西暦2000年には、中村市議会は先生の名誉を回復し、偉業を讃える「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で行ないました。

 今年は、先生の刑死百周年の記念すべき年にあたり、私たちは先生と同じ歴史や風土、文化を受け継ぐ者として、あらためて先生の業績や思想を年間を通して論じあい、学びあってまいりたいと考えております。

いまの日本や世界の現実をみると、先生の求められた真の自由・平等・博愛の世界にはまだ道半ばかもしれません。

 四万十市では、このほど世界に向けて、四万十市非核平和都市宣言を発しました。先生の志を受け継ぎ、先生の望まれた自由・平等・博愛の世界の実現に向けて取り組んでまいることをお誓いし、最後にその決意を込め、ここに宣言文を朗読して、先生へのご報告と追悼のことばにさせていただきます。

<四万十市非核平和都市宣言>

私たちの願いは 全世界が平和であること
すべてのひとが幸せであること
私たちはこの地球上からなくしたい
憎しみを生む暴力を 命を奪う戦争を
すべてを破壊する核兵器を
二度と繰り返さない
ヒロシマ・ナガサキの悲惨な歴史
私たちは誓う 核のない平和な未来
四万十市民はこの思いを世界に訴え
非核平和都市を宣言する

                 
2011年1月24日

幸徳秋水刑死百周年記念事業実行委員会
委員長   田 中 全


写真は今年の墓前祭。毎年、1月24日(命日)に行っています。

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幸徳秋水と中村

 3月20日、高知文学学校の第60期開校式が高知市カルポートであり、その記念講演を頼まれたので、「幸徳秋水と中村」と題して、話をさせてもらった。

 私は、地元生まれの秋水には以前から興味と関心をもっているが、詳しく勉強している訳ではない。だから、専門的な話はできない。しかし、私が市長在任中の2011年、秋水刑死百周年記念事業にかかわった。貴重な経験をさせてもらったことから、いまの市民が秋水をどうどうみているのか等、地元にとって秋水とは何なのか? について、私なりに思うところがあるので、その話をさせてもらった。
 要旨は以下の通り。

1・ 幸徳秋水刑死百周年記念事業は、官民12団体(市、市議会、区長会、商工会議所、観光協会、幸徳秋水を顕彰する会、など)が参加する実行委員会で取り組んだ。委員長は市長、事務局も市(生涯学習課)に置いた。

事業内容は、墓前祭、講演会、サミット、シンポジウム、展示会、演劇、市民啓発のための冊子の作成、市広報誌連載、市ホームページ拡充、観光パンフ、墓地周辺整備・・・など12。市の事業予算は約1千万円をかけた。

<四万十市ホームページ>http://www.city.shimanto.lg.jp/syuusui/index.html

市主導でこれだけ多彩な事業を行なうことができたのは、地元の秋水顕彰会を中心にして、長年、秋水の名誉回復、顕彰運動に取り組んできた実績・基盤があり、非戦や自由・平等・博愛を求めた秋水の思想や、大逆事件の真相(思想弾圧)への理解が広く市民の間に浸透しているから。
2000年には、市議会が顕彰決議を全会一致でおこなった。

大逆事件の犠牲者24人(死刑12人、無期懲役12人)は全国に散らばっており、各地で記念事業が行なわれたが、行政が主導したのは中村だけ。大逆事件の中心人物は秋水とされているだけに、その地元としての責任を果たせたと思っている。

2・ しかし、記念事業には県内外からたくさんの秋水ファンが参加をしてくれた割には、地元一般市民の積極的参加はそう多かったとは言えず、私が期待したほどではなかった。なぜか?

秋水は早熟で、わずか16歳で東京に出た。その後、日本を代表する思想家になったが、地元での活動実績等はなく、生活の痕跡のようなものも残っていない。地元としての馴染みや縁が少ないし、親近感のようなものがわいてこない。秋水は雲の上のような存在。

それと、いまだに秋水に対して、「極悪人」のイメージをぬぐいきれない市民がいるのも事実(特に高齢者)。

3・ 和歌山県新宮市(周辺)では、6名の犠牲者を出した。医師(大石誠之助)、僧侶(高木顕妙、峯尾節堂)など、地元で活動をしていた、なじみ深い人ばかり。だから、顕彰運動は地元に根を張ったものになっており、動員力も大きい。

しかし、だからこそ一方で、市民の間には、犠牲者に対する反発、拒否反応も根深いものがあり、いまなお行政は一線を引いている。岡山県井原市(森近運平が犠牲)では、市長は集会に来たことがない。
 
4・ 大逆事件のあと、秋水一族は地元の人々から迫害を受けるようなことはなかった。むしろ同情を受けたし、誇り高く生きた。
しかし、新宮、井原やその他の地では、一族は強い迫害を受け、地元を離れざるをえなかった者も多い。日蔭の生活を余儀なくされた。いまも、犠牲者のことをオープンに話しづらい雰囲気が残っている。

5・ 秋水の人物像は多面的だが、本質は、ジャーナリスト(新聞記者)であり思想家、理論家。 運動家(革命家)ではない。全13巻の全集を残しているように「文筆の人」。他の犠牲者とは別格的存在だった。だから事件の頭目、シンボルにさせられた。
秋水は漢文調の名文家。高知文学館には、秋水コーナーがある。この文学学校で学ぶにはふさわしい人。

6. 秋水は、死刑になる直前に「百年後、誰かわたしに代わって、言ってくれるであろう」との言葉を残している。
いまでは、秋水を、無実の罪で殺された「気の毒な人」と同情するよりも、自由と平等を守るためにたたかった「勇気ある人」と見ることが重要。
村木事件(冤罪事件)、特定秘密保護法、集団的自衛権、など、いまでも秋水が訴えた、非戦、自由平等、博愛、が実現をしているとは言えない。
 そこに、秋水や大逆事件に学ぶ、現代的意義がある。

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福島の中村

 東日本大震災から3年。福島県相馬市は直接死458人、関連死25人、死亡届(行方不明)19人の犠牲者を出した。

相馬市の中心部は旧相馬郡中村町。中村藩(相馬氏)の城下町であり、中村城跡や中村神社、中村第一、第二小中学校などがある。相馬駅の元の名は中村駅。勇壮な相馬野馬追いの総大将は中村神社から出陣する。

宇陀川河口に広がる松林に囲まれた日本百景の松川浦では、四万十川河口と同じように網を張って青ノリ養殖が行なわれていたが、すべて人と一緒に高さ9メートルの津波に呑み込まれてしまった。

福島第一原発から北へ40キロ。原発事故で止められていた海の漁は一部再開されたが、まだ試験操業で魚はすべて放射能チェック。多くの船が港に繋がれたままで、復興にはほど遠い様子が最近もテレビで報道されていた。

 旧幡多郡中村町も昭和21年南海地震では全国最多273人の犠牲者を出した。弱い地盤の建物倒壊・火災によるものであったが、次の地震では四万十川を遡上してくる津波にも備えなければならない。

二つの中村が市になったのは同じ昭和29年3月31日。今年が還暦で今の人口もほぼ同じ。東北も四国も同じ日本列島の地震の巣の上に乗っかっている。本市は伊方原発から南へ50キロ。

 津波と放射能に巻き込まれた中村の叫びは、中村が受けとめなければならない。

http://www.somacci.com/~kankou/kanko.html

横山充男

 いま、となりの黒潮町の大方あかつき館(上林暁文学館)で、中村出身の児童文学者横山充男展「光っちょるぜよ!ぼくら~横山充男・児童文学の世界」が開かれている(6月1日まで)。

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横山君(と言わせてもらう)は私と「同級」だが、小・中・高とも別。(中村では、同い年のことを「同級」と言う。)彼はすべて中村で、八束の私からいえば「おまち」の人だ。

横山君にはじめて会ったのは5年前。共通の友人の発案で、「3丁目の夕日」の時代(昭和30年代)の中村の思い出を語りあう、公開「対談」を行なった。横山君は、いまは滋賀県に住み、愛知県の東海学園大学人文学部の教授をしているが、当時住んでいた大阪から帰って来てくれた。

私らが小学校6年の時(昭和39年)が東京オリンピック。そのころの中村は輝いていた。子どもも多く、まちは人であふれていた。特に「いちじょこさん」(一條大祭)の時はすごかった。映画館が4つもあった。

当時、私にとって中村はとてつもなく大きな町、たまにしか行かない、あこがれの町、であった。だから、私など田舎の子にとっては、中村の子はハイカラな「おまちの子」であり、コンプレックスをもっていた。そんな話をした。

しかし、「おまちの子」も、街なかだけでなく、赤鉄橋下や後川で泳いだり、為松公園がある山を走り回って遊んでいた。私などよりも遊びは多彩だったようだ。そうした体験が、いまの自分につながっているという、そんな話を彼もしていた。中村に対する、思いは同じだった。

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それは、彼の児童文学にも反映し、その骨髄を流れる血のようになっている。中村という土地、幡多という風土、そのすべてが作家横山充男を育てた。彼はいま100くらいの作品を書いているが、その中心となるのは、中村や四万十川をテーマにしたものだ。主人公は、昭和30年代の自分そのもの。

代表作「光っちょるぜよ! ぼくら」「少年たちの夏」「おれたちゃ映画少年団」、近作「夏っ飛び」「ラスト・スパート」など。

今回の展示を記念した、彼による文学講座が、3月9日、同館で開かれた。テーマは「ファンタジーランド幡多」。
幡多は不可思議で得体のしれないところ・・・ファンタジーな世界であり、無限の魅力がある、という話。

ファンタジーとは何か、メルヘンとの違い、に始まり、土佐とは何か、幡多とは何か、などの歴史・文化・民俗・風土の話まで及んだ。土佐の中でも幡多は異質な世界であるということは、私もずっと思ってきたこと。

彼はずっとふるさとを離れている。ふるさとを、他と比較しながら、常に外から見ている。地元にいる人間にはない、視角である。私も長くふるさとを離れていたので、同じ感覚をもっている。

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私と違うのは、彼は18歳で中村を離れてから、家庭、家族の事情でふるさとには帰る実家がないということ。最初に帰って来たのは、40歳の時、22年ぶりだった。

すでに文学の道に進んでいて(当時は高校教師)、その時書いた小説が「帰郷」。自分が、この空、海、川、土そのものであることを自覚する。ブランクが長かった分、衝撃は大きかった。

下田出身のシナリオライター中島丈博が映画「祭りの準備」に描き、西土佐出身の作家笹山久三も「四万十川―あつよしの夏」に書いたように、ここには、こだわって書きたいモノがある。モノとは、土や空気、におい、のようなもの。強烈なインパクトを与えられる何かが・・・

私小説作家の大御所、上林暁もふるさとや親族をテーマにした(というよりも事実そのもの)作品が多い。今回の展示が上林暁文学館で開かれたのは、同館長が彼の高校時代の友人(同級)であることによるものだが、幡多という風土に根っこをもつ作家同士であり、会場としてピッタリだと思う。

横山君は、最近は取材も兼ねて、ちょこちょこ帰って来ている。
去年から地元講演は3回目だ。

中村、幡多にこだわり続けている男がいる。
私はそれだけで、うれしい。

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横山充男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%85%E7%94%B7

石巻市立 大川小学校

 東日本大震災から3年たった。

 私は、震災4か月後の2011年7月、被災地の視察に行った。岩手県陸前高田市から車で南へ下り、宮城県気仙沼市、南三陸町を経て、石巻市へ。どこも、流失、倒壊した家屋等のガレキの山で、目を覆う光景であった。陸前高田と南三陸では、町そのものが消えていた。

震災の犠牲者数(死者・行方不明)は1万8,524人。この数以外に、避難所等でのその後の関連死も多くある。県別では、宮城県、中でも石巻市が3,735人で最多。全校生徒の7割、84人(教職員含む)が犠牲になった大川小学校も、同市の北上川河口近くにあった。

視察で一番行きたかったところは、この石巻市の北上川下流域であった。同流域は四万十川と似た地形だと聞いたので、来るべき次の南海地震対策の参考になると考えたからだ。

南三陸町からリアス式海岸に沿って走ると石巻市に入る。追波湾というラッパ状の大きな入り江の奥が北上川である。河口は、海に向かってパックリ口を開け、津波を迎え入れる形になっていた。四万十川よりも、河口は広い。

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川の左岸から上流へ進む。すぐに支流があった。四万十川でいえば竹島川と同じ。ここらの堤防は決壊し、津波が奥深くまで流れ込み、家々を呑み込んでいた。

上流4キロのところに新北上川大橋(全長566メートル)があったが、津波によって橋げたの3分の1が流されていた。この橋の対岸(右岸)に大川小学校があった。四万十川でいえば、橋は竹島と実崎を結ぶ四万十大橋、小学校は八束小学校(私の母校)、八束保育園とそっくり同じ位置になる。

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 上流10キロの橋を右岸に渡ってから、下流に引き返した。この間の、川のゆったりした流れや景色は、下田、初崎から中村までの、四万十川とそっくりだ。右岸の堤防も決壊していた。四万十川でいえば、実崎から山路付近にあたる。実崎には私の実家がある。

大川小学校の前には、富士川という支流が注ぎ込んでいた。四万十の中筋川だ。北上川本流とこの支流の両方から、大きな波が大川小学校を呑み込んだ。すさまじい勢いで川を遡上する津波の映像がYouTubeで流れている。
http://www.youtube.com/watch?v=DW0dqWR4S7M   
 
付近の人に話を聞いた。過去のチリ地震などでは、ここらまでは津波が来なかった。だから、市の津波ハザードマップでもここらは浸水地域に指定されていなかった。すぐ裏には山があるのに、逃げる道や場所もつくっていなかった。避難訓練もしたことがなかった。津波が近づいて来てから、大慌てしたが、間に合わなかったという。大川小学校の生徒たちも、そうやって津波に呑み込まれた。がれき処理のブルドーザーが行き交う、学校前には、祭壇が飾られていた。

石巻市 大川小学校

過去の経験がわざわいした。河口から上流4キロのここらまでは、津波は来ないものという思い込みがあった。それだけ「想定外」の津波だったということだ。

今回の津波は上流50キロまで遡った。四万十なら江川崎あたり。堤防決壊による浸水は上流12キロまで。同じく、入田桜堤あたり、後川なら岩田あたりだ。

四万十市の海岸部は少ない。下田、名鹿ぐらい。本市にとってこわいのは、川を遡上してくる津波である。中村、具同、安並、古津賀あたりまで、強い波が押し寄せて来るものと想定しておかなければならない。

最悪シナリオでも、中村の街中や具同には、堤防があるので、津波の侵入はないが、東山地区の安並、古津賀あたりまではあぶないとみられている。下田、八束地区が一番の危険ゾーンである。

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 津波対策で重要なのは、すぐに逃げること。市では、避難場所と避難道を、いま急ピッチでつくっている。2012~14年の3年計画で、避難道150をつくる計画だ。避難タワーも、すでに4基できているが、さらに増設する。八束地区では、ゴルフ場近くに大規模な高台開発も計画している。あとは、日頃からの避難訓練。防災意識をしっかりもって、いざという時にすぐに動けるように準備しておくことだ。

 本市にとって、東日本大震災からの最大の教訓は、津波は川を遡上してくる、ということを、肝に銘じておくことである。

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四万十市立市民病院

 2月28日、日本医労連(医療労働組合連合会)主催の自治体・公立病院全国交流集会が愛知県豊橋市で開かれた。私はその記念講演を頼まれ、出かけてきた。会場は豊橋市民病院。ここに全国の公立病院で働く人たち約70人が集まっていた。

全国の公立病院はいまどこも厳しい経営環境にある。私の演題は「自治体病院をどう守るか-四万十市立市民病院 4年間の試み」。市長としての4年間の取り組みについて、話をさせてもらった。

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 四万十市立市民病院は、昭和27年、幡多国保病院として設立。昭和39年、中村市立→平成17年、四万十市立に。市内だけでなく広く幡多全体の地域医療を守る中核病院としての役割を果たしてきた。

経営はいつの時代も楽ではなかったが、ここにきて再び悪化。引き金は、国の医療制度改革の一環として10年前(平成16年)からスタートした新医師臨床研修制度(医師が自由に研修医療機関を選べる制度)。大学(徳島大学、高知大学)から医師派遣がむずかしくなり、市民病院の医師が急速に減少。ピーク18人いた医師が、平成21年には6人にまで減ってしまった。

この結果、平成19年からは24時間救急ができなくなり、ベッド数も130→97に削減、付属2診療所も廃止した。

30億円を超えていた医業収入も17億円台にまで激減、経常赤字は3億円近くまで拡大。病院の資金繰りを支援するために、市は一般会計から平成19年度3億円、20年度2億2千万円(この財源は市職員全員賃金カット、翌年は病院職員のみの賃金カット)の繰り入れを行なった。
私が市長になったのは、そんな渦中の平成21年5月であった。

病院を支えることは市の大きな負担。当時、今後病院をどうするか、病院は必要か、多くの議論があった。そうした中、私は病院をいまのままの公立病院として存続させることを明言し、経営再建に向けて取り組んだ。

外部からコンサルタントを入れ、無駄な経費の削減を徹底する一方で、診療報酬加算の余地等を追求し、効率的運営に努めた。しかし、再建の基本方向は、公立病院としての本来の役割の発揮、つまり民間医療機関ではできない高度な医療の提供等、医療内容の維持・拡充においた。市民はそれを最も期待している。そのためには、医師数を回復させなければならない。どんな改革も、病院に医師がいなくてはできない。

大学派遣がむずかしいなら、自ら医師を集めるしかない。地元出身者等、いろんな縁故、紹介を頼りに、多くの医師に接触。病院ホームページもリニューアルし「自然豊かな幡多で働きませんか」と呼びかけた。職員のモチベーションを削ぐ、賃金カットはやめた。逆に医師の処遇は改善した。

その結果、4年間で7名の医師を迎えることができた。この間、2名が新たに辞めたので、差し引き5名増。医師数は6名→11名に回復。休診中だった泌尿器科も再開した。

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また、市の保健介護課とタイアップして、脳ドック健診(市が費用の8割補助)と医師による地域訪問健診を開始。脳ドッグは申し込みが殺到し、抽選でないと受け付けられない状態だ。

さらに、病院広報誌「せせらぎ」も発刊し、全世帯に配布。一條大祭(いちじょこさん)にあわせ、健康フェアも開催し、血圧測定や栄養指導などを実施。市民との情報交流も進めた。平成24年秋には、テレビドラマ「遅咲きにヒマワリ」の舞台になり、ロケに協力した。

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市民病院の将来を市民にも一緒に考えてもらおうと、市民各層から23名の委員を募り、「市民病院の今後のあり方検討会」を開催。8回の議論を経て、今後のさらなる「経営改善計画(平成25~27年)」をまとめた。

市民も交え、病院一丸となった、こうした取り組みを通して、平成23年度以降は、病院利用者数も再び増えはじめ、その結果、医業収入も21億円にまで回復。平成24年度経常赤字は3千5百万円(繰入なし)まで圧縮。今年度(25年度)は退職金支出の変動要因を除けば、当初予算通りの黒字5百万(3千5百万円繰入あり)を確保できる見込みである。

 医師数が一定回復したことを主因にして、市民病院の経営再建は軌道に乗りつつある。今年度も「経営改善計画」通りに進んでいる。・・・これが現状である。

にもかかわらず、最近また妙な議論が耳に入ってくる。「市民病院の経営は悪化している。再び賃金カットも視野に、計画を抜本的に見直さなければならない。」???

 いま重要なのは、再建をより確実なものにするために、医師をさらに増やして、病院の医療体制をより充実させることである。まだ24時間救急は復活できていない。残念ながら、この約1年間、医師数は11名で横バイのまま。医師がもう少し増えれば、収支変動要因(退職金支払等)を含めても、安定的な黒字を確保できるところまできている。

病院の経営再建は、医療体制をさらに充実させる方向でなければならない。これが市民の期待であり、市民の命と健康を守り、幡多の地域医療を守る途である。

王道を踏み外した、木を見て森を見ない「改革」では、再び負のスパイラルに陥ってしまうことを心配している。

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http://www3.city.shimanto.lg.jp/hospital/index.html

岡村龍昇さん

 先月、市内在住の写真家、岡村龍昇さんが亡くなった。享年75歳。

 私は写真をやっている訳ではないが、龍昇さん(みんなそう呼んでいた)の名前はだいぶ前から知っていた。高知県交通勤務時代(整備士)から写真が好きで、全国写真連盟や高知県写真家協会などの役員をされるなど、県下でも名の通った写真家であった。

農漁村などの風景の撮影が得意で、最近は四万十川をテーマにした個展をたびたび開いていた。

2007年、高知新聞社から出版された『こころのうた 四万十川百人一首』には、当時大阪に住んでいた私の歌も一首載せてもらっているが、この本の写真はすべて龍昇さんのものである。

 私が龍昇さんに初めてお会いしたのは市長になってから。龍昇さんには、市の文化行政において多大のご貢献をされていた。主に公民館活動で。市展開催や写真技術の向上指導など。自らも「写団四万十」や「写団りゅう」を主宰されていた。なのに、地味で、口数の少ない人だった。

市とのコラボでおこなった企画の中で、画期的だったのが「中村の百年写真展」。

市立図書館の移転時、書庫の奥から、古いガラス乾板がたくさん見つかった。ガラス乾板は、フィルムが普及する前に使われていた感光材料のガラス板のこと。乾板には、古い中村の町の風景や人物などが写っていた。

龍昇さんが収集されている古い写真がほかにもあるので、これらを市民向けに展示をしてはどうかとのご提案をいただいた。私は即座に、ぜひやりましょうと答えた。タイトルを「中村」とすることだけ念を押して。市民にも、古い写真があったら提供してほしいと、呼びかけた。

「中村の百年写真展」は、2012年3~4月、公民館で開いた。明治末から大正~昭和20年代まで、150枚の写真には迫力があった。「おまち中村」の繁栄から、大水、戦争、南海地震まで。当時の風景と人々の暮らし。写真の価値・神髄は何よりもその記録性にあることを、写真が教えてくれていた。

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写真を見ることによって過去と現在の対話ができ、この間、失ったものと得たものがわかる。今を知ることができる。多くの市民が写真にくぎ付けになった。

大好評だったことから、翌2013年も同時期、第2弾(PartⅡ)も開いた。写真を増やし、規模を拡大して。さらに多くの市民に来ていただいた。

この写真展は、龍昇さんがおられたからこそできた企画である。何よりもその熱意。また、ガラス乾板から現像する技術など、いまどきほかに誰も持っていない。

2012年度市民表彰において、功労表彰を「写団四万十」(代表岡村龍昇)に贈らせていただいた。

この写真展を、地元への帰省者にも見てもらうためお盆の時期にも開いてほしい、写真集もつくってほしい、などの声もあがり、その対応を検討してもらっていた矢先であった。

前の日まではお元気だったが、突然の脳出血で倒れられ、翌日逝かれた。「清流に歴史と文化を映すまち」-市にとって宝のような文化人を失ってしまった。残念でならない。

しかし、好きなことに集中、没頭できること、そのことがみんなに喜ばれ、文化の発展、地域貢献にもつながる。そんな充実した人生を送られた龍昇さんをうらやましく思う。

龍昇さんのご冥福を祈るとともに、心からのお礼を申し上げたい。
きっとあちらでもカメラをぶら下げ、歩きまわっておられることだろう。

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<中村の百年写真展>
http://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2012/0426/index.html

 昭和4年の中村~1     DSCF1721.jpg     DSCF1730.jpg

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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