井原から小田原へ

 きのうの夜、9日ぶりに中村に戻って来た。
家を空けた目的は2つ。20日、岡山県井原市で行なわれた森近運平墓前祭に参加することと、26日、神奈川県小田原市で開かれた「脱原発をめざす首長会議」の今年度総会に出席すること。

2つの目的の間(あいだ)が、約1週間あいていたので、いったん中村に帰ってきてもよかったが、今はフリーで、どうせ時間はあるのだからと思い、大阪に住んでいたころの空家(妻実家)を中継基地にして、まだ行ったこのなかった飛騨高山方面にも、足を延ばすという、欲張ったスケジュールにしてしまった。全行程、車で(2人交代運転)。

私は普段、タブレット(携帯PC)を持ち歩いている。この間の日々の写真はFB(フェイスブック)には投稿をさせてもらったが、ブログは旅先では書くのが「おっこう」なので、しばらくお休みをいただいていました。(ごめんなさい)

 19日に中村を出て、高知市内に立ち寄ったあと、瀬戸大橋経由で夜、井原市に着き前泊。私は以前、岡山市に3年間勤務(1989~92)をしたことがある。広島県境にある井原市には仕事で何度も行ったが、市のはずれで、広島県福山市との、それこそ境界上の山の中、高屋地区にある森近運平の墓と記念碑を訪ねたことはなかった。当時は仕事に夢中で、森近運平の名は聞いたことがあったが、意識することはなかった。

森近運平は、いわゆる「大逆事件」(1910年)で幸徳秋水らとともに処刑され12人の1人(ほかに無期懲役12人)。当時わずか30歳。明治政府のでっちあげによる、この一大冤罪事件の犠牲者は全国に及んでいるが、墓前祭等の追悼行事を毎年行なっているのは、ここと、中村、新宮(和歌山県)、東京の4か所。「事件」の「首謀者」に仕立て上げられた、幸徳秋水の地元わが中村が最も早い。

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 3年前、幸徳秋水刑死百周年事業(実行委員長は当時の市長の私)の一環として、「大逆事件サミット」を中村で開き、全国各地で事件犠牲者の名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる人たちが集ったさい、井原市からも「森近運平を語る会」の森山誠一代表においでいただいた。サミットでは、人権弾圧のない世界をめざしていくとする「中村宣言」を採択した。

今回の井原訪問は、その時のお礼と、今後の交流を深めることが目的であった。墓前祭の参加者は約80名。私も、あいさつをさせてもらった。

 その日の夜は、岡山市内に出て1泊。以前住んでいた付近を徘徊し、なつかしい「岡山ラーメン」を食べたあと、当時のジョギングコース県立運動公園にも。名物の大手饅頭を本店で買い、備前焼の里(伊部)をブラブラしたあと、大阪に着いた。

 大阪には2泊し、一息。いつもの大阪城公園を5周走り、体調を整え、名神高速に乗る。滋賀から岐阜県に入るとすぐの関ヶ原は、妻の父の出身地。曹洞宗妙応寺にある両親の墓に2か月ぶりに参り、親戚にもあいさつ。そのあと、飛騨へ。

 飛騨は山の中という印象をもっていたが、とんでもない。高速がつながってからは、関ヶ原からアッという間の2時間。奥から下ろうと思い、富山県境の白川郷に午後3時半に着いた。

期せずして桜は満開。ここは観光客であふれていた。しかも、中国、台湾、韓国語ばかりの。まるで外国にいるよう。地元の人に聞くと、平日は外国人、土日・祝日は日本人が多いそうだ。中村の天神橋はもちろん高知の帯屋町よりも賑やか。合掌造りの里という、ひなびたイメージは吹っ飛んでしまった。コンビニがないだけでもましか。やはり、雪のしんしんと積もった冬場に来るべきだったのかな~。

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 約50分かけ、Uターンして高山泊。翌日は市内めぐり。江戸時代の飛騨は幕府の天領。陣屋(代官所)跡を中心に、桜並木の宮川沿いに朝市が開かれている伝統的建物群保存地区(上・下三之町など)を歩く。春の高山祭は1週間前に終わっていたが、それでも多い外国の観光客。ここでは西洋系も目立ち、イスラエル一行にもぶつかった。高山祭りのきらびやかな屋台は、会館に展示されていた。

観光資源として、伝統的建物を保存した街並みの風情は、さすがである。同じ天領であった大分県日田市の豆田地区に似ていた。

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 夕方近く、隣町の古川(いまは飛騨市)にも足を延ばした。白壁沿いの、鯉が泳ぐせせらぎは、高山の「喧騒」をしばし忘れさせてくれる、やすらぎがあった。ここは、かつてNHK朝ドラ「さくら」の舞台になった。最近テレビでは見ないが、主役だった高野志穂のさわやかな笑顔がよかった。ロケに使われた伝統の和ローソク屋さんも健在であった。高山に戻り、もう1泊。

 翌日は、またもUターンで郡上八幡(現・郡上市)へ。途中、国道沿いの旧・明宝町で國田家の芝桜を見る。庭先の山の斜面一面に、最初は個人のおばあちゃんが育てた、芝桜がちょうど満開だった。

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 郡上八幡は長良川と支流の吉田川の合流点の谷間に小さく開けたまち。飛騨ではなく美濃。水路がはりめぐらされ、名水の里として知られている。ここでは、フォークグループ「笠木透と雑花塾」の1人、地元在住の増田康記さんに再会し、水路や城を案内してもらった。郡上一揆の記念碑(地元では宝暦義民と言う)や、山内一豊の妻千代の像(近説ではここが生誕地)もあった。 

「雑花塾」メンバーとの出会いは幸徳秋水の縁。2011年1月24日、幸徳秋水らが処刑された100年目の日の墓前祭にギターをもってかけつけ、墓の前で追悼の新曲「ポスター」をささげてくれた。「ポスター」はその後CDになった。彼らは、再び同年12月の「秋水平和コンサート~LAVE &PEACE」にも、地元中村グループに交じって、参加してくれた。

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 増田さんと別れ、次は犬山城へ。約40分。県境の木曽川を愛知県側に渡ったところの川沿いにあった。犬山城に立ち寄りたかったのは、中村の為松公園に建つ幡多郷土資料館(通称・中村城)の本家(モデル)だからだ。この城の天守閣は現存の城では最古で、国宝4城の一つ。天守閣の中に、古い石垣がそのままむき出しで残っているのには驚いた。古色蒼然とした美しさとは、このことか。真下に木曽川を望む立地は、四万十川と同じだった。

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 あとは、うす暗くなった東名高速を一路小田原へ、4時間。夜11時着。

小田原では、私が入会している「脱原発をめざす首長会議」に出席し、2泊。1日目は今年度総会と勉強会、2日目は小田原市が取り組んでいる再生可能エネルギー普及事業の視察であったが、ここまで長く書いてきたので、これについてはあらためて書きたい。


ラーメンと佐野実

 ラーメンの鬼・佐野実が亡くなった。63歳。

私は、一番好きな食べ物は? と聞かれると、ラーメンと答える。もともと好きだったが、はまったのは福岡での3年間。博多ラーメンに出会ってからだ。

博多ラーメンといえば、ドギドギのとんこつスープに細麺、そして替え玉システムが特徴。中洲で飲んだ帰り、那珂川沿いに並ぶ屋台でラーメンをすすって帰るのが地元の人たちのお決まりコース。屋台によって味が違うし、それぞれファンがついていた。博多港そばの「長浜ラーメン」が老舗格。固めの麺で、いつも替え玉を2ツくらいもらった。

私の一番のお気に入りは福地浜にあった「ふくちゃんラーメン」。豚の頭を使ったスープは、こってり味の極致。スープ鍋から豚の顔が、にょきっと 浮かび上がったのがカウンター越しに見えたときには、さすがにすするのに度胸がいった。

福岡の次は、札幌へ。
ここでは弾力性のある縮れ麺の札幌ラーメンを楽しませてもらった。札幌といえば味噌が有名だが、私はいつも醤油ラーメン。スープは薄味だが、これもまたよし。

一方、四国は同じ麺でも、うどん文化。高知県には残念ながら、うならせるラーメンがない。そこで、いま、はやりのご当地ラーメンを開発しようと、四万十市は佐野実さんに指導を頼んだ。

佐野さんは、以前高知県に来られた時、「ぶしゅかん」(特産の酢ミカン)を「発見」。これがラーメンのスープに合うことから、ご自分の店で「つけ麺」のタレとして使ってくれていた。また、本市の「チームぶしゅかん」とコラボで、昨年秋、明星食品から「四万十ぶしゅかん」抽出オイル付きカップめん「塩らぁ麺」を発売した。

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そうした縁で、四万十市雇用創造促進協議会では、地元女性グループが名物(特産品)として開発中のご当地ラーメン「四万十美女と野獣ラーメン」への指導を求めた。昨年10月、佐野さんを迎え、市民も交え、試食会を開いた。

「野獣」とはイノシシやシカのこと。獣害で困っている、ケモノを駆除して料理に使えば両得。この試食会を兼ねた、商品開発セミナーについては、先にこのブログにも書いた。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-11.html

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いま思えば、あの時、佐野さんの顔色はよくなかった。テレビの毒舌イメージとは違い、やさしいアドバイスだった。その頃から、体調を崩されていたのであろう。多臓器不全で亡くなられたと、報道されている。

しんどい体で、わざわざこちらまでおいでおただいたことに、あらためて感謝申し上げるとともに、ご冥福を祈ります。

佐野さん、ありがとうございました。
四万十のご当地ラーメン、きっとつくりあげます。


<四万十市雇用創造促進協議会> 
http://www.shimanto-koyo.com/

安倍夜郎(2)

 安倍夜郎から「広報四万十」(2011年12月)に寄稿してもらった、市民へのメッセージを紹介します。

                    出身は中村です

  断っておくが、ボクは「四万十市」というのに何の愛着も持っていない。むしろ勝手に本籍を変えられたことに未だ納得していない。だから、出身を尋ねられると、「高知県の中村です」と答えることにしている。なにしろボクは、中村幼稚園に年中組で入って以来、中村小学校(なかしょう)、中村中学校(なかちゅう)、中村高校(なかこう)に通った生粋の中村人なのだから、今さら言われてもこまるのである。

という訳で、ボクは年に二、三度、四万十市ではなく中村に帰省する。毎年、盆暮れの帰省前になると東京の自宅に、いつ帰って来るかと中村の友人達から電話が入る。帰ってからの飲み会の誘いで、帰省すると東京にいるときの何倍も忙しい日々が待っている。漫画が売れない頃は、高知まで深夜バスで帰って来てたが、この頃は飛行機だ。汽車が後川の鉄橋を渡ると、ああ、帰って来たなと思う。言葉もすぐ幡多弁に戻る。

帰って来ていつも思うのは、なんちゃあないけんどやっぱり中村はええ町やということである。なんちゃあないというのは、当り前のようにそこにあるから特別思わないだけで、ホントは山があって川があって海があって、キレイな空があって旨いもんがある。それから、ずっと中村におったらわからんろうけんど、どしたち水がええ。沸かした風呂の水が違う。とても柔かくてやさしくて気持ちええ。飯を炊いてもうまいし、その上に青のりをかけたら、もう何も言うことはない。本当に四万十川のお蔭やと思う。

でも、あんまり何でもかんでも「四万十、四万十」いうがはようないと思う。かえって恥しい。県外用、観光用みたいな感じで妙にいかん。しつこいようなけんど、「四万十市」いうがもそれと同じもんを感じる。

「四万十」というブランドを育てようと思うたら、実のある本当にええ商品を作らんといかん。とりあえず「四万十」と付けただけの何の工夫もない目先だけの物を作っても、一回は売れても二度と買うてくれん。地元の人も認めるしっかりした物づくりをしたら、自信を持って「四万十のがはエエぜ」と余所の人にも紹介できる。そうして、初めて「四万十市」を応援できるようになるとボクは思っている。

「広報四万十」(2011年12月)30ページ http://www.city.shimanto.lg.jp/gyosei/pdf/h23/kouhou12.pdf

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安倍夜郎(1)

 漫画家の安倍夜郎が、いま里帰りしている。

ふるさと中村をこよなく愛する彼は、正月と盆には、東京から必ず帰って来る。
今回は、このほど漫画以外では初めての本(エッセイ集『酒の友 めしの友』)を出版したのにあわせ、原画展を開くためだ。

原画展は、はや5回目になる。いつもの、カフェレストラン「風雅」(中村桜町)で。
ここは、私の家の近所なので、きのう初日(会期は20日まで)に歩いて出かけた。

安倍夜郎は、押しも押されぬ、人気漫画家である。「売れっ子」というと一時的な流行作家みたいで、「軽い」感じがするので、「安定感のある」「渋い」と言いたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%A4%9C%E9%83%8E

ヒット作で、いまも「ビッグコミックオリジナル」に連載中なのが「深夜食堂」。
東京新宿の飲み屋街の裏で、深夜から朝まで開いている「めしや」が舞台。顔はこわもてだが、情にはもろい店の主人と、いろんな人生の傷をもった客たちとのやりとりを描いた作品だ。しみじみとした人情味があり、ほろりとくる。おとな向けの、一話完結だ。いまの時代を描いているが、同じ「ビッグコミック」の「三丁目の夕日」(昭和30年代が背景)に共通するものを感じる。

この作品は、連続テレビドラマにもなり、小林薫主演で、それこそ深夜に、2度放送されたので、ごらんになった方も多いと思う。いま3回目企画が進んでいるそうだ。また、韓国ではミュージカルにもなっている。

このほど出したエッセイ集(本人は、漫画+雑文集、と言っている)には、ふるさと中村の食と味について書いている。彼は、中村生まれの中村育ち。中村の純血種。年齢は、私より10歳若い。

キビナゴ、イタドリ、二ナ(貝)などの料理について、子どものころからの体験を軽いタッチで漫画を挿入して、書いている。新聞記者などが取材で書くものと違い、地元で生まれ育った者でしか書けない内容だ。私には土のにおいが伝わってくる。これらは、しばしば、「深夜食堂」のメニューにも登場する。

文章もうまい。くどくなく、さらりと書いている。彼は、長い間、広告代理店に勤め、キャッチコピーなども書いてきたからだろう。40代で独立の遅咲きの漫画家だ。それゆえに、人生経験が肥やしになり、大人の味をもっている。

『深夜食堂』(小学館、単行本で11巻)、中国語版も
『酒の友 めしの友』(実業之日本社)
  おススメです。

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四万十の日

 きょう、4月10日は「四万十の日」です。

 旧中村市時代の1989年(平成元年)に制定しました。四万十川の清流を守り、その豊かな環境や文化を将来に残していくために、市をあげて、その保全活動に取り組んでいくことを、目的としたものです。

この目的を実現するための市民横断的な組織として「四万十の日実行委員会」も結成。現在、区長会、婦人会、商工会議所など、官民33団体が加盟しています。
 http://smh.city.nakamura.kochi.jp/

「実行委員会」では、いろいろな取り組みをしています。その一つが、市民による川の一斉清掃。毎年4月、沿川各所で行なっており、今月も6日に行ないました。また、小学生を対象に、四万十川に棲む生物の生態観察会なども開いています。

きれいな川を維持するためには森林保全も重要。四万十川のシンボルになっている、岩間沈下橋の背後の山の伐採を抑制するため、「森林トラスト」として借り上げ、保全をはかっています。
 
「実行委員会」の活動には、多くの市民が参加をしています。ごく自然に、普通に、あたりまえに。

私は以前の仕事で各地を転勤したことがあり、これまで全国の多くの川を見てきたのでわかるのですが、こうした川は大変めずらしい。決して、ひいき目にみているのでありません。客観的にみて、そう思うのです。

このことは、四万十川が1970年代以降、「最後の清流」などと呼ばれ、有名になったからではない。もともとから、流域の人々は、この川を大切にしてきたのです。

それは、川が生活の一部であり、先祖代々、川と一体となって生活をしてきたからです。四万十川が貴重なのは、清流をいまに残しているからではない。それよりも、「人間と川」のつながり、つまり日本人が、川とともに生活をしてきたという、痕跡をたくさん残しているからである。コロバシ、柴漬け、ゴリのガラ引き漁などの伝統漁法は,その典型です。

人間は川の恵みによって生きてきた。

いろんな形をした川舟も、多く残っています。
この日にあわせ、市民有志が「四万十川船上結婚式」を企画してから、きょうで10年になりました。

沈下橋がなぜ、この川にたくさんつくられたのか。
自然に抗わず、共生しようとした人々の生活の知恵。
この橋のおかげで、人々の生活が、いまでも川のすぐそばで息づいている。
人と川が分断されていない。

最近は、入田柳林に群生する菜の花が有名になり、新たな四万十川の観光スポットになりました。この河川敷の整備は、市民ボランティアがおこなっています。
川に再び、人が集まってくるようになりました。

人と自然の接点、川べりは楽しい。


<「四万十の日」制定宣言 >

はるかなる四国山地の奥深く
木々の葉をつたい落ちた一滴の雫が
生命を育む流れとなって、はてしない旅に出る。
渓谷の岩をはみ、山里をぬい
やがて、大河となって太平洋にそそぐ。
母なる川の水面に、生命が踊る。
大いなる流れに、生きとし生けるものの営みが時をこえて、受け継がれてゆく。
この豊穣、この限りない大自然の恵み。
人と自然が調和する日本最後の清流に
いま、私たち人間の知恵が試されている。
「四月十日」、すべての人々の、すべての地域の自然保護への熱い思いを託して。
私たちはこのかけがえのない四万十川の清流を守り、伝えることを宣言する。


深く、重い、「メッセージ」だと思う。


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四万十市議会

 四万十市議会議員選挙が始まった。投票は13日。

今回引退される議員さんも多いが、再選をめざす方、また新たに挑戦をされる方々、ともに堂々とした論戦による、ご健闘を祈りたい。

私は4年間、市議会とは多くの議論をした。行政経験のなかった私は、議会から多くのことを教えてもらい、学ばせてもらった。多くの議員さんに、お世話になったお礼を申し上げたい。

 地方自治体にとって議会の役割はきわめて重要である。執行部(市長)と議会は車の両輪と同じである。進む方向は「市民の幸せ」。両輪がうまくかみ合わないと、車は脱輪か、制御不能になる。市政運営も両者が健全に機能しないと停滞するか、あらぬ方向に進んでしまう。

「健全に機能」とは、適度の緊張関係にあるということ。議会は執行部のチェック機関であるから、仲が良すぎる「馴れ合い」は困る。だからといって、執行部をいじめる目的の「反対のための反対」も、なお困る。議員には市民の声を代弁する重要な役割がある。市民の声を広く吸収し、まじめで建設的な提言・提案をすることが求められている。

私は議会とは多くのテーマや政策で議論を闘わせる中で、多くの批判ももらった。そうした意見や批判を政策に反映させて、議案にまとめ、提案したつもりである。

だからだと思うが、4年間を通して、予算を伴う議案については、ほぼ100%原案通り承認をしてもらえた。市政運営も、ほぼ円滑に行なうことができたと思っている。

 「ほぼ」と書いたのは、一つだけ例外があったから。市民病院問題である。市民病院の経営改善については、私の重点公約であったこともあり、重要課題として取り組んだ。それだけに議会とも、熱い議論をした。

市民病院は市民の命と健康を守るために重要な役割を果たしている。市内で唯一全身麻酔手術ができる等、高度な医療の提供、つまり急性期医療を担っているからだ。これは公立病院だからこそできる機能。場所も市街地のどまん中。私は、市民病院を公立病院として存続させることを大前提においた。市民もそれを願っていた。

そして、医師数の回復を軸に→医療体制の回復・拡充、を目指した。そのための財政支援は、市が責任をもって行なうことを約束した。

しかし、議会はこれを容易には認めてくれなかった。
平成23年度予算に計上した市民病院会計の資金繰り支援のための一般会計からの7700万円の繰り入れは、2度否決され、3度目にやっと通してもらった。また、翌24年度の同8600万円は、繰り入れを止められ、「貸し付け」に修正された。理由は、病院の経営努力が足りないということ。「貸し付け」には、当然返済が求められる。

実際は、病院への繰り入れは、私が市長就任前の平成19年度3億円、20年度2億2000万円だったものが、23年度以降は、医師数の回復とともに、職員の賃金カットなしでも上記程度に減少。議会からは医療体制をどう充実させていくかの提案はないのに、病院への資金繰り入れには大変きびしかった。

しかしながら、25年度の繰り入れ3500万円は、一言の反論もなく、無修正でそのまま承認してもらえた。医療体制の回復等、さらなる経営努力を認めてもらえたからだと思っている。

市民病院は、医師数をもっと増やし、医療体制をさらに充実させれば、自ずと経営収支は改善される。この間の、経過がそれを証明している。そのための汗を、議会も一緒にかかなければならない。それが「車の両輪」というものである。

 新しく選ばれる議員さん方が、この問題にどんな姿勢で臨まれるのか、注目したいと思う。

消えた北幡

 北幡は「ホクバン」と読みます。幡多郡北部という意味です。

3月30日、お隣の四万十町で開かれた、第6回四万十川桜マラソンに参加した。四万十町は2006年、旧3町村が合併。コースは、旧窪川町~旧大正町~旧十和村昭和を、四万十川に沿って下る42.195キロ。川沿いの桜がちょうど満開で、苦しいながらも、気持ちよく走ることができた。

四万十川を走るマラソンとしては、別に今年(10月)で第20回目を迎える先輩格の四万十川ウルトラマラソン(100キロ、60キロ)があるが、このコースは、今回のゴールから、さらに下流を走るので、両コースは重ならないようになっている。桜マラソンは四万十町単独開催、ウルトラマラソンは四万十市を主体に四万十町と共催という形をとっている。

<四万十川桜マラソンコース>
http://www.shimanto.tv/~sakuramarathon/map/map.html

四万十市も2005年、旧中村市と旧西土佐村が合併。つまり、窪川町から下流の5市町村は、すべて「平成の大合併」により名前が「四万十」になったのだ。

これによって消えたのが「北幡」である。大正町、十和村、西土佐村の3町村は、ともに幡多郡北部に位置していることから、一括して「北幡」と呼ばれていた。それぞれが独立自治体の時は、互いに連携して、各種事業に取り組んだり、いろんな催しを一緒に行なうなど、一体感のある地域であった。

そのシンボルが青年団活動。敗戦の混迷から、新しい時代に向かって、この地域をリードしたのは青年たちだった。当時、十和村は十川村と昭和村に、西土佐村は江川崎村と津大村に、分かれていたが、これら5町村による北幡連合青年団といえば、県下最強の組織であり、県組織の委員長も出していた。毎年、交代で学習会や運動会を開くなど、多彩な活動を行なっていた。

しかし、昭和30年代半ばをピークに人口流出が始まる。都会へ、都会へと、日本民族の大移動。いま地方はどこも、人口減少と過疎高齢化に呻吟している。

そうした中で、平成の大合併の大波をどう乗り越えるかの試練を迎えた。アメ(特例債等)とムチ(交付税削減)の政府誘導策に乗るか、耐えるか。

3人の首長は、自立よりも合併を志向。周辺自治体といくつかの組み合わせを検討した。その中には、「北幡3兄弟」の一体化案もあった。しかし、まとまらなかった。理由はいくつかあるが、自然や歴史文化等を共有するが、小さな3つの組み合わせよりも、より規模が大きくなる組み合わせを選んだということであったと、私は思う。
 
最終的には、住民投票にかけ、いまの形になった。名前は同じ「四万十」だが、市と町に分かれた。それぞれの役場は、支所となった。

 北幡にとって問題だったのは、四万十町が高岡郡となったこと。合併の軸になり、新しい役場本庁が置かれた旧窪川町が高岡郡であったためである。つまり、四万十町は郡を越えた合併であった。旧大正町、旧十和村地域は、新しい行政区分では幡多郡ではなくなったのだ。

 合併がどうあろうとも、人や文化などのつながりは続くものである。だから、いまでも北幡という「くくり」は生活の中では、一部残っている。

十和地域に保存会があり、熱心に伝えられている神楽は、いまでも「幡多神楽」であり、「高岡神楽」とは言わない。また、大正、十和地域は、幡多郡一円の農協が1998年に合併してできた高知はた農協(JA)に、いまでも属している。(窪川地域は四万十農協)

しかしながら、行政区分として、幡多郡と高岡郡に分断された以上、公式用語としては、もはや「北幡」は使えなくなったし、これから徐々に死語になっていくであろう。

窪川町から中村市まで、四万十川流域の旧5市町村の名前も消えたことでは、同じではないかと言われるかもしれないが、学校、駅名等はそのままであるなど、生活の用語(言葉)としては残っているし、ずっと生き続けるであろう。

「北幡」は、単なる地名というよりも、行政や方角などを意味する「概念」である。

合併では、得るものもと失うものがある、ということである。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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