保育の父 佐竹音次郎

 5月24日、「保育の父 佐竹音次郎にまなぶ」講演会が市内竹島小学校で開かれた。
講師は高知大学・玉里恵美子教授(社会学)。主催は地元で児童養護施設若草園を運営している社会福祉法人栄光会で、体育館いっぱいの約300人が集まった。

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 佐竹音次郎は日本ではじめて「保育」という言葉を使った(つくった)人だ。明治29年(1896)、神奈川県鎌倉に「小児保育院」を開設し、その後「鎌倉保育園」となる。日本で最初の保育園だ。

この保育園は、いまの保育園とは違う。当時の孤児院のことだ。音次郎は、孤児院という言葉を嫌い、身よりのない子どもたちを、「保(やす)らかに育てる」という意味で「保育院」とつけた。以後、児童福祉一筋に生涯をささげたことから、「保育の父」と呼ばれている。

 児童福祉の先駆的役割 佐竹音次郎

 音次郎は幕末の元治元年(1864)、竹島生まれ。幼くして里子(養子)に出された。しかし、養父母が離別したため、実家に帰された。その後、刻苦勉励して東京に出で医者になり、鎌倉で開業。キリスト教にも帰依。幼いころ自ら寂しく悲しい体験をしていることから、身寄りのない子を引き取るようになった。その後、医者を捨て、保育事業に専念するようになる。私財のすべてを投じ、自他の子ども分け隔てなく育てる「聖愛一路」の精神を貫いた。

音次郎は昭和15年(1940)、77歳で没するが、その後も子どもたちによって、現在の社会福祉法人聖音会(「音」は音次郎から)に事業が引き継がれている。鎌倉には音次郎夫妻の銅像が建っている。

 社会福祉法人聖音会

 こんな足跡を残した音次郎のことは「中村市史」にも書かれてはいるが、いまの地元市民はほとんどが知らない。残念なことだ。

地元の児童養護施設・若草園(下田)は、かつて経営が厳しかった時、鎌倉保育園からの支援を受けたことがあり、いまも厚い交流をしている。こうしたことから、音次郎生誕150年を記念して、市民にも広く音次郎のことを知ってもらおうと今回の講演会を企画した。

 いま、本市では、幸徳秋水と樋口真吉(幕末・土佐勤王党)の2人を地元の偉人の両翼として、観光などにもつなげようと、パンフなどもつくり売り出している。

音次郎の生きざまは、慈悲・博愛であり、秋水と共通するものがある。実際、音次郎は事業が困窮していた明治30年代、「萬朝報」に堺利彦を訪ね、記事にしてもらっている。そのさい、同僚記者であった同郷の後輩・秋水とも接触している。

 講演会には、神奈川県から、音次郎の孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)ら一族、および現事業関係者、十数名も参加され、挨拶をされていた。講演終了後は、音次郎の生家(宮村家)、記念碑、墓(鎌倉と分骨)などを案内。私も同行させてもらった。

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私も地元にいながら、菩提寺裏の四万十川を眼下に見下ろす山の上にある墓を訪ねるのは初めてであった。
墓前では、キリストの讃美歌を歌う厳粛な礼拝が行なわれた。


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夜は「ホワイトキャッスル」で、若草園、関係市民らとの交流会「おきゃく」も開かれた。
みんさん、皿鉢料理をめずらしがっておられた。
和気あいあいの交流が図られた。これぞ人の縁、地の縁だと思う。

若草園では、佐竹音次郎を紹介するリーフレットをつくり、教育委員会から市内小中学生全員に配ってもらうことにしている。

秋水、真吉だけではない。
佐竹音次郎を、地元の偉人として、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。

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美味しんぼ

 鰹のタタキはうまいが、漫画「美味しんぼ」タタキはいただけない。

 この漫画は以前、それこそ、中村名物の元祖・鰹の塩タタキを紹介してくれたことがある。その店(割烹わかまつ)を私はよく利用していることもあり、漫画には親近感をもってきた。塩タタキを中村の看板にしようと、いま商工会議所もさかんPRしている。

「美味しんぼ」は全国各地の食材や料理を丁寧に取材している。単なるグルメ漫画というよりも、地域それぞれの食文化を紹介することで、中央(東京)に画一化されがちな価値観に抗い、日本文化の多様性を発掘し、発信するという重要な役割を果たしている。決して、興味本位のコミックではない。

この漫画のこうした、これまでの実績と内容をみれば、今回の「福島の真実」編も原発問題にまじめに向き合い、しっかりとした取材に基づくものであることがわかる。私は最後の2話(23,24)を書店に注文し、読んだ。24話には、今回の「騒ぎ」についての、編集部の見解のほか、関係者、「識者」16人の意見も載っていた。

問題になったのは鼻血。
前双葉町長の井戸川克隆さんの話を紹介した場面。
この鼻血が原発事故に結び付くのか?

 実は、私は4月26日、井戸川さんにお会いしたばかり。小田原市で開かれた「脱原発をめざす首長会議」総会で。私は直接、話をきいた。その朝は鼻だけでなく、喉からも血が出たと、しんどそうだった。顔色も悪かった。
「私は被ばくしています」。

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 井戸川さんは、国の事故処理に非協力であるとして「身内」であるはずの町議会から解任(不信任)された。全町避難を指揮したあとも埼玉県加須市に住んでいる。「私たちは“ふるさと”の歌がキライ。歌いたくとも歌えない。」国に見捨てられた・・・全身、怒であった。

いま国は全国の原発周辺自治体に避難計画の策定を進めているが、井戸川さんらが痛感したのは、受け入れ側に「受け入れ計画」がないこと。また、「帰還計画」とセットになってこそ意味がある。しかし、国にはいずれの視点もないというか、もともと実効のある避難計画をつくること自体が不可能なのだ。いま災害救助法を適用しているが、最低、原発からの避難を呼びかける特別な法律の制定が必要だ。いまのような状況では、原発の再稼働はありえない。なのに、国は再稼働に前のめり、になっている。

 そこで鼻血問題。
井戸川さんは、自らのFB(フェイスブック)に自分の鼻血写真をアップしている。

原発事故直後、福島県から幼い子ども2人を連れて本市に避難をしてきた女性も、FBで子どもたちの鼻血のことを紹介し、これが現実であり、「風評被害」ではなく、福島の「実害」に目を向けてほしいと訴えている。

鼻血と被ばくの因果関係は、「識者」が両論書いている。放射能の濃度、個人差いろいろあるだろう。この問題に正解はないのだ。はっきりしていることは、鼻血を出している人がいるという「事実」。それが被ばくの影響であると疑われること。これで、十分であると思う。

 この事実を漫画に書いて、なんで大騒ぎになるのだろう。
「美味しんぼ」を高く評価したうえで、あえて言わせてもらえれば、たかが漫画、である。

なのに、このバッシング。
政府の官房長官までが遺憾コメントを出している。
私はこのことこそ、異常であると思う。

「風評被害」・・・いかにも福島県民に寄り添うような美名を隠れ蓑にして、実害には目をそらし、避難者を放置したまま。国は、原発再稼働のためには、早くフクシマを忘れさせたいのだ。だから敏感になっている。

テレビや新聞でも、最近は原発避難者の報道は見られなくなった。汚染水処理もめどがつかないままなのに、報道が少ない。復興に向けて努力する県民と、その激励のために毎月訪問する安倍首相・・・これが中心だ。

特定秘密保護法反対ではあれだけがんばった地元・高知新聞までもが及び腰。これこそ報道の自主規制。マスコミ、報道機関には、これを自らの問題としてしっかり受け止めてほしい。

このままフクシマが消されてしまいそうで、おそろしい。

窪川原発

 このほど島岡幹夫さんを、窪川のご自宅に訪ねた。
 元 ・窪川原発反対町民会議代表。
全国で脱原発の運動に関係している人たちの間では知らない人がないくらい有名な人だ。島岡さんの話は聞いたことがあったが、直接お会いするのははじめて。

脱原発をめざす首長会議が9月6日(四万十市)、7日(高知市)で開く予定の講演会での講演と対談(相手・村上達也前茨城県東海村長)をお願いした。ご快諾をいただいた。

島岡さんはいま76歳だが、エネルギッシュで話し出したら止まらない。脱原発の話ならどこにでも行く。最近は、韓国やタイへも。

若いころは大阪府警の警察官であったが、地元に帰ってからは農業一筋。いまも6町歩の田んぼを奥さん、息子さん夫婦とつくっている。ちょうど田植えの最中。いま有機農業に取り組んでいる。奥さんの手作り納豆は評判。

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 窪川原発の話が最初に持ち上がったのは1976年。島岡さん38歳。島岡さんは自ら原発反対組織の代表を申し出る。のち町議に。根っからの農家の島岡さんがリーダーとなったことで、大地(台地)に根を張った運動が広がっていく。前農協組合長をかついで、さらに幅広い「郷土(ふるさと)をよくする会」もつくる。島岡さんらの主張は・・・

「窪川町は、農畜産80億、林業30億、縫製工場などの加工産業を合わせると150億近い収入がある、四国有数の食糧生産地。たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは、愚の骨頂」

原発推進町長をリコールしたが、一転、その町長が住民投票条例制定を公約に掲げ復活。議会も四国電力による立地調査を可決。町を二つに分けた攻防が続く中、島岡さんらは集落単位の勉強会を開くなど草の根の運動を拡げる。そこに1986年、チェルノブイリ原発事故。議会勢力が逆転し、町長は原発関連予算の計上が不可能になり、責任をとって辞任。1988年、議会が原発終息宣言。13年間の混乱に幕が降りた。

 詳しくは
 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/10-15fc.html
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b97a99db7e3150802b442688a5321494

 島岡さんから、原発立地予定だったところを詳しく地図で教えてもらい、その日、はじめて足を運んだ。

窪川は台地の町。東西の両端は久礼坂と片坂、南の太平洋側は断崖がそそり立つ。わずかに興津と志和の二つの集落がある。原発立地は、この断崖の志和寄りのところに計画された。

細い、くねくねの急坂を降り、志和の港(防波堤)から、かつてスカイラインが計画されていた道を進む。現地までは道がないが、途中の岬からそのあたりが見通せた。

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その日は、紺碧の海に波一つなかったが、ここらあたりは、まさに南海トラフ巨大地震における津波想定最高値31メートルを記録したところ。土佐湾沖は地震の巣。仮に原発ができていたとすればどうなったかを想像すると、空おそろしい。

興津と志和は断崖で遮られている。いったん台地の上に戻り、興津側にも下りた。こちらの方が集落としては大きい。美しい海水浴場で有名だ。耕地は少ないが、いまは、ハウス生姜の産地になっている。

津波避難タワー建設、防災ヘリポート造成、保育所高台移転等の地震津波対策事業が着々と進んでいた。もし、これに原発避難対策(計画)まで加わると、大変なことになっていただろう、と思う。

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 島岡さんは言っていた。
「かつて原発推進派だった人たちからも、3.11後は、原発を持って来なくてよかったと、感謝の言葉をかけられる。」

いや、窪川の人たちだけでない。
高知県のみんなが守られたのだ。

市長のメッセージ

 きょうで市長を退任してから1年になる。在任わずか4年間であったので、初めて取り組んだ事業等については、着手したばかりで、いまになって軌道に乗ってきているものが多い。特に、ハード事業については、地震津波対策や武道館、支所改築、道の駅開設等、順調に進んでいるようであり、心強く思っている。

私は地元に帰りやりたいことがたくさんあったので、プライベートな時間はほとんどなかった。いまになって、やっとじっくりと地元を回れ、人とものんびりと話ができるようになった。以前から行きたかった県内外への旅にも出かけている。サラリーマン時代を含め、自由に使える時間のありがたさを、身にしみて感じている。

新しい市政については当然関心をもっている。
一市民になると、これまで見えなかった市政の課題や問題点、反省点などが見えてくるものだ。

いまの市長には、しっかりとしたかじ取りをお願いしたい。公約については、私と共通するものも多く(市民病院夜間救急復活など)、大いに期待している。だからこそ、個々の取り組み等について疑問に思うことは、私の意見を何度か申し上げてきた。(11/17、3/8、3/27)

そこで、気になる重要なことがある。
個々の取り組みに対して意見や考え方に違いがでてくることは当然のこと。それは仕方のないことである。

ここで言いたいのは「市長のメッセージ」がみえないということ。

メッセージには2つあると思う。市民向けと、外向けと。
市長は会社で言えば代表権をもった社長である。社の内外に向かって、常に社の方針や課題等について、メッセージを発しなければならない。自分の言葉で言わなければならない。でないと、社員もまわりも不安になる。

市民向けのメッセージとして最も重要なのが「広報誌」である。
本市でも「広報四万十」が毎月、全世帯に配布されている。

「広報四万十」には、私の前の市長の代に始めた市長が書くコーナー(欄)があった。前市長は「市長室こぼれ話」、私は「市長談話室」とし、毎月、市政の重い課題から軽い話題まで、幅広く、いろんなことを書いていた。

多くの市民もこれを読んでおり、いろんなご意見をいただき、それが市政運営に役立っていた。しかし、この1年間、この欄は消えたままである。

外向けのメッセージとしては、市の公式ホームページ(HP)がある。
いまのインターネットの時代、世界につながる情報ネットワークとして重要であるので、私はこれを拡充した。たくさんの「窓」を設けて、観光など、市のいろんな情報を発信するようにした。

その「窓」の一つに「市長室へようこそ」がある。市長からのメッセージを載せるようにした。1.ごあいさつ、2.市長プロフィール、3.市長メッセージ、4.市長談話室、5.施政方針、とした。

この「窓」はそのまま残っている。しかし、中身がないまま、1年たった。
いま載せられているのは、市長プロフィールと施政方針、だけ。

施政方針は、市議会での発言(市長説明要旨)であり、市HPの市議会の「窓」にも載っている同じものを転載している。つまり、いまオリジナルの情報としては市長プロフィールだけで、あいさつすら載せていない。

市民病院のHPにも、病院経営責任者は開設者(市長)であるので、「開設者(四万十市長)からのメッセージ」欄をつくった。しかし、この1年間、更新されないまま。
市長はここにきて市民病院について議会等で発言をされているので、自らの考えをこの欄にも載せなければならないと思う。

市長は「夢とビジョンのある四万十市」を、強く訴えていたはずである。

ぜひ、その「夢とビジョン」を、市民に、そして世界に、自分の言葉でドンドン発信してほしい。みんな、それを待っている。

高山と飛騨

 先月末、はじめて飛騨を訪ねた。高山市内、白川郷、古川などの名所を回ったことは、4月29日付で書いたので、きょうは別のことを書いておきたい。

飛騨に一度は行ってみたかったのは、中心地の高山が小京都と呼ばれ、わが中村と似た歴史をもっていると、思っていたからだ。

「戦国三国司」という言葉がある。戦国時代、京都の公家が国司となって地方に出向き(下向)、実際に在地支配を行ない、戦国大名になっためずらしい例として、飛騨の姉小路家、伊勢の北畠家、中村の一條家があげられる。高山の町が小京都と呼ばれるのは、こうした歴史によるものとこれまで思っていた。

しかし、間違っていた。まず、場所が違っていたのだ。

姉小路家が国府を置いたところは、いまの高山ではなく、その北部の山間地である、その名も国府町(高山と古川の中間)であった。しかも、姉小路家の飛騨支配は安定せず、コロコロと領主が交代、最終的に平地である高山に城を築いたのは豊臣秀吉の家臣金森氏であった。いまの高山中心部の町並みの基礎を築いたのは金森氏であり、徳川政権前期まで続く。その後飛騨は幕府直轄の天領となり、高山に陣屋(代官所)がおかれる。

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だから、高山の町並みと姉小路家とは、直接の関係はないのだ。しかも、姉小路家は公家のランクでは中級。飛騨に下向したのも嫡流(本家筋)ではない。最上級ランクの五摂家(摂関家)であった一條家の当主教房(前関白)本人が下向した中村とは意味合いが違う。格が違うのだ。

伊勢の北畠家も飛騨と似たようなもの。伊勢の国府は現美杉村にあったとされるが、町並みといわれるほどのものは残っていないそうだ。そもそも伊勢には小京都といわれる町はない。

わが中村が「公家的小京都」(武家的ではない)の唯一の例とされるのはこのためだ。しかも、土佐一條家5代(教房を含む)約100年は、それなりに安定した統治であった。城ではなく御所に居を構え、「御所様」と言われたぐらいである。こんな違いは、現地の飛騨に来てこそ、初めて実感できる。

しかし、このことと、例えば現在の観光地として、どちらが有名で、たくさんのお客さんを迎えているかということは、別である。
 
高山はいまや国際的な観光都市。日本の原風景とされている。春の高山祭が終わったばかりであったが、外国人であふれていた。伝統的町並みを保存・統一し、観光に力を入れてきた取り組みが、いま花開いている。

それに比べて中村はどうか。中村に来るのは、四万十川目あての観光客ばかり。「公家的小京都」を活かしきれていない。これは、私の反省でもある。

 ところで、飛騨に来て、もう一つ、身につまされることがあった。平成の大合併の功罪の「罪」ある。

「飛騨」といえば地域の総称。いまの岐阜県は飛騨と美濃に分かれている。高知県でいえば、飛騨は幡多、高山は中村と同じ関係になる。この飛騨が合併で揺れた。

合併前、飛騨には15市町村(1市、4町、10村)あった。最初に、これを誰もが認める中心地高山市を軸に一つにまとめる構想があった。しかし、まず独自ブランドをもつ白川村が抜けた。次に、残る14も、高山市中心の南部10と、古川町中心の北部4に割れた。

そこで、まぎらわしかったのが新2市の名称。

10グループ側(国府町もこちら)は高山市への編入合併という形をとったこともあり、「高山市」の名をそのまま残した。いまや観光地高山は国際ブランドでもあるから、当然であろう。片や、4グループ側は「飛騨市」とした。

これに気に入らなかったのが高山市側。高山は「飛騨の高山」で通っている。高山あってこその飛騨だというプライドがある。だから、飛騨市の名前を隣がつけることは、分家が本家を乗っ取るようなものだ、といろいろ注文をつけた。潔くないと言えばそうだが、その気持ちはわかる。しかし、法的にはどうしようもなく、飛騨地方は、高山市(人口9万人)と飛騨市(同3万人弱)の、面積だけは広大な2市に分断された。「高山は飛騨ではあるが飛騨市ではない」というのもわかりづらい。政府が強引な合併誘導をしなければ、こんなことにはならなかったろうに。
ちなみに、新・高山市の面積は日本一で、大阪府、香川県よりも広く、東京都とほぼ同じ。

この経過をわが身におきかえ、幡多を例に、同じように想定すれば、中村グループは中村市を残したのに、仮にその他の大きなグループがあったとして、幡多市を名乗るようなもの。しかし、中村市はたった1市1村の合併だったのに、中村の名を残さなかった。私はそれが残念でならない。

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(高山市役所と飛騨市役所)

中村宣言

       <2011年9月24日、「大逆事件サミット」において発表>
              
                    中村宣言

 大逆事件は第2世紀を迎える。この時にあたり、私達は幸徳秋水の生誕地である四万十市中村に集い、全国各地において展開されてきた、犠牲者達の名誉回復と顕彰活動の成果を継承し、新しい世紀の人権回復の運動を築き上げていくことを確認したい。

そのための連絡組織として、本日ここに、「大逆事件の犠牲者達の人権回復を求める全国連絡会議」(以下、「連絡会」と表記する)を結成する。

 大逆事件においては、26被告のみならず、その家族に対しても筆舌に尽くしがたい人権弾圧が行なわれた。それらの人々に対する人権回復を求めることは国民としての義務でもある。また、大逆事件は国家による犯罪であり、その年は韓国併合、アジア侵略の歴史と重なっていることを記憶に留めておく必要がある。

事件当時、日本国内においては、厳しい報道管制が行なわれ、事件の真実は語られることなく闇の中に葬られた。しかし、国外においては、ニューヨークをはじめとして、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマ等において、公正な裁判を求める声があげられ、思想弾圧に対する抗議運動が行なわれたことも忘れてはならない。

 戦後、多くの人達により、大逆事件の解明がなされてきた。また、判決から50年を経て、再審請求の訴えもなされた。連絡会はこれらの先人たちの栄位に敬意を払うと同時に、いまだ不十分な人権回復が行なわれていない現状を打破していきたいと考えている。

人権弾圧の無い世界を求めて、連絡会は国内各地における名誉回復と顕彰運動についての情報を共有し、協力関係を築いていきたい。

 以上を宣言する。

2011年9月24日

大逆事件サミット
幸徳秋水刑死百周年記念事業実行委員会
委員長 田 中 全

<参加者>
大逆事件の真実を明らかにする会
幸徳秋水を顕彰する会
大逆事件の犠牲者を顕彰する会
森近運平を語る会
「大逆事件」再審検討会
石川啄木国際学会
熊本近代史研究会
京都丹波岩崎革也研究会
堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会
真宗大谷派 泉恵機
ほか個人多数


                 

森近運平

 4月20日、岡山県井原市で開かれた森近運平墓前祭に参加したことは先に書いたが(4月29日付)、もう少し書いておきたい。

 「大逆事件」で処刑された12人(ほかに無期懲役12人)の中で、私は地元の幸徳秋水に次いで、親近感をおぼえるのが森近運平である。

理由は二つ。

 一つは、運平の妹の栄子さん(いまは故人)が事件の再審請求裁判を行なったから。1961年、当時、事件犠牲者唯一の生き残りで中村在住であった坂本清馬氏(無期懲役、24年後釈放)と2人で立ち上がったのだ。6年後、最高裁は「新たな証拠がない」として、請求を却下したが、この裁判によって戦後埋もれかけていた事件の実態が広く世に知られた意義は大きかった。この流れは、2000年中村市議会、2001年新宮市議会での事件犠牲名誉回復決議等につながっていく。

 二つは、運平は日本で最初に産業組合の普及に取り組んだ1人であること。産業組合はいまの農協や生協などの前身であり、小作・貧農などの相互扶助組織として明治30年代に芽生えた。「一人は万人のために、万人は一人のために」の協同組合原則につながっている。

運平は岡山県農学校を首席で卒業後、岡山県庁に入り農業指導を担当、産業組合の普及に努める。農商務省主催の研修会(東京)にも出かけ、普及書として『産業組合の手引き』を書いている。熱心に取り組むがゆえに、貧富の格差などの矛盾に気づき、幸徳秋水らによる社会主義運動に接近する。中村に帰省中の秋水を訪ね、秋水と一緒に演説会なども行なっている。

産業組合は、その後全国に広がっていく。その金融部門の中央機関として、1923年(大正12)、産業組合中央金庫が設立された。当時は国の出資による「官営」であったが、戦後、農林中央金庫と名前を変えたあと、いまは政府出資ゼロで、農協、漁協、森林組合(これらを系統組織という)等の共同出資による「民営」となり、農漁協貯金の最終運用機関としての役割を果たしている。

私はこの農林中央金庫で30年間、仕事をした。1989~92(3年間)は岡山支店に勤務した。井原市にも融資の仕事でたびたび出かけている。ちょうどバブル経済絶頂期で地価も金利も高騰。国と日銀が金融統制に翻弄された時期であり、その後の「失われた20年」~いや今でも~につながっている。

私は、その後、地元中村に帰って来た。
そして2011年、幸徳秋水刑死100周年にあたったことから、四万十市をあげて官民共同の記念事業を行ない、その実行委員長を務めた。

幸徳秋水は「大逆事件」の「首謀者」に仕立て上げられた。「事件」は非戦・平和・自由・平等・博愛、等の「思想」を裁いたものであり、その「思想」の理論的指導者が秋水であった。

その意味で、中村は「大逆事件」のシンボルであり、「聖地」である。

 「大逆事件」は決して過去のことではない。いまでも、村木厚子事件や、最近の袴田事件のように、信じられないような「事件」がつくりあげられている。

100周年記念事業の中で開いた、第1回「大逆事件サミット」では、全国各地で事件犠牲者の名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる人たちが一堂に会し、人権弾圧のない世界を築いていくとする「中村宣言」を採択した。

私も記念事業の代表を務めた以上、今後、こうした取り組みには積極的にかかわっていきたいと思う。

第2回「大逆事件サミット」は今年10月、福岡県みやこ町(旧豊津町、堺利彦の生誕地)で開かれる。

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脱原発をめざす首長会議

 4月26日、脱原発をめざす首長会議の今年度総会が神奈川県小田原市で開かれ、出席してきた。

同会議は、福島第一原発事故を受けて、2年前の4月、「住民の生命・財産を守る首長の責務を自覚し、安全な社会を実現するため原子力発電所をなくすこと」を「目的」として結成された。

世話人(呼びかけ人)は、桜井勝延・福島県南相馬市長、村上達也・茨城県東海村長(いまは元職)、三上元・静岡県湖西市長、事務局長は上原公子・元東京都国立市長。会員は基礎自治体の長(元職を含む)であり、現在94名。うち高知県は私を含む4名。

(脱原発をめざす首長会議 ホームページ)
 http://mayors.npfree.jp/

結成総会は東京、昨年度総会は茨城県東海村で。今年度、小田原市で開かれたのは、加藤憲一市長が会員であり、再生可能エネルギー普及に積極的に取り組んでいるから。私は初めての出席、全体でも19名だった(現職首長はみんな忙しい)。

 総会では、昨年度の取り組み報告と、今年度の方針が議論された。私からも「四万十川アピール」の発表等、伊方原発に近い高知県の取り組みを報告したが、最も強烈で切実だったのが井戸川克隆・元福島県双葉町長の発言。原発立地の町として全町避難が続いており、帰還のめどは全くたっていない。ご本人もいま埼玉県加須市に住んでおられる。

「わたしたちは“ふるさと”の歌がきらいです」「国に見捨てられたまま」・・・
政府が策定を進めている「避難計画」は、受け入れ側の計画が立てられず、また「帰還計画」とセットにならない以上、絵に描いた餅。避難生活は人権と真逆。原発避難を呼びかける法律などの整備が必要だが、政府はそんなことそっちのけで、原発再稼働に前のめりになっている。原発はカネと密接につながっており、人もバラバラにされている。

東海村の村上達也・元村長は、「30キロ圏内脱出」は無意味であり、「複合圏内」になれば手の打ちようがない。「避難と帰還」の計画をつくるのは、もともと無理な以上、原発再稼働はありえない、と。

こうした議論をふまえ、「新エネルギー基本計画の抜本的見直しを求める」「実効的な避難計画・態勢が確保されなければ原発再稼働せず、の確認を求める」「九州電力・川内原発の再稼働に反対する」、3つの決議を採択し、政府に提出することを決めた。

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 勉強会では小田原市の取り組みが紹介された。市民出資による太陽光発電をすすめる事業体や、「エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議」(代表・鈴廣かまぼこ副社長)の設立、関係条例の制定など。

夜の交流会では、井戸川さんと隣り合わせた。国への怒りの塊りであった。町民を避難させる中で、井戸川さんも被ばくしており、今日は鼻からだけでなく喉からも血が出たと、しんどそうだった。

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 2日目(午前)は、小田原市の事業の現地視察。小学校屋上の太陽光パネルや山上のメガソーラー設置予定造成地、また過去の小水力発電所の遺構など。加藤市長にマイクロバスで案内をしてもらい、市の強い意欲がうかがえた。

「自然エネルギーのまち」として注目されている、四万十川源流域の梼原町は、風力・地熱・小水力・木質バイオマス等、ほとんどの施設が町直営だが、小田原では市民や先進企業の力を活用していることが違う。都市部ゆえのやり方だと思った。

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 わが四万十市は伊方原発から50キロ圏内。高知県で一番近い。いま伊方再稼働については、地震対策に重点がおかれているが、すべての原発に共通をしている最大の問題点は、実効性のある避難計画(および帰還計画)が立てられということであること、が今回わかった。本市は避難する側、される側(受け入れ)、両方になりうるが、どの計画策定にも着手していない。高知県からの指導もない。国もいいかげん。これが問題の根っ子である。

 こうした問題の本質を高知県内にも広く知らせなければならない。そこで、9月6,7日、村上・元東海村長を招き、四万十市と高知市で、「講演会&シンポジウム」を開くことになった。

 ところで、今回の私の旅は、岡山県井原市での「大逆事件」犠牲者・森近運平墓前祭参加へのから始まった。「大逆事件」と原発問題は同根である。国家が真実を隠し、よけいな者を消し、国民を強引に誘導していくやり方。

3年前、中村で「大逆事件シンポジウム」を開いた時、早野透・桜美林大学教授(元朝日新聞記者)が言っていた。幸徳秋水は非戦・平和を唱えたジャーナリスト(新聞記者)であった。しかし、日本のジャーナリズムは、その後、戦争賛美で国家に追随し8.15の敗戦を迎えた。にもかかわらず、戦後も、安全エネルギーとして原発礼賛報道で国家に追随した。「3.11は日本のジャーナリズムの2度目の敗北」である・・・と。正鵠を得ている。

また、井原と小田原はこんな縁も。小田原城を築いた北条氏(北条早雲)のルーツは井原。同市内には、「北条早雲駅」もある。両市はいま、交流が盛んであるそうだ。

 いろんな意味で、収穫の多い旅であった。

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(北条早雲像前の写真は、加藤憲一・小田原市長、三上元・湖西市長と)

プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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