原発コストは高い

 29日、高知市夏季大学にでかけた。講座は、立命館大学・大島堅一教授「経済から考えるエネルギー転換の課題」。会場、かるぽーと。

 大島先生には著書『原発のコスト - エネルギー転換への視点』(岩波新書)がある。これまで、他のエネルギーと比べて安いといわれてきた原発の発電コストだが、はたしてそうか。原発を「経済」の視点から考えると、きわめて割高なものである、という話。

冒頭、先生は、高知県では過去に窪川原発を止めたことは「本当によかったですね」とエールがあり、会場から拍手がおこった。南海トラフ巨大地震の直撃を受ける場所に、もし原発がつくられていたとすればと思うと、ぞっとしますね・・・とも。

 原発は、これまで政府や電力会社などによって、さまざまな「神話」がつくられてきた。

1. 原発はすでに電気供給の約30%を占めており国民生活には不可欠???
 しかし、それは電気に限った話で、エネルギー供給全体でみれば、石油45%、石炭20%、ガス18%、原子力11%、である。

2. 資源のない日本にとって、原発は「準国産エネルギー」である???
 「経済」には「準」はありえない。国産か輸入かだ。原発の原料ウランはすべて輸入。しかも、ウランはいずれ枯渇する。

3. 原発は環境にやさしい、クリーンエネルギーだ???
 ひとたび事故がおこれば放射能をまき散らす。福島第一原発事故をみよ。福島では、3.21時点(事故10日後)では、仮に、ベント(空気抜き)ができず、4号機まで崩壊すれば、半径170キロ圏内「強制移住」、250キロ圏内「任意移住」を想定していた。都心まで220キロだから、関東はほぼ「全滅」であった。

 そしてきょうのメイン
4. 原発のコストは安い???
 それは「発電コスト」に限定した話であり、さまざまな「社会的費用」を含めれば高い。「社会的費用」には、①事故リスク対応、②政策(「もんじゅ」には、毎日5千万円注いでいる)、③立地対策、④技術開発、⑤追加的安全対策、などがある。

 福島では事故対策費用は増え続けている。損害賠償4.9、原状回復3.5、事故収束・廃止2.1、行政・復興0.4、計11.1。(単位・兆円)

 こうしたコストは誰が負担するかが問題であり、電力会社がみてくれればいいが、損害賠償費用にしても、車でいえば「自賠責」分だけ。東京電力は、シブル、ネギル、ウチキル。その他の費用は国がみている。ツケは国民にまわされる。つまり、原発は電力会社にとって「安い」が、国民にとっては「高い」もの。

 原発を止めれば電気料が高くなると宣伝されているが、こうした「社会的費用」から解放されるので、総体的な国民負担は軽くなる。

 さらに問題なのは、原発では、マイナス部分のツケを後世にまわすこと。原発の受益部分(電力をえる)はいまのわれわれ世代が受けるかもしれないが、そのゴミ(核廃棄物等)は、何万年先まで、地球の子々孫々まで、残すことになる。
 
大島先生はいま原発問題の「売れっ子」であり、各地の脱原発の集会でも話をされている。その日の口調は、おだやかに、ゆったりとされていた。市民大学という場であるからであろう。しかし、内容は刺激的であった。

残念だったのは、聞き手(受講生)が意外に少なかったこと。前日(開校初日)の小久保裕紀(元プロ野球)の話には760人集まったというが、この日はその半分もいたであろうか。

 九州電力川内原発の再稼働が事実上決まり、伊方も次の日程にもぼってくる。伊方からの距離は、高知県内では、四万十市、梼原町が最も近く50キロだが、高知市までは120キロ。高知市のみなさんは、ノンビリしすぎてはいませんか。よそ事ではありませんよ。慣らされる、諦めさせられる・・・これが一番怖い。

 講演終了後、大島先生に脱原発をめざす首長会議を代表してごあいさつをさせてもらった。先生は私の大学後輩(一橋)にあたる。首長会義主催で、9月6,7日、四万十市、高知市で「脱原発講演&対談」を予定していることを報告し、今後のご支援・ご協力をお願いした。

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四万十川の沈下橋

 沈下橋は四万十川のシンボルである。増水の時は、川に沈むことを前提に造られており、欄干など流れに抵抗するものは付けられていない。沈下橋は他県では、潜水橋、流れ橋などとも呼ばれているが、四万十川流域には47もあり、しかも大型のもの(最下流の佐田沈下橋は長さ292m)が多いのには、理由がある。

まず、川の増水や洪水がひんぱんであること。地元では、増水のことを「水が出る」と言う。長さ196kmの四万十川は源流も河口も高知県。くねくねと蛇行を繰り返し、多くの支流を集めながら、ゆったりと流れるため、河床勾配が低く、水はけが悪い。台風が来るたびに、年中行事のように、水が山から湧き出してくる。また、山の中を流れる割には、谷が開け川幅が広く、川面に沿って人々の暮らしがあること。流域は農林業中心で人口も少ないことから、地元の財政力や経済効率から見て、大きな橋(抜水橋)を架ける意味は少なかったといえる。

歴史的にみても、流域は舟運が中心であり、橋というものは必要がなかった。主産業であった木炭や木材のほか、日常生活物資、そして人間様も「せんば」とよばれる川舟や筏で運ばれたことから、橋はその通行の邪魔になる。対岸には舟で渡ればよい。つい最近まで、小学校に通う「学童の川渡し」が残っていたくらいである。

沈下橋が造られたのは、生活の中から木炭が消えるにつれて、舟運がすたれてきた1950,60年代である。以降、地元では沈下橋は当たり前の風景となったが、1983年、NHKテレビが放送してから一変。四万十川は、小学校の教科書にも載るような、「日本最後の清流」になってしまった。

 そしていま東日本大震災。巨大防波堤、防潮堤を軽々と砕き、乗り越え、原子力発電所をものみこんだ大津波。自然の猛威の前には、人間による制御など到底及ぶものではないことを思い知らされた。およそ100年に一度、必ず発生する次の南海地震対策として、私も東北被災地を視察してきた。石巻市の北上川下流域は四万十川と地形がそっくりであった。

北上川では、津波が上流50kmまで遡上。堤防決壊、越流等による住宅地や農地の浸水は上流12kmまで。大きな鉄橋(新北上川大橋、566m)も一部が流されていた。国土交通省の河川管理では、堤防や橋は洪水を前提に造られていることから、川を逆流してくる津波には弱いことが露呈された。

 四万十市(旧中村市)は、1946年の昭和南海地震で死者291人、負傷者3,425人を出したが、大半が建物倒壊によるものであった。

四万十川は治水上、大変やっかいな暴れ川であり、支流の中筋川、後川を含めて1級河川を3つも管理しているのは、全国でも四万十市だけである。何度も氾濫を繰り返し、その生活の中で沈下橋もつくられたが、津波の経験はない。だが、次の南海地震が東南海地震、東海地震などとの連動型になれば、確実に津波が川を遡上してくるものと思わなければならない。しかしながら、その対策に決め手はない。とにかく逃げることである。山や高所への避難道の整備と避難訓練に重点的に取り組んでいる。

 一昨年、四万十川流域全体が文化庁から重要文化的景観に指定された。文化的景観とは、人々が自然とかかわる日々の暮らしの中で造り出した風景のこと。四万十川では、棚田、沈下橋、伝統漁法、川漁師など、自然と調和し、共生してきた生活の姿が構成要素とされている。

すでに1998年、高知県と四万十川流域自治体は、沈下橋を「生活道に加え、生活文化遺産として後生に引き継ぐ」とした「四万十川沈下橋保全方針」を策定。架設後40~60年たち、今回流失したように劣化が進んでいる沈下橋であるが、今後も復元に努めることにしている。

生活に使う火力(エネルギー)の転換(木、木炭→石油)とともに登場した沈下橋。そしていままた、原子力依存からの脱却を迫られている日本。

 四万十川の沈下橋は、あるがままの自然を受け入れ、逆らわず、自然と共生する暮らしにこそ、われわれの未来があることを教えてくれている。

農林中金総合研究所「農林金融」
787号(2011年9月)への寄稿


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暑さ日本一

 梅雨が明けた。いよいよ、暑さとのがまんくらべ。

子供のころの夏の思い出は、夏休みの楽しいことばかり。暑さの記憶はない。しかし、さすがに還暦を過ぎると、楽しさなんかはない。とにかく暑さがこたえる。

昨年8月12日、四万十市は41℃、暑さ日本一を記録した。これまで四万十の名は川で有名だったが、連日マスコミで報道されたことで、ポイントが加算され、さらに知名度がアップした。

全国から見れば同じ「四万十」なのだろうが、実は市内には、気象観測地点は2か所ある。中村(旧中村市)と江川崎(旧西土佐村)。日本一を記録したのは江川崎。去年はお盆期間中だったこともあり、観光客に帰省客が加わり、西土佐はフィーバーした。私は、その時、こんな投書を高知新聞に送った。(8月23日付「声ひろば」)


              環境保全でも日本一を

 四万十市は国内最高気温41度を記録し、にわかに注目を浴びた。これを歓迎し、「日本一暑いまち」を観光や地域おこしなどにつなげようという声がある。それも大事なことだが、一方で重い責任をかかえたことにもなる。
 近年の異常気象は、人間の産業活動に伴う温室効果ガスや環境破壊による地球温暖化が原因であることは明らかだ。この夏の猛暑では、高齢化社会が進む中での熱中症患者の増大や、渇水による給水制限、農作物への被害などにより、人間の生活が脅かされている。
 四万十川は日本最後の清流と呼ばれて有名になった。最後という意味は、自然環境や人と川の文化がいまも残っているということだ。この四万十川が異常気象においてもシンボルになったことの意味は重い。
 昨年7月、流域5市町共同で原発に頼らない自然エネルギーへの転換をめざす「四万十川アピール」を発表したように、四万十川の自然や環境を守ることなど、温暖化対策等地球環境を守っていく取り組みにおいても日本一になることにより世論をリードし、注目されなければならない。
流域に住むわれわれとしてはその責任がある。

******

 去年の夏を過ぎてからも、西土佐ではフィーバーが続いている。日本一の先輩格である、熊谷(埼玉県)と多治見(岐阜県)の観光商工関係者を呼んで、「暑いまちサミット」を開いたり、Tシャツや、マスコットキャラクター(アチチうなぎ)をつくったり。今年は、どこが一番かを競っている。

マイナスをプラスに。過疎を吹き飛ばそう、地域を元気にしようと、暑さを逆手にとった発想・企画はいいことだし、私もやったほうがいいと思う。

しかし、忘れてはならないのは、「暑さ日本一」では「有名」にはなっても、「誇り」にはならない。四万十川やこの地域には、誇るべきものがたくさんある、ことを。

二人の墓 岡林寅松 小松丑治

 大逆事件の犠牲者は26人に及ぶ。死刑12人、無期懲役12人、有期刑2人。このうち高知県出身者は5人。幸徳秋水、奥宮健之が死刑、坂本清馬、岡林寅松、小松丑治が無期懲役であった。

秋水は日本を代表する思想家、ジャーナリストとして不動の位置を占めている。秋水は事件の首謀者に仕立てあげられ、「幸徳事件」とも呼ばれた。それだけに、秋水の名はよく知られている。

他の4人は、高知県人ですら、いまはほとんどが知らない。このうち、坂本清馬は事件最後の生き残りとして、1961年、再審請求裁判を行なったこと、また奥宮健之は自由民権運動家で著書(全集)も残していることから、この2人については、事件に関心をもつ方なら名前を聞いたことがあるだろう。坂本の墓は、晩年をすごした中村の秋水と同じ正福寺、奥宮の墓は、東京・染井霊園にある。

しかし、残る2人、岡林寅松、小松丑治については、よほど事件に詳しい者でないと知らない。埋もれた名前になっている。

 2人は、ともに明治9年、高知市生まれで、高知師範付属小学校の同級生。事件当時も、ともに神戸海民病院に勤務していた。岡林は医師志望、小松は事務だった。神戸平民倶楽部の主要メンバーとして活動する中で、明治政府によってフレームアップされた罠にはまった。「関西グループ5人」の中に含まれる。

2人は死刑判決を受けたが、翌日無期懲役に。昭和6年、仮出獄が許されるまでの20年間、長崎県諫早監獄の中で世から隔絶。出獄後も常に官憲が監視。周囲からの冷たい視線にさらされる、日蔭の生活を送った。

2人の墓は高知市内にあることは知っていた。しかし、私は、地元中村の幸徳秋水、坂本清馬の墓にはたびたび出かけているのに、同じ県内とはいえ、まだ行ったことがなかった。申し訳ないけれども、私の中でも2人はそれだけの存在であった。

 私は、今年になって、岡山・井原(森近運平)、大阪(管野須賀子)、和歌山・新宮(高木顕明)へと、事件犠牲者を追悼する行事にでかけた。そこでハッと気付いた。自分の足元の高知県の犠牲者を忘れているではないか。私は自分を恥じ、このほど2人の墓を訪ねた。

山本泰三著『土佐の墓』に載っている地図を頼りに探した。岡林の墓はすぐにわかった。小高坂山の北麓、新屋敷にあった。岡林家と両親の墓の隣、小さな墓であった。側面に、昭和二十三年九月一日没、七十三歳と刻まれていた。岡林は入獄直後に男の子を失い、妻とも離縁。大阪で戦災にあい、高知に帰郷。春野の妹宅に身を寄せていた。墓の周りはきれいで、筒にシキビがさされていたので、縁者の方がおられるのだと思う。手を合わせ、詫びた。

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小松の墓は筆山の林の中でわかりづらいときいていた。その通り、探すのに苦労した。地図にキチンとした目印がない。目星をつけて、道路から藪の中に入ったがわからない。結局、その日は諦めて、2日後、大逆事件研究者の別役佳代さん(香南市)に案内をお願いした。

別役さんも2,3年ぶりという。墓石が並んだ脇を、林の中に入る。夏草が伸び、マムシが出てきそう。大木が腐って倒れ、道を塞いでいた。少し迷ったが、暗い林の中の斜面に見つけた。父の墓、母の墓、小松家の墓と3基並んでいた。小松家の墓の側面に、兄弟妻たち6人の名が刻まれていた。丑治、昭和二十年十月四日没、六十八歳、事件当時新婚だった妻はるは、昭和四十二年三月二十五日没、八十三歳。極貧の中、丑治は京都で、はるは明石で死んだ。子はなかった。

墓は半分落ち葉に埋まっていた。周りには、苔むし、放置された墓石が傾き、ころがっている。その中では、小松の墓石はまだ新しく、しっかりしているほうだ。しかし、人が近づいた気配がない。無縁状態になっているように思えた。落ち葉を払いのけ、花を挿し、手を合わせた。

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 2人の墓の状態は対照的であったが、ともに県内では忘れられた存在になっていることでは変わりはない。

日本の近代史上最悪の冤罪事件、大逆事件からすでに104年。いまも冤罪事件はあとを絶たない。しかも、特定秘密保護法、集団的自衛権等、「お国のため」「愛国心」が再び喧伝されるいまは、100年前に逆戻りしたようだ。

3年前、中村で、幸徳秋水刑死百周年記念事業を行ない、大逆事件サミットを開いた。全国から事件犠牲者の名誉回復と顕彰に粘り強く取り組んでいるメンバーが集い、いまこそ人権弾圧のない世界を実現しようと「中村宣言」を採択した。これを機に、熊本、大阪、新潟等において、新たな運動が芽生え、広がっている。100年の時空はつながっているのだ。

しかし、高知県はどうだろうか。中村においては、全国に先駆けて幸徳秋水を顕彰する会ができ、毎年墓前祭を行うなど活動を続けている。しかし、この活動の対象は秋水だけ(坂本清馬を加えても2人)である。ほかの3人については、その業績を評価し顕彰する取り組みは、まったく行なわれていない。

もともと5人を一括してとらえ、評価するという視点がこれまでなかった。理由は、5人は高知県生まれとはいっても、若くして地元を離れ、よそで活動をした者ばかり。高知県が活動の舞台になっていないのだ。秋水宅で一時書生のような生活をした坂本清馬を除けば、秋水との直接的な接点も少ない。岡林は秋水に会ったこともなく、また小松も一度勉強会で会っただけである。

だが、5人は土佐人という根っこは同じ。自由は土佐の山間より。秋水に代表されるように、自由民権の息吹と風土の中で育ち、それぞれに思想と行動を深めていったことでは共通しているはずである。最期も同じだった。龍馬→兆民→秋水は深くつながっているといわれるが、他の4人も同じなのだ。

集団的自衛権で立憲主義に風穴が開けられたいま、日本は再び国権と民権のたたかいの渦中にある。そうした視点から、高知県として、あらためて大逆事件の真実に学び、今日的視点で5人を評価、顕彰することはきわめて重要であると思う。

特に、最も埋もれた存在になっている、岡林寅松と小松丑治。高知市内に眠っている2人の名を広く県民に知ってもらう必要がある。そのためにはまずは縁者を調べる。そして無縁状態になり放置されたままになっているとみられる小松丑治の墓の周辺整備を行なう。墓石によると、小松には兄と弟がいたようだ。民権運動研究者等に提案し、動いてみたい。

なお、私はまだ奥宮健之の墓を知らない。今度、上京するさい、染井霊園を訪ねたいと思う。

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地方自治 県の役割

 13日、滋賀県知事選挙で自公推薦候補が負けた。

この候補は元経産省官僚であり、国とのパイプの太さをさかんに強調。政府・与党も幹部を投入・支援したが、勝ったのは、現職の嘉田知事が推す、「草の根の自治」を訴えた元民主党代議士。

民主党への支持というより、安倍政権のこの間の強引な政治手法、「おごり」に対する怒り、反発もあったのであろう。痛快。この結果は一地方選挙以上の意味をもっているからだ。

 同じ13日、私は市内西土佐大宮の大宮地域振興協議会若者部会が主催した講演会に参加した。四万十市大宮は戸数135、人口289人、高齢化率約50%、四万十川支流目黒川沿いの愛媛県境、どこにでもある小さな集落だが、いまや、助け合い、支え合いで、「元気な集落」として全国的に有名になった。

「地域を守る」、その多彩な活動の拠点が大宮産業。地域住民が株主の株式会社だ。
廃止になった農協事務所を買い取り、購買店舗(雑貨屋さん)兼ガソリンスタンドにしている。

講演会を企画・リードしたのは、地域おこし協力隊の小脇淳平さん。四万十市が採用した協力隊員は、いま6名まで増えたが、淳平さんは私が市長時代の採用第1号(兵庫県明石市出身)。講演会講師は的場亮氏(37歳)。元関西大手進学塾のカリスマ講師で、いまは「講演家」として各地を飛び回っている。演題は「一瞬の『感動』を人生の『きっかけ』に」。「あこがれ」「あきらめない」「感謝」・・・子供から高齢者まで人間の原点は同じ。ヤル気、本気、感動をもらった。

的場氏の前段には、高知県産業振興部中山間地域対策課長が「高知県の現状について」と題して、過疎高齢化にかかる、県の対策・取り組みを紹介していた。というのも、尾﨑知事は2期目(平成24年度~)にあたり、これまでの高知県産業振興計画をバージョンアップさせるとして、中山間地域の人口減、過疎高齢化対策に相当な意気込みで取り組んでいるからだ。

その目玉が集落活動センター。旧小学校や集会所を拠点に、地域住民が主体となって、生活・福祉・産業・防災などの活動を地域ぐるみで取り組むというもの。かつてはどこの集落にもあたりまえにあった、住民同士の助け合い、支え合いシステムを復活させようというもの。

尾﨑知事第1期目の産業振興計画は、産業育成・新興に重点を置いていた。しかし、それだけでは地域を守れない、もっと事態は深刻であるということに気付いたのであろう。過疎高齢化が進む中山間地域対策と、もう一つ、移住促進対策に重点を絞り込んだのは、的確な判断である思う。

県は集落活動センターを、平成24年度から向こう10年で県下130か所につくる計画で、現在14できている。その一つが、ここ大宮であり、センターの名称は「みやの里」だが、そもそも拠点となっている大宮産業(株)が発足したのは、県の構想よりも早い平成18年。発足の過程で県・市は協力・サポートはしているものの、基本は住民ペースで取り組んだものである。

県が進める集落活動センターはゼロからできるものではない。14センターは、住民の支え合い等の一定の組織と実績があるところを県がピックアップして、拡充させたところばかりである。大宮はその中でもモデル的存在。今回のような講演会を自力でおこなうところがすごい。

そこで、本題の「地方自治 県の役割」である。
滋賀県知事選挙で争点となった、県の「草の根の自治」とはどういうものなのであろうか?

日本の地方自治制度は「地方自治法」で定められているが、その基本は市町村(基礎自治体)であり、都道府県の位置づけは曖昧、中途半端である。すなわち、地方公共団体(都道府県および市町村)は、「地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担う」とされている中で、都道府県の役割は、「広域にわたるもの」、「市町村への連絡調整にかかるもの」等、限定的に書かれている。

現状をみても、ゴミ収集、水道、消防、国保、生活保護・・・等々、住民の日常生活にかかわる業務のほとんどは市町村がおこなっている。住民は市役所、役場へ行くことは多いが、県庁(または県の出先機関)に出向くことはめったにないであろう。それだけ、市町村は住民の生活に密着しているし、市町村職員は、住民個々の生活の実情の細かい部分まで把握している。

こうした実情をみれば、集落活動センターのような組織の立ち上げは、本来、市町村がリードしなければならないと思う。センターは県下統一規格品でできるものではない。地域ごとに置かれた環境が違うし、何よりも担い手が違うのだから。

高知県では市町村が弱体だから、それができないのか。いや、決してそうではない。市町村との役割分担の議論がないまま、県が一方的に構想を打ち上げ、突っ走る。他の分野も含めて、最近、そうした構図が多くなってきているように思う。

集落活動センターの構想そのものは時宜をえたものである。
県は関係補助制度の整備や国との調整役など外側からのサポートに徹し、センター運営そのものは、当然、住民主体でおこなうなかで、行政窓口は市町村が担うべきである。

行政機能として、県には二つの顔がある。
国向けと、市町村向けと。

知事は、国に対しては県下市町村を代表して(それが調整役)、基礎自治体の自治を守る立場から発言をしてもらいたい。そもそも中央官庁出身の知事だからといって、また政府与党の推薦をうけた知事だからといって、国へのパイプが太いとか小さいとかいう、ことがおかしい。国の予算配分等は、すべて法律によって配分ルールが決められているはずである。

また、知事は、市町村に対しては、それぞれの自治権を尊重し、侵害しないこと。県の関与が大きくなればなるほど、市町村の独自性が失われ、職員も県の顔色ばかり見て、県の指示によってしか動かない組織になってしまう。企画力も失われていく。

知事に、肝に銘じてほしいこと。
「県は国の下請け機関ではない。ましてや、市町村は県の出先ではない。」

水が出る

 台風8号は無事通過した。当初の予想では、史上最強などと言われたため心配したが、ここらでは被害らしい被害もなかった。安堵。

 台風を一番喜んだのは子供たちであろう。市内の学校(小・中・高)はすべて休みになった。私も子供のころは、台風がくるとうれしかった。胸がわくわくドキドキした。学校が休みになることが一番だが、ほかにも楽しみがいっぱいあった。竹を割って風車をつくり、堤防の上でブンブン回した。上流からは材木などいろんなモノが流れてきて、それらを集めた。大水のあとは、ウナギや鯉などがたくさんとれた。大人たちも結構楽しんでいた。

 ここらでは、川の水が増水することを「水が出る」という。「今日は水が出ちょるねや・・・」。谷々から水がわき出るという意味か。「水が出る」ことが日常茶飯事のため、水をやり過ごすというか、うまく付き合ってきた。

四万十川は全国に名だたる暴れ川。昭和4年、当時の内務省が渡川改修事務所をはじめて中村に置いたころは、計画洪水量(洪水の予想規模)日本一であった。それから、延々と治水事業を行なっている。同一水系(渡川水系)で、四万十川本流、後川、中筋川と3つの一級河川をもつのは、全国でここだけである。

中村はこれら3つの河川が合流するデルタ上に乗っかった 町である。だから、いつも水没していた。下の写真は、明治(左)と昭和(右)。こんな具合だ。(中村の百年写真展から)

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過去最も大きな「水が出た」のは、昭和10年。町中が湖のようになった。しかし、死者は出なかった。みんな、逃げ方を知っているからだ。

こんな話がある。
昭和29年、11か町村が合併して中村市ができた。市役所庁舎は天神山を切り崩して建てることになった。天神山には由緒ある天神社が鎮座していた。氏子たちは、昭和10年の出水の水位よりも高い位置に庁舎を建てることを条件に山を提供した。いまの四万十市役所もその時の高さのまま、海抜12メートル。それだけ中村の人たちは、水の脅威を身をもって感じていたということである。

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昭和10年に次ぐ、出水は昭和38年と平成17年。
昭和38年の時は、私は小学5年だった。夜、ローソクの灯で眠れなかった。実崎の堤防はあふれる寸前だったが、朝起きると、上流の古津賀の堤防が先に切れたため、八束は助かったと大人たちが言っていた。

いまでは長大な堤防が完成したため、家々が水に浸かることはめったになくなった。中村の町も四方を堤防で囲まれ、唯一、堤防がなかった不破・角崎地区もいま築堤事業が進んでいる。

しかし、一部、特に中筋川沿いには、地盤の低いところがまだ残っており、先月も道路と一部床下浸水した。内水による田んぼの冠水はいまでも年中行事だ。こうした低地には、過去の洪水記録を表示したポールが建っている。写真の先端が昭和10年の水位。(市内楠島)

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洪水とのたたかいには、ここらでは慣れている。対応も熟知している。
しかし、川を遡ってくる津波の経験はない。南海トラフ巨大地震対策として、これからはこの対策も重要。

水は上流からだけでなく、下流からも「出る」のだ。
肝に銘じておく必要がある。

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一條兼定公430回忌法要

 6月28日、土佐一條家4代目御所さま、一條兼定公の430回忌法要に、宇和島沖の戸島へ渡った。去年11月、初めて墓参に行った時は、宇和島港から定期船に乗ったが、今回は中村から31人が参加したので、対岸の矢ヶ浜に迎えの渡船が来てくれた。定期船なら約1時間かかったが、渡船の最短距離ならわずか10分だった。

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 島の人たちは、長宗我部に追われた御所さまをかくまい、墓地がある龍集寺で毎年法要をおこなってくれている。普段も、宮様と呼んで、花などを供えている。中村にも教房公などの墓はあるが、一條神社の大祭(いちじょこさん)は盛大に行なわれているものの、寺の法要はない。島のほうが手厚いともいえる。この日は、中村勢を含めて約70人くらいになった。

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 住職は法話の中で、最後はキリシタンとなった兼定公は仏式の法要をどう思われているかと心配されていた。しかし、中村から遠く離れた伊予の小島に眠る御所さまは、島人たちの温かい気持ちにずっとこころ癒されていることであろう。

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 今回は、中村の郷土史家が兼定公と戸島の歴史的背景について講演し、また「玉姫の会」の女性が兼定公のおばあさまにあたる玉姫の物語を紙芝居で披露した。島のみなさん、熱心に聞いておられた。

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 集会所では、目の前の海で採れたばかりの大きなサザエや、鯛、イサキなどの料理をふるまってもらい、ビールを交わし、中村と戸島のにぎやかな交流会となった。

 一條家の時代は幡多と伊予南部(南予)は一体的であった。文化・経済に境界はない。いま再び県(行政)の枠組を越えた交流、取り組みが必要になっているのではないか。兼定公が教えてくれている。

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プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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