四万十川と核

 高知新聞の連載「底流 四万十川と核」(10回)が終了。私がこれまで知らなかった事実もあり、不気味な後味が残った。高知県西部の四万十川流域は、これまでたびたび原子力関連施設の候補地としてあがってきた。その背景を今日的視点から振り返ったもの。

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 最初は佐賀原発。1970年代、四国電力が旧佐賀町熊ノ浦に原子力発電所をつくろうと動いた。佐賀漁港は日本一のカツオ漁の基地。漁民を中心に反対が多いとみるや早々に撤回、次は候補地を隣の旧窪川町興津(大津留)に変えた。

四国電力は今度は本気だった。町長を動かした。その町長のリコール、復活など、町を二分した大騒動になった。反対派農民などは草の根の勉強会を広げた。反対派リーダー島岡幹夫さんの主張は「窪川町には、農畜産で80億、林業30億、縫製工場などの加工産業を合わせると150億円近い収入がある。四国有数の食糧生産地なのに、たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは愚の骨頂」。

町議会は最初推進派議員が多かったが、だんだんと切り崩され、原発誘致関連予算を通すことができなくなったことで、町長が誘致を断念。その後、町議会は全員一致で「原発終息宣言」を出した。1988年のことだ。

高知県西部は原発を止めた、これで決着がついた。だれもがそう思っていた。しかし、核をめぐる動きは、その後も見えにくいところで、くりかえされていたのだ。

 NUMOという経済産業省認可法人がある。正式名称は「原子力発電環境整備機構」。高レベル放射能廃棄物の廃棄処分業務を任されている。NUMOは全国各地で処分場候補地を「物色」。高知県西部では、東津野村(現・津野町)、佐賀町(現・黒潮町)、大月町でこの動きが表面化。誘致に応ずれば「3兆円」という額も示された。地元有力者や議員の一部が関心を持ち、調査に応ずるよう議会に請願等を出されたが、いずれも否決されたことから、その後大きな騒動にはなっていない。首長も慎重姿勢を通した。

このほか、NUMOは四万十川流域で少なくとも7箇所で地質調査を行なったことを、今回高知新聞は明らかにしている。このことは誰にも知らされず、「密かに」、行なわれていたのだ。本人が知らないところで身辺調査をされているようなものだ。薄気味悪い。

高知県東部(徳島県境)の東洋町では、8年前、当時の町長がこれの誘致調査に手をあげ騒動になったが、結局この町長は選挙に敗れたことから、いまは終息した形となっている。

どの自治体もカネがほしい。「3兆円」にノドから手がでるのは当然だ。だが、こんなカネが「地域振興」の決め手になるのかが問題だ。

 茨城県東海村は日本の原発発祥の地。原料ウラン製造や研究施設も集中する「原子力の村」だ。その村の前村長がいま脱原発の旗を振っている。村上達也さん、1997年から2013年まで、4期16年村長を務めた。1999年、JCO(核燃料加工施設)で発生した「臨界」事故では、国や県の対応を待たず、独断で日本初めての住民避難を行なった。

いま村上さんはそんな自らの経験から主張している。原発マネーは地域を豊かにするどころか、地域の人々のプライドを奪い、地域社会を断絶させてしまう「疫病神」だと。原発はカネを持ってきてくれるが、地域経済の全ての要素を吸い取ってしまう。原発関連一色に染められてしまって、自立する力を奪う。原発は「一炊の夢」だ。現在、日本の原発は全国22市町村に54基あるが、その立地自治体の首長経験者で脱原発を明言しているのは村上さんだけである。勇気ある発言である。

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大地に根差した窪川の農民も真実を見抜いていた。島岡幹夫さん「たかだか20、30億の税収に目がくらみ、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは愚の骨頂」。

この二人の「講演と対談」が近づいてきた。
9月6日、四万十市、7日、高知市。
詳しくは8月3日付、このブログを。
多くの方々に参加していただきたい。
私が司会を行ないます。

 

 

英霊たちの叫び

 きょう8月15日は、二度と戦争をしてはいけないと誓う日。今年はことさらその思いを強くした。このほど、ある戦没兵士の日記を読んだ、からだ。

その本は、花井睦編『父が残した戦場日記 ― ニューギニアから故郷土佐へ』。
父とは、隣町、大方町(現黒潮町)早咲の農業、倉橋一美さん。昭和16年10月召集され、18年1月、東部ニューギニア戦線で「戦死」。28歳。

倉橋一美さんには、2人の子どもがいた。召集当時4歳であった上の女の子が睦さんで、父の日記を今年3月、自費出版した。

一美さんは高知144連帯の大本営直轄部隊「南海支隊」軍馬係(馬の世話)であった。坂出港から輸送船に乗り、小笠原→グアム→ラバウルを経て、17年8月、東部ニューギニア、バサブアに上陸。ジャングルの中で、連合軍(アメリカ、オーストラリア)との戦闘を繰り返した。日記は、高知入営直後から書き始められ、飢えとマラリヤで野戦病院付近で餓死したと思われる、その直前まで綴られている。

日記はあるアメリカ兵が戦利品として持ち帰り、戦後の昭和31年、大方町の遺族のもとに届けられた。日記はずっと知られずにいたが、3年前、高知新聞連載「祖父たちの戦争」(南海支隊の生き残り兵士の記録)を機に、注目を集め、今回、全容を公開したものである。

 先の戦争への出征兵士の手記や日記はほかにもたくさんあるが、この日記の特徴は、日本に早く帰りたい、家族に会いたい、子どもに会いたいという、正直な気持ちが赤裸々につづられていること。お国のためという勇ましい記述もないし、戦闘の細かい記録もない。戦争をうらむこともない。ただ、早く帰りたい、の繰り返し。最後は食べるものがなくなり、飢餓の極限状態、地獄絵になったことも。以下、日記より・・・

 「子供の写真を出してみる。たびたび出すので汚れてきた。新しい写真が見たい。」
 「子供も大分多くなり、また変わっていると思う。早く帰り、抱いてみたい。」
 「いよいよいやになった、早いこと帰りたいねや。」
 「あの船に乗って帰れるのなら、何も言うことはないが、帰りたいねや。一日に二、三十ぺん、帰りたいと言い暮らすな  り。」
 「近日、どうもたびたび治子(妻)の夢を見る。前夜も見る。これといってとりとめることのできない夢なれど気になる。病気 でもしているのではなかろうか。」
 「遠く離れていると今さらながら、妻の有り難さがひしひしと胸にこたえてくる。帰ったら無理も言うまい。無茶なこともすま い。仲良う昔の新婚当時のような気持ちで、一生、惚れて惚れられて暮らしていきたいと思う。」
 「子供たちのオトウサンと呼ぶ声が早く聞きたい。懐かしき妻子の喜ぶ顔を思い、早く帰りたく思う。」
 「いつ話しても食う話のみ。さみしい心になったものだ。何度見ても、写真見飽かず。子供の顔見たし。どんなに大きくな っていることかしらん。いつになれば見ることができるのか・・・見たし見たし。」
 「生きて帰らんで、愛する妻子が待っていてくれるに。子供の写真を見ると
 、どんなことがあるとも命だけは取りとめて帰らねば。母様よ妻よ子ら、神様に頼んでくれ、元気で帰れるよう。」
 「前夜、イナゴを採り熱して食う。何でも、トカゲでも、草の芽、木の芽、食わん物がない。これほど飢えて、死んでも死に 切れるものか」
 「腹いっぱい何でも食いたし。治子よ、俺が万一のことあれば墓へ飯を祭ってくれ。・・・・子供のこととうちのことを頼む」

  そして、最後に(1月15日)・・・字はほとんど判読できない。
 「いよいよ後送(撤収)あり。今まで一生懸命に辛抱したけれど、足が今、立たず。一生懸命やるつもりなれど分からず。 戦友吉村君に頼み下る(残る)。財布の中に種あり、また南瓜の種あり、形見と思い植えよ。後のこと願う。皆元気で一  生懸命、家のことと子供のことを頼む。子供見たし。」・・・戦友吉村君も日本に帰って来なかった。


 藤原彰著『飢死(うえじに)した英霊たち』(2001、青木書店)によると、太平洋戦争による日本人死者は約300万人(軍人約230万人、民間人約70万人)。軍人のうち、約6割は飢死や飢えによる病死であったと推測している。その原因は、補給無視、過度の精神主義、降伏禁止・自決強要など、人命軽視の日本軍隊の特性にあった。

 きょうも安倍内閣の閣僚らが靖国神社に参拝をした。みな口々に「祖国のために戦った英霊たちの御霊に捧げたい」と言っている。しかし、その「英霊」たちの多くは、華々しく散ったのではない。飢えと病気で、あえぎもがいて果てたのだ。帰りたい、家族に会いたいと、ひたすら念じつつ・・・

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 8月7日、上川口小学校(黒潮町)夏休み登校日の「戦争体験を聞く」に、神奈川県から帰省中の花井睦さんも参加。2年前、高知県南海支隊戦友遺族会で、はじめて東部ニューギニアを訪ね、70年ぶりにお父さんに会ってきたことを話されていた

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お盆の風習

 私は今年のお盆に帰省していて、あらためて気づいたことがある。私の実家がある旧中村市実崎は四万十川の河口に近い戸数八十ほどの地区だが、お盆には各家が相互に仏壇を拝みに回る風習がある。留守の家も玄関を開けおくので、みんなが勝手にあがり、仏壇に線香をあげる。お盆の初日の午前中などは、地区中ゾロゾロ歩き回っている。 

 家ごとに回る先は言い伝えで決まっており、いまは親戚づきあいをしていなくとも、祖先が同じとか昔なにかの縁があったとからしいが、根拠ははっきりしない。わが実家では二十戸ほどをまわっている。

 私が子供の頃は、各家とも上がり口にお盆専用の仏壇の棚を組み、四隅に竹の笹を飾っていた。その笹が夜ジリジリという音を発するのは、ご先祖様が帰ってきている声だと聞かされ、こわかった。お盆が終わると、その笹や供え物は私ら子供が四万十川に流しに行った。

 今回の帰省中、川の対岸(竹島)の菩提寺の住職に尋ねたが、この謂われはわからない、近在ではほかにはないとのことである。県下各地を転勤している地元の教員も、初盆の家や近い親戚を回るのはめずらしくはないが、このように地区総出で回る風習は知らないという。私も転勤で全国を歩いたが、巡り合ったことがない。おそらく、お盆には祖先の霊を地区全体で一緒に迎えようとの申し合わせがいつの頃かにあったものであろう。

最近、この風習を簡素化してはどうかとの声も出ているようだが、地域のつながりが薄れてきている昨今だからこそ、地域特有のこのような風習はぜひとも残してほしい。

 なお、読者の方で、このような風習をご存知の方がいれば、ぜひ教えていただきたいものである。

                           
高知新聞「声ひろば」
2006.8.28


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とっさんほうだん

 今年の一月、父は念願を果たした。
 父は七年前、母を亡くしてからも比較的元気で、実崎の兄夫婦の近くで独り暮らしていた。夕食は運んでいたが、それ以外のことは自分でやっていた。家の周りの散歩が日課だった。
 一月十一日夜もいつものように床についたが、翌朝布団の中で意識を失っており、救急車で市民病院に運ばれた。脳外科の川田先生にみてもらったところ脳出血(硬膜下血腫)でそのまま意識が戻らず、十九日、息を引き取った。満足の笑みを浮かべて。享年九十歳。

  寂しさも孤独も無縁で生きてをり 寝込まず頓死をただ願いつつ

  妻逝きて独立独歩で吾は生き 頓死を願いつ日々を過ごせり

 父豊暖は大正十四年生。読みにくい名前なので「とよはる」と呼ぶ人はなく、地元では「とっさん」。小学校のころ、同級生の誰かがそう呼んだ。「豊さん」が「とっさん」になったのだそうだ。
 戸籍上三男だが兄二人は赤子のまま死んだ。だから祖父が竹島の菩提寺住職に頼んで奈良の命名学者に名前をつけてもらったというが、字数が多いなど本人は気に入らなかったようで、自分の四人の子の名はみな一字にした。
 大阪逓信講習所を出て、中村郵便局(本局)に五年勤めた後、昭和二十二年、二十二歳で祖父が開設(大正八年)した八束局を継いだ。逓信講習所では名を「ほうだん」で通した。以後、郵政仲間はみなそう呼んだ。
 中村局ではトン・ツー担当(モールス通信電報)。先輩に小姓町の宮川正一さんがいた。宮川さんはアララギ派歌人で、有岡出身の橋田東声を師とし、夫婦で勤めていた。「お前も歌をやってみないか」と誘われ、突山朋男(とっさんほうだん)のペンネームを思いつき、時々、会誌「覇王樹」「ポトナム」などへ送った。
 戦局が厳しくなり、幼なじみや同僚が次々と応召。次は自分と覚悟を決めていた。十代の歌から・・・

  戦える国の静けさ夜勤終え 夜更けの風呂に身を沈めたり

  電鍵を剣にかえて大敵へ 斬り込みにけん最期に哭かゆ

  敵機来襲身近に危機を感じおり 兵とし征かん日は迫りつつ

 中村局で仲が良かった同僚に大方町上田ノ口の川村渉さんがいた。上林暁の小説「過ぎゆきの歌」のモデルになった歌人川村八郎(一時後川局に勤務)の弟で、局を辞め満州に渡ったあとすぐ現地召集された。
 昭和二十年八月九日、ソ連参戦。渉さんの部隊は牡丹江付近で応戦したが、同十三日、敵弾が腹部を貫通し、絶命。
 このほど渉さんの墓を上田ノ口に訪ねた。辞世の歌が刻まれていた。そういえば、父は「ほうだん」に「砲弾」の当て字も使っていた。

  死してなお九段の華と咲く身なら いさぎよく散れ北のあらしに

 結局赤紙は来なかった。通信を担当していたからだろうと言われたが、本人は割りきれないものを持ち続けていたようだ。

  ○○電目凝らして受信せり 遺族の姿ゆ瞼に浮かぶ

  十代ですすんで戦に倒れたる 君らを偲びぬ寝がたき夜に

 郵便局退職後は母の農作業を手伝ったりしていた。「文芸なかむら」に突山朋男で歌を投稿したり、母が先に逝ってからも頑固に独りふんばっていた。 
 しかし、段々と弱気に。八束小学校の同級生の男は二十七人いたが八人戦死、あと○人になった、と言うのが口癖だった。自分の両親はポックリ逝った。自分はそういう系統だ、と強がりを言っていた。

  八年を病みたる妻の不憫さに 頓死を望み八十路さ迷う

  祖父母父母妻兄二人の墓地前に 佇みながら在りし日偲ぶ
   
 昨年暮れの誕生日。子、孫、ひ孫が揃い祝った。ケーキを持った満面笑顔の写真が最後になった。
 私もいずれ父にあやかりたいと思う。

                                  「文芸なかむら」28号より
                                  2014年7月

                                   きょうから父の初盆です・・・

暴れ川

 「最後の清流」なんて、オレはそんな上品なもんではないゾ。誰が勝手にそんな名前をつけたんだ。不満タラタラの四万十川が、久しぶりに「暴れ川」の本領を発揮した。

台風11号に伴う豪雨で、9日から10日にかけ、四万十川、および支流の中筋川、後川の水位が警戒水位を上回り、はじめて市内全域に「避難勧告」が出た。中筋川沿いや西土佐には「避難指示」も出た。田畑がどっぷり水につかり、道路も冠水した。西土佐や川登では商店街や住宅も一部冠水。9年ぶりのことだ。上流の四万十町窪川では、住宅300棟くらいが浸かったようだ。

しかし、四万十市中心部の中村から下流はそこまでのところはなかった。県下的にみても、大きな土砂崩れや堤防決壊がなかったこともあり、けがなどの人的被害がほとんどなかったことは幸いであった。

私はきのう10日朝、中村の赤鉄橋から実家がある下流の八束まで、また中筋川沿いの具同、楠島、間、まで、川の様子を見に行った。牙をむきだしてゴ~ゴ~と流れる川には、久しぶりに恐怖を感じた。都度、FB(フェイスブック)にアップして、「友達」に映像を送った。

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 私の兄は専業農家で米とオクラをつくっている。ほとんどが水に浸かった。例年なら、いま頃までには、稲の刈り取りを終えるのだが、最近ずっと雨ばかりなので、今年はまだ刈り取りを始めたばかりだったので、ぼやいていた。水が引いてからの稲は倒れているので、品質も落ちるうえに、刈り取りがしにくいのだ。

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ここらでは台風等による出水は年中行事ではあるが、今回ほどの大水なら、以前ならもっと被害が多くでていてもおかしくなかった。私の子どものころからの経験でもそう思う。今回、被害を最小限にとどめることができたのは、この間の治水対策のたまものである。

先のブログ(7月11日、「水が出る」)にも書いたが、四万十川下流の治水事業は国の直轄で、昭和4年から延々と行なわれている。堤防造成、かさ上げ、内水排除のためのポンプ場設置、ポンプ車配備など。かつての内務省、建設省、いまの国土交通省にとって、四万十川は全国に名だたる、やっかいな川、暴れ川なのである。雨が降ると一気に水かさが増すのは、支流が多いせい。支流総数354は信濃川に次ぐ。生活の知恵としての沈下橋も多くつくられたのも、こうした川の性格や特徴によるもの。

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 暴れん坊の四万十川にとっては、こんな治水事業はおもしろくないことだろう。自由奔放な流れを規制されるからだ。地元出身の私小説作家上林暁はかつて川が「去勢」されてしまったようで寂しいと書いた。

 「最後の清流」は本人のプライドを傷つけるニックネームである。かつてはどこの川も暴れ川であった。人間はその暴れ川にさからわず、うまくつきあってきたからこそ、川の恵みも受けてきた。しかし、いまの川はほとんどが去勢どころか、流れがダムに止められ、よそに吸い取られるなど、瀕死状態にある。

その意味では、四万十川はまだ暴れ川の片鱗を残しているからこそ「最後の清流」なのである。本人には、そのへんのところをわかってもらわなければならない。

流域のわれわれはそのことはわかっている。
だから、今回のように時々はカン気を出して暴れても、だれも本気でおこったりはしない。たまにはストレスを発散しないとかわいそうだと思っている。

日頃、それ以上の恩恵を受けているからだ。
かつての日本人があたりまえに行なってきた川との付き合い。
川の文化。
ここには、それがいまでも残っている。

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避難「勧告」と「指示」

  きょうも中村は、雨が降ったりやんだりのはっきりしない天気。
次の台風11号が近づいており不気味。
先週から、高知県は異常気象に翻弄されている。

11号より先に12号台風が九州西海上に接近した。なのに、雨雲は九州ではなく、高知県、徳島県上空に停滞し、集中的に雨を降らせ続けた。テレビの映像でも、その様子が何度も流されたので、私のところにも、あちこちの友人・親戚等から、「大丈夫か?」と、電話がかかってきた。

しかし、豪雨になっているのは高知市周辺の県中部であり、県西部のこのあたりは、たいした降りではなかった。四万十川も増水したとはいえ、普段よくある程度。

高知市では、2日、市内全域に「避難勧告」を出した。きのう5日、「勧告」は市内北部だけに範囲を縮小したが、まだ発令を出したままである。高知市の北、大豊町、本山町では、「勧告」だけではなく、「避難指示」が出たところもある。このあたりは四国を縦断する高速道路(高知自動車道)やJR土讃線が通っているため、ともに通行止めがきのうまで続いた。

幸い、いまのところ、死者やけが人は出ていない。これは大規模山崩れや川の氾濫がおこっていないためであるが、もう一つ、高知県に台風が来るのは万年行事であるため、県民が水の対応には慣れていること、その上に、最近は、行政が「避難勧告」や「指示」を早めに出すなどしていることがあると思う。

そこで、この「避難勧告」と「避難指示」。                 
みなさんは、どちらが強制力、緊急度が強いと思いますか???

正解は「指示」のほうが強い。         
これは災害対策基本法で定められた分類です。
「指示」には強制力が働きます。これを妨害すると罰則規定までありますが、「勧告」はあくまで、任意の対応になります。

しかし、私の語感では、「勧告」のほうが、ツヨク、キツイように響きます。
東日本大震災をさかいに、この「言葉」の意味について、たびたび議論があります。「勧告」と「指示」の意味が逆にとらえられるということから、国としても、再検討をするというふうになっていたと思うのですが、最近はどうなったのか、立ち消えになったのか、気になるところです。

「勧告」や「指示」は市長村長が出します。
知事ではありません。
私も市長在任中、何度か出しました。
生活の身近なところで、住民の「命や生活」を守っているのは、市町村だからです。水道、ゴミ、消防、国保、生活保護・・・すべて市町村です。市町村は基礎自治体、地方自治の基本単位なのです。

高知県の向こう1週間の天気予報は傘マークばかり。           
9日から始まる「よさこい」(12日まで)が中止にならないか、気になるところです。

きょうは山口県で土砂崩れが発生しています。             
ゲリラ豪雨は、いつどこで発生するかわかりません。             
みなさんも、ぞうぞ、気をつけてください。

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 四万十川 3日 (きょう 6日は水が引いています)

脱原発 講演 & 対談

(1) 9月6日、四万十市、 (2) 9月7日、高知市
脱原発をめざす首長会議主催による「講演会&対談」を開きます。
多くの方のご参加を呼びかけます。
このほど高知県知事、市町村長あてにも、以下のような案内状を出しましたので、お知らせいたします。

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              脱原発をめざす首長会議
            高知県 講演会&対談 のご案内

拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
県下首長各位におかれましては、日頃より、住民の生命と財産を守るためにご奮闘されておられますことに対しまして、心から敬意を表します。

さて、国の原子力規制委員会は7月16日、九州電力川内原子力発電所について、新たな規制基準を満たしているとして、地元同意を前提に、再稼働に事実上のゴーサインを出しました。愛媛県伊方原発の再稼働についても、次の日程にのぼってくるのは時間の問題です。

伊方原発から高知県までの距離は最短の四万十市、梼原町で50キロ。四万十川支流の広見川源流域までは30キロです。高知新聞が今年2月に行なった県民アンケートでは、伊方原発再稼働に反対が69.4%を占めています。

もとより、首長の責務の第一は「住民の生命財産を守る」ことにあります。現在、南海トラフ巨大地震対策に県をあげて取り組んでいるところですが、原発問題についても、決して対岸(隣県)の問題ではなく、地震対策とも連動する自らの問題として、より積極的に取り組んでいく必要があります。首長はそ の先頭に立って行動・発言しなければなりません。

脱原発をめざす首長会議は、福島第一原発事故以降、原発に依存しない社会をめざし、すみやかに再生可能エネルギーを地域政策として実現していくために、2012年4月、結成されました。現在、会員は99名(うち高知県8名)にまで増えています。

高知県は、かつて住民の力で窪川原発の立地を止めた歴史をもっています。こうした経験、また日本の原発第一号自治体(茨城県東海村)の経験に学ぶため、下記のような「講演会&対談」を開催することにしました。

つきましては、首長各位の積極的なご参加をよろしくお願い申し上げます。

なお、脱原発をめざす首長会議への入会につきましては、すでに本部からもご案内をしているところであり、重ねてよろしくお願い申し上げます。高知県から全国をリードする輪を広げていこうではありませんか。     敬具 

              記

1.講師・演題
村上達也(前茨城県東海村長、脱原発をめざす首長会議世話人)
 「原発事故からみえ たこの国のかたち」

島岡幹夫(元窪川原発反対町民会議代表、元窪川町議会議員)
 「原発を なぜ止めることができたのか」

2. 日時・場所等
(1)四万十市会場
9月6日(土)13:30~16:30
四万十市立中央公民館 ホール 参加費 500円

(2)高知市会場
9月7日(日)13:30~16:30
 高知県人権啓発センター ホール 参加費 1000円

                                以上

2014年8月1日
高知県知事、市長村長 各位

       脱原発をめざす首長会議 http://mayors.npfree.jp/
         長谷川賀彦(元中村市長)西村正家(元中村市長)
         岡本淳(元中村市長)田中全(前四万十市長)
         山下幸雄(元宿毛市長)下村正直(元黒潮町長) 
          久保知章(元三原村長)高瀬満伸(前四万十町長)
 
       連絡先 田中全
        787-0022 四万十市中村新町5-6-1
        電話0880-35-6005
        zen-tanaka@heart.ocn.ne.jp



プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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