丑治の足跡

 小松丑治は大逆事件犠牲者の1人である。明治36年、平民新聞読書会である神戸平民倶楽部をつくり活動する中で、同43年(1910年)事件に連座。無期懲役の判決を受け、20年間獄中生活を送った。出獄後も迫害、差別、貧困の中、敗戦直後、昭和20年10月、京都で没した。このことについては、このブログ「二人の墓 岡林寅松 小松丑治」(7月20日)にも書いた。

9月23日、私は妻両親の彼岸の墓参り(岐阜県関ケ原町)に車で出かけたので、その往復途中、神戸、京都、そして明石(妻ハルさんの最期の地)に、丑治の足跡を訪ねた。

 小松丑治は明治9年、高知市生まれ。明治31年、神戸に出て、海民病院で事務(薬務?)の仕事についた。同病院は船員相手に、兵庫港岸壁に近い、東川崎町にあった。その場所はいま公園になっていた。川崎重工本社工場の目の前であった。兵庫港は平清盛が開いた、当時神戸で最大の港であり、労働者のまちであった。丑治は病院近所の小間物店の娘ハルさんと知り合い結婚した。

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海民病院は山の手の夢野村に分院を開設し、本院もそこに移転。その頃、丑治は、高知市から小学校同級生の幼なじみ、医師志望の岡林寅松を病院に誘った。神戸平民倶楽部はこの2人が中心になってつくった。この病院は、いまは湊川病院と名を変え、同じ場所に残っていた。

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丑治は病院を辞め、近くで養鶏業を始めた。ハルさんが鶏を飼うのが好きだったからだ。その場所には、いま神戸市の市営住宅が立ち並んでいた。ハルさんは丑治が入獄20年間、ここで独り、鶏を飼いながら待っていた。(昭和6年出獄)

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「極悪人」の卵を買ってくれる者は少なかったが、近くのキリスト教多聞教会の今泉真幸牧師だけはいつも買ってくれ、心のよりどころになった。ハルさんは洗礼を受けた。その教会も、神戸大学病院の正面、そのままの場所にあった。いまの牧師に話を聞こうと思ったが、不在だった。

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丑治と岡林寅松が大逆事件に結びつけられたのは、箱根から出てきた僧侶内山愚堂に一度会ったこと。養鶏場近くの熊野橋で落ち合い、病院で爆弾製造の話をしたというもの。2人に薬務知識があったことが、「デッチ上げ」の根拠とされた。熊野橋の下を流れていた川は埋め立てられていたが、同名の橋は残っていた。その日、案内していただいた戸崎曽太郎さん(治安維持法犠牲者国家賠償同盟兵庫県本部副会長)によると、内山と落ち合った橋は、すぐ近くの夢野橋かもしれず、はっきりとしないという。いずれにせよ、どちらかの橋だった。

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旧夢野村、いまの神戸市兵庫区夢野・湊川界隈は、当時は人家が点在するだけの村であったが、いまは住宅がビッシリ立ち並ぶ高台である。古くは、平清盛が安徳天皇を擁して、福原京をつくろうとした一帯であり、「ひよどり越え」や楠木正成の湊川古戦場など、平家にゆかりのある古跡が残っている。神戸の中心がいまの三宮周辺に移ったのは、ごく最近、戦後のことである。戸崎さんに、いろいろご教示いただいた。

 翌日。京都市伏見区深草綿森町15番地。さすが歴史のまち京都。戦前の地名、番地がそのまま残っていた。京阪電鉄深草駅や伏見疏水のそばのその場所には、カーナビが簡単に案内してくれた。丑治が昭和18年頃、甥(兄の長男)を頼って、同居したところ。妻ハルさんは鶏の世話があるので夢野に残ったものと思われる。

 最近、丑治縁者から聞いた話によると、丑治は当時白内障で失明同然だったようだ。戦時下、極貧の生活のうえに食糧難。丑治は栄養失調同然で昭和20年10月4日、ここで死んだ(68歳)。やっと戦争が終わったのに、その直後。奇しくも、マッカーサーが政治犯釈放指令を出した日であった。

その場所は、師団街道龍大前交差点から少し入った静かな路地の中にあった。もちろん、丑治の痕跡は何もない。驚いたのは、綿森町を含む周辺一帯は旧日本陸軍第16師団のまちだったこと。旧司令部はそのままの建物で聖母学院短大として残り、練兵場跡地は龍谷大学になっていた。師団街道や第一、第二軍道という、いかめしい名前の道路もそのまま。丑治は死ぬまで、明治政府の亡霊にとりつかれていたのだ。

 伏見区深草綿森町15番地     深草綿森町前 龍谷大学     DSC_3258.jpg

 妻ハルさんは独りになってからは、キリスト教京都洛西教会に身を寄せた。晩年の2年間は明石の老人ホーム明石愛老園(当時キリスト教施設)に入所。昭和42年、ここで没した(83歳)。2人に子はなかった。

中村への帰途。愛老園は名前もそのまま、現在は入居定員100名の大きな施設として残っていた。いまはキリスト教と関係ない。施設長に、ハルさんの記録があるか聞いたが、何もなかった。ハルさんの存在すら知らなかったので、資料をさしあげた。驚いていた。

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丑治・ハル夫妻の墓は高知市筆山にある。これも先のブログに書いた通りだ。私は、今年7月、高知市内にある丑治と岡林寅松の墓をはじめて訪ねてから、2人の遺族縁者を探した。幸いにも、それぞれ県内におられる縁者が見つかった。貴重な話も聞け、古い写真も見せてもらった。

岡林寅松は昭和6年同時出獄後、大阪の大衆病院に勤めたが、戦災に遭い、戦後高知に帰郷。妹の嫁ぎ先に身を寄せていたが、昭和23年没。入獄まもなく子を亡くし、妻からは離縁されていた。

つくづく思うのは、大逆事件はすさまじい思想弾圧事件であったということ。無実の人間を陥れ、その家族や親類までも日蔭者の生活を強いる。それは戦後になっても続く。(死刑12人、無期懲役12人、有期刑2人)

小松丑治と岡林寅松。二人は明治20年代の幼少期、自由民権運動活動の息吹を吸って育った。後年の活動舞台は神戸であったが、まぎれもなく土佐の民権運動の申し子であった。自由・平等・博愛を掲げた先人。しかしながら、いま高知県人ですら、二人の名前を知る者はほとんどいない。二人の顕彰のためには、何よりも名前を知ってもらうことが大切だ。

県内の民権運動研究者グループとも相談し、二人の墓地整備を含めて、今後の取り組みを検討しているところである。この間の経過については、第2回大逆事件サミット(10月12日、福岡県みやこ町)でも報告することにしている。

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    小松丑治            岡林寅松

スミダとホンカワ

 幡多郡八束村は昭和二十九年の町村合併で中村市となった。「八束」という名前の由来は、川に沿って八つの部落(地区)があるところからきている。上流から、坂本、山路、実崎、深木、間崎、津倉渕、初崎、名鹿。崎、渕など、川や水に縁のある地名が多い。

八束村の役場や郵便局があったところが実崎である。実崎には三原村境の山を源とする川が流れている。地元では「スミダ」と呼んでいる。漢字では「隅田」と書くらしい。この川は田んぼの隅(スミ)を流れていることから、隅田とはそのあたりの場所をさしていたものが、だんだんと川の名前に転化したのではないかと、私は思っている。

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スミダは天満宮の下の水門を通って本流に注いでいる。この本流のことを「ホンカワ」と呼ぶ。漢字にするなら支流に対する「本川」であろう。このあたりの農家はたいてい川舟をもっているので、台風が近づくと、ホンカワにつないである舟は堤防の内側にあたるスミダに避難させる。ホンカワが増水してスミダに逆流してくると、水門を閉める。そうなると、田んぼは内水で浸かってしまう。毎年その繰り返しである。

河川の名前は所管の役所である国土交通省(旧・建設省)がつけた名前が正式名称とされている。ホンカワの正式名称は長いあいだ「一級河川・渡川」であったが、最近「四万十川」に変わった。昭和五十年代、にわかに最後の清流ブームが押し寄せ、それまで通称であった四万十川のほうが一躍有名になってしまったことから、日頃お堅い役所にしてはあっさりと名前を変えてしまった。ちなみに、スミダの正式名称は「深木川」である。

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 四万十川の人気は根強く、いまでは日本全国この川の名前を知らない人はいないであろう。実崎を離れて久しい私は、自分の出身地をきかれると、自慢顔で四万十川の流れているところだと答える。多くの人がそれはいいところでうらやましいと言う。この川は私にとっての大きな誇りである。

ところが、四万十川の名前の由来については、アイヌ語説、地名合成説などいろいろあるなかで、実崎や八束の人間にとっては、どれもピンとこない話である。そもそも普段、この川を四万十川と呼ぶことがないからである。

このあたりは河口に近いので潮の干満がある。私ら子供は、学校の夏休み、干潮のときはエビを採ったり、シジミを掘ったりするのに忙しかった。泳いだり潜ったりするのは満潮のときである。満潮になると水門から飛び込みができた。大人たちが、田んぼに水をくみ上げるのも満潮のときであるから、潮の干満がこの地域の人間の生活サイクルの重要な指標になっていた。また、川舟は稲やイグサの運搬や、柴ウエ、コロバシ、青のりなどの漁に使うなど、生活必需品であった。どの子供も舟こぎができた。つい一昔前までは川の水をくんできて風呂水にしていたというぐらいだから、川は生活の場そのものであり、川とのつきあいがあたりまえの日常であった。

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こうした人間にとっては、目の前の大きな川の名前はただの「川」で十分であり、または「ホンカワ」なのである。四万十川という呼び名は、よその人が使うものであって、たまに地元の人間が使うのは外向きにこの川を紹介する場合などに限られている。地元の者同士が四万十川と言うと、なにかよそよそしい響きがする。ホンカワのほうが生活実感にもとづいた親しみがある。中村の町の人たちも、後川はそのまま後川であるが、本流のほうはホンカワと呼ぶようである。

 一方、「中村」という言葉は私の中では輝いている。子供の頃、親と一緒に「お町に行く」のがどんなに楽しみだったろう。赤いボンネットバスが鉄橋を渡り町に入ると胸がドキドキした。太陽館、末広、中劇などで映画をみた。一条さんの帰りなどは、県交通バスの乗り場は人でごった返しており、座席をとるのが大変だった。中村はいつまでもあこがれの大都会として私の心にしみこんでいる。

私にとってふるさとの町と川は一体のものであり、両者を大切に思う気持ちに差はなく、誰にも負けないつもりである。しかし、二つの言葉の響きには相当な違いがある。

中村市が四万十市になり、私の心のモヤモヤは当分消えそうもない。

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 「文芸なかむら」13号 2007年1月
 『わがふるさと中村』所収
(写真は今回貼り付け)

ビキニの海は忘れない

 アメリカが太平洋ビキニ環礁で水爆実験を始めたのが1954年。今年で60年。当時ビキニ周辺でマグロ漁をしていた船の乗組員にたいする放射能汚染検査資料を9月19日、厚生労働省がはじめて公開した。高知新聞で報道されている。

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ビキニ水爆実験では静岡県焼津市の第五福竜丸の船員23人が被爆したことが大きな社会問題(ビキニ事件)になったが、実際にはほかにもたくさんの漁船が被爆をした。しかし、当時の日本政府やアメリカは第五福竜丸だけの「事件」に矮小化、その他の漁船についての被爆記録はないとして、関係資料の存在を否定してきた。

しかし、高知県宿毛市の元高校教師山下正寿さん(現・太平洋核被災センター事務局長)らが情報公開法に基づき粘り強く開示請求をし続けた結果、約1900ページ(304点)の資料を公開したもの。内容は、1954年3~6月、延べ556隻(実数473隻)の被爆検査結果や、政府の会議記録など。

山下正寿さんは教員現職時代の1983年、幡多地域の高校生たちの自主的なサークル「高校生幡多ゼミナール」をつくり、指導。高校生たちと一緒に、地域に埋もれた歴史の発掘に取り組む中で、ビキニ被爆漁船調査を始め、いまもずっと追跡している。高校生たちの活動記録は1990年、映画「ビキニの海は忘れない」(ナレーター・吉永小百合)にもなった。

福島第一原発事故以降、山下さんらは何度も福島の調査にも出向き、福島の高校生たちとの交流も始まっている。ビキニ、フクシマに共通しているのは、政府が正確な情報やデータを隠し、ウソを言うこと。福島の海も実際は相当に汚染が進んでいるとみている。

9月6、7日、脱原発首長会議主催の講演&対談(四万十市、高知市、本ブログ9月10日付掲載)において、明神水産・明神照男会長が会場発言をされていた。明神水産(高知県黒潮町佐賀)はカツオ漁日本一。黒潮に乗りカツオを追う。福島、三陸沖はその豊かな漁場であったが、放射能汚染により、これからは漁ができなくなる。いま地元漁船が底引き網等の試験操業をしており、とった魚の汚染調査をしているが、汚染の少ない海域や、データが低く出る魚の部位だけを調査して「問題ない」と公表しているので、信用ができない、と。

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  明神さん(その前が山下さん)

山下さんらは、当時ビキニ周辺で操業していた全国の漁船および漁船員を追跡調査する中で、50歳代の若さで、ガンで死んだ漁船員が多くいたことを、突き止めている。放射能汚染の影響は、その時はわからなくても、20年、30年後出て来る。

今回公開された資料を精査するなかで、そんな人たちとビキニとの因果関係等が明らかになるものと思われる。公開にあたって、厚生労働省は「乗組員に健康障害が生じるほどの高い被爆があったとは考えていない」とコメントし、さっそく予防線を張っている。

山下さんらは警告している。福島海域から、食物連鎖による汚染がすでに日本、世界の海に広がっている。福島沖の汚染されたプランクトンや小魚(こざかな)を、中型、大型の魚がそれぞれ食べ、回遊することで。その影響は何十年後に出る。それは陸上汚染も同じ。いまの子どもが大人になった時など・・・

 ビキニはフクシマにつながっている。


 『ビキニの海は忘れない』(平和文化出版社)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%81%AE%E6%B5%B7%E3%81%AF%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E2%80%95%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93%E8%A2%AB%E7%81%BD%E8%88%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%B9%A1%E5%A4%9A%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F%E3%82%BC%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4938585235

橋の風景

 実崎と竹島が橋でつながったのは平成八年。四万十大橋は農林水産省の補助事業「高知西南地区広域農道整備事業」で造られた、れっきとした「農道」である。

一昔前まで中村までには赤鉄橋しかなかったが、下流にこの橋ができたことで人や車の流れが変わり、中村の町を経由せず高知や足摺方面に向かう車が多く通る。金剛福寺へ歩く遍路道にもなっている。橋の両端には怪魚アカメが彫刻され、「赤い目」をギラリとさせている。中央部分の歩道には見晴らし台の出っ張りがつくられ、そこから遠く下田、初崎の河口方面を一望できる。

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青い水に青い空、テレビ塔がある遠峰山(葛篭山)からの緑の稜線、その先の海のにおい。私は全国の多くの川を見てきたが、これほど雄大なパノラマはほかにない。まさに大河のほとりという感じがする。しかし、私が自慢できるのはあくまで遠景であって、目を橋のたもとの実崎に落とすと寂しさに変わる。要塞のような堤防が集落をふさいでいるからである。

このあたりは毎年「水がでる」ところである。家々は石を積んで屋敷の土台を高くしている。渡川(四万十川)の治水工事が始まったのは昭和四年であるが、実崎では昭和二十八年に水門が造られたのが最初で、それ以降、盛り土が漸次積み上げられていった。多くの家が集落内のほかの場所に立ち退いた。

 昔の写真をみると水辺はうっそうとした林や竹やぶであった。私の記憶は昭和三十年代。そのころはすでに低い堤防が半分ほどできていたが、それでも堤防と川の間にはエノミやモッコクなどの大木が残っていた。

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夏になるとそこは子供たちのたまり場であった。沖に向かって延びた木の枝の先にロープを巻きつけ、ターザンのように飛び込んだ。えびをとり、魚を釣り、しじみを掘った。ハネ(羽根)のまわりは舟溜まりになっており、大人たちは木陰でより分けたイグサを舟で中州の河原に運んでいた。不要なイグサのかたまりは子供らがいかだ舟にして遊んだ。夕立の時には一緒になって急いで干したイグサをかき集めた。川べりは大人や子供の叫び声でいつもやかましかった。

私が中州まではじめて泳いだのは小学校一年生の時である。兄や上級生が一緒に泳いでくれたので意外に簡単だった。翌年にははるかに広い本川に挑戦した。本川は水が冷たく、流れが急なため、上級生たちに遅れないように必死で手をかいた。だいぶ流されて鍋島側に着いたときの顔は真っ青であった。それから上級生たちが一人前に扱ってくるようになった。

 子供にとって対岸は別世界、畏怖の世界である。八束小学校の遠足は名鹿の浜と決まっていたが、一度だけ平野の浜まで行ったことがあった。小学校の下にそれまで見たこともない大きな鉄の船が迎えに来て、河口の下田に渡った。その遠かったこと。下田の港は異国の風景であった。

不破の八幡さんには友達と歩いて行った。途中、山路渡しを渡ったが、胸はドキドキであった。舟のへりにつかまり、川底をじっと覗き込んでいた。対岸の角崎に着くと、不安を隠すように一目散にかけた。帰りは、手を振って舟に迎えに来てもらい、山路側に戻ると緊張感がほぐれホッとした。

 実崎の堤防は昭和四十年代から盛り土がかさ上げされ、護岸工事も始まった。昭和五十年ごろであったろうか、私が帰省したとき、川べりの木々がすべて無残に切り倒されていた。その時のショックはいまでも忘れられない。地元では木々を残してほしいと建設省に要請したが、台風などで木の根が揺れると堤防にひびが入るからと強行されたと聞いた。狭い家の間を通っていた車は、屋根より高くなった堤防の上をスイスイ走るようになった。

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川べりの木陰は夏には「沖の風」が吹くため、祖母ら年寄りたちがゴザをもって涼みにきていた。私らもその傍で寝ころがって雑誌や本を読み、夏休みの宿題もしたりしたが、そうした思い出は地固めのために植えられ繁殖した無愛想な草の下に埋葬されている。

赤鉄橋から川下はずっと堤防が続いてはいるが、水辺に河原や自然の草むらすら残っていないのはこのあたりだけである。いまは水に近寄るのも危なっかしく、川で遊ぶ子供などみたことがない。大人もほとんどみかけない。治水のために堤防がつくられることで、水辺が失われ、人と川のつながりが分断される。住む人の生活やつきあいにもうるおいがなくなった。

交通の便のために橋がつくられることで、対岸がなくなり、子供たちは川を泳いだり舟で渡るさいのあの感動をおぼえることもなくなった。

人間は便利さや安全の代償としてかけがえのない「こころ」を失っていく。
たまに帰省した時、橋の上で寂しさをこらえながら、そんなことを考えている。

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 「文芸なかむら」16号 2008年7月
 『わがふるさと中村』所収
 (写真は今回貼り付け)



旧土豫銀行 跡地活用を急げ

中村の人ならだれもが知っている。天神橋商店街アーケードのど真ん中に、古色蒼然としているが荘厳なコンクリート建物があったことを。それが旧土豫銀行本店である。

土豫銀行は、昭和4年、幡多銀行(土佐)と御荘銀行(伊豫)が合併して誕生。頭取は山泉利重氏。中村本店建物ができたのが昭和8年。大理石カウンター、赤じゅうたんを敷いた階段など、落成当時は、びっくりするような豪華建物として、見物人でにぎわったという。おまち中村の繁栄のシンボルであった。

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   中村本店イメージ        昭和10年洪水
  (同タイプの御荘支店)      天神橋商店街の先に銀行が見える
       
昭和19年、四国銀行と合併、その名は消えたが、昭和21年の南海地震でも生き残った。銀行のあとは、おもちゃ屋、カラオケスタジオなどに貸されていたが、私が市長時代の平成22年、所有者の山泉脩氏から、土地(194坪)と建物いっさいを、四万十市に無償譲渡していただいた。

譲渡の条件は、ただ一つ、中村のまちの活性化のために役立ててほしいということ。山泉氏はいま東京に住んでおられるが、ふるさと中村のまちにかつてのような賑わいがなくなってきていることに、寂しさをおぼえ、こころをいためておられる。

私は中心市街地の活性化を重点施策としていた。中村のまちの一等地、「おまち中村」の復活のため、これ以上ない「贈り物」として喜んだ。建物は古いが、南海地震にも耐えた、中村の歴史文化遺産である。

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私は修復して使いたいと考え、耐震診断を行なった。ところが、結果は×。このままでは次の南海地震には耐えられない、古い設計と材料のため耐震補強するには、膨大な費用がかかる。とすれば、解体して、新築利用するしかない、と腹を固めた。

私は市長就任4年、改選期を迎えていた。2期目の重点公約に土豫銀行跡地活用をおいた。多くの市民に意見をきいた。全国の事例も調べた。中村の中心市街地に人が来なくなったのは、魅力的な店がないし、駐車場が少ないし、行く必要がないから。具同や古津賀の郊外大型店が便利だし、高知市も高速で近くなった。

中村は名実ともに幡多の中心である。私は「おまち中村」の復活なくして四万十市、また幡多全体を守ることはできない、中心市街地に人が集まる施設をつくることが最も有効だと考えた。

中村には、かつては映画館が4つもあったが、いまはゼロ。幡多全体でもそうだ。歴史と文化のまちの看板だおれ。映画館もないまちなんて・・・しかし常設館は無理だろう。右山の公民館はいろんな文化行事、教室でいつもいっぱい。カラオケ人気も根強い。ならば、いつでも映画上映できる機能をもった多目的ミニホールがいい。使い勝手がいいのは、移動式イスで100~150ていど。講演会や文化展もできる。そうすれば、人は自然に街中へ集まって来る。

専用駐車場もいる。そのためには194坪だけでは狭い。隣接地などをあわせると550坪の広い敷地がとれる。隣の民間貸駐車場は、もと中央劇場(中劇)跡地。その前身は大正5年にできた中央座(芝居小屋)。中村の大衆娯楽の殿堂だったところだ。多目的ホールを核として、四万十川物産館や、若者向けのおしゃれな店などを並べれば、観光客もまち歩きを楽しんでくれる、新しい街並みができる。しかも、このあたりは一條神社、中村御所のすぐ近く。小京都の雰囲気をかもしだせる。・・・地権者の協力も取り付け、そんな構想を選挙で訴えた。しかし、敗れた。

相手候補(現市長)も対抗上、土豫銀行跡地活用を公約にはあげていたが、具体案は示さなかった。それから、約1年半。跡地活用の話はいっこうに進んでいない。私の案は棚上げにされたまま。凍結状態。では、どうるすかの議論すらない。

議会説明では、とりあえず建物解体を先行し、あとをどうするかの議論はこれからはじめるという。ノンビリした話である。

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次の地震がいつくるかわからない状況の中で、建物を早く解体するのはやむをえない。ならば、あとの利用計画も早く決め、間をおかず着手できるようにせねば。土地提供者の好意にこたえるためにも。このままでは、中心市街地に大きな空間(野ざらし)ができ、いまですら寂しいアーケード街の沈滞ムードに拍車をかけることになる。まさか、駐車場にするということではあるまい。

市長のヤル気、「夢とビジョン」が問われている。

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原発は地域のプライドを奪う

 脱原発をめざす首長会議主催「講演会&対談」が終わった。9月6日、四万十市320人、7日、高知市250人が参加し、両会場ともいっぱいであった。2人の講師の話は、自らの闘いの経験に基づくものであるため、迫力と説得力があった。

村上達也前茨城県東海村長(首長会議世話人)は、原発立地全国22市町村(54基)の首長経験者でただ一人、脱原発を公言されている、勇気ある人である。4期16年村長を務めたが、在職中の1999年、JCO(核燃料加工施設)臨界事故があり、国県の判断を待たず、独断で住民避難を行なった。以来、国のへの不信感を募らせていたところに福島原発事故。国は真実を隠し、ウソばかりつく。日本は原発開発の技術はもったが、それをコントロールする社会をシステムを構築することができない国である。

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「原発は地域のためにならない」「疫病神」「一炊の夢」・・・「原発は地域のプライドを奪う」。地方の自然や文化にこそ本当の豊かさがある。なのに、原発マネーはそのすべてを吸い取ってしまう。安倍政権は民意無視、強権型で突き進んでいる。真の豊かさとは何か。「化け物」に依存する社会から脱却して人間性の回復を図らなければならない。

島岡幹夫元窪川原発反対町民会議代表(元窪川町会議員)は、もとは大阪府警の警察官で、地元に帰って農家を継いでからもバリバリの自民党員だった。窪川町は農畜産業と林業のまち。四国一の食糧基地。「たかだか20~30億円の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは愚の骨頂」と、自ら進んで原発反対のリーダーになった。

「ふるさと会」を組織し、勉強会を重ね、また伊方にも乗りこんで独自調査を行ない、原発が地域を疲弊させている実態を知る。原発推進派町会議員を切り崩し、反対派を多数とすることにより、町長を辞任に追い込んだ。島岡さんは、当時原発推進派だった町民からも、フクシマの後は、あなたのおかげと感謝されている。

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  対談の司会は私がおこなった。会場からも、明神照男明神水産会長(カツオ船船主)から三陸沖の海の汚染について、山下正寿さん(元高校教師)からはビキニ核実験の放射能汚染データの隠ぺいはフクシマでも続いている、と発言があった。閉会挨拶は、ともに首長会議会員の久保知章元三原村長(四万十市会場)、高瀬満伸前四万十町長(高知市会場)が行なった。

講演会は4か月前から準備した。4月26日、脱原発首長会議総会が神奈川県小田原市で開かれ、私は参加した。そこで、村上さんに声をかけた。そのあと、島岡さんにも快諾をえた。脱原発をめざして運動している人々、「原発をなくす高知県民連絡会」と「脱原発四万十行動」には共催団体として協力をいただいた。また、行政の高知市、四万十市および両教育委員会からは後援をもらった。

私の地元、四万十市では市広報誌にチラシを折り込んでもらった。四万十市会場のほうが参加者が多かったのはそうしたこともあるだろうが、伊方原発に近いのは県西部(四万十市までは50キロ)であり、不安を身近に感じているからだろう。もし、窪川原発ができていたらと思うとぞっとする。立地予定場所は、南海トラフ巨大地震による津波が直撃する、まさにその地点である。

伊方の再稼働は絶対にやめてもらわないといけない。また、先日の高知新聞連載「四万十川と核」でも取り上げられたように、県西部はいまでも核廃棄物処理場の候補地として密かに狙われ続けているのだ。

今回は、ふだんこの種の集会等には来ないような顔ぶれが多かったように思う。伊方の隣、愛媛県八幡浜市からの参加もあった。これを機に、脱原発のうねりがさらに大きくなることに期待したい。

今回ご協力をいただいたすべての皆様にお礼を申し上げます。

なお、この「講演会&対談」は、後日、ブックレッド形式の報告書として出版を予定しています。

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中脇初枝

 きのう作家中脇初枝の里帰り講演があった。四万十市民大学「わたしを育んでくれた幡多の昔話」。

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中脇初枝は1974生。中村高校在学中、「魚のように」で第2回坊っちゃん文学賞を受賞し(NHKドラマにもなった)、華々しくデビュー。しかし、その後、しばらく小説は書かなかった。筑波大学では民俗学を専攻し、世界の昔話などに関心を持った。卒業後も、もっぱら子供向けに絵本に童話を書いたり、昔話の語りをしたり、再話を出版したりしていた。だから、私は児童文学作家になったのだろうと思っていた。

ところが、2年前、久しぶりに書いた、児童虐待をテーマにした小説「きみはいい子」は第28回坪田譲治文学賞を受賞、2013年本屋大賞4位のベストセラーになった。続編「わたしをみつけて」も売れている。再び文壇から光を浴びている。世の中に純文学と児童文学を一緒に書く作家はめったにいない。「きみはいい子」は映画製作の話が進んでいる。

 その彼女の原点は、ふるさと幡多の昔話。7、8月、隣の黒潮町の上林暁文学館で特別展「わたしをみつけてー中脇初枝・文学の軌跡」が開かれた。その時の「対談」でも話していた。自分が昔話に興味をもったきっかけは、子どものころのテレビ「漫画日本昔ばなし」を見たことだが、その頃、幡多の国語の先生方が「幡多のむかし話」という本を出版してくれた。それを読んで、昔話はよその話ではなく、自分が住んでいるところにもある、世界につながっている話であるということを知った驚きと喜び。文学(文字)をもたない民族はいるが、昔話をもたない民族はいない。言葉、人、物語は一体のもの。

昔話は万国共通、千年の昔からある。人々が語り伝え生き抜いてきた。しかし、いま語り伝える人が少なくなり、消えかけている。それに対する危機感。

 私が市長在職中、彼女に「四万十市ふるさと応援団」に入ってもらった。そして、「広報四万十」(2012年2月)に寄稿を頼んだ。「幡多のこどもたちに幡多の昔話を」。幡多の昔話は、何世代にもわたって幡多弁で語り継がれてきたもの。彼女は、幡多弁をこよなく愛し、大切にしてくれている。今回の講演も幡多弁で語ってくれた。いま幡多に住むわれわれが、はっと思うような幡多弁で。

彼女は地元を離れた人間である。いま神奈川県に住んでいる。外からみるふるさとは、地元にずっといる人間にはみえないかたちをしている。郷愁、郷土愛のようなものは、だれでもが、もつものであろうが、幡多には特別のかたちがあるように思えてならない。

 私小説作家上林暁、シナリオライター中島丈博、児童文学作家横山充男、漫画家安倍夜郎・・・彼らも幡多に生まれ、幡多を離れた人間であるが、いまでも幡多にこだわり、幡多にとりつかれ、もがいている。
 中脇初枝もまぎれもない幡多人である。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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