四万十川ウルトラマラソン 20年

  昨年に続き今年も四万十川ウルトラマラソンを走らせてもらった。大会は今年で20回。定員を200人増やし2200人にしたが、申込は増えるばかり。抽選当選証はラッキーカードである。

 中村市時代、10回を区切りにと言っていたが、これではやめるにやめられないだろう。人気上昇を地元が一番不思議に思っているが、その理由はランナーにしかわからない。

 走りながら眺める川の景色はいつもとは全然別物。沿道の人たちの声援がアクセントをつけてくれる。今年も約1700人のボランティアが参加してくれた。
 
 ウルトラは単なるスポーツイベントではなくなった。ウルトラは参加者の「ふるさと」。四万十川のアユのように、今年も45都道府県から参加者は戻ってきた。

「全国交流の場」の舞台と演出は四万十川、役者はランナーと地元の人たち。みんなに感謝である。

「来年も来てね」「絶対に来ます」と言いつつも、ランナーには抽選の高いハードルがある。「来年も頼みます」と神様に祈りつつ、全国に散らばっていく。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2014.10.26

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コールセンター DIO 倒産の怪(3-終)

4. 問題点

 以上の経過から、以下の問題点を指摘したい。

(1)進出企業のすりかえ

「コールセンターオペレーター養成事業」は四万十市が事業主体となり、DIOが現地につくる子会社に運営委託することで当初から話が進んでいた。12月ごろ、DIO側から共同出資者を入れたいという話が出た。しかし、出資比率がどうなるか等の具体的話はないまま、3月3日、子会社が設立登記された。県、市は、そのあとで出資構成(エボラブル90%、DIO10%)を知った。

事業計画書をつくったのはDIO、四万十市審査会でプロポーザルをしたのもDIO、その後の追加資料等を提出したのもDIO、1月27日、「基本協定書」を結んだのもDIOである。すべて、DIOである。

当然ながら、県、市による補助金審査は、「DIOがつくる子会社」に委託すること、を前提に行なわれた。

ところが、委託先は突然別の会社にすりかわった。
事業計画において、運営を委託する先がどこかということは最大のポイントである。委託先がかわったことで、審査は無効になるとみるのが常識であろう。

 なぜ、こうなったのだろうか?
当初はDIOが進出する計画だったものが、途中から経営状態が厳しくなり、エボラブルアジアに譲ったのか。それならば、「エボラブル社が主体になる」ということを、子会社設立前に県、市に伝えなければならない。そのうえで審査をやり直さなければならない。

そうしなかったということは、最初から仕組まれたものであり、エボラブル社はコールセンター運営の実績がないことから、DIOをダミーに使ったということだろうか。もし、そうなら、そんな会社、果たして信用できるのか。また、そもそも両社はどんな関係にあったのか等、詳しい背景は説明されないままである。

(2)審査ルール 違反

11月20日の四万十市審査会で合格しなかった時点において、本件は補助金対象から外れたとみなすべき。上述の通り、四万十市の審査は「募集要領」で、プロポーザル形式にすることを明記しているからだ。

案件の採択は最終的に県の審査で決定するが、県にあげる前段の審査は市町村に任されている。市町村ごとに、プロポーザル形式、独自審査(政策判断等)等、に分かれる。

そんな中で、四万十市は、公平性を期すため、民間有識者等、外部審査委員に委嘱するプロポーザル形式とした、これは、私が市長時代に決めたルールである。市ホームページで明記している。

よって、審査会に合格しなかったからといって、別ルートで県にあげるというのはルールに反する。現に、県が事業採択した四万十市案件は22件であるが、本件を除く21件はプロポーザルで合格した案件である。本件のみを特別扱いにすれば、落選者を含む他の応募者に説明がつかない。(説明もないまま)

さらに、本件は、当初から県からの紹介案件である。審査会も経ないまま、市だけの判断で県にあげるということは、どこからもチェックが働かない「出来レース」と言われても仕方があるまい。しかも、その事業者(予定)が、その後倒産したとなると、どんな審査をしたのか、県、市の責任は重大である。

なお、四万十市は募集要項で、審査結果は市ホームページで公表するとしているが、いまだ公表していない。

(3)対象補助制度の適否

 そもそも、今回の「コールセンターオペレーター養成事業」が「四万十市起業支援型地域雇用創造事業募集要項」に適合するかも疑問である。

「要項」では、「支援対象企業の要件」として、①起業後10年以内、新たに起業する場合は契約時に起業していること、②本社が市内に所在、等をあげている。

この補助制度は、本来地元に根付いている「顔が見える」団体や個人を対象としている。本件では、会社を市内に新規設立することで、一応地元という体裁をとっているが、実態は東京にある本社の一事業所にすぎないことは明らかである。最初のプロポーザルにおいても、審査員からこの点が指摘されている。

さらに言えば、高知県は「産業振興計画」の補助金メニューの一つとして、以前から、事務系職場の誘致推進策として、「コールセンター等立地促進事業補助金」をつくっている(平成26年度、商工労働部パンフ、11ページ)。まさに、そのものズバリ。なぜ、この補助制度の適用しなかったのか。

というのも、「起業支援型」の補助枠は市町村ごとに制約があるなかで、本件のような異例な大型案件が途中から入ってきたことから、四万十市の他の案件が「割りを食い」、申請額をカットされるという事態になったからである。その理由は明らか。DIOがより有利な補助を要求したからである。

(4)基本協定書 未締結

 四万十市はエボラブルアジアとは、いまだ企業進出の基本協定書を結んでいない。現状では、何ら協定を結ばないまま、一民間企業に、小学校跡地という市の公共財産を無償で使わせているという、異常な状態になっている。

DIOと結んだ、先の協定書は同社の倒産により実質無効になっている。ならば、現在事業を行なっているエボラブルアジアとも、あらためて協定を交わすことは最低限、行なわなければならない。

田野川小学校跡地には、無償どころか、今回の事業にあわせ、教室の改装費用等3679万3千円を市が負担している。(四万十市平成26年度当初予算)

基本協定書を交わすさいに、重要なことは、県も加え、3者協定とすべきことである。本市への企業紹介等、最初の道筋をつけたのは県であり、そのためDIOとの協定においても3者協定となっているからである。県の責任も明らかにしなければならない。

現に、四万十市は、県の紹介だからということで、DIOの独自調査は行なわないまま、ノーチェックで受け容れたかたちとなっている。

5.結論

いま最も重要なことは雇用の安定・継続である。いまのような経済環境の中で、50人の雇用が図られているということの意味は大きい。地元の期待も大である。

本件は、四万十市が「コールセンターオペレーター養成」を民間企業に委託して行なう事業である。1年間(来年2月末まで)は、人件費等、ほぼ100%の経費が補助金として支給される。よって受託企業は実質負担ゼロである。

問題は2年目からである。2年目からは補助金は出ないけれども、自力で継続雇用をしてもらうことを前提にした事業計画をたてさせ、四万十市が事業委託契約を交わしている。

しかし、雇用継続は「義務」にはなっていない。いまの50人の身分は1年間の契約社員である。最も望ましいのは全員が正社員になり、雇用が継続されることであるが、そうなるとは限らない。

「受託」を専門とするコールセンター業界は参入企業が増えたこと等により、経営環境がきびしくなっているといわれている。そうした中で、はたしてエボラブルアジアが四万十市での事業を継続するかどうかであるが、同社の本業はインターネットによる旅行商品販売業であることから、自からの商品を販売する「自前」のコールセンターとして機能させるならば、事業継続の可能性もあると思われる。

その場合も、これまで本件にかかわってきた、県、市、同社の3者が、上述した問題点について、説明責任をキチンと果たし、さらに3者による基本協定書を、交わしたうえでのことである。

DIOの二の舞にならないことを願っている。

(終)

<付記>
DIOが本市とセットで進出する話になっていた四万十町小学校跡地のコールセンターについても、似たような経過をへて、いまは別会社(株式会社ネットワークインフォメーション、略NIC)が運営をしている。

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田野川小学校 最後の運動会
2012.10.7

コールセンター DIO 倒産の怪(2)

3.DIO 四万十市への進出経過

(1)基本協定書締結

高知県(商工労働部企業立地課)が県外企業への誘致活動を行なう中で、DIOへ「高知県へもぜひ」とアプローチしたのがはじまり。これが昨年9月ごろ。

これを受けて県が県内候補地を案内した結果、四万十市と四万十町の休校になった小学校跡地に進出するという方向で合意。(四万十市=田野川小学校)。その後、各50人雇用等の細かい条件が確定したところで、今年1月27日、県、市町、DIOの3者で「基本協定書」を交わした。
高知新聞が大きくとりあげた。
記事では「DIO社が出資する新会社が運営する」と書かれている。
四万十市も同日付、市ホームページでアップした。

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 高知新聞2014.1.28
 <四万十市ホームページ >http://www.city.shimanto.lg.jp/city-office/info/c-board.cgi?cmd=one;no=1811;id=

(2)起業支援型地域雇用創造事業

「協定書」締結に至る条件交渉の中で、同社は東北等への進出の例を示し、1年間、実質100%の有利な補助制度の適用を要求。県は、平成25年度実施中の「起業支援型地域雇用創造事業」(高知県緊急雇用創出臨時特例基金事業費補助金を活用)の適用を、市と町に勧めた。

「起業支援型地域雇用創造事業」は、「継続的な雇用創出を図るために新たな失業者を雇い入れて行なわれる事業」であり、「起業後10年以内」「本社が市内に所在」などの条件が付いていた。四万十市では、すでにこの事業の募集を平成25年4月、7月の2度行なっていた。さらに、3度目の募集を11月に行なうことになっていたことから、県・市の勧めでDIOは、これに応募した。

(2)補助金審査・決定

四万十市の募集は都度、市ホームページで告知。
第3回目も、10月29日付けホームページで公開されている。
 < 四万十市ホームページ>http://www.city.shimanto.lg.jp/city-office/info/c-board.cgi?cmd=one;no=1779;id=

この「募集要項」は私が市長在職中(~平成25年5月14日)に定めたものである。
応募にあたっては、「審査委員会を通して審査・選定のうえ、さらに県の事業採択を受けてから、市の委託事業として提案者と契約し実施します」と明記している。

第3回目の募集審査は11月20日に行なわれた(場所・市役所)。
複数の応募団体の一つとして、DIOもプロポーザル(計画の説明)を行なった。

審査委員(4名)からは、以下のような意見が出た。

・事業規模・金額が大きい案件なのに、計画がラフで具体性に欠ける。
・コールセンターではこれまで全国でいろんな問題が起こっている。
・「起業支援型」の募集の趣旨に合わないのではないか。

この結果、同日の審査会ではパス(合格)しなかった。他の案件は、審査委員が採点し、一定水準をクリア―した案件がパスした。しかし、DIO案件は、「大型案件」ということもあり、採点はせず、審査判断を「留保」し、「差し戻し」というような形となった。

市はこれを受けて県と対応を協議。市独自の「政策判断」として、審査会を経ずに、県にあげ、県が2月6日付(協定書締結10日後)、事業採択(補助金交付決定)した。

(4)E.A.高知コンタクトセンター

DIOによる現地子会社の設立手続きは遅れ、事業スタート日と同じ3月3日付けで、やっと会社設立登記が終わった。

子会社は「E.A.高知コンタクトセンター株式会社」、代表取締役吉村英毅、資本金1百万円。株主構成はその時はじめて、エボラブルアジア株式会社90%、DIO10%、と説明された。


(5)エボラブルアジア

 一般的に、株式の支配権(50%以上)をもつ会社を親会社という。つまり、「E.A.高知コンタクトセンター」は、DIOではなく、エボラブルアジアの子会社である。EAとはエボラブルアジアの略であることは明らか。

エボラブルアジアとはどんな会社か。
設立2007年、本社東京、社長吉村英毅、資本金2億15百万円、業種はインターネット旅行業(旅行商品をインターネット販売)。吉村氏は32歳。東大在学中に学生仲間と会社を立ち上げた。当時はやりの学生ベンチャー企業。その後、アジアへも進出し、いまベトナムを拠点にソフト開発も手掛けているという異色の会社。

 <エボラブルアジア ホームページ>http://www.evolableasia.com/

E.A高知コンタクトセンターは地元から50名を雇用。
3月以降、「コールセンターオペレーター養成事業」の研修等に取り組んでいる。

同社は、8月、DIOが倒産する前に、DIOがもつ株式10%も買い取り、現在、エボラブルアジアの100%子会社になっている。

このようにして、「DIOの子会社」という話が「エボラブルの子会社」にすりかわったのである。

<3月3日入社式>http://www.youtube.com/watch?v=l6Nst9VvFIk

(続く)

コールセンター DIO 倒産の怪 (1)


1.はじめに

今年8月、DIOジャパンが事実上倒産した。(法的整理は未定)

同社はコールセンター運営専業大手であり、高知県および四万十市の誘致を受け、四万十市内に子会社をつくり進出する話がギリギリまで進んでいた。ところが、今年3月、実際に進出した会社は別の会社の子会社にすり替わっていた。現在、その会社が運営をしている。

県・市による企業誘致(昨年9月以降) →進出協定書の締結(今年1月) →補助金の審査・決定(2月) →事業スタート(3月)、のプロセスにおいて、不明瞭で不可解な点が多い。

このため、この会社はいつまで続けるのか、補助金給付が終了したら早晩撤退するのではないか等、従業員などに不安や疑心暗鬼が広がっている。9月市議会でも疑問点が指摘された。

地元にとって最も重要なのは雇用の安定である。私もそれを願っている。従業員たちが安心して働き続けられるよう、不明瞭な経緯については、関係者がキチンと説明して、事実経過を明らかにする必要がある。

昨年4月、当該補助制度を四万十市に導入したのは私が市長時代である。当時の責任者として、現状の問題点を指摘し、対策を提案したい。(3回連載予定)

高知新聞1月28日
高知新聞2014.1.28


2.DIO倒産の経緯

 コールセンターとは電話で商品やサービスを勧誘・販売・照会受付け等をする業務である。DIOジャパン株式会社(以下、DIOと略)は、ホテル、旅行会社等、いろんな業種から仕事を受託し、コールセンター業務をその会社に代わって行なっていた。(代行サービス)

DIOは、2000年設立、社長本門のり子、資本金1億42百万円、本社東京(当初の松山から移転)。2013年3月決算期、収入10億32百万円。

 DIO 会社概要 http://ja.wikipedia.org/wiki/DIO%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3

DIOは、東日本大震災後、東北地方の復興雇用対策事業である緊急雇用創出事業に積極的に参加し、各県に子会社をつくり進出。そのほか、沖縄や九州など、全国各地にも進出した。

帝国データバンク調査によれば、積極的な事業展開に資金繰りが追い付かず、行き詰った、とされている。各地の事業所(子会社)では、従業員の解雇、給与未払いが発生し、社会問題になり、新聞、テレビ等でも流れた。

 帝国データバンク記事 http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3957.html
 日刊ゲンダイ記事 http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/152352
 日刊時事ニュース http://www.xanthous.jp/2014/08/04/dio-japan-problem/

この倒産が問題にされているのは、国の補助金が絡んでおり、「補助金詐欺」ではないか、と疑われるため。厚生労働省が調査に乗り出した。

調査時点(7月)では、当該子会社は、11県、19市町村、19社に及ぶ。事業委託費(補助金)総計は42億8,600万円。雇用者総数2,143人。

補助金は、1年間に限り、人件費をはじめ大半の経費について100%出る。このため、事業は1年間は続けるが、その後は、段階的に解雇が行なわれていた。

福島県いわき市、岐阜県美濃加茂市、愛媛県西予市の子会社では、1年たたないのに、給料未払い等が発生していた。いずれの子会社も親会社DIO倒産以後は、連鎖倒産状態であり、事業はストップしている。いわき市議会では、この問題が取り上げられ、市当局が「事前調査、チェックが不十分だった」と陳謝している。

 厚生労働省調査報告  ://    
        
 (続く)

大逆事件サミット

 第2回大逆事件サミットが、10月12日、福岡県旧豊津町(現みやこ町)で開かれ、参加してきた。

同サミットは、大逆事件犠牲者たちの名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる全国の団体・個人が一堂に会し、それぞれの活動報告と経験交流、今後の取り組みを議論する場であり、第1回は3年前、私が市長時代、幸徳秋水刑死百周年記念事業の一環として、中村で開いた。第2回を、幸徳秋水の盟友堺利彦の生誕地豊津で開くことになったもの。

前回は主催者として迎える立場だったが、今回は、幸徳秋水を顕彰する会を代表して参加した。中村からは尾崎清さんと2名、ほかに松山、姫路からも会員が参加。台風19号の接近が気になりながらも、前日、車で八幡浜からフェリーで別府に渡り、暗くなってから、豊津に隣接する行橋市のホテル着。

 当日、午前中は、曇天の中、地元のみなさんがフールドワーク(史跡巡り)に案内してくれた。バス等に分乗して約50人。私は以前、福岡市に3年間勤務をしてことがあるが、ここら京築地域(京都郡、築上郡)には来たことがなかった。どこも初めてのところばかり。

葉山嘉樹は小林多喜二と並ぶプロレタリア文学作家。鶴田知也も同分野で第3回芥川賞を受けた作家だが、戦後は農民運動指導者の面が強い。堺利彦を含め、豊津が生んだこの3人の顕彰会(堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の偉業を顕彰する会)が今回のホスト役で、それぞれの記念碑を案内してくれた。

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3人は、明治~昭和前期、時の権力によって弾圧された側だ。今回、驚いたのは、3人の対極にある権力側の、特に司法分野の重鎮も、この地から出ていること。

末松謙澄・・・第4次伊藤博文内閣内務大臣、社会民主党の結社禁止を命じた。
安広伴一郎・・・第2次桂太郎内閣法制局長官、山縣有朋の懐刀、大逆事件の裏のキーパーソン
松室到・・・大逆事件時の検事総長、第3次桂内閣司法大臣

彼らの学んだ私塾跡(水哉園、行橋市)、墓(豊津)なども案内された。大逆事件を仕組んだ側と、その罠にはめられた側の「呉越同舟」。不可思議な土地だ。

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その背景には屈折したこの地の歴史がある。幕末、小笠原藩(小倉城)は幕府側につき、長州との戦いに大敗北。小倉から豊津に逃れ、豊津藩をおいた。長州への怨念が自由民権運動につながる面と、権力(藩閥政府)におもねる面と、両極あったのではないだろうか。堺利彦をはじめ、小笠原家臣の出が多い。

サミットは、午後から、豊津福祉センターホールで開かれた。約100人の参加。コーディネーター(進行役)は「大逆事件の犠牲者たちの人権回復を求める連絡会議」代表の山泉進明治大学副学長。以下の12団体代表がパネリストとして活動報告(私も)した。(報告順)

大逆事件の真実を明らかにする会(東京)
幸徳秋水を顕彰する会(中村)
「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会(和歌山・新宮)
「大逆事件」犠牲者の名誉回復を実現する会(和歌山・本宮町)
森近運平を語る会(岡山・井原)
大逆事件犠牲者顕彰碑建立発起人会(熊本)
信州明科事件を語り継ぐ会(長野・あずみの市)
真宗大谷派解放運動推進本部(京都)
京都丹波岩崎革也研究会(京都)
平出修研究会(東京)
管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会(大阪)
堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(福岡・豊津)

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前回サミットでの報告は8団体だったので、この間の運動が広がりがわかる。大阪の会(管野須賀子)などは、2年前、結成されたばかり。会場発言もあり、今後も取り組みの輪を広げていくことを確認し、以下の「豊津宣言」を採択した。


  大逆事件サミット豊津宣言

 「大逆事件」から100年を契機にして、事件の真実をもとめる活動、犠牲者に対する顕彰運動は全国各地において、ますます広がりをみせている。それだけ、この事件が近代日本の歴史に深い傷跡を残してきたことの証でもある。
 日本の平和運動の原点は、堺利彦と幸徳秋水によって創立された平民社の「非戦論」にあった。彼らは人類社会のめざすものとして「自由」「平等」「博愛」を掲げ、政治的自由と参加、社会格差の解消、戦争の禁絶と軍備の全廃を主張した。そして、アジア、世界各国との連帯を模索した。「大逆事件」後の日本は、彼らの主張を抹殺することによって侵略と戦争の道へと進んだ。戦後69年、現在の日本は再びナショナリズムと戦争、言論弾圧、社会的格差を拡大する道をたどりつつある。
 この時にあたり、ここ堺利彦の故郷・豊津に集い、歴史的転機となった「大逆事件」の意味を問い直すことは、大いに意義あることと考える。
 堺利彦は、「赤旗事件」での出獄後、妻の為子とともに、獄中の被告や家族たちとの連絡と救済にあたり、獄中書簡を「大逆帖」として残し、また1911年3月末から、岩崎革也の援助のもとに、39日間にわたる被告遺家族を慰問する旅へと出かけた。さらには、エマ・ゴールドマンたち、外国同志からの支援の窓口となり、国際連帯の輪を広げた。
 豊津での第2回大逆事件サミットの成功を通して、「大逆事件」の犠牲者たちの名誉回復と顕彰運動がますます深化し、人権弾圧のない平和な世界を築いて行くための礎となったことを確認する。   
    
 2014年10月12日
 12団体連名


 サミットには、地元の井上幸春・みやこ町長も参加され、歓迎の挨拶をされた。井上町長は、前回サミットでも中村においでくださった。3年ぶりの再会であった。幸徳秋水と堺利彦が盟友だったように、2人の縁を、四万十市、みやこ町、自治体同士の交流深化につなげたいと思う。夜の交流会で固い握手をした。次回サミットの開催時期と場所は未定であるが、交流会での雰囲気では、大阪で、2年後ぐらいに開催になりそうである。

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以下、番外編。
翌日は、台風の接近で大荒れの天気になり、帰りのフェリーが欠航。さて、どうするか。同伴の尾崎さんの希望もあり、「関門めぐり」をした。風雨をついて、門司に向かい、レトロ街を散策。次いで、海峡のトンネルを下関にくぐり、高杉晋作の足跡を追い、長府の功山寺へ。晋作が最初に決起し、長州藩を倒幕に動かせた「回天義挙」の地。長府藩は萩藩の支藩。はじめて来たが、萩ほどは俗化していない、静かな城下町であった。多くの軍人を生み、乃木希典もここの出で、乃木神社もあった。そにあと、下関市中心街にある「高杉晋作終焉の地」へ。

長州、下関といえば、近代日本の起点。しかし、のちの長州閥の首相の顔ぶれ(いまも)を見れば、いい印象がない。山縣有朋(首相にはならかったが、元老としてそれ以上の実権をもった)などは、「大逆事件」をつくりあげた中心人物だ。高杉晋作の盟友。晋作は29歳で死んだため、美名だけが残っているが、もし長生きしていれば、どんなだったろうか。龍馬にもいえることだが・・・

長州藩が小倉に攻め入り、大敗した小笠原藩の家臣から堺利彦が生まれた。また、門司は、戦前、大陸への窓口(侵略の拠点)だった。その嚆矢は、秋水・堺らが非戦論で反対した日露戦争・・・

その日は、下関泊。台風のおかげで、期せずして、豊津~門司~下関、と日本近代の縮図を歩かせてもらう旅となった。下関からは、もときたルートを戻り、中村に帰ってきた。

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潮は山迄

川は津波を増幅して呼び込みます。
高知県が発表した南海トラフ巨大地震による津波浸水予想図(本市最大震度7、津波高26.7m)によると、津波は四万十川を遡上し、本流は具同、入田、後川は安並、岩田あたりまで浸水します。

にわかには信じられません。この予想図は、「次に起こる地震津波を想定」したものでもなく、「何年に何%という発生確率を念頭」においたものでもなく、「発生頻度は極めて低い」ものの、最新の研究などの知見に基づき最悪ケースを想定したもの、とされるからです。

では、その可能性はないのか?というと、あるのです。「千年に一度」の地震がそれです。
約百年ごとに繰り返される南海地震の歴史では、何回かに一度「どでかい」のがあります。都司嘉宣(つじよしのぶ)先生によると、昭和地震(1946年)は「小粒」、安政地震(1854年)は「標準」、宝永地震(1707年)は「特大」でした。
宝永がその「どでかい」ヤツでした。宝永地震直後、土佐藩士奥宮正明が被害を記録した「谷(こく)陵記(りょうき)」には、いまの市内の状況を次のように書いています。

下田・・・亡所、潮は山迄、山際に家具ばかり残る。
鍋島・・・竹島、井沢、小津賀(こつか)、潮は田丁、窪田は海となる。
中村・・・地震に三分の二家倒る。潮は田丁、窪田迄。
佐岡・・・潮は田丁迄。
右山・・・潮は田丁残なし。
坂本・・・潮は香山寺麓迄。
山路・・・潮は田丁迄、木戸は家尽く流れ、窪田は海になる。
真(さね)崎・・・潮は山迄、田丁不残(のこらず)海になる。
深木、間崎、津蔵渕・・・潮は山迄、田地中・半(なかば)海になる。
初崎・・・亡所、潮は山迄、一木一草残りなし。

小津賀(古津賀)、真崎(実崎)は旧字。「田丁」は普通の田、「窪田」は低地の田のこと、「亡所」は集落が跡かたもなく流された状態です。
まさに今回の浸水予想図どおりではありませんか。

私は、昨年7月、東北の被災地を視察に行きました。最も衝撃を受けたのが石巻市を流れる北上川下流域の惨状でした。同川では、河口から上流12キロ付近まで、堤防決壊や津波の越流で住宅や農地が浸水しました。
北上川下流域は四万十川とそっくりの地形。被災状況も今回の四万十川浸水予想図とまるで同じです
生徒の7割、74人が犠牲となった大川小学校は河口から上流5キロ地点。四万十川でいえば、八束小学校と同じ位置でした。大川小学校にも裏山がありました。「潮は山迄」駆け上がっています。

繰り返しますが、昭和21年の南海地震は「小粒」でした。「小粒」でも、中村の町のほとんどの建物は倒壊をしました。鉄橋も崩れました。

次の南海地震は、前回地震のエネルギーが残っているため、宝永地震クラスの「どでかい」ものになることを想定しておかなければなりません。

今年の秋には、県からさらに詳細なデータに基づく津波浸水予想図が示されることになっています。
しっかりと対策に取り組む必要があります。

「広報四万十」2012年7月
「市長談話室」
写真は今回貼り付け

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奪天工

中村の歴史は川との戦いの歴史です。
天の工(自然の技)を奪う(凌駕する)。

大正15年(1926年)、四万十川橋(赤鉄橋)が完成をしたとき、中村の人々はその巨大さに驚愕をし、「奪天工」の碑をたもとに建てました。(題字島崎正勝中村町長) 

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中村はもともと中ノ村。川の真ん中の村。大正4年、渡船の転覆事故で幡多実科高等女学校の生徒ら11人が犠牲になったことから、架橋運動が盛り上がり、2年3か月の工期を経て「島」が橋でつながりました。 

延長438m、幅員5.5m。南海の果に、なぜ当時四国最大という分不相応な橋ができたのか。関東大震災で崩落をした帝都(東京)の名だたる橋がまだ復旧されていない時期です。軍港・宿毛湾へつながる道として軍事的役割があったという見方もありますが、総工費48万円が国庫補助なしの全額地元調達(寄付など)であったことからすれば、地元の並々ならぬ熱意が原動力であったとみるべきでしょう。以降、鉄橋は中村のシンボルになりました。

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川との次なる戦いは治水事業でした。
中村は出水のたびに水に沈むのが年中行事。当時、堤防ごときといえば一條家時代以前から築かれていたという岩崎堤防と藩政時代の右山堤防だけでした。町の家はすべて2階建。毎年の洪水対策に膨大な県費を要したことから、土陽新聞は社説で「住民を移住させろ」とまで書いています。

県、町は国営事業として治水事業を行なうべしとの猛烈な陳情を行なった結果、四万十川は四国で吉野川に次いで2番目の国直轄河川に指定をされ、昭和4年(1929年)夏、中村に内務省渡川改修事務所(現在の中村河川国道事務所)が開設されました。場所は県幡多支庁内でしたが、同年秋、中村高等女学校が新築され、その旧校舎に移転しました。

四万十川は当時、計画洪水量日本一。日本で一番やっかいな暴れ川でした。事務所長以下は幡多支庁長(地方事務官)よりはるかに格上の中央の高等官であり、赴任は「地の果てに行く」思いであったと語っています。(『渡川改修四十年史』1970年刊行)

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調査測量に続き、昭和6年、鉄橋上の具同側から築堤工事を開始。その時、名勝の松林が伐採されました。戦争を挟んで、昭和24年ごろまでには、後川の付け替えを経て、中村の町の周りの堤防は、具同、佐岡側を含め、ほぼ完成をみています。

最大の難関は、「蛙が小便しても田がつかる」水はけの悪い中筋川の合流点を具同から八束の実崎へ付け替える事業でした。坂本の前に背割堤を約4キロ築き、甲ヶ峰を削り取って、山路川につなぐ。着手は昭和12年、完了は実に昭和39年でした。以後もダム事業(中筋川、横瀬川)から現在の不破築堤事業に至るまで、四万十川の治水事業は延々と続けられています。

しかし、昭和4年以降でも、昭和10年、38年(古津賀堤防決壊)、平成17年の大洪水、昭和21年の南海地震(鉄橋崩落)もありました。

3・11から1年。
次の南海地震では、川を遡る津波にも備えなければなりません。  

「奪天工」いまだならず。自然の力、恐るべし、です。


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  「広報四万十」2012年3月
 「市長談話室」
 写真は今回貼り付け




殿様も大変

 中村の殿様も水害には悩まされたという話。

9月27日、私も会員である、西南四国歴史文化研究会(通称よど)主催の歴史講演会が公民館で開かれた。四万十市文化祭事業の一つ。テーマは「四万十市の歴史と山内家資料」、講師は山内資料館横山和弘氏。

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中村の支配は、一條氏 →長宗我部氏 →山内氏、と変遷する。関ヶ原の戦いのあとは、山内氏が入国し、土佐藩(初代一豊)の支藩として中村藩(初代康豊。一豊弟)がおかれた。

山内家資料館(高知市)には約6万7千点の歴史資料等が保存されている。土佐藩の西の拠点だった中村にかかわるものも多くある。その中の一つ「歴代公紀」。各殿様(藩主)の時代のできごとの記録である。

中村藩3代忠豊、寛文6年(1666)の記録。
土佐一国中、大風雨、洪水、高潮にみまわれた。「御入国以来之損亡」、「前代未聞之大水」「前後五度之洪水」「中村及大破」「中村莫大之損亡、笑止千万無申計候」・・・

「損失帳」によれば、損田24,700石、損米22,230石(中村藩石高3万)、井川破損1,200ヶ所、流家潰家2,037軒、流死人37人、流牛馬579疋・・・

城があった為松山麓の侍屋敷一帯にも「不残棟ヲ一面二水押申候」。殿様屋敷(いま中村高校手前あたり)も同様で、忠豊は近くの寺に避難したが、その寺の裏山が崩れ大変なことになった・・・と。

中村の町は、四万十川(当時は渡川)と支流の後川、中筋川の合流点のデルタ上にあるため、町の歴史は川の氾濫の歴史である。「歴代公紀」には、寛文9、12年にも洪水があったと記されている。

四万十川の本格的な治水事業は昭和4年から始まる。
8月に開かれた「中村百年写真展」では多くの水害の写真が展示されていた。明治以降では、昭和10年の洪水が最も大きかったとされている。しかし、その時、死者はでなかった。今年夏の出水も大きかったが、幸い人的被害はなかった。ここらの人々は川との付き合いの仕方が身にしみている。対応に慣れている。
・・・しかし、ゆめゆめ油断することなかれ、である。

なお、中村藩は5代豊明(通算)が、将軍徳川綱吉の怒りに触れ、元禄2年(1689)、全領没収になり、本藩(土佐藩)に吸収された。

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    明治44年洪水
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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