ふるさと実崎

 実崎は、もとは「サネサキ」だったのだろうが、いまは「サンザキ」と読む。私が生まれたところであり、先週、46年ぶりに実家に戻ってきた。引っ越しもやっと一段落したところ。

私が昭和28年に生まれたころは、ここは幡多郡八束村であった。その後、中村市 →四万十市に変わった。四万十川の河口から上流4キロ、支流の中筋川と合流する地点にある。

私はここを高校時代に出た。高知市へ。大学は東京へ。
農林中央金庫へ就職後は、大分 →東京 →大阪 →高知 →東京 →岡山 →東京 → 福岡 →札幌 →東京 →大阪、と異動をくりかえした。定年前の55歳で退職し、地元に帰ってきたが、住まいは中村であった。住居の引っ越しの回数でいえば、今回が23度目になる。

これが最後の引っ越しだ。私は実崎を「終の棲家」に決めた。もとの鞘(サヤ)に戻れたことに、私は安堵している。やっと念願がかなったという思いだ。きょうで今年は終わりだが、そんな意味で、2014年は私にとって区切りの年になるだろう。

いま振り返ってみると、私は家を出てからも、常にふるさとというものを意識してきたと思う。いつもふるさとのことが気になった。どんなところにいても、またどんなに仕事が忙しくとも、1年に一度はふるさとに帰って来た。

大学時代の友人や就職後の同僚なども、多くは地方出身者だった。しかし、私ほどふるさとにこだわっている人間はいなかった。私は、ある意味、ふるさとに束縛されていたのに対し、みんなはふるさとから自由であった。

彼らはいま当たり前のように東京周辺に家を建てたり、マンションを買ったりしている。私も若いころ、周りの勢いに押され、東京近郊に土地を買ったことがあるが、結局、そこにマイホームを建てることはなかった。

職場の同期で、いまふるさとに帰っているのは私だけである。
私からみれば、みんな、なぜ、ふるさとに帰りたくないのかと不思議であるが、どうも私のほうが「異端者」のようである。

私は九州から北海道まで、全国を転勤する中で、いろんな土地を見てきた。どこも思い出の地である。しかし、四万十川が流れ、黒潮の海と四国山脈が連なる、わがふるさと幡多地方ほど、素晴らしいところはないと確信をした。自然だけでなく、京都一條家の流れをくむ歴史文化や、自由民権を切り開いた先覚者たちの足跡も残っている。

私は自ら望んでふるさとに帰って来て、いきなり市長をつとめた。行政経験がないまま走り回った。続投できなかったのは自分の不徳のいたすところであるが、やりがいのある、充実した4年間だった。

同時に、いくら自分がふるさとのことを思っているつもりでも、それは自己満足にすぎないという面があり、ふるさとのほうでは必ずしも自分のことを思ってくれているのではない、ということも思い知らされた。

いま61歳。
還暦を過ぎれば、人生の第2ステージ。
あとは付け足しのようなもの。幸い、いま体に不調はないけれども、あと何年生きられるかわからない。

しかし、私はふるさとでノンビリ暮らすために帰ってきたのではない。
私は元の鞘に戻ったが、これからは刀をどう使うか。
残された時間、いつ何があっても後悔は残したくない。

このほど亡くなった笠木透は、「表現」をすることで、自分が解放され、人間らしくなれると言っていた。「表現」とは歌をつくり、うたうことだった。

常に、実崎から「発信」をする。

私は、これを心がけたい。

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追悼 笠木透

「フォーク歌手」の笠木透さんが22日、亡くなった。77歳。

笠木さんの名前はだいぶ前から知っていた。私が20代のころから。最初は「私の子供たちへ」、次に「わが大地のうた」をつくった人として。岐阜県中津川で地域に根差したフォーク活動をしていると聞いていた。野音のはしり、フォークジャンボリーを企画した人とも。

エッセイ集も読んだことがある。しかし、直接本人の歌をきいたことはなかった。同じフォークでも、軽いタッチで歌い、テレビにも時々出るような「かっこいい」、斜に構えた奴らとは違うということはわかっていた。

顔がいかつく、体全体でうなる、野生の大男という印象だった。山を開き、畑を耕す哲学者にも見えた。およそそこらの歌手イメージではなかった・・・得体の知れない人物像を抱いたままであった。しかし、最近は彼がつくった歌をきく機会も少なくなり、名前も忘れかけていた。

その笠木透を、突然私に引き寄せてくれたのは幸徳秋水であった。
3年前の1月、幸徳秋水刑死100周年記念墓前祭の直前のことだった。フォークグループ「笠木透と雑花塾」のメンバーの1人、鈴木幹夫さん(長野県松本市)から、当時四万十市長であった私のもとに1通の手紙とCDが届いた。内容は、秋水を追悼する歌をつくったので、1月24日の墓前祭で歌わせてほしいという内容だった。

笠木さんが、いまそんなグループをつくっているとは知らなかった。私が高知新聞に書いた秋水追悼記事を読んで、そんな市長なら歌わせてくれるかも知れないということで手紙を書いたという。笠木さんは幸徳秋水のことをよく調べ、勉強し、尊敬していた。

私はもちろん大歓迎。秋水墓前で新曲「ポスター」を「献歌」してもらった。
歌の出だしは「国が間違っていました。幸徳秋水さん、あなたは無罪です。2011年1月24日、日本国・・・」

地下の秋水にも届いたであろう、大合唱となった。
幸徳秋水は無罪であるということを書いたポスターを世界中の街角に貼ってほしい、と訴えたこの歌は、そのあと大逆事件犠牲者の追悼歌を集めたCD「ポスター」に収録された。(その中には「四万十川」という曲も入っている。)

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夜の交流会でも全国から集まった墓前祭参加者とも意気投合。「私の子供たちへ」「わが大地のうた」などを一緒に歌った。私がこの歌は前から知っていると言ったら、笠木さんは大喜びだった。

話はそれだけにはとどまらない。第2弾があった。

秋水刑死100周年事業は1年間をかけて、講演会、シンポ、サミット、展示会などを開いたのだが、その締めのイベントとして、同じ年の12月、地元のバンドグループを中心にして「秋水平和コンサート-LOVE&PEACE-」を、市立文化センターで開いた。そこに「笠木透と雑花塾」をゲストとして招いた。今度はステージを通して地元との交流をしたのだ。大いに盛り上がったのは言うまでもない。

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それ以降、私は笠木さんに会っていないが、雑花塾メンバーとの交流は続いている。今年2月、笠木さんからこんな手紙をもらった。

「昨年の12月から、体調悪化と全身打撲で、歩くのもやっと、座るのもつらいといった、なんとも無様で、腹立たしいあり様。もうこれまで、すべてを止めようと、朝起きるたびに思っていました。でも、2月になったら、少し回復して、なんとかあと1年ぐらいは動けるのではないか、と思いはじめています。」

笠木さんは直腸ガンの宣告を受けていた。階段からも転落し、体の自由がきかなくなっていた。そんな中でも、1年間の行動計画表を書いていた。「できるかどうか、できるところまで」とのただし書き付きで・・・ 新しい歌集やCDの発行、コンサート、「私のフォークソング論」脱稿など・・・10の目標を。

笠木さんは、いくつ達成できたのだろうか。覚悟のうえとはいえ、年を越えることはできなかった。無念も残ったであろう。手紙は遺書だったのだろう。

しかし、笠木さんは満足していると思う。
手紙の中で、笠木さんはフォークソングの祖と言われているアメリカのピート・シーガーについて書いている。

「私がピート・シーガーさんに学んだことで、重要なことのひとつが、歌と生き方に分裂がないことでした。歌は歌、暮らしは暮らしではなく、うたったように生き、生きたことをうたってこられたと思うのです。いつも人びとと、平和と自由を求めて。」

別のところでも、こう書いている。

「私はフォークソングにふれて、この国で、人間らしく生きるためには、なによりも『表現』することが必要ではないか、もう一度、歌を作り、うたうことが必要不可欠である、と考えた。」「表現することで、自分が解放され、少しずつ自由になっていく、人間らしくなっていくことではないのか。」

このように生きてきたのが笠木さんだ。

笠木さんの人物像は一言ではいえない。
「歌手」と言うには、大きすぎる。詩人、哲学者、思想家でも物足りない。「人間の解放を求めて歌い続ける革命家」といったところだろうか。私は類似の人物像を日本にさがすことはできない(過去も今も)。

笠木さんのご冥福を祈る、というようなことは書けない。
笠木さんの歌は生きているし、「人間」を励まし続けているから。
私もそんな生き方をしたい。
笠木さんがうらやましいです、と言葉をかけたい。

笠木さんは、いまごろ、あこがれの人、幸徳秋水と握手をしていることだろう。

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如水

 NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」が終わった。
私は最近大河ドラマをあまり見ていなかったが、今回は最初から見た。官兵衛に以前から妙な縁を感じ、興味を持っていたからである。信長、秀吉、家康による天下統一を一人の軍師の視点から描いた内容は、なかなか見応えがあった。

私の社会人としての駆け出しは大分だった。農林中央金庫に就職して最初に赴任をしたところだ。大分県北部は昔の豊前の国。官兵衛が居城にした中津城があった。私が九州ではじめて登った城がこの城であった。海(周防灘)に面した城郭はめずらしいと思った記憶がある。官兵衛は晩年、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて、中津から九州制覇→天下取りへ、乾坤一擲のカケに出たが夢破れた。私は大分には独身時代の3年半いた。

その後、岡山にも転勤になった。すると長船町(現・瀬戸内市)に福岡という地名があった。官兵衛は姫路生まれだが、黒田家は曾祖父、祖父の時代、近江を追われ、ここに移り住んでいた。この地名が九州の福岡の由来になったということを聞いた。刀剣の「備前長船」を生んだところで、備前焼の里(伊部)のとなりだった。岡山にはバブル絶頂期の3年いた。

さらにその後、その九州の福岡でも仕事をした。社宅から福岡城内を通って通勤した。城のお堀である大堀公園は私のジョギングコースとなった。もともと博多は大陸に開けた商人のまちであったが、黒田が入ってから、那珂川をはさんで西側に武家のまち福岡をつくったのだ。それまで私の頭の中で混乱していた博多と福岡の関係がはっきりした。福岡側の天神ターミナル近くには湾曲した道があり、交通渋滞をまねいていた。これは城攻めをむずかしくするための軍略によるものと聞いた。福岡には神戸大震災のころ3年いた。

戦国時代の武将もいまのサラーマン同様、転勤を繰り返していたのだ。いまと違うのは単身赴任はなく、一族郎党引き連れての移動であった。私も岡山、福岡は家族帯同であった。

黒田が赴任した3か所は、私にとっても思い出深い地であり、いまでもいろんなつながりをもっている。

また、官兵衛とはこんな縁も。
官兵衛は晩年出家してからは「如水」と名乗った。
私の母校一橋大学の同窓会も「如水会」という。私のもとには毎月「如水会会報」が届く。

如水会の命名者は渋沢栄一。中国の五経の一つ「礼記」にある「君子の交わりは淡きこと水の如し」による。大正3年、如水会が誕生して今年で100年。本部は東京神田一ッ橋の如水会館にある。

「上善如水」とは、水ほど善き(強き)ものはないということ。水は自在に姿を変える。しかし、必ず下へ流れる。どんな環境にも適応できるが、常に謙虚な姿勢を忘れない。

軍師官兵衛の名を不動のものにしたのは、秀吉高松城攻めの最中、本能寺の変がおこり絶対絶命のピンチに陥ったさい、それを天下取りのチャンスととらえ、秀吉を動かしたこと。逆転の発想である。

私も肝に銘じたいと思う。

勝利者は沖縄

今回の総選挙の勝利者は沖縄である。
日本政府(自民党)を相手に、4つの小選挙区で完勝した。

沖縄では、辺野古への米軍新基地建設の是非を最大の争点にした先の知事選挙で基地建設反対を掲げる翁長候補が現職知事に10万票の大差をつけて勝った。政治的イデオロギーの違いを超えて、新基地建設反対のただの1点だけで統一した「オール沖縄」の底力をみせつけた。

総選挙も同じ方式がとられた。4つの選挙区で自民党にぶつける候補者を一人に絞った。それぞれの所属政党は違ったが(1区:共産党、2区:社民党、3区:生活の党、4区:無所属)、新基地反対の1点だけで共闘した。そして勝利した。全国47都道府県の中で、自民党が小選挙区で1議席もとれなかったのは沖縄だけである。(自民党4候補は比例区で復活)

 総選挙全体では自民党が圧勝したと報じられているが、はたしてそうだろうか。確かに獲得議席数ではそうであるが、中身をみればそうではない。政党の支持状況がはっきり示される比例代表選挙における自民党の得票率は33.11%である。比例議席はこのとおり配分される。しかし、小選挙区は1人しか当選しないため、自民党の獲得議席率は75.59%になり、両方あわせると、61.26%になる。つまり、死票が多くなる(民意が反映されない)小選挙区制という選挙システムによるものだ。

さらに、今回は投票率が52.65%(比例)まで下がったため、全有権者に占める自民党の絶対得票率は16.99%(比例)にすぎない。

また、今回の選挙の特徴は、自民党が公約を積極的に語らず、争点をぼかしたことにある。なぜこの時期に解散かわからせないまま強引に選挙をしかけ、最初は消費税引き上げ延期を、途中からアベノミクスを全面にだしてきた。ほかの重要な争点であるべき集団的自衛権や原発再稼働問題については黙して語らずであった。これらについては、各種世論調査で反対が過半を占めているからだ。

選挙とは本来、各政党の政策を公約に掲げ、堂々と語り、争点を明確にして戦うのが常道である。しかし、安倍首相は、今回は、とにかく票だけをとればいいという作戦であった。それが当たった。ゲームに勝ったといったほうが正しいだろう。

しかし、これでは本当の勝利とはいえないだろう。政策を積極的に訴え、その是非を問う。それで勝てば誰もが納得できる。

今回、自民党は達成感なき勝利といわれるのはこのためである。それでいて、選挙が終わったとたん、安倍首相は、集団的自衛権に信任をもらったと堂々と言っている。厚顔というか、これが政治家というものだろうか。有権者は自民党に勝たせはしたが、全権委任したわけではない。民意とのギャップはますますひろがっていく。


一方、沖縄では争点が明確だった。
自民党現職は、最初は米軍新基地建設反対を公約にしていたのに、途中で官邸の圧力に屈し、県民を裏切った。前・仲井真知事も同じ。

安倍首相は激戦区応援のために全国を飛び回ったのに、最激戦の沖縄には来なかった。辺野古を堂々と語れないから、行けなかったのだ。

11月29日、四万十市に名護市稲嶺市長と屋比久議長を迎え、「連帯・交流の集い」を開いたさい、2人は、総選挙で自民党は誰も当選しないだろうとはっきりと言っていた。私は知事選勝利の直後とはいえ、連続しての勝利はそう簡単ではないだろうと思っていたが、本当にそうなったので、正直驚いた。

これまでとはステージが変わったのだ。
これだけ完璧に県民の意思が示されたのだから、政府もあきらめるしかないだろう。
そうでないと、自民党を崩壊させる「蟻の一穴」になるだろう。

オール沖縄は本物だ。
今回の総選挙の真の勝利者は沖縄である。

菅原文太の遺言

 菅原文太が亡くなる直前、11月1日、沖縄県知事選挙で翁長候補の応援に行き、おこなった演説(要旨)を、以下紹介します。菅原文太は名護市辺野古への米軍新基地建設に反対していました。


 今日は自分から立候補してピッチャー交代、知事交代ということで押しかけてきました。プロでない私が言うのだから、あてになるかわかりませんが、政治の役割は二つあります。
 一つは、国民を飢えさせないこと。安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと。
 私は小学校の頃、軍国少年でした。なぜゲートルを巻いて戦闘帽をかぶってヤリを持たされたのか、今振り返ると本当に笑止千万です。もう二度とああいう経験は子どもたちに・・・、大学生も、大勢の将来大事な大学生が戦地へ運ばれて半数が帰ってこなかった。
 仲井真知事は、まさに戦争が起きること、戦争をすることを前提に沖縄を考えていた。現知事は今最も危険な政権と手を結んだ。沖縄の人々を裏切り、公約を反故にして辺野古を売り渡した。
 古い映画だけど、「仁義なき戦い」の最後で、裏切り者の山守に「山守さん、弾はまだ残っとるがよ」というせりふをぶつけた。「仲井真さん、弾はまだ一発残っている」とぶつけてやりたい。
 沖縄の風土も、本土の風土も海も山も空気も風も、全て国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古も然り。勝手に他国に売りとばさないでくれ。
 アメリカにも良心あつい人々はいます。中国、韓国にもいる。その良心ある人々は国が違えど同じ人間だ。皆、手を結びあおう。
 今日来ている皆さまもそのことを肝に銘じて実行してください。それができない人は沖縄から、日本から去ってもらおう。

名護市長の信念

 友好都市サミットで先日、四万十市を訪れた沖縄県名護市・稲嶺進市長に、一般市民との交流会を事前にお願いしたところ快諾をもらい、公式行事後実現した。

稲嶺市長から現地報告。国土面積0.6%の沖縄に米軍基地74%が集中しているが、どれも沖縄が望んだものはなく、銃剣とブルドーザーで奪われた。財政負荷等からいま米軍は沖縄兵士を削減しようとしているのに、日本政府がこれに抵抗。新基地をつくってやるから居続けてほしい、それが辺野古であり、普天間の代替というのはごまかし。基地機能は強化される。アメリカにいい顔をするための犠牲が沖縄。もういいかげんにしてほしい - がオール沖縄の気持ち。先の沖縄知事選挙はその表れ。

同じ日本にありながら、沖縄の基地問題はどこか遠い国の話と思われているのではないか不安であり、この交流会はうれしい。

稲嶺さんは琉球人らしく、物腰は柔らかく口調はとつとつとしていたが、それだけに強い信念と燃える怒りがうかがえた。

全国の新聞をチェックしているが、高知新聞は沖縄問題に関心をもってくれているので、高知県には親近感をもっているとのエールも。

 オール沖縄をオール日本にしなければならないと思う。


高知新聞「声ひろば」投稿
2014.12.5

高倉健と菅原文太

 先月、高倉健が死んだ時には何とも思わなかったが、菅原文太も死んだとなると書かずにはいられない。

2人は国民的スターということになっているらしいが、私は俳優としての2人には特段の想い入れはない。ファンでもなかった。それどころか、良い印象はもっていない。2人のやくざ、任侠道シリーズ映画はビデオやテレビを含めて、いまだ1本も見たことがない。

私が一番好きな映画監督は山田洋次である。「幸福の黄色いハンカチ」、「遥かなる山の呼び声」に登場した高倉健の渋みのある演技には、やくざイメージを乗り越えた奥深さを感じた。両作品は名作として歴史に残るであろうし、高倉健もその主役として名が残るであろう。しかし、それは数ある名優の中の1人、あくまで銀幕の中=架空の世界での俳優として、である。

菅原文太については、高倉健ほどにはイメージチェンジで大きな話題になった作品はないと思う。

菅原文太は、俳優を引退してから、気になりだした。オヤと思った。いろんな社会的発言をしだしたからだ。戦争、平和、脱原発・・・およそ私がいだいていたイメージとはかけ離れていた。特定秘密保護法や集団的自衛権反対のアピール等にも名を連ねていた。先月の沖縄知事選挙では翁長候補の応援にも行っていたという。

なぜ、どうしてそんな発言、行動をとりだしたのか。新聞によると、俳優引退直後から岐阜県や山梨県で有機農業をやっていたというし、その延長でいろんな発言をしだしたのだろうか。そのあたりのことを詳しく知りたいと思っていたのに。

しかし、よく考えれば、私にはやくざ映画イメージが強かっただけに、その落差を覚えただけであって、彼の発言は決して突然変異的なものではなく、彼の生い立ち、職業としての俳優時代等のさまざまな人生経験の中で培われてきた「思想」であったのだろう。そこに人間菅原文太の誠実さ、あたたかさ、親近感を覚える。

一方、高倉健は俳優高倉健しかしらないまま逝った。人間高倉健はベールにつつまれたまま。近寄りがたいイメージしかない。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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