続 土豫銀行跡地問題

旧土豫銀行跡地活用問題については、昨年9月14日付ブログにも書いた。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-105.html

しかし、その後も進展はない。

建物解体作業は予定通り昨年いっぱいで終わり、年明けから、天神橋商店街アーケード通路との境界に壁がつくられた。壁なしで放置をしておけば、雨風が吹き込むし、野ざらしの土地がむき出しに見え、商店街の景観上も営業上も問題があることから、しばらく壁をつくることはやむを得ないと思うのだが、それにしても頑強な壁をつくったものだと思う。

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壁は暫定的なものであるはず。壁の建設にも撤去にもかなりの工事費がかかる。だとすれば、あまり費用がかからないような程度のものでいいと思う。しかし、ごらんの通り、太い鉄骨と基礎コンクリートと、えらく立派なものになった。

ということは、しばらく撤去をするつもりがないということであり、跡地活用計画もいますぐには考えないという、市の意向を示したものと言える。

 私の市長時代、市にこの土地建物を無償譲渡してくれた山泉脩さんが、昨年10月、東京から帰省をされていた。いまの市執行部には会ったことがないというので、私がご案内をすることにした。あいにく市長は出張中だったので、副市長に会い、山泉さんを紹介した。併せて、土地建物を譲渡していただいた経緯等をあらためて説明した。山泉さんからも直接伝えた。

以前、銀行裏に山泉さんのご自宅があり、そこに最後はお母様がおひとりで住んでおられた。お母様は、天神橋商店街をはじめとする中村のまちなかの賑わいが失われていくことに、大変な寂しさをもっておられた。そこで、この土地を活用して、まちに賑わいを取り戻してほしいというのが、遺言だった。

しかし、副市長からは、跡地利用の具体的計画案は聞けなかった。高速道路が延伸しているので、これにあわせて市街地全体をどう再開発をしていくか、これから考えないといけないので、それにあわせて検討していきたいというものだった。つまり、それはかなり長期的なものであり、いますぐには活用策は考えていなし、考えるつもりもないという意味にとれた。実際、市長も12月議会で同様の答弁をしている。いまは検討するスケジュールも決めていない、と。

こんな悠長なことでいいのだろうか。先のブログにも書いたとおり、私は、当該跡地周辺一帯を再開発し、映画上映等多目的ホールを中核とする、新たな街並みづくりを考え、公約として提示していた。まちなかに賑わいを取り戻すためには、人が集まってくれる施設をつくる必要があると考えたからだ。しかしながら、この計画については、その後は検討すらなされていない。

現執行部は、あらためて広く意見を求めると言って、おととし、市民や観光客向けにアンケートをとった。しかし、アンケート結果については、公表されないまま、ウヤムヤになっている。あのアンケートは何だったのだろうか。

 中村は、かつては「おまち」と言われ、近郷近在からの人であふれ、その賑わいはものすごいものであった。しかし、いまは市街地の空洞化が進み、アーケード街はシャッター通りになってきている。

中村のまちは四万十市だけでなく、幡多地方の顔であり、シンボルである。「おまち中村」の復活なくして、四万十市や幡多地方の繁栄はありえない。「里も栄えてまちも栄える」「まちが栄えて里も栄える」。里とまちは一体である。

そんな中、天神橋商店街の一等地という土地の提供を受けたことは、市街地に賑わいを取り戻す、絶好のチャンスである。それなのに、何らその活用策を打ち出そうとはしない、いまの市の姿勢は、知恵がないのか、ヤル気がないのか。また、土地提供者の好意に応えるつもりもないのか。行政としての責任放棄である。

地域の再生に向けて、残された時間はない。
いますぐ、具体的作業に着手することを望む。

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満州 大清溝

  「広報四万十」2012年6月号より

 そこは旧満州の最奥地であった。
五月一日から五日まで、西土佐日中友好訪問で旧満州大清溝へ行ってきました。目的は大清溝江川開拓団で犠牲になられた方々の慰霊です。

 太平洋戦争下、国は満州開拓団を重点的に送り出す特別指導郡を全国に十二、四国では幡多郡を指定し、北幡に指導が集中。昭和十七年、江川崎村は先頭を切って村を分ける「分村移民」を断行。大陸に渡った総勢百十八戸、四百二十九人のうち、敗戦後の困難な引き揚げの中で七割以上の方々が亡くなりました。 
 
西土佐村では日中国交回復後、昭和五十九年から慰霊訪中団を派遣しており、今回が六度目。四万十市長として同行するのは初めてです。 

 一日目。一行十二人は関西空港から遼寧省の首都瀋陽市へ。二時間半。日本人には旧名奉天のほうがなじみ深い。中国で人口五番目の重化学工業都市だが、メーデー三連休で静か。バスで隣の炭鉱の町撫順に移動。飢餓と病気により引揚者収容所で二百三十七名という最大の犠牲者を出したところ。旧工業学校であった収容所跡地を訪ね慰霊のローソクと線香を焚く。露天掘りの大山炭鉱をのぞきながら引き返し、瀋陽泊。

 二日目。吉林省長春市へ。列車で二時間。窓の外に黒い大地が続く。山がない。長春(旧新京)は旧満州国時代の首都。旧政府や関東軍本部、満鉄などの建物がそのまま残っている。ここから開拓団のあった樺甸市大清溝までは車で行くしかない。途中の市の中心部まで約三百キロ、四時間バスを走らせる。見渡す限り平原と丘陵。一面トウモロコシ畑。種まき作業中だ。遠くに野火が立つ。樺甸泊。 

 三日目。大清溝をめざす。バスでさらに九十キロ、一時間半。松花江を渡ったあたりから山が迫ってくる。北朝鮮につ
ながる長白山系、日本の高原のような色だ。大清溝とは開拓団がつけた地名であり、いまの地図にはない。現地名は松花江の支流木箕江に沿った暖木条子、腰甸子、下帽児、荒溝の四集落だ。

 開拓団は現地人ですら入植しようとしなかった未開の奥地を開墾。役場(団本部)、学校、診療所、神社もできた。北海
道の旭川と同じ緯度であり、農作業ができたのは五月から十月まで。半年は雪と氷に閉ざされ、零下三十度を超えた。

 いまでは国道は舗装され、車も行きう。しかし、一歩集落内に入れば、人間は牛馬と同居している。道は泥んこ、牛馬
の糞がいたるところに落ち異臭を放っている。家の垣根も板を立てただけ。テレビなど電化製品がある家は一部のようだ。馬車にサトウキビと人間を一緒に乗せて走る風景。自分が子供のころにタイムスリップしたようだ。

 これまでの訪問でなじみの人も多く、家から写真を持ち出してきて話がはずむ。ここらは日本人が最初に開拓をした
ことをみんな知っており友好的だ。当時の学校寄宿舎がそのまま残っており、診療所に使われていた。

 いまの日本と変わらないような都市部と昭和三十年代(戦前かも)のような農村風景。違うのは農村に若者や子供が
多いこと。農村重視こそ中国の底力だろう。四集落それぞれ畑の片隅で慰霊。夜もホテルの一室で慰霊。樺甸泊。

 四日目。同じ樺甸市内の廟嶺を初めて訪問。引き揚げ途中合流した京都開拓団の拠点であった場所だ。開拓は侵略。現地人の襲撃にあい、最初の犠牲者十六人を出した。過去の訪中では反日感情に配慮して避けていた。地名が変わっていためあちこちバスを走らせて、赤い夕陽が沈むころやっと発見。川に花束とビールを流し、念願を果たす。暗闇の道を四
時間引き返し、長春泊。

 五日目。長春空港から大連経由で関西空港へ。夜八時、江川崎に帰る。
 あっという間の五日間であったが、ズシリと心に重い旅であった。

 戦争と農民。開拓団は鍬の戦士であった。津大村も吉林省飲馬河に開拓団を送っている。この歴史は四万十市が引き継がなければならない。 両村開拓団の記録は今回も団長役で引率してくださった武田邦徳さん(西ケ方)が編集された『さいはてのいばら道』(昭和六十一年、西土佐村刊行)に詳しい。

 
 「広報四万十」~「市長談話室」
 2012年6月







宮尾登美子の満州(4-終)

 昭和21年9月、満州から1年半ぶりに日本に引き揚げてきた宮尾一家(当時は前田)は、夫の実家のある吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市春野町)に戻る。

夫は戦中教員をしていたが、実家は農家であった。実家には夫の母と祖父がいた。以後、宮尾は「農家の嫁」としての生活が始まる。小説「仁淀川」にその様子が書かれている。

実家はいわゆる小百姓であったため、農作業は母が主体であり、夫は教員をやめ地元農協に勤めながら母を手伝った。宮尾も少しは手伝ったようだが、小さな子をかかえていたこともあり(帰国3年後には二女も生まれた)、百姓仕事ができない「町から来た嫁」として、母もあきらめていたようである。

農村の因習に馴染めず、また姑との確執の中で、宮尾は村の保育所の保母や、高知市社会福祉協議会の仕事をしている。満たされない気持ちの中で、少しずつモノを書き始める。最初は、満州での体験を書き残したかったからという。宮尾は文学少女だったというほどではないにしても、小学校や女学校時代、家では本好きな子だったようである。

文芸誌へ投稿する中で(当時のペンネームは前田とみ子)、昭和37年、小説「連」で女流文学賞を受賞。ペンで生きることを決め、家を出て離婚。高知新聞記者(宮尾氏)と再婚し上京。売れず飛ばずの10年後、小説「櫂」をステップに文壇の大御所に登り詰めた。

・・・・・・

宮尾登美子は我欲の強い人だった思う。父の職業(娼妓紹介業)がいやで、若くして結婚。満州は自らも望んだものだった。それなのに帰国後は農家の嫁にはなりきれず離婚。ペンで生きるため再婚して上京・・・芯が強かったというより、最後まで我を通した。

それは作品にも反映している。自伝4部作に限った話だが、主人公(宮尾)の心の動きや、身の回りの描写はきわめて詳細かつ深い。女流作家特有と言うべきだろう。しかし、その時代背景や社会情勢等については、抑制的というか、ほとんど触れられていない。淡々と生活を描く、その裏ににじみ出る時代の襞(ひだ)をうかがうからこそ、すごみがあり、それが文学だと言われるかもしれないが、私にとっては物足りない。

満州での生活を書いた「朱夏」は、満州開拓団の記録としても貴重である。私は開拓団といえば悲惨で気の毒というイメージを抱いてきたが、難民生活はそれだけでなく、互いに助け合うという世界にはほど遠く、自分だけは生き延びたいと言う、人間の強欲がむき出しになる、醜い修羅場だったということ。また、みんなが引き揚げ船に載ったのではなく、いろんな事情から大陸に残ることを望んだ者もいるということ、など。・・・しかし、戦時下の軍の動きや戦局については、鳥瞰的な記述しかない。

こうした小説手法は、宮尾が意識して採用したものではなく、もともと宮尾にはそうした視点がなかった、関心がなかったからだと思う。というのも、宮尾はエッセイ集「つむぎの糸」で、実際の私生活において、選挙にはほとんど行かないと書いているし、時事問題等にふれたものもない。

先にも書いたように、宮尾の作品は大半が映像や舞台にも登場している。しかし、満州前後を書いた「朱夏」「仁淀川」は例外である。地味で暗い内容は、エンターテイメントに脚色のしようがないということだろう。

私は自伝4部作以外の作品は読んだことがないし、これ以上いますぐには読むつもりもない。「序の舞」「天璋院篤姫」「蔵」「クレオパトラ」などの有名作品は、いずれも歴史上実在した人物を独自の視点で描いたもののようだ。宮尾がこうした分野に注力したのは、私の勝手な推測だが、それをどうしても書きたいというよりも、多分に「売れる」「読まれる」ことを意識したものではなかったかと思う。だから、その作品はドラマチックで映像等になりやすい。

自伝の中の「櫂」「春燈」にしても、娼妓紹介業という、世間一般から言えば興味をそそられる父の仕事が作品のベースになっている。自分の出所を明らかにすることには勇気がいったであろうが、「作家になりたい」「有名になりたい」から、あえて暴露したものであろう。

しかし、「朱夏」「仁淀川」は、地味でおもしろくもなく、読んでもらえないかもしれないけれど、世間に認められる作家となった以上、その責任を果たすため、半ば義務的に書いたものではないだろうか。そこに作家としての良心と言うべきものがあると思うし、同じ高知県人として、救われる気がする。

また、飢えの極限まで追いつめられた体験は、強欲で我儘な人間の本性を浮き彫りにするという宮尾文学の幹を大きくする肥やしになったのだろう。

その意味で、作家宮尾登美子の代表作は、満州戦後を書いた「朱夏」と「仁淀川」であると思いたい。  (終)

宮尾登美子の満州(3)

 小説「朱夏」は、そのリアルな描写で、満州開拓団の引き揚げ記録としても貴重なものである。飢えの極限まで追いつめられると、人間の本性が出て来る。家族の中でも自分だけは生きたい。子どもを現地人に売る者も出てくる。きれいごとでは生きられない。修羅場での人間の強欲。宮尾も民家の軒先に干してあった服を盗んで、それを食料に交換したこともあると告白している。

しかし、私は、それでも宮尾の難民生活は、まだましというか、多分に運に恵まれていたと思う。

まず、大土佐開拓団は新京(現・長春)の近郊、鉄道沿線という交通至便地にいたこと。脱出のさいは、鉄道は止まっていたので、徒歩によった。団員は入植区画ごとに4グループ別々に行動した。宮尾ら教員家族は吾川郡(神谷村、清水村)の人たちに合流した。鉄道沿いに、隣駅の九台まで数時間歩き、そこからトラックに載って営城子へ。炭鉱社宅跡に収容され、越冬する。この間、現地人の襲撃からは免れた。

食料がないのはどこも同じだが、営城子では、わずかながら高粱のスイトンの配給はあった。また、スチーム暖房も。真冬は零下何十度の世界では、暖房があるかないかで生死を分ける。

さらに宮尾は、ずっと一緒だった夫が炭鉱の使役に出て、わずかながらも賃金が入った。当時、開拓団員でも教員でも、若い男はほとんど現地で兵隊にとられていたが、夫は視力に少し難があったことから免れていた。

同じ高知県でも、大土佐開拓団より先行した、幡多郡江川崎村開拓団(現四万十市)や十川村開拓団(現四万十町)は、満州でも交通の便の悪い奥地に入植させられたことから、脱出はすべて徒歩で難渋を極め、途中現地人の襲撃にあい身ぐるみをはがされ、裸同然で越冬(暖房などない)し、飢餓と病気(発疹チフス)で、団員の約3分の2が命を落としている。現地人に追い詰められ、自決した者もいる。

それに対して、小説「朱夏」では、飢えに苦しみ、着替えはなし、風呂ももちろんない生活が描かれてはいるものの、周りの団員がゴロゴロと死んでいったということは書かれていない。

私は市長時代の2010年5月、江川崎村開拓団が入植した場所を、生き残りの人たちと一緒に訪ねた。吉林省樺甸県大清溝は長春駅から約400キロ。貸し切りバスで6時間もかかる山間部だった。途中、大土佐開拓団入植地の飲馬河の近くも通った。(この記録は後日アップしたい)

宮尾たちは、昭和21年9月、営城子から新京、コロ島へと移動。そこからアメリカ艦船で佐世保に入港。1年半ぶりに日本の土を踏んだ。

乳飲み子の娘を含めて、家族3人が命を落とさずに帰れたことは、高知県の開拓団の中では、希有なケースだと思う。      (続く)

宮尾登美子の満州(2)

 宮尾登美子が満州に渡ったのは昭和20年3月。日本敗戦のわずか5か月前である。

宮尾は大正15年(昭和元年)、高知市生まれ。娼妓紹介業という父の仕事がいやで、早く家を出たかったことから、高坂高等女学校卒業後、17歳で代用教員として吾川郡池川町安居国民学校(小学校)に赴任。愛媛県境に近い、山の中の僻地であった。そこで先輩教員に見初められ、わずか4カ月後の昭和18年、18歳で結婚。これも実家から逃れたいためであった。ここまでが、小説「櫂」、「春燈」に書かれている。

当時、高知県からは多くの満州開拓団が編成され、大陸に渡っていた。夫は、この開拓団の中につくる国民学校に赴任することになり、家族3人(長女が生まれていた)で渡満した。

その開拓団は大土佐開拓団といって、高知県で最も規模の大きい開拓団であった。『高知県満州開拓史』(1970年)によれば、大土佐開拓団は、県下10か町村で編成し、昭和19年3月~20年5月にかけて、1441人となった(家族含む)。10か町村は、安芸郡6町村(安芸町、羽根村、川北村、井ノ口村、吉良川村、野根村)、吾川郡2村(神谷村、清水村)、幡多郡2村(津大村、大正村)であった。

入植先は、吉林省九台県飲馬河(インバホウ)。「満州国」の首都・新京(現・長春)の近郊で、鉄道で1時間ほどの鉄道沿線であった。見渡す限り山のない大平原は、現地人が開墾した田畑であったが、これを日本が買収し、開拓団に与えたもの。実際は、安い価格で強制的に取り上げたものであった。

大土佐開拓団は、広い耕地を、出身地ごとに4区画に分け(安芸郡2、吾川郡1、幡多郡1)、分散して居住した。住居は、これも現地人を追い出したあとのもの使った。

子供たちのための小学校も飲馬河駅近くにつくった。宮尾家(当時は前田家)は、学校近くの教員用住宅に入った。子供たちの家は遠く、低学年の子は通学ができないことから、寄宿舎もつくった。

開拓団員は家族総出で農業に従事する。団員は高知県の山間部で、狭い土地しかもっていなかった者が大半。満州に行けば広い土地がもらえるとの宣伝で来たことから、みんな家族総出、必死で汗を流した。

しかし、教員は開拓団員ではない。教員には給料がでる。宮尾は教員の妻として、家にいて、乳飲み子を育てるのが仕事であった。寄宿舎の賄いは別に人を雇っていたので、宮尾の仕事ではなかった。子どもがまわりにいることから、親代わりというよりも、子どもたちと一緒に遊んだ。

宮尾は生まれも育ちも高知市の下町のお嬢様であった。農業には縁がなかったし、土にさわったこともなかった。それでも開拓団の中にいれば、土に汚れることもあると思うのだが、あくまで「教員の奥様」として、そんなことはせず、箪笥にいっぱい詰め込んできた服を、毎日着替えて、楽しんだりする、気ままな若妻であった。

そんな様子が小説「朱夏」に書かれている。しかし、そんな生活も突然の敗戦で一変。混乱の中での引き揚げとなる。飢えと寒さの中での難民生活・・・(続く)

宮尾登美子の満州(1)

 作家宮尾登美子が昨年暮れ亡くなった。88歳。宮尾は高知県生まれ。しかし、私はこれまで彼女の作品は一つも読んだことがなかったし、読む気もしなかった。

私は彼女にいいイメージをもっていない。読んだこともないのに、こういうのは変かもしれないので、正確に言えば、彼女の作品が原作となった映画やテレビにいい印象をもっていないということだ。

彼女の出世作は「櫂」(太宰治文学賞受賞)。娼妓紹介業(女衒(ぜげん))の家に生まれた自分の生い立ちを書いた自伝的作品で、これを起点にして、彼女は「陽暉楼」「鬼龍院花子の生涯」「春燈」など、土佐の花柳界やそれを取り巻く任侠の世界にスポットをあてた作品が一つの塊り(かたまり)になっている。

宮尾の作品は、ほかにも歴史上個性的な生き方をした女性を独自の視点で描いた作品も多いようだ。いずれも映画、テレビ、舞台等に何度も登場している。宮尾作品は映像や舞台に使いやすいというのがもっぱらの評判らしい。

 私も高知県の人間である。だから、それらの映像の中でも、最初のころの、「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」が特に気になる。中でも、夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」のセリフで有名になった「鬼龍院・・・」。

私は原作にこのセリフがあるのかどうか知らない。映画の脚本だけかもしれない。しかし、このセリフでどれだけ土佐のイメージが傷つけられたことか。土佐弁は激しい言葉だとされているが、実際は、あんな場面で「~ぜよ」と使うことはない。土佐人と言えば、酒ばかり飲んで、粗野で野蛮で短気と思われてしまうように描かれている。

私は当時、高知県を離れていたので、自分の大切なふるさとが、そんな野蛮な描かれ方をするのがたまらなくイヤだった。土佐と言えば明治維新や自由民権。目の前に広がる太平洋の先を見通す、進取の精神は、剛毅な気性につながっている。しかし、剛毅と野蛮は別物である。「なめたらいかんぜよ」以降、坂本龍馬のTVドラマなどでも、やたら変な土佐弁を強調するため、耳についてしょうがない。

さらに、気に入らないのは、高知県の観光PRにおいても、これらの映像やイメージを利用し、上乗せしていることである。龍馬を全面に出し、観光スタッフが普段使わないような土佐弁を無理に使う。ゼヨゼヨ、キ―キ―、が氾濫しており、そこまでやるのかと、見苦しい。

私はこうした現象の出どころ一つが宮尾作品だと思っている。

しかし、そうは言っても、宮尾登美子と言えば、文壇の大御所。その死が大々的に報じられ、新聞、TVなどで追悼特集がいまも続いている。ならば、私も読んでみなければと思った。自分勝手かもしれないイメージを検証するためにも。

 私は宮尾登美子について、以前から気になっていることがあった。それは、彼女が満州開拓団の引き揚げ者であること。

高知県からは大勢が開拓団として満州に渡った。特に、幡多郡北部(北幡)からが多い。私は学生時代、北幡の開拓団について調査をしたことがあり、またその後市長時代、江川崎村開拓団(現・四万十市西土佐)の旧満州入植地への慰霊の旅に同行したこともある。開拓団の歴史については強い関心をもっている。

彼女はなぜ満州へ渡ったのか。どんな生活、どんな引き揚げだったのか。それが作品全体の根っ子にどうつながっているのか。

私は今年になってから、彼女の自伝4部作を読んでみた。生い立ちから満州引き揚げを経て、作家として自立するまでが書かれている、「櫂」、「春燈」、「朱夏」、「仁淀川」である。それと、彼女にとっての土佐を覗くことができる、高知新聞に連載したエッセイ集「つむぎの糸」も。   (続く)

「農協改革」の本音

 いま、国会で農協改革がさかんに議論され、関係法案が提出されようとしている。私は長年、農協組織の一員(農林中央金庫)として仕事をしてきた。これまでも農協組織はいろんな組織改編・改革をおこない、私も直接間接にかかわってきたので、今回の議論の特徴と問題点を指摘したい。

まず、今回の議論の発端は農協側から提起されたものではなく、政府側から一方的に出てきたものであるということ。特に官邸(安倍首相)の意向が強く反映している。

その最大の理由はTPPである。いま米国とのTPP交渉は難航。アメリカの姿勢は強硬で、このままでは日本側がコメなど主要農産物の関税大幅引き下げなどの譲歩をしない限り、合意はむずかしい。しかし、農協は一貫してTPPに反対している。妥協合意をすれば農協の反発が大きいため、この農協の抵抗の力を削ぎ、農協組織を弱体化させねばならない。これが本音である。

農協攻撃のターゲットは全中(全国農協中央会)の監査機能に向けられている。全中は農協組織の中枢機構であり、農協法にもとづいた指導・監査業務を行なっている。

政府の言い分は、この指導監査は、個別農協を締め付け、自由な事業展開を制約するものであるから、一般の公認会計士らに監査を受けさせるように変えるべきというもの。

 農協は協同組合である。協同組合の基本原則は「一人は万人のために、万人は一人のために」。農家一人一人の力は弱いものだが、組合をつくり組合員となって、力をあわせることによって助けあう。相互扶助によって力を強くする。個別農協だけの力は弱いので、販売購買、信用、共済、厚生などの事業ごとに都道府県レベルで連合会をつくり、さらに全国連合会をつくることによって、全国統一組織としている。

政府(官邸)の狙いは、この農協組織を、個別農協の自主性尊重という名目のもとに分断しようというものである。

では、個別農協がそれを望んでいるのか。そんなことは聞いたことがない。農協は全国ネッワークをもつことによって、強みを発揮しているのだから。

全中による農協監査は農協法にもとづく国家資格である。農協の業務は組合員の生活全般にわたって責任をもつという目的から、販売購買、信用、共済など事業は多岐にわたっており複雑。だから、それぞれが農協法にもとづいて適正におこなわれているかをチェックし指導するには、豊富な専門知識と経験が必要である。一般の公認会計士ではとても対応ができないものである。仮に公認会計士に任せるとすると、膨大な時間と費用がかかる。このため、農協からも公認会計士による監査を希望する声はない。

現場農協からの要求も希望もないのに、政府がこれに固執するのは、ただ一つ、全中の指導力を削ぎたいから。つまり、TPPへの妥協合意後の農協の反発を抑えたいからである。

個別農協の多角的な事業展開については、民間事業との競合を招いている実態等があることから、国民や市民、また組合員の中にもいまの農協に対して批判があることを私も知っている。

しかし、そうした人たちにもよく考えてほしい。
今回の「農協改革」は、そうした声を逆手にとって、TPP合意による、日本農業の海外への売り渡しをたくらんでいるものであるということを。
このままでは、安全な食糧も、国民の安心も、失われていくことを。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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