NHKの沖縄報道

 NHKの報道番組は、つくづく政府の広報だと思った。

3月25日夜、NHKテレビ「ニュースウオッチ9」を見た。大越キャスターが現地沖縄から辺野古基地問題を報道するという触れ込みがあったからだ。

大越キャスターは、沖縄県庁でその日の昼、翁長知事へのインタビューを行ない、事前に収録したと思われる、政府の菅官房長官インタビューとセットで、双方の言い分を紹介。両者の主張の溝は埋まらず、ますます対立は激化していると、コメントした。

そして、問題の経過については、19年前の日米両政府による普天間基地の移設合意を起点として説明。辺野古基地問題は普天間の危険除去のための「移設問題」であると、繰り返し述べていた。こうした視点は政府のプロパガンダそのものである。

問題の核心は違う。太平洋戦争において、唯一本土決戦となった沖縄(国土面積の0.6%)において、戦後、日本の米軍基地の74%が集中しているという実態が歴史的起点であり、その上に、普天間にはない巨大軍事機能付加された基地がつくられようとしている。「移設」ではなく、「新たな」基地なのだ。

そして、「もういいかげんにしてほしい」という沖縄県の民意は、この間の一連の選挙で明確に示されている。政府は、その民意に耳を貸さず、翁長知事とも会おうともせず、無理やりに工事を進めている。政府が言う「粛々と」は「強引」の意味。民主主義の否定である。

そんな問題の核心への突っ込みをNHK は行なわず、「両者の対立深まる」と、「公平」を装うことによって、実質的には政府見解への誘導を図っていることは見え見えであった。

 さらに、番組には仕掛けがあった。
大越キャスターが那覇空港から中継していたことである。基地問題に絞った報道かと思っていたら、突然、沖縄経済の問題に変わった。

那覇空港はいま、中国、台湾、東南アジアを結ぶハブ(中継)空港として、24時間ひっきりなしに、飛行機が発着している。貨物便が多く、ここで荷物を積み替えて、また飛び立つ。これに伴い、沖縄を訪れる観光客等も増加しており、沖縄県経済はいま日本で一番活況を呈している。那覇の国際通りの土産物屋では売上が増えていると、店主の笑顔を流していた。また、沖縄県は全国一出生率が高く、人口も増えていると・・・

私は、いま沖縄にとって、いや日本にとって、最も切迫している重要問題は、辺野古基地問題であるから、NHKには基地問題に絞って、その歴史的背景や、いまの県民の声などを、掘り下げてほしかった。

なぜ、沖縄県経済の問題をセットで解説しなければならないのであろうか。NHKの意図は明確。基地問題へ国民の関心が集中するのを、そらしたいから、焦点をボカしたいから。沖縄は、国からの特別な振興予算をもらい、景気もいいのに、なぜ基地問題ではわがままを言っているのか、ふざけている・・・そんなふうな、世論をつくりたい。沖縄の声と日本の世論を分断したい。

しかし、沖縄の景気がいいというのは一面的な見方。きのう(27日)、厚生労働省が発表した2月の有効求人倍率では、沖縄県は全国最下位の0.78倍である。また、沖縄県の人口増加率がずっと高いのは、沖縄戦で20万人が亡くなったことが影響している。

沖縄米軍基地はいまの沖縄県経済にとって、大きな阻害要因になっていることは、多くの県民が実感している。だから、「基地はもういらない」が「オール沖縄」の声になっている。

 昨年11月29日、稲嶺進・沖縄県名護市長を本市に迎え、「名護市と連帯する四万十市民の集い」を開いたさいも、稲嶺さんは、そのことを強調するとともに、沖縄のことが他県ではほとんど報道されず、辺野古の実態が国民に広く知られていないことを心配していた。(昨年11月30日付ブログ参照)

政府は「毒を食えば皿まで」の姿勢。沖縄県との全面対決による法廷闘争を有利に進めるため、急ぎ既成事実を積み上げることによって、いまさらどうしようもないと、諦めさせたいのだ。

沖縄は従属の歴史。
琉球王朝は、江戸時代、侵略により薩摩藩の支配下に置かれた。太平洋戦争では、唯一の本土決戦の場となり、アメリカの統治下、銃剣とブルドーザーでほしいままに基地をつくられた。そして、今度は自分たちの国、日本政府によって、チュら海(美しい海)を埋め立て、新たな基地がつくられようとしている。

いま、日本政府が一番恐れているのは国民世論。
マスコミ対策に必死である。

われわれが沖縄のために、できること。
それは、沖縄問題に関心を寄せること、沖縄の真実を知ること。
沖縄を知ることは、日本の民主主義を守り、日本の平和を守ることである。

八紘一宇と高知家

3月16日、自民党国会議員の三原じゅん子氏が国会質問の中で「八紘一宇」という言葉を使い、これを礼賛した。

「八紘一宇」とは、太平洋戦争当時、日本がさかんに使った言葉で、「世界は天皇の下の同じ家族」という意味。アジア周辺諸国への侵略を合法化する大義名分として使われたスローガン(思想、理念)のようなもの。

私は、たまたま車を運転中、ラジオの国会中継でこの言葉を聞いて、驚き、耳を疑った。まさか、戦後70年、軍国主義の亡霊のような言葉が、飛び出してくるとは。三原氏は、租税回避のための日本企業の海外移転に対して、日本は建国以来大切にしてきた「八紘一宇」の価値観を大切にしなければならないという趣旨の提言であったのだが、この言葉が歴史的にどのように使われてきたのか、知らないで言ったとすれば、無知と恥をさらけたものだが、タレント議員だけに、まだかわいらしい。

しかし、知ったうえで言ったとすれば、空恐ろしい。3月20日、国会答弁で安倍首相が自衛隊のことを「我が軍」と言ったのは、本音がポロリと出た、つまり、背広の下から鎧(よろい)が覗いたものであろうが(これはこれで大問題)、三原氏の八紘一宇発言は、堂々と持論を述べたものだけに、トンチンカンな時代錯誤発言ではすまされない。従軍慰安婦問題や、戦後70年首相談話がどうなるのか注目をされている最中であるだけに、である。

こうした発言が飛び出してくる背景には、与党絶対多数の国会運営へのおごり、慢心がある。憲法9条改正に向けて、自信を誇示しているとしか思えない。

 ところで、「八紘一宇」という言葉を聞いて、私は「高知家」について日頃から感じている違和感にピンポーンときた。

「高知家」とは、高知県が一昨年から取り組んでいる、プロモーション(キャンペーン活動)のこと。「高知県は一つの大家族ながやき」というキャッチコピーで、高知県民のあたたかい「おもてなし」、特産品等の「おすそわけ」を全面に出し、観光客や移住者を積極的に呼び込もうという作戦である。高知県民は一つの大家族であり、県民総ぐるみで県外の人たちに対しても同じ家族のように、あたたかく迎えようというものである。

鉱工業生産高全国最下位、人口も下から3番目の高知県にとって、観光や移住促進に力をいれるのは私も大賛成である。いごっそう、ハチキン、酒に強く、開放的で友好的という県民性も定着したイメージとなっている。私は全国を転勤してきたから、自信をもって、その通りと思うし、私はこれを誇りに思っている。

しかし、そのことがなぜ、「高知家」につながるのか、私にはしっくり来ない。行政の枠組みで言えば、確かに一つの同じ県ではある。しかし、高知県は、人口は少ないが、面積は四国で一番広い。海岸線は室戸岬から足摺岬まで弓のように長い。そびえ立つ急峻な山々もある。四万十川、仁淀川、物部川の三大河川はそれぞれ特徴がある。それだけに、地域ごとに、言葉や食べ物から人間の気質まで微妙に違う。特に、私が住んでいる幡多地方の言葉(幡多弁)は、いわゆる土佐弁とはイントネーションがまるで違う。幡多では「高知家は一つの大家族ながやき」とは誰も言わない。「・・・大家族やけん」と言う。

要するに、県内各地は文化、歴史等がそれぞれ異なる。だから、高知県は、安芸家、本山家、須崎家、佐川家、中村家、宿毛家・・・などの集合体と言える。それぞれの家には独特の家風や伝統などがある。

県という枠組みの中で、もろもろの統一的な施策を行なうべきことは当然であり、観光や移住促進においては特にそうである。その際、高知県の特色などをPRポイントに出すことは有効であることに異論はない。

しかし、「高知家」と言うのならば、「愛媛家」や「徳島家」だってあり、全国どこでも「○○家」はある。高知県だけの専売特許ではない。

それと、「家」という言葉にはいろんな意味や響きがある。確かに、同じ家族として包み込む、あったかイメージをもつ人もいるだろう。しかし、いわゆる家制度、つまり封建的な家父長制をイメージする人もいるだろう。私にはこのイメージのほうが強い。家制度では、家長がその家の代表であり絶対的な権威をもつ。茶道や華道の家元制度も同類である。その究極の例が「八紘一宇」であり、天皇が家長とされ、世界に君臨する思想である。「高知家」の家長はだれであろうか?

「八紘一宇」と「高知家」に共通するのは、「下から」ではなく「上から」の発想であるということ。各地域や人々の特色や個性を尊重するというよりも、それらを統一的に把握したいというトップダウン的な考え方のように思える。

このように「家」という言葉には多様な響きがあり、それに伴いいろんな価値判断が入る。そのような「難解な」言葉は、県の統一キャンペーンとして使う言葉としては、ふさわしくないと思う。

「うどん県」(香川県)、「おんせん県」(大分県)、「晴れの国」(岡山県)のような例ならば、シンプルで誰でも共通のイメージをもつ。こんなキャッチコピーのほうがいいのではないだろうか。

泰作さんと羽生山

 きょうはじめて、泰作さんの墓を訪ねた。
泰作さんの墓は、中村の市街地を見下ろす羽生山にあることは知っていた。一度は訪ねてみたいと思っていたが、ずっとそのままになっていた。きょうは彼岸の中日。ご縁のある方のお墓参りにお供した。そのお墓は羽生山にあるので、帰りに少し横道に入った泰作さんの墓も訪ねた。

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「泰作さん」と言っても、中村の人以外はほとんど知らないであろう。知っている人でも、中村の土産物になっている、藤屋本舗(泰作さんの縁筋)のお菓子の名前としてのほうが有名かも知れない。

泰作さんこと中平泰作は、江戸の幕末に生きた中村の商人だった。商人と言っても大店(おおだな)ではなく、周辺の山間地の家々(郷の人)にいろんなモノを売り歩く、行商人(あきんど)だったようだ。

泰作さんは「テンクロー」だった。ここらの言葉で「ほら吹き」のこと。口が達者で商売上手。実直な農民などに、うまいことを言ってモノを売りつけるだけでなく、ちゃっかりもらいものをするのが得意だったとか。それでいて、憎めない、ひょうきん者だった。

だから、いろんなトンチ話が残っている。上林暁に「泰作咄」という小説がある。また、地元教員OBグループが発掘収集した「幡多の昔話」や「幡多昔むかし」にも載っている。最近では、中脇初枝がインターネットでも紹介している。
→ http://www.webfukuinkan.com/magazine/790

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私は若いころ大分県で仕事をしたことがある。そこにも、吉四六さんと言って、おもしろい話が伝わっていた。吉四六さんも江戸時代に実在した農民であり、人気者だった。吉四六さんが主人公の県民オペラもつくられていた。

泰作さん夫婦の墓は小さく、ポツンと座っていた。案内看板もあった。妻文政2年(1819)、泰作さん安政4年(1857)没、と刻まれていた。泰作さんは長いこと男やもめだったようだ。笑いの中に、悲しさがある。

 私が羽生山に登ったのも今日が初めて。
羽生山といえば、この間、3回開いた「中村の百年写真展」の中で私が最も気に入ったのが、昭和初年頃と思われる、羽生山から中村の町を一望した写真であった。一條神社のこんもりした杜を中心に、白と黒の瓦の家並が続いている。その先には、旧制中村中学(現・中村高校)の新築間もない校舎が見える。「おまち中村」を象徴する、ほれぼれする写真である。

 昭和4年の中村~1

当時は羽生山から、こんな写真が撮れたのだ。しかし、いまは竹や雑木、ヒノキが高く伸び茂り、うっそうとした暗い林になっているため、とても中村の町を眺望することができないのは残念であった。

上林暁が「四万十川の青き流れを忘れめや」の詩的断片を書いたのも、昭和初年、この山に登った時であった。いまでは四万十川も望めない。
山は荒れ、お墓も荒れたものが多かった。

同じように中村のまちも荒れ・・・
とは思いたくない。
そうさせてはならない。

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ブログの長さ

 私のブログは長い、もっと簡潔に、というコメントをいただきました。同様のことを、直接言われたこともありますので、そう思っておられる方が多いようです。

貴重なご意見をありがとうございます。確かに長い文章は読みづらい。私も同感です。本や新聞などの活字と違って、インターネットで読む文章は特にそう思います。

私としても、せっかく書いているブログは多くの人に気持ちよく読んでもらいたいので、今後、なるべく短くするよう、努力をいたします。

そのうえで・・・少し、私の言い分も。

私もいろんなブログを読んでいますが、十人十色、いろんなブログがあります。総じて、毎日アップされている方は、日記ふうにサラリと短く書いている。写真を多用される方が多いです。一方、たまにしか書かない方は、私以上に、長々と書く方が多い。専門分野にこだわって書かれる方は特にそうです。

私はブログと並行してFB(フェイスブック)も行なっています。FBのほうを早く始めました。FBは原則毎日アップするよう心がけています。なるべく写真を使って、文章は極力短く、日記がわりにしています。

これに対し、ブログのほうは、日頃から思っている社会問題など、いろんなテーマで自由に書いています。FBで書いた記事を、後日ブログで詳しく展開することもあります。ブログは、必ずFBにリンクさせています。

というふうに、ブログとFBを使い分けています。
できることならば、ブログもFBと同じように毎日書きたいのですが、それはなかなか大変なので、ブログは一週間に1~2回を目標にしています。

ということで、ついついブログのほうは、長い記事になってしまいます。
勝手ながら、ご理解をいただければ幸いです。
できれば、FBのほうもごらんください。

それよりも、少々長い文章でも、読みごたえがあれば、長く感じないものです。そんなブログを書けるようがんばりますので、今後も懲りずに、お付き合いをいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

東北被災地視察報告

 「広報四万十」2011年8月 より

 東北被災地視察報告
 川をのみ込む大津波
 北上川 堤内12キロ浸水


 7月9,10日、東北被災地を視察してきました。(総務課防災係山崎係長、正岡職員同行)

 < 気仙沼、陸前高田、南三陸 >
最初に仙台空港から宮城県気仙沼市へ。レンタカーで東北自動車道一関インター経由、2時間半。四万十市ふるさと応援団員、小野寺太一さん(四万十川ウルトラマラソン、2007年優勝者)と合流。お父さんも一緒の案内を受ける。
 小野寺さんの住宅は高台にあったが、港のそばのお父さんの事務所は流失。家族は全員無事だったが、漁業の伯父さんが船ごと犠牲になられた。
 港近くに集中する市街地は、石油タンクから流出した油による火災で、空襲を受けた跡のような黒焦げ残骸の山。船も打ち上げられたまま残されていた。

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 半島の一山を北に越えると、隣の岩手県陸前高田市。町並がそっくり消えていた。景勝高田松原で一本だけ残った松も枯れかけていた。町そのものを高台移転させるか、基本的なことが決まらないと手がつけられないのでは。

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 翌日は、単独で海岸沿いの国道45号を南下。沿岸の集落は大小問わず全滅。JR気仙沼線のレール、橋も跡かたなく、目を覆う光景が続く。大谷、歌津を経て南三陸町の中心部志津川へ。陸前高田と同じく、町がなくなっていた。 

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 志津川高校の避難所を訪問。仮設住宅もできていたが、入居をめぐってのむずかしい実情などを聞いた。
 急ぎ、視察の最大の目的地、石巻市旧北上町、旧河北町の新北上川下流域へ向かう。

 < 北上川下流域 ― 四万十川にそっくり >
北上川は全長249kmで全国4位。昭和9年、治水工事で旧北上川と分流させ、両岸に山が迫りながらのゆったりとした流れは、四万十川の下流域にそっくりだが、復旧中の河口防波堤に立つと、四万十川よりも河口部はずいぶんと広い。

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 河口部左岸の吉浜地区(下田と同じ位置)は津波の直撃を受け、市支所兼公民館、吉浜小学校は跡かたもなし。
 津波の遡上は上流50km、堤防決壊による堤内浸水は12kmまで。四万十川でいえば、それぞれ江川崎、入田桜堤、岩田(後川)あたりだからものすごい。北上川には、両岸に竹島川、深木川と同じような支流があり、ともに水門付近から堤防が1km、4kmにわたって決壊。山の張り出しが少し違うので、四万十川でいえば下田側は河口から竹島、井沢、八束側は実崎、山路あたりまで、堤防のない不破、角崎も浸水したことになる。
 上流4kmの位置に新北上川大橋(全長566m)があるが、橋げた3分の1が流され、橋の上流500mのところに残骸をさらしていた。橋は四万十川大橋と同じ位置であり、右岸たもとには全校生徒の7割、84人(教職員含む)が犠牲となった大川小学校があったが、そこは八束小学校、保育園の位置そのものであった。

 画像 174     石巻市 大川小学校

 大川小学校前で両親を失った男性(56歳)の話を聞いたが、過去の地震はこのあたりまで津波が来たことがなく、市のハザードマップでも浸水地域に入っていなかった。すぐ山がありながら避難場所も決まってなく、避難訓練もしたことがなかった。津波が川を遡ってくるのを見てから逃げたが、大半の人は間に合わなかったという。
 今回の視察は、地震後4か月たっていたので、堤防や防波堤の修復はかなり進んでいた。しかし、流域では約1m地盤沈下したこともあり、堤内に越流した水はポンプ車を総動員して排水をしたものの、河口付近の水田はいまでも冠水したまま。住宅の復旧はまだこれからというところであった。
 

<過去の経験は禍(わざわい)となる>
 今回の地震に共通をしているのは、経験が禍をしたこと。過去の三陸沖地震やチリ地震では来なかったという高さにまで、津波が押し寄せた。北上川と四万十川の下流の地形はよく似ている。1946年の南海地震では大きな津波は来なかったが、今回まざまざと見せつけられたように、大地震では津波は川を押し上げて来るものである。これを肝に銘じておく必要がある。
 事実、1707年の宝永地震では、「下田、亡所、潮は山迄、山際に屋具ばかり残る。初崎、潮は山迄、一木一草残ナシ」(「谷陵記」)と記録されている。
 いまの堤防や橋は洪水を想定して設計されているため、津波には弱い。新北上川大橋は、下から持ち上げられるように浮きあがってから、ねじれるように流されていた。
 四万十川の堤防は、北上川の堤防と比較すると高く設計はされているが、川管理者の国土交通省によると、現地調達の河床土等を多く用いているほか、 かさ上げ、拡幅が繰り返されていることから、堤防の土質構成は複雑、不均質であり、強度、安全性において問題を抱えている。
 また、地震で堤防にひびが入るだけでなく、地盤沈下や液状化により、堤防が沈下するなどして、繰り返し押し寄せる津波で押し上げられた水が堤内に侵入するという二次被害の危険性は十分にある。中村、具同、古津賀あたりがそうした箇所である。
 次の南海地震では、本市からは一人の犠牲者も出してはならない。そためにも、海岸部の下田、名鹿、初崎はもちろんのこと、これまでの経験から油断があるとみられる四万十川沿いの津波対策も、しっかりと取り組んでいきます。
 川をのみ込むのが津波です。




3.11 映画「日本と原発」

 きょうは3.11。あの日から4年。
 四万十市では、去る3月8日、「3.11 メモリアル 高知・四万十集会」を開いた。主催は、市民グループ「脱原発四万十行動」。映画「日本と原発」上映、市内デモ行進、討論会(スピーカー4人、木村俊雄、島岡幹夫、山崎秀一、山下正寿)があった。この中で、私が最も刺激を受けたのが、映画「日本と原発」。副題は「私たちは原発で幸せですか?」

この記録映画は、河合弘之ら弁護士グループが製作(監督も河合弁護士)。弁護士が映画をつくることはめずらしいが、それだけに見応えがある。2時間15分があっという間であった。

河合弁護士は、大飯原発再稼働差し止め裁判の担当弁護士。この裁判では、昨年5月、福井地裁が原告の主張を全面的に認めた判決を出した。原発は事故が起きたさいのリスクを考えれば、再稼働をすべきではないという、きわめてまっとうな判決であった。この判決を導いたのが河合さんら。裁判は論理と実証で争う。弁護士がつくる映画には、原発の再稼働を認めてはならないことの「論理と実証」が明快に示されている。

1953年、国連総会で「原子力の平和利用」が発信されて以降、国をあげて原子力開発に取り組んできた日本。「夢のエネルギーが明るい未来をつくる」と信じて疑わなかった。しかし、3.11で、その夢は無残に砕かれた。

 フクシマからの避難は、地震津波でガレキに埋まりながらも生きていた人々の救出作業を放棄して行なわれた。その無念、無慈悲を浪江町長が涙ながらに語っている。故郷を追われても、帰るあてもない人たち・・・「国破れて山河なし」

いま、国内の原発54基はすべて止まっている。電気は足りている。なのに、なぜ再稼働の必要があるのか。そこには「原子力ムラ」の事情がある。このムラの目的は電気をつくることではない。原発をめぐる利権構造が、そのまま国の支配構造につながっている。その図式をチャート図でわかりやすく解説。

 
世界では、アメリカ、フランスなどにも原発がある。しかし、両国は地震がない国。かたや、世界地図で真っ赤に塗られた地震の巣の日本列島。

原発廃棄物(核のゴミ)の処分方法も決まっていない。「トイレのないマンション」と同じ。原子力規制委員会は「原発を再稼働させるための委員会」。

最近も明らかになったフクシマからの汚染水の、海への垂れ流し。なのに、安倍首相はオリンピック誘致のためには「完全にコントロールされている」という大ウソをつく。

何万年という核の生命力に比べれば、たった4年など、ほんの「まばたき」に過ぎない。しかし、日本人は、はや3.11を忘れようとしている。いや、忘れさせられようとしている。巨大な再稼働キャンペーンの流れに易々と乗せられている。

この映画は「脱原発を学ぶ」映画。
きわめてわかりやすい。ぜひ多くの方に見てほしい。
映画の貸出大歓迎だそうです。
全国での自主上映をお勧めします。

まず、この映画ホームページをごらんください。
http://www.nihontogenpatsu.com/


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大学生の就職活動

 3月は卒業シーズン。1日には、地元の中村高校、幡多農高などで卒業式がおこなわれた。さらに、あちこちで卒業式が続く。

あわせて、1日からは、大学生の就職活動(会社主催就職説明会開催)が始まったようだ。昨年までは、大学3年の12月解禁だったものが、経済界の「申し合わせ」で、今年は3か月遅れてスタート。これに続く面接などの選考活動の解禁も、4月→8月に変更された。しかし、報道によると、この「申し合わせ」は形式的なものであり、実態は先行して学生と接触をする企業も多く、学生は不安をかかえているという。

思えば、私が大学生のころ(1972~76)は、「就職協定」という、企業間で強制力をもったルールがあり、私の就職活動が解禁されたのは大学4年の9月であった。

この「就職協定」は1996年に廃止され、フリーとなった。しかし、バブル崩壊後の就職氷河期の中で、学生側のあせりや企業側の思惑もあり、就職活動が無秩序に早くなったので、最近また、ゆるやかな「申し合わせ」が復活しているようだ。

私の経験から言えば、就職活動の開始は大学4年生からで十分であり、遅いほどいいと思う。なぜなら、大学生の本文は学業であるからだ。4年間は、しっかり勉強をしてほしい。

 大学で学ぶとはどういうことか。
フ―テンの寅さんこと、車寅次郎はすごいことを言っている。なぜ、大学に行かなければならないのか悩む甥の満男から相談を受けて、

「人間長いこと生きていりゃいろんなことにぶつかるだろう。な、そんな時、オレみたいに勉強をしていない奴は、この振ったサイコロの目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがないんだ。な、ところが勉強した奴は、自分の頭でキチンと筋道をたてて、はてこういう時はどうすればいいのか考えることができるんだ。だから、みんな大学に行くんじゃないか。そうだろう。」
(映画 「男はつらいよー寅次郎サラダ記念日」 1988年)

私はこれまで何度か採用する側の立場で大学生の就職面接をしてきた経験がある。就職氷河期と言われて以降、比較的最近のことである。そこで驚いたのは、学生生活で自分をアピールできることは何ですか?と質問をすると、自分はいろんなアルバイトを通して社会勉強をしてきたと、自慢げに答える学生が結構いたことである。私は、こんな学問分野でこんな勉強をしてきたという答えを期待していたのだが。

家庭の事情から、アルバイトをすること自体はやむを得ないことだろうし、そこでいろんな経験をすることは悪いことではないだろう。しかし、おカネを稼ぐ経験は、大学を卒業し、就職をしてからいくらでもできる。学生時代は、その時でしかできない勉強する絶好の機会である。アルバイトは副次的なものであるはずである。

 最近の大学は就職をするための専門学校化しているように思えてならない。就職が最大目的で、そのためのテクニックを学ぶ。

寅次郎が言っているのは、どんな仕事をしたいか、どこに就職をしたいかということも、もちろん含まれるが、仕事や就職は生活(生存)手段にすぎないとも言える訳であるから、もっと大きな社会とのかかわりの中で、自分の「生き方」をどう見つけていくかが大事だということである。

こんなえらそうなことを書くと、ではお前はどうだったのかと言われそうで、恥ずかしい限りだ。

また、就職活動は、その時の経済情勢に大きく左右され、学生たちにとっては、それに振り回されるのだから、そんな甘いものでなないと言われそうだ。

しかし、就職のために必死で走りまわっている最近の大学生の「風景」をテレビなどで見ると、自分の反省を込めて、人生の少しだけ先輩として、こんなことを書きたくなる。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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