四万十市合併10年を考える(7-終)

 中村と西土佐・・・市政運営において、私が最も苦労したのは二つの融合である。婚姻は書類だけ出せばいいが、一緒に生活を始めるといろんな齟齬や不一致がでてくる。合併とはそんなものなのだが、両者の場合、それだけではすまされない、根深い違いがあった。

地勢的にいえば、両者は四万十川の下流と上流でつながっている。海があるかないかぐらいで、自然条件も大きな違いはない。しかし、経済、文化、歴史など、つまり「人の暮らし振り」でいえば、大きな違いがあった。西土佐の大部分(中村に隣接する一部地域を除く)の実態は、愛媛県なのだ。

西土佐で「おまち」と言えば宇和島。買い物、病院、高校(一部)も愛媛県へ。市民病院といえば、宇和島市立病院のこと。葬儀場も、だ。伝統芸能の牛鬼も伊予文化。言葉のアクセントも幡多弁とは違う。西土佐は、愛媛県の経済文化圏や医療圏に属するのだ。

それも当然。中村に鉄道が着く前から、江川崎(西土佐中心部)は宇和島とレールがつながっていた。道路にしても、いまでも車で、江川崎―中村は約1時間かかるのに、宇和島は40分で行ける。普通の西土佐の人が中村に出かけるのは、車の免許証の書き換え手続きくらいである。

道路については、「合併支援道路」として、中村―江川崎間の国道441号の整備を急ピッチで進めているが(県事業)、これの完了には、まだ20年はかかる。完了したとしても、一部通勤者や観光には歓迎されるかもしれないが、西土佐の人の生活の流れが変わるとは思えない。それが歴史の重みというものである。

西土佐では、行政の進め方(村づくり)においても、独自のものがあり、先にも書いた通り、区長会(自治会)や農業制度(園芸作物価格安定基金)などでは、中村側との統合に強い抵抗と不満があり、協議には多大な時間と労力を要した。

成人式については、私が在任中、合併10年をメドに統一する方向で同意をもらっていたが、その後、これがくつがえっている。いま成人式を2会場でおこなっているのは県下でここだけ。四万十市の未来をになう青年が、一つになれないことは、憂うべきことである。

そんな西土佐であるから、合併においても、村を二分する論議が行なわれた。北幡3町村(ほかに、大正町、十和村)や、さらには愛媛県松野町も合併候補としてあがったこともあったが、中村側からの強いラブコールで、いまの形になった経緯がある。

・・・あれから10年。合併から10年。

いま、四万十市の人口は38116人→35305人へ、7.4%減少。
内訳は、中村エリア6.2%減に対して、西土佐エリア18.2%減である。

もし、合併せず、自力の途を選んでいたとすれば、両者それぞれ、どうなっていただろうか。人口は一つの指標だが・・・

私は思う。
合併とは2人で一つの家庭をつくること。新しい四万十市としての「家風」をつくること。それらに対して家族みんなが、誇りや親しみ、一体感をもつこと。

しかし、2人が育った環境が違えば違うほど、そのハードルは高い。書類だけの仮面夫婦や、別居結婚ならいいかもしれないが、本当に合体した夫婦になるのはやさしいことではない。

私は最も大事なものは文化だと思う。道路や建物のような目に見えるものではない。文化とは心であり、四万十市民共通に胸にいだくものである。

中村市は、小京都の歴史から、その文化を「一条文化」と呼んできた。昭和59年制定し、市民の心の拠りどころとなってきた「中村市民憲章」は、「日本一の清流四万十川の美しい自然と、一条文化に育まれてきた中村市は」の書き出しで始まっていたが、これを引き継いだ「四万十市民憲章」では、「・・・美しい自然と、先人の残した誇り高き文化を継承する四万十市は」に変えられた。

独自の文化の表現が消えたのだ。仮に、この合併が旧大方町とだったならば、「一条文化」はそのままだったであろう。中村と大方は、いまでも実質同じようなものだから。

いまの時代、人ならば相性が悪ければ離婚し、人生をやり直すことは簡単だが、地方自治というものは、そんなものでなない。もう後戻りはできない。ならば、これから「一条文化」と「伊予文化」を融合した、四万十市の新しい文化をつくることができるか。

合併時に作成した「新市建設計画」(10年)に続く、「四万十市総合計画」(10年)がこのほどできた。このキャッチフレーズは、「人が輝き 夢が生まれる 悠久と躍動のまち 四万十市」となっているが、これでは文化の「におい」がしない。また、合併11年目にあたる、平成27年度予算の市議会への説明のための「市長説明要旨」にも、文化にかかる政策やフレーズはなかった。文化はどこへいってしまったのだろうか。

私は四万十市の「文化の入れもの」である市立文化センターの建て替え事業に着手していた(平成25年度、建設基金積立開始)。また、「おまち中村」の復活につながる、土豫銀行跡地周辺の市街地再開発計画も提唱していたが、残念ながら、その後、立ち消えになったままであり、今後の展望すら示されていない。

四万十市が今後発展できるかどうかは、市民が四万十市に誇りをもてるかどうか次第である。市民の心が一つになれる新しい文化をつくれるかどうか。
それにかかっていると思う。

 (終)

四万十市合併10年を考える(6)

 合併とは何だったのか。この10年間をどう評価すべきか。そろそろ結論を急ぎたい。

繰り返すが、この合併には理念のようなものはなく、国からカネをもらうことが目的であった。そのカネの効果は、狙い通り大きかった。

第一に、合併特例債の発行枠88億円が与えられたこと。これをハード事業に使えば70%返済免除。第二に、交付税の合併算定替といって、本来削減される交付税額が、合併すれば10年間猶予された。四万十市は、この額が毎年平均約6億5千万円だった。

四万十市は、こうした特典を最大限活用した。すぐに市役所本庁舎の建て替え(39億円)に着手。私になってからも、西土佐支所・消防分署建て替え、西土佐道の駅建設のほか、中村小学校改築、武道館新築などに充てた。これで懸案であったハード事業のかなりの部分を賄うことができた。

仮に、合併がなかったとすれば、これらすべてを短期間で達成することはできなかった。全国をみても、これだけ積極的に特典を活用した例は少ないであろう。

合併の評価のポイントは、住民(市民)の暮らしや生活等が、これによって、良くなったかどうか、である。その意味では、各種施設の改築等が進んだことは、その利用等で市民が恩恵を受けることから、メリットといえる。

 しかし、他に合併メリットをさがすのは難しい。
市の財政規模が拡大した(一般会計予算が200億円を超えた)こともあげられるが、これは旧市村の予算額を合わせた額であり、合併で純増したわけではなく、まとまった予算を重点的に使えるようになったぐらいであり、メリットといえるほどではない。

また、職員数の削減、行政事務等の効率化等については、西土佐村役場が総合支所に格下げになったことに代表されるように、住民サービスの低下になっていることは間違いない。

このことについて言えば、自治体の行政サービス等は、小さな単位あればあるほど、その地域の実情に合った、きめこまかな対応ができることから、本来、自治体の規模は小さいほどよい、ことは皆が認めるところであろう。地方自治の基本は小さな自治体である。

しかし、都市部への人口移動(東京一極集中等)による過疎化や、人口減少、高齢化等による税収減等により、自治体運営が難しくなってきた。また、国のほうでも自治体をコントロールしやすく、また地方交付税も削減できることから、自治体の数は少ないほうが都合よい。だから、合併を誘導する。誰も合併をしたい者はいないが、せざるをえないように追い込まれているのが実情である。

「合併をしないと潰れる。夕張のようになる」
政府だけでなく、合併を進めたい首長は住民の不安をあおった。

そうした中、合併を選択するにしても、相手をどこにするか。縁組は、人の場合もそうであるように、理念や目的だけでなく、育った環境、つまり地理的条件や文化・歴史等を共有しているとうまくいきやすい。
四万十市の場合、どうだったのだろうか。

  (続く)

四万十市合併10年を考える(5)

 私が市長を務めたのは、合併5年目からからの4年間。前市長が「市庁舎を建て替えるために合併した」と公言したくらいだから、私が就任した時点では、新市としての新しい事業は、他にはほとんど行なわれていなかった。

旧西土佐村地域においては、それが顕著だった。西土佐の人たちは、新市になって良かったのは水道料金が下がったくらいと不満を言い、端々(はしばし)は切り捨てられてしまうと不安を抱いていた。

それもそのはず。西土佐総合支所(旧西土佐村役場)の建物は、旧中村市役所庁舎と同じように老朽化していたのに、その建て替え計画はなく、合併の条件にもなっていなかった。また、合併の目玉として、前村長が公約していた「道の駅」構想も、建設場所すら決まらず、棚上げ状態になっていた。

これでは、西土佐村は、中村市役所の建て替えのために、利用されただけではないか、と思った。

私は人事異動で支所の体制を強化し、これら「西土佐問題」の解決に取り組ませた。視点を変えれば、打開策は見つかるもの。支所建物および消防分署の移転建て替えと、道の駅の新築の3点セットの計画案が、ほどなくできあがった。

「西土佐問題」は他にもあった。旧村時代から続いている園芸作物価格安定基金制度は、西土佐の農業を支えてきた価格保障制度であるが、今後どうなるのか、検討されないままで、農家は不安を抱いていた。

この問題については、中村側にも規模は小さいが、類似の制度があったので、双方の農家代表に参加をしてもらう検討委員会をつくり、西土佐側の制度の基本枠組みを維持する形で、両制度を統一して残すという案をまとめた。

また、双方の区長会(自治会)を統一することも難題であり、手つかずのままであった。中村の制度では、区長さんはあくまでボランティアが基本であるのに対し、西土佐では、村の職員に準ずる位置づけ(准公務員)であり、報酬も多く、両者には、水と油の違いがあった。双方の長い歴史の違いからくるものであるから、互いに言い分があり、協議には双方たっぷり汗を流してもらったが、段階的に統合していくことで、そのスケジュールを決めた。

合併の実態。
カネがほしい。そのためには、合併特例法の適用期限までに、急いで合併の「形」をつくるのが先であり、肝心の中身はあとから考える、しかし、合併後もそれを先送りしてきた、それが四万十市の姿であった。

 (続く)














四万十市合併10年を考える(4)

 新しい革袋には、新しい酒を入れなければならない。新しい四万十市を動かす理念・コンセプトである。

私は「里も栄えて街も栄える」という言葉をさかんに使った。中村の町は幡多の中心。15世紀、京都から下向してきた公家の一條家がつくった、「土佐の小京都」。商業の町である。そのお客さんは、近郷近在の農山村から集まって来る。第一次産業が支えてきた「おまち」。町と郷との交流・往来によって、ともに繁栄をしてきた歴史をもつ。私はこれを「いちじょこさん経済」と呼んだ。過疎高齢化が進む山間地でも人が暮らし続けられるようサポートをすることによって中心部(まちなか)も栄える。

すぐに始めたのが農商工連携事業。ぶっしゅかん(地元で採れる酢ミカン)や栗、野菜を使った加工品づくりである。新たな地域特産品として、いま販路を拡大中。また、四万十ヒノキのブランド化も流域自治体に呼びかけ。

地域単位に住民主体の健康福祉委員会も立ち上げ、支えあい、助け合い、健康・生きがいづくりを進めることにより、自分たちの力で地域を守る取り組みも始めた(健康福祉推進事業)。山間地の足を確保するため、路線バスは使いやすい予約型のデマンド交通(ミニバス、タクシー)に切り替えた。

私は四万十市を「清流に歴史と文化を映すまち」と呼んだ。四万十川の清流と、一條文化は市のシンボルである。自分たちのまちの自然、歴史、文化等に自信と誇りをもつこと、それが新市を動かすエネルギーとなる。「いちじょこさん150周年事業」や「幸徳秋水刑死百周年事業」などに取り組んだ。

交流人口の拡大をめざし、「四万十市ふるさと応援団」の募集も始めた。四万十ファンのネットワークづくり。市ホームページも情報発信型に拡充し、FB(フェイスブック)も開いた。地域おこし協力隊を募集したら、これをモデルにTVドラマ「遅咲きのヒマワリ」の舞台にもなった。ふるさと納税もたくさん集まるようになった。

最大の公約、市民病院については、市民の命と健康に責任をもてる体制へ回復・拡充するため、医師の確保に最優先で取り組んだ。大学からの派遣がむずかしいのなら、自力で集めるしかない。地元出身者等の縁故、人脈等を頼りに直接アプローチ等を行ない、常勤医師はボトム6人から11人まで回復させ、休診中だった泌尿器科も復活した。夜間救急の再開には至ってはいないが、医療収入が回復したことにより、経営も一時の危機的状況からは脱し、赤字額も大幅に圧縮した。

そんな最中におこったのが、3.11東日本大震災。防災対策、とりわけ地震津波対策が緊急かつ最重要課題となった。私も東北被災地を視察。中村の町は昭和21年南海地震で、全国最多の291人の死者を出した。100年に一度必ずやってくる南海地震。庁内に地震防災課を新設。次の地震では一人の死者も出さない覚悟で、自主防災組織拡大、防災訓練、避難路・避難タワー整備等に取り組んだ。

 (続く)

四万十市合併10年を考える(3)

 合併による財政効果は大きかった。合併特例債の発行(起債)枠88億円が与えられた。これを使えば70%の返済は免除される。

澤田市長は合併後、たびたび「市庁舎を建て替えるために合併した」と発言。ただちに最大の懸案であった市庁舎を建て替え(同位置)に着手した。(総事業費39億円)

当時、もう一つの懸案があった。市民病院の経営問題。赤字が膨らんでいた。理由は医師の減少による収入減。医師臨床研修制度が変わり、徳島大学からの医師の派遣が難しくなったのが主な原因。ピーク18人いた常勤医師は6人まで減り、夜間救急は休止した。

合併特例債はインフラ、ハード事業にしか使えない。合併3年目の2007年には、市の一般会計から3億円を病院に投入。続く2年間は投入財源を職員の給与カット(1年目・市職員全員、2年目・病院職員限定)で充てた。

2009年4月、合併後2度目の市長選挙は、その渦中に行なわれた。私は澤田氏に挑んだ。合併問題は決着していたので、争点は合併後のまちづくりのあり方。

私は市政に臨む次の基本姿勢を公約とした。
① 対話を大切に市民の力を引き出す。
② 弱い立場の人を応援する。
③ 「地元で出来るものは地元で」、地元を優先する。
④ 四万十川を再生する環境・産業を育む。
⑤ 幡多の歴史と文化を育む。

選挙では市民病院をどうするかが大きな争点になった。

澤田氏は、病院問題は自己責任であり、赤字なら給与カット等の自己改革(身を斬る)でやるべきであり、今後市一般会計からの支援は行なわないと発言。その先には、病院の切り離し(民間委託等)の意図があるように思えた。

私は、病院赤字の主因は国の医療制度改革(研修制度)によるもの、市民病院は市民の命と健康を守るために必要であり、自己努力で足りない部分は市から財政支援する、医師の回復増員にも努力する、と主張。市民病院をいまの形態で守ることを約束した。

市民は私のほうを選んでくれた。私は四万十市2代目市長になった。

市長になり、実際の市政運営に携わって思ったのは、合併して4年、四万十市という新しい枠組みはできたものの、中身は中村市と西土佐村をくっつけただけで、新市としての内容が伴っていなかったことである。

合併にあたって、向う10年間を見通した「新市建設計画」をつくっていたが、これは、国への申請手続きのための必要書類のようなもので、短期間に仕上げことがアリアリ。「いきいき遡上!四万十市 ~かがやく笑顔、豊かな自然、やすらぎ溢れるまち四万十」というキャッチフレーズがついていたが、四万十市ならではの理念やコンセプトがなく、「こころ」や「想い」が伝わるものがなかった。

庁舎新築工事だけは、急ピッチで進んでおり、1年後には落成した。

 (続く)

四万十市合併10年を考える(2)

 小泉内閣による行財政改革。いわゆる三位一体の地方分権を唱え、強力な合併を誘導。1995年から約10年間で、全国の市町村の数は、3,200から1700に減った(40%減)。

中村市は、この「平成の大合併」の渦に巻き込まれたというよりも、これに積極的に乗っかったといえる。理由は、カネがほしかったためである。

人口減少による税収減等により、地方財政はどこも厳しい状況におかれていたが、中村市は特にそうだった。中村市には老朽化した市庁舎の建て替え問題が待ったなしの懸案としてのしかかっていた。しかし、カネがない。

政府が合併誘導のための飴(アメ)としてぶらさげた財政優遇策は「渡りに舟」であった。合併特例債は70%返済免除という破格の条件だった。また、以後、地方交付税が段階的に削減されるのに対し(鞭=ムチ)、合併すれば10年間、その削減が猶予(合併算定替)された。

 幡多地域の中核である中村市は、周辺に積極的に合併を呼びかけ、2003年、大方町、佐賀町、西土佐村との間で、合併準備のための協議会を立ち上げた。

しかし、大方町と佐賀町は住民投票で合併反対が多く、すぐに離脱。主な理由は、財政難の中村市と一緒になると赤字のツケを回されるというもの。1年で協議会は解散となり、合併構想はご破算となった。

しかし、どうしてもカネがほしい中村市の澤田市長(当時)は、その直後から、西土佐村に、4つがダメなら2つで合併しようと働きかけた。西土佐村では2度の住民投票を行ない、2度とも合併支持が多かったこともあり(2度目は僅差)、これに応じた。

当時(合併直前)の人口は、中村市3万4371人、西土佐村3745人。ざっと10対1であったので、澤田市長は、新しい市の名前は中村市を残したいと打診したが、西土佐村は、それでは村が吸収された形になると言って、これを拒否。中村市は、名前にこだわれば、縁組がまたも破談になることから、西土佐村の意向を受け入れた。

 ここで問題なのは中村市民の声である。最初の合併構想(4市町村)のさい、3町村では合併の賛否を問う住民投票を行なった。しかし、中村市では行なわれなかった。

中村市議会では、住民投票にかけるべきだとして住民投票条例案が提出されたが、市長与党はこれを否決。その背景には、市長は合併に熱心であったが、一般市民の関心はいま一つで盛り上がっていなかったことがある。規模の小さい町村とは住民にも温度差があった。

新しい市の名前は、市の内外から公募されることになったが、こんな状況であるから、票が集まったのは県外からのほうが多く、知名度の高い「四万十」になった。自分たちの市の名前を決めるのに、なぜ部外者の声を聞く必要があるのか、おかしな話である。人気投票ではないのだから。中村市となったら困るからであろう。

これについては、いよいよ合併が近づいた段になってから、市民から中村の名前がなくなるのはおかしいという声が出てきた。もうあとの祭りであるが、これを無視もできないことから、中心市街地(旧中村町)の町名(字名)の頭に「中村」をかぶせることで折り合いをつけた。中村天神橋、中村大橋通、中村小姓町、中村桜町など・・・。これによって、「中村市四万十町」は「四万十市中村四万十町」という訳のわからない名前になった。これには市民にも責任がある。合併論議に無関心であったツケである。

こうして、2005年4月10日、四万十市が誕生した。新市長には澤田五十六・中村市長、副市長には中平正宏・西土佐村長が就いた。ちなみに、その後、大方町と佐賀町も合併し、黒潮町になった。

  (続く)

四万十市合併10年を考える(1)

 きょうで四万十市が誕生してから10年になる。2005年4月10日(四万十の日)、中村市と西土佐村は合併し、新市として生まれ変わった。

きょうは合併10周年記念式典が市立文化センターで開かれ、私も招待され出席した。中平市長が式辞を述べたあと、市民表彰、記念映像上映、小学生による合唱等が行なわれた。

 思い返せば、10年前、私は農林中央金庫に勤務をしており、大阪にいた。この日を、中村市が消えた日として、はっきりと覚えている。寂しくて、悔しくて、しかたがなかった。転勤で全国をまわっていた私にとって、ふるさとはずっと中村市であり、誇りであった。

昭和50年代、四万十川が急に有名になった。家の前を流れる四万十川では、こどものころ、夏は一日中、泳いだり、魚を釣ったり、シジミを掻いたりした。この川にも誰にも負けないくらいの愛着がある。

その中村市が四万十市になり、私は動揺した。
中村も四万十も大好きである。しかし、「四万十」はあくまで川の名前だ。これでは、私のふるさとを「最後の清流四万十川の流れる中村市」として自慢できなくなってしまう。そんな気持ちを、高知新聞「声ひろば」に、「惜別中村市」の表題で投稿したら、「四万十市はなじめない名前」と変えられ、掲載された。私は、その後、いろんなテーマで高知新聞に投稿するようになったが、この時の投稿が最初である。

また、インターネットの「四万十川新聞」に、こんな歌も投稿したら、「四万十川百人一首」の一つに採用された。

 四万十にのみこまれにし中村市 ふるさとは町も川もおなじなれど

きょう4月10日は、四万十市の誕生日であるが、中村市と西土佐村にとっては命日なのだ。

 
その1年後には、四万十川上流に四万十町(高岡郡)も生まれた。窪川町、大正町、十和村の3町村が合併したのだ。二つの四万十・・・私の頭の中はさらに、かき乱れた。

悶々として3年を過ぎた時、私は心を決めた。市長選挙に出るために、2008年9月、55歳で仕事を辞め、地元に帰って来た。中村市が消えたのは、合併を選択したから。なぜ、合併をしなければならなかったのか。中村が衰退したのなら、その輝きを取り戻したい。中村を取り戻したい。

私は2009年5月、市長になった。
以下、市長としての4年間の経験から、合併とは何だったのか、考えてみたい。 

(続く)

山路渡し

 四万十川には、かつてはあちこちに渡しがあった。中村から下流だけでも、私が知っているだけで、山路(やまち)、竹島、下田にあった。

その中で、 私が一番お世話になったのが山路渡し。小学生の頃、不破八幡宮の秋の大祭には、実崎から、同級生たちと往復15キロの道を歩いて行った。途中、澄んだ川底に目をやりながら山路渡しを渡ったが、手漕ぎの舟が対岸の角崎に着くまでの胸の鼓動は何だったのだろう。

子供にとって、橋のない川の対岸は、自分の知らない別の世界であり、不安と期待が入り混じっていた。渡りきると、そのもやもやを、振り切るように、かけっこをして「八幡さん」に向かった。帰りには、川岸で手を振ると、舟が迎えに来てくれ、山路側に戻ると緊張感がほぐれほっとした。

当時、中村の赤鉄橋から下流には橋がなかった。しかし、現在では鉄道橋も含めてほかに4本も掛かっている。

 山路渡しが廃止になったのは、私が高校1年の時は渡った記憶があるので、昭和40年代だったと思う。竹島渡しは、その頃はすでになく、下田渡しは、その後も続いたが平成7年廃止になった。

最近は、川を車で簡単に渡れるので、対岸という感覚はなくなった。いまの子どもたちは、川を泳いで渡ったり、舟で渡ったりした時のあの感動はもはや経験できなくなっている。

このほど角崎に堤防ができた。山路側の舟着き場の跡ははっきりしている。角崎側はどのあたりだったろうかと思い、探してみた。川岸は竹藪におおわれ、近寄るのも容易ではなかったが、藪の中に、だいたいこのあたりであったろうと思われるところがあった。

 菜の花や 行き交う舟が夢の跡 

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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