倍賞千恵子 講演

7月27日夜、隣の土佐清水市夏季大学講師に倍賞千恵子が来るというので、聞きにでかけた。

倍賞と土佐清水は古い縁がある。だからであろう。会場の黒潮ホールはほぼ満員。1千人ぐらいか。人口1万5千人弱の同市としては、ものすごい。

その縁というのは、映画の縁。
倍賞は20歳で女優デビュー。これまで170本の映画に出ているが、21歳の時(1966年)の第2作目「雲がちぎれる時」(五所平之助監督)はここ清水が舞台だった。難所の伊豆田峠を通るバスの車掌役であった。相手役はバス運転手の佐田啓二。結婚を約束した直後に、峠からバスが転落し佐田は死ぬという(倍賞は助かる)、悲劇の物語であった。有馬稲子も出演。

ロケでは、本物のバスを谷へ落としたことで話題になったことを、私は覚えている。ロケは、一部中村でも行われた。この映画のことは、以前、このブログにも書いている。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-35.html

講演の冒頭は、その思い出話だった。多忙なスケジュールではあるが、清水にはぜひ来たかったと。54年ぶりだが、やはり東京からは「遠いですね」。

長いロケであったが、楽しい毎日であった。港は砂利で、サバ釣りをした。食べ物がおいしかったので、すぐに太り、映画では、目がほっぺで隠れていた。その目に、「もらいもの」ができた。地元の人がツゲのくしを畳でこすって目に当てるといいと言われたので、やったら、かえって悪くなったので、急遽眼科に行き、なおしてもらった。

ロケバスの帰りに地元エキストラを乗せて佐田啓二が運転をしたが、バスが傾き、危ない場面もあった。NGを連発させて、ここに長くいたかった。

講演会場には、当時、エキストラに協力した「おばちゃん」たちも来ており、倍賞とのやりとりがあり、友好的な雰囲気の講演となった。

講演の本題は「歌うこと、演じること、そして生きること」。
東京生まれで、子供のころから歌が好きで、松竹歌劇団に入り、歌手としてデビュー。女優としてのほうが知られているかも知れないが、ずっと歌手もやっている。いまは、コンサートも多い。会場でも歌を交えての話で、半分コンサート気分だった。

映画170本のうち、48本は「男はつらいよ」。渥美清さんは、実の兄のようで、いろんなこと教えてもらった。決して、えらそうなふりをせず、人の立場にたって考えてくれる、やさしい人だった。相手役の若い女優が緊張していると、楽屋まで迎えにいってやり、なごやかな雰囲気をつくったりしてくれた。

しかし、ある日突然、分厚い鉄のカーテンを降ろしていなくなってしまった。
以来、私は心に穴が空いあいたままだが、少しずつ埋めている。

明日は、東京にトンボ帰りせねばならず、足摺岬には行けない、とボヤキなが
ら、講演を終えた。

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西村ルイのこと 秋水最初の妻(3ー終)

 その後のルイはどうなったのか。実家で秋水からの離縁状を受け取ったルイは途方に暮れたことであろう。

世から消えてしまっていたルイの存在が再び浮かびあがったのは昭和五十七年のこと。朝日新聞が「幸徳秋水に忘れ形身」とスクープした。続けて高知新聞も。

記事によると、ルイは秋水の子を宿していた。ルイは東京にいた妹センを頼って再び上京。そこで大工職人の横田与八(明治十一年生)と出会う。横田はルイに同情し、自分の実家埼玉県栗橋に連れて行き、ルイは土蔵の中で女の子(ハヤ子)を産み落とした。二人は結婚し、ルイは横田の子四人(二男二女)も生んだ。中村に来た女性三人のうち二人は、横田の長男正一の娘である。

スクープは当時世間を驚かせた。しかし、その後ルイやハヤ子のことを詳しく追跡した記事は現れなかった。研究者にとっては大逆事件の本質とは離れた「事象」であり、また横田家に配慮した面もあったようである。

先の女性三人は、郡山に続いて、秋水が最後に逮捕された湯河原も訪ねている。この三人と横田みつゑさん(孫二人の兄嫁、朝日新聞スクープのきっかけになった情報を秋水研究者に提供。私は電話で聞いた。)の話を総合すれば、ルイの「その後」はこうだった。

ルイは大工棟梁の妻となり、浅草に落ち着いた。与八は腕のいい大工で、火事のあとの浅草仲見世再興や上野不忍池弁天橋建造にもかかわった。生活に余裕も生まれ、娘たちには三味線を習わせ、女学校にもやった。横田の親戚一族は舟で荒川、隅田川を下って浅草まで遊びにやって来てワイワイ賑やかだった。

しかし、与八は四十三歳で死ぬ。直後に関東大震災で家が倒壊。その後、長男正一が押上で始めたレコード喫茶が繁盛。ルイは芝居を見たり、避暑に出かけたりした。  

だが、またも戦争で一変。正一は出征。東京大空襲で焼け出され、正一妻の実家があった福島県平(現いわき市)に疎開。正一復員後七年たってもどってきた江東区大島では、新しく建てた自宅にアパートを併設。その頃、ルイは近所の子供たちにお菓子を配ってあげたりする、やさしいおばあさんであった。

正一は昭和三十三年、四十七歳で逝く。ルイも昭和四十八年、滝野川の病院で生涯を閉じた。九十二歳。墓は青山高徳寺にある。

小谷姓になっていた「秋水の娘」ハヤ子も朝日報道の翌年、八十一歳で没。ハヤ子は六人の子を生んだ。四男二女のうち二女がいまも健在である。

岡崎てるによれば、秋水の母多治はルイが素直で可愛いかったので、気に入っていた。始終、「あの子がいたら達者な人だったから子供も生まれたであろうし、子供さえあったら伝次(秋水)もあんな騒動はすまいに」と残念がっていたという。秋水は二度目の妻師岡千代子とも管野須賀子が絡んで離縁。その須賀子からも、最後、獄中で絶縁状を突き付けられている。

 今回わかったのは、西村ルイは明治十五年、旧久留米藩領だった福岡県黒木町(現八女市)に生まれ、同二十二年、福岡市へ転居。さらに、同二十七年、ルイ十二歳の時、福島県安積へ移住したこと。

西村家は江戸時代から続く黒木では名門の豪農であり、久留米藩から士分(武士の身分)を与えられていた。享保年間には、私財を投じて隣の矢部村山地を開墾した記録が「黒木町年表」(昭和六十三年刊)にある。屋敷には井戸が五つあり、ルイ兄弟にはそれぞれ乳母がついていたほどであった。しかし、西南戦争で西郷方に肩入れしたこともあって、次第に財を失い、福岡市(久留米藩領外)経由で福島県へ移ったものと思われる。正綱は移住後、視学官(教育行政官)をつとめたという。ルイは移住後三、四年で秋水と結婚(十五、六歳か)。ルイは孫たちには黒木の思い出は話したが、福島のことはあまり話さなかった。

ルイの兄(長男)西村軍次郎も、その後横田つながりで与八の妹ゑよと結婚。西村家の墓は今でも黒木の宗真寺にあり、正綱、軍次郎もそこに入っている。現当主(軍次郎孫)は久留米市の隣、佐賀県鳥栖市にいる。

ルイは「名門」の出であり、開墾地の「田舎娘」ではなかった。そんなルイがどんな糸で秋水とつながったのであろうか。引き続き調べてみたい。

なお、黒木の西村家跡地にはいま大藤が育ち、観光名所になっている。同所には酒蔵(後藤酒造)もあり、酒の銘柄は「藤娘」というそうである。

(終)

 「文芸なかむら」30号
 2015年7月刊 一部加筆

西村ルイのこと 秋水最初の妻(2)

 ルイの孫ら三人は中村で触発されたのか、戻ったあとも熱心に動いた。木原さんは中村の思い出、印象を高知新聞に二度投稿している。三人はその六月にはルイのルーツ探しに、福島県郡山市を訪ねた。ルイ出身地とされる三春辺の開拓地とは国営安積開墾地(現郡山市)。ここに入植した主力は九州の旧久留米藩士であった。
 
 安積開墾とは何か。以下は、鈴木しづ子「士族授産の政治的側面についてー国営安積開墾における久留米および高知士族入植の事情―」(福島大学行政社会学会論集、一九九五年)による。

 安積開墾は、明治十一年、大久保利通の提唱により、士族授産国営モデル事業として開始。旧久留米藩士百五六戸が入植。その大半は、明治四年の久留米藩難事件に関わった旧士族たちであった。

同事件とは、不平士族の反乱。藩内の尊王攘夷派が明治新政府の開国和親に反発し、藩主をかついで反政府クーデターを起こそうとした。彼らは鎮圧され、熊本監獄などに入れられたが、西南戦争で熊本が戦場になったことから、新政府に協力することを条件に釈放された。そのリーダーだった森尾茂助、太田茂らが安積開墾事業へ送り出されたのである。

三人が郡山市役所でルイの除籍謄本をとってみると、ルイは明治十五年六月九日、父西村正綱(祖父怒平)、母チツ(千鶴)の二女として生。住所は、明治二十七年二月十七日、福岡市天神より転住後、福島県安積郡喜久田村の太田伝方に同居となっていた。太田伝は母チツの実弟であり、太田茂は二人の兄であった。

開墾地跡には記念館があり、各藩の旗や入植者名簿が展示されていた。森尾茂助、太田茂の写真もあった。名簿に西村正綱の名がなかったのは、だいぶあとから(十六年後)開墾に合流したためであろう。

 そんなルイがどんな経緯で秋水と縁組をしたのか。秋水の従姉妹岡崎てるは「従兄秋水の思出」に「中江(兆民)時代の友人森田さんが好いというのを、君が宜ければそれでいいと簡単に結婚して了つた」と書いている。森田さんは画家だったとも。神崎清「実録幸徳秋水」には「中江門下の友人森田基」とある。森田基とはどんな人物か。この森田基と旧久留米藩グループと何らかの接点があったものと思われる。

一つの可能性として考えられるのは自由民権運動の接点。というのも安積開墾には土佐の民権家グループも入植していた。
立志社といえば土佐における自由民権運動の中核的存在であるが、その周りにはたくさんの地域結社があった。高知城下新町には、水野寅次郎をリーダーとする「共行社」があった。

明治十年、西郷隆盛らの蜂起(西南戦争)に呼応することを恐れた政府は立志社を弾圧(立志社の獄)。林有造、大江卓、水野寅次郎らを逮捕した。しかし、その後水野は無罪放免となり、これにあわせて共行社は立志社から分離。政府に協力する形で安積開墾事業に参加するのである。明治十四年、百六戸入植。

福島は高知と並んで自由民権運動が盛んだったところ。安積に隣接する三春には河野広中らがいた。河野は高知に来て板垣退助らに会っている。ならば、安積へ入った共行社は、政府に懐柔されたグループだったとはいえ、河野らと接触があったとは考えられないか。そうした人脈・ネットワークが東京の中江兆民門下生の森田基につながっていたのでは。あくまで推測だが・・・

 (続く)

 「文芸なかむら」30号
 2015年7月刊 一部加筆

西村ルイのこと 秋水最初の妻(1)

 三年前(二〇一二年)、一月二十四日。恒例の幸徳秋水墓前祭(没後百一年)に見知らぬ三人の女性が現れた。指名献花が順次行なわれたあと司会者が希望者もどうぞと促すと、三人は前に出て白い菊花を恭しく捧げた。

 その日は、NHKテレビの取材があり(Eテレ「日本人は何を考えてきたか―幸徳秋水と堺利彦」)、その姿がちょうどカメラに収まった。正福寺墓地には小雪が舞い、映像効果を上げていた。

 墓前祭終了後の交流会(市役所会議室)で三人の自己紹介を聞き、みんな驚いた。秋澤チヅさん(千葉、昭和十四年生)と佐藤栄さん(東京、同十九年生)は姉妹で、幸徳秋水最初の妻ルイ(別名朝子)の孫にあたるという。ルイが秋水に離縁されたあと再婚して生まれた長男の娘さんなので、秋水との血のつながりはない。しかし、姉妹は祖母が最初結婚していた相手、あの幸徳秋水のふるさとを一度は訪ねてみたいと思っていた。踏ん切りがつかないままであったが、新聞記事で墓前祭のことを知った姉の友人木原恵美子さん(小学校同級生、広島)から促され、高知駅で合流して来たという。

 姉妹がずっと抱いてきた想いは一つ。「おばあさん」は、なぜ秋水にたった一年ぐらいで離縁されてしまったのか。その疑問であった。姉妹は東京でルイと一緒に暮らしていた。子供の目にも「おばあさん」は常に凛として作法もキチンとしていた。両手を重ねる時は、相手に手の甲皺を見せないため手のひらを上に合わせる。大きな声は出さず、本をよく読んでいた。

 そんな話をきいて、私は以前から抱いていたルイのイメージとはまるで違うと思った。

 幸徳秋水は生涯三度結婚している。ほかに師岡千代子と管野須賀子(内縁関係)。この二人については数ある秋水研究書等でも生々しく描かれている。特に須賀子は激情の女、ともに絞首台に上った革命の同志、女性解放の魁などとして。また、千代子は、タイプは全く異なるが、著名な国学者の娘。秋水の原稿書きの手伝いもしている。秋水との生活の思い出を書いた「風々雨々」は名文、名作であり、その教養の高さを示している。

 それに対し、ルイの記録はほとんどない。当時の写真もない。秋水は何も書いていない。ルイを知る人物で、わずかに書き残しているのは友人小泉三申と従姉妹岡崎てるだけ。しかも、三申晩年の「懐往時談」ルイ離縁のくだりは新妻のイメージを気の毒なものにしている。

 即ち、秋水は明治二十九年か三十年ごろ(二十五、六歳)中村から母多治を東京に迎えて同居。その頃、福島県三春辺の移住開墾地から、旧久留米藩士某の女を迎え結婚した。十七、八の可憐で質朴、田舎気質のういういしい娘だった。しかし、秋水は美人至上主義者。新婦が無学で夫を理解できないことにも不満。悩んだ末、一度里帰りをして来いと上野駅まで送ったあと、離縁状を送りつけた。なんともひどい話だが、これによりルイは「無学」「田舎娘」という定説ができあがってしまった。

  (続く)

 「文芸なかむら」30号
 2015年7月刊 一部加筆

天下御免 平賀源内

 あこがれていた人にやっと会えた、念願を果たした気分だ。

平賀源内の生地、志度の町は、いつか訪ねてみたいと思っていた。高松には何度も行っているが、いつも仕事でトンボ帰りばかりだった。しかし、フリーになったいま、農林中央金庫勤務時代のOB会が高松であるというので、いい機会だと思い、一日早めにでかけ、7月10日、高松の少し先の隣町志度(現さぬき市)に足を延ばした。

 平賀源内の名前は子どものころから知っていた。社会科教科書で。エレキテル(発電機)を江戸時代につくった発明家として。しかし、グッと親近感をもつようになったのはテレビドラマから。1971~72、NHK連続ドラマ「天下御免」だ。

早坂暁オリジナル脚本による、源内さんを主人公にした、この時代劇は、痛快このうえなかった。小気味良いテンポで、コミカルだが、決して単なる娯楽ドラマではなく、当時の時事問題をもとりあげた教養番組でもあった。

主役山口崇がはまり役。相手役は新人の中野良子。林隆三、桃井かおり、ハナ肇、坂本九らもいた。映像の早送り、巻戻し、突然現代にタイムスリップなど、アッと驚く演出もあった。水前寺清子の語りも絶妙だった。

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この作品は、当時のドラマの常識を変えた、伝説的な作品として名を残している。以来、私は早坂暁ファンなったのだが、山口崇ファン、源内ファンにもなったのだ。

 志度の町には生家跡と記念館があった。源内さんは、単なる「発明家」ではない、多彩で多能な天才であった。讃岐を出てからは、主な活躍の舞台は江戸になるが、長崎、大阪、伊豆、秩父、秋田にも足を運んでいる。本職は一貫して本草学者だったが、文士、アーティスト(画家、陶芸家)、博物学者でもあり、またイベントを仕掛けるプロデューサー、さらには鉱山開発も手掛けた実業家でもあった。

神田に住み、杉田玄白、司馬江漢、田沼意次(老中)らとのネットワークももった。江戸の文化の情報発信源であり、コーディネーターであった。

しかし、生涯独身。最後は、誤って人を斬り、牢獄で、51歳で死ぬという劇的なもの。鉱山開発では失敗し、山師のイメージも残しているようだから、私の源内像はここに来て、かなり複雑怪奇になってきた。

朝日新聞が2000年に行なったアンケートでは、日本の科学者人気ランキングでは、1位 野口英世、2位 湯川秀樹、3位 平賀源内 と、根強い人気だが、源内さんは「科学者」の枠には収まらない得体の知れなさがあり、謎めいている。

生家跡では、庭の薬草園を手入れ作業中の平賀家7代目ご当主にお会いできた。源内さんを彷彿させる、博識で、ひょうひょうとした、お方であった。

生家跡、記念館とも展示は充実していた。学芸員もすばらしかった。昭和3年に顕彰会が発足したというのだから、活動も多彩で、市民に広く根を張っている。

記念に求めてきた薬草茶も、さっぱりしたのど越しであった。アジサイの花が薬草だということも初めて知った。

山口崇さん(いま78歳)は、3年前、ここで開かれた「平賀源内シンポジウム」に参加された。地域の文化発信や、まちづくりについて、貴重な提言をされた。いまは、出身地の淡路島に住み、民話研究活動をされているという。源内さんと同じように、俳優だけにとどまらない、多能な方であり、やはり、あのドラマは、山口崇さんだからこそ成立したのだと思う。

源内さんのおかげで、いろんな出会に恵まれた旅となった

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幸徳秋水を顕彰する会 安保法案に反対するアピール

 幸徳秋水を顕彰する会(会長 久保知章)は、きょうの役員会において、「安保法案に反対するアピール」を、以下の通り発しましたので、お知らせします。          


      安保法案に反対するアピール

 幸徳秋水は、人間の自由・平等・博愛を掲げた、時代の先覚者でした。日露戦争に対しては、非戦論を唱え、世に警鐘乱打しました。
 「われわれは絶対に戦争を否認する。これを道徳の立場から見れば、おそろしい罪悪である。これを政治の立場から見れば、おそろしい害毒である。これを経済の立場から見れば、おそろしい損失である。社会の正義は、これがために破壊され、万民の利益と幸福とは、これがためにふみにじられる。」(平民新聞、1904年)
 にもかかわらず、日本は、その後も軍国主義の道を突き進み、昭和20年、ついに国土は焦土と化し、国民は塗炭の苦しみを味わい、また周辺諸国へも多大な被害を与えることになりました。
こうした反省に立ち、戦後日本は、二度と戦争をしないとの決意を、新しい憲法に刻み込んで再出発し、平和国家の道を歩んできました。
 しかし、安倍政権はここに来て、長年の議論の積み重ねで集団的自衛権は認められないとされてきたこれまでの憲法解釈を、突然かつ一方的に変更し、その安保関連法案を今国会に提出しています。
 立憲主義をないがしろにする憲法違反のこの法案は、日本には全く関係がない、他国が起こした戦争に対しても日本が参戦することを認めることで、再び日本を戦争する国へと変えようとするものであり、100年以上前、幸徳秋水が警告した戦争国家に、日本を舞い戻らせるものであります。だからこそ、各種世論調査でも国民の多数がこの法案に反対と答えています。
 こうした国民の声を無視することは、民主主義を否定することであり、戦前の強権政治の復活につながるものです。
 幸徳秋水の事績を学び研究するわれわれとしては、歴史の誤りを繰り返すことになる、このような事態を看過することができません。
 政府に対して、安保法案の撤回を強く訴えます。

 2015年7月8日

 幸徳秋水を顕彰する会
 会長 久保知章

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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