樋口真吉の実像

 8月28日、四万十市民大学「樋口真吉の明治維新」(講師、渋谷雅之徳島大学名誉教授)を受講した。

樋口真吉(1815~1870)は江戸幕末・維新期を生きた土佐藩の下級武士。土佐勤王党の一員。中村でまれ育ったことから、地元の「歴史的人物」の一人に数えられている。今年が生誕200年。以下、「中村市史」による。

幼時より父から剣道を学び、砲術、槍法も修得。剣術では、九州筑後の大石神影流を修め、江戸の千葉周作道場にも通う。学問では佐久間象山門下にも。地元に帰ってからは、四万十川河口の下田に砲台を築くなど、幡多郡沿岸部防備の責任者に。武市半平太が旗揚げした土佐勤王党に入り、西部幡多の首領と位置付けられたが、脱藩等の過激な行動はとらなかった。京都土佐藩邸においては、薩摩との連絡調整に加わり、西郷吉之助、坂本龍馬、中岡慎太郎らとも接触。明治元年、高松藩、松山藩の接取(占領)に派遣されたあと、新政府軍の東征に参加。関東、東北での戦いの後方で武器弾薬の調達に奔走。明治3年、東京で病没。54歳。

真吉の資料はたくさん残されている。市民大学では、日記を中心に、明治維新のクライマックス(政権交代前後)における真吉の行動について解説があった。

 樋口真吉とはどういう人物だったのか。結論は、

1.文武両道に秀でており、人々をリードした。特に剣術では、多くの門下生がいた。
2.砲術、鉄砲の普及、進歩に尽くした。新政府軍の東北での戦いに貢献。真吉がいなかったならば会津戦争は違った形になっただろう。

こうした説明に対して、会場から質問が出た。最近になって、真吉と坂本龍馬が深い関係にあったという説が普及している。即ち、龍馬は真吉を心の師として仰ぎ、龍馬に大きな影響を与えた。真吉も龍馬の能力を見抜いていた・・・この説をどう思うか?

講師は、この説に否定的であった。
理由は、真吉と龍馬は生き方が違っていた。真吉は最後まで土佐藩にとどまり、藩命に忠実に従って動いたのに対し、龍馬は脱藩した。お互いの活動の中で、お互いの名前を知り、何度か接点があったのは事実であり、その記録も多くはないが残されている。しかし、二人には20歳の年齢差(真吉が上)があり、共感し合うには無理がある。互いに対立したとか、憎しみ合っていたということはないであろうが、真吉は龍馬のことを「最近の若いものはハネ返り行動をするな」ぐらいにしか思っていなかったのではないか。私は歴史家であるから、それ以上のことを書くのは小説家に任せたい。

最近の説の根拠の一つとして、坂本龍馬が脱藩したさい、真吉の日記に「坂竜飛騰」という言葉があることがあげられている。「いよいよ龍馬が飛び立った」という意味。しかし、講師は、この日記は明治になって真吉が編集(書き直し)したものであり、また「飛騰」という文字は原文に上書きされているので、他人があとで書き加えた(改ざん)可能性があると、別の研究書で指摘している。

 樋口真吉の実像は?

以上の話を聞いて、私は、真吉は江戸時代の身分制度の中で、能力の高い、土佐藩の忠実な家臣であったのだと思う。幕末維新の激動の中で、土佐藩が歴史を動かした場面の裏で、それをしっかりと支えた一人である。その意味で時代を変えた一人である。しかし、何か独創的な思想をもっていたとか、行動をしたとかということはない。

それなのに、いたずらに坂本龍馬との関係のみ(しかも根拠も希薄)をクローズアップさせるのは、龍馬の威を借りて・・・というように思え、郷土の「歴史的人物」を正当に評価することにはならないと思う。

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金高堂書店

 先日、高知市へでかけた時、本屋の「金高堂」の新しい店をのぞいてみた。以前の金高堂は中の橋通りの小さな店であったが、8月8日、帯屋町アーケード内の再開発ビル「チェントロ」1階の広いスペースに引っ越した。

 中に入るとさすがに広い。以前のざっと10倍以上か。ブロックごとに、雑誌、文庫、新書、専門書、郷土関係などに分かれており、ぐるぐる回るのに、疲れるぐらい。これぐらいの広さの本屋は、東京や大阪ではめずらしくはないが、高知県でははじめてであろう。

最近、いわゆる町の本屋さんがどんどん消えている。昨年も高知市の老舗片桐書店が閉店。中村にも、かつては辰巳屋書店があった。原因は、人口減少と活字離れ。さらにネット通販の普及。かくいう私も最近はネットで買うことが多い。便利で、送料もかからない。

地元の本屋が消えている一方で、目立つのは県外資本の郊外型チェーン店。明屋書店(松山市)や宮脇書店(高松市)など。中村はいま明屋1店だけだ。そんな店の店員さんは地元採用なのだろうが、制服などを着ていると、よそよそしく感じられる。

以前の本屋さんなら、時間つぶしに立ち寄ったり、待ち合わせ場所に使ったりしたが、いまは目的の本だけ買ったら、すぐに出てしまう。長くいると、窮屈な気持ちになる。だから、ますますネットで買うようになる。

そんな中、金高堂はれっきとした地元資本。それがうれしい。高知市なのでわざわざ出かけるという訳にはいかないけれど、これからは、ついでの時、立ち寄り、時間をつぶせるポイントができた。帯屋町の復活にもつながってほしい。

商売下手な高知県。
くれぐれも県外資本に吸収されないように。
がんばれ、地元の本屋さん。
 
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土佐清水

 最近、土佐清水へ出かけることが続いている。夏季大学、花火、映画会など。私の家は清水に向かう国道沿いにあるので、車で30分ほどで近い。

土佐清水市は四万十市以上に過疎化、高齢化が進んでおり、いま人口は1万4800人。主要産業は漁業・水産加工と足摺観光であるが、ともに不振が続いている。最近、学校の再編で、ついに市内中学校が一つになった。

「どん詰まり」のような状況は、わが四万十市をはじめどこも同じで「もがいている」ところだが、そんな中で私が注目したいのは、土佐清水市が文化行政に力を入れていること。

清水には「黒潮ホール」という立派な市民文化会館がある。この文化会館が独自の文化事業を積極的に行っている。最近目立つのが映画の上映会。きのうは高知を舞台にロケおこなった、安藤桃子監督「0.5ミリ」を上映。監督と泥谷市長のトークもあった。

今週からは、4日連続で、「昭和シネマ劇場」と称して、市川雷蔵、中村錦之助の時代劇作品上映がある。昨年は、昭和30年代の喜劇シリーズをやっていた。

かつて映画は日本文化の中心であったが、いま清水に映画館はない。中村にもない。高知市以西にはどこにもない。ならば、行政が映画館を復活しようというものであろう。

今年の夏季大学では、7月27日、女優の倍賞千恵子を呼んでいた。倍賞は昭和37年、デビュー直後、ここ清水を舞台にした映画「雲がちぎれる時」に出演。「昔話」に花を咲かせていた。文化会館がほぼ満席になっていた。

市の文化事業に市民がどれだけ足を運ぶかは、文化行政の浸透度=文化水準のバロメーターである。土佐清水市民文化会館の客席数は864だそうだが、いつ行っても結構席が埋まっている。

四万十市でも、ずっと夏場に市民大学を行っている。もともとは市立文化センター(744席)を使っていたが、参加数の減少もあり、だいぶ以前から公民館ホールに場所を変えている。最近の講座では、200人(移動イス席)来ればいいほうである。

3年前、「いちじょこさん150年事業」の一環として、「映像の幡多」と称して、幡多を舞台にした過去の映画作品4本(祭りの準備、足摺岬、孤島の太陽、四万十川)を文化センターで上映したことがあるが、その時も期待したほどの入りではなかった。

四万十市の人口はいま3万5千人であり、清水の2.4倍。京都から下ってきた一條家が御所を構えて以降、中村は名実ともに幡多の中心であることは、だれもが認めるところであろう。中村市は四万十市になってしまったが、それでも「一條文化」の伝統を受け継いでいるものと、私は自負をしている。

しかし、今月はじめ、そんな伝統の中から生まれたであろう、地元出身漫画家4人による「しまんと漫博」が行われたが、肝心の入場者は私の予想よりはるかに少なかった。

文化ではメシが食えないとも言われる。高速道路延伸などに期待するのもいいだろう。しかし、大規模公共事業は、大手資本、つまり都会が、カネや人を吸い取ってしまい、終われば、地元に何も残らない。

文化の物差しはカネではない。しかし、人を動かし、地域を動かすのは文化である。文化行政に力を入れる自治体が、最後には生き残ると思う。

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追悼 中村政則先生

 一橋大学時代の恩師中村政則先生が8月4日、亡くなった。満79歳、肺がんであった。8月11日、12日の通夜、告別式に参列させてもらった。

 中村先生との出会いは1972年、大学入学早々、前期教養課程の「日本史」の講義であった。やっと受験勉強から解放されたばかりであり、いまさら日本史でもないだろうと思ったが、単位消化のためと割り切って選択した。

私はそんな安易な気持ちで受けた最初の授業で、大きな衝撃を受けた。講義は、戦前日本、1920~30年代、経済・歴史学会を二分して展開された日本資本主義論争から始まった。

明治の産業革命を経て、当時の日本は経済発展のどういう段階にあるのか。日本は西洋諸国に遅れて近代化を進めてきたため、農村における地主制のように封建時代の遺物をなお色濃く残しているとする講座派に対して、そういう要素は残しつつも資本主義は成熟した段階に達しているとする労農派に分かれた。中村先生は両論の相違点、問題点、課題等をきわめて論理的に説明してくれた。

私はそれまで、歴史とは「暗記する学問」だと思っていた。歴史的事実や年号を正確に暗記すること。退屈でつまらない。しかし、受験にはそれが求められる。私は高校時代、日本史は好きではなかった。歴史的事実は一つであり、それを巡って論争があることは考えられなかった。

私は先生の話に、グイグイ引き込まれていった。毎週の講義が楽しみであった。10月、学生自治会による学費値上げ反対(授業料月1→3千円)の1か月ストライキがあり、私もまわりも授業がなくなるので喜んだが、ただ一つ、中村先生の講義も休みになったのだけは残念であった。

先生の専門は近代日本経済史。当時は、地主制の研究に力を入れられており、講義はそうした分野にも及んだ

私は経済学部に入ったのだから、当然ながら、漠然と「経済学」を専攻したいと思っていた。しかし、中村先生の講義を聞いてから、3年生からの後期専門課程のゼミは中村先生の「日本経済史」に入れてもらうことを決めた。「経済史」は、経済学と歴史学を総合したものであり、狭義の経済学よりも幅広くかつ奥深い。

中村ゼミ3年生は、毎年農村調査に出かけた。私ら7人は山形県西村山郡三泉村(現寒河江市)の昭和初期の役場資料を調べた。昭和恐慌後の農村がどのような状態におかれていたのか。4年生の時も、私は3年生の長野県下伊那郡南方村調査(現中川村)に加えてもらった。ちなみに、この中川村の現村長の曽我逸郎さんは、私と同じ「脱原発をめざす首長会議」のメンバーであり、昨年の総会でお会いした時、そんな話をしたら驚いていた。

南方村は満州開拓団を送出していた。そんな資料を見たことがきっかけとなり、私はふるさと高知県幡多郡の満州分村について調べ、いまでも地元の満州引き揚げ者の方々とのつながりをもっている。私の卒論は、中村先生の影響を受け「日本地主制解体過程の研究」。その中に、満州分村のことも書いた。

 中村先生は一橋学生時代ホッケー部に入っておられた。研究者となってからも体を動かすのが好きで、よくソフトボールをやろうと言って、汗を流してからゼミを始めた。

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中村先生はたくさんの著作、研究書を残しているが、それまでの歴史叙述のあり方を変えたとされる名著「労働者と農民」(1976、小学館「日本の歴史」シリーズ)の原稿を書かれていたのは、私が4年生のころ。夏休み明け、だいぶはかどったよと、笑っておられた。卒業ゼミ旅行は伊豆下田。旅館で勉強会をしてから、遊びに出かけた。

私が卒業後の就職先に農林中央金庫を選んだのも、そんな農業つながりから。私自身農家の生まれということもあり、農協組織の中央本部機能をもつ同金庫には親近感があった。

中村先生が一橋大学を退官されたのは1999年。育てたゼミ生281人に及ぶ。退官を機に、ゼミ卒業生の会「せいそく会」がつくられ、私は初代幹事(事務局長)をつとめさせてもらい、先生ご夫妻を招いて定期的に如水会館で親睦会を開いたりした。

先生は神奈川大学に移られたあとも、精力的に研究を続けられ、「昭和史」(岩波新書)や、「坂の上の雲と司馬史観」(岩波)、「昭和の記憶を掘り起こす」(小学館)などを出版された。ハーバード大学、オックスフォード大学にも行かれ講義もされた。海外からも日本を代表する歴史家として位置づけられていた。

そんな多忙な中ではあられたが、私が地元に帰り市長になって2年目(2010年9月)、四万十市民大学の講師をお願いしたところ、快くお引き受けくださった。講演のテーマは、こちらからお願いして「坂の上の雲と幸徳秋水―司馬史観を問うー」としてもらった。四万十市が取り組んでいた「幸徳秋水刑死100周年記念事業」の一環であった。

先生の名前と同じ「中村市」は合併で四万十市となったけれど、この中村に、文子夫人とご一緒にお迎えし、講演後、四万十川(屋形船、沈下橋)、足摺岬や幸徳秋水墓などをご案内できたことは、私にとって大切な思い出になっている。四万十川の天然ウナギをおしそうに食べられていた先生のお顔を思い出す。

 秋水の墓 (2)     四万十川下り     足摺岬

先生はその1年後から体調を崩され、最近は病床に伏されていたが、ついにお別れの時が来てしまった。

私にとって中村先生は学問の師である以上に、人生の師である。「生き方」を教えてもらったからだ。歴史学とは自分の生き方を考える学問であると思う。

過去の歴史や事象を調べ研究するのは、今という時代を知るため。歴史の発展や流れのなかで、今はどういう時代、社会なのか。そして、われわれはその社会とのかかわりの中で、何をしなくてはいけないのか。

中村先生は1935年(昭和10年)、東京新宿生まれ。国民学校9歳の時、群馬県草津に学童疎開し、東京に戻ってきたら焼野原で伊勢丹ビルだけがポツンと建っていた。その光景が自分の歴史研究の原点であると、よく言われていた。

歴史学は実践的な学問である。いつの時代も権力者は自分に都合がいいように歴史を書いてきた。国民一人一人の政治意識の裏面には、それぞれの歴史認識がある。教科書の記述で問題になるのは、いつも歴史教科書である。安倍首相が過去の「侵略」や「おわび」に抵抗するのは、そのためである。自分の歴史観を国の歴史観にしたいためである。

告別式での奥様のご挨拶によれば、中村先生は最期まで憲法9条を守らなければならないと言っておられた。その活動もされていた。解釈の変更という新手のやり方で憲法が機能不全にされそうないま、先生は先立たれた。

戦後70年。きょう8月15日は、その出発の日。
私はいまを、そしてこれからも中村先生から学んだ歴史学を座標軸にして生きていきたい。

先生、ありがとうございました。

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脱原発 四万十川アピール

           四万十川アピール 
 ~ 原子力発電に頼らない 自然エネルギー(再生可能エネルギー)への転換を進めます ~

 四万十川は源流から河口まで、全国の河川で唯一、流域全体が重要文化的景観に指定をされています。
 文化的景観とは、自然とかかわる日々の暮らしの中で人々が造り出してきた風景のこと。四万十川は日本最後の清流と言われていますが、それは単に豊かな自然が残っているからだけではなく、流域には、棚田、沈下橋、伝統漁法など、自然と調和し、共生してきたわれわれの祖先の生活の姿がいまもなお息づいているからです。
 日本人は昨年3月11日、東日本大震災を経験しました。巨大防潮堤を軽々と砕き、乗り越え、原子力発電所をものみこんだ大津波。自然の猛威の前には、人間による制御など到底及ぶものではないことを思い知らされました。
 福島第一原子力発電所の事故では、大量かつ高濃度の放射性物質が放出、拡散され、広い地域が放射能で汚染されました。その影響は、はかり知れないものがあります。多くの人々が、住み慣れた土地を離れ、職を失い、厳しい生活を余儀なくされており、いまだその解決の目途はたっていません。
 われわれは人類の英知による科学技術の進歩を否定するものではありませんが、日本が有数の地震津波国である以上、今後も原子力発電所はその脅威から逃れることができない宿命にあると言えます。
 四万十川流域に暮らすわれわれは、流域の豊かな自然や環境を守り、また祖先から引き継いでいる生活、文化等を後世に伝えていく義務があります。
 そのためにも、今後は原子力発電に頼らない自然エネルギー( 再生可能エネルギー)への転換を進めていくことを、ここに表明します。

2012年7月6日

檮原町長  矢野富夫
津野町長  池田三男
中土佐町長 池田洋光
四万十町長 高瀬満伸
四万十市長 田中 全

戦争法を許さない幡多の会

 「戦争法を許さない幡多の会」は、きのう8月9日、四万十川赤鉄橋下の河川敷で集会を開いたあと、中村の市街地を一周2キロのデモ行進を行った。幡多全域から、約250人が集まった。これだけのデモ行進は中村では最近なかったこと。普段は見かけない、一般市民も多くいた。

「戦争法を許さない幡多の会」は、7月23日、幡多地域の市会議員、労働組合、九条の会などの市民団体代表や、個人の呼びかけで結成された。私もその一人に加わった。

 集会には、広田一(現職)と竹内則男(元職)の両参議院議員(民主党)も駆けつけてくれた。広田さんは、この法案審議特別委員会の委員であり、先日も委員会質問を行い、テレビでも放映された。
 
広田さんは、「この法案は時の政府が危険と判断すれば、戦争ができるようにするもの」と断じた。ほかに元自衛隊員、教員、弁護士、主婦ら市民5人が発言。以下の「集会アピール」を私が読みあげ、採択した。

きのうは長崎原爆の日。土佐市でも集会が行われた。こんな法案が通ったら日本は憲法なんていらない国になってしまう。法案阻止の輪をもっともっと広げていこうではありませんか。

         集会アピール

 わが郷土の先人幸徳秋水は、明治37年、日露戦争に対して敢然と非戦論を唱え、世に警鐘乱打しました。
にもかかわらず、日本は、その後も軍国主義の道を突き進み、昭和20年、ついに国土は焦土と化し、国民は塗炭の苦しみを味わい、また周辺諸国へも多大な被害を与えることになりました。
こうした反省に立ち、戦後日本は、二度と戦争をしないとの決意を、新しい憲法に刻み込んで再出発し、平和国家の道を歩んできました。
 しかし、安倍政権はここに来て、長年の議論の積み重ねで集団的自衛権は認められないとされてきたこれまでの憲法解釈を、突然かつ一方的に変更し、その関連法案(戦争法案)を今国会に提出し、7月16日、衆議院で強行採決を行い、いま参議院で審議されています。
立憲主義をないがしろにするこの法案は、日本には全く関係がない、他国が起こした戦争に対しても日本が参戦することを認めることで、再び日本を戦争する国へと変えようとするものであり、100年以上前、幸徳秋水が警告した戦争国家に、日本を舞い戻らせるものであります。
 憲法学者をはじめ多くの有識者はこの法案は憲法違反であると断じています。立憲主義をないがしろにするこの法案に対して、各種世論調査でも、国民の多数が反対と答えています。
 こうした国民の声を無視することは、民主主義を否定するものであり、われわれは決して許すことができません。
きょう、清流四万十川の岸辺に集うわれわれは、どこまでも青い幡多の空のような、戦争のない平和な日本、そして世界を望みます。
 政府に対し、戦争法案の廃案を強く求めます。

 2015年8月9日

 戦争法を許さない幡多の会 
 集会 参加者一同

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満州分村

 満州分村とは、戦前、日本が「満州国」に農業移民をさせた形態の一つであり、村を二分して満州へ開拓団を送り込むこと。高知県では、幡多郡江川崎村(現四万十市)がその第1号、隣の同郡十川村(現四万十町)が第2号であった。

江川崎村は、昭和17~19年、117戸、429人を、十川村は、昭和18~20年、132戸、547人を満州に送り込んだが、戦後の引き揚げの中で、ともに約7割が亡くなった。送出数、犠牲者数では、ともに高知県下で1,2位である。

幡多郡からは、ほかに津大村(59戸、129人)、大正村(60戸、273人)も分村を行っている。いずれも幡多郡北部、四万十川中流域の山間部で、「北幡」と呼ばれる地域である。

 今年は戦後70年。満州引き揚げ者は皆高齢になり、生存者は少なくなってきた。

 8月5日、十川村引き揚げ者とその家族4名が江川崎村開拓団資料を展示している権谷せせらぎ交流館(旧権谷小学校)を訪ね、江川崎引き揚げ者や地元の人たちと交流をした。この場には、江川崎開拓団から残留孤児となり、のちに帰国し、現在高知市に住んでいる女性も加わった。ほかに、大陸(中国、満州、朝鮮)からの引き揚げ経験をもつ高知市周辺の7名も。

それぞれ体験を述べた。江川崎、十川の人たちは、みな家族の誰かを満州で失っている。

国策に翻弄され、国にだまされた。戦争はいつも「平和ために」行われる。「五族協和」のために日本は大陸を侵略した。なのに、いま再び、国が国民をだまそうとしている。戦争法案である。「抑止力」のために戦争準備をする??? 同じ論法だ。

みな、口々に、二度と戦争をしてはいけないと繰り返していた。

満州開拓団資料を保存している資料館は全国でもめずらしい。ほかには長野県阿智村にあるくらいではないか。

この権谷せせらぎ交流館は、いまのところ、江川崎開拓団の資料しか展示していないが、これからは高知県全体、いや全国の満州関係資料を展示保存してはどうだろうという話にもなった。

十川開拓団引き揚げ者の中には、満州での引き揚げの模様を絵に描いている方もいる。その絵をもってこられていた。こうした絵は貴重な記録である。

戦争の記録、満州開拓団の記録は、これからもしっかりと伝えていかなければならない。日本を再び戦争をする国に、しないために。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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