逢坂トンネル

 上林暁の小説に「トンネルの娘」というのがある。最晩年、死ぬ1年前の1979年に書いたものだ。最後の創作集(第29集)「半ドンの記憶」に収録されている。

いまの四万十市と黒潮町(上林の時代は、中村町と田ノ口村)の境に逢坂峠がある。そこにトンネルが通っている。逢坂トンネルと言う。最初に掘られたのが明治29年で、いまは3代目になる。中村は小京都であるから、もちろん「逢坂」の名は山城の国(京都)と近江の国(滋賀)の境にある逢坂峠に由来する。都から北東に位置するのも同じである。

上林の小説に、このトンネルがたびたび登場する。大正時代、上林は家から8キロ離れた旧制中村中学に、このトンネルを通り、歩いて通った。

トンネルの西側口(中村側)には、茶店を兼ねた自転車屋があった。そこに娘がおり、その娘のことを書いたのが「トンネルの娘」である。娘は上林の家の近くに嫁に来たことなど、郷愁深く書いている。大正時代の風景がよみがえる。

私は、3代前のこのトンネルが今のトンネルの上に残っていることは聞いていたので、いつか訪ねてみたいと思っていたところ、黒潮町の上林暁顕彰会と「あかつき館」がここを歩く企画をたててくれた。11月19日、これはチャンスとばかり参加した。

東口(黒潮町側)の集合場所に行ってみると、上林の母校田ノ口小学校5,6年生たちも来ていた。子供たちと一緒にわいわい言って、山道を登り、初代トンネルに向かった。道は結構きれいに刈り払われていた。子供たちのためだろうか。

初代トンネル入り口は、現トンネル入り口のほぼ真上にあった。頭上に「開明之利澤」と書かれた名盤が残っていた。(小説では「文明之利器」となっている)

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初代トンネルの長さは50メートルくらいだろうか。(現トンネルは212メートル)行政としては特に整備はしてないときく割には、きれいに維持されていた。スムーズに通れた。

西口に出たところで、往時を知る田ノ口の野並さん(上林の甥)から説明を受けた。茶店の記憶を絵に書いてくれていた。このあたりだったとか。きれいな沢の水はそのままに流れていたが、まわりは林に囲まれ、店の跡形はない。西口の旧道は荒れていたが、時々人の手が加わっているようで、なんとか通れた。そのまま国道に降りた。

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私も知っている2代目トンネルは現トンネルの側道のような形で北面にあったが、手前の分岐点に侵入禁止の柵がつくられていた。2代目が通れないのに、初代のほうが通れるなんて、めずらしいことだ。

高速道路の延伸に力を注ぐのもいいが、この旧道を整備し、小京都のシンボル、歴史ある逢坂峠に残る近代化遺産として、さらに「文学の道」のハイキングコースとして活用をすればいいのではないか、と思った。

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上林暁

 最近、上林暁が話題にのぼることが多い。上林はすでに1980年に没した作家。高知県旧大方町(現黒潮町)出身であり、ふるさとを舞台にした作品も多いことから、私は以前から親近感をおぼえ、愛読している。しかし、地味な私小説作家であったため、一般にはあまり知られていない。

話題の一つが、今年度「火花」で芥川賞をとった又吉直樹。彼は上林ファンだといろんなところで語っている。

また、上林の作品はすでに絶版になったものばかりであったが、最近、夏葉社という小さな出版社が「星を撒いた街―上林暁傑作小説集」と「故郷の本棚―上林暁傑作随筆集」を出した。これが結構売れている。

決して流行作家でなかった上林がいまになって話題にのぼることは、私にとって不思議な現象だと思うけれど、ファンの一人としてはうれしい。時流にこびない、地味な作品こそ、時を経てから、黒光りするのだろう。「玄人筋」には、結構上林ファンがいるのだと改めて思う。

黒潮町の「あかつき館」には、上林暁文学館がある。いま、企画展「書くために生きる」を開催中。上林が脳溢血で倒れてからの晩年、寝たきりの左手で書いた原稿などを展示している。

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10月17日、展示会の初日、夏葉社の島田潤一郎社長(室戸市出身)の講演会「うずもれた名作をとどけたくて」があった。私はききに行った。

同社の社是は、何度も読み返せる本、読めば読むほど味が出る本、を出版すること。上林が悲しみを乗り越えるために文学をしてきたように、悲しみは言葉の力、物語の力で乗り越えられると信じている。

39歳の若い社長(といっても社員は本人だけ)の言葉とは思えなかった。この人は本当に本が好きなんだなあ~

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翌日には、メイン企画、又吉直樹との対談もあった。この日は四万十川ウルトラマラソンと重なったため、私は行けなかったが、又吉人気もあって満員盛況、あふれた者も多くいたようだ。

会場からの「上林さんを一言でいってくれませんか」の質問に、島田さんは「花というより草のような方」、又吉さんは「感情の友達」と答えたそうだ。

上林文学の源流は何か。私はいま上林暁「私論」を黒潮町の文芸誌に書いている。連載が終わったら、来年、このブログで紹介したい。この続きとして、読んでほしい。

入野松原の中にある「あかつき館」は、昨年、2年前、館長がかわってから、いろんな企画で発信している。地域文化の発信基地をぜひ訪ねてほしい。

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メモリー岡山

 11月8日、第1回岡山マラソン(フルマラソン)に参加した。10月18日に地元の四万十川ウルトラマラソン(60キロ)を走ってから3週間後であり、普通ならこんな短い間隔では走らない(走ったこともない)のだが、場所が岡山であり、かつ第1回目という記念の大会ということで、どうしても出たかった。

 岡山には私の「想い入れ」がある。私は農林中央金庫勤務時代、1989~93(平成元~4年)にかけての3年間、岡山で仕事をした。本店から初めての管理職(支店融資課長)として、岡山支店に転勤になった。36歳であった。

農林中金といえば、農業など第一次産業向けにしか融資ができないと思われがちだが、実際はその関連産業(食品、流通、農業機械、製紙、造船など)向けにもかなり広く融資をしている。私はそんな一般企業向け融資を担当していた。

岡山の企業は元来銀行取引は保守的で、融資の新規参入は容易ではなかった。しかし、当時はバブル経済の時期に入っていたこともあり、岡山の企業にも変化の兆しが見えてきていた。

私は県下を走りまわった。いろんな産業分野のリサーチを行い、従来取引がなかった地元優良企業等に積極的にアプローチを行った。しぶとく、強引に、熱意をもって。たたけば反応がある。取引はどんどん増えていった。農林中金全体の中でも岡山の伸びはきわだっていた。

同時に、岡山のいろんな分野の人たちとの交流やおつきあいも広がっていった。多くの方にいろんなことを教えてもらい、お世話になった。

バブルはその後消え、多くの企業や銀行が傷を受けた。しかし、農林中金は不動産融資ができない等の規制があったことから、バブルの恩恵も少なかったが、傷も少なかった。その分、取引先に迷惑をかけることも少なかった。

私は55歳で農林中金(および子会社)を退職し、ふるさとに帰ってきた。東京を拠点に、九州から北海道まで転勤も経験した。どこでも仕事にやりがいはあったし、いろんな風土の中でいろんな出会いがあり、総じて楽しい思い出ばかりだ。しかし、その中でも、岡山が一番である。岡山での自分が最も輝いていた。サラリーマン生活の中で、そんな時期とタイミングであったのだと思う。

だから、岡山ではじめてのマラソン大会が始まるときいて、ぜひ参加したいと思った。岡山へのお礼が言いたいと思った。またあの輝きを取り戻したい・・・とも。

スタートとゴールになった運動公園。私はその近くに住んでいた。時々、ジョギングもしていた思い出の場所である。

桃太郎大通りを抜け、南に下り、児島湾干拓地に沿って、ぐるり一周するコース。郊外には新しい住宅地ができるなど、風景がだいぶ変わっていたところはあったが、どこも記憶に刻まれた「におい」ばかりであった。途中のエイドでは、名物の「吉備団子」に後押ししてもらった。

最後の10キロは、旭川河口から上流に沿って土手を岡山城、後楽園に向けて走り、ゴールに着いた時はヘロヘロだった。しかし、気分は爽快このうえない。

岡山よ、ありがとう。

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梼原町議会と四万十市議会

 高知県梼原町議会は、11月12日、臨時議会を開き、伊方原発再稼働容認に抗議する意見書を、全会一致(定数8)で可決した。

愛媛県伊方原発については、10月26日、愛媛県中村知事が再稼働への「同意」をしたことから、来春以降の再稼働が見込まれている。尾﨑高知県知事も同日、これを「容認」する発言をおこなっている。

梼原町は愛媛県との境界に位置し、伊方原発から50キロ圏内に入っており、高知県では四万十市とともに最も伊方に近い。

意見書では、立地自治体の長と県知事の同意があれば原発を稼働できるとする制度上の問題点や、福島原発事故の原因究明が進んでいないことなどを指摘し、再稼働にかじを切った行動は断じて許すことができないと批判している。意見書は、安倍首相や関係閣僚、衆参議長、愛媛、高知県知事らに送られた。

2011年3月の福島原発以降、高知県内34市町村議会のうち26議会(梼原町議会も)で、伊方原発再稼働に反対する決議が行われていることからすれば、今回の意見書は当然出るべくして出たものと考えられる。今回が県下第1号である。これが議会として「筋を通す」というものである。

なのに、四万十市議会は「筋が通らない」ことをしている。先の9月定例議会において、「伊方原発についての公開討論会の開催を求める意見書」を否決(6対12)したのである。この意見書は、伊方原発再稼働の是非を直接問うのではなく、関係者や専門家等を呼んで、再稼働に伴う問題点等を議論しあおう、というもの。

四万十市議会では、私が市長時代、2012年6月議会において、「伊方原発の再稼働を認めないことを求める意見書」を賛成多数で可決している。私はこの意見書を尊重してきた。この意見書を可決しておきながら、その内容よりも「控えめ」な今回の意見書を否決するとは、およそ常識からすれば考えられないことである。

この3年の間に市議会選挙があり、議員の一部が入れ替わったことはある。しかし、大勢はそのままである。だとすれば、前回賛成しておきながら、今回は反対に回った「筋を通せない」議員が多いということである。

梼原町は四万十川の源流域、四万十市は下流(河口)域にあり、ともに四万十川流域である。伊方原発からの距離は、ともに50キロ圏で、高知県で最も伊方に近い。さらにいえば、四万十川の愛媛県側支流(弘見川、三間川)の源流域は30キロ圏内である。その支流が本流に合流する地点は四万十市西土佐である。ということは、梼原町よりも四万十市のほうが伊方に、より接近しているということである。

今回の四万十市議会の態度(意見書否決)は信じがたい。市議会の多数派は市民の命や安全をどう考えているのであろうか。変節と言われても仕方ないであろう。

高知新聞報道によれば、矢野富夫梼原町長は、今回の意見書を「重く受け止める。町としては住民を守るために原発に関する勉強会を続け、今まで通り再生可能エネルギーの自給率100%を目指す」と発言している。

私が市長時代、2012年7月6日、四万十川流域の5つの市と町の首長連名で「四万十川アピール - 原子力発電に頼らない自然エネルギー(再生可能エネルギー)への転換を進めます」を発表した。(本ブログ2013.12.2付)

矢野富夫町長はその1人である。
ぜひ、がんばってほしい。

馬塚と牛塚

 最近知った、地元の戦の歴史を紹介したい。

 四万十市では、10月、今年も不破八幡宮大祭で「神様の結婚式」がにぎにぎしく取り行われた。この伝統行事は、15世紀、応仁の乱を避けて、前の関白一條教房公が京都から中村に下向後、この地域で行われた略奪婚などの蛮習を戒めるために、始めたものと言われている。

八幡宮(はちまんさん)の男神様に、一宮神社(いっくさん)の女神様が輿入れする。一宮さんは四万十川河口近くの間崎地区にある。女神輿は飾りをつけた舟(神舟)に乗り、太鼓をたたきながら、川を遡る。お供の舟(供船)を従えて。

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しかし、舟が竹島沖を通過する時は、しばしの間、太鼓をたたくのをやめる。
理由は、かつての戦で敗れた高島城主の霊を鎮めるためである。

竹島は、昔は「高島」と呼ばれていた。時は、天文2年(1533)。一條家は戦国大名になり、幡多地方の支配を着々と広げていたが、地元の国人(豪族)に中には、一條家の命に従わないものもいた。その1人が、高島城主岩越五兵衛だった。

一條家は、四万十川をはさんで対岸の、従属した国人、間崎の間崎孫左衛門、坂本の大越の2人に高島城攻めを命じた。

しかし、高島城は川に直立する岩場の山上にあり、難攻不落。間崎、大越は何度も攻勢をかけたが、容易に城は落ちなかった。

尋常な作戦では城を落とせないとみた間崎は、牛を使った奇策を考えた。牛の角と尾(しっぽ)に松明(たいまつ)をつけ、攻め込ませたのである。城に火が付き、兵も混乱。岩越はあえなく討ち取られた。

この時、城の中にいた馬も焼け死んだ。
その馬たちを弔った塚(墓)が今でも残っているというので、私はこのほど、はじめて訪ねた。

高島城のあとは、いま神社(岩越四所神社)になっている。ここまでは以前に来たことがあった。しかし、その裏に、馬塚があるとは知らなかった。塚は、丸い石があるだけだが、最近、地元の有志が真新しい石碑を立てていた。神社の下の段の旧竹島小学校跡には、昨年、地震津波対策のため地域防災センターが建てられている。

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一方、間崎には、攻め込んだ牛の功を称えた塚もある。大文字山のふもとの畑の中に、こんもりとした藪がある。ここも初めて行った。

すぐ近くには、小さな祠の剣神社もある。牛には勇ましい女性が口に剣をくわえて乗り、攻め込んだと伝えられている。まるでジャンヌダルクだ。その女性を神様として祭っている。

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この戦が終わった翌年、女神輿を乗せた舟が太鼓をたたいて八幡さんに向かっていたら、高島の前で大波が起こり、舟は沈み、供の者は全員死んだ。これは、岩越のたたりである、ということになり、翌年から、高島の前では、太鼓をたたかなくなったという。

高島(竹島)では、この戦以降、牛を飼わなくなった。農耕用には馬だけを使用。周辺は、みんな牛を飼っていたのに、である。

私は、子供のころから、八幡さんの秋祭りには、何度も行っているが、このような「云われ」や歴史を知ったのは、最近のこと。

この戦については、江戸時代に編纂された「土佐国群書類従」の中の「敷地民部藤康戦記」に書かれている。

歴史はいまも生きている。

図書館民間委託

 「図書館は知の拠点、自治体が自前で運営を」
11月2日付、高知新聞に、片山善博氏(慶応大学教授、前鳥取県知事)の論説が載っている。

先月、愛知県小牧市では、図書館のあり方をめぐって住民投票が行われた。東京の民間事業者(ツタヤグループ)に、市立図書館の管理運営を全面委託することの可否を問うたものだが、結果は反対が圧倒的に多かったことから、市は民間委託を撤回した。

公立図書館の民間委託については、ひところ佐賀県武雄市が注目されたが、いまではいろんな問題点が出てきて、混乱をしている。

片山氏は言う。

「公共図書館は、その地域の歴史や文化、行政資料などを保存し、これを現在および将来の市民の利用に供するよう整えておくのを重要な使命としている。」「図書館とは、過去の知の拠点として、これからの地域にとって必要な知の資産を取り込んでいく役割が求められている。」

だから、「図書館は小中学校などと同じく、外部に委託するのではなく、自治体が自前で経営すべき」

「図書館とは地域の知の拠点として末永く運営されるものであり、切り盛りする司書たちも長期的な視野で配置され、養成されるべきだからだ。」「地域の知の拠点は意地でも地域が自前で切り盛りすべきだ。そんな気概も力量もないのであれば、そもそも『地方創生』など語る資格はないように思う。」

私もその通りであると思う。
地方自治に長く携わってきた片山氏の発言は重い。

というのも、四万十市では、来年度(4月)から、市立図書館の民間委託が予定されているからである。

私が市長時代には、そんな計画はいっさいなかったし、予定もなかった。しかし、今年になって、この問題が突然浮上。目的はただ一つ、行政改革の名目による、行政コスト(人件費など)削減である。

6月市議会に関係条例案が出され、9月受託業者が募集され、内定(東京の業者)、12月議会で承認を受ける段取りになっている。しかし、この間、市民への説明もないまま。市議会での議論もない。

無駄な行政コストの削減については、私も異を唱えるものでない。しかし、問題はどの部門から削減するか、優先度の問題である。

四万十市立図書館は中村市時代から、多くの郷土史関係の資料等を保存している。中でも、幸徳秋水関係資料は一級品である。

こうした資料については、委託業者と契約を結び、従来通り管理をしていくとしているが、仮にそうだとしても、過去からの経緯やその資料の価値を知る市職員がいなくなれば、そのうち管理がずさんになり、散逸してしまう懸念はぬぐえない。

そもそも、民間委託は図書館管理の効率化にあるのだから、最も管理が「ややこしく」「非効率な」郷土史資料関係等は軽視されてしまうことは、当然予想できる。委託業者は短期間契約の更新なのだから、採算に合わないなど、何か見込み違い等があれば、いつ撤退するかわからない。地元に縁もゆかりも、責任もない、チェーン店と同じ、なのだから。

私は、四万十市を「清流に歴史と文化を映すまち」と呼んで、地元の歴史、文化、人物を大切にしてきたつもりである。文化事業にも、さまざま取り組んできた。

しかし、いまの市政には、文化政策というものがほとんどない。私が着手していた、「文化の入れもの」である市立文化センター建て替え事業も、凍結されたまま。土豫銀行跡地活用計画も遅々として進んでいない。

それどころか、逆に、図書館民間委託という、長年蓄積してきた地域の知的資産を骨抜きにするような、「文化つぶし」を行おうとしている。

市民が知らないうちに、こうした事態が進んでいる。
十分な監視が必要だと思う。

獅子の時代

 1980年に放送されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」を、いまレンタルビデオで見ている。山田太一のオリジナル脚本で、幕末から明治にかけて、いわゆる明治維新と言われる時代がどんな時代だったのか問いかけた作品である。

この作品は歴史に関心のある人々(歴史研究者など)の間で、NHK大河ドラマの最高傑作ともいわれている「伝説的作品」である。私は当時もいまもNHK大河ドラマはほとんど見ない。この作品も見ていなかったが、途中からそんな評価を耳にしたので、最終盤の数回を見ただけだった。

この作品を、35年後のいまになって、全編を通して見ようと思った理由は2つある。

 一つは、安倍首相による「戦後70年談話」である。この談話は、安保法案、沖縄、TPP、原発等、もろもろのいまの安倍政権の政策の背景にある、安倍首相の歴史認識(歴史観)を示したものであり、冒頭こうはじまる。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」

・・・アジア諸国を勇気づけた??? 
日露戦争は、日本とロシアによる、中国、朝鮮の争奪戦だったのに、である。「明治期日本の産業革命遺産」のユネスコ世界遺産登録は安倍首相の肝いりだったが、中国、韓国からはギリギリまで抵抗を受けた。

 二つは、ドラマの主役が菅原文太であること。彼はこの時代に翻弄される旧会津藩士(歴史に実在しない架空設定)として登場する。ちなみに相手役の加藤剛も旧薩摩藩士で同じく架空設定。2人の対比・交わりの中で、ドラマは進む。

菅原文太は1年前亡くなった。その時、私は彼のことをこのブログで2度書いた。彼は、俳優を引退してからの晩年、平和問題、沖縄基地問題等について、積極的に発言していた。死ぬ1か月前には、沖縄知事選挙で翁長現知事の応援にもかけつけた。

私は彼の映画やテレビ作品はほとんど見たことがなかったので、辺野古基地問題が先鋭化しているいま、彼がどんな俳優だったのか、しっかり見ておきたかった。

 ドラマは全51話と長く、いま16話(函館五稜郭の戦い)までを見たところである。そんな中、きのうの高知新聞に菅原文太夫人(文子さん)のインタビュー記事が載っていた。文子夫人も夫の遺志を継ぎ、講演活動をしている。

「沖縄はさいの河原で石を積むような苦しみを抱えている。そのことを日本人全体が理解しなければ。普天間を米国が引き取るという選択肢がないなら、基地機能を日本本土に分散させ、普天間は閉鎖すべきです。」

「『戦争に向けて着々と準備中』と国民に言うリーダーはいない。『これは平和のための武装です、とうそをつく』。だまされないためには、一人一人が判断力を鍛え、自分の意見をはっきりと言い、選挙には必ず行くことが大事です。民主主義の筋トレには、不断の努力が必要です。」

沖縄に目を向けよう。
ドラマの感想等は、全編を見てから改めて書きたい。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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