続 西村ルイのこと 秋水最初の妻 (3-終)

秋水から離縁されたルイは東京の伊藤家に嫁いでいた妹センを頼って再び上京。そこで大工の与八と出会う。

伊藤は青山御所専属の大工で舅はその棟梁だった。義侠心に富んだ人物で、親のない子を引き取って育てていた。その育てた子の一人に中島という大工がおり、中島の同僚に横田与八がいた。舅は横田にルイを引きあわせ、お腹が大きくなって困っているから世話をしてくれと頼んだ。

横田も義侠心に溢れた人物であり、かつ親方の頼みでもあったので、埼玉県北葛飾郡静村(現栗橋町)の農家の実家にルイを連れて帰り、東京で好きになって、すでにお腹に自分の子どもをみごもっている娘だと紹介した。両親は驚いたが、息子の言葉を信用し、空いている蔵を与えてルイを住まわせた。

そしてルイは秋祭りでにぎわう日にハヤ子を生んだ。与八は東京での仕事があるので、たまにしか帰ってこなかったが、与八の両親はルイをかわいがった。「お前は本当に利口な子だね」。ルイは達筆であったことから村人から代書を頼まれることも多かった。

与八はその後、明治35年5月、ルイと正式に結婚。ルイ20歳(与八24歳)であり、この時、ハヤ子を自分たちの子として籍に入れた。

ハヤ子が小学校に入学した時は、ほかの子どもよりも体が大きく、女の先生と同じくらいであった。ルイが秋水と暮らした年などから推測すれば、ハヤ子の実際の年齢は3、4 歳上だったからである。

ルイは大工の妻として東京に住むようになる。最初浅草、次いで千束、深川にも。与八との間に3人(男1、女2)の子も生まれた。生活も安定し、ハヤ子には三味線を習わせ、女学校にも行かせた。

ハヤ子は上野の観光協会で事務員をしていた時、上司の小谷清七に見初められ、大正12年2月結婚したが、同3月、与八が死亡。同9月、関東大震災。

与八亡きあとルイは裁縫の内職などで一家の生計を支えた。

明治44年1月、秋水が処刑された日、ルイは新聞を握りしめ肩を震わせながら泣き崩れた。

「悪いことをしたわけでもなく、自分の主張を世間に発表しただけ」「決して悪い人じゃない。他の人の罪をかぶった」と評していた。

また、晩年、ハヤ子の子ども2人を枕元に呼び寄せ、「あなた方は横田家の孫ではないのだよ。幸徳家の孫です」と言い切った。離縁状を送りつけられ、ひどい仕打ちを受けた元夫への恩讐を超えていたのだろうか。

横田みつゑさんは新婚当時、同居のルイから突然「あなたは天皇陛下をどう思いますか」と聞かれた。「税金で食べさせてもらっている人です」と答えたら、ルイは「そう」と言い、いっそうかわいがってくれた。

しかし、一方で、ルイはハヤ子に対して「横田の家で生まれ横田の家で育ったのだから、あっち(幸徳家)の話をする必要はない」とも話していたという。

ルイは昭和48年、92歳で大往生をとげた。福岡県黒木町の「豪家」に生まれた「おひいさま」が、東北の福島県郡山に連れて行かれ、その後東京で2人の男(秋水、与八)にめぐり会う。歴史に翻弄されながらも凛として辛抱強く生きぬいた女の強さを感じる。

ハヤ子も朝日新聞報道の翌昭和58年、81歳(実年齢は3、4歳上)で没。ハヤ子は6人(男4、女2)の子を残した。女2人はいまも健在。

6人の子や孫たちはたくさんおり、誰ひとり幸徳姓を名乗る者はないが、秋水の血は広く伝搬している。(終)

「文芸なかむら」31号
2015年12月刊

続 西村ルイのこと 秋水最初の妻(2)

次に、私のもとに届いたもう一つの資料は、大阪の大逆事件研究者からのもので、「大阪民衆史研究」37号(1995年4月 )に載っている民衆史研究者西尾治郎平氏の「幸徳秋水の遺児」という記録であった。

西尾氏といえば、「秋水に忘れ形身」という昭和57年の朝日新聞スクープを仕掛けた人である。秋水から離縁されたルイが横田与八と再婚して生まれた長男の息子の嫁(孫嫁)にあたる横田みつゑさんが西尾氏に情報を提供したのだ。

みつゑさんが西尾氏のことを知ったのは同年1月の新聞記事「秋水の墓、大阪から中村へ」を見てから。

幸徳家は、もとは幸徳井(かでい)という京都の陰陽師であったと伝えられているが、漢方医であった初代から5代までの墓は大阪市西区の竹林寺にあった(秋水は16代目)。その墓碑1基を西尾氏らの尽力で中村の正福寺へ移したのが、その年の秋水墓前祭にあわせた1月であった。

秋水は先祖の墓が大阪にあることは知っており、妻千代子を連れて一度訪ねたことが千代子「風々雨々」に書かれている。

私は昨年6月、この竹林寺を訪ねた。住職に幸徳家墓碑があった場所を案内してもらった。すぐ近くに森重久弥先祖の墓もあった。それらの古い墓のほとんどが黒く煤け、表面が剥げ落ちたものが多かった。原因は昭和20年4月の大阪大空襲によるもの。

寺に隣接して松島遊郭街があった。遊女たちは塀で閉じ込めたれていたため逃げられず、300人が焼け死んだという。哀れな供養塔が寺の中で泣いていた。

中村の正福寺に移された墓碑は、秋水墓と同じ並びの一番手前に据えられた。やはり黒く焦げ、上半分が剥げ落ちているのですぐわかる。寛保2年(1742)に建てられたものというが、「幸徳梅隣建之」と刻字だけはいまでも読み取ることができる。

こんな経緯で驚くべき情報を受けた西尾氏は「秋水の子」とされる小谷ハヤ子に埼玉県で会い、いろんな話を聞き、これは真実であると確信。幸徳家に連絡をとり、当時高知市にいた幸徳正三氏(駒太郎孫)とハヤ子を対面させたのが昭和57年7月であり、これが朝日新聞記事となった。

正三氏の「秋水とそっくりです。こんなに似ておられるとは」という実感のこもった言葉がのっている。

西尾氏はすでに故人となっているが、その時、ハヤ子から聞いた話を書き残したのがこの記録である。

私は朝日新聞記事でその概要は知っていたが、詳細な部分はわからなかった。西尾氏はこんな記録を残していたのだ。そのいくつかを紹介したい。 (続く)

「文芸なかむら」31号
2015年12月 刊

続 西村ルイのこと 秋水最初の妻(1)

 前号の原稿(本ブログ 2015.7.23,24,25)を書いたあと、私の手元に西村ルイにかかる二つの資料(記録)が届けられた。これらをもとに新たにわかったことなどを書いてみたい。

資料の一つは、福岡県黒木町(現八女市)の郷土史家が発見してくれた『篤行傳』。この本は、大正六年、八女郡役所が発行したもので、地元の発展に尽くすなど、徳の篤かった人物を紹介したものである。その中の一ページに「西村良平」が載っている。

「西村良平は、上妻郡(今八女郡)黒木町の豪家なり。父を仁兵衛と云う。家世々豊富にして田産饒し、而して深く貧人を憫み、慈恵を施し、其名遠近に聞ふ。上妻山中人多くして田少く、人常に食を得るに苦しむ、而して矢部村最も甚だし。仁兵衛深く之を慨し、及貧人奨励し、資を輿へて田を墾せしむ。是に於て、人皆争て開墾に従事し、矢部村中に多くの良田を得たり。久留米藩主、其功を嘉し、享保中、徴して士籍に列し、年々米百五十俵賜ふ。良平父の後を継ぎ、家道益豊なり、其貧人を救助するに、敢て徒に輿へす、必す之をして産に就き、業を得しむるを期す、故に人の職業なく、他に傭作すべきものは、日を期せすして、己の家に就かしめ、自ら之を率ひて、田圃を耕助し、山野を開墾し、少も暇逸せしめす、而して日に正當の傭銭を給し、且帰途には、必己の山林より各一荷の薪を伐り採り、其家に持ち帰らしむ、是を以て人皆其恵に復し、来りて傭を請う者、日々三十人を下らずと云う・・・」

さらにこんな話も。ある日、良平が自分の林を見回っていた時、身なりの貧しい一農婦が山に入って筍を掘っていた。良平を見て驚き、筍を捨てて逃げ帰った。良平はこっそりとあとを付けて行ったところ、農婦はあばら家に入っていった。良平は家に帰り家人に命じて芋一荷を届けさせた。

前号でも紹介したように、『黒木町年表』(昭和六十三年刊)に、享保年間、西村仁兵衛が矢部村山地を開墾したことは書かれていたが、それ以上のことはわかっていなかった。この『篤行傳』により、士分を与えられた時期や禄高がわかる。また、西村家は地元全体が潤うようにいろんな手立てを講じていたことや、それゆえに地元民から慕われていたことも。

別に調べた西村正綱の戸籍とこの『篤行傳』をあわせると、西村家の家系は享保年間の仁兵衛から、良平―恕平―正綱―軍次郎・・・とつながる。ルイは正綱の二女、軍次郎の妹である。

隆盛を誇った西村家にも幕末維新の大波は及ぶ。ルイが晩年、孫たちに残した話によれば、明治十年の西南戦争で西郷方に肩入れ(大砲を買う資金を提供)したことなどから次第に財を失う。この地域は西郷方につく者が多かった。

それでも明治十五年生まれのルイが幼いころには兄姉妹ごとに乳母がいたというから、相応の財力は維持していたものと思われる。

そんな西村正綱が明治二十二年、福岡市に出て、さらに同二十七年、旧久留米藩士グループが入植していた福島県郡山の安積開墾地に合流したのにはどんな事情があったのだろうか。

正綱は安積では視学官(教育行政官)をつとめ、酒好きで開拓民にもふるまっていたというから、落ちぶれて福島に渡ったというイメージはない。請われて赴いたのだろうか。(続く)

 「文芸なかむら」31号
 2015年12月刊

中国文学 一海知義先生

 著名な中国文学者であった一海知義先生(神戸大学名誉教授)が11月15日、亡くなられた。その「お別れ会」が12月20日、神戸大学で行われたので、「幸徳秋水を顕彰する会」は、以下の追悼メッセージを送りました。


 一海知義先生「お別れ会」へのメッセージ

幸徳秋水は、人間の自由、平等、博愛を掲げた先覚者であり、日露戦争に対しては敢然と非戦論を唱えました。

幸徳秋水は名文家としても有名であり、多く漢詩を残しています。その中の代表作に、処刑される直前、獄中で書いた詩があります。

このいわゆる「絶筆詩」は秋水が生まれた、わが高知県四万十市に記念碑として建てられています。

2001年、秋水刑死90周年記念事業として、この記念碑のそばに解説板を建てることになり、漢文学者として著名な一海知義先生に詩の解説文をお願いしたところ、ご快諾をいただきました。

いま四万十市には、秋水記念碑と相並んで先生による解説板が建っています。

一海知義先生に改めて感謝を申し上げますとともに、こころからのご冥福をお祈りいたしします。

また、安保関連法案が強行採決され、日本が再び「戦争ができる国」になった今、幸徳秋水の訴えを忘れず、戦争のない平和な日本をめざし、行動することをお誓い申し上げます。

 2015年12月20日
 幸徳秋水を顕彰する会
 会長 久保知章

 幸徳秋水絶筆碑 一海知義先生  解説板

 秋水の絶筆詩(訳 一海知義先生)

 区々成敗且休論  
千古惟應意気存
 如是而生如是死
 罪人又覚布衣尊

 区々たる成敗は且く論ずるを休めよ
 千古惟まさに意気を存すべし
 是の如くして生まれ 是の如くして死ぬ
 罪人また布衣の尊きを覚ゆ

 こまごました成功失敗について、今あげつらうのはやめよう。
 人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ。
 このように私は生きて来て、このように死んでいくが、
 罪人となってあらためて無官の平民の尊さを覚えることができた。

ふるさと納税

  最近の「ふるさと納税」の過熱ぶりには、釈然としないものを感じる。当初の理念とはかけ離れているし、続けるのなら政府公認の「お得な節税対策」、あるいは「全国特産品斡旋制度」などと、名前を変えたらいいのではないか。

 この制度は2008年度から始まった。それまでも都会に住む地方出身者などで、ふるさとのために役立ててほしいと寄付をする者は多くいた。その寄付を幅広く行いやすくするために、その人の納税額の一部を居住地からふるさとにシフトさせる制度である。つまり、人々の「善意」を促したものである。

私が市長になった2009年あたりは、まだ「ふるさと納税」は、ほんのわずかだった。しかし、そのほとんどが10万、50万、100万などと高額な方ばかりだった。どなたも寄付という感覚だったと思う。

善意とはいえ、そんな高額な寄付をもらいっぱなしでは申し訳ないと思い、心ばかりのお礼の印として、個別対応として地元特産品を贈ることにした。それでも、そのことにより寄付が多く集まった訳ではなかった。

そのうちに、他県の一部では、1万円以上寄付した方にお礼の品を送ることを制度化して寄付をふやしているところがあるという情報をえたので、それではうちは5千円以上で制度化してみようということにした。お礼は寄付額の半額相当の特産品を贈ることとした。

当時は、このような例はまだ少なかったので、四万十市がネットサイトで紹介されたこともあり、急に寄付が増え始めた。担当者はお礼の品の発送などの事務処理にテンテコ舞いになった。

市では、その直前に「四万十市ふるさと応援団制度」をつくっていた。地元出身者など四万十市に縁のある方に呼びかけ、いろんな形でふるさとを応援してほしいというもので、会費無料、登録をしてくださった方には、ネットで四万十市の情報を定期的に届けるというものであった。四万十市ファンクラブと同じようなものであった。

四万十川ウルトラマラソンや水泳マラソン参加者などにも呼びかけ、結構多くの人が入団してくれ、順調に団員が増えていた。

それならば、ふるさと納税をしてくれる方々もきっと入団をしてくれるだろうと思い、登録申し込み用紙を送った。ネットでも受け付けた。

しかし、予想は裏切られた。反応はほとんどなかった。意外であった。
そうした人たちのほとんどは、「お礼の品 狙い」であった。

それでも半額は寄付になるので、本人にとっては持ち出しになるのではないかと思ったが違った。そうした人たちは制度の詳細を知っていた。

所得や家族構成にもよるけれど、当時は自己負担4千円(現在は2千円まで減額)を超える額については、税金控除で戻ってくる仕組みであった。

そうした人たちは、ほとんどが1万円の寄付であり、全国他の市町村にも寄付をしていることがわかった。たとえば5口(5万円)で寄付を分けると、5千円の5倍の2万5千円のいろんな品が各地からもらえる。それでいて自己負担は4千円だけ。差し引き2万1千円のお得になる。

その後、全国の市町村でもこのことに気がついて、返礼品ラッシュが始まった。だから、いまの四万十市は目立たなくなってしまっている。

この制度のポイント。得をする人の順に・・・

1、 納税者。返礼品を「ただで」たくさんもらえる。

2、 特産品の生産・出荷者。
地元市町村がまとまった量を買い上げてくれることになる。

3、 納税してもらう自治体。半額は残るので。
しかし、職員は事務対応に追われ、臨時雇用を入れているところもあるので、こうしたコストを差し引けば、騒がれているほど多くは残らない。

一方、損をするのは、納税者が現に住んでいる自治体と国。
本来入るべき税金(市県民税=自治体、所得税=国)が入らないので。

納税を受ける自治体にしても、他の自治体に納税をする住民もいるし、その逆もあるので、それぞれ差し引かねばならない。しかし、自治体全体(ネット)でいえば税収減になる。また、国も間違いなく税収が減る。要は、国民の税金負担で、税に詳しい一部の人だけに恩恵を与えているということになる。言わば、税金のばらまき。

この制度は、本来「善意」の寄付であったものが、現状では、「国公認の節税(脱税)制度」、あるいは「全国特産品斡旋制度」になっている。

制度のこのような変容は国も想定外であったので、ひところは返礼品偏重を抑えるよう指導をしていたが、いまでは逆に制度をさらにひろげるなどして(負担額の軽減等)、「地方創生」のイメージアップ戦略に利用(悪用)している。

「羊頭狗肉」という言葉がある。
だから、釈然としない。

高知県知事 尾﨑正直殿

 市民グループが高知県知事に伊方原発再稼働容認発言の撤回を求める署名を提出。私も署名しました。


  高知県知事 尾﨑正直殿
                        
 高知県民からの訴えです。「伊方原発再稼働やむを得ない」発言を撤回してください。そして、再稼働は容認しない旨、四国電力と中村知事に要請してください。

原発の過酷事故が起こったとき、私たちには、被曝の覚悟はありません。放射能に汚染された土壌の上で、健康への不安に怯えながら、子々孫々、生活していくことはできません。また、うまく避難できても故郷に戻れない片道切符はいやです。
県民の命と暮らしを破壊する恐れのある原発再稼働は、経済的利益のみを追求する企業の暴力です。人々の生存権を否定しかねない、このような理不尽な暴力を私たちは許しません。

県が四電との学習会を重ねてこられたことには敬意を表しますが、これは決して、安全を保障するものではありません。市民の中にも科学者はたくさんおり、私たちは県民との学習会もしていただくことを要請しましたが、そのようなことはしないと一蹴されたことを、はなはだ遺憾に思っています。

企業重視県民軽視の姿勢の結果としての知事発言だと思います。知事には、県民の命と暮らしを守る責任があります。勝手に再稼働を容認しないでください。

発言を撤回してほしいという、900名余りの一人ひとりの声を持参してまいりました。わずかひと月足らずの間で、私たちのまわりだけで集めたものですが、実際はさらに、たくさんの数えきれない声があることを真摯に重く受け止めてください。

 2015年12月9日

 賛同人取りまとめ責任者  松尾美絵


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高知新聞2015.12.10

地方自治

 地方自治の息の根が止められようとしている。
いまの沖縄に対する国のやり方をみると、地方自治にかかわった一人として黙ってはおれない。

私は民主主義の両輪は人権と地方自治にあると思う。
地方自治といえば、地域の人権のようなもの。国の中にはいろんな地域がある。自然、風土、文化、歴史、生活等が異なる。だから、国がすべてを画一的に決めてしまうのではなく、それぞれの地域に自治権といって、自分たちの裁量で決める権利が憲法で認められている。詳しくは地方自治法で定められている。

その権利を国が奪おうとしている。飴とムチによって。

飴は、国による辺野古地区への「基地対策費=補助金」の直接交付。辺野古住民を抱き込むカネである。

辺野古住民は、日本国民である前に、名護市民であり、沖縄県民である。この種の補助金は、これまですべて県および市町村を経由してきたのに、基地反対の県市の頭越しにカネをばらまくという地方自治の仕組みを踏みつぶすやり方。しかも住民を官邸に呼びつけて。

ムチは、国が知事の権限を奪う「代執行」。翁長知事が辺野古の埋め立て承認を取り消したのが違法だとして国が提訴するという驚くべ内容。こんな裁判、かつてなかった。地方自治法に基づき国が自治体に委ねていた「法定受託事務」を奪い返そうというもの。

国の主張は「防衛」は国の専管事項ということ。これを認めるとしても、なぜ先の戦争で唯一戦場となり多くの犠牲者を出し、戦後も国内米軍基地の74%が集中する沖縄にさらにつくらなければならないのか。佐賀県知事がオスプレイはダメと言うと簡単に引っ込めたのに。

沖縄が地理的に戦略上重要なのか。かつてはそうだったが、アメリカは特定場所に軍を集中させると攻撃された場合等のリスクが高いことから、いまは分散を進めている。

森本元防衛大臣は「軍事的には沖縄に基地をつくる必要はないが、政治的には必要」と言った。これが本音。

つまり、アメリカに「いい顔をする」には、日本のどこかに基地をつくってやらなければならないけれど場所がない。沖縄なら遠く離れているし、反対の声も届きにくいので、犠牲になってもらおうというもの。

いまの沖縄は防衛問題以前に地方自治のあり方が問われている。このままでは地方自治が死んでしまう。自治体は国の出先機関になってしまう。

TPP、原発もしかり。
国家機能はますます強大化する一方で、地方自治は息も絶え絶えだ。

沖縄は、その「みせしめ」である。

そんな沖縄を見捨てていいのか。
沖縄はわれわれ自身の問題である。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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