続 獅子の時代

昨年11月4日のブログの続き。

ビデオで「獅子の時代」(1980年、NHK大河ドラマ、全51編)を見終えた。感想は・・・

(1) よくもNHKがこんなすばらしい歴史ドラマをつくったものだ。いまのHNKでは考えられない。

(2) さすが山田太一のオリジナル脚本。歴史を描く視点が違う。幕末から明治維新~帝国憲法発布(明治22年)まで。英雄や権力者の視点でなく、名もなき民衆の目線等、多角的視角からダイナミックに歴史を描いている。

(3) 結末がいまの日本の憲法状況に酷似している。憲法があぶない。

 ドラマは男2人を軸に展開する。旧会津藩士平沼銑次(菅原文太)と旧薩摩藩士苅谷嘉顕(加藤剛)。2人は実在しなかった人物だが、歴史の象徴として描かれ、実際にあった歴史的諸事件の中に登場する。パリ万国博、会津戦争、函館五稜郭、明治6年政変、西南戦争、大久保暗殺、北海道樺戸監獄~そして、大日本帝国憲法発布、秩父事件で終わる。

苅谷嘉顕は明治政府の中枢にいて、民衆が主人公の新しい日本をつくろうと理想に燃える。しかし、それゆえに西南戦争では父と刀を交えることになる。民衆主権の憲法制定をめざし、憲法草案をつくる。しかし、伊藤博文主導で実際につくれられた憲法はドイツ王朝を模したもので、天皇主権により、国家が民衆を統治する仕組みになっていた。国家が憲法を国民に授ける。絶望の中で、苅谷は死ぬ。

平沼銑次は、常に民衆の中にいた。新しく生まれた国が民衆を苦しめるようでは、徳川様の時代と変わらないと叫ぶ。監獄に何度もぶち込まれる。最後は、秩父困民党による蜂起に参加し、「自由自治元年」の旗をかかげて山の中に消える。

いままた、国家の強圧で憲法解釈が変えられ、沖縄では「自由自治」が踏みにじられている。

国民は従順なウサギであってはならない。勇猛果敢に牙をむく獅子でありたい。

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奥宮健之 小松丑治 岡林寅松

 1月24日、市内の正福寺で幸徳秋水刑死105年墓前祭を行った。例年この日は寒い日になる。今年も前日からの雪で心配したが、祭事中はしばし晴れ間がのぞき、無事終えることができた。主催は私もメンバーの「幸徳秋水を顕彰する会」。今年は、大阪から「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」からたくさん参加をいただいた。

墓前祭に続いて、文化センター会議室で記念講演会「非戦の系譜―大逆事件 土佐の犠牲者たち」を開いた。

事件では26人が犠牲(死刑12人、無期懲役12人、有期刑2人)になった。うち高知県出身者が5人いた。中村生まれの幸徳秋水が死刑、室戸市生まれの坂本清馬が無期懲役であった。秋水は事件のリーダーに仕立てられた。また、清馬は事件最後の生き残りとして1961年、再審請求裁判をおこした。だから、2人の名前は、よく知られている。2人の墓は同じ正福寺に並んである。

しかし、残る高知市生まれの3人については、あまり知られていない。そこで、記念講演会では2人の講師に、この3人について話をしてもらった。

(1) 奥宮直樹さん(大阪、管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会)に「自由党闘士 奥宮健之」について。

 直樹さんは同じ奥宮姓でルーツが健之と同じ(高知市布師田)。健之は植木枝盛と同世代(生年も同じ)で、死刑になったのは53歳で、犠牲者の中で最高齢。自由民権運動、自由党の闘士であり、枝盛とは全国遊説をさかんにおこなった。秋水にとっては先輩格であった。名古屋事件で12年間入獄。自由民権から社会主義思想へ。最後には、片山潜らの普通選挙運動にも参加した。

(2) 上山慧さん(大谷大学大学院修士課程)に「神戸平民倶楽部 小松丑治 岡林寅松」について。

 無期懲役になった小松と岡林については、すでにこのブログで3回書いた(2014.7.20, 9.20, 11.17)。2人は小学校同級生であり、神戸でも同じ海民病院に勤務していた。秋水らが発行していた「平民新聞」を読むようになり、「神戸平民倶楽部」をつくって読書会(勉強会)を開いていた。ただ、それだけの活動であったが、事件のフレームアップにより連座させられた。秋水に会ったのは、小松が大阪での演説会で一度だけ。岡林は、会ったこともなかったのに。

講演会の翌日、上山さんを高知市内にある小松、岡林の墓に案内した。

墓前祭の前日(1月23日)には、高知市自由民権記念館で同館友の会および高知近代史研究会の共催により、ドキュメンタリー映画「100年の谺(こだま)」(2012年作品)の上映会もおこなった。

高知県出身の5人に共通するのは「自由民権の申し子」であったということ。いま安保法が成立し、日本は再び戦争ができる国になった。

だからこそ、100年前、彼らが唱えた非戦論や「自由・平等・博愛」について、改めて学ぶことが重要である。国家の暴走。100年前といま同じ状況にある。

なお、記念講演会の資料をご希望の方はご連絡をください。→ zen-tanaka@heart.ocn.ne.jp または私のFB(フェイスブック)にメッセージをください。
 
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寒を待つ

 今年の冬は暖かい。今週になってやっと雪が降ったぐらいだ。

幡多は「冷やい」ところである。高知市よりも南西であるが、こっちのほうが気温が低い。高知市あたりは四国山脈が壁になっているが、こっちは山口県下関~豊後水道が風の道になっているためだ。愛媛県佐田岬から宇和島沖を通り、日本海からの冷やい北風がビュンビュン入ってくる。

最近の冬の四万十川は寂しいものだ。アオノリ採りの舟と人が出ないからだ。以前は、川が舟で埋まっていた。われ先にと、ワイワイガヤガヤ、にぎやかだった。

四万十川の天然スジアオノリは最近さっぱり採れなくなった。理由はいろいろあるが、一番の原因は川の水温が下がらないため。地球温化の問題もあるだろうし、四万十川固有の問題もあるのかもしれない。ごく最近では、河口の砂州が消失してしまったことも影響しているものと思われる。

アオノリは寒いほどによく採れる。採ったアオノリに付着している小石をとりのぞいたあと、河原に縄を張って干す。北風に揺れる風景は、冬の四万十川の風物詩になっていた。

ここらの農家は、たいてい川舟ももっている。冬の農閑期にはアオノリを採るためだ。アオノリの収入はかなり大きなものがあり、以前からそのおかげで冬場の出稼ぎには行かずにすんでいた。アオノリが採れないことの地域経済への打撃は大きい。

四万十川上流、四万十市西土佐では、3年前、8月の気温が41度と国内最高を記録した。

しかし、ここらは、もともと冬は寒いところ。夏は暑く、冬は寒い。季節のメリハリがあってこそ、自然の本来の姿だ。

冬の四万十川は寒くないと、本当の四万十川ではない。

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長谷川賀彦 元中村市長

 12日、長谷川賀彦さんが亡くなった。享年90歳。
2代目中村市長を昭和37年から3期12年、続いて県会議員(社会党)も3期つとめられた。

昭和2年、旧蕨岡村生まれ。地元青年団長。郵便局に入ってからは組合運動に熱心で、全逓(全国逓信労働組合)中央本部執行委員(専従)として東京にも派遣された。

昭和36年、大逆事件最後の生き残り、中村の坂本清馬が事件の再審請求裁判を東京でおこした時、長谷川さんも東京にいたこともあり、その支援組織「大逆事件の真実をあきらかにする会」の結成にもかかわった。

中村市長になったのは34歳の若さであり、きりっとした顔立ちと堂々とした体躯に、党派を超えた人気があった。発足間もないころの中村市(昭和29年合併)の安定と発展のために尽力。国鉄中村線の開通(昭和45年)と安並運動公園の整備が、その代表。中村は名実ともに、高知県西部、幡多の中心となった。

中村まで汽車が着いたのは、私が高校3年の時だった。それまでは土佐佐賀まで。初めて中村から汽車に乗った時の感動は忘れられない。幡多が「陸の孤島」ではなくなった。一條神社境内にその記念碑が建っている。

私の父も郵便局につとめていたので、同年代の長谷川さんとは親交があった。しかし、私が長谷川さんと直接お話をしたのは、私が四万十市長(中村市から通算8代目)になってから。

長谷川さんは、すでにすべての公職を離れられ、ご体調も十分ではないため、ご自宅で静養をされていた。何度かお伺いする機会があり、いろんな思い出話をうかがった。

その一つが、昭和44年落成の文化センター建設の経緯。
長谷川さんは中村市にも公民館以外に総合文化施設がほしいと思っていた。その候補地として旧県立中村女学校跡地があがっていた。しかし、土地は県有地であることなど、いろんな経緯があり、県が「幡多文化センター」として建設することになった。

いろんな経緯の一つが、県側の思惑。長谷川さんは高知県西部を代表する「革新市長」であったので、当時の中内知事には目障りな存在であった。多くの実績をあげていた長谷川市長にさらに「手柄」を与えたくないとの背景があったという。

長谷川さんが市長引退後、文化センターは中村市に移管(譲渡)され、「中村市立文化センター」となった。

この文化センターは、いま老朽化し、建て替えが必要な状態になっている。私はこんな経緯からも、県に関与(協力)を求めることが必要であると思っている。

県立施設として建設したのなら、本来その後の運営管理も県が行うべきであった。実際、ハコモノというものは、建設費用よりもその後の管理費用の負担が大きいものである。この間の中村市(四万十市)の負担は、すでに当初の建設基金の額をはるかに超えている。いまさらながら、なぜ県から譲渡を受けたのだろうと思う。

宿毛市には県立病院、土佐清水市には県立水族館、黒潮町には県立総合スポーツセンター(サッカー場、体育館など)などがあるにもかかわらず、いまの四万十市には幡多の中心にもかかわらず、そのような県の施設は何もない。

私は平成25年度から文化センター建設基金積み立てを開始していた。しかし、私が市長を辞した翌年からはこの積み立てがストップしている。

現市長には、以上の経緯をふまえ、文化センター建て替え事業に積極的に取り組むことを期待したい。

長谷川さんは、いまの日本の行く末を心配されていた。
3年前、元市長として「脱原発をめざす首長会議」への入会をお願いしたところ、こころよく承諾をしてくださった。

地方自治の先輩、長谷川賀彦さんのご冥福を祈ります。

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2つの成人式

 1月11日は「成人の日」であったが、四万十市は今年も正月休みの1月3日に成人式を行った。市内2カ所、中村会場と西土佐会場に分けて。

高知県下自治体で会場を分けて成人式を行っているところは四万十市だけ。詳しく調べた訳ではないが、おそらく全国にもこんな所はないのではないか。なぜこうなっているのか、この経緯について、説明しておきたい。

2005年4月10日、中村市と西土佐村が合併して四万十市が発足した。長い歴史をもつ二つの自治体が合併したのであるから、諸制度や仕組みをすぐに統一することはむずかしく、しばらくの間、併存することは、よくあることである。

しかし、合併10年を過ぎても、なお成人式が分かれたままというのは異常である。

私が市長をつとめたのは合併5年目から4年間。調べてみると、何年後をメドに統一するというような、正式の記録や申し合わせは残っていなかった。しかし、旧西土佐村職員の話では、「西土佐村立小学校に入学した生徒が中学校を卒業するまでの間」は、独自の成人式を残したいという「議論」があり、そういうことになっているということであった。それによれば、2014年1月の成人式から統一することになる。私はもっと早く統一したほうがいいと思ったが、これに従った。

成人式の所管は教育委員会である。2012年、教育委員会でもこのスケジュールを確認し、正式決定は改めて西土佐地域の住民の方々に説明をしてから行うこととなった。

教育委員会は、西土佐区長会総会の席でこのことを説明。反対意見は一つも出なかった。その他関係者からも異論を耳にすることはなかった。

そうした中、私は2013年5月、市長を辞した。同6月、井口教育長も。2014年1月から統一成人式になることを、疑わないまま。

ところが、そうはならなかった。私らが退任したあと、西土佐の一部から反対の声が突然あがり、新市長、新教育長がそれを認めてしまったのである。いつから統一するかも決めないまま、無期延期。

四万十市の今年の新成人は約300人。うち西土佐の約30人は全員が西土佐中学の卒業生なので、成人式は同窓会のようなもの。少人数ゆえに、緊張感の中に、ほのぼのとした温かさがある。1人1人が前に出て、新成人としての夢と希望、決意表明をおこなう。それを地域の人たちが見守る。手作り感のある素晴らしい門出の式である。

だから、このような成人式は残してほしいという気持ちはわかる。私が市長時代もそのような雰囲気が感じられないわけではなかった。

私は市長になる前、合併には反対であった。しかし、西土佐での住民投票では合併賛成のほうが多かった。そうした経緯を経て合併し、新しい四万十市になった以上、いつまでも成人式が分かれたままという訳にはいかないだろう。どこかで区切りをつけなければならない。

特に、成人式といえば、将来の四万十市を担う青年が心一つになってもらい、市民が期待を託す場である。その青年が一つになれないということは、四万十市としてゆゆしきことであり、対外的にも「かっこいい」ことではない。新市としての結束力が問われる。

成人式にはいろんなやり方がある。もし西土佐が独自に行いたいのなら、必ずしも官製(自治体がおこなうもの)の儀式にこだわる必要はなく、地域独自でいろんな工夫をすればいいのではないか。2次会を自分たちだけで行うという方法もある。

行政として「1市2制度」は合併の自己否定になる。いまの中平市長は元西土佐村長として合併を強く推し進めたのだから、その責任を完遂してほしい。

南海地震

 新年早々、高知新聞が連載「昭和南海地震の記憶」をおこなっている。昭和21年12月、南海地震が発生してから今年で70年になる。南海地震は過去約100年に一度おこっているから、その準備にそなえなければならないという警告である。

昭和南海地震での死者は全国で1330人であったが、うち高知県が679人で最も多かった。さらに、高知県では、旧中村町が273人で最多であり、中村が全国で最も多くの犠牲者を出した。全員が建物倒壊による圧死または火災による焼死である。その生々しい証言が載っている。

ここで留意をしなくてはならないのは、津波による死者はゼロだったということである。中村の町は四万十川河口から上流約9キロ地点にあることから、大きな津波はここまでは達しなかった。河口にある旧下田町には、津波が迫り、港の船などが一部流されたが、死者が出るほどではなかった。

また、もう一つのポイントは、中村町に隣接する東山村、具同村、八束村などでも死者は出たものの合わせて18人と、中村町に比べると少なかったということ。(旧中村市エリアの死者はこれらを合わせて291人)

この理由は、ひとえに中村の町の地形的要因による。旧中村町の行政区域は、四万十川本流と支流の後川に囲まれた範囲、つまり川の土砂の堆積で形成されたデルタ上に乗っかった部分であり、地盤が極めて脆弱である。だから、被害が中村町に集中した。

私の父が生前よく言っていた。私の家がある旧八束村では家が傾くか屋根瓦が落ちる程度であった。だから翌朝、父は仕事の出勤(郵便局)で、自転車で中村の町に入ったとたん、その惨状に驚いた。川の内と外ではそれほどの差があったのだ。

5年前の東日本大震災での死者はほぼ全員が津波によるものであった。その映像が生々しいだけに、ここのところ地震と言えば津波を連想してしまう。

高知県ではいま、次に必ずやってくる南海地震対策(南海トラフ巨大地震)を進めているが、その対策も津波対策が先行している。四万十川河口付近に海岸部をもつ四万十市においてもそうである。5年前、私は市長だったので、津波避難路の確保や避難タワーの建設などを集中的におこなってきた。

しかし、四万十市において、最も恐ろしいのは中村市街地部分の建物倒壊である。過去の歴史が証明している。

津波対策のメドがついた今、これからは建物倒壊対策に重点をおかなければならない。

連載で、高知大学岡村眞教授が言っている。

「津波は来る前に逃げればいいが、建物が倒壊すれば逃げることもできなくなる。」

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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