平野貞夫 講演会

 2月27日、平野貞夫講演会「今、この時代をどう考えるか-そして選挙のこと」が四万十市立中央公民館ホールで開かれた。主催は、選挙を自分たちの手に取り戻そうと立ち上がった市民グループ「高知勝手連」(私は顧問の1人)。次の参議院選挙で野党共闘を求めており、いま立候補表明している野党候補2人(大西聡、三ヶ尻亮子)をゲストに迎えた。約200人集まった。

平野氏は小沢一郎の知恵袋と言われ、常に政界再編行動を共にしてきた。参議院議員2期は、無所属→自民党→新生党→新進党→自由党→民主党と転変した。土佐清水市出身であることから、幡多では根強い人気がある。80歳のいまでも政治団体「土佐南学会」(千葉県柏市)を主宰し、幅広い人脈を活かし、政治活動を続けている。

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 平野氏の話の要旨は以下の通り。

1.政治学者(東大名誉教授)だった京極純一先生が亡くなった。先生は旧制中村中学・高知高校卒。私の政治理念、行動は先生の影響を受けている。政権交代のない国はおかしい - 細川政権誕生の裏には先生の力があった。

2.今は(安倍独裁となり)国会がまともに機能していない。いまこそ、この幡多が立ち上がる時。明治維新はまだ終わっていない。明治13年、国会開設請願全国署名人8万6千人のうち土佐が4万8601人(56%)、さらにこのうち3万9895人は幡多から(全国の46%、土佐の82%)。請願文では、「国家の原則は人民」と唱っている。これに対し、いまの自民党改憲案では、国民は国家の犠牲になれと書いている。明治以前に逆戻りだ。

3.私は保守本流。憲法9条は、人間である限り守らなければならない掟(おきて)のようなものと思っている。決して外国から押し付けられたものではない。鈴木安蔵らの努力が映画「日本の青空」に描かれている。人類は、2度の世界大戦で3千万人の死者を出した。その反省のシンボルが9条であり、「神が人類に与えた矜持」。歴代自民党政権も集団的自衛権は認めないことで、首の皮一枚これを守ってきたが、安倍が「冒涜の扉」を開いた。人類史上最大のピラミッドが壊れたら地球はおしまいだ。3.11以降、歴史が逆戻りしている。

4.いまの野党再編について。民主、維新の統合はギリギリ破談もないとはいえない。ベストは民主+維新+生活(小沢を除いた)+社民。共産提案の5党協力はこれに近い。しかし、「安保法廃止」だけでは念仏化してきている。格差社会をやめさせるために消費税凍結を打ち出すべき。でないと、先に(消費税凍結を)安倍にとられてしまう。

5.原発は戦争の道具。省エネを進めれば原発はいらん。TPPは経済協定ではない。日本文化や日本そのものを売るもの。日本はまだ敗戦国扱い。クリントンはTPP反対。サンダース人気もある。TPPはまだどうなるかわからない。日銀はいま世界の賭博場になっている。

 ・・・・

 続いて、大西聡、三ヶ尻亮子両氏があいさつ。参議院選挙に臨む決意を表明。一本化(大西に)が迫っていることがうかがえた。

自公に勝つため、参院で改憲勢力に3分の2を与えないためには、一本化しかない。
その候補者は市民主導で決める。
この講演会はそのための大きなインパクトになったと信じたい。

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四万十川のアオノリ

 きょうの高知新聞に「四万十アオノリ栽培へ」という記事が載っている。8年前から、四万十市は高知大学と連携してアオノリ養殖の実験を進めてきたが、いよいよ具体的スケジュールにのぼってきた。

四万十川の天然スジアオノリは、かつてはたくさん採れた。冬の風物詩であった。淡水と海水が交わる汽水域で、川底の石にアオノリが付着しグングン成長する。川全体が緑色に染まった。30年ぐらい前までは、年間収穫量は20トンを超えており、全国の70%くらいを占めていた。

川筋の農家は、みんな川舟をもっており、冬場は競って採った。私の母もその1人だった。四万十川の冬の恵みであり、農家にとっては貴重な収入源だった。

ところが最近はアオノリがめっきり採れなくなった。せいぜい2,3トン、去年の冬にいたっては1トンも採れなかった。今年も今が最盛期だが、去年と同じくらいである。寂しい限りである。

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アオノリ生態調査の結果、不良の原因もはっきりしてきた。水温の上昇である。

秋から冬にかけての水温が低ければアオノリは成長する。しかし、汽水域の水温は流れてくる川の水温よりも海水温の影響が大きい。この間の地球温暖化の影響もあるだろう。

また、6年前、四万十川河口の砂州が消失した影響も大きいと思われる。塩分濃度の濃い海水がどっと入ってくるようになった。このため、汽水域の生態系のバランスが崩れたのではないか。河口近くは荒波の影響もあり、ノリが成長しなくなった。漁場が狭い上流に移動した。

最初は陸上養殖実験もおこなったが、うまくいかなかった。次に、川の中への流し網方式へ。この方式は、徳島県の吉野川河口域で先行しておこなわれており事績をあげていた。

流し網方式は、ノリの胞子を植え付けた網を川に沈める(流す)やり方であり、順調であった。そこで、いよいよ地元漁協(四万十川下流漁協)が事業化をしようということになった。

四万十川のアオノリの「売り」はあくまで天然ものである。しかし、天然物は、収穫が不安定。天然を補完するものとして、養殖もおこなうというものだ。

元手のいらない天然ものと比べ、養殖となるとかなりの資金が必要になる。市から補助金を出すにしても、一定の負担を事業参加者(漁協組合員)がしなければならない。

クリアーすべき課題は多いが、ぜひ軌道に乗せてほしい。

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四万十川の歌

演歌歌手三山ひろしが新曲「四万十川」を出した。あす21日には、本人が四万十市に来て、不破八幡宮にヒット祈願をしたあと、境内で歌を披露する。市街地には、四万十応援団の幟(のぼり)があちこちに立っている。

三山ひろしは高知県南国市出身で「ビタミンボイス」で鳴らしている。去年の「紅白」にも初出場した。しかし、これまで地元をうたった歌がなかった。これで、名実とも地元出身歌手として認知されるだろう。私も地元の1人として、この歌のヒットを期待したい。

四万十川をうたった歌は、ほかにも多い。
あの女優の市毛良枝も歌っている。「四万十川慕情」はあまりヒットしなかったので、地元でもほとんど知られてない。

バーブ佐竹「四季四万十川」は地元の人の作詞であることもあり、ひところ地元でよく歌われた。カラオケにも入っている。私も県外にいたころは、ふるさとをなつかしんで歌ったものだ。

そんな中、
私が一番好きなのはフォークグループ「笠木透と雑花塾」が歌った「四万十川」だ。この歌は、昨年4月、四万十市合併10周年記念式典でも、市内の小学生たちによって歌われた。

こんな詩(笠木透)である。

春の赤紫 カタクリの花
岩の間から 水は流れる
アイヌの人たちが いた頃は
ここはブナの 原生林だった

夏の白い花 トサシモツケ
緑に染まって 水は流れる
魚を育て 花を咲かせ
曲がりくねって 川は流れる

いつかは海へ 行き着くのだから
ゆっくりしよう 急ぐことはない
ゆうゆうと ゆうゆうと 流れる川よ
シマムタ お前の名は 美しい川

秋・・・

冬・・・ と続く

この歌はCD「ポスター -大逆事件100年-」に収録されている。

笠木透さんは、私が市長時代、2度四万十市に来てくれた。
2011.1.24 幸徳秋水刑死100周年墓前祭 
 同年 12.17 幸徳秋水平和音楽祭―LOVE&PEACE-
https://www.youtube.com/watch?v=4mhx5CEx83I

笠木さんは、2年前、逝ってしまった。
しかし、笠木さんの歌は、私の中に、流れ続けている。

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別海町

第4回高知龍馬マラソン(2月14日)に北海道別海町の佐藤良幸さんが参加してくれた。翌日は中村に迎え、市内のあちこちを案内した。

四万十市と別海町は行政同士で友好交流している。正確に言えば、本市は中村市時代の昭和44年から大阪の枚方市と友好都市協定を結んでいる。枚方市は、その後、別海町、沖縄県名護市とも協定を結んだ。そこで、枚方市を軸にして、4つの市と町が「友好都市サミット」を開催して、トライアングルで交流を進めている。

私は、2011年の市長時代、別海町で開かれたサミットに参加した。そこで佐藤さんに初めてお会いした。佐藤さんは、元役場職員でその時はすでに退職をされていたが、交流の場に参加をされていた。お若いころは別海町を代表するマラソンランナーだったとは、今回知った。

別海町は知床半島と根室半島の中間に位置する、オホーツク海に面した酪農地帯である。人口(1万6千人)よりも牛のほうがはるかに多い。見渡す限り牧草畑で山がない。雪印、明治などの牛乳工場がある。

トドワラで有名な野付半島の向こうには、国後島がそびえ立っている。

私が別海町を訪ねたのは2度。その前の農林中央金庫時代、札幌に2年間、勤務したことがある。1998年夏、オホーツクを一周した際、別海町尾岱沼で食べた名産の北海シマエビの味がいまでも忘れられない。

おととしの11月、本市でサミットが開かれた際には、ロイヤルホテルで水沼町長に再会した。

今回は佐藤さんと交流のある四万十市ランナー仲間にも集まってもらった。お互い、いまでは公務を離れたプライベートなお付き合いよるものだが、こうした交流は大切にしたい。

佐藤さんを中村駅で迎えた時、半そで姿だったのには驚いた。
日本は長い。佐藤さんは、また零下何十度の世界へ帰って行った。

佐藤さんありがとうございました。
私もそのうち3度目の別海町を訪ねてみたい。

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父が残した戦場日記

  いま黒潮町あかつき館(上林暁文学館)で企画展「父が残した戦場日記」が開かれている(~3月27日まで)。

この「戦場日記」については、私は2014年8月15日このブログで「英霊たちの叫び」として紹介した。日記はその年、娘さん(花井睦さん)の手によって出版をされた。

→ http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-101.html

大方町(現黒潮町)出身の倉橋一美さん(昭和18年、ニューギニア戦線で没)が戦場で書いた日記が、アメリカ兵によって持ち帰られ、戦後昭和31年、遺族(母、夫人、子供)のもとへ、届けられたというもの。日記(手帳)には望郷の叫びがいたましいほどに綴られている。

今回の展示では、その日記のほか、そのアメリカ関係者と交わした手紙などが展示されている。敵味方の恩讐を超えた友情をみることができる。

ところで、このほど新たな事実がわかった。昨年NHK海外ニュースで取り上げられ、HNK記者の追跡調査によって。

この日記(手帳)は、アメリカ兵が戦利品として倉橋さんの遺体から持ち帰ったものと誰もが思っていたが、事実は、その時、倉橋さんはまだ生きており、息も絶え絶えの手で、アメリカ兵に日記を託したものであった。そのことが当時のアメリカ地元新聞に書かれていた。

倉橋さんはまだ生きていた。それだけに、むごい。

2月6日には、この日記のことが広く知られるきっかけとなった高知新聞連載「祖父たちの戦争」を書いた福田仁記者による講演会も、あかつき館で、あった。花井睦さんも一緒に話をされた。

多くの方に、この展示を見てほしい。

日記はこの展示が終わったら、東京九段にある戦病者資料館「しょうけい館」に展示されるとのことである。

「しょうけい館」→ http://www.shokeikan.go.jp/

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東京墓参―大逆事件

大逆事件処刑106回追悼集会への参加(1月30日、東京渋谷区・正春寺)にあわせて、東京にある同事件犠牲者墓やゆかりの場所をたずね歩いた。

1. 奥宮健之墓
正春寺に管野須賀子の墓があることは前回書いたが、東京にはほかに奥宮健之(死刑)の墓も巣鴨染井霊園にある。奥宮は高知県出身犠牲者5人のうちの1人で、唯一高知県外に墓がある。

染井といえば桜の「ソメイヨシノ」の発祥の地。都立霊園には多くの著名人の墓もあり、若いころ一度訪ねたことがあるが、その時は奥宮健之のことは知らなかった。

奥宮の墓は周りに比べて小さいもので、妻サワと並んで名前が刻まれていた。雨の中、シキビと線香を立て、手をあわせた。

奥宮は植木枝盛と同年で自由民権運動の闘士として植木と一緒に全国遊説などをした。大逆事件犠牲者では最年長の53歳。霊園入口の著名人掲示板には「大逆事件で死刑となった。旧自由党員であった。」と書かれていた。

霊園には、同志であったろう、婦人解放運動家、福田(景山)英子の墓もあった。

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2. 刑死者慰霊塔(元東京監獄処刑場)
 幸徳秋水らが絞首刑になった場所。東京監獄跡は、いまは自衛隊市ヶ谷駐屯地になっているが、その一角にあった処刑場は、小さな児童公園の中に残っている。新宿区余丁町4、都営地下鉄曙橋駅から歩10分。

日本弁護士会連合会が昭和39年建立した慰霊塔には、町内会の人だろうか、花がさされていた。肌寒いシトシト雨は、秋水らの無念の涙であろう。

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3. 師岡千代子墓
秋水の妻。日暮里駅から高台に登った谷中霊園そばの多寶院(真言宗)。本堂の奥に師岡家墓があった。幕末平田派の国学者であった父正胤と母米子と3人連名で刻まれていた。

秋水は生涯3度結婚しているが、籍を入れたのは千代子だけ。1度目は西村(のち横田)ルイ、3度目は管野須賀子。しかし、千代子は須賀子の出現により、最後は幸徳籍から除かれたためか、いろんな書物では師岡姓で記録されている。千代子は知識、教養高く、秋水との思い出を書いた「風々雨々」は名著として有名。

住職夫人によると墓守はいまいないようで、無縁状態だという。
なお、中村の正福寺の幸徳秋水墓の並びにも「師岡千代子墓」が立っている。これは夫婦並んでという思いから坂本清馬が建てたものだが、遺骨は入っていない。

寺には立原道造の墓もあった。

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4. 横田(旧西村)ルイ墓

秋水最初の妻。福岡県黒木町(現八女市)生まれ、旧久留米藩士西村正綱の娘。西村家は明治26年、福島県安積開墾事業に参加。中江兆民同門の友人の紹介で結婚したが、1年もたたないうちに離縁。ルイは秋水の子を宿していた。子は再婚相手の大工横田の籍に入れられた。(横田ハヤ子)

このあたりのことは、このブログですでに計6回書いている。(2015.7.23~25, 12.26~30)

横田家墓は青山秩父宮ラグビー場そばの高徳寺(浄土宗)にあった。寺は浄土宗東京では増上寺に次ぐ高い格で、墓は孫の妻横田みつゑさんによって、しっかり守られていた。幸徳と高徳・・・縁だろか。

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5. 小谷(旧横田)ハヤ子墓

「秋水の子」ハヤ子は小谷清七と結婚。小谷家の墓は品川本栄寺(日蓮宗)にある。京急新馬場駅そば。ハヤ子は6人の子を産んだ。そのうち2人はいまも健在である。上記ブログに書いた。墓は立派に守られている。

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6. 平民社跡(巣鴨、千駄ヶ谷)

 秋水は日露戦争に対し、非戦論を展開し、内村鑑三、堺利彦とともに万朝報社を退社。堺とともに平民社を立ち上げ平民新聞を発行した。その拠点となったのが、当時秋水が住んでいた巣鴨。いまは大塚駅北口前である。あとで知って驚いたが、私は若いころ、この裏の高台に少しの間住んでいたことがある。今回は、大塚駅ホームから写真を撮った。チンチン電車の都電荒川線が走っている。

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平民社はその後、柏木(新宿)を経て、千駄ヶ谷に移る。ここで、秋水は管野須賀子と同棲する。宮下太吉、古川力作らが出入りし、うっぷん話が「爆弾事件」に仕立てられたのがここ。坂本清馬は事件直前に秋水と仲たがいをし、飛び出ていた。

いまの場所は新宿駅南口を出て甲州街道を下ったすぐの交差点の南側(渋谷区代々木2丁目7)。当時は前を玉川浄水が流れ、葵橋がかかっていた。隣家で親しくしていた増田謹三郎の紹介で、管野須賀子の遺体は近くの正春寺に埋葬されたということだ。

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7. さいごに

私は学生時代を含め、東京には長く住んでいたが、大逆事件関係の場所を訪ねたのは今回が初めてである。

今回改めて思った。秋水の活動拠点は東京であり、当然ながら、事件の痕跡も東京に多く残っている。しかし、事件の犠牲者(受刑者)は26人いるのに、東京に墓があるのは、管野須賀子、奥宮健之のほか新田融(有期刑、多磨霊園)の3人である。

和歌山新宮、熊本、大阪、岡山井原、長野・・・事件は全国規模に拡大(フレームアップ)され、当時の「主義者」が一網打尽にされたということ。

今回参った墓に、横田ルイ、師岡千代子、管野須賀子の墓がある。いずれも秋水の妻だった。ルイ、千代子は刑を受けた訳ではないが、秋水の影を背負い、死ぬまで日陰の暮らしを余儀なくされた。ハヤ子もそうだ。

これまでに地元高知、和歌山、岡山にある墓は訪ねたことがあるが、これからも、その他の墓を少しずつ参りたいと思う。

大逆事件はいまも生きているのだから。

大逆事件処刑106回追悼集会

1月30日、東京の正春寺(渋谷区代々木)で開かれた「大逆事件処刑106回追悼集会」にはじめて参加した。主催は「大逆事件の真実をあきらかにする会」(1960年発足、現代表山泉進・明治大学教授)

1911年(明治44年)1月24日、幸徳秋水ら12人が「大逆罪」により処刑された(管野須賀子は25日)。堺利彦など生き残った同志たちは、少数ながら、その翌年から命日に集まり、「茶話会」と称して、ひっそりと彼らを偲んだ。

これを引き継いでいるのがこの「追悼集会」であり、最近は1月の最終土曜日、管野須賀子碑(墓)がある正春寺で行われている。今年も遺族、研究者、全国で犠牲者顕彰活動に取り組んでいる人たちなどが集まった。

午後1時、管野須賀子の碑前で寺住職による読経があり、皆で手をあわせた。碑は、表に「くろかねの窓にさし入る日の影の移るを守りけふも暮しぬ 幽月女史獄中作 とし彦書」、裏に「革命の先駆者 管野スガここにねむる 一九七一年七月十一日 大逆事件の真実を明らかにする会 これを建てる 寒村書」と刻まれている。

空を見上げると、新宿副都心高層ビルと首都高速道路が覆っていた。ビルの谷間の寺である。

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続いて、会場を寺のホールに移し、山泉進代表のあいさつ、この1年間に亡くなった関係者に黙祷に続いて、参加者が次々にマイクを握り、活動、研究報告等をおこなった。

私は最初に指名を受けたので、「幸徳秋水を顕彰する会」の活動状況、前の週1月24日に開いた幸徳秋水墓前祭と記念講演のもようなどを報告した。機関誌「秋水」「秋水通信」なども配って。

続いて、大阪(須賀子顕彰会)、岡山県井原(森近運平の会)、長野明科(宮下太吉)、京都丹波(岩崎革也)、新潟小千谷(内山愚堂)、浄土真宗大谷派、平出修研究会、国際啄木学会、群馬、岐阜、演劇「太平洋食堂」、横浜事件裁判、大杉栄、金子ふみ子・・・

中身の濃い報告ばかりで、あっという間に3時間が過ぎた。
多くの新しいことを教えられ、また集会後の懇親会を含め、多くの方々と交流を広げることができた。

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「事件」から106年たったいまでも、このような集会が続いているということの意味。それだけこの「事件」は日本近代史を象徴する出来事であり、歴史の「恥部」であるということだ。秋水らが唱えた、非戦、自由、平等、博愛はいまでは達成されたのだろうか。特定秘密保護法、安保関連法・・・大逆事件はいまも生きている。

いまの状況を受けてか、この集会は最近参加者が増加し、100人前後になるようだが、今回は雪の予報が出ていたせいもあってか、約70人と少なかったそうだ。それでも、すごい熱気だった

「大逆事件の真実をあきらかにする会」は、毎年機関誌「・・・会ニュース」を発行しており、今年もこの集会で最新55号が配布された。本号には、私も「西村ルイの実像―秋水最初の妻」を投稿している。

この集会は例年、秋水墓前祭(1月24日固定)と日程が接近するため、これまで中村からは参加が難しかったが、今年は6日間の開きができたので、やっと参加できた。

参加して、本当によかったと思った。
来年以降も、日程調整がつけば、ぜひ参加したい。

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プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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