笠木透 中津川へ
春の彼岸。3月20日、妻の両親の墓参りに岐阜県関ケ原町今須へ。去年の9月から半年ぶり。
今須は岐阜県の西端、滋賀県境にある旧中仙道の宿場町。中仙道は京都からここを通り、木曾谷、碓氷峠を越えて、江戸に至る。木曾谷に入る手前に中津川宿がある。
いつもなら、今須で墓参りをすませたら、親戚に挨拶をしてすぐにいったん大阪へ戻るのだが、今回は岐阜県東端の町、中津川へ向かった。
私にとって、中津川といえば笠木透さん。
笠木透さんといえば中津川、であるからだ。
笠木透さんは一昨年12月に亡くなった。その時、私はこのブログ(2014.12.26)に追悼文を書いた。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
笠木さんはフォークシンガーとされているが、その枠に収まらない多彩な活動をされていた。私は、5年前、幸徳秋水刑死100年の日(2011.1.24)に初めて、中村でお会いした。
それ以来、一度、中津川を訪ねたいと思っていたが、笠木さんの生前はそれがかなわなかった。
中津川に着いたのは夜。インター近くのホテルに泊まり、翌21日、笠木さんのお家をお訪ねした。事前に連絡をしていたので、奥様(由起子さん)以外に、同じ市内に住む娘さん(千絵さん)とお孫さん、フォーク仲間の大澤和代さん(男性)が待っていてくださった。
仏壇に手を合わせた。やっと来ましたよ。遅くなってすみません。あの大きな笠木さんが小さな写真に納まっていた。ああ、やはり笠木さんはもういないのだ。
しかし、お家は、笠木さんの存在感に満ち満ちていた。庭には、こぶしの木がちょうど花をほころばせていた。名曲「私の子供たちへ」に歌われたこぶしは、これだったのか。
部屋には、写真、色紙など、笠木さんのメッセージが壁いっぱいに貼られていた。「戦争放棄(箒)」「憲法104条」「ピースナイン」「でれすけ原発」・・・ 子供が自分が画用紙に描いた絵ををあちこちに貼るように。
笠木さんが訴えた「フィールドフォーク」とは、自分たちの歌は自分たちで作り、自分たちの地域で歌うこと。自分たちの歌をもつことは、自分たちを主張すること。それぞれが主張できるようになれば、権力にほしいままにされることはない。

部屋にこんな詩があった。
雑草は悲しい
いつも嫌われて
切られたり 抜かれたり
でも雑草があってこそ
微生物が生き
土は豊かになる
笠木さんたちのフォークグループ名は「雑花塾」。家の玄関横には、「雑美研究所」の看板がぶらさがっていた。

笠木さんのお墓は、お家から近い、畑の中にあった。バックに雄大な恵那山が横たわっていた。笠木さんは恵那山に何度も登っている。恵那山に抱かれてというよりも、いまも恵那山と対峙しているよう。
まわりは、ぐるり、山の尾根。あの「我が大地のうた」は、こうしたイメージの中でつくられたのだ。
私がうたう 歌ではない
あなたがうたう 歌でもない
わが山々が 私の歌
わが大地が 私の歌
笠木さんの戒名は「為雑花透頴居士」。
雑草こそが強くて美しい、こころの花を咲かせる。
笠木さんが撒いた雑草の種はいたるところで咲き続けている。

今須は岐阜県の西端、滋賀県境にある旧中仙道の宿場町。中仙道は京都からここを通り、木曾谷、碓氷峠を越えて、江戸に至る。木曾谷に入る手前に中津川宿がある。
いつもなら、今須で墓参りをすませたら、親戚に挨拶をしてすぐにいったん大阪へ戻るのだが、今回は岐阜県東端の町、中津川へ向かった。
私にとって、中津川といえば笠木透さん。
笠木透さんといえば中津川、であるからだ。
笠木透さんは一昨年12月に亡くなった。その時、私はこのブログ(2014.12.26)に追悼文を書いた。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
笠木さんはフォークシンガーとされているが、その枠に収まらない多彩な活動をされていた。私は、5年前、幸徳秋水刑死100年の日(2011.1.24)に初めて、中村でお会いした。
それ以来、一度、中津川を訪ねたいと思っていたが、笠木さんの生前はそれがかなわなかった。
中津川に着いたのは夜。インター近くのホテルに泊まり、翌21日、笠木さんのお家をお訪ねした。事前に連絡をしていたので、奥様(由起子さん)以外に、同じ市内に住む娘さん(千絵さん)とお孫さん、フォーク仲間の大澤和代さん(男性)が待っていてくださった。
仏壇に手を合わせた。やっと来ましたよ。遅くなってすみません。あの大きな笠木さんが小さな写真に納まっていた。ああ、やはり笠木さんはもういないのだ。
しかし、お家は、笠木さんの存在感に満ち満ちていた。庭には、こぶしの木がちょうど花をほころばせていた。名曲「私の子供たちへ」に歌われたこぶしは、これだったのか。
部屋には、写真、色紙など、笠木さんのメッセージが壁いっぱいに貼られていた。「戦争放棄(箒)」「憲法104条」「ピースナイン」「でれすけ原発」・・・ 子供が自分が画用紙に描いた絵ををあちこちに貼るように。
笠木さんが訴えた「フィールドフォーク」とは、自分たちの歌は自分たちで作り、自分たちの地域で歌うこと。自分たちの歌をもつことは、自分たちを主張すること。それぞれが主張できるようになれば、権力にほしいままにされることはない。



部屋にこんな詩があった。
雑草は悲しい
いつも嫌われて
切られたり 抜かれたり
でも雑草があってこそ
微生物が生き
土は豊かになる
笠木さんたちのフォークグループ名は「雑花塾」。家の玄関横には、「雑美研究所」の看板がぶらさがっていた。



笠木さんのお墓は、お家から近い、畑の中にあった。バックに雄大な恵那山が横たわっていた。笠木さんは恵那山に何度も登っている。恵那山に抱かれてというよりも、いまも恵那山と対峙しているよう。
まわりは、ぐるり、山の尾根。あの「我が大地のうた」は、こうしたイメージの中でつくられたのだ。
私がうたう 歌ではない
あなたがうたう 歌でもない
わが山々が 私の歌
わが大地が 私の歌
笠木さんの戒名は「為雑花透頴居士」。
雑草こそが強くて美しい、こころの花を咲かせる。
笠木さんが撒いた雑草の種はいたるところで咲き続けている。

