四万十とはどこ?

「2016奥四万十博」が始まった。「四国カルストから土佐の大海原へ」をコンセプトに、山、川、海に食を、とことん堪能してほしいという、観光キャンペーンだ。期間は、4月10日から12月25日まで。主催は、高知県の高幡ブロックの5市町でつくる推進協議会(須崎市、高岡郡中土佐町、四万十町、梼原町、津野町)である。

 いろんな観光キャンペーンをおこなう場合、その中身が一番大切であることはいうまでもないが、その名前(ネイミング)も結構大事である。

だから、私は「奥四万十博」のネイミングが気になる。言葉のイメージと私のエリア概念が一致しないから、頭が混乱する。

まず、推進協議会の本部がおかれているのが須崎市であり、会長も須崎市長であること。しかし、須崎市には一滴も四万十川は流れていない。

須崎市は天然の良港須崎港があるように、海の町である。もちろんカワウソで有名になった新庄川もある。ゆるキャラの「しんじょう君」は知名度全国級になっている。須崎市の川といえば新庄川だろう。市もそれを売りにしているのに。

「奥四万十」はだれもが四万十川の奥=上流というイメージを抱く。四万十川源流点の津野町(旧東津野村)や梼原町はそれにピッタリである。中土佐町(旧大野見村)や四万十町も四万十川上流域にあたるため問題はないだろう。つまり、肝心の本部を置く須崎市だけが枠外ということになる。

 実は、3年前(2013年)、幡多ブロックでは「楽しまんと はた博」という同じような観光キャンペーンをおこなった。私も準備段階でかかわった。こちらもネイミングに四万十を使ったが、四万十川が流れているのは四万十市だけ(厳密に言えば、宿毛市と三原村にも支流の一部が流れているが)であり、土佐清水市と黒潮町には四万十川は流れていない。

しかし、「楽しまんと はた博」の場合は、「はた=幡多」の言葉も使っていること、「しまんと」を「楽しむ」に引っ掛けていること、また推進協議会の本部を四万十市に置いたこともあり、このネイミングには、そう違和感はなかったのではないか。

2つのネイミングで考えさせられたのは、「四万十」がメジャーになったということ。そのインパクト。何としても「四万十」を使いたい、「四万十」を利用しない手はないということ。

しかし、では、みなさんに質問します。「四万十」とはどこですか???

地元の私が言うのですから間違いありませんが、「四万十」という地名はどこにもありません。

合併後、名前を変えた「四万十市」や「四万十町」はたしかにあります。しかし、それは、「市や町」の全域を言う総称のようなものです。しかもつい最近できたばかり。

古くから土着の固有名詞の地名には、「四万十」はどこにもありません。あるのは、「川」としての「四万十川」だけです。

だから、仮に四万十へ連れていってほしいと頼まれても、具体的にどのポイントに連れていけばいいのか困る。四万十を川の意味で使うのならば、四万十とは四万十川流域全体をさす言葉ともいえる。

しかし、そうならば、「奥四万十」からは須崎市は、はみでてしまう。
・・・何ともなやましい話だ。

あちらにも、こちらにも、「四万十」が氾濫している。みんなが勝手に四万十を使い、四万十を利用する。だから四万十が独り歩きする。

「四万十」はふわっとした風船のような言葉だ。

例えば、合併前の四万十市は、中村市と西土佐村であり、四万十町は、窪川町、大正町、十和村であったように、もっと地に足のついた地名を、忘れずに大切にしていきたいものである。



上林暁と幸徳秋水(5-終)

 「改造」は大正九年、山本実彦が「中央公論」に対抗して創刊した総合雑誌である。大正デモクラシーの潮流に乗り、小説など文芸作品のほか、社会主義関係の評論、論説などの「進歩的」記事も広く載せていた。山本は「弾圧」「絶賛」などの言葉をはじめて使った人である。

 上林が改造社の入社試験を受けたのは、そんな「進歩的」側面に魅かれたというより、あくまで文学志望であったものと思われる。しかし、最初「現代日本文学全集」校正の担当をしたあとは、「改造」編集記者となる。「當時最も急進的であったこの雑誌の記者になった時、僕は一種の興奮を感じたものであった」と、のちに書いている。

 作家だけでなく学者、社会運動家など各界著名人との交流が始まる。もっぱら下っ端として、原稿とりが中心であったが。作家では正宗白鳥、宇野浩二、川端康成など。入社早々、徳富蘆花の葬儀手伝いにも行かされた。蘆花はかつて「謀反論」で幸徳秋水を擁護した。

 昭和四年、文芸評論の懸賞募集において、宮本顕治「敗北の文学」と小林秀雄「様々なる意匠」の二編が選考に残り、編集部メンバーで決選投票をしたさいは、「當時指導理論とかイデオロギーとかいふことがやかましかったので」、宮本顕治に投じた。

 葉山嘉樹、林房雄、中野重治らプロレタリア文学を代表する面々とも原稿を通じて接触した。

こうした環境の中で「遅れて来た青年」も影響を受けないわけにはいかなかった。昭和七年発表の「星を撒いた街」「風はユーカリ樹に」「薔薇盗人」は、その表れである。

 中野重治は金沢四高出身の同年で、東大でも同時期に在学していた。しかし、最初に会ったのは改造社入社後で、筑摩書房を介して親しい関係になったのは戦後から。

昭和四十一年、上林暁全集が同書房から刊行されたその第一巻月報のトップを飾ったのが中野重治「無尽蔵を見せてもらう約束」であった。

 中野重治出身地の福井県丸岡町(現坂井市)の図書館に中野文庫があるというので電話で問い合わせてみると、重治所蔵本展示の中央に上林暁全集が座っており、ほかに「過ぎゆきの歌」など十四冊、うち「迷い子札」「御目の雫」には上林のサインがあるということだった。

 一方、あかつき館の上林所蔵本の中にも中野重治全集(筑摩書房)のほか中野単行本が十一冊あり、そのほとんどに著者謹呈しおりが挟まれており、うち「むらぎも」「小林多喜二と宮本百合子」には中野のサインがあった。中野全集十三巻月報には上林が「中野重治の印象」を寄せている。

上林長女の伊禰子さんによれば、芸術院会員だった上林が中野を同会員に推薦したこともあった。また、中野の家の庭のくちなしの木を分けてやるというので、伊禰子さんがその苗をもらいに行き、天沼の家に植えたことも。

二人は「文学仲間」を超えた関係だったようだ。

 上林全集十七巻月報、門脇照男「あれから三十年」によれば、昭和二十二年、上林居住東京杉並区の区長選挙に評論家でアナキストの新井格が出馬したさい、上林が街頭でマイクを握り応援演説をしていたのを見たという。

 また、上林の長男育夫の中村高校同級生だった松本秀正氏(小説「子の世代」のモデル)が昭和二十九年、法政大学に入学し上林の隣家に下宿した。当時の法政はマルクス主義経済学の大内兵衛総長であった。松本氏によれば、上林は法政大学の状況、とりわけ大内総長がどんな話をしていたか聞きたがっていた。また、同大学教授で文学者の本多顕彰が戦中戦後の知識人の都合のいい行動変化を指摘した「指導者―この人びとを見よ」がベストセラーになったさいも強い関心を示していた。(松本秀正氏、あかつき館での講演「上林暁の人と文学」、平成二十七年二月)

 こうした戦後の上林の様子からすれば、安保条約改定の年の昭和三十五年二月、地元高知県の坂本昭参議院議員(社会党)からの誘いに応えて、坂本清馬を支援する「大逆事件再審請求実行委員会」に足を運んだのもうなずける。

 上林に昭和二十二年「幸徳秋水の墓」という随筆がある。上林が秋水を知ったのはいつの頃かわからないが、その「禁断の墓」が中村にあることを知ったのは昭和十年頃であり、裁判所裏の芋畑の中にあったその墓を初めて訪ねたのは昭和二十二年であると書いている。また、昭和三十三年の随筆「土佐の中村」ではこうも書いている。

 「中村の自慢の種は、一條公さん(神社にも祀られてゐる)と四萬十川と、それから幸徳秋水ということになろう。秋水では、戦争前まで肩身の狭い思いをした市民も、戦後では逆に看板にしてしまった。中村で天下に名高いものと言えば、幸徳秋水よりほかにないからである。中村を訪れる文化人で、秋水の墓に興味を持たないものはない。」

 上林にとって秋水も清馬も同郷人であった。しかし、それだけで大逆事件犠牲者の名誉回復運動に協力したのではない。彼らの思想、正義に共鳴をしたからである。

 あかつき館の上林所蔵本の棚に、幸徳秋水処刑一週間後出版(明治四十四年二月一日)のボロボロに黒ずんだ秋水「基督抹殺論」を見つけたときにはドキリとした。

 私はこれまで上林暁は純粋に文学だけに生きた人だと思っていた。しかし、彼はエミールゾラ(フランス)や広津和郎のような行動をとっていた。

 私はそこに「知識人」上林の良心と見識を発見することができ、溜飲を下げた思いである。

 (終)

 大方文学学級「大形」291号(2016年3月)掲載
 5回連載

上林暁と幸徳秋水(4)

 私にとって上林暁の熊本五高および東京帝大時代は謎である。

 満十八歳から二十四歳までといえば、人間の思想形成において最も重要な時期である。社会とのかかわりの中で自分はどう生くべきか、どんな役割を果たせるか等々、悩み、苦しみ、悶えるものである。しかし、上林にはその痕跡が見られない。

 上林は旧制中村中学(県立三中)時代、文学に目覚め、将来は芥川龍之介のようになりたいと作家を夢見るようになる、とされている。

 全集の年譜によれば、熊本五高の交友会雑誌に最初の小説「岐阜提灯」を書き、三等入選している。これがどんな小説だったのか知りたいところだが、全集には載っていない。熊本で下宿していた上林町の名を後年ペンネームにしたくらいだから、熊本は作家上林暁の原点のようなところであったことは間違いない。

 上林は随筆で「僕は、熊本のことと言えば、人のことでも地理のことでも何でも関心を持ち、そして熊本びいきである」「熊本は僕にとって、文字通り第二の故郷になつてゐる」と書いている。

 しかし、私が疑問に思うのは、この時期、社会(さらに言えば政治)とのかかわりの中で彼がどれだけ目覚め、社会構造の中に己をどう位置付けようとしていたかである。

 五高時代の同級生美作太郎は、上林を「何かのスポーツに熱中するのでもなく、そうかといって当時もたげていた社会科学研究のグループに加わるようなこともなかった」「地味で目立たない」「愉快で朴訥な」仲間だったと書いている。(全集第一巻「月報」)

彼の一級上には社会科学研究会で熱心に活動していた林房雄(一時、プロレタリア文学をリード)がいたのに在学中は縁がなかった。

 上林が熊本ですごした三年間は大正十年から十三年まで、大逆事件(明治四十三年)から十一~十四年後である。

 大逆事件では全国の社会主義者たちが一網打尽にされ、二十六人が処刑(死刑十二人、無期懲役十二人、有期刑二人)されたが、その中には熊本の四人(松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎)もいた。彼らは、「熊本評論」を発行していて、事件に連座させられた。事件は熊本の町を震撼させたであろうし、当時もその傷跡のようなものは残っていたであろうに。

 熊本の初代県令(知事)は中村出身の安岡良亮であった。安岡は神風連の旧士族に襲撃され殺された。その墓が熊本城のそばにあり、上林は五高時代に見たことがあると書いている。天皇を暗殺しようとした「極悪人」の頭目とされた人物が自分と同郷から出ていたことは耳にしていたであろうが、安岡がその幸徳秋水の母多治のいとこであったことは、当時知る由もなかったであろう。

 上林は同じ下宿の女学生と下宿の娘と三人で文集をつくったことを小説「梧桐の家」に書いている。また、「天草土産」という作品もある。しかし、それらの映像は春霞のように朦朧としている。

 ロマンチックというか、少女趣味というか、それが上林にとっての熊本だったのであろう。

 そんな熊本時代の映像はおぼろげでも描くことができるからまだよいが、東大時代(英文科無試験入学)のそれはブラックボックスである。年譜にはさしたる記載はない。熊本では書いていた小説など創作の記録もない。大正十四年にいたっては全くの空白である。

 上林は本郷の大学近くに下宿していた。その下宿代はその後新婚時代に住んだ借家代よりも高かったというから「いい身分の学生さん」だったのであろう。

 上林自身、のちも東大時代のことはほとんど書いていない。私の知る限りでは下宿生活を書いた「菊坂の家」ぐらいであったが、最近「大学構内」という昭和十八年の小説を見つけた。この中に、こんなくだりがある。

 「卒業証書を貰った時は嬉しかったでせう」
 「ちつとも嬉しいとは思わなかったなア・・・」
 「なぜか知らん」
 「一つには、僕が文学志望だつたからだよ。例へば僕が医者になるのだと、学校で習ったことが直ぐに手立てになるんだが、小説 を書くには、学校を出たつて手放しも同然だからね。・・・僕などは一生懸命勉強するでもなく、さりとて大学に見切りをつけるでも  なく、無気力無感激のうちに大学をでちやつたんだ。・・・」

 中学生のころからの文学への夢を抱き続けたことは、上林の想いの深さや意志の強さの表れであろうけれども、文学を超えた領域での大学時代の思想遍歴や行動変化といったものは、その後彼の書き残したものでもうかがうことができない。

 昭和二年、上林は大学卒業後、長野県の中学教師への口が決まっていたが、あとから合格した改造社(総合雑誌社)のほうに入社した。これが彼の思想に広がりをもたせる転機になったと私は見る。

 入社後すぐに五高時代の友人たちで同人誌「風車」を創刊。ここから上林暁のペンネームを使うようになる。

 当時はプロレタリア文学の全盛時代であり、東大の同人誌もほとんどがその系統であった。しかし、「風車」はそうではなかった。上林はそのころプロレタリア文学とは距離があった。全集第一巻を見ると、小説「渋柿を齧る少年」ほか十二篇を「風車」に載せている。

 しかし、「風車」は昭和六年休刊になる。理由はわからないが、各人の意識にズレがでてきたことは想像できる。

 昭和七年、上林は「星を撒いた街」「風はユーカリ樹に」「薔薇盗人」を他の雑誌に投稿。前号でも書いた通り、これらの小説はプロレタリア文学の影響を色濃く受けている。

 改造社での経験がそうさせたのだと思う。

 上林は「遅れて来た青年」であった。


 大方文学学級「大形」290号(2016年1月)掲載。一部加筆。
 5回連載










 

上林暁と幸徳秋水(3)

 上林暁は小説以外にもたくさんの随筆、評論等を残している。しかし、政治や社会問題等にふれたものはほとんどない。そんな中、「政治的関心について」という希有な評論がある。「同盟通信」昭和十五年五月号に寄せたもので、「全集」第十五巻に収録されている。

 ここで上林は冒頭「生まのものがほしい」、「社会的現象や政治的情勢などひつくるめた生まな現象について我々作家も理解と関心を持ちたい」、「生な現実こそ文学にとつて成長素だ」と書いている。

 また、作家の政治的関心など「乳臭い」ものであり作家は政治の「実際事情」「運用」の才能はもっていないと言われるかもしれないけれど、政治の「理念」をつかむことはできる。むしろ、作家の「曇りなき眼」こそ、政治の高い「理念」をつかむのにふさわしい、と。

 さらに、作家特有の「芸術的境地」と「生な現実」との間を彷徨し、それらの矛盾対立によって文学精神が推し進められる。その象徴がトーマスマン(ドイツ)だ、とも。

 上林にしてはめずらしく力んだ文章である。これには対米開戦前夜という時代背景がある。昭和十五年といえば、菊池寛、岸田国士らが文芸銃後運動を始めた年でもあり、新秩序形成下、文学者の自由な執筆や発言がますます圧殺されたころである。

 上林のこの評論はそんな「時局」を意識していることは間違いないが、全体を読めば、必ずしも「時局」に迎合したものとも思えない。上林は戦中もひっそりと地味な作品を書き続け、筆を汚さなかったからである。

 そのうえで私がこの評論で注目したいもう一つは、「嘗て、階級という問題が喧しい時代があった。その時代には、皆々、何を考えても階級といふ問題に突き当るらしい風潮であった。恰も、それ以外には、如何なる思考の方法もないかの如く思はれた。さういう見方は、勿論誤りであった」と書いていること。これはプロレタリア文学に対する批判であることは明らかである。

また、「心理主義の文学」も同様に片寄った思考方法だった。「生まなものがほしいからと言って決して政治的に片寄った文学でなくてはならぬという意味ではない」とも。

 しかし、「心理主義の文学」はともかく、プロレタリア文学批判については、その詳しい理由を書いていないことからも、どこまで上林の本音なのか疑わしい。

なぜなら、上林自身プロレタリア文学の影響を受けているからである。上林が私小説という分野(ジャンル)に自分の居場所を見つけたのは昭和十三年以降のこと。

 上林は昭和二年、東京帝大を卒業し、当時出版業界の先端を走っていた改造社に入社。誰もがうらやむコースであった。だが、中村中学時代、将来は文学で身を立てたいと心に決めていたことから、サラリーマン編集者生活には飽き足らず、昭和九年四月、作家として独立することを決意。その前年ひそかに処女創作集『薔薇盗人』を発表していたことも後を押した。

 しかし、たちまち行き詰まる。父急病の知らせを受け、同年九月、家族(妻、子二人)で下田ノ口に帰ったが、父の容体回復後もそのまま実家に居座る。

 田舎での鬱屈とした、「蟻地獄のような」生活を経て、再起を期して上京したのは一年半後、昭和十一年二月であった。その後、昭和十三年に発表した「安住の家」が私小説作家への転機になった。

 大正末期から昭和初期にかけては、プロレタリア文学が幅をきかせた時期。『薔薇盗人』に収録された十二の短編は、昭和二年から七年の間に書かれたものであるから、その影響を受けたのは当然のことであった。

 「星を撒いた街」は、作中にそれもどきの言葉も出てくるように、徳永直「太陽のない街」を真似た作品。上林は改造社時代、秀英社(現大日本印刷)に校正作業にでかけていた。その体験をもとに、印刷労働者を描いた。撒かれた星とは彼らの家々からこぼれる灯。

 「風はユーカリ樹に」は、大学入試に失敗した学生の話。学生はプロレタリア作家同盟の文芸講演会や左翼劇場の芝居に行く。その間、「ブルジョア」の家で働いたが、ユーカリの植え替え作業をしたわずか四日間で首をきられる。その労役で英訳「資本論」の古本を買う。

 単行本のタイトルにもなった「薔薇盗人」と「敗れて敗れた男」は農村の極貧者が主人公。前者は、母を亡くしろくに仕事をしない父のもとで、小学生の息子が幼い妹のために学校で育てていたバラ一輪を斬って与えるという話で、後者は、不貞を働いた妻にも頭が上がらなくなった男の話。

 これらの作品は社会構造の中に貧富の「階級」が存在することが前提になっている。

 農村社会の「階級」は私小説として書かれたその後の作品「ちちははの記」(昭和十三年)、「離郷記」(同十四年)にも顔を出す。上林の実家は小地主であり、小作人がもってくるカヂシ(小作料)によって、都落ちして無為にすごしている自分ら家族が養われているという後ろめたさ。

 その後、「階級文学」とは一線を画した上林が「生まのものがほしい」とは、よけいな解釈を加えず現実を淡々と描くことが私小説に通ずると言いたかったのであろうか。

 大方文学学級「大形」289号(2015年11月)掲載
 5回連載

上林暁と幸徳秋水(2)

 上林暁は幸徳秋水に対してどのような想いを抱いていたのだろうか。作品の中から考えてみたい。

 小説「四万十川幻想」(昭和四十六年)は、中風で寝たきりになった上林が再び四万十川を見ることはできないという郷愁の想いを込めた作品であるが、この中でこんなことを書いている。

「四、五年前、私の文学碑が中村に建った。郷土の大先輩である幸徳秋水ですらまだ碑がないのに、自分の碑を建てるなんて僭越だ、と心の中で思ったが、病気である私を力づけようとする郷里の有志や同窓生たちの好意を思うと、無下に断るわけにはゆかぬ。結局好意に甘えることにした。」

 文学碑は、昭和四十三年、中村の為松公園に建てられた。除幕式には本人に代わって母が出席した。碑文は「四万十川の 青き流れを 忘れめや」

 「郷土の大先輩」・・・この言葉に上林の想いは凝縮されている。秋水の思想や生き様に対して畏敬の念をもつと同時に、幡多の同郷人としての親しみを持っていた。いや、同郷人であるからこそ、関心を持ち、尊敬の気持ちをもち続けていた、というほうが正しいのだろう。

 上林が気にしていた幸徳秋水顕彰碑(絶筆碑)は、昭和五十八年、同じ為松公園の一角に建立された。

 時代を遡って、小説「柳の葉よりも小さな町」(昭和二十七年)も中村への郷愁を込めた作品である。

 「近世に至って、この町から異色ある人物が現れて、日本の社会を震撼させたことがある。彼は、明治の時代における大逆事件と称せられる事件の首魁と目された革命家である。」と、秋水にふれ、自分が初めて禁断同様になっていた裁判所裏にあるその小さな墓を訪ねたのは終戦後のある年の秋だった、とも。

 知人から聞いたという、こんなエピソードも紹介し、秋水に共感的である。

 「この革命家が、クロポトキンの『パンの略取』という本を日本で初めて訳したのも、この町においてであった。彼は、当時中学三年生であった彼の甥を相手に、それを口述筆記させた。甥は筆記に飽きて来ると『をんちゃん(伯父さん)腹が減った。』と空腹を愬(うつた)へた。すると、彼は『うん、もう少しぢや。済んだら、饂飩(うどん)をおごっちゃるぞ。』と甥を励ましながら、口述を続けたさうである。」

 また、そのものズバリ、「幸徳秋水の甥」(昭和五十年)という随筆もある。この随筆はそれまでに書いた随筆や短文六十三編を収録した随筆集第二作に収められている。その書名も「幸徳秋水の甥」としているのは、秋水への想い入れがあることの証明でもある。しかし、この随筆は予期せぬ波紋を呼んだ。

 秋水の甥とは、画家幸徳幸衛のこと。兄亀治の長男である。秋水は明治三十八年、当時十五歳であった幸衛を連れてアメリカに渡った。本人は八カ月後に帰国したが、幸衛は絵の勉強をしたいと残る。秋水処刑後はアメリカにいても常に日本政府からマークされた。それからは「死影」の号を使う。フランスにも渡り、日本に戻って来たのは二十四年後であった。

 帰国後は、中村の実家や、高知市の絵愛好者(パトロン)の病院に寄宿などをして絵を描き続けていたが、昭和八年、四十三歳の時、大阪で客死する。

 上林は、そんな幸衛の数奇な生涯に興味をもち、帰省した時などに、その足跡をたどっていた。そうした材料に基づいて書いたのがこの随筆であるが、その内容に幸徳家関係者がクレームをつけたのである。文章の中に、「幸衛は色盲であった」、「母親は貞操が悪く家を追い出されたという」等の表現があったため、これは本人だけでなく親族に対する侮辱である、と。

母親の甥にあたる同じ画家であった木村林吉氏は、幸衛母子を知る者として、幸衛の生涯を紹介した高知新聞連載「眼のない自画像」(平成十二年)の中で強い不満をぶつけている。おそらく上林は、このような噂話や風評を誰かから聞き、そのまま書いたのであろうが、その裏付けをとることをしなかったのであろう。この連載は、翌年、同名の単行本にもなっている。
 
上林の作品は、どこまでが小説でどこまでが随筆(エッセイ)なのか境界がはっきりしないのが特徴である。「幸徳秋水の甥」が小説だとすれば、多少の創作は許されたかもしれない。しかし、本人が随筆に分類した以上、関係者に対する配慮は必要であったであろう。このあたり、創作意欲の貪欲さの裏返しで、上林の鈍感なところである。

 上林はこの随筆の中で、この作品はライフワークになるような小説にしたかった、しかし、自分は病床にあることや、「私の才能はこの材料には不向きである」ことから、これを断念し、随筆に代えたと書いている。「不向き」とは、ほかの人も言ってくれたとも。ほかの人とは出版社の編集者あたりで、上林の作風に向かないと言われたのであろうと、私は推測する。

 たしかに、この材料を柱にした小説なら、深刻で暗くなりそうで、上林の作風には向かないと思う。しかし、そんな作風になっていったのは途中からであり、初期のころの作品をみるとそうでもない。


 大方文学学級「大形」288号(2015年9月)掲載
 5回連載

上林暁と幸徳秋水(1)

 大逆事件最後の生き残りであった坂本清馬は、昭和五十年、中村の県立西南病院で亡くなった。今年は没後四十年にあたることから、一月二十四日、正福寺における恒例の幸徳秋水墓前祭は、はじめて清馬との合同祭となった。

 坂本清馬は一貫して無実を主張し、昭和三十六年、東京高裁に対して再審請求裁判をおこした。結果は棄却されたものの、この裁判があったからこそ、大逆事件が風化し闇に葬られてしまうことを防ぎ、事件の真相解明が進んだ。その結果、事件後百年を経たいまも事件犠牲者の名誉回復、顕彰運動等は全国に拡がり続けている。その意味において、坂本清馬が果たした歴史的役割はlきわめて大きかった。

 再審請求は昭和三十五年二月、事件後五十年を記念する諸行事の盛り上がりの中で提起された。清馬の上京に合わせて、参議院会館会議室において、「大逆事件再審請求実行委員会」が開かれた。集まったのは、森長英三郎、鈴木義男両弁護士をはじめ、荒畑寒村、岩佐作太郎、鈴木茂三郎、神近市子等かつての運動家、神崎清、糸屋寿雄、塩田庄兵衛等の研究者など約三十名であった。

 実行委員会では、今後の運動を再審請求と宣伝活動の二本立てにし、幅広く運動の輪を拡げていくために、会の名称を「大逆事件の真実をあきらかにする会」とし、機関誌「あきらかにする会ニュース」を発行することを決めた。

 「会」には会長はおかず、事務局長を実質的な代表者として運営。初代事務局長坂本昭(当時参議院議員、その後高知市長)、二代目大原慧(東京経済大学教授)、三代目が現在の山泉進(明治大学教授、中村出身)である。私は三年前、この会に入会した。

「ニュース」は現在五十四号を数えるが、私は最近、その創刊号(昭和三十五年四月)を初めて読んで驚いた。最初に集まった実行委員の中に上林暁の名前を見つけたからである。

 山泉進氏にその頃の記録、経過を調べてもらったところ、坂本昭氏は医師、政治家である以外にも「文の人」でもあったことから、地元高知県出身の作家たちとも親交があり、積極的に声をかけたという。実際、最初の集まりには、田岡典夫も出席している。

ほかに、出欠は不明であるが、「会」発足時の実行委員メンバー六十三名の中には、田宮虎彦、タカクラテルの名もある。(地元政治家では、森本靖、長谷川賀彦も)

 「ニュース」二号(昭和三十五年五月)によると、実行委員はさらに七十九名に増え、作家では尾崎士郎、佐多稲子、立野信之の名も加わっている。

 そんな中で、上林暁については、「ニュース」五号(昭和三十八年三月)の「事務局便り」にこんな記載もある。即ち、前年夏、参議院選挙が行なわれており、坂本昭氏は高知地方区で再選をめざしていた。そこで、事務局では坂本氏へのカンパを送ることにした。それに応じた十六人の中に作家でただ一人、上林がいた。さらに、激励文三例の一つに、上林「御善戦に期待します。御当選を祈る。」も。(坂本氏は落選)

 山泉氏によれば、「会」の運動を担ったのは弁護士、運動家等であり、作家たちは賛同者として名前を出しただけの者が多かった。上林もそうした作家の一人であったと思われ、その後「ニュース」にその名を見つけることはできなかった。しかしながら、上林の場合、最初の会合に自ら足を運んでいることに加え、坂本昭氏への支援行動をみると、他の作家たち以上の「想い」があったように思える。

 「上林暁全集」年譜によれば、上林は昭和二十七年一月、最初の脳溢血に倒れた。いったん回復し、同三十五年一月、宮中歌会始出席とあるが、翌二月の「会」参加については書かれていない。坂本昭氏へカンパを送った年(昭和三十七年)の十一月には、二度目の脳溢血に倒れたことから、自由に体が動かせる最後に「会」へのかかわりをもったことになる。

 上林は自らの日常生活や体験を淡々と描く私小説作家であった。政治や社会問題にもふれることはあるが、そういった問題には抑制的である。上林は「文藝は私の一の藝、二の藝、三の藝である」(中村高校前庭文学碑)と書いているように「文藝の人」である。

 私が上林に親近感をもつのは、第一に同郷人であること。私の祖父(父方)は大方町下田ノ口生まれで上林の父徳広伊太郎と小学校同級である。第二に作品の中身も地元を題材にしたものが多いということ。私も長い間地元を離れたいたので郷愁あふれる文章には共感を覚える。

 しかし、上林は「文藝の人」ゆえに、政治、社会問題などへ筆が及ぶのを避けていたように思え、もの足りなさを覚えてきたのも事実である。だから、今になって上林と「大逆事件の真実をあきらかにする会」のかかわりを知ったことで私は動揺しているが、しかし、これで上林とさらに接近したような喜びのようなものも感じる。上林にとって大逆事件は同郷人幸徳秋水と同義であろう。

 「政治と文学」というようなテーマは、上林には縁がないように思ってきたが、これを機に、上林の生き方、その結晶としての作品を振り返りながら、こうした視点から考えてみたい。


 大方文学学級発行「大形」287号(2015年7月)掲載
 5回連載

望郷の鐘 満蒙開拓

映画「望郷の鐘 満蒙開拓の落日」(山田火砂子監督、現代プロダクション)をみた。3月30日、四万十町の四万十会館で。主催は、四万十町人権教育研究協議会窪川支部主催。

「中国残留孤児の父」といわれた長野県阿智村の住職山本慈昭さん(1902~1990)の生涯を描いた作品。(原作は和田豊「望郷の鐘」。)

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山本住職は昭和20年5月(敗戦のわずか3カ月前)、長野県阿智郷開拓団の一員(教員)として家族(妻、娘2人)で渡満。引き揚げ途中、シベリヤに抑留され、帰国した時、家族は戻っていなかった。

以来、開拓団員の消息を調査記録、昭和40年以降は残留孤児調査に奔走、ついには国を動かす。そうした中で、自分の上の娘とも再会する。(妻、下の娘は死亡)

「大東亜共栄圏」、「五族協和」を掲げた国策により、満州に送り出されていった開拓団員は、戦争の被害者であると同時に、中国人たちの土地を取り上げる加害者となった。そうした開拓団の本質を、リアルに凝縮した映画であり、明快で鋭い。

死を覚悟した開拓団幹部が「君が代」斉唱をさせようとしたが、子どもたちが「うさぎ追いし・・」を歌いはじめ、涙で、だれも止めることができなかった。

国は当初、残留孤児調査要請に対し、開拓団は「勝手に」満州へ渡ったのであり軍人とは違うと、国の責任を認めようとせず、調査を拒む。

映画製作には、阿智村と、そこの満蒙開拓平和記念館が全面協力。村民の多くがエキストラ出演している。

私は、映画をみる9日前の3月21日、阿智村を、そして満蒙開拓平和記念館を訪ねてきたところだった。

下伊那郡阿智村は、岐阜県中津川市から恵那山を越えた県境の隣村である。中津川に笠木透さんご家族を訪ねたあと、足を延ばした。

長野県は全国一の数の開拓団員を満州に送っている。3年前、満蒙開拓平和記念館ができた時から、一度ここを訪ねたいと思っていた。というのも、高知県からも多くが満州に渡っており、特に幡多郡に集中しているからだ。江川崎村、津大村(現四万十市)、十川村、大正村(現四万十町)の4村が村を分ける形の分村移民を行っている。私は市長在任中、江川崎開拓団が移住した跡地を引き揚げ者のみなさんと慰霊に行ったことは、以前このブログで書いたとおりである。

 満州分村http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-187.html
 大清溝 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-146.html

江川崎村開拓団の記録や資料を展示した資料室が、阿智村の記念館より先に、旧権谷小学校跡地にできている。この資料室をより充実させるためにも阿智村の記念館がどのような内容かを知りたかった。開館当時、私は参加できなかったが、江川崎開拓団引き揚げ者のみなさんもバスで来ている。

同記念館の設立・運営は一般社団法人満蒙開拓平和記念館という純然たる民間団体である。山本慈昭さんの志を継いだ長野県伊那地方の人たちが自分たちの力でつくったものだ。

開拓の歴史や満州での生活の様子を写真パネル展示しているほか、引き揚げ者の証言記録(ビデオも)、資料集、研究書などが保存されていた。研修室もある。館の建物は満州をイメージした設計になっていた。

入館者数は、開館1,2年は各3万人、3年目の今年もその9割をキープしているという。信州の山の中、交通の不便さを考えれば、驚くべき数。人権、平和教育や民生委員などの各種団体や子供が多いそうである。

館の目的が、平和を願い、二度とあのような悲惨な出来事を繰り返さない。そのためには開拓の現実、真実にしっかりと目を向ける。この目的がしっかりしているのが素晴らしい。

映画「望郷の鐘」の冒頭字幕に流れた言葉。

「国家が総力を挙げて作り上げる大きな嘘は、いつの時代でも見破ることは容易ではない」

映画会開会あいさつ(四万十町人権教育研究協議会山本哲資会長)の言葉。

「なぜ日本人は歴史を学ばなくなったのか」

中国脅威論が過剰演出され、安保法案が成立し、再び「お国のために」の風潮がつくられつつある今だからこそ、満蒙開拓の「真実」をしっかり知り、後世に伝えていく必要がある。

多くの人にみてほしい映画であり、足を運んでほしい記念館である。

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プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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