サミットと世論操作

 サミットが終わり、オバマも帰った。問題の本質からかけ離れた、過剰演出の後味の悪さだけを残して。

サミットそのものは参加各国のローテーションで開催をしている。今年は日本の当番であった。そうした中、3年に一度の参議院選挙の直前にもってきたのは、日本政府の意向が強く働いている。しかし、これくらいはどこの政府も考えることであろう。

問題は安倍首相によるサミットの過度の政治利用と、それを拡散するマスコミの報道姿勢である。

今回のサミットの成果、中身は何だったのだろうか。さっぱりわからない。テーマはたくさんあったはずだ。地球温暖化、難民、テロ、タックスヘイブン(パナマ文書)・・・これらはどう議論されたのだろうか。

サミットからの帰途立ち寄った広島の報道だけが大々的に行われた。現職のアメリカ大統領として広島に来たのははじめてのことであり、それ自体は歴史のエポックになったと思う。私はその意義を否定するつもりはない。

しかし、オバマの17分間の演説は、核廃絶に向けた姿勢を示したとはいえ、抽象的な表現だけでその具体的手順は示されなかった。アメリカは最大の核保有国でありながら、核兵器禁止に向けた国連決議には、アメリカも日本も、毎回棄権をしている。そんな両国が仕組んだ今回の演出は、言葉ではどんなすばらしいことを言っても、空々しく響く。

そのことがわかっていながら、ただ騒ぎ立てるマスコミ。得意満面の安倍首相の顔だけが映し出される。

サミット直前に発生した沖縄アメリカ軍属による女性暴行殺害事件もそうだ。再発防止策・・・これまでも何度も繰り替えされた言葉だ。そんなことができるとはだれも思ってはいない。沖縄に米軍基地があり、日米地位協定により沖縄がアメリカの植民地状態におかれているかぎり、また事件はおこる。サミット期間中は、沖縄報道はタブーであった。

サミット冒頭の安倍発言にも驚いた。
「世界経済はいまリーマンショック前と似たような状況にある」

いま世界経済全体としては停滞状況にあるのは事実だが、アメリカ経済は好調でいま金利を引き上げつつある。原油価格も上昇に転じた。だれもリーマン・・・とは思っていない。

安倍首相は前回消費税引き上げを先送りしたさい、来年4月には必ず引き上げることを公約(法律)にして総選挙をしかけ大勝した。

なのに、デフレからの脱却は進まず、アベノミクスの失敗がはっきりしてきた。いま、とても諸費税を引き上げられるような状況ではない。

この間、安倍首相は繰り返し、消費税は「リーマンショックや東北大震災のようなことがおこらない限り、予定通り引き上げる」と見栄を張ってきた。

だから、いよいよ追い込まれて、今回のような発言になったのだ。サミットの場を、自分の経済政策の失敗をつくろう口実に使ったのだ。

各国首脳からは当然ながらこのリーマン発言に異論が出た。日本の恥を世界にさらしてしまった。

安倍首相は選挙に勝つためには、ウソでもなんでもあり。手段は選ばない。世論操作のシナリオを書く黒幕と演出家がいて、その舞台の主役を派手に演じている。

この深刻な事態を追及すべきマスコミは、NHKを筆頭にして飼い犬にされてしまい、しっぽを振るだけ。

こんな大芝居にだまされないためには、自分自身の目を養うしかない。真実を見極める力。それが一人一人に試されている。

大西聡 弁護士

 大西聡さんは徳島県で活躍している弁護士である。53歳。鳴門教育大学セクハラ訴訟、トンネルじん肺訴訟などで、常に庶民の立場、弱い立場の人たちの味方になってきた。

その大西聡さんが、7月予定の参議院選挙徳島・高知合区の野党統一候補になった。野党だけではない。政治を自分たちの手に取り戻そうという市民グループとも手を結んで。「市民と野党の統一候補」である。

大西さんは、5月14日~20日、幡多一円の挨拶まわりに来ていた。私は20日、大西さんの車に同乗して市内各所を案内した。夜には、西部総決起集会をJA会館で開き、300人を超える人が集まった。

大西さんの演説、訴えは力強くて説得力がある。理論建てがしっかりしている。裁判の場できたえられているからだ。その大西さんが安倍首相のこの間の横暴ぶりをみて、これはイカン、このままでは日本がつぶされてしまうという危機感を強くもった。最大の公約は、・・・

「私たち国民は、一人一人が日本という国に住む主人公です。国家権力を縛り、暴走を防ぐために作られた憲法にしたがった政治(立憲政治)を取り戻します。」

憲法を守らなくてはならない首相が憲法をないがしろにしている。憲法解釈を勝手に変えて集団的自衛権を認める。これでは立憲国家ではなく、独裁国家である。

次の参議院選挙で自民党、公明党勢力が議席の3分の2を占めれば(衆議院はすでにそれ以上)、いよいよ本丸の憲法9条の機能停止、「憲法改悪」の発議をおこなうことは必至である。

SO GOOD
安倍政権の暴走にストップを。
私は聡さんに期待し、応援しています。

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幸徳秋水の孫

幸徳秋水が刑死してから105年。
5月11日、初めて孫が秋水の墓参をした。
新聞各紙でも大きく報道された。

墓参をしたのは、真野寿美子さん(埼玉県、大正14年生、90歳)と妹の犬竹比佐子さん(東京都、昭和16年生、74歳)で、秋水が最初に結婚していた西村ルイ(別名朝子)が生んだハヤ子の娘である。

秋水最初の妻西村ルイについては、昨年7月と12月、このブログで詳しく書き、さらに先月(4月)には、ルイの生地、福岡県黒木町を訪ねてきたことも5月6日、7日付ブログに書いている。

 私が真野寿美子さんに会うのは2度目である。今年1月31日、埼玉県の寿美子さんのお宅を訪ねている。

1月30日、大逆事件犠牲者追悼集会が東京(渋谷区正春寺)であり、私は初めて参加したことは、これもブログに書いた。集会では横田みつゑさんにお会いした。横田さんは、西村ルイが秋水に離縁されたあと再婚した横田与八との間に生まれた長男の息子の嫁で、昭和57年、朝日新聞報道で秋水に子供がいることを世に知らしめた人である。

みつゑさんに会うのも初めてであったが、以前から電話でいろいろ聞き取りをして交流があったので、あらかじめ、集会の翌日、寿美子さんに会わせてほしいとお願いをしていた。

寿美子さんは、お若いころはさぞかし美人であったろう。小柄で気品があり、物静か。かすれた小声で、「祖母(ルイ)からも母(ハヤ子)からも、秋水のことはほとんど聞かされていないんですよ」。

秋水の話は家族の間でもタブーであり、断片的な話しか残っていない。しかし、これまで知らなかったルイやハヤ子のことをいろいろと聞かせてもらった。古い写真も見せてもらった。そこには、秋水に理不尽な形で離縁されたルイやハヤ子のその後の生活の様子が写っていた。

私は辞する時、「一度おじいさまのお墓参りに来られませんか」とお誘をした。しかし、寿美子さんは90歳という高齢のうえ、病気のあとで体力も十分でない様子から、とても中村までの長旅は無理であろうと思ったし、寿美子さんからも特段の反応はなかった。

その後も電話でのやりとりは何度かあったが、4月中旬になって、寿美子さんのご主人からの手紙が届いた。そこには、体が動くうちに長年気になっていたことを果たしたいという寿美子さんの気持ちが書かれていた。

寿美子さんご夫婦は、妹の比佐子さんご夫婦を誘い、10日、4人で見えられた。私は高知空港に迎えに行った。寿美子さんは、車いすに乗ってゲートから出てこられた。

同じ飛行機で、東京在住の幸徳正夫さん、大逆事件の真実をあきらかにする会の大岩川ふたばさんも見えられた。

前日の雨もあがった11日の午前9時。宿泊ホテルのすぐ裏手にある正福寺墓地に向かった。幸徳秋水を顕彰する会のメンバーたちも後に続いた。段差のある狭いところは、車イスをかつぎあげて。

幸徳家は神道である。筒に榊を差し、花を手向けた。寿美子さんは車イスから立ちあがり、墓の周りにお米を3回撒き、水をかけた。そしてじっと手を合わせた。

比佐子さんが、秋水に会わせたかったと持ってきたルイおばあちゃんの写真を墓前に置いた。幸徳正夫さんは、その場で、幸徳家を代表して、120年前の秋水の非礼を詫びた。
  
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墓の中で秋水はどんな気持ちだったろうか。懐かしさと、恥入った気持ちで照れ笑いをしたのでなないか。

その日のうちに、為松公園にある絶筆碑(記念碑)、郷土資料館(お城)、秋水生家跡、資料室(図書館)、一條神社なども案内した。

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12日は、午前中、四万十川にかかる佐田沈下橋を見てもらったあと、空港までお送りした。

寿美子さんの旅の疲れを心配していたところ、翌日、比佐子さんから電話をいただいた。寿美子さんは、心の中がすっきりしたと熟睡をされ、翌日も普段通りであるとのこと。胸をなでおろした。

寿美子さんは、新聞記者からの質問に対して口数はすくなかったが、「来て本当によかった」としみじみと繰り返していた。祖母(ルイ)も母(ハヤ子)も来れなかった、祖父の墓参。兄弟姉妹6人の中でも、弟4人はすでに亡く、一番上の姉として、みんなを代表して墓参を果たした安堵感なのであろう。寿美子さんにとっては決死の覚悟の旅であったのだ。

恩讐を超えた墓参。
4人には心からお礼を申し上げたい。
これで幸徳秋水の歴史に一つの区切りがついた。

そんな場面に立ち会うことができ私も光栄であり、満足であった。

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熊本と安岡良亮

 いま地震からの復興に懸命の熊本。その熊本県の礎となった初代熊本県令(知事)安岡良亮は中村の生まれである。

安岡は幕末の戊辰戦争では、千葉流山で捕縛された新選組近藤勇を斬首に処した。また、幸徳秋水の母多治のいとこでもあったが、明治9年、熊本の不平士族神風連に襲撃され殉職した。

私は4月末、被災地熊本に出向いたさい、熊本城近くの花岡山にあるときいていた安岡の墓がどうなっているか探してみた。
 
墓は山の中腹の「県官墓地」の中にあった。神風連の乱や西南戦争で命を落とした官軍の兵士たちを葬った「陸軍埋葬地」と隣合わせていた。それらの中で最も大きなのが安岡の墓であった。しかし、案内板や記念碑を含む墓地全体が最近は訪れる人もないようで、草木で覆われ、荒れていた。さらに、今回の地震で多くの墓石が倒れ、安岡の墓の前の石柱もころがっていた。

 いま試練の熊本。安岡も心をいため、早い復興を祈り、見守っていることであろう。

 今はそれどころではないだろうが、復興の目途がついた先には、安岡墓周辺の再整備を進めてほしい。そして、多くの熊本の人に安岡良亮を知ってほしい。同郷人としてそう思った。

 高知新聞「声ひろば」投稿 2016.5.14

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熊本の大逆事件

  震災復興に懸命の熊本。いまでこそ九州の中心都市は福岡市だが、明治から昭和にかけてのそれは熊本市であった。諸官庁など国の出先がいまでも熊本に多いのはそのためであり、旧制高校の五高も熊本にあった。

西南戦争において、西郷軍が攻めたのも熊本鎮台である。その拠点熊本城を猛攻したが、結局落とせなかった。しかし、今回の地震で城は崩れた。自然災害にかなうものはいない。

熊本は文化情報でも九州の発信拠点であった。時代の先覚者たちも多く生んでいる。大逆事件で処刑された4人(松尾卯一太、新美卯一郎が死刑、佐々木道元、飛松與次郎が無期懲役)もそうした人たちであった。

彼らは幸徳秋水らの「平民新聞」の影響を受け、「熊本評論」を発行した。「平民新聞」が発行停止されて以降は、その代替紙としての役割を果たし、全国に発信した。

そのため官憲の弾圧厳しく発行停止に追い込まれただけでなく、発行にかかわっていた4人が大逆事件に連座させられた。人間の自由、平等、博愛を掲げた、秋水らの思想に共鳴する者たちを全国で一網打尽にした大逆事件を象徴している。(全国で死刑12人、無期懲役12人)

この4人をはじめ全国の犠牲者を顕彰する記念碑が2年前、熊本県山鹿市にできたので、一度訪ねて手を合わせたいと思っていた。地図を見ると山鹿市は福岡県黒木町と接していることから、今回黒木町から足を延ばした。国道3号線で山を越え、車で50分ほど。山鹿市内は地震の被害はほとんどなかった。

記念碑は本澄寺(日蓮宗)の一角に建っていた。4人の名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる熊本近代史研究会(代表廣島正さん)の人たちが中心になって建てたものだ。碑文は「過ちは絶対に繰り返させてはならない」で結ばれていた。

この寺の納骨堂に飛松與次郎の遺骨が納められている(墓はない)。住職に頼んで、お堂に上がらせてもらい、飛松が納まっている高田家の納骨堂に手を合わせた。高田家とは飛松の妹が嫁いだ家であり、妹が一緒に供養してきたものである。

山鹿といえば、温泉と灯篭で有名であるが、飛松のような歴史に刻まれた人物を産んだことも多くの人に知ってほしい。

山鹿の郊外には麦畑が広がっていた。

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福岡県黒木町(2)

 黒木町のシンボル素戔嗚(すさのう)神社の大藤がちょうど満開であった。今回の訪問も、雨空でも出かけたのは、藤の満開時期に合わせたためである。

藤の樹齢600年。国の天然記念物に指定されており、神社全体を覆っていた。圧巻。まさに日本一の藤。道路にもはみ出し、藤のトンネルとなっていた。そばを矢部川が流れていた。

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西村家跡は、神社の前にあった。郷土史家和田重俊さんに元禄13年(1700)の町古地図を見せてもらった。神社の一番前が後藤権兵衛、二番目が西村長兵衛となっている。長兵衛は墓石に見つけた名だ。

後藤家は酒造業(延宝5年、1677年創業)で、いまも続いている。その隣が、西村家であり、写真では後藤酒造の事務所棟と「あだち」看板あたりだそうだ。

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西村家は少なくとも元禄時代から明治初年まではここにあったのだ。その後、ここを離れて、福島県の開拓地に移った。西南戦争で西郷軍に肩入れをして、財を失ったことが伝えられているが、それだけの理由だったのだろうか。今回は、そこまではわからなかった。

藤の開花にあわせて町全体で「大藤祭り」が行われていた。後藤酒造では酒蔵を開放し、酒の販売。驚いたのは、酒の銘柄が「藤娘」であること。わが中村の藤娘酒造の「藤娘」と同じである。

商標登録は、こちらが「金襴藤娘」、中村が「南国藤娘」であるため、問題はない。こちらは、素戔嗚神社の大藤にちなんだ命名であろうし、中村は一條家の家紋にあわせた命名である。

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ちなみに、四万十市(旧中村市)の「市の花」は藤である。黒木「町の花」も藤であり、合併後の八女市も藤を引き継いでいるという。こうした藤の縁に加えて、幸徳秋水のつながりもあるということが今回はっきりした。社長さんにもご挨拶をさせていただいた。これを機に、何か交流のようなことができないものか。

素戔嗚神社を起点に開けた黒木町の中心部は、国から重要伝統的建造物群保存地区に指定をされており、古くて情緒のある街並みが保存されていた。家々の特徴は居蔵造(いくらづくり)というそうだ。

この周辺は八女茶の産地としても有名で、今回は行けなかったが、町内には八女茶発祥の場所とされる霊厳寺もある。また、矢部川の水を取り込む堤と廻水路もあちこちにある。奥八女の黒木・・・花と水と緑と古い町並みがすばらしいところだ。

ちなみに、女優の黒木瞳(本名・江川昭子)はここ出身である。瞳さんは「くろき」、町は「くろぎ」である。 (終)

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福岡県黒木町(1)

 4月27日から黒木町に行ってきた。福岡県の南部、熊本県境で、元は八女郡黒木町であったが、2010年、周辺と合併して、いまは八女市黒木町となっている。

宿毛からフェリーで大分県佐伯市へ。大分県の高速道路は別府―湯布院間が地震の影響で通行止めとなっており下道を走ったが、それ以外は問題なく黒木町に着いた。黒木町でも地震の揺れはあったが、被害はなかった。

黒木町は幸徳秋水最初の妻、西村ルイが生まれたところ。その西村家ついて調べることが目的であった。

西村ルイは明治15年(1882)、久留米藩士西村正綱の娘としてここに生まれたが、同22年、一家あげて福岡市へ出て、さらに同27年、福島県安積開墾地へ入植した。そして明治29~30年ごろ、東京の幸徳秋水と結婚した。

しかし、ルイは秋水に理不尽にもすぐに離縁されてしまう。その後、大工の横田与八と再婚したが、その間に、ひそかに秋水の子を産んでいた。その子(ハヤ子)は横田の子として、ほかの子と一緒に育てられた。秋水はそのことを知らないまま刑死した。

昭和57年になって、この事実が新聞で報道され世間を驚かせた。しかし、ハヤ子もその翌年没。

その後、再びこの話題は忘れられていたところ、4年前(2012)、西村ルイが生んだ横田の孫2人が秋水墓前祭に参加したことをきっかけに、私はルイおよび西村家について調べるようになった。

その結果、西村家は黒木町の有力な素封家であり、久留米藩主から士分(武士の身分)を与えられていたこと、ルイはその娘として武家の教育を受けていたことなどがわかった。ルイはこれまで「開拓地の田舎娘」のようなイメージで伝えられていたが、決してそうではなかった。

ここまでのことは、私は昨年このブログに書いている。(2015.7.23~25、12.26~30)

今回の旅は、黒木町における西村家の痕跡、および福島以降の足跡を調べることであった。

佐賀県鳥栖市におられる西村家現当主賢一氏に連絡したところ、姉の祥子さんと一緒においでくださった。また、電話でいろいろご教示いただいてきた地元郷土史家和田重俊氏も。

最初に、宗真寺(浄土宗)にある西村家墓所を案内いただいた。寺の裏山の林の中の一段に、その墓はあった。その数約30、おどろくべき数である。一つ一つ見ると、一番古いものは、今から300年前の元禄時代であった。どれも刻字が読み取れる立派な石ばかりで、一族の勢力のほどがうかがえる。

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これまでの調査で、西村家は正綱から→恕平→良平→仁兵衛(享保年間)まで遡ることができたが、それ以前と思われる長兵衛、宗兵衛、又平、市三郎、於豊なども名前もあった。

ルイの両親(正綱、千鶴)の墓もあった。正綱は福島へ出たので、その墓がどこにあるのか注目をしていたが、ここに帰ってきていたのか。明治36年没(55歳)と刻まれていた。妻千鶴は昭和3年没(79歳)

正綱が福島に入ったのが明治27年であるから、その死は9年後である。没したのは福島なのか、それとも東京なのか。というのも、長男の軍次郎はその後東京に出て、繊維関係の事業をしていたからだ。今回、その場所が深川区森下町ということがわかった。しかし、少なくとも関東大震災(大正12年)のころは東京に出てきていた(その時、千鶴も一緒だった)ことははっきりしているが、いつのころ東京に出てきたのかは、なお不明である。

長男軍次郎は昭和5年没(54歳)。その遺骨は東京にあった(場所不明)が、昭和56年、軍次郎長男稔が西村家塁代墓(納骨堂)をつくり、ここに移した。

稔は朝鮮に渡り(時期不明)、公営の電話関係の仕事をしていた。賢一氏は昭和20年、朝鮮生まれである。

戦後日本に引き揚げてきてからは、大牟田、八女、久留米を経て、いまの鳥栖市に落ち着いた。日本でも電電公社に勤めたという。稔は平成9年没(84歳)。賢一氏は稔の長男である。

今回はっきりしたのは、西村家は明治27年、福島に渡ったが、正綱はその9年後に没しているように、福島には定住せず、軍次郎は東京に出てきた。そして、稔は朝鮮を経て、九州福岡に戻ってきた。

住むのは黒木ではなかったが、西村家墓所はいまでも賢一氏が守り続けている。(続く)


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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