奥宮家の墓

 6月17日、奥宮健之の生家跡と祖先墓をはじめて訪ねた。

大逆事件で死刑になった奥宮健之については、これまで2度書いた。植木枝盛盟友の自由民権運動家で、自由党闘士であった。2人は同年(安政4年)、高知市生まれ。健之は大逆事件犠牲者26人の中では、最高齢の53歳であった。(本ブログ2016.1.27、2.6)

健之の墓は東京染井霊園にあり、私は今年1月訪ねた。高知市郊外の布師田には、生家跡と先祖墓があることは以前から聞いていた。

今年1月の秋水墓前祭においでくださった布師田歴史研究会の岡本純一さんにお願いをして案内をしてもらった。

健之の父造齋は土佐藩主侍講の陽明学者で、中江兆民、岩崎弥太郎なども教えた。また、先祖の奥宮正明は、藩命で、宝永地震の詳細な被害記録「谷陵記」をまとめた。この記録は、いま南海地震対策に生かされている。奥宮家は学者の家系であった。

造齋一家は健之13歳の時東京に出た。

前が田んぼの屋敷跡は竹藪になっていた。
その前に、解説板が建てられていた。

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屋敷跡裏には西山寺があり、先祖墓はその裏山の大きな孟宗竹林の中にあった。日光が入らないため、下草はほとんど生えておらず、登るのには苦労しなかった。3段に分かれた上段、竹の落ち葉の中に、造齋父弁三郎(健之の祖父)、造齋後妻などの小さな墓石が7つあった。造齋の墓は東京谷中にあるという。

布師田歴史研究会のみなさんが数年前から、墓の保存管理をしており、詳しい資料もつくっておられた。健之の墓石はここにはないが、遺骨は東京ではなく、ここに埋められているという説もある。

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高知県出身事件犠牲者は5人いるのに、幸徳秋水以外はあまり知られていない。そのため、幸徳秋水を顕彰する会では、他団体とも連携して、ほかの4人についても広く知ってもらうよう取り組んでいる。

小松丑治、岡林寅松については、今月案内板(墓標)を建てた。秋水墓と同じ並びにある坂本清馬墓にも年内に解説板を建てることにしている。

5人のうち奥宮健之だけは本人墓が県内にないが、布師田歴史研究会では、近く、奥宮家墓に解説板を建てる計画があるというので、幸徳秋水を顕彰する会でも協力をさせていただく旨、お伝えした。

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笠木透の「四万十川」

笠木透さんの詩「四万十川」が好きだ。

 春の赤むらさき カタクリの花
 岩の間から水は流れる
 アイヌの人たちがいたころは
 ここはブナの原生林だった

 いつかは海へ 行きつくのだから
 ゆっくりしよう 急ぐことはない
 ゆうゆうと ゆうゆうと流れる川よ
 シマムタ おまえの名は美しい川

 夏・秋・冬・・・と続く

笠木さんは20年ほど前、四万十川の源流から河口まで歩いてこの詩をつくった。香川県の藤田昌大さんがこれに曲をつけ、歌になった。

四万十川という名前の由来には、いろんな説がある中で、笠木さんはアイヌ語説を信じている。アイヌ語で「シ・マムタ」は「大変美しい」という意味である。

四万十川は蛇行を繰り返している。源流から南下し太平洋直前の窪川まで来てから、ぐるっと向きを変え、奥の江川崎のほうへ逆流する。

蛇行するからこそ、瀬と淵が生まれ、川は姿を変える。そこに、たくさんの生き物が育まれる。ゆっくり流れる川だから、ダムもできなかった。

それは人生と同じである。
人間はどうせ終着点に辿りつくのだから、あせることはない。曲道をして、いろんな経験を積んだほうがいい。

真の豊かさとは?
競争社会の中で、他人より一歩でも早く走ろうと、あくせくして、何になるの。競争させて、誰が得をするの。

アイヌの人たちは争いごとをきらった。
私たちは、アイヌの人たちの自然観、世界観、人間観に学ぶ必要がある。

笠木透さんは、そう言っている。

尾﨑知事の約束(2)

昨年10月14日記事の続き・・・

 高知県の尾﨑知事がまたも約束破りを行った。この人は、約束という言葉の意味がわかっていない、ようである。

尾﨑知事は、6月19日投票の香南市長選挙に介入した。この選挙は2期目をめざす現職と新人の一騎討となり、市を2分する激戦となった。

尾﨑知事は現職を応援した。決起集会だけではなく、運動最終日にもかけつけ、街頭でマイクを握るという熱の入れようだった。結果は、794票の僅差で現職が競り勝った。

21日付高知新聞は、「知事効果で浮動票」との大きな見出しで、両者の政策等に大きな差がなかった中で、知事の応援が決め手になったと解説している。

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 尾﨑知事の「約束」とは何だったのか。私は前回記事で書いた。

2103年(3年前)4月、四万十市長選挙は、今回と同じように現職(私)と新人の戦いとなった。尾﨑知事は新人を全面的に肩入れした。私は敗れた。

この選挙では、本来中立であるべき知事が市長村長選挙に介入するのはおかしいとの声が多くあがった。新聞投書もあった。

このため、選挙直後の定例記者会見(4月30日)で、尾﨑知事は冒頭「まず最初に、原則として今後、私自身が選挙にあたって、特定の候補を応援することはしないつもりです。基本的には中立という姿勢を、今までもそうでしたけど、今後も貫いていきたいと思います」と述べている。この発言は県のホームページに記録されている。

 → http://www.pref.kochi.lg.jp/chiji/docs/2013050800412/#6

また、同年6月の県議会でも問題になり、同様の趣旨の答弁をしている。これも議事録に残っている(岡本和也議員質問)。

→ http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?A=frameNittei&USR=kockock&PWD=&L=1&DU=0&R=K_H25_06190002_TXT_L00000027_00000519

 知事も政治家である。私は前回も書いたように、知事が市町村長選挙に介入することを全面的にダメだと言っているのではない。介入する正当な理由があり、その説明責任を果たせるならば、許されると思う。

例えば、県政と大きく関係するテーマが争点となった場合である。いまの沖縄の基地問題は、その典型であろう。

記者の質問に、尾﨑知事が四万十市長選挙に介入した理由としてあげたのは「県との連携が十分ではない」ということだった。しかし、何が不十分なのか具体例等は何も示さなかった。この選挙の争点は地元問題ばかりであり、県政にかかわるテーマはなかった。

実は、尾﨑知事は前回(4年前)の香南市長選挙でも当時新人(前県議)だった今回の現職を応援している。理由は、自分(知事)の後援会事務局長を務めてもらった「同志」だから、と述べている。

記者会見では、これら2回の「例外」はあったけれど、「今後は中立という姿勢を貫く」と約束したのである。この約束を私は信じた。

しかし、裏切られた。尾﨑知事は、昨年11月の高知市長選挙でも現職を応援した。そして今回も、またまた、である。

今回の場合は確信犯である。なぜなら、同一選挙で2回目だからである。

今回の選挙で現職を応援した理由にあげたのは、高知新聞にあるように、「連携継続を望んだ」からだそうだ。前回の理由は「同志」だった。

一方で、知事は、相手候補は「非常に立派な方だ」とも言っている。つまり、2回とも「お友達だから」応援したということ、だけなのである。それ以上の理由は述べていない。

地方自治の土台は基礎自治体(市町村)である。県はその連合体のようにみえるが、知事は連合会長ではなく、市町村との関係は対等平等である。都道府県はどちらかというと国の出先に近い。

なのに、高知県は中央官庁出身の現知事になってから、県の顔だけが前面に出て、本来高知県の地方自治の主体であるべき市町村の影が薄くなっているように思う。

こんな中、知事が「お友達だから」という理由だけで、選挙に介入するならば、いまでも萎縮している市町村長は、なおさら知事になびくようになるだろう。

尾﨑知事の言う「連携」とは、文句を言わず県の方針に従え、という意味なのだろう。そう理解すれば、一連の知事の選挙行動がわかりやすい。しかし、それは地方自治をつぶす行為である。

真の「連携」とは、基礎自治体である市町村がそれぞれ個性を発揮し、主体的に生き生きと活動してこそ可能である。そうすることで県全体の活力が沸き上がる。

「知事効果」の恩恵で就任する首長は、せいぜい県の出張所長ぐらいの役割しか果たせないだろう。

尾﨑知事には、もっと多様な声や人を受け容れる度量がほしい。大所高所からの県政運営を望みたい。何よりも、地方自治の主体を取り違えないでほしい。

2人の墓標(小松丑治、岡林寅松)

 大逆事件の犠牲者、小松丑治と岡林寅松のことは、すでに2回書いた(2014.7.20、2016.1.27)。この2人の墓標をこのほど建てた。

2人は高知市生まれで同じ小学校の同級生であった。ともに神戸に出て、神戸平民倶楽部を結成して活動する中で、大逆事件に連座させられた。

死刑判決を受けたが、翌日無期懲役に減刑され、20年間入獄したあと、仮釈放された。以後も差別と偏見の中で不遇の生活を送り、小松は昭和20年、岡林は昭和23年、没した。

2人の墓は高知市内のそれぞれ別のところにある。2年前、私ははじめて訪ねた。昭和39年ごろ、国民救援会が木製の墓標を建てた写真がある。しかし、いまは、その墓標はすでに朽ち果てているため、墓を見つけるのに苦労した。

高知県出身の大逆事件犠牲者は5人いる。中村の正福寺にある幸徳秋水墓には案内板や解説版も立てており、毎年墓前祭も行っている。坂本清馬(無期懲役)の墓も同じ場所にある。

残る3人のうち奥宮健之(死刑、高知市出身)の墓は都立東京染井霊園の中にあり、墓地入口に案内板がある。

しかし、小松と岡林の墓は、いまは何の案内板もない。これでは無念の死を遂げた2人に申し訳ないと思った。

そこで、幸徳秋水を顕彰する会の友好団体である高知市の自由民権友の会に相談を持ち掛けたところ、賛同をもらい、両団体共同で墓標を建てることになった。

岡林墓(高知市新屋敷)の墓守をされている徳弘達男さん(寅松妹の孫)も喜んで応じてくださった。小松墓(高知市筆山)は現在管理をしている縁者がいない状態なので、遠縁の方に事前に報告をさせてもらった。

小松墓は、林の中に隠れてわかりづらいことから、林入口にも誘導板立てた。

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設置作業は自由民権友の会のメンバーが6月3日に行ってくれたが、私はあいにく参加できなかった。そこで、6月17日、高知市にでかけたさい、墓参に行ってきた。墓標は予想以上に頑丈で目立つものだった。アルミなので、錆びないようにできている。

小松墓は中江兆民先祖墓に近く、また岡林墓は植木枝盛墓に近い。そのため、自由民権友の会では、兆民忌(12月13日)、無天忌(枝盛忌、1月23日)の恒例の墓参にあわせて、2年前から小松、岡林墓の墓参も一緒におこなってくれている。私も参加している。

墓標ができたことにより、これで初めての人も訪ねやすくなった。

私は5月29日総会で、幸徳秋水を顕彰する会の事務局長になった。これからは、幸徳秋水だけなく、この2人のことももっと知ってもらうよう、さらに努力していきたい。

なお、幸徳秋水墓と同じ場所(正福寺)にある坂本清馬墓にも、年内に経歴等を記した解説版を建てることにしている。

2人の藤娘

 
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 右 土佐中村の藤娘
 左 八女黒木の藤娘

 藤娘はわが地元の酒。清流四万十川のように、サラリとした飲み心地だが奥深い味である。

土佐は酒どころ、かつては酒蔵がたくさんあった。しかし、いま市内の酒蔵は藤娘酒造(株)だけになった。藤娘にしても、戦時統制下の昭和18年、地元11の酒蔵が強制的に統合させられ会社(当初の社名は中央酒造)であり、その時から、酒の銘柄を藤娘にした。

名前の由来は、中村のまちを開いた京都の公家一條家の家紋が藤であることから。中村市→四万十市の花も藤である。最近では毎年5月、藤祭り(土佐一條公家行列)を行っている。一條神社階段下には伝説の「咲かずの藤」がある。

だから、藤娘は地元になじんだ酒である。

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そんな酒藤娘が福岡県にもあることを最近知って驚いた。八女市黒木町の藤娘(後藤酒造)である。私は黒木町にこの4月出かけ、そのことはこのブロブに2回書いた(5月6、7日)。

黒木町は幸徳秋水最初の妻西村ルイの出生地であり、その調査に出向いたのだが、西村家跡地の隣が藤娘の後藤酒造さんであった。その前には素戔嗚(すさのう)神社があり、境内には樹齢600年というみごとな藤が満開の花を咲かせ、ちょうど大藤まつりでにぎわっていた。黒木町も、合併後の八女市も、町の花、市の花は藤である。われわれと同じだ。

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秋水の縁に、藤の縁、それをとりもつ藤娘。

まち同士の交流のためにも、まず2人の藤娘に仲良くなってもらいたいと思い、こちらの藤娘の矢部社長を訪ねた。黒木町の藤娘をおみやげに持って。

同じ藤娘でも、商標登録はこちらが「南国藤娘」、黒木町が「金襴藤娘」だから問題はない。

いま清酒業界は、どこもきびしい。ならば、一緒に協力しあって売ったらどうですか。「どちらが美人であでやかか」・・・セット販売など、どうだろう。

具体案をいろいろ提案していきたい。

それまでの間は、
それぞれご注文ください。

中村の藤娘 → http://shimanto-fujimusume.com/
黒木の藤娘 → http://www.fukuoka-sake.org/map/detail.php?ID=27

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軍港宿毛湾

 5月28日、西南四国歴史文化研究会(通称よど)の年次総会が宿毛市文教センターで開かれた。総会後記念講演会があり、興味深い内容であったので紹介したい。

講演は、宿毛市立歴史館矢木伸欣館長による「太平洋戦争下の宿毛湾の防衛について~橋田庫欣先生の研究成果から~」というものだった。

宿毛湾は奥深く入り込んで、かつ水深も深いことから、天然の良港とされており、いま鯛の養殖等の漁業が盛んであるが、それだけに一方で、戦前、日本海軍による軍港としても利用されてきた。

郷土史家の故橋田庫欣先生の研究成果とは、真珠湾攻撃にも参加した特殊潜航艇の最後の秘密訓練の場所が宿毛湾の隣の御荘湾であったというものだが、続いて宿毛湾周辺を日本海軍がいかに重視していたという話に広がった。

宿毛湾は、広島の呉軍港から豊後水道を経て太平洋に出る途中の(太平洋から帰るさいも)格好の位地にある。そのため、戦艦大和などの艦隊がたびたび宿毛湾に寄港停泊している。橋田先生が防衛庁資料室で調べたところ、大正9年~昭和17年の間だけでも32回に及ぶ。うち14回は連合艦隊である。

それぞれの長官は、加藤寛治、米内光正、永野修身(土佐出身)ら有名な顔ぶれの中に、山本五十六の名も2回ある。

戦艦大和の写真がある。これは、呉で建造された直後、全速力走航訓練を宿毛湾沖でおこなったときのもの。多くの戦艦がここで同様の訓練をおこなったという。

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戦艦長門以下がずらり並んで停泊している写真もある。物資の補給や隊員の休憩に宿毛湾を使ったものである。

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いまの宿毛新港の隣、宇須々木地区には、敗戦間近のころには、四国太平洋岸防衛(本土防衛)のために指令基地がおかれていた。そのころ魚雷倉庫や壕の跡がそのまま戦争遺跡として、いまもたくさん残っている。

橋田先生自身もこの防衛部隊に召集されている。その体験は先生の「宿毛風雲録」に、戦争がいかにおろかなものだったかの反省を込めて書かれている。

なのに、いま再び、宿毛市は宿毛湾を自衛隊拠点として誘致しようとしている。人口減少などが進むなかで、地域振興の切り札にしようとういうものである。これまで米軍艦船が入港した際も歓迎行事をやっている。地元商工会議所が熱心で、行政もこれに追随している。

なんとも情けない話である。地域振興は自らがおこなうもの。地域住民の自主的な底力が試されるもの。なのに、主体性がないまま国にすがりつく。税金のおこぼれをあてにする。国策の原発を誘致することにより、地場産業が滅び、地域が空洞化しているのと同じである。

宿毛湾に自衛隊や米軍の艦船、潜水艦が頻繁に寄港するようになれば、海底の砂を巻き上げ、養殖漁網も切られていまい、漁業が甚大な被害を受けることになる。

かつての宿毛軍港につては、勇壮な戦艦の写真を見て、ノスタルジックに語られる向きがあるだけに心配である。

平和な時代のいま、過去の亡霊を追っかけるという愚をおかしてはならない。

 

四国遍路

 農林中央金庫勤務時代の上司から1冊の本が届いた。篠塚勝夫「古希の歩き遍路千二百キロ 同行二人とお接待の四八日間」(138ページ)。

元上司は、昨年3月16日~5月2日、48日間をかけて四国八十八カ所霊場を歩いて一気に回られた。「通し打ち」と言う。その体験を日記風にまとめられたものである。

昨年4月5日、突然電話がかかってきて、いま黒潮町を歩いておられるとのこと。驚いた。「発心の道場」阿波をスタートし、「修行の道場」土佐もいよいよ終盤の三十八番足摺金剛福寺をめざしているところであった。

元上司は仕事の厳しさで勇名をとどろかせた方で、周りからも畏怖されていた。何事にも鈍感な私は、みっちりとしごいてもらった。そんな私であったが、不思議にも、私が地元に帰ってきてからも時々電話が入り、様子をきいくれていた。

とは言っても、私にとっては怖い上司。ドキドキしながら翌6日昼、四万十大橋のたもとで待っていると、向こうから、白装束に箕笠をかぶり、杖を両手にしたお遍路さんがニコニコしながら近づいて来た。約10年ぶりの再会。ごく自然に手を握りあった。

さっそく「ご接待」をと、歩きは半日休んでもらって、天然鰻をご賞味いただき、沈下橋や一條神社など市内各所をご案内したあと、わが家にお泊りいただいた。

元上司は、その力量を買われ、農林中金のあとも瀕死の雪印再建で重責を務められた方である。その後どうされているかと思っていたら、完全リタイアー後は、もっぱら千葉県居住地の地域活動などに従事され、東北震災復興ボランティアにも何度も出かけているとのこと。そんな中、四国巡礼を思い立ったそうだ。しかし、その夜は、職場時代の思い出話にはずみ、心中の多くは語られなかった。

今回の本に、その胸の内が綴られていた。人生七十年といえば「古希」と言われるように、かつては人生の終末を意味していた。

本は旅日記であり、道すがらの出会いや出来事を中心に書いているが、ページの合間合間に、生い立ちから今に至るまでを振り返っている。人生の蹉跌、悩みや苦しみ、幸運・・・家庭の内情など、これまで知らなかった人の姿がそこにはあった。

私の家の前の四万十川堤防をお遍路がいつも通っている。お遍路の姿は、私にとって水や空気のようなものであった。

しかし、今回、あの元上司がお遍路姿で突如現れたことにより、当たり前の風景がそうではなくなった。巡礼を身近な自分の問題として考えるようになった。

 人生の総括、これまでの総括・・・次へのステップのためにはそれが必要であると思う。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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