中村が甦った夏

中村高校が夏の甲子園高知大会で決勝へ進んだ。

昭和52年、春のセンバツ大会で甲子園準優勝したことがあるが、夏の県大会決勝進出ははじめてのことで地元は久しぶりに沸いた。私も決勝戦、春野球場に応援に出かけた。

結果は常勝明徳義塾に2-4で敗れ、39年ぶりの甲子園への夢はかなわなかった。明徳義塾の優勝は7年連続、県立高校の決勝進出は22年ぶりであった。

いま思い出しても、39年前のフィーバーぶりはすごかった。私の妹と同級の田頭主将、山沖投手を中心としたわずか12人のチームが「さわやかイレブン」「24の瞳」などと呼ばれ、一種の社会現象なり、今でいえば流行語大賞をもらっていたであろう。

12人の最大の功績は、無名であった四国の片田舎「中村」の名を全国に知らしめたこと。足摺岬に向かう観光バスがわざわざ迂回して中村高校前を通ったぐらいであった。当時、四万十川には誰も関心を寄せていなかった。

しかし、まもなく状況は一変。四万十川は「最後の清流」として有名ブランドになった。

そして、平成の大合併の大波が押し寄せ、中村市はひとたまりもなく呑み込まれ、四万十市になった。

しかし、どっこい、中村市はなくなったが、中村はいまも生き続けている。中村駅、中村郵便局、中村小学校、中村中学校・・・そして中村高校。

今回、中村高校野球部が中村の健在ぶりを、世に示してくれた。
多くの人に中村の記憶を甦らせてくれた。
私はそれがうれしい。

紫電改

 紫電改は太平洋戦争末期、ゼロ戦に代わる新鋭機として開発された戦闘機。きょう7月24日、その姿を見るために、愛南町にある紫電改展示館を訪ねた。

宇和島方面にでかける際、すぐ近くを何度か通っている。しかし、いつも時間がなく一度も立ち寄ったことがなかったので、やっとのことだ。

展示館は国道から海側に半島を10分ほど入った、展望のきく山の上(馬瀬山公園)にあった。

戦闘機を見るのは初めて。こんなにも大きいものか。全長9.34m、主翼11.99m、高さ3.96m。見上げてしまう。全身緑色で、でっぷりと威圧していた。

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この機体は、昭和53年、展示館下の久良湾の海底40mから引き揚げられ、修復されたものである。

昭和20年7月、広島、呉を爆撃して引き返す米軍機を迎え撃つため、長崎県大村基地から21機の紫電改が飛びたち、豊後水道上空で空中戦となった。6機は帰還しなかった。そのうちの1機であったとされている。

6人の飛行士の写真や手記等も展示されていたが、この機に載っていたのは、誰かは、特定できていない。

海底からの引き揚げの生々しい写真やテレビ映像、機体の部品なども展示されていた。

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紫電改はゼロ戦をしのぐ性能だったと言われているが、敗戦間近の資材不足などから、わずか400機ほどしか製造されなかった。うち4機がいまも残っているが、3機は戦利品としてアメリカへ(スミソニアン航空博物館など)、日本ではこの1機だけだという。

ここは足摺宇和海国立公園の一角。展示館のそばには煙突のような宇和海展望タワーがそびえたっていた。すばらしい景観。タワーから眼下に久良湾を一望できた。

驚いたことに、紫電改がここに墜落(着水)したのは、昭和20年のきょう7月24日ということを知った。

71年前と同じ景色の中で、戦争のことを、われわれのことを忘れないでくれと、必死で叫んでいる声が聞こえてきた。だから私をこの日に呼び寄せたのか。

紫電改の引き揚げおよび展示館建設は、愛媛県が行なった。
しかし、レジャー施設と隣あわせていることの違和感。

展示館の管理運営はタワー会社に委託されている。入場無料。

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草とのたたかい

 梅雨が明け、草とのたたかいが本格化する。

去年から家の前の畑で野菜づくりを初めた。それまで荒らしていたので、春先に草を焼いたあと根を掘り起こし、管理機で耕した。

そのあと、いろんな野菜を植えた。キュウリ、ナス、トマト、ピーマン、シシトウ、ズッキーニ、スイカ、カボチャ、オクラ、サツマイモ、じゃがいも、いたまねぎ・・・

素人なので、隣の畑に来る師匠におしえてもらいながら。

1年目にしては、全体としてまずまずの出来だった。曲がったキューリ、握りこぶしのようなナス、など形の悪いものが多かったが、それがまた楽しい。

ここらでは、家の前の野菜畑を「しゃえんじり」と言う。苗を植え成長を楽しみ、収穫を味わう。「しゃえんじり」でとれたての新鮮野菜を食べることほど贅沢なものはない。形が悪いほど味はよい。

しかし、楽しいことばかりではない。草とのおつきあいはうんざりする。夏になれば野菜の成長も早いが、それ以上に草も伸びる。取っては伸び、また取っては伸びる。追っかけっこである。

少しでの手を抜けば、ボウボウの林になる。梅雨が明ければ、草のほうがますます元気を出すので、こちらはついていけなくなる。

こんなにしんどいのなら、野菜は買ったほうが安いとつくづく思う。

しかし、無農薬で安心して食べられ、しかも取り立てを楽しむことができるとなれば、やはりやめられない。今年は、さらに面積を2倍以上に増やした。

去年と種類は変わらないが手のかからない、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ(目赤と言う)、カボチャ、スイカなどを増やした。

しかし、その分、草とのたたかいもはげしくなる。
持久戦・・・
今年は負けてしまいそう。

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幸徳秋水と女たち(2)

 その三年後、秋水は二度目の結婚をした。相手はやはり兆民が介在した師岡千代子であった。千代子の父師岡正胤は平田派の国学者で、その門下生の一人が兆民とも交友があったことから縁談がまとまった。結婚式は、正胤の死後まもなくであったため、兆民は両家の父親代わりとして出席した。秋水二九歳、千代子二四歳。

 しかし、秋水はその夜、またも吉原へと、同じ失態を演じた。今度は見合いを経ていたが、見合いの席では相手が顔を伏せたままであったので、実際を見ると期待はずれだったというもの。ここまでくると、異常の域を超えている。これも三申の後日談であるが。

 千代子は国学者の娘だけあって教養は申し分なかった。父からのきびしい薫陶を受け、国文だけでなく、英語、仏語もできたほか、日本画も描いた。秋水の執筆を手伝い、清書などもしている。晩年、秋水との生活の思い出を書いた『風々雨々』は、内容、文章ともに、その教養の深さがにじみ出た珠玉の作品である。それでも秋水は、千代子は地味で病弱、おとなしい性格であったこともあり、自分には向かないと、不満をもらしていた。だからであろう、二人の間に子はできなかった。

 満たされないながらも、一〇年間の生活の積み重ねで築いてきた堤を切らせたのが管野須賀子であった。何事にも情熱的な須賀子は、ルイや千代子とは全く違ったタイプであり、何よも革命の同志でもあった。秋水はズルズルと引き込まれていく。千代子には強引に離婚を迫り、判を押させた。秋水三七歳、須賀子二七歳。 

 秋水は、それでいて郷里の母には、千代子は名古屋の姉のもとに一時的に養生に帰らせたものであり、心配しないようにと言い訳の手紙を書いたり、忠告に来た木下尚江には、「しかし、君、僕の死に水を取ってくれる者は、お千代だよ」と、弁解がましいことを言っている。

 しかし、これは秋水の本音でもあった。須賀子と二人で滞在していた湯河原から、須賀子が換金刑で入獄したら、すぐにその頃大阪にいた千代子に、須賀子とは手を切るのでよりを戻したいと手紙を送っている。

 千代子は秋水の身勝手さに悶々としながらも、結局は秋水逮捕後、差し入れ等の世話をするようになる。この手紙を獄中で予審判事から見せられた須賀子は嫉妬のあまり、同じ獄中の秋水へ絶縁状を送りつけた。

 秋水は早熟な民権少年であり、人間の自由・平等・博愛から、社会主義へと思想と行動を深化させていったが、こと女に関しては常に「拙い」。私はその裏に母の存在をみる。 

 秋水が恋愛感情を持って女性に自ら接近したのは須賀子が最初で最後であった、ことだけはな間違いないであろう。(終)

幸徳秋水と女たち(1)

 このほど大阪の管野須賀子研究会が「管野須賀子と大逆事件ー自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版、342ページ)を発行した。これまで「妖婦」とのイメージで伝えられてきた須賀子の真実の姿に迫ろうと、この間の研究成果をまとめたものである。この中で、幸徳秋水について私が書いた部分を2回に分けて紹介します。


  幸徳秋水と女たち (原題:幸徳秋水 第7章4節の一部)

 幸徳秋水は初期社会主義運動の理論的主柱であり、管野須賀子が最終局面において、最も深い関係をもった人物であるが、そのあたりのことは、すでに本書でも書かれているので、ここでは須賀子に至るまでの秋水と女性とのかかわりについて、書きとめておきたい。

 幸徳秋水(伝次郎)は、一八七一(明治四)年、土佐中村の商家(薬種問屋)に生まれたが、二歳の時父を病気で失う。秋水は母多治の手一つで育てられた。以後、秋水にとって母は父でもあり、絶対的存在であった。それは母の意に従順ということではなく、常に意識の底を母が支配していたということ。自分の主義と、母に心配をかけたくないという思いの葛藤、相克の上に揺れていた。秋水は最期の獄中まで、母に手紙を出し続けている。処刑の前、母は秋水に面会を果たした後、郷里に帰り病没(自殺説も消えない)。このことによって、秋水はじめて母から「解放」された。

 秋水は幼少の頃、漢学者木戸明の私塾で学ぶ。格調高い漢文体の文章はここに基礎を置くが、思想的には、当時土佐で流行していた自由民権にあこがれ、わずか一六歳で単身上京するという早熟な民権少年であった。その後、一八歳の時、大阪で中江兆民に出会ったことが秋水の運命を決定づけた。兆民から雅号秋水ももらう。

 秋水は二三歳の時、兆民の口利きで自由新聞(板垣退助主宰)に入り、ジャーナリストとしてのスタートを切った。二六歳の頃、東京に母を迎えて同居し、最初の結婚をしている。母に負担をかけたくないという思いから、兆民の意を受けた同門の友人から紹介された相手を、顔も見ないまま「君にまかせる」と応諾した。

 その娘は西村ルイ(別名朝子)と言い、明治維新後の士族授産事業であった福島県国営安積開墾事業に参加していた旧久留米藩士西村正綱の娘で、当時一五歳の幼妻であった。

 しかし、秋水は結婚式の日、奇怪な行動をした。初夜を迎える新妻を置いて吉原の遊郭に遁走した。かくて、結婚は一年をおかず破綻。秋水は美人至上主義者であり、また新婦が無学で自分を理解できないことに不満であった。一度実家に帰ってゆっくりして来いと、上野駅まで送ったあと、離縁状を送りつけるという、むごいものであった。

 こうした秋水の行動は、小泉三申の後日談により伝えられているものであるが、最近わかったところによれば、西村家は福岡県八女郡黒木町で江戸時代から続いた素封家で、藩から士分を与えられた名門の家柄であり、ルイは子供のころから相応の教育を受けていた。離縁の理由を、三申の言のみに求めるのは酷である。年齢差の問題もあったろう。現に、秋水の母多治はルイのことを明るくてかわいらしい嫁として気に入っていた。

ルイは入籍されないまま、一年もたたないうちに離縁されたが、すでに身ごもっており、その後、秋水の子(ハヤ子)を生んだ。しかし、秋水も母も、そのことは知らないままであった。(続く)

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NHKの選挙報道

 私は、テレビはNHK中心に見ている。民報は子供のころは1局(高知放送)だけだったし、自然とそうなった。いまでも民報は3局だ。実際、民報はCMが入るのがわずらわしく感じる。

 ニュース等報道番組もおのずからNHK中心になる。だから、この間の変化がよくわかる。今回の参議院選挙報道の特徴について、指摘してみたい。

まず、絶対的に選挙報道の量が減った。以前なら、少なくとも選挙告示後は、毎日のように、各党の主張、激戦区の紹介などの紹介があった。討論番組も多かった。

今回驚いたのは、投票の2,3日前だというのに、夜9時のニュースウオッチでは参院選の扱いはなかった。3日前のトップは同じ選挙でも都知事選候補選び問題だった。都知事選挙は、都民以外には直接関係ない話である。

前日のトップは、待ってましたとばかり、北朝鮮のミサイル発射(失敗)をセンセーショナルに報じた。そのあと4番目にやっと「明日は投票日」となった。

北朝鮮報道は、高知新聞では「またか」という小さな記事であった。北朝鮮が選挙に合わせてミサイルを飛ばしたのは明らか。大きく扱ってもらって喜ぶのは北朝鮮と安倍首相だけだ。

また、今回の選挙の最大争点は憲法問題であったし、あるべきだった。あれだけ安保関連法案が問題になって議論が沸騰したのだから当然であると思う。そんな争点を掘り下げるのが報道の役割でもある。

しかし、安倍首相はこれを争点にするのは不利とみて、経済問題(アベノミクス)を前面に出し、本音を隠す作戦に出た。選挙中、憲法に触れなかった。

NHKはこの安倍首相の作戦通りの報道に終始した。選挙報道では、冒頭、争点はまずアベノミクスの是非として、付随的に憲法問題等を加えたにすぎない。そうすることによって、争点かくしに協力した。

今回からは選挙年齢が18歳に聞き下げられたのに、この切り口からの報道も寂しいものだった。

こうしたNHKの姿勢は、国民の参議院選挙への関心が高まらないように、あえて言えば、投票率が高くならないように誘導しているとしか思えない。投票率が低ければ、強い組織をもつ側が有利なのは明らかである。

それと、沖縄選挙区の報道がほとんどなかった。基地問題が最大の争点である沖縄では、当初から自民党の苦戦がはっきりしていた。ならば、政府としては、極力沖縄での敗北を目立たないようにしたい。全国には知らせたくない。無視作戦。

予想通り、沖縄では自民党の大臣が10万票以上の差をつけられ大敗した(知事選よりも差が開いた)。しかし、勝ったイハさんの万歳の場面は見られなかった。

同じように、自民党は福島でも大臣が負けた。この万歳は見たが、時間はわずかだった。現職大臣が2人も負けたのに、目立たなかった。

東北では5県(秋田を除く)で自民党が敗れた。北海道でも民主2、自民1だった。TPPや原発、震災対応への批判が背景にあるのは明らかだが、そんな解説は少なかった。

今回のこうした傾向は、NHKほどではないにしろ、民報でも同じであったようだ。

実際、今回、政府から各テレビ局に対し、政党討論番組への出演は少なくしたいとの申し出があった。理由は、忙しいから。議論してこそ争点がはっきりし、選挙も盛り上がるのに、それを避けたいからだ。

昨年、高市早苗総務大臣が、各局に対して、問題報道があれば、いつでも放送停止の処分ができるとの脅しをおこなった。

さらに、その前にも政府は各局幹部を呼びつけ、選挙報道においては「中立」で臨むべしとの「指導」をおこなった。「中立」とは政府批判は許さないということ。

こうしたことが背景にあると思われるが、今年4月から、各局の名物キャスターがいっせいに交代になった。

選挙中は、憲法問題を主要な争点からはずしていながら、結果がでたとたんに、手のひらを返したように「改憲勢力が3分の2以上」をトップに報道する。政府の思惑そのものである。

選挙のさいは隠しておいて、勝ったとたんに、白紙委任を受けたとばかりに、衣の下から鎧を出す。秘密保護法、安保法案・・・アベ政治の手法である。

いまのNHK会長は、政府の意向に反する報道はできないと言い切った人物である。

政府による報道統制(コントロール)が効いてきている。政府の意向を「忖度」して、自主規制している。

機能不全に陥りつつあるマスコミ。
報道が世論をつくり、流れをつくる。
いまそのおそろしいうねりの音が聞こえてくる。

尾﨑知事は約束違反

 尾﨑知事は先の香南市長選挙にまたも介入した。これは県民に対する約束違反である。

 知事は4年前の同選挙でも今回と同一候補の応援を行った。また、3年前4月の四万十市長選挙でも特定候補の肩入れをしたことから、本来知事は市町村長選挙においては中立であるべきとの声に対し、選挙直後の定例記者会見で、「今後は原則特定候補の応援はせず、中立を貫く」と発言をした。また、同年6月県議会においても、同趣旨の答弁をしている。

 知事も政治家である以上、自らの主張をするのは当然である。しかし、知事の職責上、市町村長選挙に参戦するのは、沖縄県における基地問題が典型例であるように、争点が県政と大きく関係するテーマである場合等に限られるべきである。

 香南市でも四万十市でもそんな争点はなかった。なのに、知事があげた理由は「連携を望んだ」ということだけ。これでは、親しいから、仲がいいから応援したということと変わらない。

 尾﨑知事には、もっと多様な声や人を受け容れる度量をもってほしい。そして大所高所からの県政運営をお願いしたい。そうしてこそ、幅広い県民から盤石の信頼を得られることになると思う。


高知新聞「声ひろば」投稿原稿。
掲載されませんでした。
高知県香南市長選挙は6月18日行われた。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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