中村とよさこい(1)

 9月18日、よさこい四万十が開かれた。参加チームは年々増え、今年は28チームになったが、残念ながらその中に地元中村のチームはなかった。

この問題、ひいては、中村によさこいは似合うのか、について考えてみたい。

 よさこい四万十は2011年、中村商工会議所青年部がはじめた。初回は8チームの参加であったが、年々規模が拡大している。
 
会場は毎回中村の中心市街地で、今年は3商店街(天神橋、一条通、東下町)、中村駅、中村病院駐車場、サンリバーの6カ所であった。どこも結構な人だかりができていた。

今年の参加チームの内訳をみると、高知市が圧倒的に多く19、幡多3、その他県内4(大豊、須崎、中土佐、窪川)、県外2(香川、愛媛)。

幡多3チームのうち、「幡多舞人」と「いなん」は、中村の踊り子も入っているが、本拠地はとなりの黒潮町と土佐清水市。また、「にぎわいポニートfrom3.11」は、東北支援を目的に西土佐で生まれ、代表者も西土佐であるが、いまの踊り子の大半は高知市内の大学生であり、実質的には高知市のチームとなっている。

なぜ、お膝元の中村のチームの参加がないのか不思議に思われるかもしれないが、そもそもいま中村にはよさこいのチームはないのであるから、これはやむをえないことである。

中村の踊りとしては、毎年市民祭で披露される中村踊りパレードがある。パレードには今年も10チームが参加。幡多3チームも参加してくれたほか、市内ダンススクール、中村小学校PTA、ひかり乳幼児保育園OB、市役所など。

中村踊りといっても、決まった踊りがある訳ではなく、市役所チームは、毎年定番の「中村音頭」を踊るが、その他チームはそれぞれ「好き勝手に」踊る。

市民祭のためだけの即興的チームがほとんどであるから、幡多3チームと市役所(浴衣姿)以外は同じTシャツを着るだけ、鳴子もなし、踊りも結構バラバラ(失礼ながら)で、「見せる」というよりも自分たちだけが楽しむというようなものである。

しかし、祭り、踊りとは、本来そんなものであろう。同じアホなら・・・の如く、自ら踊り、楽しむ。楽しみたいから、祭りを企画し、運営する。

ところが、よさこい四万十を仕掛けたメンバーには、自ら踊っている顔ぶれはなかった。そういう意味では、よさこい四万十のありようは、めずらしいケースと言える。

では、何のためによさこいを始めたのか。それは、本物の(プロの)よさこいを見たいから、見て刺激をもらいたい。その刺激を、中村のまちを元気にするインパクトにしたい。直接聞いた訳ではないが、たぶんそんな「思い」からであったろうと思う。

この「見たい」という要求はわかる。一般市民のあいだにはこれはある。全国的によさこいが有名になったのに、「本場」の高知市まで、わざわざ2時間かけて見に行くのは大変である。特に高齢者は。

 それともう一方では、「踊りたい」というニーズがある。高知市を中心とする「プロ」チームにとっては、8月お盆前のよさこい本番が終わってからも、もっと踊りたい。そんな時、中村が会場を提供してくれるとなると、「渡りに舟」と、みんな喜んでやってくる。

「見たい」「踊りたい」という2つのニーズがあったからこそ、6年間でチームが8→28まで増えたのだと思う。

この数だけを見る限りでは、当初の狙いは「当たり」である。
ここまで大きくしたメンバーには率直に敬意を表したい。

しかし、これでいいのかとも思う。(続く)

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憲法違反 安保法1年

 きょう9月19日は、憲法違反の安保法(戦争法)が国会で強行採決されてから1年になることから、全国統一集会が各地で開かれた。四万十市でも、台風接近の雨の中開かれ、以下の集会宣言を採択しました。私もあいさつをしました。


  戦争法を発動させない全国統一19日集会in四万十

    集 会 宣 言 

 昨年の9月19日、参議院で安保法制=戦争法が安倍自公政権によって〝強行採決〟されました。〝成立〟後1年目となる今日、私たちは、「戦争法を発動させてはならない」「戦争法を許してはならない」、この意思を示すために全国に連帯し本集会を開いています。

戦争法は、憲法第9条が禁じている国際紛争解決のための武力行使を可能とするものであり、憲法違反であることは明らかです。しかも、「憲法9条のもとでは集団的自衛権は行使できない」と、戦後半世紀にわたって日本政府が繰り返し解釈してきた立場を180度くつがえし、日本を「海外で戦争する国」につくりかえることは、憲法を土台から壊してしまう立憲主義の否定であり、断じて認めるわけにはいきません。

ところがいま、安保法制=戦争法をめぐって重大な事態が進展しています。それは内戦状態になっている南スーダンにおいて戦争法を発動し、自衛隊が「殺し、殺される」初めてのケースとなるきわめて深刻で現実的な危険が切迫していることです。日本の自衛隊員から戦後初めての戦死者が出る、日本の自衛隊員による武器の使用によって海外で住民の犠牲者がでる、このような「殺し、殺される」戦場に日本の若者を絶対に送ってはなりません。

だからこそ、知識人や文化人が、子どもをもつママやパパが、未来ある若者や学生が、そして多くの市民が「戦争法廃止」の声を上げ続けてきたのです。

そうした主権者が声をあげ後押しすることによって、先の参議院選挙では、「戦争法廃止、集団的自衛権の閣議決定撤回、立憲主義の回復」を原点とする野党の共闘が実現し、全国32の一人区すべてで統一候補が誕生しました。そして、野党と市民の共闘によって11の選挙区で勝利をかちとったことは今後につながる大きな希望となっています。

一方、安倍首相は、選挙では語らなかった改憲について、「いかにわが党の案をベースにしながら3分の2を構築していくか。これがまさに政治の技術」と公言し、憲法そのものを変えることに執念を燃やしています。

私たちは、改憲・暴走政治をストップさせるために、「アベ政治は許さない」「政治は変えられる」という思いを共有し、野党と市民が肩を並べ、共同を広げ、次期総選挙でも「立憲野党」の共同が発展することを求めていきます。

本集会を契機に、さらにたたかいを前進、発展させ、戦争法の廃止と立憲主義をとりもどす決意を重ねて表明し、集会の宣言とするものです。

2016年9月19日
戦争法を許さない幡多の会

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木戸明 高知新聞投稿

  先にも書きましたが、高知新聞「声ひろば」(2016.9.19)に投稿が載ったので、紹介させていただきます。


   木戸明没後100年

 9月13日は、幕末維新期、中村が生んだ儒学者木戸(きど)明(めい)(1834~1916)没後100年にあたった。
 明は勤王倒幕に参加し、私財を投じて海防のために大砲を造ったりしたが、維新後は同志の多くが立身出世を求め中央に出る中、地元に残り、中村大神宮脇に遊焉(ゆうえん)義塾を開いて子弟教育に努めた。
 幸徳秋水も9歳の時から教えを受けたことから、秋水を顕彰する会と四万十市教育委員会では、先に明の墓(市内正福寺、秋水墓隣)に解説板を建てた。塾生には吉松茂太郎(海軍大将)らもいる。また、市内在住の明のひ孫にあたる方を講師に記念講演会も開いた。
 明は旧制の中村中学、高知中学で教壇に立ち、高知時代の教え子には、後の首相濱口雄幸や「土佐の交通王」野村茂久馬らがいる。
 教育一筋50年。教え子は3千人に及ぶと言われている。講演会場には秋水や濱口などからの手紙も展示されていた。
 地元の歴史や人物を知ることは、地元の将来を考えること。いま忘れられた存在になっている地元の先人を、多くの人に知ってほしい。

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 高知新聞 声ひろば投稿
 2016.9.19

仁尾惟茂

  前号木戸明に続く・・・

 幸徳秋水を顕彰する会では、9月11日、木戸明没後100年記念講演会「教育者木戸明の生涯」を開いた(四万十市教育委員会後援)。そのさい、講師の木戸秀雄氏(明ひ孫)から配布された資料の中に、4人から送られた葉書(写し)があった。

幸徳秋水、濱口雄幸、由比質、仁尾惟茂。
この中で、由比質、仁尾惟茂は初めて知る名前であった。
葉書は、秋水以外は年賀状。

調べてみると、由比質は高知中学時代の教え子、いまの高知市出身で、のちに旧制松山高校初代校長をつとめた教育者で、明治41年、熊本五高教授時代に出した年賀状であった。

仁尾惟茂(にお これしげ)については、「中村市史」に載っており、読んで驚いた。安岡良亮、濱口雄幸とも、深いかかわりがあるからだ。

仁尾は嘉永元年(1848)、幡多郡伊屋村(いまの四万十市双海)生まれ。18歳で、会津戦争に従軍。この前後、木戸明の教えを受けたものと思われる。その後新政府に入り、群馬、三重、熊本各県に派遣された。

これら3県には中村の先輩、安岡良亮も赴任していることから、これに従ったものと思われる。

熊本では安岡県令(知事)の下で「一等警部」についていたが、明治9年、不平士族神風連に襲撃された。安岡は殺されたが、惟茂は重傷を負ったものの、一命をとりとめた。

その後、大蔵官僚として出世し、大蔵省参事官、朝鮮国財政顧問、専売局長官を経て、貴族院議員(従三位勲一等)となった。(1932没)

安岡良亮については、先の5月14日付ブログで書いたように、私は今年4月、熊本市花岡山にある墓を訪ねている。安岡は木戸明の縁筋にあたり、幸徳秋水母の従妹でもあった。

惟茂は、神風連の乱で幸運にも、生き残った一人だったのだ。

そして大蔵官僚時代の後輩に濱口雄幸がいた。惟茂が専売局初代長官であり、2代目を濱口に引き継いでいる。濱口は木戸明の高知中学時代の教え子であるから、2人は木戸同門であった。

惟茂の明宛年賀状は、明治36年。日露開戦前夜。
戦費調達のため、煙草、塩専売制度導入に腐心していたころ。

惟茂もまた、幕末、明治、大正、昭和の大波を泳いだ一人なのだ。
墓は東京青山霊園。

それにしても当時の人たちの達筆ぶりには恐れ入る。


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 左より、濱口雄幸、由比質、仁尾惟茂

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 幸徳秋水


 



木戸明没後100年

 きょう9月13日は、幕末維新期、中村が生んだ儒学者、木戸明(きどめい、1834~1916)没後100年にあたる。

木戸明は、幸徳秋水幼き頃の師である。そこで、9月5日、幸徳秋水を顕彰する会と四万十市教育委員会では、木戸明墓(市内正福寺)に、以下のような解説板を建てた。新聞でも報道された。

  木戸明(1834~1916)

  儒学者。通称駒次郎、号鶴洲。18歳で京の巌垣月洲に入門し国学経書を学ぶ。帰国後勤王倒幕に参加。海防のための大砲を製造。維新後は遊焉義塾を開き地元教育に専念。幸徳秋水、吉松茂太郎、安岡雄吉・秀夫兄弟ら門弟多数。中村中学、高知中学でも教え、高知の教え子に濱口雄幸、野村茂久馬らがいる。書や漢詩に堪能で詠詩、揮毫も多い。
         
  2016.9.13
  没後100年記念事業
  幸徳秋水を顕彰する会 
  四万十市教育委員会
 
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 また、9月11日、木戸明ひ孫の木戸秀雄氏を講師に、「木戸明没後100年記念講演会 ― 教育者木戸明の生涯 ―」を開いた。中央公民館の会場には、木戸家所蔵の木戸明書(漢詩)や写真、師の巌垣月洲、親交のあった間崎滄浪や梁川星巌らの書(掛け軸)も同時展示され、市民など約90名が集まった。

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明は地元の先輩、樋口真吉や安岡良亮らの影響を受け、尊王攘夷、海防のために、地元で大砲をつくり藩に提供したりしているが、戊辰東征などには従軍しておらず、「派手な」記録は残っていない。

木戸明は学問の人であり、その最大の功績は教育者として地元教育に専念したことである。明は京へ3度往復しているが、維新後は、地元に残り、中村大神宮横の自宅に「遊焉(ゆうえん)義塾」を開いた。

幸徳秋水は9歳の時からこの塾に入り学んだ。最初に「孝経」の素読から、次に「三国志」「唐詩選」へ。東洋的儒学思想を学ぶ。秋水はずばぬけて秀才だった。のちの秋水の格調高き漢文体の文章は、ここに淵源がある。

塾生には、安岡雄吉・秀夫兄弟(良亮息子)、吉松茂太郎(海軍大将)、仁尾惟茂(初代専売局長官、貴族院議員)らもいる。

また、木戸明は、中村中学、高知中学(ともに旧制)でも教壇に立ち、高知時代の教え子に、後の首相の濱口雄幸のほか、野村茂久馬(土佐の交通王)、由比質(旧制松山高校初代校長)らがいる。

木戸明没後3年(大正8年)、中村小学校校門前に木戸明銅像が建てられたさい、濱口雄幸が資金提供を申し出た手紙(写し)も展示されていた。銅像は太平洋戦時下、銅材提供の犠牲になった。

濱口は師に毎年、年賀状を書いたという。偉くなる人はマメである。仁尾、由比の年賀状と一緒に、残っている。

教育一筋50年。私塾や学校を通して、教えを受けた師弟は3千人に及ぶと言われている。

秋水は自由民権から最終的に社会主義に至る。その最初の本、「社会主義神髄」を明治36年(1903)出版したさいに、木戸明に贈った葉書が残されている。(市立図書館「秋水資料室」に寄託)

しかし、ゴリゴリの儒学者の木戸明には秋水の新しい思想を理解することは、到底できなかった。

明治39年(1906)秋水が静養のため帰郷したさい、秋水の行く末を心配した木戸明が訪ねてきて、社会主義をやめるようにすすめる。秋水は必死で師を説得しようとしたが、結局物別れに終わる。秋水は寂しさをこらえきれないような顔をして、師を玄関から送った。

そんな秋水を見て、母多治は、「木戸先生は普通の年寄りぢやもの、わたしは傳次の味方ぢやけん!」と言った。母は秋水の理解者であった。妻師岡千代子は、その時の情景を「風々雨々」に書き残している。

また、明のひ孫で歌人だった国見純生もこんな歌を書いていることを、初めて知った。

  諫めて去にし木戸明を「普通の年寄りぢゃけん、吾は秋水の味方ぢゃけん」そのは母言ひしか

木戸明は、秋水が処刑された時は、門下生から罪人を出してしまって申し訳ないと周りに詫びたという。

思想的には真逆のまま譲らなかった二人であったが、師弟のこころのきずなは、最後まで続いたものと信じたい。

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中脇初枝 市民大学

 8月31日、四万十市民大学で地元出身作家中脇初枝の講演会があった。演題は、「『世界の果てのこどもたち』が生まれるまで~幡多から旧満州に渡った人たち~」。会場の西土佐ふれあいホールは、約150人でいっぱいになった。
 
 中脇は2年前にも市民大学で幡多の昔話について講演をしており、そのことは2014.9.2に書いた。また、小説「世界の果てのこどもたち」(講談社)が去年出版されたさいも2015.6.26書いた。その後、この本は、昨年度本屋大賞3位になった。

ここでは、本人が講演で語った、この小説を書いた「思い」について紹介をしたい。

1. 自分がこどものころ住んでいた市内具同の近所に、在日朝鮮人のおばさんがいて、自分(私)のことを、いつも「べっぴんさん」と呼んでくれた。この人は字が書けず、その後不幸な死に方をした。その頃、なんで朝鮮の人がここにいるのか不思議に思った。いつか、この人のことを書きたいと思っていた。また、黄砂が中国から飛んでくるのも不思議に思っていた。

2. 幡多の昔話を採取している中で、幡多からも満州に開拓団で行った人が多いことを知った。しかも、同じ四万十川の上流の北幡地方からと聞いて驚いた。

3. 中国残留孤児(元開拓団)、在日朝鮮人(開拓団近くに住む)、横浜生まれ日本人(開拓団を訪問)、という3人の女の子を主人公にしたのは、戦争というものを、同じ「重み」と同じ「深さ」で描きたかった、から。3国の対比年表づくりに苦労した。

4. 食べ物の話が多い。3人の女の子が1つのおむすびを分け合ったところがある。食べ物は平和の象徴。やなせたかし=アンパンマンもそう言っている。おむすびという言葉は、中国、朝鮮にもある。3国は共通文化。

5. 横浜空襲の話を入れたのは、その悲惨さを知ってもらいたかったから。東京よりも狭い範囲に集中して爆弾が落とされた。電柱も残らなかった。戦後、市民が記録6巻にまとめている。一方で、日本も中国を爆撃している。重慶など各地を。

6. 藤原てい(気象台職員妻)、宮尾登美子(開拓団教員妻)など、満州引き揚げ者の記録はたくさんあるが、そうしたものは、もともと書ける人(学問した人)が書いたもの。書けない人(在日の人など)、一番つらい思いをした人の声を書かないと、その人が死んでしまえばすべてなくなる。そんな人たちが生きていたことを伝えたい。

7. いま体験を語れる人は、当時こどもだった。こどもはみんな大人になる。こどもの記憶が大人を支える。自分も「べっぴんさん」と言われた幸せな記憶が支えてくれている。

8. タイトルの「世界の果て」とは、つらい人、見放された人のこと。シリア難民、南スーダン難民(こまい靴に、こまい足)など。「世界の果て」がなくなることを願っている。


 講演の最後は、幡多の昔話を紹介してくれた。幡多は昔話の宝庫であり、今年「ちゃあちゃんのむかしばなし」(福音館書店)を出版した。

中脇の小説の主人公はすべてこども。その根源には昔話がある。

こどもの記憶が大人をつくる。名もなき人たちの言葉や、人が生きていくにあたっての大切なこと、教訓などは、昔話という形で、こどもの記憶を通して、のちのちに伝えられる。

中脇は、今回、満州引き揚げ者、残留孤児、在日朝鮮人、元中国軍兵士、元日本軍兵士、横浜空襲体験者などへの聞き取りを多くおこなっているが、それらは、昔話の採取と同じだったのだろう。

過去を知ることは、未来をつくるため。
昔話は過去の話ではない。

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広報と広告(2)

広報誌に有料広告は必要なのか。みんな、どう思うだろうか。

それよりも、問題は、広報誌をどれだけ身近に感じているである。多くの人はパラパラとめくって必要な記事だけをサラリと見て、あとは放ってしまうだけであろう。開くだけでも、ましなほうかもしれない。だから、広報誌に広告が載っているかどうかも気づかないのではいないか。

しかし、広報誌には、一人ひとりがその地域で生活し、暮らしていくためには必要欠くべからざる情報が満載されている。医療、健康保険、税金、保育園、学校、災害対策、慶弔、諸行事、そして施政方針など・・・。

広報誌は無料で原則全世帯に配られる。だから、水や空気と同じで、普段はあって当たり前と思っているが、これがなくなれば、たちまちに困る。

広報誌は無料とはいっても当然、発行・配布費用がかかっており、それらは市の財政、ひいては市民が負担する税金で賄われている。

多くの自治体、特に地方の自治体は人口が減り、これに伴い、税収も年々減っている。財政事情はきびしい。四万十市もそうだ。

どこの自治体も行政改革などで、ギリギリ支出(歳出)を切り詰め、収入(歳入)がえられるところでは少しでも得ようと努めている。広報誌に有料広告を載せるのは、こうした手段の一つだといえる。

しかし、みなさんに考えてほしいのは、広報誌に有料広告を載せることは、本当に必要な「努力」といえるのだろうか。

自治体運営の原則は公平平等。
広く市民に情報を伝え、市民からも広く情報を得なければならない。

広報誌に有料広告を載せるということは、市民のための大切な誌面を「売る」ということである。結果、情報スペースがその分だけ削られるということになる。

また、広告には、こんな問題もある。仮に、広告の内容に問題がありトラブルになった場合、またその広告主が何か社会的問題を起こした場合、市は掲載責任を問われることになる。市は広告を載せただけであり、商品内容等には関知していません、と言っても通用しない。これについては、「広告掲載要綱」において、業者を厳選することにしてはいるが、常にそんなリスクをかかえることになる。

「広報しまんと」では、裏表紙の下段約半分に広告を載せているが、その販売価格は1カ月7万円(プラス消費税)である。年間にすれば84万円の収入になる。(今年1~8月号の広告内訳は、不動産販売3、文具販売2、福祉施設、学校制服販売、コインランドリー各1)

これを発行費用の一部にあてるというのなら、広報の誌面を縮小してその分発行コストを抑えるのと、同じとも言える。

また、よくある無料のタウン誌と同じように、思い切って広告のページを半分ぐらい(またはそれ以上)にして、発行コストのすべてをまかなうという方法も考えられなくはない。

広報誌の役割はNHKに似ている。公共放送のNHKはマーシャルを流さない代わりに、国民の受信料でまかなっている。もし、受信料を払いたくないというのなら、NHKはコマーシャルを流すことになろうし、民送と変わらなくなる。

その代わり、台風、地震、交通情報のような国民の命に直結するような、きめ細かいな情報は流されなくなるであろう。また、Eテレでつくられているような教養・教育番組も少なくなるであろう。(NHKが公共放送としての役割をいま本当に果たしているかは別の問題)

先に紹介したように、「暮らしの手帖」の花森安治は、広告を載せることは「魂(たましい)を売ること」と言った。

これは、画家(芸術家)が自分だけで絵を描き上げるように、「暮らしの手帖」という自分の作品は隅から隅まで自分の手(責任)で仕上げたいという、花森編集長の熱意、願望のあらわれでもある。それだけ自分の作品に対する思い入れが大きかったのだ。

これは広報誌についても同じだ。広告を載せるかどうかは、自治体としての主体性、ひいてはトップ(首長)の思い入れにもかかわっている。

広報誌を単なる市民への回覧板のようなものとみるのか、首長からのメッセージと位置付けるかである。

広報誌は、首長が住民と情報交換できる唯一の恒常パイプである。

住民への情報提供、および住民からの情報収集は、自治体の生命線である。これをコスト問題とからめてはいけないと思う。

四万十市は、今年度から、市立図書館運営と市民病院給食業務を民間委託した。コスト削減のためである。一方で、3年前から副市長を外部(中央官庁)から迎え、2人にしている。

自治体の究極の使命は、住民の命と暮らしを守ること。

そのために、必要なコストと無駄なコスト。

真剣に、考えてほしい。(終)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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