大逆事件サミットin大阪

 10月22日、大逆事件サミットが大阪で開かれ、参加した。

同サミットは、大逆事件犠牲者たちの名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる全国の団体・個人が一堂に会し、それぞれの活動報告と経験交流、今後の取り組みを議論する場であり、第1回は、2011年、幸徳秋水刑死百周年記念事業の一環として、中村で開いた。

第2回は、2014年、秋水の盟友堺利彦の生誕地福岡県豊津(みやこ町)で。

第3回の今回は、管野須賀子がキリスト教洗礼を受けた大阪の天満教会で開いた。準備は、大阪の「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」がおこなってくれた。(同会の主要メンバー13人は、今年1月24日の秋水墓前祭に来てくれている。)

全国から16団体、140人。これまでで最も多く、なじみの顔ぶれも多い。幸徳秋水を顕彰する会からは6人参加。

メイン企画のシンポジウム「管野須賀子と大逆事件」は、コーディネーター山泉進明治大学教授のもと、3人からの報告、荒木伝(社会運動研究家)「明治期大阪の社会運動と管野須賀子」、井口智子(松原教会牧師)「クリスチャンとしての管野須賀子」、田中伸尚(ルポライター、元朝日記者)「飾らず、偽らず、欺かず」にもとづいておこなわれた。(田中氏のタイトルは近著「管野須賀子と伊藤野枝」からとったもの)

続いて、参加各団体から活動報告が行われた。

秋水顕彰会からは、今年5月、秋水最初の妻との間に生まれた「秋水の孫」2人が秋水刑死105年目にしてはじめて、肉親として秋水墓参に来てくれたことなどを報告、さらにそうした縁により、このサミットに「秋水のひ孫」の小谷美紀さんが埼玉県から参加していることを紹介させてもらった。

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夜は近くの大阪リバーサイドホテルに会場を移し、交流会(懇親会)をおこなった。秋水らを弁護した弁護士平出修の孫にあたる平出洸氏(平出修研究会)が管野須賀子から平出修にあてた手紙の原本をもって来られたので、みんな競ってカメラに収めていた。

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翌23日は、オプションのフィールドワークがあり、約半数が参加した。

最初に、三浦安太郎墓へ。大逆事件に連座させられた「大阪組」3人(無期懲役)の1人。広大な阿倍野霊園の一角に三浦家墓があった。みんなで手を会わせた。現在の墓守は不明という。すぐ近くに五代友厚の大きな墓があった。

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次に、管野須賀子が作家宇田川文海の弟子だったころの住居跡へ。住吉大社のすぐ隣。いまは違う建物が建っている。

せっかくだからということで、地域のボランテアガイドが、住吉大社界隈を案内してくれた。歴史探訪。

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ここで全体は解散となったが、和歌山県新宮市「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」の一行バスが帰途に、寝屋川霊園(寝屋川市)にある武田九平墓に立ち寄るというので、私も飛び入りで同乗させてもらった。九平は妹の嫁ぎ先津田家墓に一緒に葬られていた。

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ちなみに、「大阪組」の残る1人岡本頴一郎(山口県出身)の墓はいまもわかっていない。

今回、「大逆事件サミット大阪宣言」で、それぞれの団体が連携して、さらに運動の輪を広げていくことを誓いあった。

次回、第4回サミットは、2年後、新宮市で開かれる。


中村の健在を全国に

中村高校が秋の高校野球県大会で優勝した。
田頭主将、山沖投手ら「二十四の瞳」の活躍で甲子園準優勝して以来40年ぶりの快挙だ。

県立高校、しかも郡部の高校が勝ち進むことは、当時もいまも容易ではない。しかし、1、2年生による「三十二の瞳」の新チームは、伝統の固いチームワークと、夏の大会準優勝の先輩たちが残してくれた勢いをしっかりと受け継ぎ、さらに一戦ごとに着実な成長を示す、堂々たる勝ちっぷりだった。

思えば40年前、地元を離れていた私は、それまで全国的に無名の出身地を説明するのに苦労をし、時には引け目を感ずることもあったが、一躍中村が有名になったものだから、鼻高々であった。ふるさとへの自信と誇りをもたせてくれた。

しかし、あれから周りは大きく変わった。人口が減り、こどもが減る一方で、観光面では四万十川が脚光を浴びるようになった。また、県立校改変で中村高校に中学が併設された。

こうした流れの中で、中村市はなくなったが、中村はいまも中村である。駅も郵便局も、幼稚園、小学校、中学校も。そして中村高校も。

夢をもう一度。
中村高校の甲子園での活躍で、中村は健在であることを全国に知らしめてほしい。


高知新聞投稿原稿
掲載されず。

地元議員の「見識」

 地元高知県人として、恥かしい。

山本有二農水大臣(衆議院高知2区)がとんでもない発言をした。衆議院議運佐藤勉委員長のパーティーに出席し、「TPP批准を強行採決するかどうかは佐藤氏が決める。だから、私はここに来た」と、激励挨拶したのだ。

強行採決は国会運営のルールに反するものであり、国会が正常に機能していないことを示すもの。山本発言は、その強行採決をさも当然なものとして、促すようなもの。

TPPで最も影響が心配されているのが農業分野。その問題点を徹底的に審議し、日本農業を守るべき先頭に立たなければならない農水大臣が、こんな発言をするとは、あきれる。しかし、これが本音なのだ。

TPP合意案は、主要5品目の保護をうたった国会決議に反することは明白である。また、自民党自身も、聖域なき関税撤廃を求められるようなTPPには反対する、と公約に掲げていた。

また、山本有二議員は、地元高知県農協中央会に対して、同様の約束をしている。

政治家の見識とは、この程度のものだろうか。公約とか約束は、平気でコロコロ変える。この軽さ。安倍首相に農水大臣にしてもらったことに、舞い上がってしまったのだろう。

高知県では、山本有二議員だけではない。
福井照議員(旧高知1区、現四国比例区)も同じだ。所属する二階派の会合で「TPP委員会で西川(公也)先生の思いを強行採決という形で実現するように頑張る」と、強行採決を後押しする発言をし、TPP特別委員会委員辞任を余儀なくされた。

また、山本発言は、同じ与党の公明党も問題視したが、一方では、石田祝稔政審会長は「辞任するほどではない」と弁護した。この石田議員も高知県の議員だ。(四国比例区)

同類相哀れむ。類は友を呼ぶ。
よりによって、高知県の議員ばかりがTPP国会で恥を全国にさらしている。
高知県民として迷惑この上ない。

渡川合戦の真実

 長宗我部元親の土佐統一と石谷頼辰の役割 ― 石谷家文書にみる渡川(四万十川)合戦の新知見 ― 

地元郷土史家、東近伸氏(元中学教員)による、西南四国歴史文化研究会(通称よど)中村支部主催の郷土歴史講座が、10月8日、中央公民館で開かれた。

この講演で、これまで知られていなかった渡川合戦の真実が明らかにされた。

渡川(四万十川)合戦とは、天正3年(1575)、土佐一條家4代一條兼定が長宗我部元親に敗れ、長宗我部による土佐統一がなった戦いである。

これまでの通説では、一條兼定はわがまま勝手な「暴君」であり、家の将来を心配した家臣たちが長宗我部を頼って、息子の内政を擁立して、父兼定を追報した、とされていた。

しかし、この説は、江戸時代、長宗我部の支配を正当化するために書かれた「元親記」や「土佐物語」の記述にもとづくものであり、疑わしい面もあったが、ほかに記録や資料がないことから、兼定=暴君(無能)というイメージができあがっていた。

ところが、このほど新資料が見つかった。岡山の林原美術館が所蔵していた石谷(いしがいけ)文書である。石谷頼辰は将軍足利義輝の側近で、京都の朝廷・公家などにも通じていた。

頼辰は長宗我部元親の義兄(妹が元親妻)でもあったことから、渡川合戦の最中、たびたび元親と書状のやりとりをしている。その書状が石谷文書の中にあった。

これらによれば、驚くべきことに、長宗我部は京都の一條家本家と通じていた。頼辰を通して、両者は合戦の情報を共有していたのである。

東近氏は言う。一條家本家は、このままでは土佐分家の存続は危ないとみて、勢力拡大中の長宗我部との和解策(妥協策)を考えた。兼定に代わって息子内政をたてることによって、元親を内政の後見人として、一條家の名はを残してもらうかわりに、実質的には元親の支配を認めるというもの。

実際、京都本家の当主一條内基が合戦直前土佐に来ている記録があることは以前から知られていたが、石谷文書により、これが和解策の交渉のためであったことが、今回はじめてはっきりした。

兼定は、本家の意向もあって、不本意ながら退位させられ、義父(妻の父)である大友宗麟の豊後(大分県)へ身を寄せた。そこで義父のすすめもあって、キリストの洗礼を受けた。

ところが、こうした和解策に不満をもつ旧臣たち(特に中村以西宿毛~伊予)が兼定を担ぎ出して旧領回復をはかったのが渡川合戦であった。

通説では、兼定軍はたちどころに敗れ、伊予方面に敗走したとされていた。ところが、実際は、長宗我部は苦戦を強いられ、一進一退、戦いは長期化した。このため、元親は大津御所(現高知市)に移していた内政を中村の陣に立たせ、旧臣を懐柔することによって、ようやく勝利を収めたのである。

渡川合戦は、長宗我部によって分断された親子の戦いであり、土佐一條家の正統性を問う戦いであった。

それにしても、元親の調略はしたたかだ。一條家は摂関家であり、土佐の国主であった。豪族出の長宗我部とは格が違う。京都からは、元親は一條家の家臣と見られていた。

そんな元親はまともに兼定と戦うことはできない。そこで、一條家本家を取り込んだのだ。本家は本家で、分家の名を残すために元親と手を組んだ。兼定は本家からも見放されたのである。

兼定は、最後は宇和島沖の戸島に逃れ、敬虔なキリシタンとして死ぬ。私は3年前、2年前と2回、戸島を訪ねた。墓(廟)はキリスト風にステンドグラスで飾られていた。

兼定は無能な暴君ではなかった。有能ゆえに元親に恐れられ、家臣の信望篤かったがゆえに、リベンジの旗頭にかつがれた。そう思いたい。

 なお、追記ながら、明智光秀の重臣齋藤利三は石谷頼辰の実弟であったことから、元親は頼辰を通して光秀とも通じていた。石谷文書の中で見つかった書状から、光秀が本能寺の変をおこしたのは、信長による長宗我部征伐を阻止するためであったという新説が注目を浴びている。

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中村高校優勝

まさか、まさか。
わずか2カ月半前と同じスタンドで、真逆のシーンを見せてくれるとは。

中村高校野球部は、7月27日、夏の高校野球県大会決勝で常勝明徳義塾(7年連続)に、最終回あと一歩で逆転というところまで追い上げたが、2-4で敗れた。甲子園で明徳はベスト4まで勝ち進んだ。

10月9日、新チーム(1,2年生)にきりかわった秋の県大会決勝は同じ対戦になった。今度は中村が2-0で完封勝ち。見事にリベンジを果たしたのだ。

秋大会優勝は、田頭主将、山沖投手ら「二十四の瞳」で甲子園準優勝した時以来実に40年ぶりである。今夏の活躍がフロックでなかったことが証明された訳だ。

もしかしたらこうなるのではと、私はひそかに期待をしていた。というのも、旧チームの主力3人が2年生であり、新チームに残ったからだ。

新チームでは、3番一圓(サード)はそのまま、4番北原はショートからピッチャーに、5番中野は6番ファーストからキャッチャーに、かわった。

秋大会では、4番でピッチャー、名実ともにチームの大黒柱になった北原の存在感がズシリと大きかった。

北原は、背は高くないが、がっしりした体。腰回りが大きいため、どっしり安定感がある。球が速いだけでなく、変化球も多彩。また、配給もクレバーで、強打の明徳打線を翻弄した。

中村の強さは、もう一つある。固いチームワーク。
新チームの部員は16人(三十二の瞳)。主将の山本は背番号16であり、今大会では一度もプレーしなかった。この縁の下の主将がチームを支え、がっちりまとまっている。

さて、これで四国大会へ。
甲子園(春のセンバツ)がいよいよ近づいてきた。
四国大会(10月22日~、松山市)は、各県3校計12校で争われる(高知県代表は、中村、明徳、岡豊)。確実に甲子園に行くためには決勝に残らなければならない。

「21世紀枠」という特例枠も期待できるという声もチラホラ聞こえるが、ここは実力で甲子園をつかみとってほしい。

県大会の戦いぶりをみれば、その可能性は十分にある。
大いに期待している。

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花森安治『一戔五厘の旗』

 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」が9月いっぱいで終わった。雑誌「暮らしの手帖」をつくった大橋鎭子と花森安治の物語であり、なかなか充実した内容であった。私も久しぶり朝ドラをずっと見た。

「暮らしの手帖」は、広告を載せないことで有名なことから、このことについて先に書いたが(8月31日、9月1日)、どうしてもまたを書きたくなった。

花森(ドラマでは花山)が死ぬ、放送最終盤の盛り上がりがすごかったからだ。編集長花森の鬼気迫る姿が描かれていた。

「暮らしの手帖」は、ひとびとの暮らしがもっと豊かなものになるために役立にたちたい、との目的でつくられた雑誌だ。

ドラマの最後、花森はこう言っている。

 ひとりひとりが自分の暮らしを大切にしていたら
 守らねばならない幸せな家族との豊かな暮らしがあったなら
 あの戦争はおきなかったのではないだろうか

雑誌の根っ子に流れていたもの。
暮らしをめちゃくちゃにするような戦争は二度としてはならない。

「戦争体験特集号」では、読者にこう訴えた。
 
 その戦争は昭和16年に始まり、昭和20年に終わりました。
 それは言語に絶する暮らしでした。
 その言語に絶する明け暮れの中で、人たちはやっとギリギリ生きてきました。
 親兄弟、夫や子、大事な人を失い、そして青春を失いそれでも生きてきました。
 そして昭和20年8月15日、戦争は済みました。
 まるでウソみたいで、バカみたいでした。
 それから28年がたって、あの苦しかった思い出は、一片の灰のように人たちの心の底深くに沈んでしまって、どこにも残っていま せん。
 いつでも戦争の記録というものはそういうものなのです。
 あのいまわしくてむなしかった戦争のころの暮らしの記録を、私たちは残したいのです。
 あの頃生まれていなかった人たちに戦争を知ってもたらいたくて、貧しい一冊を残したいのです。
 もう二度と戦争をしない世の中にしていくために、
 もう二度とだまされないように、
 どんな短い文章でもかまいません。
 ペンをとり、私たちのもとにお届けください。

そして、遺言として「あとがき」に、こう書いた。
 
 ・・・この雑誌で掲げてきたのは庶民の旗です。
 私たちの暮らしを大事にするひとつひとつは、力が弱いかもしれないボロ布、端切れをつなぎあわせた暮らしの旗です。
 世界で初めての暮らしの旗。
 それは、どんな大きな力にも負けません。
 戦争にだって負けやしません。・・・

放送が終わってから、私は花森が書いた『一戔五厘の旗』を読んだ。「暮らしの手帖」に書いた文章をまとめた本だ。

一戔(銭)五厘とは戦争に召集された当時の葉書のねだん。花森も一銭五厘で戦争にとられた。

一銭五厘の庶民がかかげた旗が「暮らしの手帖」なのだ。

花森は単なるモノ書きではない。編集者だ。
編集者はモノも書くが、雑誌や本をつくるのが本職だ。

花山は病院のベットで言う。

 私は死ぬ瞬間まで編集者でありたい。
 その瞬間まで取材し写真を撮り原稿を書き、
 校正のペンで指を赤く汚している
 現役の編集者でありたい。

花森にとって、「暮らしの手帖」づくりは、さぞかしやりがいのある仕事だったろうと、うらやましく思った。

それにしても、いまのNHKでよくぞこんなドラマがつくれたものだ。

 もう二度とだまされないように・・・

NHK現場スタッフ意地だろう。
拍手を送りたい。

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中村とよさこい(3)

 中村には土佐一條公家行列「藤祭り」がある。
中村は15世紀、京から下向してきた一條家がつくったまち。「藤祭り」は、中村御所に就く一條教房公の入府を再現したもので、毎年藤の季節の5月3日に行われている。

祭りを公家行列としたのは、いまも同じ5月に行われている京都の葵祭のルーツである賀茂祭が一條家ゆかりの下鴨神社の例祭であったことになぞらえたもの。京都では古くから「祭り」といえば、賀茂祭のことをさした。

藤祭りは、京都ゆかりのまち中村を広く知ってもらおうと、中村市商店街組合連合会(商振連)が1992年始め、すぐに中村商工会議所が引き継ぎ、今年で25年になった。

藤は一條家の家紋であり、中村市(現四万十市)の「市の花」にも指定されている。

行列には、約200人の市民が参加する。古式ゆかしい装束をつけて、2頭の馬(教房公、国司使役)、玉姫を乗せたみこしを先頭に、従者、女官、稚児たちが市街地を一周する。

従者は、すり足、差し足で歩かなければならない。慣れないかっこうを強いられ、みんなしかめ顔になるくらいだ。

よさこいは、こうした儀礼(ルール)に縛られる藤祭りとは、真逆の祭りである。

よさこいのルールは、2つだけ。
鳴子を持つことと、曲によさこい節のフレーズを少しでもいいから入れること。あとは、飛んでもはねても自由である。もちろん衣装も。

土佐一條家は、教房の息子房家を初代に100年続いたが、4代兼定が四万十川合戦で最終的に長宗我部元親に敗れ、中村のまちは長宗我部の支配に屈することになった。

私は、今年のよさこいが一條神社下の一条通や天神橋アーケードではねている姿を見て、長宗我部軍が中村に攻め入ったもようを、連想してしまった。そして、祭りのフィナーレ総踊りは、長宗我部軍の勝どきではないかと。

一條家は土佐の国司であり、当時の土佐の中心は中村であった。その後も、中央(織田、豊臣)からは、長宗我部は一條家の家臣と位置付けられていた。

 ♬~  土佐の中村 一條公さんは
     都をしのぶ まちづくり
     祇園 京町 丸の内
     中村よいとこ 中村よいまち 城下町 

「中村音頭」は、スロ~ スロ~ だ。
これに振付をした踊りも、盆踊り風で、のんびりしている。
しかし、これが、公家文化であり、中村を象徴している。

よさこいなら、全国どこのまちでもできるし、やっている。
しかし、藤祭りのような祭りをできるところは、めったにない。

地元の歴史と文化を大切に。
その土台に立ってこそ展望がある。

ミニ高知 よりも
大中村 を

めざそうではないか。(終)

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中村とよさこい(2)

  よさこい四万十が入ってきたことで、中村の祭りは、8月市民祭、9月よさこい、10月不破八幡さん、11月いちじょこさん(一條大祭)と、続くことになった。

こう並べてみると、よさこいだけが異質なことがわかる。八幡さん、いちじょこさん、はともに神社主催であるが、氏子はみんな地元であり、地域に根差した、地域ぐるみの伝統の祭りである。市民祭は市役所が事務局となって、広く市民で実行委員会をつくり運営する。

これに対し、よさこいの主催は中村商工会議所(最初は同青年部)である。最近は後援に四万十市の名前が入っているが、実質的には商工会議所だけで仕切っていることに変わりない。

そんなことよりも、異質なのは、参加チームに地元中村のチームがないこと。祭りの舞台(会場)づくりや、宣伝、案内は地元でおこなうが、主役の踊り子は、ほとんどが「よその人」である。(幡多3チームに入って踊っている市民は一部いる)

これでは、芝居や歌の興業を呼ぶのと同じである。違うのは、無料(タダ)で見れること。無料の興業を市民に提供してくれることは、市民にはありがたいことである。

しかし、祭りの本当の喜びは自らも祭りに参加することである。せっかく事務局がいろんな準備や苦労をしても、一番おいしいところはよそにもっていかれる。

では、これで、よそからの観光客を呼べるかというと、そんな甘いものではない。観光としてなら、みんな本場の高知市の祭りへ行くだろう。また、踊り子たちがお金を落としてくれるのを期待しても、ほとんどが日帰りなので、わずかなものであろう。

一番いいのは、これに刺激を受けて、地元によさこいチームができて、地域のまとまりや団結力強化に貢献することかもしれない。しかし、始めて6年、まだその兆しはない。

地元によさこいチームができるのは、しかし、私はむずかしいと思う。理由は中村と高知の文化、風土の違いである。幡多文化と高知文化の違いともいえる。私は、よさこいは高知文化を代表するものと思っている。

よさこいの原型「よさこい鳴子踊り」がつくられたのは、戦後昭和25年、高知の観光PRのため。つくったのは高知商工会議所のメンバー。

この鳴子踊りがその後全国的に広がる。きっかけは、1990年代、よさこいソーランである。私はこのよさこいソーランを1997年、転勤先の札幌で見て、驚いた。そして、うれしかった。

北海道高知県人会に協力し、職場ロビーで、これぞ本場よさこいだ、とパネル展を開いたぐらいだ。2002年には、東京原宿のスーパーよさこいも見た。大阪でも類似のまつりも。

県外にいると、よさこいの勢いが強く感じられた。よさこいが全国を席巻していることが誇らしく感じられた。

しかし、中村に帰ってきてからは、見方がだんだんと変わってきた。県外からなら、よさこい=高知県全体、と見えるが、中村に帰ってきてみると、よさこい=高知市周辺、であることを感じるようになってきた。

幡多弁が高知弁と違うように、ヨッチョレヨ ヨッチョレヨ のあのリズムと、カチャ カチャ の鳴子の響きは、耳には小気味よく聞こえるが、何度も聞いていると、肌合いが違うように思えてきた。

中村はお公家さんのまちである。お公家さんは何ごとにもスローである。

中村によさこいが育たないのは、このせいであると思う。(続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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