安積開拓と秋水妻(3―終)

 西村ルイ(秋水最初の妻)については、2つの謎があり、今回の安積訪問でその解明の手がかりを見つけたかった。

1. ルイの父西村正綱は、明治27年、最初の組から16年も遅れて、なぜ、どんな目的で、福岡県黒木町から安積へ移住したのか? 安積では何をしていたのか?

2. 幸徳秋水にルイを紹介したとされる、中江兆民同門の友人森田基(画家)とは、どんな人物で、西村家とどんなつながりがあったのか?

 今回の旅では2つの疑問とも明らかにはできなかった。しかし、それぞれの背景らしきものはある程度見えてきた。

今回、西村正綱の名前は、どこにも見つけることができなかった。入植者名簿にも、記念碑に刻まれた名前にも。また、案内をしていただいた中島さんから提供していただいた、「百年史」等のたくさんの資料の中にも。

資料は、入植初期についてはよく残されていたが、久留米開拓地が南部と北部に分裂して以降、特に北部については火事で焼失したこともあり、ほとんどないということだった。西村正綱が入ったのは北部(喜久田村対面原)である。

しかし、紙の資料が残されていないにしても、名前だけなら開拓記念碑に刻まれているはずである。しかし、そこにもないということは、そもそも西村正綱は開拓民(農民)として移住したのではない、と思わざるをえない。

現に、久留米開墾事業はすでに明治24年に終了していた。その頃は、最初の入植から続く生活苦の中で、地元高利貸、商人などから借金のかたに土地をとられるなどして、多くの開拓民が離散しており、半数も残っていなかった。

そんな時期に、この地に新たに移住することは考えられないことと、中島さんは強調されていた。

正綱妻千鶴の兄2人、太田榮と茂の墓が開拓地にあることは前からわかっており、今回現地を確認することができた。

新たにわかったことは、榮は明治16年、この開拓地(北部)を離れ、福島県官吏となり、同22年には、近隣の安積郡多田野村の初代村長になり(明治39年没)、長男陽太郎も明治41年から同村長(2代続けて)をつとめたということ。

茂も、同じ明治16年開拓地を離れ、やはり長野県官吏となった。しばらくしてから、帰ってきて同39年から喜久田村村長をつとめた。(昭和2年没)

茂については、東京在住の孫女性の連絡先がわかった。茂の息子は東京に出て、江東区でメリヤス事業を始めたが、昭和20年3月10日の大空襲で事業も家族3人も失ったという。しかし、西村家の情報は得られなかった。

榮の子孫の連絡先は不明。郡山周辺におられるという情報もあるが・・・

弟の伝も開拓地を離れた(時期は不明)ことが記録されていた。しかし、明治27年、西村家族が移住してきた時は、伝の住所に同居したことになっているので、その頃伝だけはまだ残っていたのであろう。

伝のその後の消息は、墓の場所も含めて全く不明である。

西村ルイは、生前、生まれ故郷の福岡県黒木町の思い出は時々話をしたが、安積のことはほとんど話さなかったという。いい思い出はなかったのであろう。そんな中、わずかに話したことの中に、一家で開拓地に入るさい、荷車に載せて運んでいる家財道具が立派だったので、道々羨望の目で見られたということ、また、父正綱は、酒好きで、開拓地でも玄関に酒を並べて飲んでいたということ、がある。

正綱はやはり開拓農民としてではなく、何等かの仕事(公職?)で招かれたのではないか。現に、正綱は視学官(教育行政官)をしていたらしいという話も残っている。

しかし、今回、教育関係資料が残っているという安積歴史博物館(安積高校内)にも行き、調査を依頼したが、追っかけ、そんな記録は見つからないという報告が届いた。さらに調べてくれるというが・・・何の記録も残ってないというのも、不思議である。

正綱は移住9年後の明治36年に没している。長男軍次郎(ルイの兄)は安積から東京深川に出たことははっきりしている。しかし、その時期は不明なので、正綱が没したのは安積か東京かは、わからない。軍次郎は深川では繊維関係の仕事を始めたという。

この仕事は太田茂息子兄弟(三男、四男)がやっていたという江東メリヤス合資会社と関係があるのではないか。母千鶴はよくメリヤス工場に出かけていたという話が残っている。このメリヤス工場のことではないだろうか。

私は、今回開成山神宮前にそびえ立っている「森尾茂助・太田茂開墾率先碑」を見て驚いた。この大きな顕彰碑は大正7年、2人のリーダーを称えるために建てられたものだが、いたみがひどくなったということで、平成13年10月、補修が行われていた。

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その補修費用を提供した人たちの名前が手前の石に刻まれているが、寄付者総数32人の中で、福岡県八女郡黒木町の見野幸子さんが総額の半分以上の50万円を寄付していた。

見野家は西村家と古くから姻戚関係にあり、同じ黒木町で両家の墓所は隣接している。西村正綱・千鶴夫婦の墓もそこにある。

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見野幸子さんは西村軍次郎の娘として生まれてから見野家養女になった人である。幸子さんは、自分の祖母(千鶴)の兄の顕彰碑のために、多額の資金提供をしたのだ。

幸子さんはいまもご健在であるが、ご高齢のため、そのあたりの事情や思いをおききすることはできないのが残念である。

今回の旅では、幸徳秋水とルイを結びつけた「森田基」についても、輪郭が見えてきたような気がする。

私は、森田基は中江兆民門下であったということから、同じ土佐人であり、この糸が近隣開拓地に入植していた旧土佐藩士のだれかから西村家につながったのではないかと、推測している。

今回、土佐藩主力が入植した「廣谷原」と久留米入植地(北部)の「対面原」とは比較的近い位置関係にある(車で10分ほど)ことがわかった。

また、太田榮は安積南部にある多田野村村長を明治22年からつとめており、同村の山田原地区にも、別の土佐藩20戸が入植していたこともわかった。

裏付けはまだないが、こんな事実を知ったことも、今回の旅の収穫である。
調査は今後も続けたい。

最後に、今回お世話になった久留米開墾報徳会中島武会長には、心からお礼を申し上げたい。

(終)

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安積開拓と秋水妻(2)

 2日目は、あらかじめお願いをしていた久留米開墾報徳会会長の中島武さんにご案内いただいた。報徳会は久留米入植者子孫の方々の集まりである。

中島さんの車に乗せていただき、市中心部から南へ20分で水天宮へ。このお宮さんは、福岡久留米にある水天宮を分祀したもの。境内にはたくさんの記念碑などが立っており、脇には久留米資料館もあった。

安積開拓全体の顕彰会組織はほかにあるが、単独の会があり、単独の資料館をもっているのも9藩中久留米だけ。安積開拓において、久留米藩の果たした役割が大きかったことの証左だ。

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館内には、いろんな資料が展示保管されていた。開成館の展示よりも生々しい。詳細な年表、入植者名簿、歴代区長写真、当時の借金証書など。刀を鍬にかえ、慣れない農作業に苦しんだ、久留米藩士のうめき声が聞こえてくるようだ。

 
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ここらには、久留米公民館、久留米郵便局などもあり、地名も郡山市久留米(1~3丁目)であるが、いまはすっかり住宅地に変わっていた。農家はほとんどないというが、墓地は当時のまま残っていた。

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久留米藩からの入植者は多かったため、最初に入植したここらあたりだけでは、土地が不足してきて、途中からは、少し離れた北部に移った者も多い。その北部(旧喜久田村対面原)にも案内してもらった。やはり20分ほどかかった。

北部にも同じ水天宮が、さらに金毘羅宮もあった。遠くに白く雪をかぶった安達太良山を望むところで、南部と違い、一面水田や畑が広がり、いかにも開拓地という雰囲気を残していた。

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 一角に墓地があった。その中に太田榮(兄)と太田茂(弟)の墓が並んであった。2人は兄弟であり、さらに下の弟伝と3家族で入植をした。

3人の男の間には、妹千鶴もいた。千鶴は西村正綱の妻であり、ルイの母であった。西村正綱一家は、明治27年、最初の組の入植から16年も遅れて、ここに移住し、弟伝の家に同居したことは、戸籍記録からわかっている。しかし、伝の墓はなかった。

茂は久留米藩開拓のリーダー2人の中の1人であった。茂はもっぱら猪苗代湖からの用水開削を担当し、もう1人のリーダー森尾茂助は農地開墾のほうを担当したと、記録されている。

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この北部に来る途中、土佐藩が入植した廣谷原という地区も案内してもらった。一部は郊外流通団地になっているが、大半は農地のところである。豊受神社という土佐藩士が建立した神社には、土佐藩入植者の名を刻んだ記念碑があった。

安積は広い。土佐藩からは、合計101戸(久留米藩に次いで多い)入植したが、廣谷原に入植したのは75戸で、残りはだいぶ離れた2地区に入っている。

 (続く)

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安積開拓と秋水妻(1)

 1月28日、大逆事件処刑107回追悼集会が東京渋谷区正春寺で開かれ、昨年に続き参加した。約100人。管野須賀子墓前で読経、手を合わせたあと、各団体、個人から活動報告が行われた。私からも、1月24日秋水墓前祭のもようなどを報告した。鎌田慧、田中伸尚、早野透、鍋島高明各氏らも参加していた。

 翌29日、福島県郡山市へ向かった。秋水は明治29年ごろ、安積開墾地(現郡山市)にいた旧久留米藩士西村正綱の娘ルイと最初の結婚をした。このことは、このブログでも何度も書いてきた。この旅の目的は、ルイの足跡をさがすためである。

東北新幹線で約1時間半。郡山は5年前、隣町の三春に伊藤寛前町長を訪ねたさい一泊したことがあるが、ゆっくり歩くのははじめて。駅から出ると、さすがに寒い。ブルブル。まず、開成山神宮へ向かった。タクシーで20分ほど。道端には前の週に降った雪の塊が残っている。神宮は、安積開墾事業のシンボル、精神的拠り所として明治9年、伊勢神宮から分祀してつくられた。

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開墾事業は、当初福島県主導で着手されたが、明治11年からは、大久保利通らの提唱で、士族授産のための大規模国営事業に拡大されてから、最初に入植したのが旧久留米藩士156戸であり、参加9藩の中で最大規模であった。

神宮脇には、最初の指導者中條政恒(福島県典事、作家宮本百合子祖父)、阿部茂兵衛(開成社社長)の顕彰像が立っていた。周りは広い運動公園になっている。

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すぐ近くの開成館(開拓資料館)へ。庭には「安積開拓発祥の地」の標柱が建てられ、粗末な当時の開拓民住居も復元されていた。館に入ると、生活用具、古文書、地図、写真、各藩の紹介パネルなどが展示。

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「開拓と文学」コーナーでは、宮本(中條)百合子、久米正雄らが紹介されていた。百合子は少女時代、学校の夏休みなどに、祖父政恒夫婦がいる開拓地に、東京からたびたび遊びに行っている。その体験にもとづき17歳の時(大正5年)書いたのが、処女作「貧しき人々の群」である。

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館を出て、15分ほど歩き、安積歴史博物館まで足を延ばした。明治22年、県下最初の福島県尋常中学校(旧制中学)として建てられた洋風建物で、国の重要文化財になっているだけあって、風雪を経た風格がある。同中学は現在安積高校になっており、裏には現校舎がある。

冬季は土日しか開館していないというので、その日が日曜であったことは、ラッキー。展示は安積開拓関係のものもあったが、メインは福島県教育史。古い教科書や卒業生の記録など。卒業生に3人の芥川賞作家がいるとは知らなかった(中山義秀、東野辺薫、玄侑宗久)。

また、安積高校は2001年、センバツ高校野球21世紀枠がはじめて設けられた年、その推薦枠で甲子園出場したことを知った。同じ枠で今年は、わが地元中村高校が出場する。安積にさらに親近感が増した。

板張りの長い廊下と教室は、映画に出てくる明治時代の学校そのまま。時代をタイムスリップできる建物そのものが最高の展示物である。2階講堂は、たびたび映画・テレビのロケにも使われているという。最近もテレビ「坊ちゃん」(二宮和也)に。

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日も暮れてきた。

ちょうど近くに、ドッグカフェ 「 One豆Cafe 」さん があることがわかったので、トコトコ歩いて、あったかいコーヒーをいただいた。

この愛犬同伴喫茶は、四万十市具同の 「 WanLife 」さん (福島県本宮市出身。わが息子伝次郎がいつもお世話になっており、この旅の間も泊めていただいている)のお友達ということで、名前を聞いていた。

やはり、わが中村と安積はつながっている。(続く)

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続々 西村ルイのこと  秋水最初の妻(2)

 ところで、黒木訪問に先立つ今年一月末、私は大逆事件犠牲者追悼集会に参加するため上京した。そして集会の翌日、「秋水の孫」に会った。

 秋水とルイの間に生まれたハヤ子(横田姓)は小谷清七と結婚し六人の子を育て上げた。このうち男四人はすでに亡いが、女二人はいまも健在。

 私は集会に参加していた横田みつゑさん(ハヤ子の横田家側孫の嫁)にお願いして、埼玉県草加市の小谷家(実家)の近くに住む、六人の中で一番年上の真野寿美子さんのお宅に案内してもらった。

 寿美子さんは若いころはさぞかし美人であったろう。小柄で気品がありもの静か。かすれた小声で祖母(ルイ)からも母(ハヤ子)からも秋水のことは「ほとんど聞かされていないんですよ」。

 家族の間で秋水の話はタブーであったのだ。しかし、これまで知らなかった家族の話をいろいろ聞かせてもらった。古い写真も出してきてもらった。昭和十八年の写真を見ると、ハヤ子と寿美子さんの黒くて鋭い眼は秋水そっくりであり、ドキリとさせられた。

 私は辞する時、「一度おじいさまのお墓参りに来られませんか」とお誘いをした。しかし、寿美子さんは九十歳(大正十四年生)という高齢のうえ、病気のあとで体力も十分でない様子から、とても中村までの長旅は無理であろうと思ったし、寿美子さんからも特段の反応はなかった。

 その後も電話でのやりとりは何度かあったが、四月中旬になって、寿美子さんの夫から手紙が届いた。そこには、体が動くうちに「長年気になっていたこと」を果たしたいという寿美子さんの気持ちが書かれていた。

 寿美子さん夫婦は、妹の犬竹比佐子さん(昭和十六年生、七十四歳、東京都新宿区)夫婦を誘い、五月十日、四人で見えられた。

 私は雨の中、高知空港に迎えに行った。寿美子さんは、車いすに乗ってゲートから出てこられた。同じ飛行機で、幸徳正夫さん(秋水義兄駒太郎ひ孫)と大岩川嫩さん(大逆事件の真実をあきらかにする会)も来られた。

 十一日、雨もあがり、一行が泊まっていたロイヤルホテル裏の正福寺秋水墓に、幸徳秋水を顕彰する会有志で案内した。

 孫二人は「祖母を会わせたかった」とルイの写真をもってきて秋水に対面させた。幸徳家は神道。榊と花を差し、水をかけ、お米をパラパラと撒いてもらった。それからじっと手を合わせた。

 墓前で幸徳正夫さんが幸徳家を代表して挨拶し、秋水がルイと離縁するにさいしての非礼を詫びた。墓の中で秋水は神妙に聞いただろうか。照れ笑いをしていたかもしれない。

 ホテルロビーで新聞記者からインタビューを受けたあと、為松公園の秋水記念碑(絶筆碑)、郷土資料館、図書館秋水資料室、生家跡なども案内した。

 ホテルで歓迎昼食会を行い、夜は「常連」でアユ、ウナギ、かつお塩たたきなど、「おじいさん」のふるさとの味を楽しんでもらった。みなさん、めずらしい料理に驚きながら、舌鼓を打っていた。

 十二日、新聞各紙に記事が大きく載った。

 午前中、佐田沈下橋にご案内。快晴になり、空の青と川面の青がまぶしかった。気持ちいい川風。一行を歓迎するように帆をかけたセンバがのぼってきたので、めずらしそうにカメラにおさめていた。

 姉の寿美子さんは川を眺めながら、「こんなに山が多いところとは思わなかった」「遠かったが来て本当によかった」と、しみじみと言われた。

 妹の比佐子さんも、「秋水のことは身内と思っているので、地元のみなさんが秋水をこんなに大事にしてくださっていることはありがたく、これをご縁にいろんな関係が深まればいいと思います」と。

 午後、空港まで送り、一行は東京に帰って行った。
 秋水が刑死してから一〇五年。

 「秋水は身内」・・・恩讐を超えた墓参により、秋水生涯の汚点に一つのけじめがついたように思う。 

 私は胸のつかえが下りた気持ちであり、四人には心からお礼を言いたい。

 寿美子さんには子供はいないが、比佐子さんをはじめ四人の弟たちには、あわせて十人の子供(秋水のひ孫)がいる。さらにその下の子供たち(玄孫)たちも。

 今後はこした人たちとの交流も広げていきたいと願っている。

 (終)

 「文芸はた」創刊号 2016.12

続々 西村ルイのこと  秋水最初の妻(1)

  正 2015. 7.23~25
  続 2015.12.26~30

 「文芸なかむら」に二回投稿して以降判明したことや、新たな展開を中心に書かせていただきたい。

 私は今年四月下旬、西村家のルーツ、歴史を調べるため、福岡県黒木町(現八女市)を訪ねた。黒木町は柳川市で有明海に注ぐ矢部川の上流、熊本県境の奥八女と呼ばれる山の中であった。八女茶発祥の地といわれるお茶どころで、さらに奥に遡れば大分県に続く。

 西村ルイは明治十五年ここで生まれた。しかし、父正綱は一家を引き連れ、同二十二年福岡市へ出て、さらに同二十七年(ルイ十二歳)、旧久留米藩士が先に入植していた福島県安積開墾地に移っている。西村家は江戸時代から続く黒木町屈指の「豪家」であったといわれていたのに。その理由は謎である。

 私は西村家現当主の賢一氏(佐賀県鳥栖市在住)と、黒木町在住郷土史家和田重俊氏にあらかじめ連絡をとり、現地で合流した。お二人とは一年前から電話と手紙で情報交換をしてきたが、お会いするのは初めて。

 最初に西村家墓地を案内してもらった。墓地は宗真寺(浄土宗)の裏山の杉林に囲まれた一段にあった。私はオッとうなった。墓石が縦横に「群れ」をなしていたのだ。その数約三十。木漏れ日の中に黒光りする異様な霊気を感じた。

 墓石は奥から古い順に並んでいた。一番古いものは元禄時代。古い墓石は戒名だけのものが多く、実名がわかるものでは、長兵衛藤則、長兵衛藤光、宗右衛門藤光らの名があった。これまでの調査で名前がわかっていたルイの前の四代、正綱、恕平、良平、二兵衛の墓は手前のほうにあった。『篤行傳』に紹介されていた仁兵衛、良平親子とは、二兵衛のことであろう。

 幕末に書かれたと推定される久留米藩主有馬家文書に主要家臣の家系を記した「御家中略系譜」があり、その中に「西村家」があるが、今回その記述が墓に刻まれた名前と一致することがわかった。

 「略系譜」によれば、西村家は元の姓藤原で本国は近江の国。関ケ原の戦いで東軍についた三河岡崎城主田中吉政が功労により慶長六年(一六〇一)、筑後国柳河城に移ったさい、吉政に従ってきた奉行西村五右衛門正常が始祖であった。

 五右衛門は黒木にあった旧城(猫尾城)を任せられた。しかし、田中家は後継ぎがなく二代で改易に。田中家のあと黒木を治めることになった有馬家からも仕官を求められたが、西村家二代目宗右衛門藤正はこれを辞退し、そのまま黒木に土着した。

その後、三代仁兵衛藤義、そして墓のあった四代長兵衛藤則に続いていた。そして、五代長兵衛藤光、六代宗右衛門藤輝・・・この頃有馬家家臣となった。

 しかし、墓があるのは七代二兵衛久隆までで、八代簡治文禮以降はなかった。代わって、簡治の弟良平の墓があり、恕平、正綱と続いていた。おそらく、簡治は久留米城下に居を移し、黒木には弟良平が残り、実質的に黒木の西村家は良平が継いだものと推測される。

 ルイは福島入植二、三年後に秋水と結婚。父正綱は入植九年後没。長男軍次郎(ルイの兄)は、その後東京に出て繊維関係の事業を始めた。しかし、関東大震災で失う。息子稔(賢一氏父)は朝鮮に渡り電話関係の仕事につき、敗戦後福岡県に引き揚げてきた。稔は、昭和五十六年、西村家墓地に納骨堂を建て、東京から軍次郎の遺骨を移した。後に、自分も入った。

 郷土史家の和田氏から見せてもらった元禄十三年(一七〇〇)古地図に長兵衛の名が載っていたことから西村家屋敷跡も特定できた。

 場所は町の中心素盞嗚(すさのお)神社の前。同神社境内には樹齢六百年といわれる藤の大木があり、ちょうど花が満開で多くの観光客で賑わっていた。実は今回、有名なこの藤の花の満開の時期に合わせて訪ねたのだった。

 神社に面して後藤酒造という延宝五年(一六七七)創業の古い酒蔵があった。ここの酒の名はなんと「藤娘」。その隣が西村家屋敷跡であった。

 九十五歳の町の古老から、西村家は徳が厚く、屋敷には井戸が五つあったという言い伝えを聞いた。

 黒木町の「町の花」は藤であり、合併後の八女市もこれを引き継いでいる。中村市→四万十市と同じである。

 西村正綱は西南戦争で西郷方に肩入れをして財を失ったと言われているが、福島に渡った理由はそれなのか。ほかに理由はなかったのか等は、今回調査ではわからなかった。

 しかし、秋水の縁に藤の縁。今後両地の交流を深めたい、また訪ねたいと願って帰ってきた。(続く)


 「文芸はた」 創刊号 2016.12

中村の誇りを全国に

 地元中村高校のセンバツ甲子園出場が決まった。田頭主将、山沖投手ら「二十四の瞳」の活躍で甲子園準優勝して以来40年ぶりの快挙だ。

 うれしさで体がブルブル震えてしまう。県立高校、しかも郡部の高校が勝ち進むことは、当時もいまも容易ではない。しかし、1、2年生による「三十二の瞳」の新チームは、伝統の固いチームワークと、夏の大会準優勝の先輩たちが残してくれた勢いをしっかりと受け継ぎ、秋の県大会で優勝した。堂々たる勝ちっぷりだった。 

 思えば40年前、地元を離れていた私は、それまで全国的に無名の出身地を説明するのに苦労をし、時には引け目を感ずることもあったが、一躍中村が有名になったものだから、鼻高々であった。ふるさとへの自信と誇りをもたせてくれた。

 しかし、あれから周りは大きく変わった。人口が減り、こどもが減る一方で、観光面では四万十川が注目を浴びるようになった。また、県立校改変で中村高校には中学が併設された。

 こうした流れの中で、中村市はなくなったが、中村のまちはいまも中村である。駅も郵便局も、幼稚園、小学校、中学校も。そして中村高校も。

 中村高校の甲子園での活躍で、中村は健在であること、そしてその誇りある名を全国に知らしめてほしい。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2017.2.5

 中村の誇りを全国に


 

夢をもう一度 -夏をめざす中村高校野球部裏話―

 中村高校のセンバツ甲子園出場が決まった。
 40年ぶりに夢がかなった。
 その40年前に書いた文章です。


 夢をもう一度 -夏をめざす中村高校野球部裏話―

 春の選抜高校野球大会が終わったあとの週刊誌は「ノンノ」「平凡パンチ」から「サンデー毎日」にいたるまで“さわやか旋風”“負けて悔いなし二十四の瞳”などと準優勝中村高校ナインを紹介した。敗者は美しいとはいうが、優勝した箕島高校の影が薄れてしまった。
 ブームとはおそろしい。きのうまで四国の田舎方言まるだしの高校生が“第二のサッシー”と言われたり、女子高校生ファンの人並みにもみくちゃにされたりするのだから。
ともあれ、あらためて中村高校の健闘をたたえたい。特に、準々決勝で優勝候補の筆頭、強打の天理高校から十三奪三振した山沖投手の快投は圧巻であった。
 中村市といえば高知県の西南に位置する人口三万四千人の小さな市であるが、これまで四国外では知る人のほうがめずらしかった。とりたてて言うべき産業もない貧しい農村である。わずかに国鉄土讃線の終着駅、足摺岬観光の出発点として知られていたにすぎない。
 私はこの中村に生まれたが、地元には大文字山があり、毎年お盆には送り火が焚かれる。また、鴨川、東山という地名もあり、市街地も碁盤の目状に整然と画されているのは、古く十五世紀に応仁の乱を逃れて落ちのびてきた京都の公家一条教房が京風に町を造った事実に由来している。
 とは言っても、やっと七年前に汽車が着くまでは、後進県高知県の中でもそのまた僻地で「陸の孤島」とまで蔑称されていた中村がわずか一日にして有名になったのだからおもしろい。これも全国津々浦々まで行き渡ったマスコミ文化の功罪か。
 地元では市長や県知事が何十億円の金をつぎ込んでも売り出せなかった中村の名をたった十二人の高校生によって、かんたんかつ完璧に売り尽くしてしまったとの風刺も聞かれたという。
 そもそも中高(地元ではこう呼ぶ)が甲子園に行くことなど夢のまた夢であった。県内では「三強」と言われる高知、高知商、土佐の三校が順番に甲子園に行き、全国的にも高知野球の強さは定評があった。この「三強」は県内各地から優秀な選手をスカウトしてきてチームを編成するのだから、郡部校はいわば二軍選手ばかり。「三強」というハイカラチームに対して、もともと中高は田舎チームであり、これまで歯がたたなかった。
 ところが今年はどうか。ジャンボ山沖を中心にアレヨ、アレヨという間に「ノンノ」に登場する始末。世の中、これほど急に運が開けることもめずらしかろう。中村では有史以来の出来事として町中大混乱したのも無理はない。私もその一人だった。
 去年ごろから「中高にノーコンじゃけんど出口(いでぐち)の子でごつう早い玉を投げるピッチャーがおる」とは私も妹から聞いていた。私の妹は中高で山沖君などと同級生である。甲子園で四番を打ち、海星高校戦でホームランを打った植木君は私と同じ小学校、中学校出身だ。幼い頃一緒に遊んでやったものである。
 このたった十二人の中高野球部は、昨年秋の四国大会で丸亀商業には敗れたものの準優勝し、センバツの切符を手にし、果ては“さわやか旋風”になるのである。
 学校ではセンバツ出場決定と同時に、応援部、ブラスバンド部を即席に結成した。在校生、卒業生の家には寄付要請がひんぱんに来た。弟も卒業生のため、私の実家にも来た。後援会は二千万円の金をやっと集めた。
 地元では、運良く甲子園に行くことにはなったが、一回戦で負けてもいいから中村の恥を全国にさらさぬよう、せめてみっともない負け方だけはしてくれるなとの願いであった。
 学校では「ハナ肇」のあだ名がついている市川監督は、テレビで見ていても一回戦の戸畑高校戦のはじめなどは緊張して泣きそうな顔をしていたのに、勝利後のインタビューでは方言(幡多弁と言う)まるだしで得々としゃべっているのだから笑止であった。
 山沖投手はピッチャーマウンドで上着をお尻からたらしたり、決勝戦では箕島打線に連打されてもニコニコ笑い、これをマスコミはさわやかと評したが、実際の彼は物事にあまり意を用いないボケッとしたタイプだそうだ。
十二人は甲子園で女性ファンに囲まれたが、高校ではあまり女生徒から相手にされず、ガールフレンドがいるのはライトで九番を打った吉良君だけであるとは私の妹の言である。もっとも私の妹も男子生徒から相手にされないようであるが、これは私の妹だから致しかたがない。妹も甲子園にずっと応援に行った。
 センバツ大会終了後しばらくの間は、中村経由で足摺岬に向かう観光バスがわざわざ中高前を迂回し、ガイドさんが「これがあの二十四の瞳の中村高校でゴザイマス」と紹介しては通過したという。この春は、中村市民みんなの頭のピントがずれてしまって、元に戻すのにかなりの時間を要したようであった。
 さて、次は夏の甲子園が近づき、夢をもう一度である。私も五月の連休に帰省した時、中高野球部の練習風景を見に行ったが、部員もいっきょに四十人近くになっていた。あの田舎チームがハイカラチームに見えたのは不思議である。私もマスコミに頭をマヒさせられたのかと思ったが、センバツ後、春の四国大会では見事優勝したのだから、センバツの活躍が決してフロックではなかったことが証明された訳だ。
 しかし、春夏連続の甲子園出場はむずかしいと言われる。夏は「三強」もたやすく勝たせてはくれないだろうし、ハイレベルの徳島県勢の壁もある。
 中高は私の第二の母校である。できることならば、再度甲子園で活躍する山沖君たちの姿を見たいものである。
ガンバレ中高!!
                        (昭和五十二年六月)
(追記)
勝負の世界は皮肉である。七月十六日開幕の高知県予選一回戦で、中高はいきなり「三強」の高知商と対戦し四-五で惜敗した。シード制をとらない高知大会では有力校同士が初戦でたたかうケースが多い。
試合後、市川監督は「選手には野球だけが人生じゃないことを教えてやりますよ、アユ釣りにでも行って」と語ったという。これが普通の高校生の姿なのだ。またいつの日かの捲土重来に期待しよう。
                    (七月十七日、朝日新聞を見つつ)


農林中央金庫従業員組合大分支部『河鱸(どんこ)』創刊号(昭和五十二年十月)
田中全『わがふるさと中村』(2008年)に再録
                          
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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