大分へ(4ー終)

大分駅前の同じホテルにもう一泊し、3日目はもう四国に帰る日である。

以前職場の食堂の賄さんとしてお世話になった女性が最近音信不通なので自宅を探し訪ねたが、心配した通り高齢のため施設に入所しているという。残念ながら会うことができなかった。

ノンビリ県庁前の府内城址公園をぐるり回ってみた。新緑と堀の水に白壁が映えてしっとり美しい。こんなに落ち着いたところだとは思わなかった。20歳代の感覚といまでは違うのは当然か。城内には、以前は文化会館(ホール)があったが、取り壊され駐車場になっていた。そのため閑静になったのかなとも思った。

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帰りは、佐賀関から三崎へフェリーで渡ることにしたので、途中、萩原にある大分護国神社に立ち寄った。小高い境内の斜面から、大分の代表的風景が眺められるからだ。

大分市は昭和40年代から新産業都市として、臨海部を埋め立て、多くの企業を誘致した。その代表が新日鉄である。新日鉄大分製鉄所は昭和47年、国内9番目(最後)の製鉄所として開業した。

コンピューター制御された最新工場の市民向け見学会があり、昭和53年ごろ見学したことがある。火の塊の棒がビュンビュン飛んでいたことを思い出す。

昭和電工、九州石油、九州電力(火力発電所)なども進出し、大分市は新産業都市のモデルとされていたが、別の言葉で言えば、大企業が幅をきかす企業城下町となったわけであり、公害問題等、様々な問題をかかえていた。

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一方で、当時平松守彦知事は「一村一品運動」を提唱。市町村ごとに、最低一つは特産品をつくろうというもので、全国的にも話題になっていた。麦焼酎「いいちこ」がそのシンボルとなった。この運動の理念は、各地域の特性、個性を生かしていこうというものであった。

しかし、その後国が進めた平成の大合併はその真逆の考え方で、個を殺し効率を優先するものだった。

私がいたころは県内には、8市のほかに36町、11村があり、私は森林組合相手の仕事をしていたので、それぞれの名前には愛着がある。大半の市町村に足を運んだ。

今回調べたら、町村でいまでも残っているのは、わずか3町(日出町、玖珠町、九重町)、1村(姫島村)だけで、なんと43町村が消えたことになる。一方で、由布市、豊後大野市、国東市という新しい市ができている。

地名は文化である。大分県は、それこそ「おおざっぱ」な県になってしまった。高知県でも合併が進められたが、これほどまでには減っていない。その中で、わが中村市も合併で四万十市に名前を変えたのだから、大分のことをとやかくはいえない。

いまの東京への一極集中、弱肉強食の政策によって、日本全国で「地方創生」どころか、「地方つぶし」がおこなわれているということだ。

鶴崎、大在、坂ノ市を通り、佐賀関に着いた。佐賀関は、関アジ、関サバで有名になった。この沖に職場で釣りに来たことがあるが、当時はそんな名前(ブランド名)はなかったような気がする。前の晩、少し食べたが、なかなかの値段で、そう簡単に口に入らない高級魚になってしまった。

旧佐賀関町も大分市に吸収された。

もう一つの佐賀関名物、旧日本鉱業銅精錬所の高さ200メートルの煙突に見送られ、フェリーは岸壁を離れた。さらば大分、また来ます。(終り)

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大分へ(3)

大分駅前のホテルに泊まったので、フリーになった2日目は一番に目の前の駅に寄ってみた。

大分駅は2年前リニューアルされており、見違えるよう。駅ビルは専門店街となりシネコンも入っていた。大分特産品を販売する広い売り場の品ぞろえもすばらしい。専門店入口には、オープンを待つ人たちのかたまりができていた。

新しいJRホテルもでき、屋上には(のぼらなかったが)空中温泉もできていた。
正面広場には、大友宗麟像とザビエル像が。

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駅裏へは通り抜けになり、大きな広場ができていた。以前駅裏には、大分鉄道管理局時代の野球部のグランドが残っていた記憶がある。ほかはがらんとした殺風景なものであったので、驚きである。

表も裏もない、駅全体が新しい「まち」になったことで、商戦では地域一番店だったトキワデパートも安閑としていられなくなったのではないだろうか。まちの中心軸が変わったような気がする。

別府に向かうことにし、途中の西大分で柞原神宮(豊後一宮)に寄った。山の中腹、うっそうとした森の中にあった記憶そのままであり、往時と同じく異様な神霊を漂わせていたが、本殿に大友宗麟奉納太鼓があることは初めて知った(気づいた)。宗麟は、どこまでも私についてくる。

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別府で大学時代の友人に会ったあと、鉄輪温泉、明礬温泉を通って、安心院(あじむ)に向かった。途中にアフリカンサファリがあった。このサファリは私がいた40年前にオープンしたもので、一度だけ入ったことがある。全国のこの種の施設はバブル後ほとんど閉鎖されたときくが、ここはまだ残っていた。

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最近は温泉人気で別府への観光客が増えているそうだから、そうした客をうまくとりこんでいるのだろう。そういえば、NHKブラタモリでも2回にわたり紹介されていたなあ。

安心院へは、前の日も会った「あめんぼ」の古参メンバーの一人、堤記夫さんを訪ねた。堤さんは、20年目くらい前、大分市内から移住し、地鶏を放し飼いしている。

私がいたころ、安心院町は町の特産品とすべくぶどうの普及を進めていたが、それがうまくいかず、多くの農園跡地が放置された。町も合併し、いまは宇佐市の一部になった。そのぶどう農園跡地に堤さんが「入植」したのだ。

安心院は由布岳の裏側に広がる高原地帯であり、ここまで来たのは初めて。のどかな田園風景が広がっていた。大自然の中で、畑を耕し、果樹を植え、地鶏と一緒に暮らす。新鮮卵は大分市内の有名洋菓子店に送られ、おいしいシフォンケーキに変わる。たくさん卵をいただいた。以前のイメージとは一変した、大地の中で暮らす堤さんの生活をうらやましく思った。

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帰りには道を少しそれ、別府湾を一望できる十文字原展望台に立った。噂には聞いていたが、はじめて。佐賀関から国東半島まで、ぐるり目の中に飛び込んできた。冬の晴れた日には、四国まで見えるそうだ。

別府湾には、過去に瓜生島という島があったが、慶長豊後地震(1596)で一夜にして海の底に沈んだという記録が残っている。私がいた当時本格的調査が行われ、ほぼそれが真実だということがわかり、話題になっていた。しかし、いまはその地震が愛媛県の伊方原発沖を通る中央構造線断層が動いた地震であったことで注目を浴びている。

去年の熊本地震では別府周辺も被害を受けている。中央構造線は長野県から大分、熊本までつながっている。そう思うと、目の前のパノラマが不気味な光景に見えてきた。(続く)

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大分へ(2)

 戸次から判田を通り、大分の中心部に入る直前の敷戸で、西寒田(ささむた)神社を示す道路標識が目に入った。同神社は藤で有名。ちょうどいまが花の見ごろだなと思い、立ち寄った。バッチリ満開であった。

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いよいよ市街地に入る。まず、以前住んでいた上野町の社宅跡に向かった。国道10号古国府交差点から左折し上野の山を越えたところ。右折すれば滝尾自動車学校、私が運転免許をとったところだ。

山の上には大分上野ヶ丘高校(旧制一中)がある。その近くに、大友館跡があるので、いったんそこに車を止めた。

大友家は臼杵に本拠を移す前は、ここ府内(今の大分市)を拠点としていた。府内を見下ろすところに館跡の一部が残っている。昔来た時の記憶よりもずいぶんと小さいもので、住宅地の一角に石碑と標識があるだけであった。

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山を下りたところに上野中学があり、その校庭に面したところに社宅があった。場所はすぐわかった。当時ここの独身寮に住み、自転車で10分ほどの職場まで通った。休みの日の早朝、職場の野球部の練習のため勝手に中学グランドを使ったりしたものだ。

いまは、社宅があった場所には高層マンションが建ち、テニスコートはその駐車場になっていた。隣の若宮八幡宮はそのままであったが、マンション南側には駅裏方面に伸びる広い環状道路ができており、様変わりであった。

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大分市役所前にあった職場(農林中央金庫大分支店)も近くのビルに移転していた。跡地は更地になっていた。社宅といい職場といい、以前の姿が見られないのは寂しいものである。いま転勤職員はみんな借り上げマンションに住んでいるときく。

朝5時に臼杵港に着いたので、いつもと違い昼までが長い。あちこち思い出探しをしているうちに、やっと11時になった。この旅の第一の目的、中央町のフンドーキン会館に着いた。

私は大分時代、地域の合唱団に入っていた。というとかっこういいが、合唱団といっても、うたごえサークルだ。いろんな職場の人間が集まって、フォークソングなど好きな歌をうたう。

最初は大分うたう会と称していたが、そのうち「あめんぼ」と命名した。会はいまも続いているが、それから40年たつというので、当時の古参メンバーが中心になって、40年記念のうたごえ喫茶をやることになった。そこに来ないかと私も誘われたのだ。

当時のメンバーは私を含め男は髪が白くなり、女性は体型が変わり、孫の世話に追われている者もいるが、気持ちは昔のまま。

会場は約100人で熱気ムンムン。配られた歌集の中からリクエストを受けて、次から次へとみんなで歌う。「青春」「若者たち」「切手のない贈りもの」「故郷」・・・午前11時から午後2時過ぎまで、ぶっ通しで歌った。私は一番好きな「たんぽぽ」をリクエストした。

フィナーレは、「翼をください」「遠い世界に」の大合唱となった。

一息入れたあとは、中心メンバー約20人での打ち上げ。延々夜遅くまで続いた。初日は長い一日なった。(続く)

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大分へ(1)

少し前になるが、4月29日から3日間、大分県へ出かけた。

大分は私が昭和51年農林中央金庫に就職して、社会人としてのスタートを切ったところ。生まれて初めて飛行機に乗って、東京からドキドキしながら赴任(最初の転勤)したことを思い出す。

3年半勤務して、また東京に戻ったが、大分では多くの方々にお世話になった。そうしたみなさんに久しぶりに、ゆっくり会うために。

また、地元に帰ってから郷土史にかかわる中で、土佐一條家と大友家(宗麟)が姻戚関係を結んでいたことなど、豊後(大分県)と幡多、土佐とは歴史的に深い関係にあったことを知った。そうした史跡などもあらためて訪ねたいと思った。

 29日未明宿毛発佐伯行フェリーに乗るつもりであったが、船のエンジントラブルで突然欠航になったことから、急いで八幡浜まで走り、臼杵行きフェリーに滑り込んだ。

これも大友家のお導きなのだろう。臼杵は大友宗麟時代の居城があったところ。
土佐一條家4代兼定の母は宗麟の姉、妻は宗麟の娘であった。

兼定は長宗我部に追われ、臼杵の宗麟のもとへ逃げた。宗麟はキリシタンであったことから、兼定も洗礼をすすめられキリシタンになった。

兼定は大友の援軍をえて、失地回復をめざし再び四国に上陸、南予方面の豪族たたちもこれに加わったが、四万十川合戦(1575)で長宗我部元親に再び敗れた。宇和島沖の孤島戸島に逃れ、そこで生涯を終えた。

土佐一條家と大友家は、こうした深い関係にあることから、私は市長時代の6年前、公務で大分県に出かけたさい、中野五郎臼杵市長を訪ね、両市の交流を呼びかけた。そのさい、臼杵城跡にも登った。

今回はフェリーが着いたのは払暁の午前5時であったことから、薄暗い中、城跡は下から眺めて通った。

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大分が地元(本社)のジョイフルで休憩。モーニングサービスを食べてから、臼杵石仏前の国道を通って大分市に入り、月形、吉野を経由して、戸次(へつぎ)にある長宗我部信親墓を探した。

カーナビに従い、以前はなかったバイバスを通ると、道沿いに信親墓の標識が立っており、すぐわかった。

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長宗我部にとって、大友家は因縁の関係。四万十川合戦では敵として戦ったが、12年後の戸次川の合戦では一転大友の援軍として戦った。

長宗我部は一條家を押さえたあと、またたく間に四国を制覇した。しかし、すぐに豊臣秀吉に屈服し、土佐一国に戻された。

当時、九州では薩摩の島津が勢力を拡大し、秀吉に対抗していた。島津は北上し、大友の領地を脅かしていた。大友は秀吉に援軍を乞い、秀吉は長宗我部、十河(讃岐)に命じ四国連合軍を編成させ大友援軍として送りこんだ。元親、信親親子は自ら九州に乗り込み、戸次川をはさんで島津軍に対峙した。

この戦いで四国連合軍は大敗を喫した。元親嫡男信親は討ち死にした。元親はかろうじて土佐に逃げ帰ったが、長宗我部凋落はここから始まった。

信親墓は十河一族の墓と一緒に地元の人たちの手で祭られていた。まわりは公園のようになっていた。88体の地蔵も並んでいた。

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戸次川は長宗我部にとって因縁の地であることから、土佐史談会会員などがたびたびこの地を訪ねている。両地の交流も行われている。今月20,21日、高知市、南国市で開かれた恒例の長宗我部まつりには、大分県から大友鉄砲隊(保存会)も参加していたようだ。

私がいま住んでいる四万十市実崎の旧庄屋宮崎家の祖、宮崎勘兵衛は戸次川合戦の生き残りであり、私の家の墓と同じ山にあるその墓には、そんな記録が刻まれている。(続く)



幸徳秋水 ひ孫

幸徳秋水を顕彰する会の今年度総会を5月14日に開いた。この総会に、幸徳秋水ひ孫の小谷美紀さん(埼玉県草加市)を招待した。

幸徳秋水は生涯3度結婚をしている。2度目の師岡千代子、3度目の管野須賀子は有名だが、最初の妻西村ルイについては、記録がほとんど残されていないことから、これまであまり知られていなかった。

私がこの間、西村ルイについて、いろいろ調べてきたことは、このブログでもすでに何度も書いてきた。

西村ルイは、秋水に離縁されたさい、身ごもっていた。その子(ハヤ子)は、ルイが再婚した相手(横田)の子として入籍され、育てられた。

さらに、ハヤ子(結婚してから小谷姓)は6人の子を育てた。そのうちいまも健在の秋水孫にあたる2人の女性がちょうど1年前の昨年5月、秋水墓参のために、はじめて中村を訪ねてくれた。

今回招待した小谷美紀さんは、この2人の兄弟の二女である。美紀さんのお父さん(故人)は、小谷家の長男にあたるため、美紀さんはハヤ子とずっと一緒に暮らしてきた。

ハヤ子の存在が昭和57年、朝日新聞スクープで世に知られた時、美紀さんは中学生であった。社会科教科書に出てくる人物が自分のひいじいさんとわかりびっくりしたが、誇りにも思った。社会科の先生にも呼ばれ、いろいろ聞かれたそうである。

ハヤ子は翌昭和58年亡くなったが、美紀さんからみたおばあさんは、しつけなどがきびしい中に、気品をそなえていたという。

美紀さんは、ルイの記憶もわずかにあるそうだ。ルイは昭和48年亡くなった。当時4歳だった美紀さんは、東京滝野川の病院に見舞いに行ったこと、近くを都電が走っていたことを記憶している。ルイもまた、上品なひいおばあちゃんだった。

美紀さんを、秋水墓、絶筆碑、生家跡、資料室(図書館)などに案内した。墓ではじっと手を合わせていた。

資料室には、これまでルイの顔写真を展示していなかったので、新たに作成した写真パネルを美紀さんの手で展示してもらった。秋水の大きな写真の下に。2人とも再会を喜んでいることだろう。新聞4社の取材があり、翌日の記事になった。
 →https://www.kochinews.co.jp/article/99227/
https://mainichi.jp/articles/20170516/ddl/k39/040/577000c

美紀さんを、一條神社や四万十川佐田沈下橋、下田河口へも案内。新緑がまぶしかった。

顕彰会総会では挨拶をしてもらい、夜には歓迎懇親会を開いた。皿鉢をかこみ、ひいじいさんの郷土料理を堪能してもらった。

2泊3日で美紀さんは帰っていった。

美紀さんに見せてもらった弟さんの写真は、秋水そっくりである。次は、ぜひ弟さんにも来てもらいたいと思う。

なお、美紀さんは、自分のブログに今回の旅のことを書いている。
 →http://nikoxgodiego.blog115.fc2.com/?no=2610

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幕末維新博に望む

 きょうは五・一五事件(昭和7年)の日。武装した海軍青年将校たちが総理官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害した。

政党内閣は終焉し、以降軍人出身首相が続く。

当時、青年将校たちが唱えていたのが昭和維新。明治の心を取り戻すことであった。

彼らが拠り所とした明治維新とは何だったのか。

ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がしたように、アジア周辺諸国が次々に西洋列強に植民地化される中にあって、日本は急変身によって独立を保つことができた。これは「輝かしい歴史」であったはずである。

しかし、日本における近代とされる新国家の主権は絶対的権力をもつ天皇におかれ、国民の権利は抑圧され、女性にあっては参政権すら認められなかった。一方で華族制度で新たな特権身分がつくられた。

 富国強兵のもと、軍備は拡張され、それを背景に列強に割り込んで大陸に進出。

これに公然と反対し、平和・自由・平等を訴えた幸徳秋水らが抹殺された大逆事件で明治は幕を下ろした。

 「志士」たちが描いた新国家とはこんな国だったのだろうか。それとも途中で変質してしまったのか。

 いや、明治維新という変化プロセスの中にこそ、その後の国のありようが内蔵されていた。明治維新は百姓、町人など一般庶民が立ち上がった革命ではなく、しょせん武士階級の中だけでの主導権争い、政権交代にすぎなかったのではないか。

昭和20年の敗戦によって、新憲法が制定され、はじめてわれわれは主権を、基本的人権を、言論の自由を獲得した。そう思っていた。

しかし、いままた教育勅語が息を吹き返し、共謀罪が国会で審議されている。維新と名のついた政党もこれに絡んでいる。その先には、憲法そのものの見直しも射程に入っている。

大政奉還、明治維新から今年、来年で150年になり、志国高知幕末維新博が県をあげていま開かれている。

当時活躍した地元の人材を知り、また新たな人物を発掘し、観光資源としても活用していくことにも異議はない。

しかし、最も大切なことは、そうした人物たちの集合体としての明治、われわれの祖父母や曽祖父母が現に生きてきた明治とはどんな時代だったのかを真剣に考える機会とすることである。

 明治は過去の物語ではない。いまにつながっている、いまの問題なのだから。

 高知新聞「所感雑感」投稿 2017.5.15

幕末維新博に望む 所感雑感 

共謀罪に反対する声明

 幸徳秋水を顕彰する会 は共謀罪反対声明を出しました。

        共謀罪に反対する声明

1910年(明治43年)の「大逆事件」では、幸徳秋水ら26名が逮捕され、うち24名が死刑判決を受けました(12名は翌日無期懲役に減刑)。理由は、天皇暗殺や社会転覆を企てる「謀議」をおこなったというものでした。
 明治政府の狙いは、朝鮮侵略に反対し平和と自由平等を訴えていた幸徳秋水らの運動を弾圧、根絶やしにすることにあり、その口実となる「事件」をつくり
だし、フレームアップしたものでした。
 「大逆事件」以降、言論の自由は完全に封殺され、日本は侵略戦争の道をひた走り、その結果、国民は塗炭の苦しみを味わっただけでなく、周辺諸国にも多大の被害を与えました。
 戦後、「大逆事件」をリードした元検事は、秋水らの「思想を裁いた」ものであったことを認めています。
このほど、テロ対策、オリンピック対策を名目に共謀罪(「テロ等組織犯罪準備罪」)という法案が閣議決定され、国会に上程されました。
これは、犯罪行為が発生する以前から人を逮捕できるという法律であり、「未遂」「予備」「共謀」を例外とするわが国刑法の原則を無視したものであることから、過去の国会でも三度廃案になったものです。
共謀罪では、人と人のコミュニケーションそのものが犯罪の対象となることから、捜査機関の判断によって恣意的な検挙が行われたり、日常的に市民一人一人の人権やプライバシーが監視される怖れがあります。
政府は共謀罪がないと「国際組織犯罪防止条約」を批准できないと言っていますが、この条約はマフィアなどの国際経済犯罪対策であり、テロとは明確に区別されており、真の狙いを隠すカモフラージュであることは明らかです。
戦後憲法で認められた内心の自由、言論の自由などのわれわれの大切な基本的人権が侵害されることがあってはなりません。
私どもは、再び「大逆事件」をつくりだす暗黒社会に逆戻りするような共謀罪には反対であることを、ここに表明します。


2017年 4月 15日

幸徳秋水を顕彰する会

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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