第二の人生

農林中央金庫時代の元上司から、また本が届いた。篠塚勝夫『 二度の人生 ―第三生活の日々― 』(自家本、146ページ)。

昨年6月届いた最初の本は、元上司が古稀(70歳)にあたり、四国巡礼をされた旅日記であり、そのさいわが家にも泊まられたことは、このブログでも書かせてもらった。(「四国遍路」2016.6.7)

今回の本は、62歳で仕事から完全リタイアし、「第二の人生」をスタートさせてから今年72歳を迎えるにあたり、新10年間を「小括」したもの。(まだ続くので「総括」ではない)言わば、第二の人生の中間報告である。

副題が「第三生活の日々」となっているのは、 第一 学び・学習の時代、 第二 職業を通しての社会貢献時代、 に続く時代 と区分していることによるものだが、要は、仕事から完全リタイア後の生活を振り返ったものである。

元上司は仕事に厳しく、論理や理屈建てを大切にされる方だったので、仕事の進め方や書類の書き方等にもうるさかった。自らはガッチリとした文章を書き、私などは厳しく指導をされた。

そんな元上司だから、リタイア後もいろんな場面で文章、記録を書いてきたようで、それらを整理編集したものが今回の本である。

私は仕事を通しての姿しか知らなかったが、これを読むと、以前とは違う人がそこにいる。見事な変身である。

考えれば、仕事に厳しかったということは、自らを厳しく律し、コントロールできたからであろうし、そういう人は、リタイア後もその能力を別の方向にきりかえ、集中できるということであろう。

元上司には、障害をもった子どもさんがいる。リタイア後は、障害者支援、福祉活動に広く深くかかわっておられる。特別支援学級、就労支援など。

また、いま居住の千葉県佐倉市の地域活動にも積極的に参加。高齢化が進む中での地域の助けあいや絆を強める取り組み。いろんな世話役をすすんで引き受けている。さらに、東北震災後は、何度もボランティアとして、現地に出向いている。

もちろん、こうした奉仕的活動だけでなく、畑を耕し、生涯学習教室にも足を運び、自己啓発にも努め、思索や思想を深める。

以前の職場関係との付き合いは抑制するよう心掛けているという。

そうした新しい生活の中での、さらなるステップアップを求めての四国巡礼であったのだ。

なるほど、それではいまの自分は何なのかと思う。
はたして第二の人生なのだろうか。

55歳で早期退職をし、地元に帰ってきてから9年になる。自分が生まれそだったふるさとのために役に立ちたいと、の思いからであった。その思いも、地元に骨を埋める覚悟も、不動である。これは、はっきり言える。

しかし、いま、およびいまから、どのような形で地元のために尽くすかというと、現時点ではっきりとした方向を見出せていない。

幸いにも、地元に帰ってからすぐに念願通りの公務につかせてもらった。行政経験はなかったが、ふるさとへの思いだけは誰によりも強く持っているという自負があり、どんな場面でも、しんどいとか思ったことはなかった。

ふるさとのために走り回れるなんて、こんな幸せなことはない。やりがいがあり、充実した時間だった。

しかし、その時間は4年間で突然止まってしまった。思いだけでは通用しない、総合的な力量が不足していたことは認めざるをえないが、その総括は、まだ自分の中では終わっていない。不完全燃焼で、煙がくすぶったままである。

以前の仕事に区切りをつけ、ふるさとに帰ってきたという意味では、いまは第二の人生なのだろう。しかし、このまま人生のゴールを迎えるという意味での納得できる生活スタイルは、まだ持ち合わせていない。

くすぶったままの煙を再点火させるか、違った火種をさがすのか、腹固めには、いましばらく時間がかかりそうだ。

目的は同じだが、次のステップに向け、飛び方や飛ぶ方向を定めなければならない。それは第三の人生と言ってもいいのかもしれない。

そんなことから、なんとも悩ましい元上司の本である。

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中村高校の夏

中村高校野球部の夏が静かに終わった。

夏の甲子園高知県予選準決勝で中村高校は梼原高校に1-4で敗れた。私は決勝に進めば球場に行くつもりでいたのだが、かなわなかった。

私と同じ気持ちの人は多かったのではないか。テレビで見る限りでは、スタンドの応援は驚くほど少なかった。3月20日には、6千人の大応援団が甲子園のアルプススタンドを埋めたのに。

梼原高校の応援団のほうがはるかに盛り上がっていたし、選手もそれに応え、闘志をむき出しにしていた。それに比べ、中村高校の選手たちは、どこか受けて立つような感じで、おとなしく感じられた。選手、応援団とも、気持ちの上で、梼原が勝っていた。

春は40年ぶりの甲子園出場ということで、地元は大いに盛り上がった。異様な熱気に包まれ、興奮に酔い、躁状態に陥っていた。私自身もそうであった。

しかし、その熱が高かっただけに、冷めるのも早かったように思う。甲子園では勝てなかったが、最後に1点をとっただけで大満足。達成感にあふれていた。それには秋の県予選で王者明徳に勝ったという達成感も含まれている。

しかし、勝手に興奮して、勝手に冷めるのは応援団だけであって、選手たちは、夏ももう一度あの甲子園に行きたいという思いを強くもっていたに違いない。きっとそうである。

しかし、地元は一度萎えた気持ちをもう一度昂らせるのは難しかった。夏の予選が近づいても、驚くほど静かであった。春の後遺症が激しく、疲れてしまっていた。

私自身、去年夏、秋の県予選とも決勝戦の前にも球場に駆け付けたが、今回はそこまでの気持ちにはならなかった。

春の甲子園出場決定と同時に、地元では支援実行委員会が立ち上げられ、瞬く間に多額の寄付も集まった。残余金が多く出たようで、それを何に使うか議論があり、グランド入口に記念碑を建てることになったと聞く。ここまではよかったのだが、7月上旬には出来上がってしまった。

夏の予選に向けて気持ちを集中させているときに、選手たちはどう思っただろうか。「もう十分やった、ご苦労さん」と受け取られたのではないかと心配をしている。

記念碑建立は、夏が終わってから、卒業までの間でよかったのではないか。実行委員会の解散にともなう会計決算のためであろうが、性急すぎたと思う。また、実行委員会も夏が終わるまでは続けたらよかったろうに。

まあ、ドタバタがあった1年であったが、これも中村高校野球部ががんばってくれたおかげである。こんなに地元が盛り上がることは、絶えて久しかったことであり、地元へ貢献大である。

私自身にも楽しく充実した、メモリアルな1年であった。野球部の3年生には、ご苦労様と、心からのねぎらいとお礼を言いたい。

しかし、2年生以下は、違う。ぜひ、新チームでもがんばってもらいたい。そして、なるべく早い時期に、3度目の甲子園に連れていってもらいたい。

風の恵み

毎日うだるような暑さでまいっているが、子どものころの夏は、暑かったという記憶がない。

家の前の川べりには木立が茂っていた。子どもたちは、川で泳いだり、釣りをして遊び、疲れたら木陰で休んだ。心地よい川風が吹いていた。冷たいぐらいであった。

大人たちも、炎天下の真昼には、農作業を休み、木陰に来て、横になっていた。私の祖母などは、ゴザをもってきていた。木陰には、子ども、大人を問わず、人が集まってきていた。年寄りには、サロンのようになっていた。

家のつくりも風が通るようになっていた。風には、東の風と西の風があった。川風は東の風で、西の風は家の農作業用の納屋に吹き込むようになっていた。

納屋の中に縁台を持ち込み、ゴザを敷いて寝ころべば、スイスイ風が通る。天井からは、暑さで腐らないように、白い飯などを竹籠に入れ、ぶら下げていた。

当時はクーラーなどない時代。夜は、障子を明け放し、蚊帳に入って寝た。扇風機はあったが、あまり使わなかったような気がする。

風をうまく取り込んで、暑さをかわしていた。自然との付き合いが上手だった。いま窓を閉め、クーラーをガンガン使っているのは、風を敵としているようなものだ。

子供のころ、川が目の前にあり、木陰もあったのは幸いであった。恵みの風であった。

しかし、いま川はあるが、木陰がなくなった。堤防の拡張工事のために切り倒されたからだ。誰も、川に近寄らなくなった。

だから、夏は暑くてたまらない。

川エビ

 家の隣の八束中学校が夏休みになり、静かになった。いまの子供たちは夏休み、何をしているのかと思う。川で見かけることはないからである。

私らが子どもの頃は、夏休みは必ず川に出ていた。川が遊び場だった。遊びといっても、ただ泳ぐだけではない。泳ぎながら、釣りをした。シジミも掘った。

釣りは「濁し」というやり方。
胸までの深さのところに立ち、川底の砂利を足でかき混ぜて濁りを出し、その流れる先に釣竿をたらす。濁りに集まってくる小さなチヌが釣れた。

もちろん川岸からの釣りもした。いずれもエサはエビ。エビはいくらでもとれた。エビとり専用のエビ玉で、エビのしっぽのほうにそっと玉をまわし、さっとすくいとる。玉の中で、エビはピチピチはねた。米ぬかをまくと、エビたくさん集まってきて、よくとれた。

また、柴ウエといって、木の枝を束ねて沈めておき、干潮のとき、縄を引っ張り岸に引きずり上げるとエビがたくさんはいっていた。ウナギもとれた。

しかし、家でエビを食べることはほとんどなかった。食べたいとも思わなかった。たくさんいるので、食べるほどの値打ちもないという感覚だったと思う。よその家でもみんなそうだった。

あれだけいたエビは、どこにいったのだろうか。いまはほとんど見ない。少なくとも、川岸から見える範囲にはいない。

おととい、対岸の竹島の彩市場に立ち寄ったら、エビを売っていた。1パック400円で。比較的大きなサイズの手長エビが10匹くらい入っていた。エビを売っているのを見たのは初めて。

店の人に聞くと、佐岡の中央市場から仕入れてきたという。たぶん、コロバシ漁でとったものだろう。小さいサイズもものは、から揚げにして食べやすいので、中村の料理屋に売られ、大きいサイズのものが、こうして店頭に出るのだろう。

エビも売られるようになったのかと複雑な気持ちになった。食べたいというよりも、なつかしさから1パック買った。

昔、エビがたくさんとれたのは、岸辺の木陰や草陰になっていたところ。しかし、いまはそんな箇所は、木々が切り倒され、堤防になっている。エビもウナギも棲み家を奪われてしまった。

エビもいなくなった川で、いまの子供たちに泳げといっても、楽しくないだろうなあ。目の前に川が流れているのは今も昔も同じだが、人々の生活からは、川は遠くに離れていってしまった。

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落合恵子

7月12日、土佐清水市夏季大学 落合恵子講演「いのちの感受性」を聞きにいった。どんな話をするのか、この目と耳で確かめたかったから。

彼女を知ったのは、私が高校生のころ。ラジオの深夜放送のデスクジョッキーをやっていて、レモンちゃんと言われ、若者のアイドルのような存在だった。何度かラジオで声を聞いたことがある。

そのうち文化放送をやめ、モノ書きとして独立。その後も、新聞や雑誌、テレビなどに、たびたび登場しているのは知っていたが、ほとんど関心はなかった。マスコミ受けする、軽いタッチの放送タレントぐらいにしか思ってなかった。

そんな彼女を、オヤッと思ったのは、いつごろからであろうか、社会的発言をしはじめたから。政治がからむ社会問題に対して、結構強いものの言い方をしているのが目にとまるようになった。

最近では、特定秘密保護法、原発、安保法制、共謀罪・・・いろんな反対集会の呼びかけ人になり、先頭をきってマイクを握っている。

そんな姿は私のイメージからはかけ離れていた。いつから変身したのか。きっかけは? それとも、最初から秘めた思いがあったのか。ずっと、知りたいと思っていた。

彼女の実物を見、聞くのは今回初めてである。歯に衣着せない「強い女」だなと思った。

1時間半、しゃべりまくった。この人は何を言いたかったのか、何がこんな強い女にしたのか。結局のところ、それは彼女の出自にあるのだろうと思った。

講演のキイワードは母。
終戦直前の昭和20年1月、母は結婚しないまま、22歳で私を生んだ。栃木県宇都宮市で。母は「私を守るために」東京に出た。ずっと二人で暮らした。

「父なし子」は、社会から差別される存在。同じ「いのち」であるのに。

母も同じ「いのち」。だから、老後の介護は、全部私がやった。施設には入れなかった。認知症で記憶を失った母とも対話をすることができた。二人だけのかけがえのない時間。

二人は社会から多くの仕打ちを受けてきたのだろう。だから、世の中の理不尽で不公平な出来事、一部の人間だけが得をする仕組み、には黙っていられない。

腹をくくった女のすごみがある。講演の中でも「モリカケ」「THIS IS 敗因」も出た。「せっかく遠くまで来たのだから」言わせてもらう、と。

彼女のトレードマーク「魔女や山姥」のような髪型は、自ら「怒髪」と呼ぶ。世の中に対する怒りの爆発。この髪型は、母の介護生活の中で、美容室に行く時間をカットするために、考え出したものだそうだ。

講演のタイトル「いのちの感受性」という言葉は、一度も使わなかった。しかし、「感受性」は、怒り、抗議、主張であり、これをなくしてしまえば、人間おしまいだぞ、という警告であると思った。

彼女は単なるモノ書きではなく、クレヨンハウスの主宰者(社長)であり、各種事業のプロデユーサーである。福島原発事故以降、毎月東京で「原発とエネルギーを学ぶ朝の教室」も開いている。

私はいまの彼女の行動の原点は出自にあるとみたが、ただそれだけでなく、途中に大きなジャンプをする引き金があったはずだが、それについては触れられなかったし、私もわからなかった。

彼女は驚くほど多くの本を書いている、しかし、私は1冊も読んだことがない。

読めばわかるのだろう。会場で新刊書にサインをもらおうと思ったが、人だかりであったので、別に2冊を注文した。

「母に歌う子守歌」
「老いることはいやですか」

彼女が土佐清水夏季大学に来たのは38年ぶり2回目という。前回のテーマは「自分をいきる」。「いのち」と「いきる」は、人間への執着。彼女の一貫したテーマであるのだろう。

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たくぎん

今回の北海道行では札幌に計3泊したので、思い出の場所などを、あちこち訪ね歩いた。大通り公園も。

かつての職場、大通西5丁目、公園に面した農林中央金庫札幌支店も訪ねてみた。しかし、建物はそのまま残っていたものの、中身は近くの大通西3丁目、北洋大通ビセンタービルに、昨年移転していた。

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同ビルは北洋銀行本店ビルであり、かつてたくぎん本店があった場所。私は複雑な思いであった。

たくぎん(拓銀)とは、北海道拓殖銀行のこと。1997年11月、営業を停止。日本で最初の都市銀行の破綻であった。私が札幌で仕事をしたのは同年1月から2年間であり、その渦に深く巻き込まれたからである。

たくぎんは、明治33年(1900)つくられた国策銀行であったが、戦後、民営化され、都市銀行になった。北海道の金融界では、たくぎん王国といわれるくらい、絶対的地位を占めていた。

私が赴任した当時は、どの銀行もバブル期に積みあがった不良資産の処理に苦しんでいた。中でも、たくぎんの傷は大きかった。市場からも警戒され、株価が急落。生き残りをかけ、道内2位の道銀(北海道銀行)との合併話が持ち上がっていた。

そんな状況下ではあったが、私は、最終的には国が救済するだろうし、まさか都市銀行が破綻することはないという「神話」を信じていた。

むしろ、仕事上では、道内有力企業との取引を独占していたたくぎんの強固な基盤に食い込むビジネスチャンスだととらえていたし、その成果も上がっていた。

ところが、たくぎんの資金繰りは、もはや限界に来ていた。同年11月17日(月曜)朝、営業停止を表明。カネを引きだす人が殺到し、パニックになった。

その前日の夜は、日本のサッカー界悲願のワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」で、私もTVの前に釘付けであったのに。朝出勤すると本店による抜き打ち検査も入っており、ふんだりけったりであった。

わが支店の隣が日銀札幌支店。あとでわかったことだが、前日には、たくぎんにまわす現金が大量に持ち込まれ、Xデー対策が徹夜で進められていたのだった。

たくぎんからの融資のパイプが絶たれたことで、道内企業、団体の連鎖倒産が続いた。当然、わが支店の取引先も含まれていた。チャンスがリスクに一変したのだ。その対応に走り回る日々が続いた。

たくぎんは道内3位の北洋銀行に営業譲渡(道外支店は中央信託銀行へ)されることになり、その移行作業等で混乱はその後も長く続いた。

当時痛感させられたのは、北海道の経済基盤の脆弱さ。それは歴史的に、国策により、つくられたということ。

道内には豊富な水産、森林、石炭資源などがあったが、明治の開拓以来、それらは本州(内地)資本によって「収奪」され続けた。道内に地場企業や産業を育てるという考え方は弱かった。だから、北海道は内地企業の工場ばかりで、地場製造業がほとんど育っていなかった。民が育たず、官依存の構造。

また、道民のルーツは自由な大地を求めて来た移民であるから、因習やしがらみがないかわりに、マイペースで、人と人との横のつながりや連帯意識に欠けるという「道民性」も背景にあった。

日本にとって北海道全体がリスクになっていると感じられた。「試される大地」という言葉が、さかんに使われていた。

私の札幌勤務は、そんな混乱の中のわずか2年であった。確かに、仕事では多忙を極め、なんでこんな時期にとうらめしく思ったのは事実だが、しかし、当時もいまも、北海道での生活は感動のほうが大きかったと思う。

南国育ちの人間にとって北海道は異国であり、見るもの、知るものすべてが新鮮であった。たくぎん破綻という歴史的事件に立ち会えたことも、貴重な経験であったと正直思っている。

北海道はその後流通業界では健闘している。ニトリ、ツルハが全国を席巻。わが四万十市にも進出してくるとは当時では考えられなかったこと。2社ともご縁があり、創業社長にも会ったことがあるだけに、感慨深い。しがらみのない北海道だからこそ、大胆な発想で斬新なビジネスモデルを創造できるという典型である。

北洋大通りセンタービルを眺めながら、中身の濃い2年間であったとつくづく思った。北海道に感謝である。

小林多喜二の墓

 私は20年前転勤で札幌にいたころ、小樽には仕事で何度も来ている。休日にはぶらり観光も。小林多喜二が小樽の人であることは知ってはいた。しかし、その足跡を訪ねることはなかった。なんでと、あとでずっと悔やまれた。

そこで、ぜひ今回はと思った。6月8日、まず、小樽市立文学館へ。旧日銀支店前で、美術館と同居していた。小樽を代表する文学者と言えば、小林多喜二を伊藤整。二人の展示コーナーは、特別に広く仕切られていた。

多喜二は明治36年、秋田県大館の農家に生まれたが、4歳の時、伯父を頼って一家で小樽に移住。小樽商業、小樽高商を出たあと、たくぎん(北海道拓殖銀行)に就職。その頃から、社会問題に関心を持ち労働運動に参加、小説も書き初めた。「蟹工船」「一九二八年三月一五日」などは、小樽時代に書いた。

たくぎんを解雇され、昭和5年上京してからも作品を書き続けたが、思想言論の自由がない時代、昭和8年2月、特高警察に拘束され、即日築地警察署で拷問虐殺された。

展示は、小樽時代の写真や原稿と、虐殺時の写真や絵、新聞記事が対比されるように並べられていた。その中で、息子を殺された母セキの写真と絵に胸を打たれた。

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小樽は坂の町。墓は文学館から車で15分ほど、朝里川温泉に抜ける坂道を上ったところにある市営奥沢墓地の中の斜面にあった。

墓地の入口はすぐわかったが、辿りつくのに時間を要した。事前にネットで調べたら、道案内板がポイントに建てられているというので安心していたが、それがない。入口からまっすぐ上ってから、右折するところでウロウロ。だいたいの見当をつけて、やっとたどりついた。

「小林家之墓」は背が高く、裏には「昭和五年六月二日 小林多喜二建立」と刻まれていた。親孝行の多喜二は、東京に出てからもこまめに家に仕送りしていた。兄が夭折していたため、跡取り息子であった。墓にじっと手を合わせた。

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しかし、周りに墓標や解説板のようなものは何一つなかった。墓筒には造花。多喜二は治安維持法の犠牲者のシンボル。多くの人が訪ねて来ているだろうに、なぜ? と思った。

同じく国に殺された幸徳秋水の墓には、道路入口に碑と看板、墓には墓標と解説板を2枚立てている。墓筒には花や榊を定期的に差し替えているのに。

秋水同様、多喜二命日2月20日には毎年墓前祭が行われている。厳寒期であるため、雪にうずもれた墓を掘り出し、ユンボで道の雪かきをしてから。秋水には白い菊の花を献花するが、多喜二には赤いカーネーション。

おおかた1年の半分は雪の中であろうから、看板を立てても維持管理がむずかしのかもしれない。実際、ネットで見た木製の道案内板も朽ち果てたのだろう。

しかし、多喜二ほどの歴史的人物の墓でありながら、現状、標識板が何もないというのは、いかにも寂しい。金属製の頑丈なものを作ればよいのではないか。

治安維持法の現代版共謀罪が強行採決されたいまだからこそ、多喜二を忘れてはいけない。地元の墓前祭実行委員会のみなさんには、ぜひお願いしたい。資金の問題があるのならば、全国にカンパを呼び掛けてくれれば、私も協力したい。

秋水が小樽に来たのは前号で書いたように明治36年8月であった。その同じ年の12月、多喜二は秋田で生まれている。これは今回気づいた。

また、多喜二が殺された日は、昭和8年2月20日(29歳)。20年後の同じ日に私は生まれている。これは以前から知っていた。

そんな縁がある多喜二だからこそ、看板がないのは気になった。

小林多喜二を描いた映画や演劇は過去何度もつくられているが、このほど母セキを主人公にした映画「母」がつくられた。三浦綾子の同名小説が原作で、主役は寺島しのぶ。7月15,16日、高知市で上映会があるので、見に行きたいと思っている。

念願の墓参を終えてから、山道をさらに5分ほど上のほうに車を走らせ、北海道ワイン株式会社の本社、醸造所、ワインギャラリーを訪ねた。

同社は嶌村彰禧氏が昭和49年設立。最初から国産原料にこだわり、小樽ワインのブランドで製造。かつて仕事でお世話になった先である。その後も会社は順調に業容拡大し、いまや国産ワインとしては日本一。

原料は北海道各地から入れているが、旭川に近い浦臼町には広大な自社農園がある。浦臼といえば、明治時代、坂本龍馬の一族が開拓に入植したところで、その墓もある。そんな縁で、同町と高知県本山町は友好都市縁組をしていることは、先にも書いた。高知県人会で浦臼町ワインまつりに参加したこともある。

北海道みやげにと、小樽ワインを車のトランクにいっぱい買った。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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