川エビ

 家の隣の八束中学校が夏休みになり、静かになった。いまの子供たちは夏休み、何をしているのかと思う。川で見かけることはないからである。

私らが子どもの頃は、夏休みは必ず川に出ていた。川が遊び場だった。遊びといっても、ただ泳ぐだけではない。泳ぎながら、釣りをした。シジミも掘った。

釣りは「濁し」というやり方。
胸までの深さのところに立ち、川底の砂利を足でかき混ぜて濁りを出し、その流れる先に釣竿をたらす。濁りに集まってくる小さなチヌが釣れた。

もちろん川岸からの釣りもした。いずれもエサはエビ。エビはいくらでもとれた。エビとり専用のエビ玉で、エビのしっぽのほうにそっと玉をまわし、さっとすくいとる。玉の中で、エビはピチピチはねた。米ぬかをまくと、エビたくさん集まってきて、よくとれた。

また、柴ウエといって、木の枝を束ねて沈めておき、干潮のとき、縄を引っ張り岸に引きずり上げるとエビがたくさんはいっていた。ウナギもとれた。

しかし、家でエビを食べることはほとんどなかった。食べたいとも思わなかった。たくさんいるので、食べるほどの値打ちもないという感覚だったと思う。よその家でもみんなそうだった。

あれだけいたエビは、どこにいったのだろうか。いまはほとんど見ない。少なくとも、川岸から見える範囲にはいない。

おととい、対岸の竹島の彩市場に立ち寄ったら、エビを売っていた。1パック400円で。比較的大きなサイズの手長エビが10匹くらい入っていた。エビを売っているのを見たのは初めて。

店の人に聞くと、佐岡の中央市場から仕入れてきたという。たぶん、コロバシ漁でとったものだろう。小さいサイズもものは、から揚げにして食べやすいので、中村の料理屋に売られ、大きいサイズのものが、こうして店頭に出るのだろう。

エビも売られるようになったのかと複雑な気持ちになった。食べたいというよりも、なつかしさから1パック買った。

昔、エビがたくさんとれたのは、岸辺の木陰や草陰になっていたところ。しかし、いまはそんな箇所は、木々が切り倒され、堤防になっている。エビもウナギも棲み家を奪われてしまった。

エビもいなくなった川で、いまの子供たちに泳げといっても、楽しくないだろうなあ。目の前に川が流れているのは今も昔も同じだが、人々の生活からは、川は遠くに離れていってしまった。

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落合恵子

7月12日、土佐清水市夏季大学 落合恵子講演「いのちの感受性」を聞きにいった。どんな話をするのか、この目と耳で確かめたかったから。

彼女を知ったのは、私が高校生のころ。ラジオの深夜放送のデスクジョッキーをやっていて、レモンちゃんと言われ、若者のアイドルのような存在だった。何度かラジオで声を聞いたことがある。

そのうち文化放送をやめ、モノ書きとして独立。その後も、新聞や雑誌、テレビなどに、たびたび登場しているのは知っていたが、ほとんど関心はなかった。マスコミ受けする、軽いタッチの放送タレントぐらいにしか思ってなかった。

そんな彼女を、オヤッと思ったのは、いつごろからであろうか、社会的発言をしはじめたから。政治がからむ社会問題に対して、結構強いものの言い方をしているのが目にとまるようになった。

最近では、特定秘密保護法、原発、安保法制、共謀罪・・・いろんな反対集会の呼びかけ人になり、先頭をきってマイクを握っている。

そんな姿は私のイメージからはかけ離れていた。いつから変身したのか。きっかけは? それとも、最初から秘めた思いがあったのか。ずっと、知りたいと思っていた。

彼女の実物を見、聞くのは今回初めてである。歯に衣着せない「強い女」だなと思った。

1時間半、しゃべりまくった。この人は何を言いたかったのか、何がこんな強い女にしたのか。結局のところ、それは彼女の出自にあるのだろうと思った。

講演のキイワードは母。
終戦直前の昭和20年1月、母は結婚しないまま、22歳で私を生んだ。栃木県宇都宮市で。母は「私を守るために」東京に出た。ずっと二人で暮らした。

「父なし子」は、社会から差別される存在。同じ「いのち」であるのに。

母も同じ「いのち」。だから、老後の介護は、全部私がやった。施設には入れなかった。認知症で記憶を失った母とも対話をすることができた。二人だけのかけがえのない時間。

二人は社会から多くの仕打ちを受けてきたのだろう。だから、世の中の理不尽で不公平な出来事、一部の人間だけが得をする仕組み、には黙っていられない。

腹をくくった女のすごみがある。講演の中でも「モリカケ」「THIS IS 敗因」も出た。「せっかく遠くまで来たのだから」言わせてもらう、と。

彼女のトレードマーク「魔女や山姥」のような髪型は、自ら「怒髪」と呼ぶ。世の中に対する怒りの爆発。この髪型は、母の介護生活の中で、美容室に行く時間をカットするために、考え出したものだそうだ。

講演のタイトル「いのちの感受性」という言葉は、一度も使わなかった。しかし、「感受性」は、怒り、抗議、主張であり、これをなくしてしまえば、人間おしまいだぞ、という警告であると思った。

彼女は単なるモノ書きではなく、クレヨンハウスの主宰者(社長)であり、各種事業のプロデユーサーである。福島原発事故以降、毎月東京で「原発とエネルギーを学ぶ朝の教室」も開いている。

私はいまの彼女の行動の原点は出自にあるとみたが、ただそれだけでなく、途中に大きなジャンプをする引き金があったはずだが、それについては触れられなかったし、私もわからなかった。

彼女は驚くほど多くの本を書いている、しかし、私は1冊も読んだことがない。

読めばわかるのだろう。会場で新刊書にサインをもらおうと思ったが、人だかりであったので、別に2冊を注文した。

「母に歌う子守歌」
「老いることはいやですか」

彼女が土佐清水夏季大学に来たのは38年ぶり2回目という。前回のテーマは「自分をいきる」。「いのち」と「いきる」は、人間への執着。彼女の一貫したテーマであるのだろう。

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たくぎん

今回の北海道行では札幌に計3泊したので、思い出の場所などを、あちこち訪ね歩いた。大通り公園も。

かつての職場、大通西5丁目、公園に面した農林中央金庫札幌支店も訪ねてみた。しかし、建物はそのまま残っていたものの、中身は近くの大通西3丁目、北洋大通ビセンタービルに、昨年移転していた。

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同ビルは北洋銀行本店ビルであり、かつてたくぎん本店があった場所。私は複雑な思いであった。

たくぎん(拓銀)とは、北海道拓殖銀行のこと。1997年11月、営業を停止。日本で最初の都市銀行の破綻であった。私が札幌で仕事をしたのは同年1月から2年間であり、その渦に深く巻き込まれたからである。

たくぎんは、明治33年(1900)つくられた国策銀行であったが、戦後、民営化され、都市銀行になった。北海道の金融界では、たくぎん王国といわれるくらい、絶対的地位を占めていた。

私が赴任した当時は、どの銀行もバブル期に積みあがった不良資産の処理に苦しんでいた。中でも、たくぎんの傷は大きかった。市場からも警戒され、株価が急落。生き残りをかけ、道内2位の道銀(北海道銀行)との合併話が持ち上がっていた。

そんな状況下ではあったが、私は、最終的には国が救済するだろうし、まさか都市銀行が破綻することはないという「神話」を信じていた。

むしろ、仕事上では、道内有力企業との取引を独占していたたくぎんの強固な基盤に食い込むビジネスチャンスだととらえていたし、その成果も上がっていた。

ところが、たくぎんの資金繰りは、もはや限界に来ていた。同年11月17日(月曜)朝、営業停止を表明。カネを引きだす人が殺到し、パニックになった。

その前日の夜は、日本のサッカー界悲願のワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」で、私もTVの前に釘付けであったのに。朝出勤すると本店による抜き打ち検査も入っており、ふんだりけったりであった。

わが支店の隣が日銀札幌支店。あとでわかったことだが、前日には、たくぎんにまわす現金が大量に持ち込まれ、Xデー対策が徹夜で進められていたのだった。

たくぎんからの融資のパイプが絶たれたことで、道内企業、団体の連鎖倒産が続いた。当然、わが支店の取引先も含まれていた。チャンスがリスクに一変したのだ。その対応に走り回る日々が続いた。

たくぎんは道内3位の北洋銀行に営業譲渡(道外支店は中央信託銀行へ)されることになり、その移行作業等で混乱はその後も長く続いた。

当時痛感させられたのは、北海道の経済基盤の脆弱さ。それは歴史的に、国策により、つくられたということ。

道内には豊富な水産、森林、石炭資源などがあったが、明治の開拓以来、それらは本州(内地)資本によって「収奪」され続けた。道内に地場企業や産業を育てるという考え方は弱かった。だから、北海道は内地企業の工場ばかりで、地場製造業がほとんど育っていなかった。民が育たず、官依存の構造。

また、道民のルーツは自由な大地を求めて来た移民であるから、因習やしがらみがないかわりに、マイペースで、人と人との横のつながりや連帯意識に欠けるという「道民性」も背景にあった。

日本にとって北海道全体がリスクになっていると感じられた。「試される大地」という言葉が、さかんに使われていた。

私の札幌勤務は、そんな混乱の中のわずか2年であった。確かに、仕事では多忙を極め、なんでこんな時期にとうらめしく思ったのは事実だが、しかし、当時もいまも、北海道での生活は感動のほうが大きかったと思う。

南国育ちの人間にとって北海道は異国であり、見るもの、知るものすべてが新鮮であった。たくぎん破綻という歴史的事件に立ち会えたことも、貴重な経験であったと正直思っている。

北海道はその後流通業界では健闘している。ニトリ、ツルハが全国を席巻。わが四万十市にも進出してくるとは当時では考えられなかったこと。2社ともご縁があり、創業社長にも会ったことがあるだけに、感慨深い。しがらみのない北海道だからこそ、大胆な発想で斬新なビジネスモデルを創造できるという典型である。

北洋大通りセンタービルを眺めながら、中身の濃い2年間であったとつくづく思った。北海道に感謝である。

小林多喜二の墓

 私は20年前転勤で札幌にいたころ、小樽には仕事で何度も来ている。休日にはぶらり観光も。小林多喜二が小樽の人であることは知ってはいた。しかし、その足跡を訪ねることはなかった。なんでと、あとでずっと悔やまれた。

そこで、ぜひ今回はと思った。6月8日、まず、小樽市立文学館へ。旧日銀支店前で、美術館と同居していた。小樽を代表する文学者と言えば、小林多喜二を伊藤整。二人の展示コーナーは、特別に広く仕切られていた。

多喜二は明治36年、秋田県大館の農家に生まれたが、4歳の時、伯父を頼って一家で小樽に移住。小樽商業、小樽高商を出たあと、たくぎん(北海道拓殖銀行)に就職。その頃から、社会問題に関心を持ち労働運動に参加、小説も書き初めた。「蟹工船」「一九二八年三月一五日」などは、小樽時代に書いた。

たくぎんを解雇され、昭和5年上京してからも作品を書き続けたが、思想言論の自由がない時代、昭和8年2月、特高警察に拘束され、即日築地警察署で拷問虐殺された。

展示は、小樽時代の写真や原稿と、虐殺時の写真や絵、新聞記事が対比されるように並べられていた。その中で、息子を殺された母セキの写真と絵に胸を打たれた。

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小樽は坂の町。墓は文学館から車で15分ほど、朝里川温泉に抜ける坂道を上ったところにある市営奥沢墓地の中の斜面にあった。

墓地の入口はすぐわかったが、辿りつくのに時間を要した。事前にネットで調べたら、道案内板がポイントに建てられているというので安心していたが、それがない。入口からまっすぐ上ってから、右折するところでウロウロ。だいたいの見当をつけて、やっとたどりついた。

「小林家之墓」は背が高く、裏には「昭和五年六月二日 小林多喜二建立」と刻まれていた。親孝行の多喜二は、東京に出てからもこまめに家に仕送りしていた。兄が夭折していたため、跡取り息子であった。墓にじっと手を合わせた。

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しかし、周りに墓標や解説板のようなものは何一つなかった。墓筒には造花。多喜二は治安維持法の犠牲者のシンボル。多くの人が訪ねて来ているだろうに、なぜ? と思った。

同じく国に殺された幸徳秋水の墓には、道路入口に碑と看板、墓には墓標と解説板を2枚立てている。墓筒には花や榊を定期的に差し替えているのに。

秋水同様、多喜二命日2月20日には毎年墓前祭が行われている。厳寒期であるため、雪にうずもれた墓を掘り出し、ユンボで道の雪かきをしてから。秋水には白い菊の花を献花するが、多喜二には赤いカーネーション。

おおかた1年の半分は雪の中であろうから、看板を立てても維持管理がむずかしのかもしれない。実際、ネットで見た木製の道案内板も朽ち果てたのだろう。

しかし、多喜二ほどの歴史的人物の墓でありながら、現状、標識板が何もないというのは、いかにも寂しい。金属製の頑丈なものを作ればよいのではないか。

治安維持法の現代版共謀罪が強行採決されたいまだからこそ、多喜二を忘れてはいけない。地元の墓前祭実行委員会のみなさんには、ぜひお願いしたい。資金の問題があるのならば、全国にカンパを呼び掛けてくれれば、私も協力したい。

秋水が小樽に来たのは前号で書いたように明治36年8月であった。その同じ年の12月、多喜二は秋田で生まれている。これは今回気づいた。

また、多喜二が殺された日は、昭和8年2月20日(29歳)。20年後の同じ日に私は生まれている。これは以前から知っていた。

そんな縁がある多喜二だからこそ、看板がないのは気になった。

小林多喜二を描いた映画や演劇は過去何度もつくられているが、このほど母セキを主人公にした映画「母」がつくられた。三浦綾子の同名小説が原作で、主役は寺島しのぶ。7月15,16日、高知市で上映会があるので、見に行きたいと思っている。

念願の墓参を終えてから、山道をさらに5分ほど上のほうに車を走らせ、北海道ワイン株式会社の本社、醸造所、ワインギャラリーを訪ねた。

同社は嶌村彰禧氏が昭和49年設立。最初から国産原料にこだわり、小樽ワインのブランドで製造。かつて仕事でお世話になった先である。その後も会社は順調に業容拡大し、いまや国産ワインとしては日本一。

原料は北海道各地から入れているが、旭川に近い浦臼町には広大な自社農園がある。浦臼といえば、明治時代、坂本龍馬の一族が開拓に入植したところで、その墓もある。そんな縁で、同町と高知県本山町は友好都市縁組をしていることは、先にも書いた。高知県人会で浦臼町ワインまつりに参加したこともある。

北海道みやげにと、小樽ワインを車のトランクにいっぱい買った。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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