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幡多の昭和 記憶から歴史へ

このほど「写真アルバム 幡多の昭和」が発刊された。昭和の写真がふんだんに掲載され、A4版263ページ。写真提供、執筆もほとんど地元であるが、出版社は名古屋の樹林舎で、かつ税込み9990円は高価なことが、ひっかかったが、1冊購入した。

ちょうど10年前にも、「目で見る 幡多の百年」(B4版148ページ、11550円、長野県松本市 郷土出版社)も出版されている。

二つの写真集は、ふるさとの歴史と生活を振り返るという編集目的は同じであり、実際、執筆陣もかなり重複している。しかし、異なるのは、前回は明治、大正時代をも対象にしているのに対し、今回は昭和に絞ったこと。それと、当然ながら、あれから読者が10歳、年をとったということ。

その読者の一人である私は、今回、深く考えさせられた。身につまされる思いである。

というのは、前回掲載された写真のほとんどは、昭和28年生まれの私の体験、記憶がない時代のものである。

過去の写真の中には、これはいまのあの場所だなとわかるものあるが、その時代自分はいなかったのだから、過去の記録としての意味しかない。

だから、それらの写真を見ることは、自分が知らない新しい知識を得ることと同じである。ああ~あんな風景だったのだ、と。

しかし、今回は、私が自ら体験した写真がたくさん載っている。昭和38年台風9号、昭和39年東京オリンピック、昭和52年中村高校24の瞳、昭和30~40年代の中村の町、県交通バス・・・などなど。

自分の記憶に刻まれた風景であるから、ジンと懐かしさを覚える。あの時、自分は何歳で、何をしていたか、鮮明である。

しかし、いやだからこそ、あれから何年たち、いろんなことがあり、自分も年をとったな~、と、感慨というか、複雑な気持ちになる。この間、自分はどれだけ成長したのだろうか、社会の役に立つようなことでもできただろうか、と反省と懺悔を迫られるような気持にもなる。

記憶から歴史へ。
自分が体験した写真が本になるということは、個人的な記憶や体験が客観的な歴史になるということである。
平成生まれの若者たちにとっては、これらの写真は過去の記録=歴史なのだ。

今回の写真集を見ると心が重くなる。
いま自分が生き、していることが記録や歴史になる。自分はあと何年生きられるか、その間、何ができるのかというプレッシャーを感ずる。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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