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安岡良亮の息子たち(3)

以上書いたが、私の関心は秋水と安岡家の関係にある。

秋水両親は当時としてはまれな商家幸徳と士族格小野(祖父士族、父医師)の縁組であった。小野は安岡、桑原と厚い姻戚関係にあった。中でも安岡は中村の文武の名門で通っていた。秋水は身内の出世頭は良亮であったと言っているように、母方係累のほうから刺激、薫陶を受けている。

秋水刑死から十二年後(大正十二年)、秀夫は幼き頃の回想を「雲のかげ」(夕刊時事新報)に、あえて「南極老生」のペンネームを使い、抑えながら(秋水をKと表現)書いている。 

また、英の娘岡崎輝も戦後解放後の昭和二十二年、「従兄秋水の思出」に詳しく書いている。

父小野道一は中村で財を失い明治二十三年東京に出たさい、秋水は中江兆民の書生をしながら国民英学会に通っていた。ほどなく神楽坂の小野家に同居し、家族同然の生活をしている。そこに秀夫がたびたび遊びにきた。三人(輝、秋水、秀夫)で深川八幡へよくお詣りをした。

二人は将来どんな仕事に就くべきか相談した結果、「自ら言はんと欲することを言い、正しく思うことをやれ、人に頭を抑えられずに天下を闊歩しうる無冠の帝王」新聞記者に限ると意気投合し、秀夫は時事新報、秋水は自由新聞(板垣退助主宰、兆民紹介)に入った。

しかし、その後二人が進んだ方向は真逆であった。秀夫は黒龍会に関与していたとの記述もある。

これについて雄吉も同様で、自由民権かぶれの秋水と違い、雄吉が代議士に出たのは国民党からであった。

学者雄吉は英国留学のさいマルクスも勉強した。しかし、帰国後、秋水と秀夫を呼んで講義をし、マルクス主義は日本には合わないと言った。

輝は「秀夫叔父はジミで兄(秋水)は派手」、「雄吉叔父は所詮影の人兄は實行者」と対比している。

さらに、小野道一も国権派を代表する県会議員であった。

結局、秋水取り巻きの縁者はみな国権派であった。自由党の牙城であった宿毛に対して、中村は元来保守派の拠点であった。そんな政治風土の中で、幸徳秋水は突然変異的存在にみえる。

早熟で多感な少年であっただけに、まわりがみな士族の子なのに自分だけが町人の子であることが幼き心に深く刻んだもの。「平民社」「平民新聞」と「平民」にこだわったもの。遠因は両親の縁組にあったのでは。

しかし、そうではあっても、一族だれも秋水を避け、疎んじる者はなく、最後まで秋水を心配し、暖かい手を差し伸べていたことは間違いない。

「傳次とは主義が違ふが、主義はとも角、親戚だし傍輩だし、ほつておくわけにも行かなければむごくもある、一切の始末は俺がしたよ」。処刑後の処理のこと。

輝が伝える後年秀夫の言である。

(終り)

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「安岡良亮とその一族(下) 雄吉 秀夫 英」

安岡良亮の息子たち(2)

雄吉と三男秀夫の間に儁次郎(しゅんじろう)がいたことはあまり知られていない。記録(写真も)がほとんど残っていないためであろう。

小野英の娘岡崎輝(筆名丘佐喜子)が「南国新聞」(中村で発行、昭和四十三年三月二十一日付)に寄せた連載「続わがふるさと(27)」には「次男儁次郎は俊秀な頭脳と秀麗な容貌の持主だったが札幌農学校を卒り学習院に勤務したが二十四歳で病死した」と書いている。また、「農学士」「学習院教授」「未来ノ大臣ト云ワレタ人」と書かれた記録(メモ)も上岡正五郎先生調査資料に綴られている。

札幌農学校卒業生名簿で明治十八年本科五期卒業生十二名の中に儁次郎の名前を確認できる。しかし、生年、没年、墓も不詳である。

三男秀夫は明治五年東京生。父の遭難により、母と中村に帰ってきてからは一歳上の秋水と兄弟同然に遊んだ。

明治十八年、ともに通学していた中村中学が突然廃校になり高知中学に統合されたさい、秋水は家の経済事情もあり、すぐには高知に転校できなかったが、秀夫はそのまま高知に出た。その後、慶應義塾に入る。兄同様経歴が前掲「慶應名流列伝」に出ている。沢翠峰・尾崎吸江共著「良い国良い人 東京における土佐人」(大正六年)にも。

秀夫は明治二十六年、時事新報社に入る。同社は福沢諭吉経営、戦前の五大紙に数えられていた大新聞(現在のサンケイ新聞につながる)であった。

秀夫は終始一貫、社の方針に従った穏健な論説記者であった。「風采温順」「言語柔和」

得意分野は外交、特に支那問題。論文「支那の六国借款」「支那全権は何を為すべきか」のほか、単行本「日本と支那と」「小説から見た支那の民族性」を出版している。

その主張は、大陸進出を図る日本を後押し、その論理的支柱になるような内容である。

中学生向け月刊雑誌「少年」には、日露開戦の明治三十七年から大正十年まで十七年間、「時事解説」を執筆。日露戦については、詳しい戦況記事となっている。ただし、明治四十三~四十四年に名前がみえないのは、秋水が大逆事件の渦中にあったことから筆を自粛したものと思われる。

大正元年、雑誌「奉公」には、南米訪問記(時事新報特派員、軍艦生駒に乗り南米から欧州へ)を載せている。

秀夫の妻は土佐出身政治家甲藤大器の娘。甲藤は後藤象二郎の大同団結運動に参加し、兄雄吉とともに「政論」で筆をふるった人。

秀夫末裔は隼太―保直まではわかるが、以降不詳。秀夫没年も不詳。墓は東京多磨霊園にあるというメモがあり、種々調べたが、場所を特定するには至っていない。

兄弟姉妹で一番上の長女芳は母千賀の出里桑原の長男戒平(母の兄義厚の子、従兄)に嫁した。戒平は良亮と一緒に維新東征に参加し、官に入る。夫婦で熊本に帯同したが、神風の乱では難を免れた。

戒平はその後中村に帰り父のあと幡多郡長を務めたが、田ノ口銅山事業に失敗。中村を出て、東京豊島郡長、小笠原島々司、台湾新竹支庁長などを務めた。晩年は鎌倉に隠棲し、樋口真吉伝を書いた。墓は鎌倉。

次女英(ふさ)は、幼いころ男なればと惜しまれた。小野道一(従兄)に嫁す。道一は桑原戒平の実弟で、秋水母多治の父小野雲了の養子となり、小野家を継いでいた。

道一はかつて谷干城に従い上京。大学南校で法律を学び、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島県判事、三重県警察部長を務めたあと帰郷。幡多郡長、さらに高知県会議員、議長にも就いたが、兄事業失敗の責めを負い、議員辞職を余儀なくされ、明治二十三年一家で上京。新聞社、郵便局などに務めたが、明治二十八年自死。英は自力で生きるため、娘二人を連れ、房州(千葉県館山)で教員となった。

英は明治三十八年、帰郷に合わせて中村に設立された幼稚園の園長に迎えられた。幼稚園はその後町立に移行。高知県における幼児教育のさきがけとなった。晩年「八拾余年の思出」を書き残している。昭和十二年、八十七歳で没。夫婦墓は太平寺にあったが、今は撤去。

三女(結)、四女(玖摩)、五女(伊勢)については、特記すべきことはない。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族(下) 雄吉 秀夫 英 」

安岡良亮の息子たち(1)

明治九年十月、初代熊本県令(知事)安岡良亮は不平士族神風連の斬り込みにあい殉職した。五十二歳。

良亮と東京に残っていた妻千賀(桑原義敬娘)の間には八人(男三、女五)の子がいた。千賀は翌年、まだ幼い秀夫ら下の子を連れて、中村に帰ってきたことは前号(本ブログ 2017.1.6~1.12)に書いた。

長男雄吉(おきち)は安政三年中村生まれ。当時二十歳、慶應義塾に学んでいた。その経歴等は三田商業研究会編「慶應義塾出身者名流列伝」(明治四十二年)、片岡仁泉編「近代土佐人」(大正三年)に載っている。

安岡雄吉は明治十一年ごろから内務省、元老院、東京府庁などに宮仕えしたが、わずか五年で辞め、「隠遁的生活」に入り、「専ら読書に耽る」。

ところが、明治二十三年国会開設を前に後藤象二郎が自由党分裂各派に大同団結運動を呼びかけると、その幹部として名乗りをあげ、機関誌「政論」で政府攻撃を繰り返す。ついには新聞条例にひっかけられ、裁判で禁固刑の処分を受けるが、憲法発布の大赦により刑執行は免れた。

しかし、政府の懐柔策で後藤が突然入閣したことにより運動は挫折。雄吉は明治二十五年、第二回帝国議会選挙高知第二選挙区(幡多郡など)に国民党(吏党)から出馬した。

選挙は政府の大干渉が行われ、自由党との抗争は激烈を極めた。結果、雄吉はいったん片岡直温とともに当選したが、陣営側の選挙違反裁判(票操作)に問われ、林有造、片岡健吉の自由党に敗れた。

再び読書生活に入ったが、明治三十年から二年間は英国留学し、欧州各国も視察。帰国直後には、母校慶應で帰朝演説会「べレスフオード卿の演説に就て」(他国同盟への意見)を求められた。演説録は慶応義塾学報(12号)所収。同学報(61号)には論文「宗教局外観」(宗教の自由を訴え)も寄せている。

明治三十五年、東京より選挙出馬したが、落選。しかし、二年後日露戦争開戦の年、再び高知から出馬し、今度は当選している。

この選挙の運動費明細が残されており、日当を支払った先に中村の幸徳駒太郎(秋水義兄)の名前がある。駒太郎は当然ながら親戚にあたる雄吉を応援したのだ。

雄吉は盲腸炎を患ったことから明治四十一年次期選挙は断念し、神奈川県藤沢市片瀬に百姓家を求め、またも隠遁。その年、秋水がこの家を訪ね中村の小野英(雄吉姉)に報告した手紙が「秋水全集」書簡集に収録されており、その中で「雄吉兄」と一緒に「おばアさん」(良亮妻千賀、翌年没)も杖をつきながら見送ってくれたと書いている。

その後、雄吉は二度目の洋行、また満州へも行っているが、世間との交渉を疎い、酒を友に学者的生活を続けた。

大正九年、六十二歳で没。執筆の準備をしていた「後藤象二郎伝」を仕上げることができないままに。

互いの父の代から深い縁(前号で書いた)があった尾崎咢堂(行雄)からは弔意の手紙が届いた。尾崎は慶應後輩で、雄吉から明治十二年、借金百円をしていた証文が残っている。良亮殉職に対し政府から弔慰金が千円(吊祭料三百円、家族扶助料七百円)出ていることから、その一部を回したのかもしれない。

雄吉妻は神奈川県士族出。末裔は長男隆司―篤夫―由恵と続き、いまは横浜在。今回、所蔵の貴重な資料を見せていただいた。雄吉家墓は藤沢市片瀬泉蔵寺にある。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族 (下) 雄吉、秀夫、英 」

二つの成人式(続き2)

国は法律で国民の祝日として成人の日を定めていますが、ただその日が休日になるだけで、どんなセレモニーをやろうと、やるまいと自由です。

いま成人式は市町村単位で開くのが一般的になっていますが、これは義務付けられたものではなく、慣例になっているにすぎません。ですから、そのやり方も自由です。やらなくてもいいのです。

やるのなら、例えば、敬老式のようなやり方もあるでしょう。国民の祝日ということでは同じです。

四万十市では、敬老式典は市が行うことはしていません。各地区が自主的に地区単位で開いています。開いていない地区もありますが、ほとんどの地区は開いています。市はこれに対し、75歳以上の方全員に祝い金(1千円)を支給しています。それをセレモニーの費用の一部に充てているところが大半です。

また、「厄落とし」をみんなで開いている地区もあります。これには市は補助金を出していませんが。

他の市町村も同じやり方だと聞いています。

こうした中で、成人式はどうあるべきか。私は、各地域、職場、家族等で、成人を祝う場をたくさん開いてやったほうがいいと思います。

過去には元服といったように、大人と認められるということは人生の大きなエポックであるからです。

しかし、いまの時代、行政が公費を使って主催するセレモニーについては、公平平等なやり方であるべきです。そのためには、統一会場でやるのがいいと思います。理由は先に書いたとおりです。

市主催の成人式とその他の催しが時間的に重なることは、新成人を混乱させることになるので、避けてやったほうがいいと思いますが、どちらに参加するかは本人の自由ですので、それもできないことではないと思います。

四万十市が西土佐会場で行っている成人式については、その企画や運営について地元青年団から多くのご協力をいただいていますが、主催はあくまで市です。市が案内状を出し、設営も市が行っています。

このやり方については、中村会場も同じであり、青年団や婦人会に協力をしてもらっており、青年代表、婦人会代表は壇上に座ってもらっています。青年代表は実行委員長になってもらっています。

繰り返しになりますが、成人式には多彩なやり方があっていいし、あったほうがいいと思います。

私がこだわっているのは、その中で、行政がかかわるもののやり方についてです。

二つの成人式(続き1)

きょうは「成人の日」。
各地で行政主催の成人式が行われているが、四万十市では1月3日、今年も会場を2つに分けて(中村地域、西土佐地域)行われた。

2005年4月、旧中村市と旧西土佐村が合併して誕生して四万十市になってから12年を過ぎているにもかかわらず、いまなお統一されていない。県下34市町村で会場を2つに分けているところは、ほかにはない。

実は、四万十市(主管・教育委員会)でも4年前、2014年の成人式からは統一することをほぼ決めていたのだが、そうはならなかった。

その経過については、2年前のこのブログ(2016.1.13)で詳しく書いているので繰り返さない。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-226.html

私はこの中で早急に一本化をしたほうがいいと提言をしたのだが、その後、再度検討されることもなく、ズルズルといまの状態が続いている。

そうした中、1月6日付高知新聞コラム(後掲)で、西土佐地域の成人式のもようが紹介されたので、もう一度私の意見を述べておきたい。(四万十市で今年成人を迎えたのは、中村地域281人、西土佐地域27人。)

一つは、行政運営は公平平等が基本であるということ。

行政が合併をするということは大事業であり、両者の融合には一定の時間が必要なことはやむをえない面があるが、10年を過ぎてもなお「1市2制度」が続いていることは異常といえる。

全市民が納得する明確な理由があれば別だが、漠然と「遠くて不便」ということだけでは、ほかの行事等でも同じことであり、それらは段階的に克服してきている。遠いということだけなら、中村地域の富山地区も大差はない。

二つは、成人式は自治体にとって最も重要な行事であるということ。

地域の将来を担うのは若者である。成人式は、若者たちに四万十市の将来を託す場であり、市にとっては最も重要は行事といえる。

その若者が一堂に会することができないということは、市にとってゆゆしきことである。

いま市内には、ほぼ旧市町村単位で中学校が11ある。(中村市は1954年旧11町村合併)この中で、西土佐地域の成人式参加者は全員が西土佐中学校卒業生である。だから、同じ中学校の同窓会のようなものである。

それはそれで、手作り感のあるほのぼのとしたものであるが、それならば他の中学校卒業生にもそんな場をつくってやってほしい。

しかし、同窓会は普通それぞれが自主的に行うものであり、行政が主催する成人式は、市内の新成人全員が同じ場で心を一つにして将来を決意する場であってほしいし、そうあるべきであると思う。市民もそれを期待している。

普段は知らない顔の面々が一堂に会することで、おなじ四万十市に生まれたという連帯感ができるし、これを機に、交流も深まるというものであろう。

いまの状態では、行政のほうで若者を分断していることになる。また、西土佐の若者から、その場(チャンス)を奪っていることにもなる。

西土佐の青年たちは、広く四万十市のためというよりも、村意識を脱せないままの「井の中の蛙」状態が続くのではないか。

三つは、合併の原点に立ち返るべきであるということ。

2005年4月、四万十市が誕生するにあたっては賛否両論いろんな意見があった。しかし、そんな激しい議論を経て合併した以上、統一すべきものは統一しなければならない。

中村や西土佐それぞれの地域の伝統文化等を守っていくことは大切であり、私もそう心掛けているが、それとこれとは別物である。

それがいやというのなら、そもそもなぜ合併をしたのか。
もうあと戻りはできないのだ。

以上

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高知新聞 記者コラム 2018.1.6

土佐一条物語

一條教房が応仁2年(1468)京から中村に下向してから今年で550年を迎えるにあたって、このほど格好の読物が出版された。

吉良川文張「戦国史話 土佐一条物語」(飛鳥出版室、2017年9月刊、270ページ、1000円)である。著者は高知市在住の土佐史談会会員。

土佐一條家100年の歴史を、主に長宗我部との攻防を軸にまとめた通史である。これまでの類似の本は、ほとんどが歴史研究者の論文であったが、この本は、一般の人でも読みやすいように、著者の推理を加えて、物語風に書いている。

とはいっても、歴史小説のような創作ではなく、基本部分はしっかりとした専門家の研究成果に基づいて(引用も多い)、推論は最小限にとどめている。

読み応えがあるのは後半の一條兼定と長宗我部元親との対決。ここでは、最近発見された「石谷家文書」による新しい知見(研究成果)がふんだんに盛り込まれている。

これまでは、兼定は暴君とされ、元親による調略もあって、家臣から豊後の大友宗麟のもとに追放されたとされてきたが、実際は、その裏には京都の一條家本家の思惑があった。

勢力を増す長宗我部には勝てないとみた本家は、元親と密通し、分家(土佐一條家)を存続させるために、兼定の息子内政に継がせ元親娘を娶らせることにより元親を後見人にするという取引ができていたのだ。

実質的には元親の軍門に下ることになるが、形式的には分家は存続させるというもの。公家のメンツである。

元親にしても、中村の一條家には、父国親が受けた過去の恩義があり、また京都の朝廷や信長、秀吉などからは、当時、格下の元親は一條家の家臣と見られていたことから、中村を武力で攻め落とすことは躊躇されたという、両者の思惑が一致した。

このあたりについては、四万十市の郷土史家東近伸氏の研究成果を引用しており、ここでも以前にもっと詳しく紹介をしている。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-292.html

また、著者は、兼定が最後に逃げ延び、墓もある宇和島沖の戸島にはまだ行ったことがないようであり、戸島のもようは私の訪問記録(高知新聞投稿)を引用してくれている。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-36.html

戦国期土佐においては、公家の一條家は別格の存在であった。その中で、他の7人の有力武将の中で、長宗我部が台頭し、ついに土佐を統一し、さらに四国制覇を果たすプロセスもわかることから、この本は「長宗我部物語」でもある。

土佐の戦国史に興味がある方は、ぜひ読まれることをお勧めしたい。
ネットでも購入できる。

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土佐一條550年

今年は、前の関白一條教房が応仁2年(1468)、中村に下向してきてから550年になる。

教房は摂関家である一條家のトップ。父は大学者と言われた兼良。
摂関家とは天皇家とも婚姻を結び、摂政関白を出すなど、政治の中枢に君臨する有力公家であり、五家(ほかに、二條、九条、近衛、鷹司)だけであった。

関白は、いまでいえば総理大臣。
そんな大物が中村にやってきたきっかけは、京都を戦場として前年に始まった応仁の乱。京都は炎上し、御所に隣接する一條家屋敷も燃え落ちた。

教房は弟がいる奈良興福寺にいったん避難したが、翌年、家人を引き連れて、堺から船で中村をめざした。中村周辺は一條家の荘園、幡多の荘であったからだ。

教房が中村までやってきたことについては諸説あるが、戦火をのがれるためであったことは間違いがない。都が戦場にならなければ、わざわざ僻遠の中村まで来ることはなかったろう。

しかし、理由はそれだけではなかった。戦乱が終結してからも京都には帰らなかったことでわかる。

教房は一條家を分家し、新たに土佐一條家を立て、息子の房家に継がせた。

中村を気に入ったのだろうか。それもあるだろうが、地元国人たちに荒らされようとしていた幡多の荘を直接管理(直務支配)することで、京都本家の再興を助ける道を選んだのだ。

中村に骨を埋める覚悟をした教房、房家親子は、中村のまちづくりに励んだ。モデルにしたのは当然京都。

以来、土佐一條家は、当時としてはめずらしい公家出身の戦国武将(公家大名)として、房冬、房基、兼定と、100年続く。

いま、全国には、「小京都」を名乗るまちはたくさんあるが、その本家本元が中村であると言われる所以はこんなところにある。

そんな由緒ある中村市は2005年合併で市の名前こそ変わってしまったが、もちろん中村のまちは中村のままである。

四万十市では、今年いっぱい市をあげて「土佐の小京都中村550年祭」を行います。

四万十市は四万十川だけではありません。
ぜひ、みなさんお出でいただき、「公家がつくったまち」の歴史と文化を堪能してください。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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