FC2ブログ

幸徳秋水顕彰運動の歴史(下)

4.幸徳秋水を顕彰する会結成

二〇〇〇年三月、研究会を、さらに多くの市民が参加しやすい組織に拡大しようと幸徳秋水を顕彰する会を結成(初代会長森岡邦廣、同事務局長北澤保)。以後、研究会は顕彰会内の一部門として位置付けた。新たに機関誌「秋水通信」を発行、今にいたっている(十六年より「会報秋水」と合併し年二回発行、最新二十三号)。

顕彰会は結成直後から、市内二十六団体(区長会、婦人会、老人クラブ、商工会議所など)に呼びかけ中村市議会に要望。議会はこれを受け二十世紀最後にあたる同年十二月、全会一致で「幸徳秋水を顕彰する決議」を採択した。

決議は翌年、和歌山県新宮市議会に、さらに本宮町議会にも波及し、全国運動のエポックとなった。

 〇一年、刑死九十年墓前祭。座談会、山泉進、日南田静真。瀬戸内寂聴講演(三月)、「人間秋水とゆかりの人々展示」(十一~十二月)
 〇三年、映画「住井すゑ百歳の人間宣言」上映、平民社百年記念講演会中村大会。
 〇四年、会ホームページ開設。
 〇五年、高知県知事(橋本大二郎)から「あったか観光マインド優秀団体賞」受ける。
 〇七年、会員執筆「現代に生きる幸徳秋水」(秋水読本)出版。

5.次の百年へ

中村市は〇五年合併で四万十市に。〇九年落成新図書館(庁舎内)に顕彰会の要望通り「秋水資料室」が設けられた。

秋水刑死百年の一一年、市は一年間を通した「幸徳秋水刑死百周年記念事業」を行うことを決定。市長(田中全、現顕彰会事務局長)を会長とする実行委員会(事務局は教育委員会)を立ち上げ、議会にも諮り一千万円の予算をつけた。

先ず、市民啓発のため市広報誌と市ホームページに「秋水百年」コーナーを設け、毎月関係記事を連載したほか、小冊子「自由・平等・博愛 幸徳秋水その生涯」(十四ページ)を八千部作成、市内中学生にも配布。墓地看板などもリニューアルした。

イベントは、墓前祭記念講演会(山泉進、幸徳正夫)、北辰旅団演劇「大逆百年ノ孤独」のほか、シンポジウム(五月、早野透、田中伸尚、鍋島高明、山泉進)、市民大学(八月、鎌田慧)、特別展示、大逆事件サミット(九月)、秋水平和音楽祭(十二月、笠木透と雑花塾参加)。

サミットは大逆事件犠牲者顕彰に取り組んでいる全国八団体が初めて一堂に会し、「人権弾圧のない世界を求めて」とする「中村宣言」を採択した。

以後、第二回豊津(福岡県)、第三回大阪、第四回新宮(予定)と続いている。

十二年には、市長がはじめて新宮を訪問、熊野地方の犠牲者六人の墓を弔った。大逆事件記録映画「百年の谺」も全国に先行上映。

また、秋水以外の県内犠牲者四人も忘れてはならないとの提起から、坂本清馬没四十年の一五年は、初めて秋水・清馬合同墓前祭とし、同じ正福寺の清馬墓にも案内板を設置。合同祭は今後五年毎。

十六年、高知市内にある小松丑治、岡林寅松墓にも自由民権友の会と共同で墓標を設置。(もう一人の奥宮健之墓は東京)
同年、市民向けに秋水史跡めぐりを実施、十七年には幕末維新博に合わせ秋水につながる中村の先人たちを加えた。

この間、秋水最初の妻西村ルイが生んだ、秋水の血を受け継いでいる孫、ひ孫も初めて墓参に迎え、大きな話題となった。

高齢化等によりしばらく会員数は漸減傾向にあったが、最近の活動の広がりの中で、県外を中心に増加に転じ、現在二百四十一名(うち県外八十六名)。現会長宮本博行(四代目)。

かつて坂本清馬は「秋水祭の行事は革命運動である」と言ったように、戦後幡多、中村の平和民主運動の結集軸となり、いくたびも革新市政を生み出してきたバックボーンになったのが秋水顕彰運動であった。中村地区労は今も同じ組織形態を維持し、統一メーデーをおこなっている。

戦前回帰の風潮濃い昨今、顕彰会は安保法案、共謀罪に反対するアピールを発した。 

顕彰会は秋水が唱えた、自由・平等・博愛・平和の旗を、これからも高く掲げ続けていく。(終)


 「土佐史談」267号  2018年3月
 原題 「グループ紹介 幸徳秋水を顕彰する会」

 秋水刑死百年墓前祭(2011)
 秋水刑死100年記念墓前祭(2011年)
 フォークグループ「笠木透と雑花塾」が献歌



幸徳秋水顕彰運動の歴史(上)

現在の名称の幸徳秋水を顕彰する会が結成されたのは二〇〇〇年三月。しかし、その前史は長く、かつ深い。

1.前史一 秋水墓前祭

 一九一一年、大逆事件で処刑された幸徳秋水は、長く「極悪人」「国賊」「逆徒」として社会から抹殺されてきたが、日本敗戦後は一転革命児としてヒーローとなった。

玉音放送からわずか四カ月後、一九四五年十二月末から翌一月初めにかけて、大相撲横綱双葉山一行が高知県内九カ所で「戦災者援護海外同胞救済義捐興行」を行った。主催は高知県労働組合協議会、後援高知新聞社。

中村では、一月一、二日、「幸徳秋水三十五年忌追善興行」と銘打つほどであった。

こうした雰囲気の中、幸徳家当主富治(秋水義兄駒太郎長男)は、四六年一月二十四日の秋水命日(刑死日)、親類縁者等を集め秋水墓前供養(中村正福寺)を堂々と行った。

のちに秋水研究者となる東大生塩田庄兵衛はこれに参加。歓迎を受け、にぎやかな宴会であったと書き残している。
 
墓前供養は、五〇年からは「秋水墓前祭」として幡多地区全労働組合協議会(全労協)主催に、さらに中村地区労へと、労働組合の主要な年中行事と位置づけられた。

2.前史二 再審請求支援運動

大逆事件では二十四名死刑判決、うち十二名は無期懲役に。その一人、室戸生まれの坂本清馬は入獄二十四年間を経て、師秋水を慕って中村に戦中移り住んでいた。

六〇年墓前祭は「幸徳秋水五十年記念祭」として、森山正中村市長(初代)を会長、坂本清馬を事務局長とする実行委員会を組織して行われた。記念講演会はタカクラテル、岩佐作太郎、神崎清、塩田庄兵衛。会場の中央劇場は人であふれた。

 
無実を叫び続けてきた清馬はこの年、唯一人の事件生き残りとして、岡山の森近運平妹栄子とともに、再審請求に立ち上がる。
 
日米安保条約改定反対運動のうねりの中、東京では裁判を支援する組織「大逆事件の真実をあきらかにする会」が結成され、弁護士のほか多くの文化人(高知県出身田宮虎彦、田岡典夫、上林暁も)、社会運動家などが集まった。会長はおかず、実質的な代表の事務局長には参議院議員坂本昭(のち高知市長)が就いた。

 
再審請求は六五年、証拠不十分として東京高裁が棄却、最高裁への特別抗告も退けられたが、事件の風化を防ぎ、真相が広く知られ、いまなお解明が深められている引き金になったことの意義は大きかった。

 「あきらかにする会」はいまも存続、毎年機関誌も発行(最新五十七号)。現事務局長(四代目)山泉進明治大学教授は中村出身で当顕彰会とは常に連携している。

 七一年、刑死六十年墓前祭。秋水遺墨遺品展示。記念講演、大河内一男、神近市子。
 七五年、坂本清馬没(九十二歳)
 八一年、刑死七十年墓前祭。記念講演、塩田庄兵衛、大原慧。
 八二年、幸徳家先祖墓(享保年間以前)を大阪市竹林寺から移転。
 八三年、秋水絶筆石碑建立。
 九一年、刑死八十年墓前祭。記念講演、山泉進、伊藤和則。

高知市立自由民権記念館が九〇年開館後は、同友の会からの墓前祭への参加・交流が続いている。

3.前史三 幸徳秋水研究会

九六年二月、それまでの労働組合による年一回墓前祭中心の取り組みから、日常的な学習により秋水の正しい理解者を増やしていこうと幸徳秋水研究会を立ち上げた。最初二カ月ごと、現在は毎月、いろんなテーマで勉強会を続けている。

九七年、秋水妻師岡千代子が書いた「風々雨々」復刻版を出版(序文瀬戸内寂聴、改題山泉進)。九八年、初期社会主義研究会メンバー十六名を迎え合同勉強会。同年から機関誌「会報秋水」発行。

また、市に対して、毎年夏開かれる市民大学では秋水関連テーマを優先して設定するように申し入れ、以後多数の講演が実現している。 (続く)

 「土佐史談」267号 2018年3月
 原題 「グループだより 幸徳秋水を顕彰する会」

 20180329100542c74.jpg   2018032910054140a.jpg

  幸徳秋水50年祭(1960年)
   手を合わせるのは幸徳富治
  

堺利彦の中村

幸徳秋水の盟友堺利彦は一度だけ中村に来ている。

大逆事件では秋水ら12名死刑、12名無期懲役となった。しかし、堺は難を免れた。事件発生当時、他の事件(赤旗事件)で入獄していたからだ。

堺は遺族への遺体の引き渡しなどの措置いっさいを仕切った。処刑から3カ月後の明治44年(1911)4月、これが一段落すると、犠牲者家族の慰問に出かけた。その費用300円は全額岩崎革也(京都丹波須知町)が出した。

堺は、岡山(井原)~熊本を経て自分のふるさと豊津(福岡)に立ち寄ったあと、別府から船に乗り中村に着いた。秋水義兄駒太郎ら幸徳家の人々の歓迎を受けた。

中村から岩崎革也に宛てた葉書が2通。先だって京都府南丹市園部町(旧須知町隣)で開かれた岩崎革也資料展で展示されていた。
文面は以下の通り。

4月23日付 絵葉書(裁判所写真)

今秋水の墓に参りました、
墓は此の裁判所の裏手に在り、此の裁判所の敷地、元は寺院なりしよし、墓の上には桜の老木枝をかはし、後の山には老鶯頻りに鳴き、情趣深き初夏の光景でした、明朝当地出発、高知を経て大阪に着筈、

廿三日 中村にて  とし彦

20180326233317d36.jpg

4月25日付 葉書

今日は揮毫を所望されて大いに拙筆をふるいました、

 行春の青葉の桜に鶯の啼きしきる処君が墓立つ
 行春の緑の底に生き残る

など口ずさみました、尾行の刑事君からも所望されたので、

たゝずめば藪蚊のいづる若葉陰

と書いてやった、
明日はいよいよ出発します

 廿五日

 201803262333179d3.jpg

海が荒れたため、四万十川河口下田から船が出るのが遅れた。大阪から熊野新宮へ向かった。

葉書によれば、秋水墓の上には老木の桜が枝を交わし、鶯が鳴いていた。旧暦の4月といえば、いまの5月ごろ、新緑の情景が目に浮かぶ。

現在、秋水墓の真上には、隣の裁判所庭に植えた桜の大木が枝を伸ばし、秋水を包み込んでいる。

秋水は非道な裁判により命を奪われたが、いまでは裁判所がそれを詫びるように秋水に涙の花びらを降り注いでいる。

恩讐を超えて咲くこの桜をわれわれは「秋水桜」と呼んでいる。昨年から、満開の時期にあわせてこの桜の下に集い、秋水を偲んでいる。

堺が見た桜は老木だったというから、別の山桜であったのだろうけれども、秋水を見守る桜のこころは同じだ。

堺が墓前で詠んだ句

行春の緑の底に生き残る

に込めた思いは何だったのだろうか。

多くの同志を失ってしまったが、自分は生き残ってしまったという、寂しさというか、むなしさを伝えたかったのか。

それとも、

秋水よ、君の魂はこの深い緑の中で生き続けている、と言いたかったのだろうか。

あわただしく秋水を弔ったあと、その後堺は中村には来ていない。

 20180326233314622.jpg  20180326233312f3c.jpg  201803262333162d7.jpg



上海列車事故

母校高知学芸高校の修学旅行生徒たちが中国上海で列車事故に遭い28人(うち1人は教員)が亡くなってから、きょうで30年を迎えた。

1988年(昭和63年)3月24日。その日私は東京にいた。報道で聞いた時、にわかには信じられなかった。なぜ、中国へ? 本当に母校なのか? 間違いだろう? 当時海外への修学旅行はほとんどなかった。(私の代は関東組と北陸組に分かれて行った。)

修学旅行事故は国民の涙を誘った。前途有為の若者の不慮の死として連日大々的に報道された。

遺体が特別機で高知空港に帰ってくる模様はテレビ中継で放送された。私は目をぬぐいながら見た。中村市出身の生徒も2人いた。うち1人は私と同じ八束の女の子であった。

思わぬ悲しい事故で母校の名が有名になってしまった。

母校は高知大学付属高校設立運動を受け継いだ私立高校として昭和32年設立された。私はその12期生であったぐらいだから、歴史も浅く、また土佐高校に追いつけ追い越せというような受験重視教育であったため、進学校特有の冷めた雰囲気もあり、当時卒業生のまとまりは強くなかった。同窓会組織も地元ぐらいにしかなかった。

そんな中、事故の衝撃は大きかった。眠っていた卒業生の母校意識がにわかに目覚め、母校を救えと、多額の義援金(カンパ)が続々集まった。私も東京在住の同級生に呼びかけ送金した。卒業生の結束力は、瞬く間に同窓会関東支部結成につながり、全国・県内各地にも波及した。

しかし、学校側は事故処理に悶え苦しんだ。生徒遺族から学校の責任を問う訴訟がおこされた。その年が学校初めての海外修学旅行であったにもかかわらず、事前の下見などの準備が十分でなかったことが明らかにされた。批判の矢面に立たされた校長は、私のころは英語教師であった。

遺族の一部とはいまだに和解がなされないまま。学校側は事故の責任を回避し、遺族への説明責任を果たしていないと。きょうの高知新聞投書欄にも、またその声が掲載されている。不信は不信を増幅させ続ける。

学校は正門前に建てた慰霊碑の前でこの日毎年追悼式を行っている。きょうも大きく、報道されている。しかし、碑には刻まれていない生徒の名前がある。

なぜ、こうなってしまったのか。

学校は重い十字架を背負い続ける。
卒業生もだ。

黛まどか「奇跡の四国遍路」

春になり、家の前の四万十川土手を行くお遍路さんの姿が目立つようになった。俳句の世界では、遍路は春の季語だそうだ。

俳人黛まどかさんが昨年4,5月、四国巡礼88札所を歩いて、通し遍路をされたことは、前にここで書いた。(2017.9.19~20)

この記録がこのほど「奇跡の四国遍路」(中公新書ラクレ)として出版され、送られてきた。

黛さんは幸徳秋水を顕彰する会会員であることから、当地を歩かれたさい、宿のお世話をさせていただいた。当地が生んだ秋水のことは、この本でも触れてくれている。

人や自然との出会いを通して感じ、考えたことなどを、そのときどきに詠んだ句を添えて、綴っている。松尾芭蕉「奥の細道」の四国版のようだ。

並大抵の思いだけでなく、気力、体力が充実していないと、女性がほとんど一人で一気に歩き通すことはむずかしいと思うのだが、その辺のことはサラり書いているだけ。

明確な目的があった訳ではない。1400キロを歩いて得られた答えは、遍路は「自分との和解」である、ということ。

日常の世界に戻っても特に大きな変化はない。いつもの生活で行き詰った時、「それで良いのだ」と「諾う」(うべなう)ことができるようになったことぐらい。

「歩くことを入口に、感覚や感性が研ぎ澄まされる。歩行によって日常では忘れ去っていた記憶の奥底まで沈み、過去を反芻し、そこから思いがけない発想を得る。そして見えない世界の扉を開けて、古人(いにしえびと)の心に触れるのだ 」

祈りとは歩くこと、歩くことは祈る、ということか。

黛さんは歩きながら詠んだたくさんの句の中で、最も気に入っているのは愛媛県久万高原町で母の日に詠んだ句だそうだ。

  母の日の木下を風の溢れをり

3年前、私の元職場上司がやはり遍路をされ、1泊の宿を提供(お接待)させてもらった。古稀(70歳)になったことがきっかけと言っていたが、それ以上のことは語らなかった。遍路はみなそれぞれの事情をかかえているのだろうが、言葉で表現できるたぐいのものではないのだろう。

元上司に続き黛さんも歩かれたことで、毎日のように見る遍路の姿が再び身近なものに感じられるようになった。

「再び」というのは、自分が子どものころにも遍路が身近にいたからだ。

家にいると、チリンチリンと音がした。ドアを開けると、遍路が何やらぶつぶつ唱えている。白装束だが、たいてい汗や埃で汚れていた。

こんな時は母から言われていた通り、米樽の中から茶碗一杯の米をすくい、おそるおそる遍路が胸からぶら下げた袋の中に入れてやる。遍路は一礼して去っていく。たいてい女の遍路だったような記憶がある。

ある時、その遍路が川っぷちに座り、米を炊いていたのを見た。頭の手ぬぐいをとった顔はシワで黒光りし、目はギラリとしていた。私はいけないものを見たように思い、すぐに逃げた。

悪さをして親におこられるときは、「ヘンドの子になりたいがか」「ヘンドにやるぞ」とおどされた。

「へんろ」と「ヘンド」は違う。「ヘンド」とは物貰い=乞食というような差別的な響きがあった。

いまのお遍路さんはスイスイ歩いている。米をもらいに来ることもない。

黛さんも書いているように、いまの遍路は「時間」と「お金」と「体力」の三つがないとできない。ある意味、ぜいたくな旅である。

そんな限られた人だけが、歩き続けることで、新たな自分を見つけることができるのだろうか。

私もいつかその境地に近づきたい。

  201803211247182d3.jpg


野中広務

少し前(1月26日)、政治家野中広務が亡くなった。大正14年(1925)生、92歳であった。

野中広務の政治家としてのスタートは地元京都府園部町町会議員であり、続いて園部町長を2期務めている。

私は園部町をこのほど訪ねたので(目的は岩崎革也資料展・講演会参加。前号に書いた。)、これも縁と思い、前から気になっていたことを書きとめておきたい。(園部町は2006年合併で南丹市になり、その中心部にあたる。)

野中は町長のあと、自民党京都府議会議員、京都府副知事を経て、代議士に。自民党の実力者・長老として、大臣、内閣官房長官(小渕内閣)のほか、党幹事長(森総理)まで務めた。

私はこんな野中に対して、政治の表と裏を知り尽くした、ダーティ―な「政治屋」のイメージをずっともっていた。しゃべり方は独特のキーの高いだみ声で、歯切れがいいが、その口の裏で何をたくらんでいるかわからないぞ、というような警戒心をぬぐうことはできなかった。

ところが、いつのころからか、野中がオヤ? というような発言をしているのが耳に入ってくるようになった。それは「二度と戦争はしてはならない」「憲法は守らなければならない」というようなものであった。

私は最初聞いた(報道をみた)時は、これは眉つばものだ、「政治屋」特有の二枚舌であろうと、にわかには信ずることができなかった。しかし、その後も、たびたび聞くようになった。

それによれば、野中は陸軍に召集され、終戦は高知で迎えたという。高知と聞いたから、記憶に残っている。そんな戦争体験から、いまの日本の状況を憂い、いろんな発言をしているというのだ。

自民党内ではハト派といわれるようになっていた。その頃から、私の野中に対する見方は少しずつ変わってきた。

野中は2003年、小泉内閣のころ、「抵抗勢力」とみなされ、突然政界を引退した。

しかし、引退後も政界のご意見番的発言はなおさかんに。特に最近では、安倍首相の強引なやりかたについて、強い口調で批判していた。集団的自衛権の解釈変更による安保法の強行採決などについて。

今回、こん話を聞いた。野中は旧制園部中学時代畑田重夫と同級であり、剣道部で一緒だった。

畑田といえば、国際政治学者で元労働者教育協会会長、かつて東京都知事選挙に共産党推薦で2度出馬したことがある。

そこで地元護憲グループが3年ほど前、二人の対談を企画し、野中に打診したところ快諾。対談は安倍批判で盛り上がりっぱなしだったので、司会者が気にしてブレーキをかけようとしたが、かまうものかと、ますますエスカレートしてしまったそうだ。

野中は、最近のアベ政治に対して、心底から危機感をもち、怒りをたぎらせていたのだ。

私は思う。これぞ本当の保守政治家なのだと。河野洋平元総理もそうだ。最近では福田康夫元首相も憲法改正の必要はないと発言をしている。小泉元首相も原発問題を中心にさかんに苦言を呈している。

そういう意味では、安倍はとても保守政治家とは言えない。かつていなかったような超右翼政治家である。こんなデビルがいまの日本政治を牛耳っているのだ。

森友学園問題の核心もここにある。籠池元理事長は安倍と同じ超右翼集団「日本会議」のメンバーであった。このグループが政治を私物化し、国有財産を超安値でかすめとろうとしたのだ。

その過程の中で、籠池も佐川もトカゲのシッポとして切り捨てられた。

野中広務は死んでも死にきれない思いだったにちがいない。きっと亡霊として安倍のもとに現れることだろう。

 20180318203558a26.jpg


 

 

岩崎革也

3月10日、岩崎革也の資料展示と講演会があるというので、京都府南丹市園部町に出かけた。

岩崎革也(1869~1943)の名前を知ったのは、2010年、田中伸尚著「大逆事件―死と生の群像」(岩波書店)を読んでから。幸徳秋水、堺利彦らの運動を経済的に支援した京都丹波の地主、銀行家として書かれていた。

1911年1月、秋水ら12人が大逆事件で死刑(ほかに無期懲役12人)になった直後の4月~5月、堺利彦は約1カ月かけて遺族の慰問に全国をまわった。中村にも来ている。その旅費等の費用300円はすべて革也が出したものであった。

革也は秋水らが発行していた平民新聞にもたびたび多額の寄付をおこない、名前が載っている。経済的基盤を持たない秋水らの運動にとって一大スポンサーであったのだ。

岩崎家は園部町に隣接する旧須知村(のち町、現京丹波町)で酒造業を営む地主であり、父の代に銀行(須知銀行)も設立していた。革也は、須知町長、府会議員も務めている。

明治2年生まれで秋水より2歳上の革也がどのような経過で思想的に秋水らに接近したのかについては、はっきりとした記録が残っていない。

推測できることとしては、青年時代、丹波地方で盛り上がっていた自由民権運動の影響を受け、その後、父の命で株の勉強をするために大阪へ出た時期が、中江兆民が大阪にいた時期(東雲新聞主筆)と重なるので、両者接触があったのではないか。

革也はのちに自分の初孫に「兆民」の名前をつけているので、そのことがうかがえる。兆民の家には当時書生であった秋水がいた。

岩崎家の旧邸宅はずっと地元に残っていた。しかし、京都縦貫道(高速)延伸工事のために、2013年、解体を余儀なくされた。

これを機に、地元高校教員OBらが中心になって「京都丹波岩崎革也研究会」を立ち上げ、邸内に残されていた膨大な書籍、書、日記、書簡などの保存に取り組んできた。

書簡は、秋水、利彦のほか、幸徳千代子、駒太郎、大石誠之助、森近運平、福田英子、北一輝からのものなど多数。書も、利彦、犬養毅、田中正造など。これらは南丹市立文化博物館に一括寄贈・保管されることになった。

3月10日、同博物館において、これらの資料の一部が展示されたほか、研究会メンバーらによる研究発表(原田久、芦田丈司、奥村正男、田中仁)が行われたのだ。

革也の孫で現岩崎家当主95歳の長(つかさ)氏も、京都市内から娘さん、お孫さんと参加をされていた。

研究の目玉、革也の日記は、その抄録が出版され、当日参加者に配布された。全253ページにおよぶ労作である。

しかし、日記は、大正6年(1917)から昭和18年(1943)没するまでしか、残されていなかった。革也は官憲から「要視察人」としてマークされていたので、身の安全と周囲に類が及ぶのを避けるため、それ以前の日記は、いつかの時点で処分したものであろうとされている。

革也の元の名前は茂三郎であり、明治36年(1903)、改名している。この年は、秋水、利彦は万朝報を退社し、平民新聞を立ち上げた年である。「革命」の字をとったところに、熱く燃える胸の内がうかがえるのだが、残念ながら、その思いを綴ったものは残されていない。日記以外には、ほかに書いたものがない。
いつのころからか「秋月」の号も使っている。

革也は京都で最初の社会主義者とも評されているが、その思想的背景は、日記や書簡、また交流人物から類推することしかできず、その輪郭ははっきりしていない。直接運動に身を投ずることはなく、逮捕・投獄もされていない。

いまの時代なら、資産家が遺産の一部を財団法人や基金として自治体等に寄付(寄託)し、それを財源として奨学金として提供するような例がある。

しかし、秋水らを支援した革也の行動は、国家社会を変革するための運動に共鳴し、直接支援したものであり、日本の資産家(資本家)のありようとして、特筆されるべきであろう。日本近代化の過程のなかで、革也のような地方名望家がいたことを。

革也の支援がなかったならば、秋水、利彦らの運動は、もっと早くに挫折していたのではないか、とも思う。

今回展示の中に、「コオトクホカニジュウサンメイシケイ」、明治44年1月18日、大逆事件判決を知らせる利彦からの電報があった。

同年4月、利彦が秋水墓を訪ね中村から出した葉書2通もあった。「行春の緑の底に生き残る」の句を添えて。

また、明治38年、渡米前の秋水から届いた手紙には、妻(千代子)と甥(幸衛)を連れて行くと書いてあった。実際は、妻を連れていかなかったのだが、最初はそんなつもりだったのか。もし連れて行ったのならば、行動も制約されたことであろうから、「余が思想の変化」にも至らなかったのではとも思われた。

革也を通して、100年前の日本の状況がリアルに伝わってきた。

 2018031519561271c.jpg   20180315195936994.jpg

 2018031519534637a.jpg   2018031519535536d.jpg




プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR