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堺利彦の中村

幸徳秋水の盟友堺利彦は一度だけ中村に来ている。

大逆事件では秋水ら12名死刑、12名無期懲役となった。しかし、堺は難を免れた。事件発生当時、他の事件(赤旗事件)で入獄していたからだ。

堺は遺族への遺体の引き渡しなどの措置いっさいを仕切った。処刑から3カ月後の明治44年(1911)4月、これが一段落すると、犠牲者家族の慰問に出かけた。その費用300円は全額岩崎革也(京都丹波須知町)が出した。

堺は、岡山(井原)~熊本を経て自分のふるさと豊津(福岡)に立ち寄ったあと、別府から船に乗り中村に着いた。秋水義兄駒太郎ら幸徳家の人々の歓迎を受けた。

中村から岩崎革也に宛てた葉書が2通。先だって京都府南丹市園部町(旧須知町隣)で開かれた岩崎革也資料展で展示されていた。
文面は以下の通り。

4月23日付 絵葉書(裁判所写真)

今秋水の墓に参りました、
墓は此の裁判所の裏手に在り、此の裁判所の敷地、元は寺院なりしよし、墓の上には桜の老木枝をかはし、後の山には老鶯頻りに鳴き、情趣深き初夏の光景でした、明朝当地出発、高知を経て大阪に着筈、

廿三日 中村にて  とし彦

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4月25日付 葉書

今日は揮毫を所望されて大いに拙筆をふるいました、

 行春の青葉の桜に鶯の啼きしきる処君が墓立つ
 行春の緑の底に生き残る

など口ずさみました、尾行の刑事君からも所望されたので、

たゝずめば藪蚊のいづる若葉陰

と書いてやった、
明日はいよいよ出発します

 廿五日

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海が荒れたため、四万十川河口下田から船が出るのが遅れた。高知に寄ってから、神戸へ向かった。

葉書によれば、秋水墓の上には老木の桜が枝を交わし、鶯が鳴いていた。旧暦の4月といえば、いまの5月ごろ、新緑の情景が目に浮かぶ。

現在、秋水墓の真上には、隣の裁判所庭に植えた桜の大木が枝を伸ばし、秋水を包み込んでいる。

秋水は非道な裁判により命を奪われたが、いまでは裁判所がそれを詫びるように秋水に涙の花びらを降り注いでいる。

恩讐を超えて咲くこの桜をわれわれは「秋水桜」と呼んでいる。昨年から、満開の時期にあわせてこの桜の下に集い、秋水を偲んでいる。

堺が見た桜は老木だったというから、別の山桜であったのだろうけれども、秋水を見守る桜のこころは同じだ。

堺が墓前で詠んだ句

行春の緑の底に生き残る

に込めた思いは何だったのだろうか。

多くの同志を失ってしまったが、自分は生き残ってしまったという、寂しさというか、むなしさを伝えたかったのか。

それとも、

秋水よ、君の魂はこの深い緑の中で生き続けている、と言いたかったのだろうか。

あわただしく秋水を弔ったあと、その後堺は中村には来ていない。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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