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中村町人文化と幸徳秋水(下)

一方、秋水は二歳の時父を失い母子家庭となる。しかし、伯父篤道(父の兄)が後見人となり、一家で同居。また、中継養子駒太郎も迎えたことから、幸徳家は複雑な大家族となった。

そんな中、秋水は八歳で木戸明の遊焉義塾に入るが、周りはみんな士族の子どもたち。安岡秀夫(良亮の子)、桑原順太郎(戒平の子)、小野栄久など。

秀夫の兄雄吉(のち代議士)が東京から送ってくるハイカラな雑誌(「絵入自由新聞」など)から刺激を受けた。

塾の中で秋水は一番優秀であったとはいえ、商人の子はやはり商人の子と見られる。彼らはみんな母方の親戚の子であったが、だからこそコンプレックスだけでは説明できない、わけのわからないモヤモヤが生まれたのではないか。

秋水が入学した中村中学は途中で廃校となり、高知中学に吸収された。安岡秀夫らはそのまま高知に進んだが、秋水は父亡き後の経済事情もあり二年遅れた。このため挫折中退。モヤモヤはさらに濃くなった。

家に帰っても伯父や伯母が差配を振るい、母はじっとがまんしている。

そんな環境、境遇からくるストレスが爆発し、わずか十六歳で家を飛び出し、東京の林有造の門をたたいたのではないか。

その後、中江兆民との運命的出会いがあり、その薫陶を受け、やっと腰を据えて勉強に集中する。自由・平等・博愛思想をたたきき込まれ、非戦平和から人間解放の社会主義に理想を深化させていく。

その過程で堺利彦と平民社を立ち上げ、平民新聞を発行。「平民」、「平民」と、ことあるごとに平民にこだわった心の内が読み取れる。

秋水は自分の親戚の出世頭は熊本神風の乱で斬られた安岡良亮(初代熊本県令)だったと誇らしく語っているように、親類縁者を大切に思う心はずっと持ち続けていた。雄吉、秀夫らとの付き合いも生涯続いている。

秋水の思想形成に最も大きな影響を与えたのは中江兆民。しかし、兆民思想が注ぎ込まれる土壌になったのは、複雑な姻戚関係等秋水の家庭環境にあった。秋水は身分、階級というものに敏感な少年に育った。

その根源は、商人と士族であった両親の異例の縁組にある。

さらに言えば、町人が実力をもち、町人文化が栄えた中村という町だったからこそ、そんな組み合わせが生まれたということである。(終り)

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 秋水生家跡(中村京町)


 二〇一八年一月二十四日、幸徳秋水刑死一〇七年墓前祭記念講演会要旨
 当日の演題は「中村町民文化と幸徳秋水」
 「秋水通信」24号所収





中村町人文化と幸徳秋水(上)

幸徳秋水(伝次郎)は明治四年、両親にとって六番目の末っ子として生まれた。

父幸徳篤明は四代俵屋嘉平治を襲名する商家であり、母多治は医師小野雲了(亮輔)の娘。小野家は代々山路村庄屋をつとめた士族格の家柄で、雲了は小野家三男のため中村に出て医師となっていた。

幕末とはいえ士農工商の身分制度が厳然たる江戸封建時代、最下級商人のもとに最上級士族の娘が嫁ぐことは異例なことであった。

これには中村という町の歴史的背景がある。

一條家、長宗我部に続き、関ケ原合戦のあと、中村を支配したのは山内康豊。土佐藩初代山内一豊は弟康豊に中村を分け与え、独立した中村藩(二万石、のち三万石)とした。

しかし、元禄二年(一六八九)、中村藩五代直久(大膳)が幕府若年寄に抜擢されたにもかかわらず、これを辞退したことを口実に、将軍綱吉から取り潰された(幕府直轄後土佐藩に併合)。

禄を失った家臣は散り散りになり、武家屋敷は残らず取り壊された。城に代って奉行所が置かれ、以後は上級武士二名が高知から交代で来るのみで、中村には藩直属武士がいなくなり、さらに洪水、火事などの災害も加わり、町は荒廃した。

こうした中村を支え、復興したのが町人であった。宇和屋、俵屋、吸田屋などが町老(年寄)になり、商人中心の自治的運営がなされた。藩もこれを認め、中村の町はいわば特別行政区的存在になった。

中村がいまでも「おまち」と呼ばれ、格の高い響きをもつのは、このためである。(「中村市史」)

商人の間では、和歌、俳諧、絵画等が流行した。こんな雰囲気の中、宇和屋から学者遠近鶴鳴が生まれた。

鶴鳴は商いで京阪に出た際、篠崎小竹(大阪)から朱子学、岩垣松苗(京都)から国学を学び、さらに一條家学問と土佐南学の流れも受け継ぎ、私塾鶴鳴塾を開いた。

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 遠近鶴鳴墓

樋口真吉(足軽)、安岡良亮(郷士)、木戸明(吸田屋、のち地下浪人に)などはここで学んだ。町人学者のもとに士族の子弟が通ったのである。

秋水の父篤明も俳諧を趣味とする文人であった。商売、文化両面から幸徳家(俵屋)は一目置かれる存在であった。

小野雲了は格式ばかりうるさく貧乏な士族の家より、生活が楽な商家のほうがいいかもしれないとの配慮もあって、長女多治を幸徳家に嫁にやった。

そんな決断をした雲了ではあるが、多治の妹嘉弥子はやはり自分の姉菊が嫁いでいた郷士安岡家良輝の二男良哲(良亮弟)と縁組させた。

また、小野家には男子がいなかったことから、蕨岡の庄屋桑原家の二男道一と養子縁組し、その嫁には安岡良亮の二女英(ふさ)を迎えた。

英の姉芳(よし)は道一の兄戒平に嫁いでいたので、兄弟と姉妹同士が一緒になったことになる。

さらに、安岡家は木戸家とも姻戚関係にあった。(良亮と木戸明は従兄弟) (続く)


二〇一八年一月二十四日、幸徳秋水刑死一〇七年墓前祭記念講演会要旨
当日の演題は「中村町民文化と幸徳秋水」
「秋水通信」24号所収





満蒙開拓青少年義勇軍(3)

加藤完治は満蒙開拓のイデオローグであり、私にとっては満蒙開拓そのものであった。

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満州に渡った開拓民は最終的に約27万人に及んだ。日本陸軍の最強部隊と言われ、彼らを守るはずであった関東軍はすでに多くが南方に転用され、敗戦時、残っていた部隊もいち早く逃げた。開拓民を置き去りにして。

開拓民は引き上げの混乱の中で約8万人が命を落とした。満州にいた日本人の中では開拓団の犠牲者が圧倒的に多かった。

なぜ、そんなに開拓団を満州に送りこんだのか。加藤完治はその最高責任者の一人である。私はそう思ってきた。

今回、資料館の展示を見て、そのことは真実であることを確認できた。完治が7500人を前に訓話をする写真があった。訓練所は完治そのものであり、生徒はその家族、子どもたちであった。完治は戦後、戦争責任を問われ、公職追放になった。

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しかし、今回、四男弥進彦さんの話を聞き、また自宅で完治の遺品等を見る中で、一人の「人間」加藤完治にもふれることができた。

彼は終生「農業は金もうけではない」と言っていた。農こそすべての源。土を耕し、土とともに生きる。これが彼の思想の原点である。農本主義といわれた。資本主義に対する言葉だ。資本主義は金もうけ。

完治は東京帝大農科大学で那須皓と出会う。また、筧克彦教授の古神道の影響も受けた。天皇中心の忠君愛国、日本人は世界にまれな優れた民族。

農本主義の日本をつくるにも、日本には土地がない。農家の次、三男は農業をやろうにもできない。そんな窮状を訴えられた完治は、大陸に目を向ける。

満州には広大な原野がある。これに鍬を入れ、開墾する。日本の食糧問題の解決にもつながる。「五族協和」の「王道楽土」をつくろう。五族とは、日・満・鮮・漢・蒙。

この考えは、満州事変以前からのものであった。しかし、満州国ができ、その統治を進めていく中で、満蒙開拓の目的は変質していく。

当初、入植地は未開墾地に限定するとされていたが、次第に既墾農地を強権的に奪い取る(安く買い上げる)ようになる。

開拓団員募集も自主的任意のものから、分村方式が採用されてからは、強制的に割り当てられるようになる。昭和17年以降の、高知県江川崎村、十川村などはその典型である。十川村では、いやがる村民から選ぶために、くじ引きまで行われた。(本ブログ2015.8.6など)

青少年義勇軍にしても、教師が子どもたちに「行け 満州へ」と動員をかけるようになる。

開拓団や義勇軍は、ソ連、蒙古との国境防衛、満州国統治安定化のための基本政策(国策)として利用されるようになる。

完治は一農民であり、純粋な思想家、教育者であった。軍事作戦等にはかかわっていない。

実際、完治は、関東軍の作戦変更(南方転用)を知らされていなかった。だから、日本が本当に負けるとは、最後まで思っていなかった。8月15日の狼狽ぶりにそれが表れている。

弥進彦さんは「満蒙開拓は侵略的植民政策ではなかった」とはっきりと言う。それが完治の思いであったのであろう。著書「志を継いで~私の愛農人生~」もいただいた。

今回、牧久著「満蒙開拓、夢はるかなり―加藤完治と東宮鐵男―」という本も3年前出ていることを教えられ、読んだ。(東宮鐵男は、もう一人の「満蒙開拓の父」と言われた軍人)

これまで私が読んだ満州開拓関係の本と違い、加藤完治の生きざまにスポットを当てたもので、興味深かった。「侵略者」、「聖人」でもない、「人間」完治を客観的に描いていた。

だが、これを読んでも明らかなことは、完治の思想の中心に天皇がいたこと。「優秀な日本民族」が「大和魂」をもって土を耕せば「王道楽土」ができるという発想。「大和魂」という言葉をさかんに使っている。

耕す土地はどこでもいい。朝鮮や満州は、日本が戦争により手に入れた土地であるという視点はない。未開の原野があるから、それを耕してやるというような考え方である。

そもそも「満州」(中国では「東北部」)そのものが日本がつくった言葉であるのに、日本人がハワイやアメリカ西海岸に渡っていろんな仕事に就く中で、農業もやるということと、基本においては変わらない発想。

そんな考え方が軍事戦略と結びつけば、他国侵略のための大義名分、スローガンに利用される。

日本敗戦直後、完治は、必死で天皇の詔勅を筆で書き写した。完治は天皇にすがるしかなかった。

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」

気を取り直した完治は、福島県白河の開拓地に入る。
生涯鍬を振るい、土とともに生きた。

私は帰りに、日本農業実践学園本部前に足を運んだ。庭には、鍬で耕す完治の銅像が建てられていた。その後ろには弥栄神社の祠が。

やはり、加藤完治は満蒙開拓の象徴である。(終り)

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(参考)
小学館刊行中の「電子版 宮尾登美子全集」第5巻「朱夏/仁淀川」付録に、「高知の満州開拓団」について、私と秋田和さん(大土佐満州開拓団引き揚げ者)の対談が収録されています。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/label/1000068


満蒙開拓青少年義勇軍(2)

満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の所長は加藤完治であった。加藤は国に対して満蒙開拓をいち早く提言し、「満蒙開拓の父」と言われた人物である。

資料館の係の女性から、近くに加藤完治の息子さんが健在だという話をきいた。まさかと思った。自宅には私設の資料館をつくっているという。

ぜひにと思い、連絡をとってもらうと、見せてもらえるというので、訪ねた。

自宅は、日本農業実践学園の農園の一角の林の中にあった。加藤弥進彦さんといって、完治の四男にあたるという。大正10年生まれの96歳とご高齢で、足が少しご不自由そうだが、かくしゃくとしておられた。

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ひげをたくわえ、オーラをただよわせたお顔は、完治そっくり。学園の名誉校長さんだった。

私の農林中央金庫時代の同僚に加藤完治の孫がいたので、その話をすると、それは自分の息子だとのことで、お互いびっくり、奥様ともども歓迎を受けた。

建物は完治の教え子たちが書斎として寄贈したものだそうだが、いまは自宅兼資料室として使われていた。

玄関には完治が昭和42年、83歳で没する寸前まで使っていたという大きな鍬が置いてあった。持つとズシリと重い。農本主義者の象徴だ。

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畳の部屋三つに完治の資料がびっしり展示されていた。生い立ち(明治17年、東京)からの年譜、写真、書、机など。同志であった石原莞爾将軍(陸軍)、石黒忠篤(農林大臣)などの書、手紙なども。石黒は農林中央金庫の前身産業組合中央金庫の理事長も務めている。

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完治は満蒙開拓のカリスマ的存在であった。

私が最も知りたかったのは、悲惨な結末に終わった満蒙開拓を完治は敗戦時どうみていたのか、その姿である。

完治は呆然自失の状態であったという。

弥進彦さんは学徒出陣組(海軍)。高知で終戦を迎え(これも驚いた)、家に戻ると、父は畳に頭をすりつけるようにして、天皇の詔勅を筆で書き写していたという。「帰ったか」とだけ言って、何枚も何枚も。必死の形相で。

昭和2年、完治は国の全面支援をえて、農業青年育成教育を目的とした日本国民高等学校を茨城県友部に設立。同10年、ここ内原に移転。いまの日本農業実践学園の前身だ。

昭和12年、自らが提言した満蒙開拓青少年義勇軍構想が国に認められ、同訓練所を学校に隣接してつくる。以後は、訓練所のほうが主体になる。満蒙開拓に邁進する。(続く)

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満蒙開拓青少年義勇軍(1)

水戸市周辺には前から一度行きたいと思っていたところがあった。内原である。

内原は2005年、水戸市と合併したが、それまでは東茨城郡内原町であった。内原と言えば満蒙開拓、満蒙開拓といえば内原と言われるほどの「満蒙開拓の聖地」である。

昭和6年、満州事変、7年、満州国誕生。

満州試験移民(武装移民)を経て11年から、「20カ年100万戸移民計画」に基づく、国策による本格的な移民事業(農業移民)が始まる。

内原には、満州に向かう開拓者たちの幹部訓練所など各種訓練所がつくられた。その中の一つで、最も大規模だったのが満蒙開拓青少年義勇軍訓練所。

昭和13年から、一般の開拓団とは別に、15歳から19歳までの青少年、主に農家の次、三男を対象にした義勇軍を編成することになり、ここで3カ月訓練を行った。さらに満州で3年間、現地訓練を受けたあと、一般開拓団に合流するなど、実際の開拓作業に入ったのである。

義勇軍と勇ましい名前ではあるが、軍隊ではない。全国から募集(志願)され、終戦までの間に、8万6,530人が満州に送られた(高知県からは1331人)。

内原駅は水戸駅から2つ東京寄り。駅からタクシーですぐのところに資料館があった。

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正式名称は「水戸市内原郷土史義勇軍資料館」。図書館と併設されていた。入場無料。地元郷土史全般の展示の中のメインが義勇軍関係であった。

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満州国は日本の傀儡国家であり、満蒙開拓は、最初の提唱者や個々の開拓民の意向とは別に、満州国統治(支配)のために利用された政策(国策)であった。その歴史評価は定まっているといえる。

しかし、展示はそんな評価には触れず、かといって肯定礼賛するのでもなく、当時のありのままの姿を再現したものであった。それだけに、生々しかった。スローガン、ポスター、作業着、写真・・・

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庭には、訓練所のシンボル日輪兵舎(宿舎)が再現されていた。中を覗くと、当時にスリップした。こんな円形の兵舎が300棟もつくられた。

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展示は、歴史的事実そのまま、これでいいと思う。これを見て、どう評価するかは見る者が判断することだ。

資料館は公民館隣に2003年つくられたものであるが、実際の訓練所はここから2キロほど離れた場所にあった。

当時の正門跡は桜に囲まれた公園のようになっていた。その中心に記念碑がそびえていた。

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訓練を終えた青少年たちは、ここから隊列を組んで、内原駅まで歩き、満州に向かった。ラッパと太鼓部隊を先頭に、意気揚々と。白い布で包んだ鍬を抱いて。鍬の戦士であった。

駅までの道は「渡満道路」と呼ばれた。(続く)

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水戸っぽ

茨城県水戸市には、東京にいたころ、二度行ったことがある。一度は、梅の時期に偕楽園へ。もう一度は、仕事で。しかし、どちらもサラリと、だった。

今回、久しぶりに行くことになり、しかも二泊もするので、本命の会議(脱原発をめざす首長会議)の前後に、少し歩いてみることにした。

水戸駅前のホテルの近くが、ぐるり水戸城跡であった。まず、藩校弘道館を覗いた。付近の道路には「水戸学の道」の看板があちこちに立っていた。

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「水戸学」といえば、徳川光圀(黄門様)と幕末の徳川斉彬。儒学思想の一つで、尊王攘夷運動の行動原理のベースにもなった。

水戸藩は徳川御三家の一つであり、格は高い。しかし、財政基盤は弱かった。質素、倹約につとめたようで、城と言っても派手な天守閣もない地味なものだった。

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本丸跡に、水戸一高があり、入ってみた。正面玄関の石に「堅忍力行」「至誠一貫」の校是が彫られていた。

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この高校の卒業生は、私の職場の同僚先輩に多くいた。

理屈っぽい、怒りっぽい、飽きっぽい、の「三ぽい」のを「水戸っぽ」と言うらしい。頑固真面目で譲らない。反面、人間味があり憎めない、そんな人たちが多かったように思う。

茨城弁は、高校野球で有名になった木内監督(取手二高、常総学園)の独特のイントネーションのあるじゃべり方がその典型だと、とその一人が、笑いながら教えてくれた。

また、一途さは、極端な行動をとらせる。大老井伊直弼を斬った桜田門外の変や昭和維新の血盟団事件のような「テロ」は、水戸っぽによるものだった、とも。

「土佐っぽ」という言葉もあったが、いまはほとんど使われない。死語に等しい。それにくらべて、「水戸っぽ」ははるかに激情的だ。だから、いまも生きている。

東海村元村長の村上達也さんも水戸一高出身だ。日本における原発発祥の地の村長でありながら、原発は地域の発展のためにはないほうがよかったと、堂々と言う。

また、東海村の人口は約3万8千人。四万十市(3万4千人)よりも多い。なぜ、「町」や「市」に変えなかったのかと聞くと、「ムラ」は人の集まり=共同体の基本単位であり、地方自治の原点なのだから、と言われた。

水戸っぽ 万歳。

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原発の地元とは

4月28日、脱原発をめざす首長会議総会が茨城県水戸市で開かれ、出席してきた。

今回水戸市が開催地に選ばれたのは、「原発の地元」を拡大する画期的な協定が茨城県で結ばれたから。

即ち、茨城県東海村にある日本原子力発電(原電)の東海第二原発をめぐり、東海村を含む30キロ圏内にある6市村(ほかに、日立市、常陸太田市、ひたちなか市、那珂市、水戸市)と茨城県は、3月29日、再稼働のさいの事前了解権を盛り込んだ新協定書を原電と結んだ。

これまでの原発再稼働においては、事前了解を得なければならない「地元」といえば「立地自治体」(市町村と県)に限定されてきた。例えば、愛媛県伊方原発では、伊方町と愛媛県が「同意」することによって再稼働した。(いままた差し止め休止中)

しかし、原発でいったん事故が起これば、「地元」だけでなく、その周辺の地域にも同じような被害が及ぶことは福島で経験済みである。「地元」を原発自治体に限定することの意味はなく、原発事故に境界線を設けることはできない。

これは誰もがわかっていることであるが、原子力ムラでは、原発稼働をしやすくしたいがために、机上の世界で「地元」をつくっているに過ぎない。

脱原発をめざす首長会議の世話人の一人である村上達也東海村前村長は、現職時代、周辺5市村に呼びかけ「原子力所在地域首長懇談会」(首長懇)を2012年につくった。村上さんの、この「置き土産」が今回の協定として結実したのである。

東海村は原発立地自治体として、特別交付税などで多くの「優遇」とともに「リスク」をかかえてきたが、この問題をわが村だけの問題とせず、周辺にも積極的に問題提起をした。

東海第二原発から30キロ圏内には約100万人が住んでいる。今回の協定は、こうした人たちも東海村と同じ「地元」として、認めさせたことになる。(さらに50キロ圏内には250万人)

日本原電は、昭和32年、電力9社によって設立された、いわば日本の原発の「パイオニア」であるが、その後、多くの原発は各電力会社単独でつくられてきた。

経営基盤が弱い特殊な立場であるがゆえに、今回の協定を受け容れざるをえなかったという面も指摘されている。また、協定の実際の運用には、いくつかの課題も残している。

しかし、これまで「非常識な常識」とされてきた「原発の地元」の概念に風穴をあけたことの意義は大きく、今後他の原発再稼働にも影響を与えることは必至であると思われる。

四万十市は 伊方原発から50キロ圏内。
四万十川の 愛媛県支流の源流域は30キロ圏内(宇和島市)。

四万十市も伊方原発の「地元」である。


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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