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川谷銀太郎

前回書いたように、慶應4年2月発生した堺事件では、フランス水兵への発砲・殺傷の責任を取らされた土佐藩兵20名が切腹を命じられた。しかし、切腹は11名で中止となった。

残った9名は土佐に戻され、改めて渡川以西への流罪とされた。9名の名前は、妙国寺慰霊碑の側面に刻まれていた。橋詰愛平から川谷銀太郎まで。

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渡川(四万十川)以西への流罪は、土佐藩の刑罰の一つとされていたもので、当時、高知の城下から幡多がいかに僻遠の地とみられていたかがわかる。

同年5月、9人は、中村の川向うの入田(にゅうた)に送られた。

入田では庄屋の宇賀祐之進が受け入れ、見正寺に預けた。9名は、村人たちに学問や武術を教えるなどして、交流をはかった。

まもなく、明治改元の恩赦があり、11月には無罪放免となり、それぞれ地元の高知市周辺に戻ったので、入田にいたのはわずか半年ばかり。

しかし、戻ったのは8名であった。川谷銀太郎がこの間没している。病死と記録されているが、原因は諸説あり、確定はされていない。

ただ、はっきりしていることは、地元の相撲大会に出たことが、原因の一つらしいこと。

8月15日、恒例の宮相撲が隣村具同の八社宮境内で行われた。川を挟んで中村側との対抗戦であった。

入田側の形勢が悪くなったことから、銀太郎が助っ人として土俵にあがった。
銀太郎は筋骨隆々であったという。次々に、相手を負かしてしまう。

形勢が悪くなった中村側には、「大阪関脇」、蕨岡の巨漢駒が岳がいた。さすがの銀太郎もプロの力士にはかなわない。駒が岳は、銀太郎をかんぬきにして、締め付け、振り回した。

真実、この場面がどうであったのかはわからない。はやり病にかかったという説もある。しかし、このケガ(傷)が原因であったことは間違いないようである。銀太郎は9月5日死ぬ。26歳。

銀太郎は香美郡山北村の出であった。知らせを受けた母が遠路かけつけるが、直前息を引き取った。

妙国寺の切腹では永らえた命をあっけなく落としてしまう。

入田の村人たちは、銀太郎をあわれんで、墓を建てた。母は涙ながらに、形見の刀をかついで帰ったという。

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地元では、以後、没50年、100年供養と、今日にいたるまで墓を大切に祭っている。

そして、今年8月5日には、150年供養を行うことになっている。

新ロイヤルホテル四万十で行われる前夜祭には、堺で事件犠牲者の顕彰活動に取り組んでくれている人たち十数人を迎え、紙芝居をしてもらうなど、交流をはることになっている。

また、当日も、墓前供養に続き、入田桜堤公園に会場を移して、野本亮・高知県歴史民俗資料館学芸課長による講演も行われる。

ぜひ、おいでください。

なお、四万十市では、いま幕末維新博において、幕末維新~明治に活躍した地元の先人14人(幸徳秋水、樋口真吉、安岡良亮ら)の事績を公民館に紹介展示しているが、この中に、地元に縁がある人物として、川谷銀太郎も入れている。これもごらんいただきたい。

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堺事件(2)

堺には、以前仕事で何度か来たことはなるが、名所などをゆっくりと見たことはなかったので、いい機会と思い、少しまわってみた。

堺市立博物館に行ってみた。仁徳天皇陵の目の前、百舌鳥古墳群の緑の中(大仙公園)にあった。

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堺の海岸部は工業地帯になっているので、堺には緑が少ないというイメージをもっていたが、こんなに緑があることに驚いた。

ただし、仁徳天皇陵は平面から見れば、堀の水の向こうにこんもりした森があるだけ。有名な前方後円墳の形は、空からでないとわからないのは仕方がないこと。写真で想像した。

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常設展は、古墳時代、ここで製造開始されたという須恵器などの展示が中心であったが、ちょうど企画展「堺県とその時代」がおこなわれていた。

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堺県は、堺事件がおこった慶應4年2月(1868)4か月後の6月誕生。9月には明治に改元。和泉、河内、大和、いまでいえば、大阪府の大半(摂津以外)と奈良県という、広大なエリアを管轄していた。当時、堺のステータスがいかに高かったかがうかがえる。

しかし、その後、明治14年、大阪府に編入されてしまった。以後、堺は大阪、神戸の後塵を配する。

企画展では、堺事件についても解説。妙国寺所蔵の土佐藩兵隊長、箕浦猪之吉、西村佐平次の陣笠や隊の小旗などが展示されていた。

戦前のものと思われる、十一烈士墓の絵葉書も。当時は、堺を代表する名所史跡であったのだ。いまは、忘れられているが・・・

堺と言えば千利休。その関連展示も。庭には利休像と茶室もあった。市内別のところの「さかい利晶の杜」(利休と与謝野晶子の展示館)隣りには、利休屋敷跡も残っていた。

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鉄砲が伝来し、堺がその製造拠点になる。信長、秀吉、家康・・・戦国武将は堺をおさえることがポイントになった。

夕刻迫るころ、堺市役所21F展望室にも登った。海が見える。小さくなった旧堺港もかすかに見える。

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中世以降、日本の対外交易の窓口は堺であった。中国、琉球、南蛮へと。

応仁2年、前関白一條教房が中村に向かったのも堺からであった。以後、中村(下田)は、遣明船南海路の中継基地の一つになる。

江戸期以降、四万十川河口の下田は、流域の物資の積み出し港となり、堺との間を船が往復。多くの廻船問屋が競い合った。

いまも祭りで登場する太鼓台(山車)も堺から伝わってもの。堺市立博物館にも同じ形の太鼓台(堺では「ふとん太鼓」と言う)が展示されていた。

堺と中村との縁。

今年8月29日、四万十市民大学に、元堺市立博物館学芸員吉田豊氏を迎え「戦国時代の京都・堺」と題した講演をしてもらうことになっている。(終り)

堺事件 ( 1 )

6月18日、大阪北部地震発生。空き家にしている大阪市内の妻の実家の被害が気になったので、確認のため23日、車で帰った。

家の周辺は震度5弱であったようだが、幸い、家の外も内も無傷であった。翌日は、後片付けを覚悟していたが、その必要がなくなったので、堺を訪ねることにした。

というのも、今年は堺事件(慶応4年、1868年2月)から150年。高知県立歴史民俗資料館では、1月20日~3月25日、特別企画展「堺事件~150年の時を経て」が開かれ、記念講演があった2月17日、行ってきた。

また、6月2日には、同資料館野本亮学芸課長を中村に迎え、同名の記念講演会を開いた。(主催・西南四国歴史文化研究会)

堺事件とは、戊辰戦争で幕府軍退退後、堺取り締まりの任に当たっていた土佐藩兵とフランス海軍水兵がおこした衝突事件のこと。

土佐藩兵が堺港でフランス兵16名を殺傷(死亡11名)したことから、外交問題に発展。苦境に立たされた土佐藩は、発砲した者のち20名に切腹を命じた。隊長2名(箕浦猪之吉、西村佐平次)以外の18名はくじ引きで選んだ。

切腹は、堺の妙国寺で行われた。11人の切腹・介錯が終わったところで、立ち会っていたフランス側から「もういい」の意向が伝えられた。

日蓮宗妙国寺は数ある寺院の中でも、堺を代表する寺であった。広い庭。織田信長が送ったと伝わる、大きなソテツも植わっていた。

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事件生き残りの一人横田辰五郎は後年、事件の詳細を絵と文章で記録しているが、その絵の中の一枚は、妙国寺庭での切腹のもようをリアルに描いている。その舞台がそのまま残っていた。ここで、11人は無念の切腹をしたのだ。

庭の奥には、11人の慰霊碑が建てられていた。中央は十一人の名前が刻まれた碑。左は「土佐藩十一烈士之英霊」、右は「佛國遭難将兵慰霊碑」。

梅雨の晴れ間の暑い日差しが注ぐ。合掌。

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十一人の墓は道路向かいの宝珠院にある。妙国寺側の歩道には、その墓を示す高い石柱が建っていた。

「左 とさのさむらいはらきりのはか」「明治戊辰殉難土州藩士墓所」と刻まれている。

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道路を渡ると、「戊辰殉難土佐十一烈士墓所」の矢印の石柱。宝珠院入口にも「史蹟 土佐十一烈士墓」の石。

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しかし、寺の入口はシャッターで閉じられていた。中は幼稚園になっていた。お隣に聞くと、住職は普段は他に住んでおられる。平日ならば、幼稚園の先生が中に入れてくれ、墓も見られるのに、と。

シャッター越しの遠目に、11基並ぶ墓のうち端の2基が木の下にかすかに見えた。外から合掌。

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堺事件は、幕末の攘夷思想の高まりの中でおこった偶発的なトラブルであったが、責任を取らされたのは、いつもの通り、末端の兵士(隊長2名以外は、軽格の下級武士)であった。

事件のもようは、森鴎外、大岡昇平が小説にしている。(続く)

沖縄慰霊の日

きょう6月23日は、沖縄慰霊の日。

昭和20年、日本で唯一の本土戦となった沖縄戦において、日本側の組織的抵抗が終わった日、降伏の日である。この日は、糸満市にある摩文仁の丘では、毎年慰霊式典が行われている。沖縄県では、休日となる。

私は今年2月、ここを訪ねた。平和の礎(いしじ)が建てられていた。

沖縄戦で、約20万人の県民が死んだ。日本軍によって米軍の盾にされ、自殺を強要された者も多い。本土防衛の名のもとに、犠牲を強要されたのだ。

戦後は、アメリカが占領。銃剣とブルドーザーにより、米軍基地が次々とつくられた。

1950年、サンフランシスコ条約で日本が「独立」したさいも、日本政府は沖縄を見捨て、沖縄では日本の法律が適用されない、アメリカの意のままになる「日米地位協定」を結んだ。その後の沖縄本土復帰後もこの協定は続いている。

きのう夜9時のNHKニュースで、、あす沖縄慰霊の日として、報道していたが、違和感を覚えた。

身元がわからない遺骨がいまでもいまでもたくさん発見されている。戦後73年たち、当時を知る人は少なくなった。若い人たちが、語り部として、引き継いでいかなければならないと・・・

報道では、いまの沖縄の米軍基地の現状は触れられなかった。本土にあったアメリカ海兵隊基地が、地元の反対にあい、沖縄に移されるなど、戦後も基地は増え続け、いまでは国内米軍基地の74%が沖縄に集中している。

なのに、さらに辺野古に新基地を日本政府はつくってやろうとしている。沖縄に犠牲を押し付ける。

沖縄戦における沖縄差別の構造はずっと続き、さらに増幅されている。

なのに、NHKは、沖縄戦を過去のものとして、記憶の風化が進んでいるということしか言わない。沖縄の基地の現状にはふれない。NHKの役割は、沖縄の現実から国民の目をそらさせること。

沖縄戦を過去の「記憶」レベルに矮小化してはいけない。
沖縄戦はいまも続いている「現実」なのだ。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-414.html


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がんばれ枚方市

きのうの大阪北部地震で本市姉妹都市の枚方市が心配だ。

枚方市は震源地の高槻市と淀川をはさんで接している。報道では、市内の死者はなく、家の倒壊などもなかったようである。

しかし、家具や食器が散乱した家庭が多かった。また、電気、水道、ガスなども一時ストップ。市は53カ所に避難場所を設置したようだ。

枚方市は四万十市の姉妹都市である。昭和44年、旧中村市時代、縁組協定をした。以来、各分野で市民同士の流を進めてきている。

近年では、毎年、10月、枚方市民向けの物産市に四万十市の特産品をもって参加しており、四万十川のアユやアオノリなどが喜ばれている。

枚方市は、中村市のあとも、北海道別海町、沖縄県名護市とも姉妹都市縁組の輪を広げた。そこで、いまは枚方市が軸となって、4つの市と町の間で、友好都市サミットを持ち回りで開いている。

私が市長時代の2011年には、サミットを別海町で開いた。この時は、4市町間で「広域的大規模災害における友好都市間の相互応援協定」を結んだ。いざという時は、互いに応援しようという内容だ。

まさに、今回のような自然災害がこの場合にあたる。

きのうの四万十市議会での中平市長の答弁によれば、枚方市と連絡をとりあって情報収集にあたっているようだ。

その後、応援物資を送るとか、なにか支援対応をおこなったのか気になるところだ。

困った時こそ、助け合う。これが、兄弟姉妹である。

がんばれ枚方市。
早い復旧を祈っている。

上ノ加江

6月16日、高知市に向かう途中、少し時間があったので、高速を中土佐インターで降り、久礼に昨年できた「道の駅」前を通り、初めて上ノ加江を訪ねた。

以前から、その地名に興味があり、一度行ってみたいと思っていたから。

というのも、土佐清水市には下ノ加江がある。私の家からは、市境の伊豆田峠を越えたすぐの港町で、足摺岬などに行く途中、いつも通る。時々、干物などの海産物も買いに行くので、なじみ深い。昭和29年、合併で土佐清水市になる以前は下ノ加江町であった。

上ノ加江と下ノ加江・・・双子のような名前である。なのに、二つは遠く離れている。

同じ地名に「上」「中」「下」を付けて分けることはどこでもある。私の住む四万十市八束(旧村)にも「上木戸」「下木戸」がある。また、実崎も上組、中組、下組と言って、回覧板などを分けている。

それらに共通しているのは、互いに隣接していること。私にはそのイメージがずっとある。

なのに、私の家から上ノ加江に行くには、大方、佐賀、窪川、久礼を通らなければならない。いまでこそ、窪川から高速に乗れるので、だいぶ早くなったが、それでも今回1時間40分かかった。以前なら、ゆうに2時間を超えただろう。

中土佐町の中心部の久礼は高速道路、国道、鉄道も通っているが、上ノ加江はそこから海岸沿いに入ったところである。いまは道がよくなったので、10分ほどで行けたが、道はその先の矢井賀までの行き止まり(今回そこまで行った)であるから、普段は地元の人しか通らない。

上ノ加江も港町であった。昭和32年、久礼町と合併して中土佐町になる前は上ノ加江町(村ではない)であったというぐらいだから、かなり人口もあったようだが、その日は高齢者の人影がポツリ、ポツリ見られるくらいで、シーンとして不気味さを感じるくらいであった。

下ノ加江も同じであり、高知県の漁村はどこもそうである。山村、漁村を問わず、どこも過疎高齢化が進み、その限界近づきつつある。

ここもかつては、若者があふれた、港町であったろうに・・・

そうなのだ。
二つは、海に由来する名前なのだ。最近、土佐の「海の道」の歴史に関する本を読んでいてわかった。

いま人間の移動は陸路中心である。特に、県内移動は陸路しかない。だから、距離感覚等も陸路の発想になるのはやむをえないことだろう。

しかし、かつては海路が中心であった。古代から、すぐ最近の昭和前半くらいまで。

「江」とは「入り江=港」のことである。海の道からすれば、二つの距離ぐっと縮まる。

といっても、二つの港は隣接している訳ではない。その間に、いくつかの港があるのに???

たしかに、沿岸伝いで進めばそうである。しかし、沖に出れば違う。沖から見れば、ふたつの港までは等距離になる。沖からの感覚では隣なのだろう。

しかし、隣はいくつもあるのに、なぜ、二つがペアに選ばれたのか。何か共通するものがあったのではないだろうか。

これについては、黒潮町の「上川口」と土佐清水市の「下川口」についても言える。二つとも同じ港町であるが、陸路でいえば、かなり離れている。

それぞれの、「何か」を知りたい。
ご存知のかたは、ご教示ください。

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坂本清馬の中村

大逆事件最後の生き証人坂本清馬は、中村で一九七五年一月一五日、八九歳で没。

墓は三年後、秋水が眠る正福寺幸徳家墓の同じ並び、裁判所壁際に、大逆事件の真実をあきらかにする会、中村地区労働組合協議会、坂本清馬翁を追悼する会の三者によって建てられた。

清馬は一八八五年、母の実家室戸市で生まれた。坂本は母芳の姓。父岡村幸三郎は中村生まれの紺屋職人で、二人は高知市で知り合ったとされているが、両家の墓の所在、親類縁者の消息等は不明。清馬も口にしなかったという。

清馬は獄中二五年を経て、いろんな仕事を転々としたが、最終的には戦中、中村に落ち着く。

中村では敗戦の翌年一月二四日から秋水墓前供養(法要)が始まる。最初は幸徳家行事として富治(駒太郎長男)が主催したものだが、中村に清馬がいたからこそ早々に実現したものである。

清馬の性格は生来、直情径行、激情型で、秋水への接近・断絶がそうであった。無実を叫び続け、獄中から司法大臣に上申書を出すほど。人間不信から、性格は一層歪められ、ますます狷介、巌窟王の形相に。仮出獄も一番遅れた。

戦後まもなく、独自の「日本皇国憲法草案」を発表。革命研究にも熱心で、新生中国、毛沢東に関心を持ち、日中友好協会中村支部を結成。

公民館建設、結核療養所(のちの県立西南病院)誘致などの「住民運動」にも取り組んだが、周りと一緒にというよりも独断専行面が強かった。

中村町議会補欠選挙では上がったが、本選では落ちたことに、それが表れている。清馬は一般市民にとって「むずかしい」「こわい」「変わった」人であった。

一九六〇年、秋水五十年祭では実行委員会事務局長を務め(会長は市長)、盛り上がりをみせ、これをステップ再審請求に立ち上がる。

東京には裁判支援組織、大逆事件の真実をあきらかにする会ができた。中村地区労など地元団体政党等も「中村市大逆事件の真実をあきらかにする会」の名前で、全面支援した。

しかし、再審運動は順調に進んだ訳ではない。清馬の強烈な個性から、何度もぶつかった。森長英三郎弁護士たちも手を焼き、なだめすかしながらであった。

地元の活動家たちもだんだんと清馬を避けるようになる。「大逆事件生き証人」「闘う人」としては認めても、目の前の「人間」としては受け容れられない。地元で清馬と親身に付き合う者、理解者は限られてくる。経済基盤をもたない清馬は、一部の人たちに支えられた。愛犬の黒い犬とともに。

清馬は死後もずっと師秋水の陰の存在であった。墓には看板もなく、清馬がすぐそばに眠っていることに気づく者は少なかった。
没四〇年の二〇一五年、はじめて秋水との合同墓前祭とし(以後五年毎)、命日(秋水より九日早い)には有志で墓前供養を始めた。二〇一七年には、墓地入口看板を秋水・清馬連名とし、清馬説明板も設置した。

秋水は処刑され名を残した。清馬は最後まで闘い続けたが、地元でも名前は忘れかけられている。

幸徳秋水を顕彰する会は秋水だけの会ではない。「門人清馬」(清馬の言葉)を含む、いや大逆事件で「いけにえ」にされた人たち、さらには不当な人権弾圧で犠牲になった人たちすべての「呻き」を広く伝える会であらなければならないと思う。


 管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会
 機関誌 20号 2018年6月 掲載

坂本清馬

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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