FC2ブログ

中か 中村か

中村市は平成十七年(二〇〇五)、西土佐村と合併し四万十市となり、自治体名称(行政名)は変わったが、中村駅、中村高校、中村税務署などはそのままであるように、当然ながら、市の中心部の地名呼称としての中村は不変である。
しかし、かつて当該地名が「中」なのか「中村」なのかという、大議論があった。


  中村から中村町へ

慶応から明治への改元を経て、新政府は明治四年(一八八一)廃藩置県を断行。地方制度は種々改変されるが、明治二十一年発布、同二十二年(一八八九)四月一日施行の市制・町村制によって確立された。

高知県下は、高知市以外は百九十一村に、うち幡多郡は三十六村に編成された。この時、「中村」も誕生した。

中村にはかつて幡多荘を支配する一條家御所が置かれ、また明治二十四年、幡多郡庁も置かれ、名実ともに幡多の中心地であった。

「まち」の規模・集積等においても高知市に次ぎ、県下村の中では別格の存在であった。

ところが、その後、後免、伊野、安芸、山田が相次いで「町」になった。中村もノンビリしておれなくなった。

明治三十一年八月、高添朝治村長(二代目)は議会に「中村を中町に変更せんとす・・・」との諮問案を出した。

「村」を「町」に変更することに異論はなかったが、「中町」とすることは大問題となった。

しかし、村長の手続きに間違いはなかった。内務省の定めでは、「町」「村」は自治体の区別名称であるから、地名が「中」とされていることは疑問の余地がない。

だが、住民にとっては、普段、「中」と誰も呼ぶことはないので違和感がある。疑問や反対意見が相次いだ。

それならば、最初の登録手続きにおいて「中村村」にしておかなければならなかったのに、それをしなかったのは、「村村」と村が重複するので、語呂と体裁が悪かったためであろうが、その時はだれも気付かなかった。

中村という地名は全国にも多く、その地域の中心地、中央という意味であり、ここが幡多郡の中心(幡多荘の本郷)という意味であることは明らかである。

ここが中村と呼ばれだしたのは、一條家下向以前からで、弘安四年(一二八一)の金剛福寺文書にその名が最初に登場している。

ただ、中村がややこしいのは、江戸元禄期以降、この地域(四万十川本流と支流後川に挟まれたエリア)は中村(郷分)と中村町(町分)に分かれ、さらに右山、不破、角崎を加えた五つの集落(邑、ムラ)で構成されていた。

その中心は中村町(町分)であったから、最初から自治体名も中村町にしておけば問題はなかった。

結局、「中町」では具合が悪い。かといって「村」のままでは鄙びたイメージがあり、中村の格にはふさわしくないということで、村長は「中村町」に手続きをやりなおし、明治三十一年十一月十日付高知県知事告示を受けた。


 中村市から四万十市へ

戦後の昭和二十八年、中村町は隣接の東山村と下田町に呼びかけ、市政移行協議を初めた。

さらに周辺も加わり、合併は十一町村に及ぶことになった。

問題は市の名前である。合併の軸になるのは誰がみても中村町である。しかし、中村町側は他に気を使って、「一条市」「南海市」などの案を用意していた。

ところが、案ずるより産むがやすし。「中村市でいいではないか」の声が多く、あっさり、満場一致で「中村市」に決まってしまった。暫定市役所を旧中村町役場に置くことも。昭和二十九年三月三十一日新市発足。

中村という名前は、中村の人たちが思う以上に、周辺に浸透し、認知、歓迎されていたということである。

だが、平成十七年(二〇〇五)、中村市から四万十市への三度目の合併においては、中村の名前はあっけなく消える。人口にすれば約十分の一に過ぎない西土佐村の要求を受け入れたためである。

西土佐村は幡多郡とはいえ愛媛県に接していることから、経済的には中村よりも宇和島との結びつきが強い。

財政的に問題を抱えていた中村市は、政府の合併優遇策に喉から手が出た。

事の重大さに気づいた市民から不満の声が出たが、あとの祭り。旧中村町内の町名の頭に中村を付けることで調整した。中村京町、中村一条通、中村小姓町のように。

以上の経過を見て考えられるのは、中村は江戸元禄期以降、町人のまちであったということ。

一條家、長宗我部を経て、中村を支配したのは山内康豊であった。康豊は兄一豊から中村を分け与えられ中村藩をおこした。

しかし、元禄二年(一六八九)、中村藩は徳川綱吉の命で取り潰される。家臣は散り散りになる。

以降、中村には奉行所が置かれ、高知城下から転勤族の上級士族が来るだけで藩直属家臣はいなくなり、町人(商人)中心のまちになる。

町人の自治的運営がなされ、藩もこれを認め、特別行政区的存在になるが、その分、求心力(権力)をもつリーダーがいない。町人は商売において、周辺地域(郷分)の世話になっているので、目立つ行動は控える。遠慮深い。しかし、したたかで名より実をとる。

明治二十二年、県下第二のまちでありながら「中村町」として手を上げなかったこと、戦後の合併においても「中村」の名前にこだわらなかったのも、そんなところにあるのではないかと思われる。

なお、相馬中村藩お膝元の中村は、明治二十二年、宇多郡(のち相馬郡)中村町となったが、昭和二十九年合併、相馬市に。

また、秀吉の地元尾張の中村は明治二十二年、名古屋市(名古屋駅周辺の中心部)となり、昭和十二年、中村区(行政区)として半独立している。

 昭和初期の中村
  昭和初期の中村

 参考文献 『中村町史』、『中村市史』 

「土佐史談」268号 2018年7月 所収
 


陽水と秋水(3)

以上は、先に「文芸はた」第4号に書いたものだが、以下は、書き足りなかったこと、強く言いたかったことを、まとめとして述べておきたい。

私が一番気になっているのは、武田鉄矢が書いていること((1)に引用)。鉄矢は、これまでにも何度かスポーツ新聞などに同じことを書いている。それが結構流布している。

つまり、「陽水という名前は、幸徳秋水を慕っていた祖父の気持ちをくんで父親がつけたと、陽水の母親(フジ)から生前聞いた」ということ。

しかし、私が調べた限りでは、そのことを裏付ける記録、資料、証言等には出会わなかった。

陽水の祖父廣之助は明治17年生まれで秋水(明治4年生)より13歳下。秋水が明治44年、39歳で刑死した時、廣之助26歳であったから、刺激を受けやすい年であったことはわかる。

しかし、おかしいのは、鉄矢が廣之助は秋水が刑死したことで土佐がいやになって外に出たと書いていること。だが、廣之助が一家を上げて神戸に出たのは昭和9年頃であることから、刑死から23年後ということになり、不自然である。

また、神戸に出たのは家業が行き詰ったためであり、その原因は廣之助がいわゆる人のいい旦那(いわゆるボンボン)だったためという証言がある。そんな廣之助は秋水の思想に共鳴するようなタイプには思えない。

しかも、調査の中で、陽水と同じ「水」の名をもつ父「若水」の名付け親は廣之助ではなく別にいた(親戚の千谷林三郎)ことがわかった。

この名付け親が「若水」と名付けるさい、秋水の影響を受けたのではないかと推測するほうが興味深い。

しかし、これについても、裏付けるものがないことは(1)に書いた通りである。

「若水」とは、「若い秋水」とも読めるので、想像はふくらむが、ほかにどんな意味があるのか調べてみた。

1.若水=わかみず  宮中で天皇に奉ずる水

2.若水=如水  老子に「上善は水の如し」という有名な言葉がある。「如し(ごとし)」は原文では「若し」である。

千谷林三郎は敬虔なクリスチャンであったというから、この2つには結びつかないようなイメージがあるが、当時知られていた言葉なら、これを名前に使ったということも考えられない訳ではない。

一方、井上家と幸徳家は親戚関係にあったということについては、武田鉄矢は何も書いていないが、これが事実であることは、はっきりした。

両家が親戚になったのは、井上廣之助が三宅小竹と結婚したことによる。小竹の姉小八重が秋水のハトコ(またいとこ)にあたる山崎半次郎と夫婦になっていたから、両家がつながったのだ(血縁関係はない)。

廣之助―小竹の間に長子若水が生まれたのは明治41年だから、結婚はその前年あたりであろう。明治41年といえば秋水が刑死する3年前。千谷林三郎が秋水を意識していた可能性はあるだろうが、推測の域を出ない。

さらに若水。

若水は苦労人で実直な歯科医という感じである。井上家の長男として、幸徳家とつながっていることは、知っていたものと思われる。

秋水が「秋」だから、対比して「春=陽」とつけたのか。それとも、単に自分と同じ「水」をつけただけなのか。

さらに陽水。

父のふるさと土佐佐賀に若いころからたびたび来るなかで、自分と秋水とのつながりをまわりから聞かされたことであろう。若い陽水を秋水墓に連れていったという親戚の証言があるのだから。陽水が秋水を意識しているのは事実であろう。

しかし、ただそれだけで、自分の名前の由来については、本人が言うように、何も聞かされていない(何もない)のかもしれない。

だとすれば、武田鉄矢の書いている、陽水母から聞いたという話があやしくなる。有名人の噂には尾ひれがつくものだ。

やはり、藪の中。(終り)

陽水と秋水(2)

父の名が若水であるから、子にも同じ「水」を付けたのだろうことは想像できる。

秋水の名は師中江兆民からもらった号であり、本名は伝次郎。なぜ、祖父廣之助は、あえて子の本名に若水という珍しい名前を付けたのか。

実は、佐賀の記録では、若水の名付け親は別にいた。廣之助の姉竹野の夫千谷林三郎である。志津江さんも林三郎のことをよく覚えており、間違いないと言う。

林三郎は明治十一年、幡多郡入野村(旧大方町)生まれで地方法務局職員(登記官と思われる)であった。

当時、子どもの名前を親戚や親しい近所の者に付けてもらうということは、ここらではよくあった。(幸徳伝次郎もそうである。)林三郎は先の家族写真にも写っており、まじめで人望のありそうな顔をしている。

若水が生まれたのは明治四十一年二月二十五日。その頃、秋水は中村に帰っていた。六月二十二日、東京で赤旗事件がおこった。秋水は七月二十一日、下田から東京に向かう。二年後、大逆事件で逮捕される。

そんな渦中。当時三十歳の林三郎は日本中注目の秋水の動静が気になっていたはずだ。かわいい甥っ子に「若い秋水」=「若水」と名付けたのではないか。

林三郎の子孫が高知市内にいることがわかり訪ねた。林三郎は敬虔なキリスト教徒であった。遺品の蔵書の中に、内村鑑三の本を見つけ、ドキリとした。

内村は秋水萬朝報記者時代の同僚であり、日露戦争で非戦を唱え一緒に退社した。いわば同志である。

しかし、内村の本は「研究十年」(大正二年刊)、「感想十年」(同三年刊)などであり、林三郎が明治四十一年ごろすでに入信していたのかはわからない。志津江さんも林三郎がキリスト教徒であったことは覚えていないそうだ。

また、林三郎は自分の子ども四人(男二、女二)には普通の名前を付けている。若水の弟妹たちもよくある名前である。なぜ、若水だけ。想像は膨らむが確実に裏付けるものはない。

若水の由来、陽水の名前のルーツはなお藪の中である。


ところで、歌手井上陽水についてである。

陽水は昭和二十三年、福岡県飯塚で生まれ、糸田町で育った。妹章子も生まれた。西田川高校を出て、家業を継ぐべく歯科大を三年受けたが失敗。父の期待を裏切り、好きな音楽の道に飛び込んだ。昭和四十四年、アンドレ・カンドレの芸名でデビュー。しかし、売れなかった。

昭和四十七年三月、本名の井上陽水(ヨウスイと呼ばせた)で再デビュー。最初のアルバムは両親を歌った「人生が二度あれば」であった。

 父は今年二月で六十五 
 顔のシワは増えてゆくばかり・・・

父若水は青年時代、一家で佐賀を出た。いつかふるさとに帰りたい、凱旋したいという思いを強くもっていた。

昭和四十七年、佐賀には歯科院がなかったことから、当時の町長から要請され、念願の里帰りを果たし、開院準備中であった。しかし、六月二十五日、突然倒れた。享年六十五歳。

陽水の歌はこれを予言したかのように、父の追悼歌になってしまった。葬儀は佐賀で行われ、荒神山の井上家墓地の両親の隣に葬られた(のち田川にも分骨)。

 20180804114314c4d.jpg   201808030737565cb.jpg
 井上廣之助(陽水祖父)    井上家塁代墓
 若水(同父) 墓

久住町の妹志津江さんから私に届いた手紙の中に、「ブラタモリ」を見てください(陽水テーマ曲)とのメッセージとともに、若水が便せんに書き残した直筆の俳句が入っていた。若水は妹二人がいる久住にたびたびやってきた。

 山宿の虎杖(いたどり)ありて故郷をふと
 久住路の石ころ道や花薊(あざみ)
 囀り(さえずり)や兄妹集ふ山の宿

「小春おばさん」という陽水の歌も志津江さんのすぐ上の姉春子を歌ったものだと教えてくれた。

 小春おばさん逢いに行くよ
 明日必ず逢いに行くよ・・・

春子さんは昭和十九年神戸で没しているので、陽水は知らない。二十三歳、結核でむごい死に方をしたということを、父から聞かされていたのだろう。 

父の思いがわかっていたのか、陽水は無名のころから何度も佐賀に帰ってきている。当時の写真も見せてもらった。

平成二年(一九九〇)、佐賀町政施行五十周年の年、町の要請にこたえ、「ふるさとコンサート」を役場前広場で開き、六千五百人を集めた。ノーギャラだった。

ある親戚のご高齢婦人は、若い陽水を夫(故人)が秋水墓に連れていったことがある、自分も一緒に、と語っていた。

陽水自身が出した本(聞き語り、対談)「綺麗ごと」「青春ふたり旅・五木寛之・井上陽水」には肝心のことは触れていない。避けているかのように。

やはり、陽水は秋水に秘めた思いをもっているのではないか。いつかズバリ聞いてみいたい。(続く)

 201808160724038ee.jpg
 佐賀での若き陽水

「文芸はた」第4号 所収
 2018.7.20刊行



陽水と秋水(1)

だいぶ前、東京にいたころ、職場の先輩から「井上陽水は土佐佐賀の出身だそうだね」と言われ、「違います、陽水は福岡の田川出身ですよ」と答えたことがある。

地元に戻って、それは陽水の父親が佐賀生まれだということだとわかった。本人もたびたび先祖の墓参りに帰っており、里帰りコンサートを開いたことがあることも。

さらに陽水は幸徳秋水と何か縁があり慕っているので、似た名を付けたのだという意外な話も耳にした。このことについて過去にいろいろ書かれた(ネットにも)ことがあることも。

私が市長時代の二〇一一年は秋水刑死百年目で、市が記念事業をやることになったので、それなら陽水を呼んでコンサートをやったらどうかということになり、陽水とパイプがあるという人を通して所属事務所に打診をした。

しかし、本人の返事は「自分の名前の由来は親から何も聞いていなし、知らない」と、あっさり断られてしまった。

なんだ、秋水とは関係がないのかと、期待を裏切られ、がっかりした。そして、そのままになっていた。

ところが昨年、同じ福岡出身武田鉄矢が陽水母から過去聞いた話として「陽水(本名アキミ)の名は秋水を尊敬していた祖父の思いをくんだ父親がつけたもの」と最近書いている、と教えてくれる人がいた。(武田鉄矢「鉄矢の幕末偉人伝」9、VISA会員誌2017年6月号)

そうか、秋水も「アキミ」と読める。

しかし、どっちが本当なのだろうか。はっきりとした「陽水」の正体を知りたいたいと思い、調べることにした。

佐賀には陽水につながる井上姓の家は、いまは残っていなかった。しかし、遠縁になるという家が何軒かあることがわかり、順番に訪ねた。

家系図を見せてもらい、私はオッとうなった。確かに幸徳家につながっていた。それは細い糸ではあるが。

中村の郷土史家上岡正五郎先生も関心をもっていたようで、市立図書館保存資料の中に調査した記録のようなものがあり、佐賀の家系図に反映されていた。

それによれば、秋水(明治四年生)の祖父篤親(三代俵屋嘉平次)の代に分家した弟篤昌(俵屋藤兵衛―嘉永七年没)の娘に「よし」がいた。よしは秋水父篤明のいとこになる。

よしは下田の商家平田屋の山崎介三郎(十一代)の弟弁次郎(分家)と縁組をした。平田屋と言えば中村市史にも出てくる江戸中後期下田で最も栄えた廻船問屋であり、文化五年(一八〇八)忠蔵の代、幕府の命で測量に来た伊能忠敬を泊めている。

中村の有力薬種問屋俵屋(幸徳)とは商売上のつきあいが濃かったのであろう。

山崎弁次郎―よしの三男に半次郎が生まれた。半次郎は佐賀に出た。佐賀で三宅助太郎の娘小八重と一緒になった。

「祖父(半次郎)は秋水のハトコだと言っていた」という証言を佐賀で聞いた。

 20180804114315aca.jpg
 山崎半次郎・小八重 墓

小八重には妹小竹がいた。その夫が井上魯吉(三宅家から養子)の四男廣之助であった。この廣之助(明治十七年頃生)が陽水の祖父である。

さらに、小八重には弟仲次郎もいた。仲次郎は大正七年、中村の谷川恒雄―寅(牧子)の一人娘武雄の入り婿となった。寅は秋水の二番目の姉であり、武雄は姪になる。(ただし、仲次郎は娘一人を残し一年後離縁)

 201808041143139ad.jpg
 三宅仲次郎、助太郎 墓

武田鉄矢は、廣之助青年は慕っていた秋水が処刑されたため土佐がいやになって外へ出た、その息子(陽水父)が田川で歯科医になった、と書いている。

しかし、それ以上のことは触れていない。廣之助がどこへ出たかも。佐賀では昭和初期撮影と思われる家族写真(親戚一同)は出てきたが、そのへんの記録はなかった。

廣之助には八人(男二、女六)の子がいた。一番上が陽水の父若水(ワカミ、明治四十一年生)であった。

その下の弟妹たちの消息を捜したところ、まさかと思ったが、下から二番目の妹志津江さんが大分県竹田市久住町にご健在であることがわかった。

志津江さんは大正十四年生まれだが、すこぶるお元気のご様子で、電話でいろんな話を聞かせてもらった。

それによると、井上家は旅館を兼ねた商売を手広くしていたが、廣之助の代に行き詰り、志津江さん小学三年の時(昭和九年頃)、一家をあげて神戸に出た。

以降は家族がいろんな仕事に就き、苦しい生活を支えあった。母小竹昭和十六年、姉春子は同十九年死んだ。

兄若水は歯科で働き朝鮮の京城(ソウル)に渡ってから独学で歯科医の免許をとり結婚もしたが、衛生兵として召集され、南方ブウゲンビル島で終戦を迎えた。

兄嫁フジは娘京子(陽水姉)を連れ自分の生まれ故郷福岡県直方に引き揚げた。兄はあとから復員、直方で合流。父廣之助を神戸から呼び寄せたが、昭和二十二年、喉頭癌で没。

その後、兄は近くの田川郡糸田町(現田川市)で歯科院を開業。下の弟妹たちも兄を頼って神戸から田川へ来た。

 2018080411453518c.jpg
 井上若水(陽水の父)

田川は炭鉱の町。志津江さんと末の妹富士見は炭鉱の仕事で久住町から出て来ていた兄弟と縁があり、ともに久住について行った。若いころは佐賀に何度も帰ったが、年をとったのでもう無理。佐賀がなつかしい。

秋水のことは何にも知らない。父が慕っていたというような話も、先祖がつながっているということも、甥陽水の名前の由来も、と言う。

とはいえ、先祖が幸徳家とつながっているということは系図から間違いない。あとは、名前の由来だ。(続く)

 20180808163826f4d.jpg   20180804114317ddd.jpg
            佐賀のまち

「文芸はた」第4号所収
 2018年7月20日刊

明徳野球部考(2)

私の明徳義塾高校および明徳野球部に対するアレルギーはだいぶ減ってきた。

しかし、「明徳野球」(野球のあり方、戦術など)には、依然なじめない。抵抗感がある。

言葉を正確に言えば、今の監督の「馬渕野球」と言ったほうがいいと思う。その象徴が松井5連続敬遠(1992年)である。

勝負に徹する。
勝つ野球。
勝ちさえすればいい野球。

甲子園優勝は夏1回であるが、それよりすごい記録をもっている。20大会連続初戦負けなし。明徳は負けない。勝負強い。

守りの野球。試合運びがうまい。足を使う。バントが確実。相手のミスに乗じる。

松井5連続敬遠以降、明徳の野球はセコイとして、バッシングを浴びた。悪者イメージをもたれ、敵役になった。

しかし、それでも実績がものを言う。徐々に馬渕野球が見直されてくる。一目置かれる。特に、野球の玄人筋から。ダミ声の馬渕節に人気が出てくる。

いまでは名物監督とされ、マスコミからもてはやされている。タレント並である。

その人気の秘密は私にも理解できる。なにせ、実績がものを言うからだ。

レギュラーを固定せず、ベンチ総動員でたたかう。選手を巧みに操り、かつ将棋の駒のよう縦横無尽に使う。

そこには、個より組織重視という大原則がある。個は組織のために奉仕することが徹底されている。

野球はチームプレーであるから、一人ではできない。フォアザチームはあたりまえのことで、どこのチームも同じであると言えば、同じである。

しかし、明徳ではその程度が違うというか、異質であると思う。

その結果、卒業後、伸びる選手がいない。

その証拠に、これだけ甲子園に出場しながら、馬渕監督が使った選手でその後活躍する者がいない。プロ野球にも結構ドラフトされているが、これまで活躍した選手はほとんどいない。

あえてあげれば、森岡良介(中日→ヤクルト)、伊藤光(オリックス→DeNA)あたりが、そこそこ名が知られた程度。(伊藤はまだ現役)。2人とも県外から。

その点、大阪桐蔭は対照的だ。甲子園でも強いが、プロでも大活躍しているスターがたくさんいる。(あえて名前はあげない)

その理由は、明徳野球では、個々の選手の将来伸びる素質、可能性の芽を摘んでしまっているからだと思う。

あの丸々と太った大阪桐蔭の西谷監督の懐の深そうな風貌と、ギラギラと突き刺すような目の馬渕監督。その違い。

今年のセンバツで甲子園50勝に達したさいには、心底喜んでいた。また、国体、夏の甲子園、神宮大会と優勝したので、あと残るはセンバツだと、こだわっていた。

誰でも名誉がほしいものだが、あまり表には出さない。しかし、馬渕監督は正直者だ。

私はこれからも、明徳が甲子園に出れば、高知県代表として応援はする。しかし、こんな野球では、将来大成する選手はいつまでたっても出てこないと思う。(終り)、

明徳野球部考(1)

今年の夏の甲子園は100回記念大会。

高知県代表は久しぶり(12年ぶり)に高知商業が復活し、私はホッとしている。明徳義塾の9年連続出場にストップがかかったからだ。

去年の春のセンバツは中村高校が40年ぶりに出場し、地元は沸いた。私も甲子園に応援に行った。

高校野球はあくまで学校の部活動であるのだから、なるべく多くの学校が交代で全国大会に行けばよいと思う。

その意味では、明徳に限ったことではない、特定の学校が独占を続けることは好ましくない。これは、政治や経済の分野でも同じである。独占が続けば必ず弊害が出てくる。

私が高校時代には明徳という高校はなかった。卒業間もなくでき、野球部もできた。高校そのものが全寮制。

最初は県内中学出身選手中心であったが、徐々に県外からの選手が増加。1990年、馬渕監督就任のころには、県外勢が主力を占めるようになった。

それまでの高知県の高校にはないスタイルであり、高知県民から見れば異質であった。すぐに全国に名前のとどろく強豪校になった。

私はそんな明徳でも甲子園に出れば高知県代表としてもちろん応援はしたし、いまもしている。しかし、その他の学校が代表の時とは力の入れ方は違う。心の底からという訳にはいかない。どこか、わだかまりが残る。

しかし、最近は、私はだいぶ変わってきた。

一つは、少子化により、子どもの数、高校生の数がどんどん減ってきた。野球部を単独ではつくれず、複数の高校による連合チームとせざるをえない状況があちこち出てきている。

高校生だけではない、当然ながら高知県の人口もドンドン減っている。

そんな中、県外の中学校から高知県の高校に入学してくれることがありがたいことだ。経済効果という指数にも貢献する。その受け皿になっているのが明徳である。

相撲も、ゴルフ、サッカー、卓球も強い。朝青龍、横峯さくら、松山英樹らも出している。

もう一つは、明徳以外のかつての「古豪」野球部も、同じように県外から入ってくるようになったこと。

今年の高知商業で言えば、レギュラー9人のうち3人は県外からである。明徳義塾は大半が県外からであるから、それほどではないが、以前には考えられなかったことだ。

高知商業は高知市立(市商と言われる)の公立高校であるのに。
高知高校(私立)でも県外勢が増えている。

明徳とは大同小異という訳だ。

そんな中で、今年の明徳のエースピッチャーの市川君は、めずらしく地元の潮江中学(高知市立)出身であったから、高知商業との県予選決勝戦は、変な感じであった。(続く)

ミッキーか戦闘機か

しまんと市民祭にミッキーたちがやってきた。

東京ディズニーリゾート35周年スペシャルパレードは、恒例のなかむら踊り9団体に続いて登場。

ミッキーマウスと恋人のミニーちゃん、ドナルドダック、犬のグーフィーたちが、3台の車の上から愛嬌よく手を振ってくれる。

車の前後は、千葉からのお兄ちゃん、お姉ちゃんに混じって、地元の子供たちがダンスを踊り、はじけている。

沿道には子供や若者ばかりではない。われわれ壮年、老年組も人だかり。

中村市民祭がしまんと市民祭に変わってから14回目になるが、これだけの人出は初めて。地元にこれほど人がいたのかと驚くほど。みんな満足な顔。

あっという間であったが、ミッキーたちが夢の国から夢を届けに来てくれたことに感謝したい。

一方、よさこい祭り前夜祭には、自衛隊ブルーインパルスによる「展示飛行」が行われると聞く。

改造されているとはいえ、飛ぶのは戦闘機。

祭りが行えるのは平和あってこそ。祭りの場に戦争は似合わないと思う。


 高知新聞 声ひろば 投稿
 2018.8.9

20180809130416de7.jpg
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR