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箕島高校

箕島高校野球部が中村に来てくれた。

11月18日(日)、土佐の小京都中村550年祭記念事業の一環として、箕島高校と高知商業を招いた招待野球大会が開かれた。

1977年春のセンバツ甲子園大会。中村高校は初出場した。ジャンボ山沖投手を擁し、田頭主将以下、全員で12人のチームは、あれよ、あれよという間に勝ち進み、決勝戦で箕島高校と対戦した。結果は相手の左腕東(あずま)投手を打てず0-3で敗れた。

しかし、見事な準優勝であった。「二十四の瞳」「さわやか旋風」と騒がれ、それまで無名であった中村の名前が一躍有名になった。中村が最も輝いた日となった。

中村高校は、あれから41年目の昨年春、2回目のセンバツ出場を果たした。1回戦で前橋育英高校に1-5で敗れたが、大応援団が甲子園を埋めるなど(私も行った)、中村のまちは久しぶりに沸いた。

その記念として、昨年夏、中村高校野球部グランド脇に、2回の甲子園の戦績を記録した碑が建てられた。

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そうした余韻が残っているなかで、今回の夢の対決の再現となったので、スタンドには朝早くから多くの市民がかけつけ、盛り上がった。


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第1試合の中村―箕島戦の始球式は当時の中村高校市川監督が行った。田頭主将や岡上、田野選手などもバックネット裏で声援を送っていた。

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中村が4点を先行したが、最後は4-5で逆転負け。42年前の雪辱はならなかったが、練習試合でもあり、結果などどうでもいいこと。あのときの夢をもう一度見せてくれたことがうれしかった。

ただ一つ、残念だったのは、当時の箕島高校の尾藤公監督の姿が見えなかったこと。2011年に亡くなったからだ。

当時の箕島高校は甲子園常勝軍団であり、2年後には甲子園春夏連続出場の偉業を達成している(通算、春3、夏1優勝)

尾藤監督の笑顔が忘れられない。いつもベンチでニコニコしていた。選手のこころをつかみ、まとめる。さらに勝負師。当時の名物監督であった。

その尾藤監督が中村高校に対して、「自分も中村高校のような学校で野球がしたい」と言ってくれたのだ。同じ公立高校として、尾藤監督の野球理念に通じるものがあったのであろう。うれしかった。その言葉が強く印象に残っている。

その尾藤公監督の息子さんの尾藤強氏がいまの監督であり、試合後、ごあいさつをさせてもらった。顔もお父さんにそっくり。息子さんに、甲子園でのお父さんのあの言葉のお礼を言わせてもらった。

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高知県では、明徳義塾高校がその後できたのと同じように、いま和歌山県でも智辯和歌山高校が甲子園を独占しているような状態が続いている。

いまは全国的に私立優位という環境変化の中で、公立高校はどこも苦戦。箕島高校も5年前、久しぶりに甲子園に出たぐらい。あの池田高校だって同じだ。

招待試合翌日の高知新聞によると、尾藤監督は「中村高校はうちと似たチーム」と語ったそうだ。私もそう思った。

甲子園は確かに大きな目標であろうが、甲子園だけが高校野球ではない。学校教育の一環、クラブ活動としての高校野球の本来の姿を伝えていくことが大切であり、かつて歴史に残る名勝負をおこなった両校には、そのことを期待したい。

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招待野球の他の結果は、箕島1-1高知商業、中村10-10高知商業であった。

海を渡って、はるか遠い道を来てくれて、ありがとう箕島高校。
次は、また甲子園で対戦しよう。

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四万十川 川漁師の叫び

脱原発をめざす首長会議 学習会 「 四万十川を守れるか 」  
2018.10.27 於 四万十市立中央公民館

現地報告 黒澤雄一郎「四万十川の生態系の現状」
以下 講演録 です。

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黒澤雄一郎と申します。

すごい人ですね。最近川ばっかりにいるものですから、これが魚ならば大喜びなのですが。(笑い)うまくしゃべれるかどうか。

私はいま四万十川で川漁師をやっています。きょう私が呼ばれたのは、原発事故をきっかけで、埼玉県からこちらに移住してきているからだと思います。

よく聞かれます、なんで、埼玉県なのに? と。

去年の新聞で書かれていたのですが、福島から300キロ離れた長野県でとれるタラの芽が出荷停止になったと。

結構広範囲に汚染されているようで、最初私はあんまり気にしていなかったのですが、うちの息子が鼻血を出し始めた。まわりもそうで、隣の子は血が止まらなくなり、耳鼻科に行ったら、花粉症だと言われた。おかしいなと思った。

心配している家族の人たちとお金を払ってセシウム濃度を調べたら、びっくりするほどの数値が出た。私の命に代えても、かわいい息子です。ここには住んではいられないと思いました。

そこで、余儀なく、移住先をさまよい探す旅に出た。あちこちに行って、半年ほどたち年末近かった時、岐阜県まで行った。

疲れてしまい、ストレスがたまり、このままならおかしくなると思った。

ふとここまで来たのなら、自分は釣りとか狩猟とか趣味でやっていたので、自分の癒しに、四国の川が見たい、高知の川、四万十川が見たいと思った。

岐阜県からそのまま四万十川に来た。そこで見た四万十川は、すっごい印象だった。こんな川がまだ残っているのか。強い衝撃を受けて、涙が出ました。

仕事もどうかるかわからなかったけれど、それまでは半年悩んだのに、一日でここだと決めた。

それから、いろんなことがあって、川漁師になった。この間、いろんな人に助けられ、なんとかいまこうして、ここで生きていられます。

きょうは原発関連の集まりで、四万十川の生態系について話してほしいと頼まれていますが、その前に、せっかくですから、伊方原発について、少し話をさせていただきたいと思います。前の講師と違う視点で。

重大事故が仮に起こらなくても、伊方のような古い原発でなにか異常があったとき、黙って内緒でベント(排気操作)などされたら、どうなりますか。

四万十市は一次産業が豊です。西土佐では日本一みたいな栗をつくっている。中村ではアオノリが採れる。あんな薫り高いアオノリなんて日本中探したってない。

放射性物質には移行係数というのがあって、作物によって取り込みやすい、取り込みにくいというのがある。私は専門家でないので・・・あるそう、です。

お米とかニュースで知られていますし、静岡県のお茶も高い。神奈川県でも福島から300キロ離れていますが、事故当初、アユが汚染されていた。福島の湾の海水魚よりも高い汚染。

川の藻類というのが、これまた移行係数が高い。アユは藻を食いますね。これしか考えられない。

栗などの果実、キノコ、藻類のアオノリもそうでしょう。伊方原発があって、この地域にはいいことがない。なんとか、止める方向に行けばいいなと、四万十川を愛する自分としては、思っています。

四万十川という川は、200キロ近い大河ですよね。最後の清流という並びで言われている川に、長良川もあります。河口堰がつくられ、ひどいことになっていますが、あの河口域にはコンビナートがあります。タンカーも着く。

この四万十川の河口には、アオノリが着くのですよ。それを僕らは冬採って、洗って干して、そのまま食べられるのですよ。河口域ですよ。海からすぐですよ。

東京でいえば、隅田川ですよ。こんなところで、こんなものができる大河というものはもうないのですよ。私はよそ者だからわかります。

本当にすばらしい川です。この川は。なんとかして、この川が永遠に続いていってほしいと思っています。これを強く言いたいです。

なぜならば、私はここで川漁師になってたった7年です。7年間のことしか、実体験としては知らない。

しかし、川漁師の先輩、師匠などにきくと、昔はこうではなかった、変わってしまったと言われる。私が来てからたった7年の間だけでも、だいぶ変わったと思います。

来て2年目のころ、アオノリを手で掻いている時、取材を受けたことがある。そのころの写真がありますが、ノリにはこぶし大の石がついていた。川底にもごろごろ石があり、ノリが流れになびいていた。

そこと寸分違わないところ、同じ場所がいま砂にしかない。そんな場所は多い。これは正常ではない。

砂は、石と石の隙間を埋め、そこに住む生物の住家を奪う。また、川底からわいてくる伏流水も弱くする。

四万十川は長い距離を流れてきて、支流もたくさんある。川底からもいっぱい水がわいている。

流域の人口も増えていない、農薬も以前ほどには使っていない。そんなに汚れる要素はないのに、だんだんと汚れてきている。

それは伏流水が止まっているとか、山が原因だとか、言われており、私は専門家ではないので、はっきりしたことはわかりませんが、水量が減り、川が細くなっている。

どんなにきれいな川でも水の量が減れば、水の力が弱まるのだから、このことを真剣に考える時にきているのではないかと思います。

いろんな人が意見を出し合って、こんなすばらしい川をどうして残していくか。ぜひ、考えてほしい。

一つには、川に土砂が増えているという問題があると思います。この前、西日本豪雨ですごい被害がでましたね。ダムが放水して問題になっています。

水は山から川に流れます。その水がどう流れているか。いま、全国どこの川に行っても、護岸工事がやたら多くなった。川だけでなく、水路や田んぼの畦など、徹底して護岸工事。洪水であふれる心配がないところでも、工事をしている。

流れをまっすぐにするのは、洪水をおこなさいためにやるのであり、治水の歴史からみて、それが有効な部分はあるのでしょうが、一方で必要でないところまでやってしまうと、下に流れる水のスピードは速くなります。

四万十川の漁師さんにきくと、水が来るのが早くなったと、みんな口をそろえて言います。

私の師匠で四万十川の伝説的川漁師といわれる一藤貞雄さん(きょうもお出でいただいています)によると、魚や川の生物は、水がちゃんと働いている(活動している)ところで繁栄してきた、と言います。川をまっすぐに流すと、そんな環境がなくなる。

埼玉から以北で私は遊んでいましたが、あちら川は護岸工事が多く、魚を釣るポイントがありません。同じような流れだから。そんなところに、大きな岩がゴロンとあると、その下に魚がたまっています。そこでは、必ず水が動いています。

四万十川の汽水域は広大できれいなので、小さなプランクトン、魚や小エビなど
が育ちます。最近危惧しているのは、ここに砂が増えています。

平成元年の写真をみせてもらったのですが、当時は、ここにアマモという藻がびっしり生え、小魚などが育っていた。しかし、いまはアマモを見たことがない。

国交省のほうで、アマモ場を再生する事業もおこなっているようですが、なぜこんなに砂が増えたのか、その原因などを、みなさんも考えていただきたい。

この地域は四万十川があってこそだと思うのですよ。私たちのような移住者も来るし、最近は海外かも観光客が多いですよ。

すごくいいことを言った魚屋さんがいます。あまり大きな魚屋ではありません。

四万十川の魚のような高い魚は俺のところでは扱えないけれど、四万十川と聞いただけで心が晴れちまったよ。店では扱えないが、個人的に買わせてもらうよと。

四万十川は、そういうイメージなのですね。だから、ぜひ、これを守っていっていただきたいと思います。

日本は森林が多く、川が多い国です。水が豊かで、川が多い。私は海外にも行きましたので、強くそう思います。

なんで流路100キロを超える大河で、ダムという定義を越える堰堤がない川がこの四万十川しかないのか。

私はアウトドアが好きなので、それ自体に絶望している。

しかし、四万十川はけた違いに、川という部分が健全な川です。

日本では上流に行くときれいな岩場があり、イワナやアメゴが釣れる川はたくさんある。しかし、そこにはウナギやアユはいない。上流と下流で分断されているからです。

しかし、四万十川では、はるかかなたの西土佐のほうまで、スズキがアユを追ってのぼるし、チヌもいる。

本当に~!! こんな健全な川はありません。

私は、ワ~ワ~、ギャ~ギャ~しか言えませんが、みなさん、ぜひ、知恵を出し合って、この四万十川守ってください。私もここで川漁師を続けたいと思います。

時間になったようなので、これで終わります。
きょうはありがとうございました。(終)


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             高知新聞2018.10.28

学習会「四万十川を守れるか」の概要は本ブログ 2018.10.30 で紹介しています。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-472.html



井上陽水と秋水

井上若水(ワカミ)は南方ブウゲンビル島で敗戦の日を迎えた。

京城(ソウル)で歯科医をしていた時、衛生兵として出征。飢えと病気の地獄の島で、かろうじて生き延びた。

京城に残していた妻フジは娘京子を連れて実家のある福岡県直方市に引き揚げ。若水も遅れて合流、家族の無事を喜び合った。

若水は高知県幡多郡佐賀で、明治四十一年、父廣之助、母小竹の八人の子の長男として生まれた。

井上家は港町佐賀で旅館を兼ねた商売をしていた。同じ佐賀の三宅家から養子として入った祖父魯吉は仕事熱心で繁華な家であった。

魯吉が廣之助の嫁に三宅からもらったのが三宅助太郎、喜代の二女小竹である。細面のかわいい娘であった。

小竹には姉小八重がおり、山崎半次郎と一緒になっていた。

半次郎は下田の豪商平田屋の生まれだったが、家を飛び出し、佐賀に来ていた。

下田は四万十川河口から流域の木材、木炭等を京阪神などに積み出す港町として栄えていた。

嘉永四年の記録では、下田には藩の用に命ぜられた船(御用船)が十四艘あり、土佐の港の中で最も多かった(二位野根十一、三位下ノ茅八 ・・・ 「中村市史」)。

平田屋は下田で一番の廻船問屋で、幕府測量隊伊能忠敬も泊めた。

山崎半次郎の父弁次郎は分家で、平田屋十一代介三郎の弟であった。

平田屋は中村の商人との取引が多かった。その一つが薬種問屋の俵屋(幸徳)であった。

俵屋は古くからの中村商人であったが、江戸享保年間、商売つながりで堺から迎えた幸徳篤胤(初代俵屋嘉平次)に暖簾を預けた。

幸徳三代目篤親の弟(分家)に篤昌(俵屋藤兵衛)がいた。

山崎弁次郎は商売の縁で篤親の娘よしを嫁に迎えた。弁治郎、よしの間に生まれた三男が佐賀に飛び出した半次郎であった。

こうして中村の幸徳家と佐賀の三宅家、井上家が親戚になった。

さて、幸徳篤親の次男が篤明(四代)、その次男が伝次郎(五代)。伝次郎はのちに秋水の号をもつ。

よしと篤明はいとこ、山崎半次郎と伝次郎はまたいとこになる。

さらに秋水の姉の寅(牧子)は同じ中村の商人谷川恒雄に嫁いでいたが、こどもは娘武雄(たけを)一人で、婿養子を迎えることになった。

選ばれたのが佐賀の三宅で、小竹の弟(三男)仲次郎である。

三宅仲次郎は大正七年、武雄と結婚し谷川仲次郎になった。

すぐに娘君代が生まれた。しかし、夫婦仲がうまくいかず、翌年離婚。仲次郎は佐賀に戻った 

話をもとに戻す。

歯科医井上若水の父廣之助は家を継いだが、人はいいが、商売向きではなかった。家業は次第に行き詰る。

ついに昭和九年頃、一家を挙げ神戸に出た。出奔同然であった。若水二十五歳の頃である。

一家は神戸でいろんな仕事につき支えあった。

若水は歯科院で働いた。学校には行かず、独学で技術を身に着けた。さらに京城に渡り、修行を重ね、歯科医の資格をとった。

やっと独立というところで、衛生兵として陸軍にとられた。

復員後は、直方の隣糸田町(田川郡)で歯科院を開業した。

母小竹は昭和十六年、妹小春も十九年、神戸で没。父廣之助や弟、妹たちは田川に迎えたが、父も二十二年喉頭がんで亡くした。

悲しみの中にあった若水に、翌二十三年、待望の長男が生まれた。名を陽水(アキミ)とつけた。

若水と陽水。秋水と似た名である。秋水も「アキミ」と読める。

そんなことから、陽水の名前は、秋水を慕っていた祖父の気持ちをくんだ若水がつけたもの。祖父は秋水が死刑になったので、土佐がいやになり、外へ出た。というような話が結構流布している(歌手武田鉄矢など)。

しかし、廣之助は秋水の影響を受けるようなタイプであったようには思えないし、何より神戸へ出たのは家業破綻によるものであり、しかも昭和九年頃のことであるから、秋水死刑(明治四十四年)からずっと後である。

若水は息子の名に同じ水をつけた。ではなぜ、祖父廣之助は父に珍しい若水と名付けたのか。

実は、若水の名付け親は別にいた。廣之助姉竹野の夫千谷林三郎である。林三郎は明治十一年、幡多郡入野村生まれで、当時地方法務局登記官であった。

敬虔なクリスチャンで、内村鑑三の本を愛読していた。

若水が生まれた明治四十一年二月といえば、秋水が中村に最後の帰郷をしていた時期に重なる。

当時三十歳の真面目な林三郎は秋水から刺激を受けたのかもしれない。秋水は入野で講演をしたこともあるので、聞いたかも。

しかし、裏付けるものはない。

陽水は父を継ぐべく歯科大をめざしたが、失敗。親の期待を裏切り、好きな音楽の道に進んだ。

最初、アンドレカンドレの名でデビューしたが、さっぱり。

昭和四十七年三月、本名の井上陽水(ヨウスイと呼ばせた)の名で再デビュー。曲は「人生が二度あれば」であった。

 父は今年二月で六十五
 顔のシワは増えてゆくばかり
 
若水は若くして佐賀を離れざるをえなかったくやしさがあり、いつか故郷に錦を飾りたいという思いをもっていた。

同年、佐賀には歯科院がなかったので、当時の町長から強い要請を受け、念願の里帰りを果たし、開院準備中であった。

しかし、六月、突然倒れた。享年六五歳。陽水の歌は父の鎮魂歌になってしまった。

若水は佐賀の荒神山、井上家塁代墓の廣之助夫婦の隣に葬られた。

父の思いがわかっているのか、陽水はたびたび墓参りに帰って来ている。里帰りコンサートをノーギャラで開いたことも。

佐賀の親戚が若い陽水を秋水墓に連れていったことがあると証言している。

しかし、陽水は秋水につては語らない。名前の由来も含め、その心の内を覗きたい。


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 廣之助、若水の墓

原題は「陽水と秋水」 「土佐史談」269号 2018年11月 所収

参考文献
さらに詳しくは、
田中全「陽水と秋水」『文芸はた』5号所収、2018年7月 (本ブログ 2018年8月15,16,17日転載)



安岡良亮と谷干城

今年は明治改元150年。明治初年、国の行方を左右した熊本での攻防において運命が別れた二人の土佐人の資料展示がいま同時に行われているので、見て来た。

一人は中村生まれの安岡良亮。初代熊本県令として赴任中の明治9年、不平族の反乱神風連の乱で斬られ命を落とした。

もう一人は窪川生まれの谷干城。明治10年、西郷隆盛蜂起による西南戦争で熊本鎮台司令長官として熊本城を死守したことで「西郷を止めた男」として英雄となり、学習院院長、初代農商務大臣、貴族院議員などを務めた。

二人は戊辰戦争に従軍した盟友であり、捕縛された新選組近藤勇の斬首をともに主張、実行させた。

神風連の乱は鎮圧された。もし、熊本不平士族が温存されていたならば、翌年西郷軍に合流したであろうし、そうなれば熊本城は落城し、明治政府も崩壊していたかもしれない。谷は英雄に、安岡は捨て石になった。

安岡良亮展示は四万十市立中央公民館で、谷干城展示は四万十町立美術館で行われている。

生の資料が歴史をいまに引き寄せてくれます。ぜひ、ごらんになることをお勧めします。


高知新聞「声ひろば」投稿 2018.11.17

安岡良亮と谷干城 高知新聞2018.11.17

吹屋 高梁

家を出るまでは吹屋のことを忘れていたが、途中でハッと思い出したので、寄ることにした。

勝山を正午(11月4日)で離れ、落合から中国道に乗り、ぶっとばして30分、新見インターで降りた。高梁に下る国道の途中から右、県道に入る。

なだらかな台地の畑の中、初めての道をしばし走る。やっと「吹屋ふるさと村」の標識が見えた。そこから山道を少し上がると着いた。

吹屋に30年前来た時の印象は強烈だった。高梁から成羽を通り、くねくねの山道を登れど、登れど着かない。こんな山の中に人が住んでいるのかと思うところに、突然赤い色の集落が現れた。これは村ではない。町だ。今流でいえば、天空の赤い町。

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そこでベンガラ(弁柄)を知った。硫化鉄からとれる顔料で、陶磁器、漆器、ペンキなど、いろんな用途に使われているという。

吹屋は江戸時代から硫化鉄と銅山で栄えた。いまの感覚では、山の村は住む人も少なく、過疎で寂しい、貧しい、というイメージが強い。

しかし、そんなのは、せいぜいこの50年ほどのことであり、日本の歴史の大半では、山村は豊かであった。木材、木炭、紙の原料(こうぞ、みつまた)、狩猟・・・富に溢れていた。時に金銀銅などの鉱脈もあった。宝の山だ。

その典型が吹屋だった。私は頭をガツンとやられた。赤というよりは朱色。その違いの色彩感覚をここで覚えた。

朱色に塗られた家々は、国の伝統的建造物群保存地区指定を生かし、観光用に色を強調したものであるとはいえ、富の象徴である。

しかし、今回はそれほどの興奮はなかった。2回目であるためだ。また、前回とは来た道も違う。山を登ってきたという感覚はない。道も広くなっていた。

ベンガラも落ち着いた色になっている。聞くと、確かにドぎつさを抑え、黒を混ぜ、江戸時代の色に近づけたそうだ。その分、インパクトは減るが、まわりに溶け込んでいる。

ベンガラ精製場跡をさっと見たあと、名所ポイントの広兼邸(庄屋)に寄った。横溝正史の映画「八つ墓村」のロケに使われ、一躍有名になったところ。

横に長い城壁に囲まれた邸。鉱山で築いた富の象徴。そこらへんの城よりも品格があり、勇壮かつ端正。造形美あふれる芸術作品のよう。映画の印象があるだけに不気味であったが、ここも2度目だけに、冷静に見れた。

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月曜日ということもあってか、静か。管理人だけ。庭の柿をとっていたので、声をかけたら、みやげにもたせてくれた。まわりの紅葉をゆっくり眺めた。四国のような尖った山がない。丘だ。

陽も傾いてきたので、高梁に向かう。バイパスになる広域農道ができており、直線的に下ると、すぐに成羽に着いた。そこから国道なので、以前見えた木口小平(軍神とされたラッパ兵)の生家跡はショートカットしたようだ。

高梁では、もちろん頼久寺に向かった。2年ぶり。心落ち着く小堀遠州の庭園。紅葉の見ごろには10日ほど早かったが、かなり色づいており、満足。

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備中松山城には登る元気も時間もない。その代わり、いつも行きたいと思ってはパスしてきた薬王院を捜し出した。

寅さん映画のロケに使われた寺。急な長い階段で、寅さんが一目ぼれした竹下景子は、あのころが一番きれいだった。その階段を登ってみた。なるほど、転げ落ちそう。

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寅さんで知って来たというのに、階段下にロケ記念碑が建っていたのは気に入らなかった。俗化しているようで。勝手なものだ。

2年前と同じく、暗くなってきた夕方5時に高梁を離れ、賀陽インターから高速に乗り、10時前に家に戻った。

車中泊を除けば、実質1泊2日の旅のまとめ。
1番感激したのは大山、2番は神庭の滝、3番は湯原温泉。どこも30年ぶりだからだろう。

湯原 勝山

その日(11月4日)のうちに家に帰ることにしていたので、倉吉のホテルは朝8時に出た。

まっすぐ蒜山に戻ることにし、南に国道(美作街道)を走る。すぐに右手に大山が見えてきた。朝日を浴びた青空にくっきりと。きのうはあの麓をほぼ一周したのだ。

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大山が消えると、入れ替わるように蒜山が目の前に迫ってきた。きのう見た裏側だ。大山と違い、蒜山はどの方向からみても、丸くてなだらか。同じ形だ。

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山道をまっすぐに登っていくと峠に長い犬挟トンネルがあり、これを抜けると岡山県の蒜山高原に入るのだが、トンネルを出たとたん霧の中に突っ込んだ。前が見えない。ライトをつけ、ゆっくり進む。

きょうがきのうなら、すごい雲海が見えたことだろうにと残念に思ったが、逆に朝の高原の紅葉は見ることができなかっただろうから、よかったのかも。

蒜山は30年ほど前、岡山に勤務していたころは、真庭郡八束村といって、私の地元と同じ名前(私の母校は八束小、八束中)だったのに、いまは郡全体が合併して真庭市になっている。

きのうは蒜山インターで降りたが、きょうはここからは高速には乗らず、特産の蒜山ダイコンを道端で勝ってから、国道を下った。すぐに湯原温泉に着いた。

湯原温泉は、その頃いまは亡き両方の父を連れてきたことがある。ダムの真下の露天風呂に入ったことがなつかしい。いまと同じ紅葉の季節だった。

温泉街に入る手前で、その湯原ダムサイトに行ってみたが、ダム湖は霧に覆われていた。まわりの山と放水口はなんとか見えた。

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記憶にあるのはダムと、宿の玄関横に大きなサンショウウオがいたことぐらいだが、こじんまりとした温泉街で、なかなかいい。こんな風情があるところだったのか。川のせせらぎも聞こえる。年をとったので、味わいがわかるようになったのかも。

普通、ダムはまわりの景色を台無しにするものだが、ここはダムがシンボルになっているぐらいだから、うまく融合した景観をつくりだしている。露天風呂人気ランキングで、西の横綱になっているのもうなづける。

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いまはオオサンショウウオは旧湯原町役場前のハンザキセンターの水槽にいるときいたので寄ってみると、いたいた。どず黒い斑点が、ウツボにも似ているが、ゴジラを横にしたみたい。

オオサンショウウオのことを、ここらではハンザキという。生命力が強い(生きた化石)ので、「半割き」にしても生きているという意味らしいが、残酷な言葉だ。

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隣の旧役場建物は、いまは真庭市の湯原支所(振興局)として使われているというが、びっくりしたのは、古い木造建物で昭和初期にタイムスリップしたよう。もとは小学校だったらしい。すばらしい。映画ロケにも使えそう。歴史的建造物としてぜひ保存活用してほしいと思った。がんばれ、湯原。

国道に戻ると、旧勝山町に入る。神庭(かんば)の滝入口の標識がみえる。谷を右に5分ほど入る。前に3,4回来ただろうか。ずいぶん久しぶり。

紅葉の絶頂で、青い空と白い水のコントラストに息を呑んだ。山も水も空も光り輝いている。1年間で一番美しいであろう瞬間に来られた幸運に感謝。風格と品格。日本の滝100選の中でも一番いい。一層好きになった。新緑の季節にまた来たい。

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勝山のまちは木材の集積地として有名だが、小さな城下町でもある。ここに本社がある銘建工業が高知県にも進出している(おおとよ製材)。最近では、暖簾(のれん)のまちとして売り出していることをテレビで知った。なるほど、通りのどの店、家も暖簾をぶらさげている。

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ここに来ると「御前酒の辻本店」に寄ることにしている。最近は酒だけでなく、酒蔵の天井桟敷を西蔵という名前のレストランにして人気を呼んでいる。ちょうどランチを食べたが、美作の味にこだわっており、なるほどと思った。

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いまの岡山県は、江戸時代は、備前、備中、美作に国が別れていた。作州浪人宮本武蔵の作州が美作だ。吉井川、旭川の上流、中国山地の山国だが、山陽道と山陰道の間に位置するので、両地の往来があり、独自の文化がつくられている。中国山地は山というより、なだらかな丘という感じであり、四国や九州の山地とは違う、豊かさを感じる。

辻本店の前の旭川には、かつては高瀬舟の発着場があったそうだ。
勝山は出雲街道だけでなく、舟運でも栄えたまちなのだ。

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大山 蒜山

大山の紅葉が見たくなった。

今年7月、松江に出かけたさい、米子の海岸線から丸く膨らんだ別名伯耆富士を遠くから眺め、懐かしさを覚えた。

大山は見る角度で姿が違う。30年ほど前、岡山に勤務していたころ、蒜山からスカイラインを通り、まぶしく光る紅葉の先に、ノコギリのように岩肌をむき出しにした頂を見た。その印象が強く残っている。

ネットで調べていたら、大山と蒜山を同時に見られる絶景ポイントがあることを知った。この季節、雲海と日の出が同時に見られるというので、11月3日、夕方車で家を出た。

岡山から北に入り、中国道、米子道を通り、夜11時ごろ蒜山サービスエリアに着いた。多くの車が止まっていた。みんなと一緒に車中泊。

日の出が6時半ということで、5時をまわったところで起き、車のエンジンをかける。すぐの蒜山インターを降り、蒜山大山スカイラインに入る。真っ暗な中、くねくねの山道を登ると30分ほどで、鬼女展望台(標高900m)に着いた。

先に何台も来ている。車の中で待っていると、東側の空がだんだん赤くなってくる。外へ出る。雲海は墨絵のようだ。蒜山三座(上・中・下)のまるい尾根の稜線が少しずつはっきりしてくる。いよいよ日の出だ。光線の矢が放たれた。

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ふと、北に振り向くと、おおっ、二つの山がにょきっと首を出していた。手前の尖ったのが烏ヶ山、向こうのゴリゴリしたのが大山だ。とても富士には見えない。別の山が朝日を浴び、白く光っている。感動で寒さはない。

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蒜山は女性のふくらみなら、大山は男のガリガリ頭。

1時間ほど、幻想世界に没入したあとは、霧が晴れてきた蒜山麓へUターン。牧場や高原野菜畑のなだらかな丘をぐるり一周。朝霜が光り、しっとり濡れた高原。紅葉はピークをほんの少し過ぎているが、見ごろという感じ。紅葉が朝日に輝き、一段と映える。

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スカイラインに戻り、再び大山方面へと進む。鬼女台、鏡ヶ成を過ぎると、山の斜面を降りたり昇ったり。黄色で埋まった樹海の中を進むと、各所でガリガリの山頂が迫ってくる。鍵掛峠では、色鮮やかな衣を着て首を出す。息をのむ気高さ。

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枡水高原では双子の富士山になった。
ここで動悸を鎮めるため、一息入れる。米子、弓ヶ浜を眺めながら熱いコーヒーを求め、飲む。

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大山寺は紅葉の絶頂だった。駐車場からの長い坂道と階段は大勢の人であった。
神仏混合の山だが、大神山神社奥宮までは足が動かなかった。

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大山寺が観光の中心軸とすれば、後半のスタートは豪円山のろし台からの眺め。噴火口なのか山肌崩落跡なのか。大きな口を開いている。

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ここから先の東側麓までは足を延ばす人は少ないようで、車の数もぐっと減る。道も対面一車線で狭くなり、わが地元の「酷道」439、441号のよう。

香取展望台以降、大山は遠く離れていき、頂上が見えない。代わって、船上山という耶馬渓を思わせるような岩場がそそり立つ。割れ目から小さな滝が落ちていた。

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道はますます狭くなり、対向車もない。紅葉もない樹林ばかり。急カーブが連続の暗い道。人家もない。この道で大丈夫かと不安になってきたが、進むしかない。

やっと開けた。家も畑もある。ほっとした。
しかし、めざす最後のポイント地蔵峠には、なかなか着かない。まだか、まだかと繰り返して、やっとこさ。

ここは枡水高原の真裏になる。ごぶさた、遠くに山頂がくっきりと見えた。大山が連山の中心に座っていることがわかるポイント。来た甲斐があった。

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さらに先を進めば、もう少しで朝通った鏡ヶ成に至り、大山を一周することになるが、ここまででもう満足、満喫。

ぐるり山を背に倉吉に向かった。この道がよかった。なだらかに下る直線道路で、柿の実が熟れるのどかな里の秋。ピリッと冷え、引き締まった空気は、四国にはない、山陰特有のものだと感じた。

途中に関金温泉。車中泊で体がもぞもぞしていたので、日帰り入浴の市営施設に入った。これがまたよかった。ゆっくり、たっぷり温泉に入るのは久しぶり。明るい時間に入るのは、また格別。

倉吉には7月も来て、いい雰囲気だったので、今回も泊まりは倉吉と決めていた。前回見逃した市立美術館に入り、白壁土蔵群の通りの気になっていた店などを覗いた。

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秋の日は短いもので、夕方5時には薄暗くなるが、きょうは朝5時から動いているので、長い一日となった。しかも、たっぷり中身が濃かった。

大山のおかげである。一日中、雲に隠れることなく、全身をさらけ出してくれた。
ありがとう、大山。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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