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NUMO

NUMOとは原子力発電環境整備機構の略称。原発から出る高レベル廃棄物(核のゴミ)の最終処分場を決め、運用することを目的に、電力各社の出資で、2000年につくられた組織である。

今年最後のブログに、物騒なNUMOについて書きたくはなかったが、11月21日、四万十市でNUMOによる最終処分場にかかる「対話型全国説明会」が開かれ参加したので、遅くなったが書き留めておきたい。

同説明会とは、NUMOが最終処分場を全国のどこかに選定するにあたり、立候補してくれる自治体を促すために、その理解を得たいとして、処分の仕組みなどを説明するものである

これまで主に県庁所在地で開いてきて、高知県ではすでに高知市で2回開いている。しかし、今年度から、県庁所在地以外でも開くことになり、本市が選ばれたもの。

参加は事前申し込みをすればだれでも可。私は高知新聞記事で知ったので、電話で申し込んだ。

当日の時間は18:20~20:30。何人ぐらい来るだろうかと思ったが、参加者はわずか9人。半分ほどは知った顔ぶれだった。NUMOと経産省からは、5,6人来ていた。

最初にビデオで、地層処分の仕組みについて説明。あとは、5人と4人の組にテーブルを分け、質疑、応答の「対話」を行った。

昨年7月、NUMOは、地層処分において適地となりうる科学的特性を4区分に分け、公表した。最適地は、海岸に近く、火山や活断層のない地域。高知県では、室戸岬を除く海岸線はすべて最適地とされている。

この場で、幡多地域にお願いしたいと言うのかと思ったが、そうではなく、あくまで説明会で、お願いをするものではないという。

では、なんでこんなことを全国でやっているのかと聞くと、ガラス固体化したものを地層処分することがいま考えられる一番安全な方法である、ということの理解を得るためという。いわゆる、広報活動なのだ。

しかし、地下深くに埋め込んだとしても、放射能が消えるには数万年かかる。その間、100%リスクがないのかと言えば、だれも断定はできない。

そんなおっかないものを受け入れるところなんて出てこないと思いたいが、かつての高知県東洋町のように、財政に苦しむ自治体が莫大な交付金ほしさに、手をあげる自治体が出てこないとは限らない。

NUMOは特定の自治体に申し入れることはないと、いまは言っているが、裏では、いろんな手を使って、アプローチしていることは推測できる。

現に、これまで、旧東津野村、旧佐賀町では、水面下の動きがあった。全国の中でも高知県西部、とりわけ幡多は、最有力適地として、狙われているとみなければならない。

原発はトイレのないマンションと同じで、日々核のゴミが出てきている。現在、すでにガラス固体に換算して2万5千本分が、各原発に格納されている。

NUMOは当面1カ所4万本以上処分できるところがほしいと言っている。

そうのんびりとはできないはずだが、説明会では、淡々と現状を説明するだけで、ぜひとも、という熱意のようなものがまったく感じられなかった。

説明会の参加者は2回目の高知市でも17人だったというし、一所懸命集めようという努力も感じられない。ネットで公開し、新聞が紹介時期を書くぐらいだ。

高い費用をかけて、全国を回っているのは、地層処分先が決まらない現状では、ほかにやることがないのか。

私は原発に反対である。しかし、いまある核のゴミはどこかに処分しないといけないだろう。

政府は原発再稼働を進めているが、それなら、ゴミの捨て場のことを、政府自ら、国民に説明し、どこかを捜さなければならないはずだ。

国の財政問題と同じで、あとは野となれ山となれなのか。
この国は、無責任のかたまりである。

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家地川ダム

四万十川にはダムがないと思っている人が結構いると思うが、それは本流についてであり、支流の梼原川には二つのダム(津賀ダム、初瀬ダム)があるということは、このブログ9月21日付で書いた。

本流には、確かにダムはない。しかし、ダムと同じ機能をもつ施設はある。通称「家地川ダム」、正式名称「佐賀取水堰」である。

11月、人を案内して久しぶりにこの家地川ダムに行った。

このダムがあるのは旧窪川町(現四万十町)の旧大正町との境界、家地川地区。この写真を見れば、だれでもダムと思うだろう。

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しかし、河川法で定められたダムの定義は堰堤の高さ15m以上となっており、この施設は高さは8mであるので、ダムではないのだ。しかも、堰といっても可動式のゲートである。


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ゲートでせき止めた水を、導水管を通して、南側の山を越えた旧佐賀町(現黒潮町)の佐賀発電所に落としているので、実質的に立派なダムである。堰堤の高さの定義など意味がない。

落とした水は、四万十川とは別の水系の伊与木川に流されている。だから、水は四万十川には戻ってこない。

家地川ダム(佐賀発電所)がつくられたのは昭和12年と古い。当時も今も、ダムの水が違う水系に落とされるという例は、調べた訳ではないが、全国でもめずらしい構造ではないだろうか。

佐賀発電所は、ごらんのとおり。不破原の国道56号線から入ったすぐのところにある。

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このダムの問題は、せっかく流れてきた水が、ほかの川に捨てられるので、ダムから下流の四万十川の流れは細くなる。梼原川合流、さらに旧十和村の津賀発電所に梼原川津賀ダムから落とされる水が注ぎ込まれるまでの間は、季節にもよるが、みすぼらしい流れになっている。

ダムと発電所があることで、旧窪川町と旧佐賀町は交付金や税収の恩恵を受けている。しかし、下流の旧大正町、旧十和村などは、なにもない。水量が減ることで、アユ漁などにも影響がでるなど、マイナス面ばかり。

そんなことで、2001年のダム水利権更新時、ダム撤去運動がおこった。行政の大正町、十和村や下流4漁協が先頭に立って運動は盛り上がった。

私は当時地元にいなかったが、ダム直下の河原に1300人を集めた集会が開かれ、私の地元の四万十川下流漁協からもバスで動員されたことは、当時聞かされた。

旧窪川町、旧佐賀町はダム賛成であったこともあり、結局、当時の橋本大二郎知事が仲裁するという形で、四万十川河川維持水量を増やす、水利権更新期限を30年→10年に短縮するという条件で、水利権は更新(ダム存続)された。

次の10年後の水利権更新は2011年で、その時は私の市長在任期間であった。しかし、この時は、ダム撤去という話はいっさい出ず、すんなりと水利権が更新された。

背景には、2006年、賛成反対で割れた窪川町と大正町、十和村が合併して四万十町になっていたことがある。同じ町内を股裂きにするような議論を今度はみんなが避けた。漁協も同様だった。

上流に動きがない以上、最下流の四万十市が何か判断を求められることはなかった。

一度できたダムの撤去ということは簡単なことでなない。

近年では、熊本県球磨川の荒瀬ダムが撤去された例があるが、これは地域の堅い総意として意見がまとまったという特別な事情があったからだと聞く。

梼原川の津賀ダムでも撤去運動があったことは、先のブログでも書いた。

今回、ダムの地元でこんな話を聞いた。
家地川ダムの周りには、古くから桜の木が植えられ、公園になっている。ここで、春には地域の桜まつりがおこなわれている。ダムの湖に映える桜は、住民の自慢である。ダムが地域の風景として溶け込んでいる。地域の人たちにとっては、これがふるさとの風景であるから、ダム撤去には反対である、と。

津賀ダムも同じで、ダム湖がある下津井地区では、夏には蛍まつりをしているという。

ダムはムダな公共事業のシンボルで、地元にとっては迷惑施設というイメージがあるが、そう単純なものではないということを思わされた。


米軍機事故の知事対応

また米軍機が落ちた。本県および周辺で4回目。

米軍海兵隊岩国基地の機能拡大に伴い、四国沖での訓練が増え、危険な夜間訓練も繰り返されているようだ。

しかし、その実態はそれこそ闇の中であり、いつ、どこを飛んでいるのかわからないので、不安でたまらない。いつ頭上に落ちてくるかと。

しかしながら、尾﨑正直知事は今回事故は通常の訓練でのミスであるようだから、国に文書で原因究明等を求めるだけで、抗議に出向くことはせず、日米安保上、訓練は必要と理解を示しているようにみえる。

その背景には米軍対応は国の問題であり、県が関知することではないという考えがあるようだ。これでは沖縄辺野古基地問題の国の言い分と同じであり、知事の責任放棄である。

玉城デニー沖縄県知事は、県民の命を守るため、県民の声を届けようと、国に対し必死で抗議申し入れをしている。

高知県民の命と安全を守るのが最大責務である尾﨑知事としては、今回事故をもっと自らの問題ととらえ、真剣な対応をお願いしたい。

県民はそれを期待している。

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高知新聞「声ひろば」投稿 2018.12.22

無鄰庵

12月16日、京都へ用事があって出かけたさい、すこし時間があったので、東山界隈を散策した。最初に南禅寺へ。

紅葉の時期は過ぎ、シンボルの庭のもみじ葉は落ち、冬枯れとなっていたが、これはまたこれで風情があった。

兼好法師が「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」と書いているが、これは紅葉にも言えることであると思った。

次に、すぐ近くの無鄰庵に寄った。南禅寺は何度も来ているが、無鄰庵は2度目。12年前、京都に住む友人が穴場スポットとしていいところがあると連れて来てくれたことを思いだしたので。

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今は京都市が所有管理しているが(寄贈受)、元は山縣有朋の別荘で、明治36年4月21日、日露開戦方針を決めた会議(無鄰庵会議)がここで行われたことをその時はじめて知った。

会議のメンバーは、ほかに当時の首相桂太郎、政友会総裁伊藤博文、外務大臣小村寿太郎。

当時、私は中村に帰る前で、大阪に住んでいた。琵琶湖からの疎水を引き込んだ日本庭園はこじんまりして、その時は11月初めで紅葉の見ごろでもあったのに人も少なく、なかなかいいなと思った。

山縣有朋については、明治大正期の元老で政界の重鎮であったことはもちろん知っていたが、その時は、山縣は東京にも別邸椿山荘をもっていたので、東西の都に別荘をもつなんて、明治のドンはさすがだなぐらいの印象しかなかった。

しかし、今回は違った。山縣が大逆事件をつくりあげた黒幕であったことを、その後知ったからだ。

幸徳秋水らが逮捕されたのは明治43年6月。その時の首相は桂太郎(第2次桂内閣)。

前の首相は西園寺公望であり、日露戦争に反対した幸徳秋水らの運動に対する西園寺内閣の取り締まりは手ぬるいと、イライラした山縣有朋が裏で画策して西園寺を退陣させ、子飼いの桂太郎に再度の組閣をさせたのだ。

桂内閣は、秋水逮捕の年には、日韓併合もおこなうなど、強権強圧政治を行った。

今回の無鄰庵は、そんな背景を詳しく知ったあとだったので、見る目が違った。前回はさらりと見るだけであったが、今回はじっくりと見た。

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正直なところ前回よりもいいなと思った。庭の中には自由に入り、一周できる。疎水の水がさらさと池に注ぐ。池はそう深くはない。

芝生や苔の中に、野の草花が点々と植えられている。自然のままの野を歩いているようだ。庭全体がゴテゴテしていない。

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木造2階建ての母屋にあがってみる庭は、またすばらしい。

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隣の洋館2階は応接室になっており、この部屋で4頭会談が行われた当時の様子がうかがえた。

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1階は、庭園の解説などの展示。作庭は第7代目小川治兵衛という有名な庭師がおこなったが、山縣の思い入れや美意識が細かく反映れているという。

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そんなことが庭の隅の木陰に控えめに建つ石碑「御賜稚松乃記」に刻まれている。

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名も知らぬ野の草花を好み、苔と芝を種類によって分け、隅々に配置したことなど。

山縣はこの別荘をこよなく愛し、多忙な公務の間でもたびたび夫人を伴って訪れているとも。(庵の名の由来は、山縣が最初長州に建てた草庵が隣家のない清閑な場所にあったため)

山縣がそんな風雅な感性をもっていたとは意外である。

私のイメージとはまったく合い容れない。山縣と言えば謀略と弾圧で秋水らの首をくくった黒く汚れた手をもつ権力の象徴だからだ。

人はいろんな顔をもっている。

自然と同じで、人のこころのうちは奥深いもので、はかり知れない。

そんな思いを深くした。

ここには秋以外の季節にも、また来てみたいと思う。


中村政則の歴史学

恩師中村政則先生が79歳で亡くなられてから、早や3年が過ぎた。

亡くなられた時、私はこのブログ(2015.8.15)に追悼文を書いた。大学での先生との出会いなど、先生との思い出は、そこに書いたので繰り返さない。 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-190.html

このほど先生の学問的業績を評価、検証した追悼本『中村政則の歴史学』(日本経済評論社)が出版された。

私は研究の途に未練はあったが、大学卒業後、農林中央金庫に就職した。先生追悼本は大学院に進んだ同世代の先輩、後輩たちが中心になって今回編集をしたものだ。

この本には「近現代史研究の中心的存在であった中村政則。日本資本主義史、天皇制論、地主制史、民衆史など、人々を魅了した多岐にわたるその仕事をさまざまな角度から再評価し、歴史学での位置づけを問う」の帯封がついている。

先生の同輩、後輩研究者の論考、座談会などが盛りだくさんに収められている。

先生が切り開いた歴史学の方法は、1、研究課題の明確な設定、2、課題間の有機的連関の把握、3、研究の方向性の明示、にあると総括されている。

その問題意識の原点は、よく聞かされたことであり、先にも書いたことだが、先生は1935年、東京新宿生まれで、国民学校で学童疎開していた群馬草津から戻ったら、一面の焼け野原に伊勢丹だけがポツンと建っていた、その荒涼とした光景であったということ。

だからであろう。先生の学問の岩盤には、非戦、平和、民主主義があり、新憲法への期待、擁護が貫いている。

先生は帯封にあるような分野でたくさんの著作、論文を残している。

その中であえて代表作をあげるとすれば、『労働者と農民』(小学館「日本の歴史」シリーズ、1976年)であり、戦後歴史学の記念碑的作品であるという評価では、座談会で一致している。

この本は先生が初めて挑んだ通史であり、いかに歴史を記述するか、その方法で悩んだ末にひらめいたのが、手元にためていた生の人間からの証言、聞きとりテープであった。

それまで一般的であった通史的叙述をやめ、日本資本主義の歴史的特徴(労使関係等)をもっともよく示している対象として、女工、坑夫、農民に絞り、「人間の主体的行動と客観的な構造との統一」をめざしたものであった。

この原稿を書かれたのは、私が四年生の時であり、夏休み後のゼミで、やっと書けたよと、満足感を漂わせておられたのを思い出す。

1999年、一橋退官(神奈川大学に移籍)を機に、先生を囲んだゼミ卒業生間の親睦組織「せいそく会」が発足。私も幹事の一人としてお手伝いをさせていただいた。

私は55歳で退職し、ふるさと高知県四万十市に帰り、第二の人生に挑戦したが、私が市長時代の2010年、四万十市民大学に先生ご夫妻をお迎えした。

テーマは当地に関連した「坂の上の雲と幸徳秋水―司馬史観を問う」を願いしたところ、ご快諾いただいた。

講演後、四万十川や足摺岬をご案内し、喜んでいただいたことが昨日のようだ。

四万十市は合併前は中村市であり、私がこだわるこの地中村に中村先生においでいただいたこともうれしかった。

いま思えば、あのころの一橋大学は、日本史学会をリードする教授陣であふれていた。

中村先生は経済史中心の近代史、ほかに中世史の永原慶二先生、幕末社会史の佐々木潤之介先生、思想史の安丸良夫先生、現代史の藤原彰先生。

そこで私が学んだのは、歴史を学ぶとは自分の生き方を考えること。歴史にどうかかわっていくかが鋭く問われるということ。

人の思想や行動の背景には歴史認識や歴史観がある。だからいつも歴史教科書が槍玉にされる。歴史学はきわめて実践的な学問である。

いまの日本の政治経済状況を歴史の中にどう位置付け、どう対するのか。

私はこれからも中村先生に学んだ歴史学を座標軸にしていきたい。

先生の追悼本を多くの人に、ぜひ読んでほしい。

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四万十天文台

旧西土佐村が環境庁による「星空の街」に認定されてから30年たつということで記念講演会と観望会が12月1日開かれたという記事が高知新聞に載った。

このイベントは市広報にも告知されていたことを私はうっかり気づかず、参加できなかったことが残念であった。(知っていれば、参加したのに)

というのも、この天文台については、私の思い入れがあるからである。

現天文台施設は、2013年4月、最初の場所から移設リニューアルしたものであるが、そのへんの経緯について、いまの市職員の間ではほとんど引き継がれていないことが今回わかったので、当時のいきさつを記録に残す責任もあり、書きとめておきたい。

私が四万十市長に就任したのは2009年5月。その時は、西土佐に天文台があることはまったく知らなかった。

中村市、西土佐村が合併して四万十市になってから4年目であったが、旧西土佐村職員が大半を占める西土佐総合支所職員からもそんな施設があることは聞いたことがなかった。維持管理などの関連予算が計上されていれば気づいたのだが、それもなし。

2011年夏頃だったと思う。久しく会っていなかった高校時代の同級生の小関高明君から突然に電話がかかってきた。彼は当時もいまも兵庫県姫路市に住んでいる。

なんだろうと思って聞くと、近く帰省する(土佐市)ので、西土佐にある天文台施設を見せてほしいという。

??? なんのこと。

小関君は姫路天文台につとめており、天文の専門家であるので、日本中の天文施設一覧という資料をもっており、そこに西土佐天文台も載っているという。

へえ~。本当なの。

すぐに調べてみると、確かに、あった、あった。

しかし、施設は老朽化し、実質放置された状態となっていた。ほとんど利用もなく、たまに天文マニアから要望があれば、天文に詳しい高齢の元教員に連絡して、細々と対応してもらっているということだった。

私は小関君と一緒に施設に出向いた。お世話になっている元教員にもお出でいただいて。

場所は、西土佐中学校の上の山。舗装もされていない、車もやっと通れるくらいの狭い山道を登ったところ。そこに直径3メートルほどのドームがあったものの、ドアは錆びて古くなり、カギで空けるのも苦労していた。

中にはこれも古びた望遠鏡が据えられていたが、天体好きの個人がもつ程度くらいのサイズと思われる、小さなものであった。

30年前、「星空の街」に認定されたころは、村おこしの売りにしようとそれなりの取り組みがあったらしく、その痕跡の一つが「ホテル星羅四万十」の名前であった。

しかし、その後、天文台は放置同然になり、四万十市になってからは話題にあがることすらもなくなっていたのだ。

小関君は、このあたりの空は申し分なくきれいだし、このまま放置するのはもったいない。リニューアルをして再利用すればいいのでは。そのためには、この場所は道が狭く、夜は危険であるので、アクセスしやすいところに移してはどうか、と提案をしてくれた。

天文台の所管は教育委員会西土佐事務所であった。私は当時の和田修三所長、阿部一仁主査に検討をしてはどうかと話をした。

小関君は、それからも何度か来てくれ、いろんなアドバイスをくれた。天文のノウハウをもっているので、施設の規模・構造、移設場所の選定、移設費用の概算、望遠鏡はどんなものがいいか、など。

そんな中、大きな問題があった。

施設にはガイド役が必ずいる。当時、半ばボランティア的に協力してくれていた元教員とは地元口屋内在住の池上蔦男先生であった。

しかし、池上先生は、すでに80歳を越えたご高齢で、もう継続はむずかしいような状態であった。施設を新しくしても、ヒトがいなければ、動かせない。あれこれ、市内に天体好きの人はいないか探した。しかし、いない。

それならと小関君から、自分は関西で同業の人脈・ネットワークがあるから、誰か適当な人をさがしてやろうということになった。

そこで、紹介をしてくれたのが、京都産業大学理学部で天文学を専門に勉強して、卒業後間もない浜田沙希さんであった。

しかし、浜田さんの雇用をどうするかという問題があった。四万十市が採用すれば一番いいのだが、統一試験と採用枠という問題もあり、簡単なことではない。

天文台の移設場所は、西土佐ふれあいホールの広い駐車場隅の暗いところがいいだろうということになった。

ホールのすぐ下にはホテル星羅四万十がある。

ホテルの施設は市のもの(旧西土佐村)であるが、運営管理は長年、丸和林業(株)子会社に委託をしている。

同社北岡会長との話し合いの中で、新しい天文台の管理運営をホテルに委託することを条件に、浜田沙希さんをホテルで採用するという案がでた。(市が委託管理料を払う。天体観測は有料とする。)

昼は清流四万十川、夜は満天の天の川ということで、観光の売りにでき、ホテル集客にも役立つだろう。

浜田さんは、星空観測を希望するお客さんへのガイド(アテンダント)を主業務とするが、昼間も可能な範囲で接客などの通常業務もしてもらう、ということで合意した。

これで計画はゴーとなった。
あとは予算の問題。市の予算を配布すればいい。

そこで思いついた。
当時は、ふるさと納税制度がはじまったばかりであった。制度はよく知られておらず、いまのような返礼品などやっていなかったころであったから、地元出身者など、ごく一部の人から届く程度であった。

しかし、当時はみんな「善意」のものであったから、おどろくほどの高額寄付も多かった。その中に、やはり私の高校同級で、西土佐口屋内中学出身の宮崎光生君がいた。しかも、宮崎君と小関君は同じクラスだった。

東京で建築設計会社を経営している宮崎君は、高額な寄付を複数回してくれていた。

寄付の使い道はふるさとのために役にたつ事業ならなんでもということで市長に一任をされていた。そこで、宮崎君のほうに電話をして、今度天文台をリニューアルするので、そのために寄付の一部を使わせてもらえないかと。

もちろんOK、それは歓迎ということだった。話のなかで、池上先生は、宮崎君実家の隣で小中学校の恩師であるという。これには驚いた。

池上先生にそのことを言うと、教え子の協力で、気にかかっていた天文台が復活するということで、大変よろこばれた。(ふるさと納税のことは、四万十天文台ホームページにも書かれている。)

あとは、順調に事業が進み、私が市長在任ぎりぎりの2013年4月26日に新施設の運用を始めた。

これにあわせ、天文台の愛称も募集し、最も投票数が多かった「四万十スター」と決まった。

そして、7月7日、七夕の日、オープンセレモニーが行われた。

今回の新聞記事によれば、オープンの年は、年間利用者633人だったものが、昨年は1484人と順調に増えているという。

池上先生がおられたからこそ、なんとか命脈を保っていた天文台が、小関高明君の提案、プロデユースで息を吹き返し、宮崎光生君のふるさとを思う気持ちが後押し、丸和林業の協力に支えられ、かつ浜田沙希さんという名アテンダントにも恵まれ、見事に再生、復活をとげた。

その後、池上先生はお亡くなりになられた。

浜田沙希さんは、地元の方と結婚をされ(現・谷沙希さん)、ずっと定住してくれている。

四万十天文台は多くの人々の善意の結晶である。

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 四万十天文台ホームページ  → http://www.shimantostar.com/



以上






遍路道から

四国巡礼において土佐は「修行の道場」。札所の数は十六と四県で最も少なく、太平洋に面した長い海岸線をひたすらに歩く。

中でも四万十町(旧窪川町)の三十七番岩本寺から三十八番金剛福寺(土佐清水市足摺岬)までの距離は八十七キロと最長で、歩きで三日かかる。

窪川から片坂を下ると黒潮町(旧佐賀町、旧大方町)に入る。南海トラフ地震津波高予想国内最高三十四メートル地帯だ。

入野松原を抜けると四万十市(旧中村市)に至り、ほどなく四万十川にぶつかる。河口から四キロ地点。最下流にかかる四万十大橋(別名アカメ橋)を渡る。

ここまででやっと岩本寺から四十九キロ、足摺はまだ先。さらに川の土手を黙々と下る。その土手下に私は住んでいる。

お遍路の姿は地元の者にとっては日常風景だ。春と秋に多いが、開創千二百年を機に最近増えている。

特に目立つのが外人さん。キリンが首にカバンをぶらさげて歩いているよう。

そんなお遍路は、私が子どものころは不気味であった。

一人家にいる時、チリンチリンと音がするとドキンとする。また来た。母に言われていたとおり、小さな飯茶碗に米を一杯入れて外に出る。薄汚れた装束でブツブツと何か言いながら片手を顔の前に当て立っている。菅笠の中の顔は見えない。首からたらした布袋の中に米を恐る恐る入れてやる。一礼をして消えていく。

ほっと一息。

いろんな事情をかかえ歩いている人が多く、中には生活の糧を得るためだけの人もいたから、警戒をされていた。

しかし、今はそんな人はいない。逆に、時間とお金と体力がある恵まれた人たちが多いときく。

今のお遍路も長旅を続けているので、決してきれいな格好とは言えないが、白装束姿のほか、それぞれ工夫した個性的な出で立ちで歩いている。杖だけは必携品。

私はすれ違う時「お気をつけて」と声をかける。必ず「ありがとうございます」と返ってくる。時には「どちらからですか」とも聞く。

そんな日常の繰り返しであったが、三年前、あるお遍路が現れ、状況は変わった。

二〇一五年四月、私の携帯が鳴った。金庫の元上司篠塚勝夫さんからだった。いま黒潮町を歩いていると言う。驚いた。

翌日、四万十大橋たもとで待っていると、白装束に菅笠をかぶったお遍路が杖をつき、ニコニコと近づいてきた。

篠塚さんには福岡支店長時代仕えた。こわい上司であった。一九九六年、住専最終処理のころで、私は業一課長をしていたので、特にきびしく「ご指導」をいただいた。

毎週月曜日、早出の管理職会議が一番しんどく、前日夕方からブルーになった。

そんな篠塚さんであったが、出来の悪い部下は気になるのであろう。私が地元に帰り四万十市長選挙に出た際はカンパを送ってくれたり、また市長になってからも時々電話がかかり様子をきいてくれたりしていた。約十年ぶりの再会であった。

その日半日は歩きを休んでもらい「ご接待」。市内各所をご案内し、夜はわが家に泊まってもらった。

古稀になられたのを機に一番から通しで歩かれているとのことであったが、その夜は金庫時代の思い出話に花が咲いた。

一年後、篠塚さんから旅日記をまとめた『古稀の歩き遍路千二百キロ 同行二人とお接待の四八日間』というタイトルの本が届いた。さらに、翌年には『二度の人生 第三生活の日々』という本も。

そこには私が知る篠塚さんとはまるで違う人がいた。生い立ち、家庭の内情。いまは地元千葉県佐倉市で自治会や障害者就労支援活動を中心に、東北震災ボランティアにもたびたび出かけられている。

第一生活「学び・習得の時代」、第二生活「職業を通しての社会貢献の時代」ならば、リタイヤ後は第三生活と位置付け。

金庫時代にもお聞きしたことがあるが、篠塚さんは同郷(下総国)の先人伊能忠敬を人生の師としておられる。

忠敬は家業隠居後、地図づくりを学び始め日本中を歩いた。二つの人生をもつ。

今年は忠敬没後二百年で、高知新聞が土佐国測量記録を特集している。そのルートは奇しくも遍路道と一致していたので、篠塚さんに記事をお送りした。

篠塚さんにとっては師の足跡をたどる旅でもあったのだ。

では自分はどうなのか。

五十五歳で念願の地元に帰ってきた。運よくすぐ市長の職に就くことができた。ふるさとのために苦労ができることのよろこび。しかし、再選はならなかった。

やりたいことはまだたくさんあり、不完全燃焼であったが、地元に根を張れば、できることはほかにいくらでもある。

ブログ「幡多と中村から」で情報発信しながら、二つ目の人生をもがいている。

お遍路では昨年、俳人黛まどかさんとの出会いもあり、近刊『奇跡の四国遍路』(中公新書クラレ)に書かれている。

金庫先輩針金健治さんも二〇一二年歩き遍路をされたそうです(本誌一一九、一二〇号)。会員各位におかれましても、わが家近くを通られるさいは、ぜひご一報くださるようお願いいたします。

  燕来る水平線を盛り上げて
          (まどかさん)

   篠塚勝夫さんと(2015年4月)

   農林中央金庫旧友会「金声」130号(2018年11月)
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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