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桑原戒平(1)

本誌二,三号に「安岡良亮とその一族」(本ブログ 2017.1.6-12, 2018.1.17-21)について書かせていただいた。幸徳家と姻戚等で深い関係にある家として、安岡、桑原、小野、木戸などをあげたので、本号では次に桑原戒平にスポットを当ててみたい。


1.維新東征、熊本、幡多郡長

戒平は幕末から維新にかけて安岡良亮と行動を共にした人物として「中村市史」等に登場する。熊本神風連の乱を生き延びたあと幡多郡長を務めている。

しかし、ほどなく中村を離れたので、その後の事績等については没年を含め、これまで明らかでない部分があった。

私の記事をネットで読んだという東京に住む戒平子孫から今年連絡が入り、戒平の娘清(せい)が生前書き残した手記が残っているという。清は明治十八年中村生まれで、幼いころ親戚の秋水(同四年生)に遊んでもらったと話していたという。私は上京し、この子孫(戒平やしゃご)に会った。

以下は、清の手記の内容を加えながら、戒平の実像に迫りたい。

桑原家は初代中村藩主山内康豊に従ってきた医師の家柄であった。中村藩廃絶後は、江ノ村に移り、郷士格の庄屋となり、楠島、蕨岡等にも分家した。

戒平(別名長太郎)は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚の長男として、弘化元年(一八四四)生まれた。

母教は小野家出身で、姉須武子は小野雲了妻となっていたので、その娘多治(秋水母)と戒平は従兄関係になる。

戒平は学問を安岡良亮(十九歳上)に、剣術を樋口真吉(二十九歳上)に習った。

維新東征では迅衝隊十二藩隊半隊長差引役で、会津城攻めで負傷。軍功により、三人扶持、切米七石を与えられた。安岡良亮長女芳と縁組。

維新後、政府派遣清国留学生七人の一人に選ばれた。帰朝後、宮内省権大録八等出仕、おうまや長官となった。しかし、部下がおこした昭憲皇后馬車事故の責任をとり辞任。

明治八年、安岡良亮が先に赴任していた白川県(のち熊本県)へ七等出仕。同九年、神風連の乱に遭遇。県令良亮は斬り殺されたが難を免れ、県令代理として事件処理に奔走。

翌年も西郷蜂起の西南戦争があったが、これが収束後中村に帰郷。初代桑原平八(同族)に続き、二代目幡多郡長(明治十三~十五年)になった。

戒平は事業意欲も盛旺だった。親戚縁者から資金を募って同求社を立ち上げた。

旧土佐藩貨幣局の事業の払い下げを受け、樟脳の輸出、大阪港路開設等のほか、板垣退助から権利譲渡を受け、田ノ口銅山採掘にも乗り出した。

この事業は当時、県下的にも注目を浴びたのであろう。明治十八年七月、高知の「弥生新聞」が読者人気投票で選んだ「土佐十秀」の中の「商法家」部門において、戒平は二百十四票を獲得して一位となった。

他は「慷慨家」板垣退助、「理論家」植木枝盛、「画家」川田小龍など、高知の錚々たる顔ぶれの中で、戒平は郡部で唯一登場。当該記事は自由民権記念館に展示されている。

「商法家」とは「商売」「起業」に近い意味であろうが、この事業はそれこそ「武士の商法」で、たちまち行き詰った。戒平は中村にいられなくなり、家督を弟義忠に譲り、一家で東京へ出た。出奔同然であったものと思われる。

事業失敗は親戚縁者に多大の累を及ぼした。

俵屋(幸徳)は同求社に事務所を提供していた。運悪く、その頃、秋水が通っていた中村中学が廃校となり、高知中学に吸収されることになった。しかし、家の経済状況悪化から、秋水はすぐには高知へ転校ができなかった。秋水最初の挫折となった。

また、戒平実弟で小野家養子になっていた道一は、当時県会議員で議長も務め、国政出馬への準備もしていたが、事業破綻のあおりを受け、議員を辞職せざるをえなくなった。今でいう公民権停止であったものと思われる。(続く)


「文芸はた」第5号
 2018年12月刊所収
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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