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文学の罪と罰

幸徳秋水は1911(明治44)年、「思うに、百年ののち、だれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い残して絞首台にのぼった。

大逆事件に対し文士は無抵抗、声を上げる者はなく、文壇は脳死の状態に。

ひとり石川啄木だけが真実を知ろうとしたが斃れた。

果たして百年後の2011年、NHKはスペシャルドラマ「坂の上の雲」を制作、放送していた。

原作者司馬遼太郎は「あとがき」に「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、いまひとつは、この作品の書き手―私のことだーはどうも小説にならない主題をえらんでしまっている」と書いている。

小説では許される創作を歴史書でも行ったのならば、罪は重い。

作品は、軍人秋山好古、真之兄弟と正岡子規を主人公に、一心不乱に坂をのぼっていく明治の若者を描いた青春群像というが、全体を通して一貫しているのは生々しい日露戦史であること。

日露戦争は本当にロシアの侵略主義から日本を守ための戦争であったのか。

戦争に反対した秋水や、戦後不満が爆発した日比谷焼き討ち事件のことなどは触れられていない。

原作は高度経済成長期の1968~72、新聞連載されたものだが、その後、司馬は新憲法堅持、自衛隊海外派兵反対などを強く主張。この作品の危険性に気づき、映像化を許さない遺言を残した。

しかし、観光の目玉にしたかった松山市長(現知事)が夫人を口説き、NHKがこれに乗り、元木雅弘、阿部寛らの俳優がタブーの幕間から飛び出してきて、「祖国防衛」のために勇敢に戦う姿を演じた。

明治150年が終わり、今年は新たな改元。

今また、日本は過去大陸で犯した「事実」にはほおかぶりし、北朝鮮、中国への危機感をあおり、軍備拡張に驀進中。

国民の政治意識の基礎には歴史意識があることがわかっているから、従軍慰安婦、徴用工問題等に異常なまでの反応を示している。

歴史を都合がいいように書き換え、国を一つの方向にもって行こうする大きな流れ。  

日露戦争前夜のような高揚と息苦しさが織り交ざっているように感じられる。

文学作品はその時代の歴史的産物であり、鏡である。

文学者は思いのままに書けばいいのではなく、自らの作品が誰かによってどう利用されるかわからないという緊張感を臓腑に刻んでほしい。

幸徳秋水を「百年たったのに・・・」と嘆かせないために、秋水のふるさとに住む自分としては、文学をそんな目で見ている。


高知ペンクラブ会報 85号 
わが心のなかの文学
2019年2月

檻の中のライオン

1月23日、はた九条の会連絡会と戦争法を許さない幡多の会では、いま話題のひろしま市民法律事務所の楾(はんどう)大樹弁護士を招いて憲法講演会をおこなった。会場、四万十市社会福祉センター、87名参加。

講師はライオンのTシャツを着て、いろんな動物のぬいぐるみを使いながら、「ライオン=国家権力」と「檻=憲法」というたとえ話を使って、2時間たっぷり熱弁をふるった。要旨は、以下のとおり。

・百獣の王ライオンは強くて頼りになるので、私たちが人間らしく生活できるように、仕切ってもらおう。

・しかし、ライオンは強いけれど我儘なところがあり、いつ暴れ出すかわからないので、約束を交わして、私たちで檻を作って、その中に入ってもらおう。(立憲主義)

・ライオンも多くいるので、どのライオンにするかは私たちが決める。(選挙)

・ライオンが檻を壊さないよう、性格の違う3頭のライオンが入り相互監視してもらう)。(三権分立=国会、内閣、裁判所)

・ライオンは檻を大切にしなければならない。(憲法尊重擁護義務)

・ライオンが檻から出られないよう、檻は頑丈に作っておこう。(憲法改正発議には国会議員の3分の2の賛成が必要)

・しかし、ライオンは檻から出たくてしょうがないので、檻を簡単なものに改造しようとたくらんでいる。(自民党改憲案=上記発議を2分の1に)

・外敵から守ってやるからと巧妙な言葉を使って(集団的自衛権)、檻から少し出してくれと言って、出られるようにしてしまったのが2015年の安保法制。

・場合によっては、裁判をしてもライオンを取り押さえてもらいえない場合がある。(高度に政治的な問題では裁判所は判断を回避=統治行為論。)

・だから、私たちはライオンが暴れないよう常に見張りを怠ってはならない。檻にも関心をもたなければならない。


ざっとこんな話であった。なるほど、わかりやすかった。憲法は、ライオンの獰猛さから、われわれを守ってくれる檻の役割を果たしているのだ。

憲法の大切さはわかっているようで、漠然としており、周りに話すにも説明することが難しくて、躊躇してしまうので、こういうたとえ話でなら、話しやすい。

会場で私も買った、楾弁護士が書いたテキスト本「憲法がわかる46のおはなし 檻の中のライオン」(かもがわ出版、1300円+税)は、2年間ですでに11刷を数え、ベストセラーになっている。

帯には、憲法学者小林節教授による「いま、いちばんわかりやすい憲法の入門書」という推薦文が書かれている。中学生向けの公民教科書にも採用されているとのこと。

楾弁護士は、この日の講演が258回目、翌日も高知市で午前午後2回するという。子供向け絵本、Tシャツ、バッチなども販売しており、本業の弁護士業は大丈夫なのだろうかと心配になるくらい、講演活動に燃えているという感じ。

しゃべりだしたら、止まらない。時間はいくらあっても足りないよう。43歳の若さゆえだろう。

ライオンはすでに檻を出てきて、ウロウロしている。牙をむかせないように目をそらせてはならないということがわかった。

それにしても。楾(はんどう)という名前は、超めずらしい。広島でもわずかしかないという。本来の読みは「はんぞう」で、湯水を注ぐために柄の半分差し込まれている器、を意味する語だそうだ。

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国家偽装

“ 国家が総力を挙げて作り上げる大きな嘘は、いつの時代でも見破ることは容易ではない ”

2年前にみた映画「望郷の鐘 満蒙開拓の落日」(山田火砂子監督、現代プロダクション)の冒頭字幕で流れた言葉である。

今の日本は再びこの言葉通りの状況になっている。

国会で問題になっている毎月勤労統計の偽装問題。官邸の圧力で厚生労働省が統計データの集計方法を変えたというもの。

参考人として呼ばれた担当官僚は、そのことを否定しているが、状況証拠からみて、ウソを言っていることは明らか。

なぜ、そんなことをしたのか。
アベノミクスの成果を大きく見せるためである。

安倍首相は、この間、自らの経済政策の成果をPRするために、雇用が増えた、賃金が増えた、だから景気が回復していると、さかんに自画自賛してきた。

しかし、国民にはそんな実感はない。逆に生活はきびしくなっている。各種アンケートはみなそうだ。

そのギャップの原因が、政府により偽装された統計にあった、ということがこれではっきりした。

統計の偽装については、先の国会で成立した外国人材活用法案でも行われた。法案の根拠になるような統計データは間違いだらけであった。しかし、法案の一部は削除されたものの、基本部分は強行採決された。

国民の生活に直結する国の政策の根幹にかかわる部分の統計が、政府に都合がいいように作られているのだ。

森友加計学園問題においても、財務省の文書が官邸の意向で書き換えられていた。

国家ぐるみでウソをついているのは、沖縄辺野古基地問題でも同じである。

沖縄の反対の声を無視して埋め立てを強行している国の唯一の言い分は、普天間基地の危険性を除去するため、その代替基地として辺野古は必要だということ。

しかし、仮に辺野古に基地ができても普天間は返還されない。辺野古では滑走路が長くとれないからだ。

米軍にとって絶好の条件にある普天間の代替のためには、民間空港である那覇空港を共同利用させことを条件として出している。しかし、こんなことを玉城知事が認めるはずがない。

日本政府は、このことはわかっている。稲田防衛大臣の時、ポロリと漏らしたことがあり、すぐに周りが必死で否定をしたことを覚えている方も多いであろう。

また、辺野古には、普天間にはない軍港や弾薬庫もつくられることから、代替どころか新基地なのだ。

要するに、いまの日本政府はウソで固められているということだ。

それなのに、国民の怒りが沸騰しない原因の一つは、マスコミ等、各種報道が、政府批判に及び腰で、真実を十分に正確に伝えていないことがある。NHKを筆頭に、報道機関が政府にコントロールされているからだ。

「報道の自由各国ランキング」というのがある。これでは、日本は67位。いわゆる先進国では最下位グループであり、韓国よりも低い。

http://yorozu-do.com/press-freedom-index/

最近のNHKニュースを見ると、戦前の大本営発表はこんなものだったのだろうと思う。安倍首相や菅官房長官の発言をたれ流すのがやたら多くなった。「お上には逆らってはいけない」という雰囲気を蔓延させている。

そこで、冒頭の言葉に戻る。

国家が総力を挙げて作り上げる大きな嘘は、見破るのはむずかしいが、それに気づいている人がいかに声を上げるかに、かかっている。

声を上げよう。
黙っているのは嘘をつく側の思うつぼである。

安岡良亮一族の墓(5)

明治9年、熊本神風連の乱で殉職した初代熊本県令安岡良亮(りょうすけ)の家系と墓について調べたことを、2年前、このブログに「安岡良亮一族の墓」(1)~(4)として書いた。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
2017.1.6~12

即ち、中村における安岡家の初代伝八郎良勝は中村藩(藩主山内康豊)の家臣であったが、元禄2年(1689)、4代久左衛門良儀の時、中村藩が改易されたため禄を失い、間崎村に移り住み、郷士となった。(のちに中村に戻り、良亮は10代目)

5代貞助良久の弟に伝七眞儀がいた。伝七は分家して橋上村(現宿毛市)の庄屋になった。

この橋上に移った安岡分家の墓を捜したいと思い宿毛歴史館に問い合わせていたところ、このほど、その場所らしきところを知っているという地元の人を紹介されたので、2月17日、訪ねた。

橋上に行くのは初めてであったが、国道56号線宿毛市芳奈交差点から県道を北に走ると15分ほどで旧橋上村の中心部に着いた。

ここでその方と待ち合わせ。すぐそばに旧庄屋跡があり、ここですと教えてもらった。石段の上の広い一角は、いまは菜花の畑になっているが、なるほど重々しい雰囲気が感じられる。

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90歳でもなお元気なその女性は、自分のおばあさんからそんな話を聞いたという。安岡家の人は、みんな頭がよかったということも。

それらしき墓は、この畑から見える後方の山の上にあるという。

70代男性も加え、3人で登る。斜面の道はシダで隠れており、鎌で刈りながら進む。ヒノキの植林部分に入ると日陰になり、シダや草は少なくなった。さらに登ると、墓が一列に現れた。これだという。

数えると15基ある。

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手前の3基は濱口と刻まれているが、残りは全部安岡。「宿毛市史」によれば、濱口は安岡の後の庄屋の名前だ。(3基は、濱口仁太右衛門の次男、長女、後妻の墓。安政、文久、慶應年間没。本人墓はない。)

安岡の中央の一番大きな墓石の表は戒名、裏には「橋上郷大保長 俗称安岡傳七真寅 行年八十歳 病終時安永七戊歳三月十二日」とある。

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「傳七真寅」となっているが、隣の妻の墓は橋上郷大庄屋安岡「傳七眞儀」妻となっている。

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これについては、間崎にも夫婦連名の墓石があり、この連載(3)に写真を掲載しているとおり、「橋上村安岡傳七眞儀夫婦」と刻まれている。裏面に没年月日も同じ日付が刻まれている。実家のほうにも霊をまつったのだろう。

郷土史家上岡正五郎先生(故人)作成の安岡家系図でも「傳七眞儀」となっているので、「傳七真寅」は「傳七眞儀」と同じ人物とみて間違いないだろう。

同系図では、傳七眞儀の後は、久次右衛門儀寅(文化7年没) ― 弥平太(文政13年没)と続いている。この二人の夫婦墓もあった。弥平太四女墓も。また、傳丞夫婦墓もあり、系図に書かれている弥平太の弟「傳之丞」のことであろう。

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弥平太のあとの、左蔵良稌 ― 左吉弥三郎の墓はなかったが、「左吉妻」という墓はあった。

系図には出てこない墓としては次のものがあった。

「上土居九樹両村大庄屋安岡傳七夫婦」( 没年 士嘉永元申九月二十一日 姉天保十亥十一月二十日 ) ・・・ 伝七という名前は世襲的に複数使われているようだ。

「安岡伊蔵夫婦」( 同 明治二十一年二月、同三十年旧十二月二十八日オツル )

「安岡新吾夫婦」( 同 明治四十年旧七月二十〇日、昭和二年旧七月二十九日条子 )

「安岡甚三夫婦」( 同 昭和三年四月三十日 行年五十三歳 昭和三十年一月〇〇 加太 行年七十七才 三男昇建立 )

「陸軍伍長安岡益雄」( 同 昭和十九年九月三十日 太平洋方面戦闘に於て戦死 行年二十四才 )

墓に案内してくれた90歳の女性が言うには、甚三夫婦の墓を建てた三男昇さんは市内片島に住んでいた。以前は墓参りに来ていたし、戦死した安岡益雄も同四男であり覚えている、とのことであった。この方が墓守をしていたが、いまは無縁墓になっているのであろう。

系図で左吉弥三郎に続く、良純―盛治―正篤の墓がここにないのはわかっていた。

上岡正五郎記録によると、良純は天保年間橋上生まれだが、明治に入ってから高知県官吏を経て東京に出て税務官吏を務めた。以降東京に住む。

良純には男子がなく娘光恵の婿養子に迎えたのが高知大西家からの盛治であった。

盛治夫婦にも男子がなく娘婦美の婿養子に迎えたのが、当時東大生であった大阪堀田家の正篤(まさひろ)である。

正篤は思想家、陽明学者となり、大平洋戦争終結の天皇詔勅に筆を加えたことで広く知られている。

正篤の東大時代の身元保証人は安岡良亮の長男雄吉(元代議士)であった。正篤の墓は東京都立染井霊園にある。良純、盛治墓も東京のどこかにあるのであろう。

橋上を出た良純と、上記伊蔵、新吾、甚三は同族なのであろうが、どういう関係なのか、また左蔵良稌、左吉弥三郎の墓がなぜここにないのか(左吉妻の墓はあるのに)、さらに安岡のあと橋上庄屋になった濱口仁太右衛門本人の墓はどこにあるのかなど、はっきりしないことが残っている。

しかし、安岡正篤につながる橋上村安岡分家の墓が見つかり、過去の記録が裏付けられたことで、2年越しのモヤモヤがすっきりした。(終り)

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 松田川上流の橋上

秋水墓前祭と天皇制

1月24日、幸徳秋水の命日。今年も恒例の墓前祭を中村の正福寺で開いた。

墓前祭は敗戦の翌年、幸徳家による墓前供養として始まったのが最初で、労組(中村地区労)、社共などが引き継ぎ、今は顕彰会主催。「刑死108年」となる今年も京都、岡山からを含む約70が参加した。

明治44(1911)年、秋水ら24名が死刑判決を受けた(12名は無期懲役に減刑)罪名は「大逆罪」(旧刑法73条)。天皇、皇族に対して「危害ヲ加へ又ハ加エントシタル者ハ死刑に処ス」と規定されていた。

一部にあった爆弾論議をフレームアップして、大々的な「天皇暗殺陰謀事件」(大逆事件)にでっちあげ、非戦・自由・平等思想普及阻止のための弾圧、みせしめに利用した。

戦前国家では天皇は神聖にして犯すべからずの絶対君主。全ての権力は天皇に集中。軍隊は「皇軍」であり、「臣民」は有無を言わさず戦争に動員された。

天皇中心の国家体制=天皇制は日本の敗戦で終わるかに思われたが、戦後も「象徴」として温存され、その一つが元号である。

秋水ら刑死の翌年、明治は大正に。さらに昭和から平成に変わり、平成も今年で終わる。

この間、昭和54年元号法制化、今回は初めての生前譲位による代替わりというのに、天皇制のあり方をめぐる自由闊達な国民的議論はなきに等しく、マスコミタブーは増幅されているように思える。

安倍政権出現により戦後保守本流政治は堰き止められた。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法強行など戦前システム回帰をめざす別流にバイアスがかかり、特に最近の従軍慰安婦、徴用工をめぐる問題での韓国政府への異常なまでの口出し・介入は、大逆事件と同じ年に強行した朝鮮併合を想起させる。

幸徳秋水は「思うに、百年ののち、だれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い遺して絞首台にのぼった。

その百年はすでに過ぎたが、あの時代に秋水たちが提起した問題や、彼らの首をくくった社会構造のようなものは、いまだ根本は変わっていない。

今年の秋水墓前祭ではそんな思いを強くもった。

(幸徳秋水を顕彰する会事務局長)


「高知民報」2019.2.10投稿

高知民報2019年2月10日

幸徳駒太郎の生家長尾家について(2)

3. 幸徳正夫さん長尾家墓参

さっそく幸徳正夫さんに報告をしたところ、それは本当かとビックリ。お父さん(正三氏)からは長尾家のことは何も聞かされていなかったし、父も知っていたのかどうかわからいとのこと。

九月十六日、正夫さんは長尾家への墓参と挨拶がしたいとご夫婦で帰省された。顕彰会宮本会長、尾﨑副会長、私の三人がお供して長尾家に向かった。

長尾正記さんは笑顔で開口一番、「顔を見てすぐわかったよ」。
確かに、血は争えないものでよく似ておられる。

長尾正記さんと幸徳正夫夫妻

正夫さんご夫妻は長尾家墓に手を合わせられた。家に上がり仏壇にも。じっと静かに。

話の中で、お二人が昭和十七年度生まれの同学年であることがわかった。親しみがぐっと深まる。

家の前は四万十川。正記さんはアユもツガニも採るという。中村かが車で三十分。上流すぐは旧西土佐村。正夫さんはこの辺まで来たのは初めとのこと。

別れに正記さんは「また帰ったら寄ってよ」と、おみやげに山で育てた栗をいっぱい正夫さんに渡してくれた。

正記さんは、中村の駒太郎墓も秋水墓も行ったことがないというので前もって、市役所で謄本をとってもらった日に案内をした。

駒太郎、秋水墓の前で 長尾正記さん

いつごろから途絶えていたのかわからないが、両家の親戚付き合いが復活したことをともに喜びたい。

次の秋水墓前祭からは、長尾さんにもご案内し、ぜひとも参加をしてもらいたいと思っている。(注、追記 墓前祭にはご参加くださった。)


 4.「義兄」ではない駒太郎

駒太郎が幸徳家に献身したことはよく知られている。

俵屋の後継ぎであった秋水が中村を飛び出し、自らの主義に身を投じ活動ができたのは駒太郎がいたからである。このことは秋水だけでなく、周りの者(師岡千代子、岡崎輝など)も書いている。

秋水は罰金を払えなくなった時など何度も駒太郎に援助を頼んでいる。駒太郎はその都度応えている。

秋水刑死直前、母多治が今生の別れに上京したさいも同行、その後堺利彦から秋水遺骨引き取りにも行き、中村で葬儀も出している。

こうした中、今回の調査で改めて確認をしたのは、駒太郎は秋水の「義兄」と書かれることが多いが、戸籍上では秋水の「義従兄(いとこ)」であるということ。

何度も書いたように、駒太郎は秋水の伯父篤道(父の兄)のほうと養子縁組をしているからである。大原慧氏本に整理されている幸徳家系図でも間違いなくそうなっている。

不正確な記述が流布している背景には、秋水自身が「兄」と書いていることがあると思う。しかし、これは当然のことである。

秋水は一歳で父を亡くした。ものごころがついた時には、伯父篤道夫婦が同居(二世帯同居)していたので、伯父の養子駒太郎は実質同じ家族であった。

戸籍の分類はあくまで形式にすぎない。

秋水の最大の恩人であり最も信頼を寄せていた駒太郎は、秋水にとっては生涯「兄」であったのだろう。

駒太郎は秋水刑死二年後の大正二年、五十八歳で没している。
夫婦の墓は秋水墓の左隣にある。


5.その後の幸徳家

現在これら秋水一族で幸徳姓を名乗っているのは駒太郎の子孫だけである。

秋水には戸籍上子はいない(実子小谷ハヤ子はいる)。実兄亀治(篤道養子)の一人息子幸衛の二人の子はアメリカ(前号投稿)。長姉民野(福島)は子なし。次姉寅(谷川)は娘一人。

篤道は駒太郎の嫁は民野にしたかったが、駒太郎はこれだけは固辞。奉公人としてのけじめにこだわる駒太郎の人柄があらわれている。

だからこそ駒太郎は幸徳の名を残すことに腐心した。子二人で富治がいたが、姉明にも婿(武次郎)をとっている。

実質幸徳家を継いだ富治は南国新聞を立ち上げるなど自由人的に生きた。武次郎も入野村で酒造業を始め村長にまでなった。ともに根を守った。武次郎の子は男二人(勇、正三)で正夫さんは正三の次男。(富治の一人娘三春は別姓池に)

敗戦翌年、富治が公然と秋水墓前法要をおこない、すぐに秋水名誉回復の輪が広がった背景には、俵屋の暖簾を守った実直温厚な駒太郎の人柄から一族が秋水顛末以降も周りから目立った迫害を受けなかったことが大きい。

 そんな大功労者駒太郎はどんな顔をしているのか、写真が残っていないのが残念である。(終り)

長尾家で 左正記夫妻、右幸徳正夫夫妻


「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」
58号所収 2019年1月発行



  





幸徳駒太郎の生家長尾家について(1)

1.駒太郎生家発見

エアポケットであった。

久保川村長尾家から幸徳家に養子に入り、伝次郎(秋水)が中村を出奔したあとの幸徳家を支えた駒太郎について、私はかねてよりその生家長尾家はいまどうなっているのか知りたいと思っていた。

しかし、誰からともなく、長尾家のことはわからないというような話が伝わっており、気にはなりつつもそのままになっていた。

そんな中、秋水研究会六月例会のさい、顕彰会宮本博行会長(第四代、二〇一七年就任、元四万十市会議員)から、うちの近くの久保川にはいま長尾姓の家が二つあるという話題が出た。宮本会長の自宅も久保川と同じ旧大川筋村(その後中村市→四万十市)にある。

たぶんその長尾は駒太郎の生家とは違う長尾だろうとは思ったが、念のため七月十五日、四万十川本流を遡った山間地に、農家らしいその一軒をさがし、飛び込みで訪ねてみた。

ちょうどご主人の長尾正記さんがおられ、聞くと、名前は知らないがそんな人がうちの先祖にいたというような話は聞いているとのこと。驚いた。

仏壇の先祖位牌を見せてもらうと、明治、大正時代のものに林太郎、勝太郎という親子の名前がある。近くの先祖墓にも案内してもらった。駒太郎と同じ太郎だ。

しかし、駒太郎の名はなかった。家系図はないという。久保川にあるもう一軒の長尾家は分家というから、調べる必要はない。また、過去にも長尾家がほかにあったとは聞いていないと言われる。だとすれば、駒太郎の名がないのは家を出たからかもしれない。

そこで日を改めて、四万十市役所で長尾家先祖の戸籍をとってもらった(私も同行)。しかし、駒太郎の名前は出てこなかった。

以上の経過を電話で東京の幸徳正夫さん(駒太郎ひ孫)に報告。あとは駒太郎の戸籍から調べるしかないと思い、正夫さんに戸籍をとるための委任状をお願いした。

すると駒太郎の戸籍(戸主幸徳亀治、前戸主幸徳克作)に「養兄」として「明治十五年六月二十八日本郡大川筋村長尾林太郎弟入籍ス  亡養父克作養子」「安政二年九月八日生」と記載されていた。

これでつながった。

長尾家戸籍、墓石、位牌から整理をすると、長尾家は和七(文久元年没)から始まり、その息子が平作で、平作と妻ミキの間に生まれた兄が林太郎で、その弟が駒太郎である。

林太郎以降は→勝太郎→増美→正記(現当主)と続いている。

林太郎孫の増美は大川筋村会議員→中村市会議員をつとめた地元有力者だった。正記さんはその長男(林太郎ひ孫)であることが確認できた。八月十三日。

 
2.大原慧氏調査

 幸徳秋水の家系については、かつて大原慧氏(大逆事件の真実をあきらかにする会第三代事務局長)が詳細に調べている。(大原慧「幸徳秋水の家系について」『幸徳秋水の思想と大逆事件』所収、一九七七年)

当時は、戸籍謄本は第三者でも閲覧ができたので、当然、幸徳家の戸籍は閲覧したであろうし、幸徳家伝来の系図、年譜書等(現在所在不詳)も見たと記述している。

そこには駒太郎は久保川村農家長尾家の「三男」であり、秋水の父篤明の兄篤道(別名克作)が久保川村庄屋に赴任していた明治三年、十六歳の時、篤道家の「下僕」として中村に連れて来たと書いてある。

篤道は役人志向が強く、商家俵屋を継いだのは弟篤明であった。しかし、篤明は明治五年没した。

篤明の長男亀治はすでに子のいない兄篤道の養子に出していたので、俵屋を継いだのは弟伝次郎であった。しかし、伝次郎はわずか一歳。篤道夫婦が俵屋に同居し伝次郎の「後見人」になるとともに、駒太郎を篤明家の「中継ぎ養子」とした。

駒太郎は伝次郎が少し長じてから長尾姓に戻ったとある。

その後、駒太郎は先に書いた日付(明治十五年)、二十八歳の時、篤道の「廃家予備養子」になった。「予備」とは、亀治が先に養子に入っているので、亀治に万一のことがあった場合という意味である。

このように駒太郎は幸徳兄弟二家の都合で、ころころと「居どころ=籍」が変わっている。

しかし、大原氏の記述には、駒太郎が篤道の「廃家予備養子」になった日付は書かれているが、「中継ぎ養子」「長尾姓に戻る」の日付がない。今回私の調査でもわからなかった。「三男」ということも。(注 追記  その後の調査で「三男」であることは確認できた。)

私が推測するには、これらのことは大原氏が見たという幸徳家系図、年譜書等に書かれていたのではないだろうか。

仮に、いまでは閲覧不能な(直系親族がいないので)篤明家(秋水家)戸籍にそんな記載があったのであれば、大原氏はその日付を当然書き写したであろう。

系図や年譜書は私家製である。駒太郎に納得させ、そのようなことで一族合意したとすれば、戸籍登録まではしなかったのではないか。

または、明治初年のことであり、戸籍制度そのものが整備されていなかったのかもしれない。

いずれにせよ、もらわれてきた下僕駒太郎は言われるままだったのだろう。

そんな中、当然ではあるが、大原さん調査は長尾家までは及ばなかったようであり、今回はじめて駒太郎の生家が判明したことになる。(続く)

 長尾家前を流れる四万十川
長尾家前を流れる四万十川

「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」
58号所収 2019年1月発行



プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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