FC2ブログ

元号はいらない

現天皇の生前譲位により、5月1日から新元号になる。その名称が4月1日に発表されるというので、マスコミは政府の意をくんでムードづくりに熱心だが、私には空々しく感じる。生活感覚とズレているからだ。

これまでは、天皇は命がなくならない限り、交代が許されず、よって改元の日もいつになるか予想ができなかったので、事前の新元号論議は「慎まれ」てきた。

今回は初めてのケース。空々しく感じるのは、元号の本質の議論が避けられているからだ。そもそも、元号は必要なのかという。

私は元号はいらないと思う。万国共通の西暦があるのに、元号が加わると混乱この上ない。日本社会全体が蒙る無駄なコストやエネルギーは、はかり知れないと思う。

昭和28年生まれの私は、かつては元号でものごとを考えることが多かったが、段々と西暦発想に移行し、いまや西暦が軸になっている。

だから、元号で言われても、ピント来ない。西暦に読み替えないと、頭の中に整理できない。

明治、大正、昭和については、その読み替えには、そう苦労をしなかった。しかし、平成になってからは、あやしくなった。さらに、新元号になればお手上げである。

マスコミが元号の是非を掘り下げをしないのは、元号は天皇制そのものであるからだ。天皇タブー=菊タブーには触りたくないのだ。

戦前において、日本国民だけでなく、アジア周辺諸国に塗炭の苦しみと犠牲を強いて来た元凶である天皇制は、1945年(昭和20年)の敗戦によって廃止されるはずであった。天皇は戦争責任を問われることを免れることはできなかった。

というのも、戦勝陣営である連合国は、いずれの国も天皇の戦争責任を追及すべきとの考えを示していた。アメリカもだ。

しかし、日本を単独占領したアメリカの総司令官マッカーサーは、日本に足を踏み入れてから、考えが変わった。現人神として君臨してきた天皇のもつ、なお隠然とした威力を肌で感じたことから、現実的な策として、天皇制を温存し、戦後の日本支配に利用しようと考えたのだ。

マッカーサーの意見にトルーマン大統領も応じた。名=天皇制廃止よりも、実=天皇利用をとったのだ。

その結果、天皇制は「象徴」として温存されることになった。

「象徴」とはシンボルであり、権力をもたないという建前であった。しかし、歴代自民党政府は、天皇の政治利用に腐心してきた。法的根拠をもっていなかった元号制度は1979年(昭和54年)法制化された。

天皇生前譲位という今回初めての事態に安倍政権は当初うろたえたようにみえたが、その後、これをチャンスととらえ、政治的に最大限利用している。

新元号がどうなるか、マスコミ総動員で盛んに関心をあおり、盛り上げようとしている。しかし、国民の大半は冷めた反応だ。そんなこと、どうでもいいと。

戦後の歴史において、天皇の政治利用が目立ったのは、自民党が危機に陥っていた時だ。現天皇の結婚の時のミッチーブーム(1958~59年)がそうだ。

今回も安倍長期政権の制度疲労が髄所に現われているいま、国民の不満や批判の眼をそらし、曇らせるために、改元が利用されている。

4月1日には、菅官房長官が新元号を発表したのに続いて、過去になかった総理談話があるという。安倍首相は嬉々としてしゃべるであろう。

元号を最終的に決めるのは安倍首相なのだろうし、自分に都合のよい名称にするだろう。(「安」という文字が入るのではないかとう観測もある)

重ねて言いたい。
天皇制と不可分の元号はいらない。

LOI LOIしまんと

中村にはロイロイという言葉がある。ウロウロする、キョロキョロする、というような意味である。

親子で道を歩いていて、こどもがあちこちの店を覗いたりして遅れると、親が「ロイロイするな」と言って叱る。また、大人が酔っ払って、右に左に、ふらふらに歩いていても「ロイロイするな」とおこられる。

このほど四万十市に誕生した観光ガイド団体の名称は「ROI ROIしまんと」とした。市民有志が集まったものだ。事務局は四万十市観光協会。

1年ほど前から準備をし、私も最初からかかわってきた。3月24日、そのお披露目を行った。

市広報誌や市FBで参加者を呼びかけ、集まった約10人を、「小京都中村まち歩きコース」を案内した。

一條神社 →一條家土居跡 →一條房基供養塔 →大神宮 →一條教房墓 →玉姫墓

途中にある、小姓町、樋口真吉邸跡、安岡良亮邸跡、木戸明邸・遊焉義塾跡、行余館跡、中村奉行所跡、奥御前宮、紺屋町、中ノ丁、遠近鶴鳴生家跡、幸徳秋水生家跡、などの説明もおこなった。約2時間かかった。

20190328000020280.jpg  20190328000012ced.jpg  201903280000093b0.jpg
2019032800053215b.jpg  2019032800000357b.jpg  2019032800055689e.jpg

中村は歴史の宝庫である。ほかにも、郷土博物館をメインに、幸徳秋水、樋口真吉、上林暁の墓や記念碑などをめぐる「史跡めぐりコース」も用意している。料金は1人1時間=千円です。

20190328000616de1.jpg

お披露目には、高知新聞、テレビ高知の取材があった。
ガイド希望の方は、観光協会までお申し込みください。

ロイロイ 2019.3.26



安岡良亮、雄吉の新資料について(3)

3. その他資料

一、 宮司が書いたとみられる祭文が三枚ある。一枚は良亮の父良輝(故五郎)を祭るもの。二枚は良亮を祭るもの。良亮の一枚は「藤崎宮祠官兼少講義吉永千秋」と書かれている。あとの二枚は記載なし。良輝およびその先祖墓は、中村羽生山と間崎にある。

二、 雄吉の長男隆司は煙草専売局技手、鉄道技手などを勤めていた。その勲章三通(勲八等、大礼記念章、勲七等)。

三、 隆司時代のものとみられる親族の系図、住所メモ。
この中に、雄吉の弟秀夫の墓は多摩墓地、息子の名は隼太と書かれている。しかし、隼太以降の子孫の名前と消息、および秀夫墓の場所特定はできていない。

 
 おわりに

私は2017年4月、熊本地震直後、熊本城を見通す熊本市花岡山にある安岡良亮墓を弔った。墓は県官墓地の中にあり、一番大きかったが、周りには草が生え荒れていた。

神風連の乱で殉職した熊本県初代知事でありながら、今は訪れる人もなく、県民から忘れられた存在になっているようで寂しい思いをした。

一方、谷干城は翌年の西南戦争において、西郷軍から熊本城(鎮台)を死守した英雄となり、その後華々しく生きた。

二人は維新東征で、ともに土佐迅衝隊幹部であった。千葉流山で捕縛した新選組近藤勇を板橋に連行して刑に処するさい、土佐代表の二人の強い主張が通り近藤を斬首とした。しかし、二人の運命はその後熊本で分かれた。

今回の資料によって、明治新政府の捨石になった安岡良亮の足跡が浮かび上がった。また、長男雄吉と尾﨑行雄の親交から、安岡家と尾崎家は親子二代にわたって深い付き合いをしていたことがわかった。

なお、安岡家においては、雄吉、秀夫兄弟の姉に芳(よし)と英(ふさ)もいる。

芳は桑原戒平に嫁した。戒平も維新東征に参加後、良亮に従い熊本へ。神風連の乱では難を免れ、県令代理として後始末にあたり、翌年には西郷軍とも戦った。

戒平は中村に帰り幡多郡長を務め、さらに土佐藩事業の払い下げを受け同求社を立ち上げた。明治18年、「弥生新聞」(帝政派)読者人気投票「土佐十秀」の「商法家」部門で一位になるなど県下の注目を集めたが、すぐに事業は破綻。再び東京へ出て北豊島郡長、小笠原島司、台湾新竹支庁長などを歴任した。

秋水の妻師岡千代子はその著「風々雨々」の中で「如何にも尊大なこの人(戒平)だけは、何時までも秋水を洟垂れ小僧扱ひにしてゐた」と書いている。

戒平も秋水母多治の従兄であり、実弟道一は秋水母の実家小野家養子となった。道一は兄のあと幡多郡長を務め、さらに県会議員(帝政派)に、議長にもなった。

道一の妻が英である。道一も兄の事業破綻のあおりを受け上京。その家に独身時代の秋水が居候している。

このように、幸徳、安岡、桑原、小野は同族として、幸徳秋水の生涯のいろんな局面で絡み合っている。今後もこの絡みの糸をほぐしていきたいと思っている。(終り)


< 参考文献 >

田中全 「安岡良亮とその一族」(「土佐史談」264号、2017年3月)

同 「安岡良亮とその一族(下)雄吉、秀夫、英」(「文芸はた」3号、2017年12月。ブログ「幡多と中村から」2018年1月17、19、21日に転載。)

同 「桑原戒平」(「文芸はた」5号、2018年12月。同前ブログ2019年1月8、9、10日に転載)


「土佐史談」270号
2019年3月 所収

 

安岡良亮、雄吉の新資料について(2)

 2. 雄吉にかかる資料

雄吉も同様に官位辞令書から紹介する。

一、 明治12年11月28日付、「御用掛安岡雄吉 第二課附属申付候事 元老院」(写)。

二、 同14年11月14日付、「内務省御用掛安岡雄吉 庶務局兼務差免 内務省」(資料3)。

資料3 雄吉内務省辞令
資料3 雄吉内務省辞令

三、 同17年3月7日付、「東京府御用掛安岡雄吉 庶務課兼調査掛申付候 東京府庁」。

四、 同月同日付、「非職内務省御用掛 東京府御用掛申付 月俸金六拾圓給与候事 但取扱准判任官候事 東京府庁」。

父良亮の殉職は当時の一大事件であった。その時雄吉は二十歳、慶應義塾に学んでいた。良亮の長男として衆目を集め、明治11年、最初内務省に入る。しかし、若いころでもあり、官職としての特別な事績は残っていない。

五、 尾﨑行雄借金証書「証 金壱百圓也 右六個月分拝借仕ル也 明治十二年九月二十五日 尾﨑行雄 安岡雄吉殿」(写、資料4)。

資料4 尾﨑行雄借金証(写)
資料4 尾崎行雄借用書

尾﨑行雄の父行正は武蔵国八王子で土佐維新東征迅衝隊に合流、土佐士族身分となる。以後良亮に家僕のように従い、行動を共にした。

熊本神風連の乱のあとも、行正は雄吉を除く良亮遺族を東京から中村に送り届け、行正家族も明治14年まで安岡家に同居している。

行雄は雄吉より五歳下。度會県から親元を離れ上京、雄吉と同じ慶應義塾に入った。明治12年といえば新聞記者になって結婚し、生活費に困窮していた頃であった。

雄吉の手元には父の弔慰金があった。行雄は家族同様の弟分であったので用立てたのであろう。

行雄は「咢堂自伝」に良亮との出会いについて書いているが、「婦人の友」昭和26年6月号にも「私の小学校時代」と題した文章を寄せている。

 「住居が父の上役であった安岡良亮氏の駿河臺の屋敷内にあった関係上、氏の七書の講義など時時、親子ほども年齢の違う聴講生の中に交つて聞いた。安岡氏は後に各地の縣知事を歴任した人であったが、武藝にも達し、文學についても造詣の深い人で、聴講生の中には後に名を成した人も幾人かあった。」

六、 安岡雄吉納税証書(写) 明治19年3月8日 
間崎村、津蔵渕村などの土地の記載があるので、安岡家が江戸時代に住んでいた現四万十市八束地区に土地をもっていたことを示している。

七、 明治37年3月8日付、「安岡雄吉衆議院當選證書 高知縣郡部衆議院議員選挙区 高知県知事宗像政」(資料5)。

雄吉は官を5年ほどで辞めた。元来学者肌の理論家であり、後藤象二郎提唱の大同団結運動に参加、その機関誌『政論』で論陣を張った。

明治25年、第2回帝国議会選挙では高知県第二区(高岡郡、幡多郡)に帝政派から出馬したが落選。2回目は明治35年、東京から出馬したが落選。明治37年は三度目の挑戦での当選であった。

 資料5 雄吉衆議員当選証書
資料5 雄吉当選証書

八、 同選挙資金費用「清算書」
事務所借家料、運動員日当などの明細。運動員では、幸徳駒太郎、政岡壮太郎、横田金馬、永橋太郎(三原村長)らの名前がある。

九、 明治39年4月1日付、衆議院議員安岡雄吉 明治勲章四等旭日小綬章証書。

十、 7人並んだ写真。(資料6)
 後列左が雄吉。撮影時期、その他の人物も不明。国会議員時代のものと推測されるが、おわかりになる方はご教示いただきたい。

 資料6 雄吉写真(後左)
資料6 雄吉写真 (後列左)

十一、 大隈重信からの書簡 雄吉宛(写)。 
 大隈が病気のさい見舞ったことへの礼と快癒の報告。10月20日付になっているが、年次不明。大物政治家大隈とも親交があったことを示している。

十二、 尾﨑行雄書簡(写) 隆司宛(雄吉長男)。(資料7)
 雄吉は大正10年11月1日没。その弔意を示すもの、11月4日付。雄吉の墓は神奈川県藤沢市泉蔵寺にある。

資料7 尾﨑行雄書簡 安岡隆司宛(写)
資料7 尾崎行雄書簡 安岡隆司宛(写)

(続く)


「土佐史談」270号 
2019年3月 所収

安岡良亮、雄吉の新資料について(1)

はじめに

安岡良亮(りょうすけ、1825~1876)は、樋口真吉と並ぶ幕末幡多勤王運動の領袖であり、戊辰東征に参加後、新政府に仕えたが、明治9年10月、初代熊本県令の時、不平士族神風連の乱で斬られ、命を落とした。

安岡良亮(中村市史)
安岡良亮 中村市史より

良亮、およびその長男で代議士になった雄吉(おきち、1856~1921)については、本誌264号投稿「安岡良亮とその一族」で紹介をさせてもらった。

私は幸徳秋水を顕彰する会事務局長をしている。安岡家は幸徳家と親戚関係(秋水母多治は良亮の従妹)にあり、雄吉の弟秀夫(時事新報主筆)を含め、秋水にいろんな影響を与えており、また尾﨑行雄(咢堂)との因縁があること等もあって、私はその後も同家について調べている。

同家は、良亮―雄吉―隆司―篤夫―由恵と続いており、横浜市在住の現子孫から聞きとり等をする中で、良亮、雄吉等にかかる資料が残されていることがわかり、昨年、全30点を預からせてもらった(四万十市に寄贈予定)。

その一部は、幕末維新博しまんと特別企画展(四万十市立中央公民館)第Ⅵ期において公開展示し、高知・読売両紙に取材記事が掲載された。

以下、これらの資料を紹介することにより、その後明らかになった安岡家一族の実像に迫ってみたい。


 1.良亮にかかる資料

安岡良亮の新政府入り後の経歴等については、郷土史家上岡正五郎氏(故人)が「中村市史」に概略書いており、先の投稿でも紹介したが、時期的詳細はわからない部分があった。

今回資料には良亮、雄吉の官位辞令書が多く含まれており、その一部が判明した。資料は時期が古いものから順に以下の通りである。

一、 明治2年10月2日付「位記」、「藤原良亮 叙従六位 右大臣従一位藤原朝臣實美宣言 大辨従三位藤原朝臣俊政奉行」。
 有栖川宮の推挙で弾正台に入り従六位、官位は大忠に登用されている。

二、 明治3年4月29日付「辞令」、「従五位守弾正台大忠藤原朝臣良亮 任集議判官 右大臣従一位藤原朝臣實美宣言 大辨従三位藤原朝臣俊政奉行」(資料1)。この間、従五位へ昇位、弾正台大忠から集議判官へ。

資料1 良亮集議判官辞令
資料1 良亮集議判官辞令

この辞令(官記)は当時のみ適用した用語「宣下状」のひとつで、「天皇御璽」の朱方印が上部左右に押される明治初期の異形ながら、「宣」「奉」「行」を使って天皇の命を宣(の)る古代以来の「宣旨」の名残がみえる。また、位記表現である「守」が示されるなど、新政権が王政復古だったということを示しており、近代行政文書としても貴重である。(注1)
安岡でなく藤原姓となっているのは権威付けのためか。

三、 明治3年9月14日付、「安岡集議判官 伺通謹慎被仰付候事 太政官」。
謹慎処分を受けている。理由不明ながら、上岡正五郎資料メモに「おくげのやりかたは無茶」とあるので、有栖川宮が絡んでいるのかも。

四、 明治4年3月付、「民部少丞安岡良亮 高崎藩出張仰付候事 太政官」。

五、 「藩札取り扱い意見書」(写)。
何者(不明)かが高崎藩宛に出したものとみられる。

六、 同10月28日付、「従六位安岡良亮 任群馬県権参事 右宣下候事 太政官」。

謹慎により従六位に降位させられ、民部少丞から版籍奉還後の高崎藩に出張を命じられたものとみられる。同藩は一揆がおこるなど政情不安。廃藩置県により明治4年7月高崎県に、さらに10月群馬県となり、権参事に。

七、 同11月5日付、「権参事安岡良亮 任群馬県参事 宣下候事 太政官」。
すぐに参事に昇格。

八、 同12月18日付、「群馬県参事従六位安岡良亮 任度會県参事 右宣下候事 太政官」。

九、 同月同日付、「群馬県参事従六位安岡良亮 任度會県参事 太政大臣従一位三條實美宣、正五位土方久元奉」。

高崎在任9ヶ月で混乱収拾に目途をつけたあと、同じ日付で同内容(度會県参事へ異動)の二つの辞令が出ている。度會県(現三重県の一部)は伊勢神宮の膝元で、新政府にとって重要拠点でありながら、政情不安であった。

ここで約一年半かけ事態を収拾したあと、明治6年5月、白川権令(のち県令)へ異動。白川県は明治9年2月22日付で熊本県と名称を変え、初代熊本県令になっているが、これら熊本関係の辞令は今回資料にはない。

当時熊本では旧士族の実学党、敬神党が対立、さらに熊本バンド(キリスト教)が結成されるなど各派乱立していた。良亮は硬軟両用の融和策で事態を収拾しようとし効果をあげていたが、明治9年3月、新たに廃刀令が出されたことで、ついに同年10月24日、不平士族神風連(敬神党)が暴発、その斬り込みにあい命を落とした。

十、 明治9年11月13日付「下賜」、「故縣令安岡良亮 右明治四年正月ヨリ勤続二付 目録之通下賜候事 熊本縣」。「目録」「拝供 白米一苞 阪井保佑」

十一、明治10年3月8日付「下賜」、「故熊本縣令従五位安岡良亮 兇徒暴挙ノ際非命ノ死ヲ隊ケ候段憫然二付別紙目録ノ通下賜候事 太政官」。別紙「吊祭料金三百圓 家族扶助料金七百圓」(資料2)。

資料2 良亮殉職弔意下賜 資料2別紙 
  資料2 良亮殉職弔意下賜

十、十一は良亮殉職に伴う熊本県と新政府(太政官)からの弔意下賜である。県の阪井保佑とは何者か不明(県令ではない)、明治4年からが対象になっている理由も不明。最後は従五位となっている。

良亮は維新わずか9年で、弾正台、集議判官、民部省、群馬、三重、熊本といろんなポストを渡り歩いており、新政府が揺籃期で、政権基盤がぜい弱であったことを示している。

版籍奉還、廃藩置県を皮切りに新地方制度への移行過程では、旧身分の撤廃などで不満と混乱が渦掻く中、その収集と安定のために身を削った。

人心を掌握する良亮の力量を買っての大久保利通による人事とされているが、宮仕えの辞令一つで駒のように動かさるのは、昔も今も同じである。

なお、廃藩置県後の地方官位(職位)は短期間に変遷している。最初の知藩事は旧藩主や公家が移行しているので、参事はナンバー2、権参事はナンバー3。そのあとの権令、県令は知事にあたる。(注2)   
 
(注1) 松岡司氏にご教示いただいた。
(注2) 岡村征勝氏にご教示いただいた。

(続く)


「土佐史談」270号 
2019年3月所収

続 中村政則の歴史学

  中村政則の歴史学

恩師中村政則先生が79歳で亡くなられてから早や3年が過ぎた。

このほど先生の学問的業績を評価、検証した追悼本『中村政則の歴史学』(日本経済評論社)が出版された。

中村先生との出会いは1972年入学直後、前期小平での日本史の授業。受験勉強から解放されたばかりで、高校時代あまり好きではなかった日本史なんて、いまさらと思ったが、単位消化のためと割り切ってとった。

最初の講義は日本資本主義論争について。昭和初年、講座派、労農派に分かれての一大論争。初めて知った。

歴史学とは退屈な暗記の学問であるぐらいにしか思っていなかった私にとって、助教授になられたばかりの若き先生の熱のこもった講義は衝撃であった。  

歴史に論争があるなんて。グイグイ引き込まれた。ベトナム戦争、沖縄返還、日中国交回復。学生大会による1カ月ストの洗礼を受けた時は、先生の講義がないのだけは残念だった。

後期はもちろん中村ゼミに。昭和初期の農村経済調査のため、山形に行き、みんなで報告を学生研究誌「ヘルメス」にまとめたのが未熟な痕跡として残っているはずだ。

私は研究の途に未練はあったが卒業後就職(農林中央金庫)。先生追悼本は大学院に進んだ同世代の先輩、後輩たちが中心になって編集をした。

本帯には「近現代史研究の中心的存在であった中村政則。日本資本主義史、天皇制論、地主制史、民衆史など、人々を魅了した多岐にわたるその仕事をさまざまな角度から再評価し、歴史学での位置づけを問う」と書かれている。

先生が切り開いた歴史学の方法は、「研究課題の明確な設定」、課題間の有機的連関の把握」、「研究の方向性の明示」にあるとされる。

その問題意識の原点は、よく聞かされたことだが、国民学校で学童疎開していた群馬・草津から自宅のある新宿に戻ったら、一面の焼け野原に伊勢丹だけがポツンと建っていた、その荒涼とした光景であった。

だから、先生の学問の根底には、非戦、平和、民主主義があり、新憲法への期待、擁護が貫いている。

先生のたくさんの著作、論文の中であえて代表作をあげるとすれば『労働者と農民』(小学館「日本の歴史」29、1976年)。戦後歴史学の記念碑的作品であるという評価では一致している。

この本は先生が初めて挑んだ通史であり、いかに歴史を記述するか、その方法で悩んだ末にひらめいたのが手元にためていた生の人間からの証言、聞きとりテープであった。

それまで一般的であった通史的叙述をやめ、日本資本主義の歴史的特徴(労使関係等)をもっともよく示している職業階層として、女工、坑夫、農民に対象を絞り、「人間の主体的行動と客観的な構造との統一」をめざしたものであった。

この原稿を書かれたのは、私が四年生の時であり、夏休み後のゼミで、やっと書けたよと、満足感を漂わせておられたのを思い出す。

1999年一橋退官(神奈川大学移籍)を機に、先生を囲んだゼミ卒業生の親睦組織「せいそく会」が発足。私も幹事としてお手伝いをさせてもらった。

私は55歳で退職し、ふるさと高知県四万十市に帰り、第二の人生に挑戦した。私が市長時代の2010年、四万十市民大学に先生ご夫妻をお迎えし、当地に関連したテーマ「坂の上の雲と幸徳秋水―司馬史観を問う」を願いした。講演後、四万十川や足摺岬をご案内し、喜んでいただいた。

あのころの一橋は、日本史学会をリードする教授陣であふれていた。中村先生は経済史中心の近代史、ほかに中世史の永原慶二先生、幕末社会史の佐々木潤之介先生、思想史の安丸良夫先生、現代史の藤原彰先生。

そこで私が学んだのは、歴史を学ぶとは自分の生き方を考えること。歴史にどうかかわっていくかが鋭く問われるということ。

人の思想や行動の背景には歴史認識や歴史観がある。だからいつも歴史教科書が槍玉にされる。歴史学はきわめて実践的な学問である。

いまの日本の政治経済状況を歴史の中にどう位置付け、どう対するのか。私はこれからも中村先生に学んだ歴史学を座標軸にして生きていきたい。

先生は前期でも講義をされていたので、学部を問わず受講した方も多いと思う。先生追悼本をぜひ読んでほしい。
 (元四万十市長)


「如水会々会報」1054号 2019年3月
「橋畔随想」

中村政則の歴史学 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-482.html

20181214233556303.jpg





まんぷくラーメンと四万十川

NHK朝ドラ「まんぷく」は3月いっぱいで放送が終わる。私は、朝ドラは内容次第で見たり見なかったりだが、「まんぷく」は最初から見ている。即席ラーメンの生みの親、安藤百福夫妻がモデルになっているからだ。

というのも、まんぷく食品こと日清食品と、四万十川はちょっとしたご縁があるからだ。

百福夫妻は大阪府池田市に住んでいた。その自宅の居間には、四万十川の高瀬沈下橋を描いた絵が飾られていた。夫妻はこの絵を見ながら晩年をすごした。

絵を描いたのは東博紀さんといって、百福さんの妻仁子さん(ドラマでは安藤サクラ役の福子)の姪冨巨代さん(同、松下奈緒の娘タカか吉乃)の夫である。

東さんは、四万十市が中村市時代、しばらく仕事で赴任をして来られていたことがあった。絵が趣味で、時間を見つけては、四万十川のスケッチをした。その一枚がこの絵(写真)である。

百福さんは2007年、妻の仁子さんは2010年、亡くなられ、空き家になった。絵は東さんが引き取り、四万十市で安藤家とご縁があった方に譲った。

私が市長時代の2010年、いまの市役所新庁舎に立て替えられた。2階に入った市立図書館の入口壁には、絵や写真を展示するガラスで囲ったスペースをつくっていた。

話を聞いて絵を見せてもらうと、目の前に本当の四万十川が流れているような見事な水彩画だったので、ぜひにと思い、もう一枚、佐田沈下橋を描いた絵と二枚をお借りし、展示をさせてもらったのだ。当時、高知新聞記事にもなった。

話は続く。

四万十市では毎年、四万十川ウルトラマラソン大会(100キロ、60キロ)を開いている。日清食品はスポーツ振興、特に陸上競技に力を入れているので、これをご縁に、大会スポンサーになってもらえなだろうかと思った。

東さんから紹介をもらい、東京の日清食品ホールディングス本社に安藤徳隆専務(現副社長、百福の孫)を訪ね、そのお願いをした。

結果は、スポンサーは難しいが、商品でよければ提供をさせてもらいましょう、ということになった。最初の2010年、ラーメン4800個をいただいた。以降、ラーメンは大会参加者に配っている。

四万十川沈下橋の絵が、日清食品とウルトラマラソンの「橋渡し」をしてくれたのだ。

市立図書館を利用される方は、入口壁に展示してある二枚の絵をぜひごらんいただきたい。

百福さん妻の仁子さんと徳隆さんは四万十川に来られたことがあります。

 20190309112919eb6.jpg    20190309112920059.jpg
    高瀨沈下橋          佐田沈下橋



プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR