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平成の終わりに

今日で平成が終わる。このところ、テレビはその番組ばかりである。今日は高知新聞、お前もかという異様ぶり。

私は元号には反対である。理由は先にこのブログで書いたので(3月30日)、繰り返さない。

しかし、現実問題として元号は法制化され、日本の社会制度の根幹を構成している以上、自分にとって平成という「期間」はどんなものだったのか、振り返ってみたい。

私は昭和28年(1953)生まれだから、昭和が64年1月7日で終わった時は満35歳であった。

当時は、農林中央金庫の本店に勤務をしていた。前年の秋ごろから天皇重体報道が繰り返されていた。社会全体が重くるしい雰囲気になり、職場の忘年会、新年会も取りやめになった。「歌舞音曲」は慎むべきとされ、初めてそんな言葉があることを知った。

そして1月7日。私はその日がXdayになったのを知ったのは、朝のテレビを見なかったので、通勤のさい職場のある大手町の農協ビルに日の丸の半旗が掲げられているのを見た時だった。ああ~ついに、と思った。

しばらく喪に服すことが求められた。テレビでは、昭和を振り返る番組ばかり、NHKでは一般番組が予定変更になり、「映像の世紀」や、ドラマ「花へんろ~風の昭和日記」などに。昭和は戦争の時代、その暗い映像が繰り返し流れた。

私はラグビーが好きだ。その日が高校ラグビー全国大会の決勝戦であったが、急遽中止になり、両校優勝になった。なんで、やらせてやらないのか、高校生がかわいそうだと思ったことを、強く覚えている。

戦前はこんな重苦しい時代だったのだろう、その戦前に戻った。暗澹とした気持ちにさせられた。

その点、今回は生前譲位なので、暗さはない。その分、政府は改元を政治利用しようと、その対策は準備万端、徹底している。祝賀ムード一色だ。元号の是非の議論などはタブー。マスコミの忖度、自主規制は露骨である。その効果は、この間の内閣支持率上昇に表れている。

平成移行の年の6月、私は岡山に転勤になった。初めての管理職(支店課長)になった。(岡山着任と同時に中国で天安門事件)

その頃はバブル経済の真っただ中であった。私は企業融資を担当していたので、資金需要は旺盛。新規融資先の開拓が面白いほどに進み、岡山支店はトップの成績だった。仕事が楽しくてたまらない。岡山の3年間は仕事で自分が最も輝いた時代だと思っている。

しかし、その後は仕事でいい思い出はない。バブルのシッペ返しは、平成9、10年(1997~98)、札幌で受けた。金融危機の時代、拓銀が破綻し、連鎖倒産が相次いだ。その対応、始末に翻弄された。

そんな中、平成17年、中村市が合併で消えた。自分のふるさとがなくなったことの寂しさ。なぜだと、怒りを覚えた。その怒りは収まらず、3年後、中村に帰ることで折り合いをつけた。

そして希望通りの公務につくことができた。ふるさとのために苦労ができる喜び。それまでの人生で最も充実した時間。しかし、それは4年間で突然に終わった。そしていまの自分がある。

4年前、東京から四国遍路でみえ再会した私の農林中金時代の元上司は、人生を三区分していた。第一、学び・学習の時代、第二、職業を通しての社会貢献の時代、第三、リタイア後の時代。これに従えば、いまの自分は第三の時代の11年目。

その中で、私にとって平成の期間は、第二時代の後半(管理職)から第三時代の半ばまで、ということになる。

自分の人生は令和で終わると覚悟を決めておこう。

明日からは、第三時代の後半に入る節目にしよう。やりたいことは、たくさんある。悔いを残さず、有終を迎えられるよう、日々の生活に目標と計画性をもって臨みたい。

韓国映画「金子文子と朴烈」 

朝鮮独立三・一事件から100年の今年、朴烈事件をテーマにした韓国映画が全国各地で上映されている。

大逆罪(旧刑法73条)が適用された事件は四つある。幸徳秋水が首謀者に仕立てられた事件が最も有名で「大逆事件=幸徳事件」とされることが多いが、実際はほかに、時代順に虎ノ門事件(難波大助)、朴烈事件、桜田門事件(李奉昌)もある。

朴烈事件とは、関東大震災のさい拘束された無政府主義者で朝鮮独立運動家の在日の朴烈とその内縁の妻金子文子が裁判の過程で天皇暗殺計画があったと供述したとされ、あとで大逆罪が適用された事件。死刑判決(無期懲役に減刑)を受けた。

二人と幸徳秋水の直接の接点はない。しかし、日本による朝鮮併合は秋水らが逮捕された同じ年(1910年)であったように、秋水はこの問題に深い関心を寄せ、平民新聞などで論陣を張った。伊藤博文をハルピン駅で暗殺した安重根に対しては、その「義挙」を称える漢詩をつくった。秋水は、最終湯河原で逮捕された時、カバンの中にその詩を書いた安重根の絵葉書をもっていた。

2011年7月、韓国テレビSBSは毎年8月15日独立記念日に流している特別番組として、その年は朝鮮独立に影響を与えた日本人3人を取材するため来日。最初に幸徳秋水の中村に来ている。ほかの2人は金子文子と、その裁判で弁護活動に奔走した布施辰治(弁護士)。

映画「金子文子と朴烈」(2017年制作)は、人気俳優(イ・ジュフン,チェ・ヒソ)を主役に配し、韓国での観客動員235万人、大鐘賞映画祭で5冠達成という話題を呼んだ作品。

日本映画ではみられないストレートな天皇批判があり、韓国映画特有の小気味のいいほどに早い場面展開に釘付けにされる。日朝関係史を朝鮮の視点から考えることもできる。

映画配給会社(太秦)から「幸徳秋水の中村、高知で」という要請もあり、6月、中村と高知で自主上映します。
ぜひ、ごらんください。


 韓国映画「金子文子と朴烈」上映会

 6月16日(日) 10時、13時、16時
 四万十市立中央公民館ホール
 主催 幸徳秋水を顕彰する会
 後援 四万十市教育委員会
 入場料 前売1000円、当日1200円
      学生・障がい者 各200円引き

 6月18日(火) 14時、16時半、19時
 高知県立美術館ホール
 主催 かってにシネマ
 入場券 前売 一般1200円、60歳以上1000円、
       当日 一般1400円、60歳以上1200円
       学生・障がい者 各200円引き

映画公式ホームページ →http://www.fumiko-yeol.com/?fbclid=IwAR1FP3vAav09qMzqN2k54wrWRLfPSu_nLfakKWHL-qyl86_igSE2dL_vQ7Y

森近運平墓前祭

4月21日、岡山県井原市高屋で開かれた森近運平墓前祭に参加した。4年ぶり3回目。

森近運平は大逆事件で幸徳秋水らとともに処刑された12人の中の一人である。墓前祭は毎年この時期、地元の「森近運平を語る会」主催により、生家跡で開かれている。墓は隣りにある。

生家跡には記念碑が1961年建てられ、運平が獄中で詠んだ歌が刻まれている。午前11時から、青空の下、この記念碑の前にイスを並べて、最初に語る会の森山誠一会長があいさつ。

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続いて、東京からみえた、大逆事件の真実をあきらかにする会の山泉進事務局長と大岩川さん、作家の田中伸尚さん、私、京都丹波岩崎革也研究会奥村正男さん、管野須賀子の名誉を回復し顕彰する会(大阪)立石さん、神戸の津野さんほか、地元の方数名も挨拶ないし活動報告をした。参加者は50~60人くらい。

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そのあと、墓の前で順次焼香、手を合わせた。

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各自昼食を済ませたあと、午後13時半からは、近くの高屋中北公民館に移り、語る会総会をおこなった。

森近運平を語る会は、地元有志によって、1990年につくられ、先覚者運平の研究、啓発、名誉回復をすすめてきていますが、会則等もない任意団体であることから、今後継続的組織として発展させていくために、会則等もつくり、会員(会費も)をつのった会として改組することになった。名称はそのまま。

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再スタートの会長は引き続き森山さん(笠岡市在住)がつとめることになり、その他役員、事務局を新たに選任した。

会員は事前に勧誘し岡山、広島県内を中心に100名くらいになったそうだが(私も入会)、問題は地元の井原市内が少ないこと。総会にもみえたのも2名だった。

四万十市、新宮市などと違い、従来から井原市は行政としての取り組み・関与が少なく、、このあたりが今後の課題となっている。幸徳秋水を顕彰する会としては、今後も連携交流をする中で、これらの解決の協力をしていきたい。

墓前祭のために家を出たのは前の日で、瀬戸大橋を通り、岡山市内に前泊をした。

私は1989~92年の3年間、仕事の転勤で岡山市内に住んでいたことがあるので、土地勘がある。その後も大阪への行き帰りなど、たびたび立ち寄っている。2015年には、第1回岡山マラソンにも出場した。

今回は、久しぶりに後楽園、岡山城、林原美術館に入った。後楽園は30年ぶりか。この年齢になって初めて庭園のよさがわかったよう。

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夜は、仕事帰り行きつけだった居酒屋「もりもと」さんへ。前のご主人は亡くなり、代替わりしていたが、懐かしい顔ぶれのみなさんも残っていた。安くておいしい人気店としてますます賑わっている。5月20、BS11「居酒屋百選」で紹介されるとのこと。

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当日は、吉備路経由井原へ。途中、備中国分寺前を通った。シンボルのレンゲ草が咲き始め(満開は少し先)、いい雰囲気であった。伝次郎も大喜び。

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高梁川を越えると真備町(合併して倉敷市)に入る。去年、大水害にあったところだ。屋根にビニールシートがかかった家や、放置されたような家など、被害の痕跡が痛々しい。氾濫した小田川に沿って遡ったところが井原だ。

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集まりが終わったあとは、福山、尾道、しまなみ海道を渡って今治へ。インターを降りるところに加計学園(岡山理科大獣医学部)が見えた。莫大な補助金で誘致し、今治の新名所になったことを市民はどう思っているのだろうか。

海城の今治城をまだ見たことがなかったので、それを見てから、宇和島を通り、家に帰ったら、22時半になっていた。四国、中国ぐるり一周の旅だった。

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平成と安岡正篤

高知新聞4月11日付「検証新元号令和」記事の中で、平成元号考案者に安岡正篤説があることを紹介している。

安岡正篤(1898~1983)は思想家で陽明学者。政財界の要人(歴代首相など)の指南役として有名で、太平洋戦争降伏の天皇詔勅に筆を加えたことでも知られている。平成改元時の竹下登首相とは親交が厚かったようだ。

安岡家の祖は中村藩家臣であったが、元禄2年、改易により禄を失い間崎村郷士となった。五代の時、橋上村庄屋として分家。数代後の明治初年東京へ出て、大阪出身の東京帝大生堀田正篤を養子に迎えた。

安岡本家を継いだのは幡多勤王運動の領袖で維新東征にも参加した良亮。明治新政府に入り、初代熊本県令(知事)となったが、明治9年、神風連の乱で斬られ命を落とした。

良亮の母は幸徳秋水の母多治(小野家)の伯母であったから、良亮と多治はいとこになる。こうした関係から、秋水は安岡家の人々から様々な影響を受けている。

秋水は後に大逆事件の首謀者に仕立てあげられ刑死。一方、安岡正篤は天皇を尊崇する立場から思想を深めた。道は分かれた。

戦後、天皇制は廃止されるかと思われたが「象徴」として存続。刑死から108年。秋水はいまも元号が残っていることをどう思っているだろう。


 高知新聞 声ひろば投稿 2019.4.19

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秋水餅

中村の和菓子店、右城松風堂に秋水餅という菓子がある。もちろん幸徳秋水にちなんだ名前だ。

右城松風堂の看板商品は筏羊羹(棒状の羊羹を筏の形に紐でつなげている)である。空港や駅、道の駅など、県内あちこちに置いてある。中村を代表するお菓子だ。

もう一つ、鮎最中(アユの形)も有名。筏羊羹と鮎最中のセットがよく売れているようだ。四万十川がいまほどに有名でなかったころからある商品だ。

それらに比べて、秋水餅はどれだけ知られているだろうか。大逆事件関係者などは知る人ぞ知るで、秋水墓参にみえた方などは記念に買って帰るようだし、私も関係者への手土産などに使っている。みんなに喜ばれる。

しかし、一般には宣伝をしない地味な商品であるから、市民の間でもそんなに知られていないのではないかと思う。

そもそも店のルーツはいつごろなのか。4代目という今の女性店主に聞いてもはっきりしたことはわからない。昭和21年の南海地震で記録が焼失したという。

ただ、はっきりしているのは、右城(うしろ)という珍しい姓は、高知県内でも県中央の山間部、嶺北地方と言われる長岡郡本山町にしかないこと。お店の古い墓もそちらにあるという。

おそらく、明治のいつごろか、嶺北から中村に何かの商売でやってきて、そのまま居ついたということではないかという。

秋水餅はいつごろからつくられているのかというと、これもキチンとした記録がないという。秋水の名前をおおっぴらに使えるようになった戦後であることは間違いないのであろうが。

そんな中、最近、高知新聞の名コラムニストと言われ、秋水や坂本清馬とも交わった中島及が秋水餅について書いている文章を見つけた。昭和30年8月、「県民クラブ」(高知新聞発行)に書いたエッセイ「「秋水餅」に寄せて」である。(鍋島高明編「中島及著作集 一字一涙」2014年高知新聞社刊所収)

これによれば、中村の幸徳富治から売り出されたばかりの秋水餅を送ってきた、また富治は堺為子(堺利彦夫人)にも送ったと、書いている。とすれば、秋水餅は昭和30年の、このころ商品化されたとみて間違いないだろう。

菓子には「幸徳秋水小傳」なる栞がついており、冒頭「民主人民政府の人柱にあがった革命家幸徳秋水は・・・」から、秋水の生涯を長々と解説しており、末尾は「大逆事件は当局のデッチアゲ」と、秋水への熱い思いに溢れている。

秋水餅をつくったのは、店が秋水ゆかりの自由亭跡地(自由民権家たちが集まった演説会場)に建っており、また秋水墓にも近いからだとも書いている。

現店主によれば、このころの店の主人は父の右城金喜さん(大正6年生れ、平成3年没、73歳)さんで、郷土史家上岡正五郎氏と相談しながら文章を書いたという。

商品も最初のころは、普通にあるようないわゆる餅であったが、当時は包装資材もなく、日持ちがしなかったことから、40年ほど前から、いまの形にしたそうだ。

いまのものは、写真のとおり。小さく切った羊羹と餅を、白い米の干菓子で上下はさんでいる。干菓子は四万十川のアオノリ入りと2種類ある。餅というより、形はクッキーとう感じ。上品な菓子である。1ケ140円でだから決して安くはないので、お茶菓子として、じっくり味わいながら食べるといいと思う。包装の唐草のような模様は、特に意味はないそうだ。

お店は幸徳秋水を顕彰する会会員になってくれている。店には、機関誌「秋水通信」や販売用の「秋水読本」「絶筆色紙」も置いてくれている。秋水墓の掲示板にもそのことを書いて、誘導している。

金喜さんは、1971年、当時の中村市が「秋水刑死60年記念幸徳秋水展」を開いたさい、所蔵の秋水書と堺利彦書を貸してくれたいう記録が残っている。

現店主にそのことを聞いたが、その書はいまどこにあるのかわからないので、探してくれるという約束になっている。

今年の秋水桜を観る会(3回目)は、3月30日におこなった。隣の裁判所庭から秋水墓を包むように枝を伸ばして咲く桜を、われわれは秋水桜と呼んでいる。

今年の参加者には秋水餅を配った。秋水桜の下で秋水餅を、みんなおいしそうに食べていた。

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安岡正篤

新元号が令和と決まったことで、その考案者は誰かということに関心が集まり、万葉集研究者の中西進氏(元大阪女子大学長)だろうという報道がされている。間違いないようである。

4月11日付高知新聞では、これに関連した記事で、平成の考案者についても触れている。こちらのほうは、二つの説があり、二人の名前が挙げられている。

いずれも、すでに故人の山本達郎東大名誉教授と思想家で陽明学者の安岡正篤(まさひろ)。

このうち安岡正篤(1898~1983)は、政財界の要人(歴代首相など)の指南役(黒幕)として有名で、太平洋戦争降伏の天皇詔勅に筆を加えたことでも知られている。平成改元時の総理大臣竹下登とは親交が厚かったようだ。

安岡正篤は、このブログでも何度も書いてきたように、中村の安岡家の末裔であり、幸徳秋水にもつながっている。

安岡家の祖は、中村藩(初代藩主山内康豊=一豊の弟)に仕えた家臣であったが、元禄2年、4代久左衛門良儀の時、中村藩が改易になったことから禄を失い、中村郊外の間崎村に移り住み、郷士となった。

久左衛門の後を継いだ5代貞助良久の弟に伝七眞儀がいた。伝七は分家し、橋上村(現宿毛市)の庄屋になった。

その末裔の良純は明治初年、東京に出て税務官吏となった。その長男盛治(養子)は娘一人しかいなかったので、当時東京帝大生であった大阪生まれの堀田正篤と養子縁組をし、娘(婦美)と結婚させた。

堀田正篤は安岡正篤になった。

安岡本家の末裔にあたるのが初代熊本県令(知事)安岡良亮である。良亮は明治9年、熊本神風連の乱で斬られて命を落とす。

良亮の母菊は幸徳秋水の母多治の伯母(父小野亮輔の姉)であるから、良亮と多治は従兄妹になる。こうした関係から、秋水は安岡家人々から強い影響を受けている。

秋水は大逆事件の首謀者に仕立てあげられ刑死した。一方で、安岡正篤は元号平成の考案にかかわったのではないか、とされている。歴史の皮肉。

元号は国民主権とは相反する天皇制の残滓といえる。刑死から108年、秋水はいまも元号が残っていることをどう思っているだろうか。

なお、インターネットのウィキペディアなどでは、安岡正篤は安岡良亮の長男雄吉(代議士をつとめた)の養子(娘婿)と書かれている。雄吉は同族として正篤の東京帝大時代の身元保証人にはなってはいるが、これは間違いである。


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   安岡正篤      高知新聞 2019.4.11


参考
本ブログ 2017.1.10  2019.2.19

四万十の日

きょう、4月10日は「四万十の日」。

旧中村市時代の1989年(平成元年)に制定。四万十川の清流を守り、その豊かな環境や文化を将来に残していくために、市をあげて、その保全活動に取り組んでいくことを、目的としたものです。

この目的を実現するための市民横断的な組織として「四万十の日実行委員会」も結成。現在、区長会、婦人会、商工会議所など、官民33団体が加盟しています。

「実行委員会」では、いろいろな取り組みをしています。その一つが、市民による川の一斉清掃。毎年4月、沿川各所で行なっており、今年は4月14日(日)に行なわれます。小学生を対象に、四万十川に棲む生物の生態観察会なども開いています。

4月10日は、14年前(2005年)、四万十市が誕生した日でもあります。
この日、旧中村市と旧西土佐村が合併しました。

四万十市にとってはめでたい日ですが、中村市と西土佐村にとっては命日でもあります。中村に愛着をもつ私にとっつては、寂しい思いのほうが強いです。

13年前からは、この日、「四万十川船上結婚式(しまんとウエディング)」を市民有志が行っています。全国から、3組のカップルを募集し、全費用が一組40,010円。屋形船に載り、三里沈下橋がバージンロードになります。

結婚式と言えば、いまの今上天皇夫妻が結婚したのも1959年(昭和34年)のこの日であることを、きょう知った。天皇生前譲位により、今月いっぱいで退位になり、5月からは元号が「令和」に変わる。

昭和が令和になろうと、四万十川には関係がないこと。
悠久の川は、いつまでも滔々と流れてほしい。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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