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市立愛育園の歴史(3)

愛育園を青年団がつくり運営をしたのは、南海地震の復興途上、行政側に子どもの面倒までみる余裕がなかったという緊急事態の中でのことであったから、いずれ落ち着いてきたところで、運営を町に移管することは既定路線であり、その後中村町に移管された。子どもの面倒をみていた女子部員の多くは町職員として採用された。

昭和29年(1954年)、中村町は周辺10町村と合併し中村市になった。さらに、平成17年(2005年)西土佐村と合併し四万十市になった。

この間、昭和56年、敷地が手狭になったこともあり、新たに区画整理されたすぐ近くのいまの広いところに移転をした。

市内の保育所は具同、古津賀など地名をつけた名前が大半(もみじ、青木は木の名前)で、「・・・保育園」となっている中で、「愛育園」が異色をはなっているのは、こんな歴史的背景があるからである。

思えば、戦後まもないころ、幡多の青年団が果たした役割は大きかった。高知県の中でも、いや全国の中でも、幡多郡の青年団の活躍は際立っている。

共励会と称した定期的な勉強会を開いて方針を決め、文化行事、スポーツ大会、各種社会奉仕や改革活動に取り組んだ。

中村青年団から、幡多、高知県へと連合組織を拡げ、いずれも初代団長になった兼松林檎郎の名前は有名である。林檎郎が、いつも訴えたのは「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」であった。

幡多郡青年団は、林檎郎の提唱で学校もつくった。幡多公民学校で、正式名称は「幡多郡連合青年団立 幡多公民高等学院」。戦後の混乱の中、向学心があっても経済的事情で高校へ行けない青年のために、授業は毎月1週間、年限3年であった。場所は、いまの中村病院のところ(元兼松病院跡)。国から認定を受けた正式の学校であった。

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 幡多公民学校前で

林檎郎の功績を称える顕彰碑が為松公園にあがる途中に建っているのをご存知の方も多いであろう。

兼松林檎郎については、青年団の財政を支えた太陽館(澤田寛)の役割と併せ、以前、このブログに書いているので、詳しくはこちらを読んでいただきたい。

  兼松林檎郎 → http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-308.html
  青年団と太陽館 → http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-353.html

幡多は青年団運動の中で、兼松林檎郎だけでなく、地域を動かす多くのリーダーを生んだ。中村は、長谷川賀彦(市長)、田頭文吾郎(県議)、清水は矢野川俊喜(市長)、大方は小野川俊二(町長)、西土佐は中平幹運(村長)、など。

その多くの方は、先に紹介した『青春の軌跡―幡多郡連合青年団活動の記録』の編集委員としても名を連ねている。

この中の中平幹運さんは、西土佐を代表する青年団運動指導者であり、旧津大村青年団長のあと幡多郡連合青年団長も務めている。兼松林檎郎を熱く尊敬をしていた。「記録」に投稿し、座談会でも発言をしている。すでに故人だが、今回の事態を憂えていることだろう。

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   記録編集委員      中平幹運さん

愛育園は、幡多郡の青年団運動が残した血と汗の結晶であるとともに、南海地震の被災からの共助、支え合いの復興のシンボルである。そうした意味で、中村の、そして幡多のわれわれが忘れてはならない「歴史遺産」でもある。

次の南海地震が近づいており、その対策が急がれている中、なんと四万十市が過去の教訓のシンボルを、いまなくしてしまおうとしている。

これでは、四万十市は市民の命を本当に守ろうとしているのか、疑われてもしょうがない。行政不信につながってしまう。

愛育園をなくしてはならない。四万十市は公的保育を継続し、市の将来を担う子どもたちの保育に責任をもたなければならない。

四万十市の公的保育放棄方針の見直し、撤回を求めたい。(終り)

市立愛育園の歴史(2)

昭和21年12月21日、南海地震が発生した。

旧中村町は四万十川本流と後川に挟まれたデルタ地帯に乗っかっており地盤が弱いことから、ほとんどの建物が倒壊し、さらに火災も発生したことから、壊滅状態となった。死者の数は、市町村別では全国最多の273人に及んだ。

呆然自失の中、復旧復興に前面に出たのは青年団であった。中村町青年団(団長・兼松林檎郎)は敗戦からわずか2週間後、昭和20年9月1日、いち早く結成されていた。

地元はもちろんのこと、幡多郡下の青年団が続々と中村に結集し、あらゆる救援活動に従事した。

震災直後、救援物資が下田港に船で届いた。その運搬搬入は道が陥没してトラックが使えないので、青年団が大八車などの人海戦術で一手に引き受けた。

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被災者は、がれき撤去作業などで、子供の面倒をみることができなかった。当時、中村町内には町立保育所(名前は中村幼稚園)がひとつだけあったが倒壊。行政は、緊急事態でやるべきことがたくさんあり、保育所どころではなかった。子どもは放置された。

そんなことから、子どもたちの世話は中村青年団が引き受けることになった。場所がないので、一條神社の境内に集め、女子部員が中心となって、青空保育をおこなった。子どもは150人ほど集まった。

しかし、一條さんは山の上であり、子どもには危険ということで、次は大神宮に移った。だが、夏場に、子どもの一人が「あつけ」にかかり死ぬという事態がおこった。

これは大変、バラックでもいいから屋根が必要ということで、いろいろ物色したが、ほとんどが倒壊しているためそんなところはない。では、自分たちで建てようということになった。

中村青年団でこれの担当になったのが、本田悦造さん(本田歯科弟、のち高校教員)と澤田寛さん(太陽館)であった。

その頃、中村青年団初代団長兼松林檎郎は、新たにつくった拡大組織、幡多郡連合青年団団長も兼ねることになったので、本田さんが中村青年団の2代目会長になっていた。

建設場所は中村小学校の北西角の農地(いま清水バレー教室のある一角)を、藤娘酒造の山本充さんが青年団のためということで、1反20万円という安値で譲ってくれることになった。

しかし、カネがない。建築資金も。そこで、本田さんは、昭和22年7,8月の70日間、地元選出国会議員などに寄付をつのるため上京した。本田さんは、一高、東大を出たばかりであったので、東京には土地勘と人脈があった。

一高時代剣道部の先輩石田和外氏(司法省人事課長、のちの最高裁長官)宅に泊まり込ませてもらった。

寄付集めは、最初なかなかうまくいかなかったが、中村の子どものためという趣意書と熱意が通り、徐々に集まりだした。吉田茂総裁、林譲治、寺尾豊、西山亀七各代議士など。

林譲治代議士からは、「今回の君の趣意書は関係大臣にも渡り、保育行政上の政策にのせることになったよ」の言葉をもらい、感激した。

保育所の名前は愛育園とすることにした。
子どもを愛(いつくしみ)育(はぐくむ)。

いよいよ土地造成から始まった。大工の棟梁は宮上さんに頼んだが、素人でもかまわないということで、青年団が入れ替わり手伝った。

最初屋根は杉皮葺であったが、お粗末だということで、瓦葺の天井付き、取り外し可能な仕切りをつけ、4室と3畳くらいの事務室に便所。青年団が会合をする時は仕切りをはずして広いホールにできるようにした。

青年団の献身的な活動が認められ、昭和22年12月、高知県厚生課は愛育園を公認保育園に指定した。戦後はじめてのことで、ほかに旭保育園(高知市)、宿毛保育園も認可された。国、県の補助金をもらえるようになった。

昭和23年5月には、奈良ホテルで、第1回保育連合会奈良大会があり、本田団長が参加。まわりの代表は年配者ばかり。青年団がつくった保育所というのは全国のほかにはなかったものだから、会場で紹介され、万雷の拍手を浴びた。

そして昭和23年10月、愛育園は落成した。園長には一條神社宮司川村清水氏に就いてもらった。運営は無償奉仕で、中村町からはいっさいの補助は受けなかった。

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    落成の日

中村の郷土史家の沢田勝行さん(昭和19年生れ)は、落成後愛育園への入園1期生であり、入園当初、まわりは田んぼばかりであったことをおぼえているという。

以上は、平成10年(1998年)5月発行された『青春の軌跡 ― 幡多郡連合青年団の記録』(同編集委員会発行、代表長谷川賀彦)を参考資料にしており、一部引用もある。同記録は図書館で借りられる。(続く)

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市立愛育園の歴史(1)

四万十市6月市議会冒頭、中平市長は「市長説明要旨」において、市の中心部中村にある二つの市立保育所(愛育園、もみじ)を統合したうえで、民設民営に移行させる方針を打ち出した。

少子化と、施設の老朽化(特にもみじ保育所は昭和48年建設で耐震不備)のため、私の市長時代から二つの新築統合は将来やむなしとの見通しをもっていた。

現執行部もこうした判断から、2年前に中村東町の旧日本たばこ中村営業所跡地を取得したことから(私のころから候補地にあがっていた)、いよいよ統合後の保育所を市がここに建てるであろうことは、誰もが予想をしていたことであった。

この間、民営化の議論はまったくなかった。ところが、ここにきて突然、「民設民営」の話が出てきたのである。

中平市長は議会質問に、この間、民営化についてはじっくり検討してきたと答えた。驚きである。それは保護者や市民の声を聞かずに、内部で密かに検討をしてきたことを意味している。

2021年度開園というスケジュールまで固めた案ができたところで、突然に出してきたのである。そんなのは相談ではなく押し付けである。

では、何のために土地を買ったのか。転売するのか、貸すのか。それとも多用途に使うのか。保護者等から不安の声が広がり、反対署名活動が始まっている。当然である。

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  署名用紙

一般論としての保育の民営化については、行政改革(行政のスリム化)の一環として、私の前の澤田五十六市長時代に検討の俎上にのぼっていた。ほかに市民病院の民営化も。しかし、この議論は公設民営(運営のみを民間委託)が前提であった。

私は民営化そのものに反対の公約を掲げて2009年当選し、この論議を凍結した。

しかし、2013年に中平市政になってから、再び澤田路線が復活し、この6年間で、市民病院の給食部門、図書館(歴史資料管理を除く)の民間委託が行われ、その延長線が今回の問題となるのである。

今回「民設民営」ということは、施設も民間がつくることになるので、市は全面撤退するということである。

これまで乳幼児部門を除けば(民間乳児幼児院が3つある)、四万十市の保育は中村市時代から全面的に市がおこなってきた(幼稚園は民間1つある)。

かつて中村市は「保育王国」と言われたほどに市の看板であり、充実した保育がおこなわれてきた。その伝統はいまも引き継がれている。なのに、今回、市の責任放棄は、ついにここまできたのかという思いが強い。

市は「多様なサービス提供」など、理由をいろいろあげているが、要はコストを削減したいというのが唯一最大の狙いである。保育にカネをかけたくないということ。

厳しい財政運営のもと、無駄なコストの削減は必要と思うし、私も4年間、メリハリのきいた予算配分には心掛けてきたつもりだ。

重要なのは事業の優先順位であり、地域の将来を担う子供の保育への投資は最重要であろう。クチで子育て支援と言いながら、保育園コストを削減することは、自己矛盾。

例えば、いま移住促進を県市あげて推進しているのに、こんなことでは、若い夫婦は四万十市を敬遠するであろう。

今回問題が大きいのは、二つの保育園は市の中心部の拠点保育所であって、中でも愛育園(現在園児75人)は市内で一番歴史が古い保育所であり、市の保育行政のシンボルとなっているということ。この保育所が「廃止」され、「なくなる」ということである。

昨年、山間部にある川登保育所、本村保育所も入所者減少により廃止されたが、それとは意味合いがまったく違う。市の保育政策の根幹にかかわる問題なのである。

しかも、愛育園は、保育の分野だけでなく、四万十市おいて、忘れてはならない「歴史遺産」といえる施設でもある。

以下、その歴史について書いてみたい。(続く)

愛育園2   愛育園1
             愛育園


追悼 田頭文吾郎

6月17日、田頭文吾郎さんが亡くなった。87歳。

文吾郎さんは25歳から共産党中村市会議員3期、高知県会議員8期をつとめ、78歳で議員は引退したものの、それ以降も最後まで、農業と政治の二足わらじで、幡多の大衆運動のシンボル的存在であった。

私は子どものころからその名前を知っているほど中村では有名人で、「ブンゴロー」という名前がかっこよく、英雄的な響きをもっていた。

私が文吾郎さんの顔を初めて見たのは学芸高校2年生で高知市内にいた時。夏の甲子園予選で地元の中村高校を応援に高知市営球場に行ったさい、スタンドで見かけた。

笑顔で「よ~」と、まわりに声をかけていた。この人があのブンゴローなのかとしげしげとみつめた。この年、中村高校野球部は南四国大会まで行った。(その後、昭和52年、文吾郎さんの長男克文さんが主将となり、「二十四の瞳」でセンバツ甲子園準優勝をした。克文さんは、現在高岡高校校長で高野連会長))

私はずっと地元を離れていたので、文吾郎さんと接することはなかった。私が50歳のころ、たまたま帰省していた時、中村駅から同じ列車になったので、思い切って挨拶し、途中の高知駅までご一緒させてもらったことがある。話をしたのはその時だけであった。

そんな私に文吾郎さんと深い縁ができたのは、市長選挙に出るために55歳で帰って来てから。私は当時の民主党、共産党、社民党の推薦をもらったので、文吾郎さんも全面的に応援してくれた。

地域を連れまわしてもらい、選挙カーにも乗ってくれた。こちらは選挙の素人なので、挨拶、握手や、マイクの使い方、演説の仕方まで、熟練のノウハウを事細かく教えてもらった。厳しくチェックされ、何度も注意された。

文吾郎さんは会う人みなに「よ~ 元気だったかい」と声をかける。さすが、顔が広い人だなと関心をした。しかし、よく聞くと、あれは知らん人だ。しかし、相手は自分のことを知っている。声をかけられて悪く思う人はいない、とケロっと笑っていた。

文吾郎さんには、共産党は好きではないがあいつは別だ、という「田頭党」がたくさんいた。だから選挙には強かった。定数2で共産党県議を8期もつとめたのだから、驚異的なことである。

しかし、文吾郎さんも最初から選挙に強かったわけでない。苦労と努力、経験の積み重ねの結果である。敵味方関係なく親身に接し、相談事を受けるとすぐに対応する。そうして信頼関係と人脈をコツコツと積み上げていった。私は文吾郎さんのことを悪く言う人に会ったことがない。幡多弁で「選挙ば~ 面白いもんはないゾ~」が口癖だったという。

文吾郎さんは昭和7年4月16日、中村の京町生まれ。姉3人、弟2人がいた。父親が事業に失敗し、戦中、一家で郊外の敷地に引っ越し。父は田んぼを借り、百姓(小作)になった。戦後、農地解放で自作農になったとはいえ、生活は楽ではなかった。

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文吾郎さんは旧制中学1年生で敗戦。3年生の時、学制改革により、中村中学は新制中村高校に移行。大半の生徒はスライドで高校に進んだが、家の経済状況を考えた文吾郎さんは、断念した。

文五郎さんは、土方仕事(日雇い)に従事した。農業のかたわらというより、土方仕事が中心であった。戦後は、道路改良や後川治水堤防工事など仕事はいくらでもあった。

昭和29年中村市誕生に合わせて、天神山を切り取って市役所庁舎を建てたさいには、ツルハシ一つで山を削る作業にも従事したという話を聞いた。長男として家計を支え、弟2人は高校に進ませた。

戦後解放の自由な息吹の中で青年団運動にも参加。すぐに頭角を現し、地元後川村青年団長 →中村市連合青年団長 →幡多郡連合青年団長 →高知県連合青年団副団長に就いた。

こうした活動の中、20歳で共産党に入党。昭和32年、被選挙権を得た25歳の誕生日のその日が告示日であった中村市会議員選挙に立候補。最年少議員となった。

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3期目満期直前に市議を辞め、県会議員選挙に挑戦。この時は届かなかったが、4年後当選した。

再選はならなかったが、次は当選。しかし、また落選と当落を繰り返したが、3回目の当選以降は8期まで連続当選をした。6期目は無投票であった。

後半は、少し若い自民党の土森正典さんと、自共で指定席であった。土森さんも9期連続当選し、この4月で引退した。土森さんは県議会議長を3回もつとめた。しかし、共産党の文吾郎さんはずっと一議員で通した。無冠こそ勲章。与野党を問わず、また歴代知事からも一目も二目も置かれる存在であった。

私は市長選で再選がならなかったあと、「たった1回落ちたば~で諦めてどうすりゃ~」とハッパをかけられた。いまでも忸怩たる思いである。

文吾郎さんは議員になってからも農業をずっと続けた。田んぼ2町歩をつくっていた。百姓が大好きであった。だから、農業問題では譲れなかった。

橋本大二郎知事と議会での「コメ論争」は有名で、知事はついに国の減反政策には従わないと表明。知事の県政スタンスは大きく変わっていった。

文吾郎さんは理論家というよりも典型的な実践家タイプの政治家であったが、この時ばかりは、実践と理論の統一を確信したのではないだろうか。

文吾郎さんは仲間や支持者から「文ちゃん、文ちゃん」と気安く呼ばれていた。しかし、ずっと年下で、おつき合いも浅い私などは、とても恐れ多くてそのようには呼べなかった。「田頭さん」か「文吾郎さん」であった。

若いころからスポーツが得意で、走るのも速かった。四万十市体育協会会長も長くつとめ、シニアソフトボールでも生涯現役であった。

そんな文吾郎さんが、3年前、肺がんの手術をした。ヘビースモーカーでたばこだけは頑としてやめなかったとか。選挙で回っていても一服タイムは欠かせなかった。

肺がんは覚悟の上のことであろうが、その直後に最愛の奥さんを突然失った。それでも、ふんばって農業を続けていた。

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昨年、ガンが再発し、以降入退院を繰り返した。私が最後にお会いしたのは今年3月、自宅を訪ねた時であった。その時は、かなり痩せられていたが、まさか3か月後にこんなことになるほどとは思わなかった。

しかし、家族は覚悟をしていたのであろう。多くの人が参列をした告別式で、長男克文さんは「父は中村と中村の人たちが大好きでした。その人たちのために仕事ができ、また大好きな農業もでき、幸せな人生だったと思います」と、確信をもった言葉で、お礼を述べていた。

戒名は「文武一徹居士」。ピッタリである。

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私は若い頃からのあこがれの文吾郎さんと、最後の少しの間ではあるがお近づきになれたことをうれしく思っている。しかし、できればもっといろんな話を聞いておけばよかったと悔やまれもする。

田頭文吾郎は間違いなく中村が生んだ歴史的人物の一人である。その足跡をたどり、記録に残せればと思っている。

そうした意味で文吾郎さんとの付き合いは続く。
文吾郎さん、これからもどうぞよろしくお願いをいたします。

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NHKのイラン報道

安倍首相は何のためにイランへ行ったのか。参議院選挙まえの実績づくりにしようという魂胆から、アメリカから頼まれもしないのに仲介役を買って出たものだが、結果は日本の恥をさらしただけでなく、両国の緊張対立に火をつけた結果になった。

イランの最高指導者ハメネイ師はトランプとの対話を明確に拒否、とりつく島もなかった。安倍の面目まるつぶれである。トランプからも仲介は時期尚早だったといわれる始末。世界に日本の恥をさらすことになった。

NHKは行く前は、さかんに「よいしょ」報道をしていたが、いまはダンマリである。

新聞各紙は、ハメネイ師がアメリカとの対話を拒否したことを見出しで報じているが、NHKはそのことには触れず、「ハメネイ師の平和への信念や、核兵器の製造や保有の意図はないことを確認できた」ことは「地域の平和と安定の確保に向けた大きな前進」などと、ピント外れな報道をしている。

さらに、日本タンカー攻撃事件もおこった。ハメネイ師との会談最中に、である。犯人はだれであるかわらないが、日本の首相訪問に合わせ、両国の緊張を高めたいグループ(国)がやったことは、間違いないだろう。緊張が高まり一番喜ぶのはトランプだが・・・

安倍はトランプのメッセンジャーを自作自演した。メッセンジャーだけなら子供でもできる。日本独自の主張はしたのか。

そもそも最近の両国間の緊張の高まりは、トランプが一方的に関係国核合意からの離脱を表明したことに始まる。安倍が申し入れるべきはイランではなく勝手気ままなトランプに対してである。

NHKはそんな解説はいっさいしない。政府に都合がいように報道し、まずくなればダンマリ。

これでは、戦前の大本営発表と同じである。

関東幡多の会

関東幡多の会の第8回総会・親睦会が今年も5月25日、東京のホテル(東武ホテル・レバント東京)で開かれた。私は第1回に参加して以降は参加していないが、その後も継続して開かれていることはうれしいことである。

この会の発足は2012年3月10日で、私もかかわったので、そのあたりの経緯を書いておきたい。

ことの発端はその2年半前。2009年11月に東京で開かれた関東高知県人会に、私は出席した。その席で、中村出身の平田一郎さんに初めてお会いした。平田さんは、県人会の世話役をされていた。

平田さんが言うには、東京では県下市町村それぞれの出身者の会(集まり)がたくさんあるのに、四万十市には中村市時代からないので、寂しい思いをしている、なんとか四万十市出身者の会をつくれないものかと。

私はぜひ一緒につくりましょう、市としても応援をしますよ、と答えた。

2011年、市は「四万十市ふるさと応援団」制度を立ち上げた。四万十市出身者や縁のある方、たんに四万十市が好きな方でもいい、全国から広く募集した。すぐに登録者は1000人を超えた。

一方、平田さんらは、中村高校同窓会東京支部のみなさんを中心に呼びかけ、世話役をしてくれるような方々を集めてくれた。

そして、2012年3月10日、私も上京し(藤田豊作市会議員も一緒に)、新橋の土佐料理屋で世話人会を開いた。

東京のメンバーは、平田さん(初代事務局長、現相談役)のほか、中野正三さん(会長)、久禮孝博(副会長)さん、山崎進一さん(幹事長)ら12人。その場で、会の目的、規約、名称などを決め、会が発足した。

会の目的は「親睦」とあわせ、「四万十市の発展に資する」ことを明記してもらった。

そのうえで、一番議論したのが会の名称。「中村」の名前を入れるかでどうかで。関東中村会、関東幡多中村会、中村四万十会などの有力意見も出たが、中村では西土佐が含まれないということもあり、最終的に「関東幡多四万十会」とすることで一致した。

ここで言う「幡多」とは「幡多郡」の意味ではなく、東京にはすでに「東京四万十会」という高岡郡四万十町出身者の会(主に窪川町)があるので、そちらとの混同を避けるために「幡多の四万十=中村、西土佐」という意味付けをしたのだった。

会の世話人にみなさんは、もちろん全員、四万十市ふるさと応援団にも入団してくださった。

そして、いよいよその年の6月30日、関東幡多四万十会の第1回総会を五反田ゆうぽうとで開いた。それまでの経緯から、四万十市ふるさと応援団との共催による「交流会」とした。120人の参加者があり、大いに盛り上がったのは言うまでもない。

私は翌年市長を引いたので、第2回以降には参加はしていないが、以降も中野会長以下のご尽力により、総会は毎年5,6月に開かれており、すっかり定着したようである。

しかし、総会の形は、2016年の第5回から変わった。「関東幡多四万十会」の名称が「関東幡多の会」に変わり、あわせて「四万十市ふるさと応援団」との共催ではなくなり、単独開催となったことである。

名称については、発足当初から意見があった。世話人の中心は中村高校OBであるが、同校には幡多全域から進学するので、四万十市生まれ以外の方も含まれている。そんな配慮から、「目的」に「四万十市出身者等の」と「等」を入れ、幡多全域からも参加できるようにしていた。

その後の詳しい議論の経過はきいていないが、もともと幡多は歴史文化面でもまとまりのある地域であるから、それならば名称も「幡多の会」にしたほうが、広く参加者を拡げやすし、会の運営もしやすいということになったのだろう。

会の規模拡大、発展のためには、これはこれでまっとうな話であると思う。重要なのは、関東に住む方々の考え、思いである。

しかし、四万十市の立場から言えば、お隣の宿毛には東京宿毛会、土佐清水には関東土佐清水会があり、やっと四万十市の会ができたのに・・・・・・という思いはある。この時、四万十市側はどんな意見を言ったのだろうか。

なにより、四万十市ふるさと応援団との共催でなくなったことによって、幡多地域出身者以外の一般団員の参加が難しくなったことだ。(もちろん門戸開放はしていると思うが)

ここのところ、四万十市ふるさと応援団の活動の姿がみえない(市事務局によるネットニュースの発行が減っている。団員から市広報へ投稿もない。)ことも、こうしたことが原因の一つになっているのではないかと、気になるところである。

一方で、最初のころにはなかったことであるが、最近では幡多の会のメンバーによる里帰りツアーが行なわれ、つい先日もお迎えしたようであり、すばらしいことであると思う。

私自身も長くふるさとを離れていたので、そうした人たちのふるさとを思う気持ちはよくわかる。そうした思いを大切に、互いの交流を深めていってもらいたいものである。


関東幡多の会ホームページ →https://kochi-hata.com/

次郎物語

ジャガイモを掘りながら、NHKラジオ「すっぴん」を聞いていたら、懐かしい名前の池田秀一がゲストに招かれていた。

その名前は、私が小学校6年生のころのNHKテレビドラマ「次郎物語」の主人公次郎の少年役をしていた。

テレビの主題歌はペギー葉山が歌っており、

 ひとりぼっちの次郎はのぼる・・・
 ・・・
 次郎、次郎、見てごらん。
 松の根は岩を砕いて生きてゆく~

というフレーズはよく覚えている。

久しく名前を目と耳にすることはなかったが、ラジオインタビューを聞いて驚いた。昭和24年生れの池田は、NHKでは子役であったが、その後もずっと俳優として結構いろんなドラマに出ているそうだ。NHK大河ドラマや、民放「太陽にほえろ」など。しかし、その番組を見なかったからだろう。とんと気づかなかった。

最近は、声優としての仕事のほうが中心のようで、アニメ「機動戦士ガンダム」の主人公シャア(というそうな)の声役で有名とか。私にはまった縁のない分野であるが。なるほど渋い声だ。

私にとっては池田秀一というよりも「次郎物語」だ。NHK放送と、どっちが先だったかは覚えていないが、小学校6年の読書の時間に、担任の東近三子先生がこの本を読み聞かせてくれた。

先生が読んだあと、みんなも自力で読まされたような気がする。そして、その読書感想文を書かされた。

東近先生には、ほかにも作文をたくさん書かされた。それを時々文集にまとめてくれた。ある時の文集に、私の「次郎物語」感想文を載せてくれ、ほめられたことがあった。

「次郎物語」は下村湖人の自伝的小説で、幼少期から青年期まで全5巻書かれ、結局未完に終わった作品である。東近先生に読んでもらったのは、幼少期の第1巻の一部であったので、だいぶ後から全巻を読んだ。

私は、このブログを書いていうように、文章を書くことが好きとまでは言えないが、あまり抵抗もなく書けているのは、遡れば、東近先生に書かされた作文に行く着くものであり、その一つが「次郎物語」であったことは間違いない。

「次郎物語」には、そんな恩義がある。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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