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文子を追っかけ韓国日記(3)

3日目

聞慶のホテル9時発、バスで芙江(プガン)に向かう。いまの忠清南道世宗市(セジョン)芙江は、金子文子が幼少期暮らした地である。

母の実家山梨県牧丘町に暮らしていた文子は、1912年10月、父の妹が嫁いでいた岩下家の養女としてもらわれ芙江に渡る。10歳の時である。そして1919年4月まで約7年、ここで暮らす。

ここでの体験がのちに朴烈に接近し、一緒の活動に加わる原点になったとされる。日本による朝鮮支配や現地人差別の実態、3.1万歳事件も見ている。また、養女とはいえ下女のような扱いを受け、自殺までしようと追い詰められたことは、後に獄中手記「何が私をこうさせたか」にリアルに書いている。

当時も今も芙江地区の人口は約7千人で、当時日本人は約300人。300人で7千人をコントロールしていたのか。

バスで高速道路を1時間、最初に文子が通った小学校跡を訪ねた。いまの小学校と同じところに、日本人小学校と現地人小学校が隣り合わせてあった。

校長室に案内される。女性校長、村長、同窓会長、地元郷土史家らから丁寧な挨拶と説明を受ける。いまの学校建物裏にあったという昔の学校跡を案内される。広い校庭で全員写真。

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日本の憲兵隊がいたところへ歩く。いまは警察署になっている。文子はここで朝鮮人が憲兵隊にたたかれていた光景を見ている。警察署長が挨拶をしてくれた。

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芙江駅へ歩く。文子は釜山から列車に乗りこの駅に着いた。同居することになる父方祖母に連れられて。

駅舎は小さいが、ホームは広い。何本も線路がある。かつて芙江は京城への入口にあたり百済の時代からの交通、流通の要所であり、日本進出の拠点になったところ。大河錦江の水運、鉱山等で栄えた。広島出身の岩下家も一獲千金を狙って移住したのだ。

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錦江を見下ろす堤防に案内された。目の前に双頭の芙蓉峰そびえている。この山は、文子が住んでいた山梨県牧丘町から見える富士山とそっくりであるため、文子はこれを見て故郷を懐かしんだ。

山田昭次著「金子文子―自己・天皇制国家。朝鮮人」に当時のものとみられる古い錦江の写真が載っている。たっぷりと水をたたえ、湖か海の入り江ようだ。しかし、いまは上流にダム2つができ、水量は少なくなり、その面影はない。以前は、川の氾濫でたびたび芙江の町は水没したそうだ。

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ここから下流20キロのところに百済の都があった。また、下流100キロが白村江と呼ばれる河口であり、かつて日本軍が百済支援のため唐・新羅連合軍と戦い、大敗したところ(663年、白村江の戦い)。地元郷土史家から詳しい説明を受けた。

昼食は地元料理を出す食堂でいただいた。基本はビビンバだが、ソウルとは少し違う組み合わせ。野菜中心なので、昼でもドンドンお腹に入る。おいしい。

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案内役の李圭相さん(元村長、小学校同窓会長)が私財を提供して運営しているという三柳図書館も覗く。地元住民のコミュティーの場にもなっている。

日本でもそうだが、地元にこういうリーダーがいるところはまとまりがある。共生社会のモデル。すばらしい。

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午後は、文子が住んでいた岩下家の跡地へ。駅裏の少し小高い地点。いまも民家がある前の空き地がそこ。大木の根元には、家の土台に使われていたという石がころがっていた。ここからも芙蓉峰が遠くに見える。

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岩下家はこの地で高利貸しなどをしてかなりの蓄財をしたが、文子が日本に帰され、のちに逮捕されたあとは、ここにはいられなくなり、どこかへ引っ越したそうだ。

そのまま歩いて近くの古民家に案内される。土壁があり、かつての有力者の屋敷のよう。入口に近づくと、われわれツアーを歓迎する横断幕をもって人が立っている。驚いた。家のつくりは中庭に井戸があり、日本の屋敷に似ている。同じ文化だから当然か。

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スイカや饅頭のごちそうが並んだ座敷に案内されると、待っていた世宗市議会議長が歓迎のあいさつ。内容は、本市は人口31万人の行政都市であり、国の行政機関が移転、将来は国会議事堂も移されるだろうとPR。

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続いて軍人(近くに基地がある)、僧侶も。いま日韓関係がおかしいが、人の心は同じ。いま一緒にいることに意味がある。これを縁に両国の関係もよくなるだろう。よい思い出をもって帰ってほしい。広い、心だ。涙がでそう。

韓国伝統楽器の奏者2人の男女(有名な人とか)が紹介され、演奏を披露。日本でいえば、琴、笛、太鼓、胡弓。締めは、日韓でアリランを合唱。

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次に一人の男性が立ち上がり、民謡らしきを身振り手振りで歌い、披露。庶民が宴席で踊るもののようで、日本の「にわか」のよう。歓迎のしるしだ。

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この歓迎の席は地元の実業家がすべての費用を出し提供してくれたものという。
会場の古民家も実業家の所有。その人とも名刺交換をしたが、ハングル語で書かれているので、ここには紹介できない。はたしてこんな実業家が日本には、高知県にはいるであろうか。韓国実業家の太っ腹に驚いた。

日本人10人を代表して小澤さん(金子文子研究会)がお礼の挨拶。

帰りに、全員で写真。両手を頭の上にのせるのは韓国流。「金子文子、愛しているよ」の掛け声のあとで、このポーズ。横断幕に、実業家の会社名が書いてある。

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このあとは駅前のバスに戻り、16時ごろ、ソウルへと帰途につく。約1時間半で、前日の朝、出発した地点に戻り着いた。

ここで解散かと思ったら、最後に簡単な夕食をという。おもてなしが徹底している。韓国風中華料理店で、みなでテーブルを囲む。国民文化研究所の現会長巖東一さんもみえた。

隣席になった小澤さんから、前の日、聞慶文化院での交流会で観光政府から受けた文子への感謝牌を見せてもらった。

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このツアーの一番の長老で、国民文化研究所元会長の李文昌さんと二人で記念写真。李さんの自宅はわたしらのホテルと同じ方向だというので、4人で同じタクシーに乗り、ホテル前で、李さんとお別れをした。(続く)

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文子を追っかけ韓国日記(2)

2日目。
 
朝6時半曇り、聞慶行きのチャーターバスが出るという、郊外の集合場所に向かう。亀田さんと、タクシーで40分ほど。

あちらこちらから人が集まってくる。みなさん、や~久しぶりという感じで挨拶をしている。メインは国民文化研究所のメンバーのよう。

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金昌徳さんと2カ月ぶりに握手。元会長、かくしゃくとした93歳の李文昌(イブンチャン)さんほかとも名刺交換。総勢40人ほどか。女性も10人ほどいる。

うち日本人は、以前から交流を重ねている山梨県(牧丘町に母の生家があり、文子も幼いころ暮らす)の金子文子研究会4人+そのつながりで3人+われわれ3人=計10人(男女各5)だ。私ら夫婦以外は、それぞれ顔なじみの常連さんのよう。

バスに乗り込み8時ごろ出発。事務局らしき方がマイクをもってスケジュール等の説明をしているようだが、通訳がないのでわからない。そのうち、私も紹介されたので、頭を下げた。朝食用に、パンとペットボトルのお茶が配られる。

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通勤ラッシュで道が渋滞する中を割り込んでバスは進み、高速道路に入る。ガンガンスピードをあげる。

李文昌元会長がマイクをにぎり、文子の墓の歴史を話はじめる。文子の墓は山中の草に埋もれ、忘れられかけていたが、1973年、瀬戸内晴美が小説「余白の春」を書くため取材で墓を訪ねてきてから、これではいけないということになり、2003年、朴烈義士記念公園の造成に合わせて、現位置に移転をした。

ドキリとしたのは、通訳の高齢女性が何かを日本語で話している時、「天皇陛下」という言葉を繰り返した。すると突然、バス後方の男性がどなるような大声をあげた。

あとで聞くと、同行の男性新聞記者が「陛下」という表現は間違いだ指摘したのだそうだ。「陛下」とは「ぬかずく」という意味があり、韓国にとっては屈辱的な言葉なのだ。

通訳女性は20年間くらい日本で暮らしたことがあるというので、つい日本人感覚でそう言ってしまったのだ。言葉の意味も考えず、無感覚になっている私自身を指弾されたように思った。

所用時間2時間。慶尚北道、聞慶市は観光で有名な山の中の小さな市(人口7万人)。高速インターを降りて少し走ると追悼式会場に着いた。10時過ぎで約2時間。まわりはリンゴ畑がある山村だ。

朴烈が生まれたこの村に、朴烈義士記念館が2010年完成し、その敷地内の小高い丘に文子墓がある。朴烈生家跡も復元されている。

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墓前にはテントが張られ、100人ぐらい集まっていた。10時開式のところ、バスが少し遅れたので待ってくれていた。ただちに始まる。私も胸に黒い喪章をつけてもらい、2列目のイスを指定された。

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最初に、韓国国旗の前で国歌斉唱。主催団体の社団法人朴烈義士記念事業会・朴仁遠理事長(元市長)があいさつ。続いて、市長(代理・副市長)、議長、金子文子研究会代表(小澤隆一氏)。その後、順次菊の花を献花。私も紹介され、献花をした。

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墓所そのものは四角の石枠に土を盛り上げただけ。その前の祭壇はぬかずくように低い。果物が並べられている。韓国伝統様式で、無宗教のよう。僧侶のような人はいない。そばに墓石が建っているが、前に花輪が並んでいるため、よく見えない。

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式は30分ほどで終わり、われわれは記念館に歩いて移動。山のふもとに屹立する立派なものだ。途中に、朴烈記念碑もある(墓は北朝鮮)。

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記念館内の展示は、おおむね1F金子文子、2F朴烈。文子の位置づけの高さがわかる。

文子の展示は詳しい展示で、亀田さんも協力したという。これほどの展示は日本にはない。文子は日本よりも韓国で評価されている。監獄、裁判のもようの蝋細工もつくっている。

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展示の中に、幸徳秋水の写真と記述があったが、そう大きなスペースではなない。
時間がなく、昼食は急いでここでビビンバをいただく。ゆっくり展示を見れなかったことが心残り。

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市の中心部にバス移動。市立文化院(文化センター)ホールで、記念式に参加。
13時開会。冒頭、昨年11月、韓国政府から文子に贈られた独立有功メダルと証書を、文子遺族(母の兄の孫)が記念館に寄贈し、そのお礼に記念館から感謝牌を贈るという、交換セレモニー。日本側小澤代表と朴理事長が握手を交わしたところで、多くの報道陣のカメラが集中した。これがきょうの最大イベント。

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そのあと、突然美人が登場してマイクをもって話だした。唖然とした。映画で文子役を演じた女優チェヒソだ。途中目がウルウルになった。なんだろう。後で聞くと、映画に出た時は文子のことをあまり知らず、監督が言うがままに演じた。しかし、あとになって文子の偉大さがわかり、感動いているということだった。映画ではそう特別には思わなかったが、美人である。日本にはこんな美人女優はいない。

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チェヒソは、一般的な映画やテレビには出ないそうだ。インテリジェンスのある作品にしか。だから、だれもが知る女優ではないと。それがいいと思う。文子には、安っぽい演技はしてほしくない。

続いて、研究者4名による発表とシンポジウム。金進雄、金明燮、亀田博、金昌徳の各氏。亀田さんは日本語なのでわかったが、他3人は翻訳サポートが不十分だったので、ほとんど理解できず残念。

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報告の要旨は、映画だけでは文子はわからず、虚無主義ではない文子の真実に迫ってほしい。二人の活動は東京だけではなく、世界的視野で考えることが重要・・・などらしいが、発言資料が配られたので、これの日本語訳がほしいものだ。

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休憩後、小澤さんによる文子の歌(短歌)の朗読。

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次に、文子をたたえる市民コーラス。

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さらに、サンド(砂)アート。プロジェクターを使って、砂で人物や景色を描く。はじめてみたが、すばらしかった。日本でも、やる人はいるのだろうか。

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16時終了。

盛りだくさんの内容であったのに、一般市民らしき人の参加は少なかった。ホールも空席が目立った。聞くと、市としては特に動員はしていないので、よほど関心がないと足を運ばない。映画で急に有名になったとはいえ、田舎町の聞慶では、まだ知る人が少ない。ソウルからのバス参加者がいなければ、もっと寂しかっただろうとのこと。

しかし、翌日の新聞(韓国中央日報)には、記事が掲載されたとのこと。よかった。二人の名前がどんどん知られてほしい。

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ソウルのホテルのフロントの若い男性に、映画とチェヒソ、金子文子を知っているかと聞いたら、知らないとの返事。まだまだ、これが客観的な現実なのだろう。

またバスで移動。観光地のドライブインのようなレストランで、早い夕食。記念館の事務局長も参加してくれた。焼肉で乾杯交流。

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そのあとさらにバスで山の奥へ。リゾートホテルのような立派なホテル。チェックインしたあと、夕暮れ迫る中、みんなで緑とせせらぎに沿って散歩道を歩く。日本でいえば軽井沢か。

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古城跡があちこち。時代劇のロケをするスタジオも。日本で放送されている韓流時代劇でよく見るシーンもここで撮影されているとか。なるほど、そんな雰囲気だ。

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今朝も早かったので、クタクタに。2次会は遠慮をして、20時にはホテルに帰った。(続く)

文子を追っかけ韓国日記(1)

7月22日~26日の5日間、はじめて韓国を訪ねた。23日、聞慶市(ムンギョン)で開かれた金子文子追悼式に参加するためだ。

中国には3回行ったことがあるが(すべて団体で)、韓国にはまだないので、以前から一度行ってみたいと思っていたところであった。そのチャンスを与えてくれたのは幸徳秋水。

今年5月13日、韓国ソウルにある国民文化研究所の総務理事で、韓国アナキズム学会副会長、韓国アナキスト独立運動家記念事業会事務局長の金昌徳(キム・チャンドク)さんが幸徳秋水を訪ねて中村にみえた。東京の金子文子・アナキズム研究者の亀田博さんに伴われて。

亀田さんとは、東京正春寺で毎年開かれる大逆事件犠牲者追悼集会で面識があったので、事前に依頼があり、秋水墓や資料室などを案内した。このことは、このブログの5月21日に書いたので、詳しくは省略する。

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そのさい、金子文子追悼式の話が出て、案内を受けたのだ。文子命日に韓国にある墓前で毎年追悼式典が開かれていることをはじめて知った。韓国の人たちが日本人の文子を供養してくれていることに、驚きと感動を覚えた。

ちょうどそのころ、幸徳秋水を顕彰する会では、韓国映画「金子文子と朴烈」の自主上映(6月16日)の準備をしていた絶妙のタイミングであったので、渡しの舟に乗ることにした。パスポートは10年更新間近だったので、新たにつくった。

ほどなく、追悼式を主宰する聞慶市の社団法人朴烈義士記念事業会(理事長朴仁遠)から、案内状が国際便で届いた。

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亀田さんは、ほぼ毎年参加の韓国通で今年も参加するという。こちらは初めてなので、航空券の手配をお願いした。エアソウルの格安便で一人往復諸費用込み3万8千円(片道1万9千円)。噂通り安い。東京行の約半分。もっと安い便もあるという。

参議院選挙開票の翌日の22日、夫婦2人で高松空港11:05発に乗った。あっと言う間、12:45仁川空港(1時間40分)に着いた。東京行とほぼ同じ所要時間、隣国の近さを体感。

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仁川空港(インチョン)は成田空港をしのぐ大きさで、東アジアを代表するハブ空港とは聞いてはいたが、その通りであった。

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到着ゲートから手荷物受取場まで歩かされること、この上ない。日本語案内板もあるのに、あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。空港内移動のモノレールがあるのにもビックリした。

入国手続きは割とスムーズ。両替は100円=1017ウオンのレート(10分1単位)。ソウル行普通電車に乗ったのは14:00を過ぎていた。

仁川空港は埋め立てられた島にある。電車は海にかかる橋を渡ったあとは緑の中を進む。韓国の山には緑が少ないと聞いていたが、日本と変わらない郊外の風景。漢江(ハンガン)を渡ると、地下に入った。

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ソウル駅は地下深く。1時間15分くらいかかった。地上、地下ともに各線のターミナルになっているようで、出口を捜すのに、またウロウロ。今度は、重いトランクを持っているので、イライラが募る。

こんな巨大駅は日本にはない。東京ならターミナル駅が山手線に沿って分散しているが、ソウルは一駅に集中しているようだ。

やっと地上に出たが、タクシー乗り場がわからない。通行の人に教えてもらってなんとか乗ることができたが、ホテルとは反対側に出たようで遠回りとなった。

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それでも30分くらい走って970円だから、安い。東京の三分の一くらいか。
ただし、運転は乱暴で飛ばす。クラクションが多い。

午後4時半ホテル着。ホテルは、宗廟(朝鮮王朝の墓、後で知った)前の交差点の古宮ホテル。金正徳さんに手配をしてもらった。名前の通り、伝統ホテルのようだが、ツイン1部屋6000円だから、これも安い。

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日本から民団の利用が多いと聞くからか、フロントの女性が日本語を話せるので安堵。ただし、靴を脱ぐ、寝間着もないのは韓国一般と知る。

遅れて成田からみえる亀田さんもこのホテルであり、18:30フロントで合流を約束していた。

当初、それまでの間、近くを散策してみたいと思っていたが、疲れてしまったのでその元気はない。部屋でしばし休むことにした。

亀田さんに、近くの韓国料理のレストランと言うより食堂に連れていってもらった。東京に留学中亀田さんが韓国語を教わったという女性日本語教師も合流。4人で。

これが感激。韓国料理は日本の経験から、キムチとニンニクで辛くて匂うと思っていたら全然違う。エビやタコを入れた海鮮風鍋料理がとてもおいしい。付け出しにしては、たくさんの皿に、いろんな種類の野菜が出てくる。これらはセットという。ビールだけは苦みが少なく、サイダーのようで、違いを感じたが、マッコリは米焼酎と変わらない。

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大満足なのに、費用は1人1500円ときいてビックリ。日本なら、中華料理をテーブルで囲んだとしても、これだけなら1人4、5千円はかかるだろう。

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翌日は、第一目的の聞慶行きで、朝が早いので、9時までにはホテルに引き揚げた。(続く)

平野貞夫

参議院選挙も大詰め。7月8日、野党共同候補松本けんじの応援に平野貞夫さんが東京からかけつけてくれた。終日選挙カーに同乗し、ふるさと土佐清水ではマイクを握り、夜の四万十市立文化センターでの個人演説会には登壇してくれた。

平野さんは1935年(昭和10年)、土佐清水市三崎生まれ。法政大学大学院(日近代史、遠山茂樹ゼミ)を出てから衆議院事務局に入り、議長、副議長秘書なども経験。議会運営の実務に精通し、議員との接触も多くなる中で、政界入り、小沢一郎と行動を共にする。

保守系無所属で参議院高知選挙区から当選後、自民党に入る。その後、新生党、自由党などを経て、いまは国民民主党顧問という肩書。

保守本流を自任・公言しており、昨年、「わが輩は保守本流である」という本も出版。私は同じ幡多出身ということで市長時代にご縁ができた。幸徳秋水顕彰会の会員にもなってくれている。私の高校同級に姪御さんがいた。

演説会では84歳とは思えない大きな声で、安倍批判をぶちあげた。いまの安倍政権は保守本流ではない。いまの自民党議員に保守本流はだれもいない。保守の原点は、国民生活を守ることと、ウソをつかないこと。

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消費税を上げて、法人税を下げる。1機100億円する戦闘機を100機以上買う。陸上イージスは日本を守るためのものではない。全部おかしい。軍拡だ。

いまこそ軍縮が必要だ。軍事費予算を削って国民生活にまわす。減税が必要。

いまの政治状況は、昭和初期に似ている。昭和5年、土佐出身の濱口雄幸首相はロンドン海軍軍縮条約を締結。予算を減税にまわしたが、右翼の恨みを買い、銃撃された。濱口死後、軍部は満州事変をおこした。

いま安倍首相はナショナリズムを高揚させている。来年のオリンピックのあとがこわい。

日本最初の政党・自由党は板垣退助らによって土佐で生まれた。中江兆民、幸徳秋水も自由党だった。宿毛の林有造、竹内綱(吉田茂の父)も自由党。

自由党が中心になって最初の国会開設期成同盟をつくり、要求署名を全国から11万人集めたが、そのうちの6万人は土佐。さらに、その中の5万人は幡多であった。最初の議会開設をリードしたのは幡多である。

いまの革新の源流も、保守の源流も同じであり、ここ幡多にある。民権の原点だ。

いまこそ、保守本流と野党が手を組んで安倍政権を倒さなければならない。「忖度デモクラシー」に代わる「反骨デモクラシー」を幡多から。

歴代保守(保守本流)は憲法を守って来た。集団的自衛権は認めてこなかった。首の皮一枚ではあるが、9条を守って来た。

しかし、安倍政権は、これを解釈によって変えるという、権力によるクーデターによって9条をこわした。

すでに9条は殺されている。この選挙は9条を復活させる戦いだ。

これらの話は、演説会では時間がなく話されなかったことで、翌朝、宿泊のホテルで、二人でお会いし、お聞きしたことも含まれている。

平野さんは、政界の裏と表を知り尽くした人だ。また、学生時代から日本の歴史を専門的に勉強してきている人だ。だから説得力がある。

いまの安倍政権は異常である。今回の韓国への報復措置も、国内のナショナリズムをあおるためであり、このタイミングに合わせた選挙対策である。

この選挙で、この流れに歯止めをかけないと、恐ろしいことになる。

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実崎空襲

中村空襲だけでなく、私がいま住んでいる実崎(さんざき)部落へもアメリカ軍の空襲があった。

昭和20年7月24日朝8時ごろ。B29が足摺岬方向から飛来し、爆弾4発を落とした。爆弾は家のあるところをはずれ、田んぼの中に落ちた。

普段なら、誰か田んぼに出て農作業をしていてもおかしくなかったが、その日は、朝から部落の田役だったので、人への被害はなかったと、父から聞いている。田役とは、集落の共同作業のことで、家のまわりの道や溝などの作業をしていたようだ。

先の戦争体験を語る会で、実崎の隣部落、深木の江口春代さん(昭和6年生れ、88歳)はこの爆撃のもようを見たと話していた。

その日、田んぼの草取りを手伝っていたら、飛行機が4機飛んできた。そのうちの1機が引き返してきて爆弾を落とした。爆弾は流れるように落ちて行ったという。

中村市史には1機のことしか書いていないが、4機編隊だったのだろうか。父も複数飛んでいたうちの1機が落としたと言っていたように思う。どこかの空襲の帰り、余った爆弾を落としたのだろう、とも。

爆弾の落下地点の田んぼの中には池が出来ていた。直径15メートルくらいの。私が中学生のころまで残っており、そこで鮒を釣ったりした。地元では池のことをバクダンと呼んでいた。「バクダンに釣りに行こう」など。いまは埋められ、写真のような田んぼにもどっている。

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戦争資料展でつくられたパネルでの位置はこのとおり。落下地点を赤くプロットしている。右の大きな川は四万十川で、河口から4キロ地点。私の家の屋根も小さく写っている。

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この1機は中村方向へ飛んでいき、中村の北側の安並部落の田んぼの中にも2発の爆弾を落とした。安並では運悪く夫婦2人が田んぼに出ていて、命を落とした。名前もわかっており、市史に書かれている。

アメリカ機はどういう目的で爆弾を落としたのだろうか。

実崎から安並は北の方角だから、B29が足摺岬方面から飛んできたという証言と符合する。だから、どこかを爆撃してからの帰りというよりも、爆撃に行く途中に落としたとみるべきだろう。中村の町を狙ったのがはずれたのか。安並はそうかもしれないが、実崎はだいぶ離れている。目的がわからない。遊びのようなものだったのか。遊びならたまらない。

中村空襲も、実崎(安並も)空襲も、8月15日敗戦の直前のことであり、日本は制空権を失い、アメリカのなすがままであった。

中村空襲 証言2

証言3(6月30日) 西井平さん 昭和9年生れ 85歳 

当時川登小学校6年生。真上の空に、南からいつもアメリカの飛行機が次々にやってきて集まっていた。B29が中心だが、護衛の戦闘機グラマンなども付いていた。午前中だった。

ここが集合場所になっているらしく、反時計回りにぐるぐる旋回したあと、数がまとまったら北や東西、あちこちの方向に向かって行き、1時間か1時間半ぐらい後に戻ってきた。

グラマンの操縦士の顔がわかるくらいの低空飛行をしていたこともある。一度だけ、日本機と空中戦をしているのを見た。

自分たちは、通学班を組んで朝7~8時ごろ学校へ行く。空襲警報が鳴ると学校へ行かなくていいことになっていたので、草の中で遊んだ。

その日も通学のときサイレンが鳴ったので上を見ると、南から3機が三角形の編隊で飛んできた。その日は、護衛機はなかった。

そのうちの右の1機が急に東に旋回し、ネズミのくそのようなものをパラパラと落とすのが見えた。すぐ後に、ドド~ンと体を引き込まれるような地響きがあり、山の向こうから、黒い煙があがった。

沖縄が陥落してから飛来機がふえた。学校でサイレンが鳴ると、机をかついて山のほうに逃げた。養蚕場、お寺、お宮へ。山に桑の葉を入れる横穴を掘っていたので、防空壕がわりにそこにも逃げた。

兵隊もやってきた。ニシク部隊? 機関銃1丁、契機2、敵弾頭2ぐらいしかもっていなかった。

そのあとケンザン部隊?も来た。まともな銃はもっていなかった。木銃なども。40~50歳くらいの補充兵で、おんちゃんばかりだった。明らかに知能障害があるような、動作のにぶい兵もいて、いつもなぐられていた。

翌年(昭和21年)、旧制中村中学に入った。最後の入学組。大神宮前に爆弾池があった。

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証言4 伊与田譲さん(6月30日)  昭和5年生れ 88歳

川登生まれ。口頭試問のみで旧制中学に川登から1人だけ入った。田舎者なのでドキドキして入学した。中村の子はハキハキしていた。足にゲートルを巻き、上級生には敬礼をした。

自分は軍国少年だった。将来何になりたいかと聞かれ、軍人になり天皇陛下のために命を捧げますと答えた。

配属将校が来ていた。少尉より下の階級。尾﨑栄さんも来ていた。教練があった。

右山に下宿していた。周りに池があり、夜、食用ガエルの声が大きいので、空襲警報と間違えて目が覚めたことが何度もあった。

学校に行く通路、いまの文化センターのところに女学校があったがその前は避けて通った(恥ずかしくて)。女学校運動会を古城山から(こっそり)見た友人がいた。

学校では、陸軍士官学校、陸軍幼年学校志願の生徒向けに早朝補修授業をしていた。自分もそれを受けていた。

そこでサイレンが鳴った。北へ向かっていたB29が1機戻って来て爆弾を落とした。爆弾にプロペラがついているのが見えた。あわてて校舎の隅に掘ってあったタコツボ(天井のない防空壕)に4人(藤原、坂本、弟)で飛び込んだ。

一番近い爆弾は100mくらい先、拘置所(中村高校弓道場となり)の山側に落ちた。もうもうとした土煙。耳と目を塞いだ。電線が切れた。爆弾の破片が校庭に飛び散っていた。破片があたったら死んでいた。「助かった~」というのが一番先に思った。

その後、奥御前の中の長い防空壕に逃げた。しばらくそこにいてから、学校からの命令で、古城山に登ってから下宿に帰った。

B29は学校を狙ったのだろう。それが外れた。

「中村高校百年史」か「八十年史」には、早朝始業前だったので生徒に犠牲者はなかったと書いているが、実際は、自分ら生徒は来ていた。

爆弾は4発落ちたものと思っていたが、今日の展示を見ると、大神宮奧にも落ちているので、5発だったのだろう。

田辺散髪屋は庭の防空壕を直撃したので、一家3人全滅だった。時限爆弾が2つあり、ひとつが中学の農場に落ちあとで爆発し、隣の出雲神社神官1人死んだ。もう一つは本町のタクマ先生の庭で爆発。(計18人死亡。)

農場にはネギを植えていたので、爆風でなぎ倒されていた。

グラマンかP38が鉄橋下をくぐりぬけるのを見た。飛行士の顔が見えた。

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中村空襲 証言1

四万十市立中央公民館において「昭和の戦争体験を次の世代に伝える催し」(6月29日~7月7日)が行われた。戦争に関するパネル・資料展のほか、高知空襲、中村空襲の体験談・証言が話された。

中村空襲については4名が証言をした。昭和20年5月10日、朝7時半~8時ごろ、中村の町が米軍29により爆撃されたもので、18名が死亡した。飛来したのは1機(2機だったという話もある)。証言は以下の通り。

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証言1 (6月29日)  矢野川文子 昭和7年生 87歳

当時、家(木村家)は本町(当時は北上町)、中村高等女学校1年生。学校はすぐ近く、いまの文化センターのところ。父は職業軍人(主計担当、戦闘参加せず生還)で満州にいた。人を殺さなかったのはよかった。

家で朝食をとっていると空襲警報が鳴ったので、食事を放り出し、すぐに学校へ向かった。警報が鳴れば、学校を守るため、学校に集まることになっていたので。

学校の外から空をみると1機がみえた。同時にズ~ンという爆発音がしたので、玄関に入り、うつぶせになった。辺りは煙で真っ白になった。しばらくして、負傷兵と思われる兵士が担架で運ばれているのを見た。

時限爆弾も落とされたので、市街地にいると危険だということで、生徒は羽生山に避難した。昼に婦人会の方からおにぎりの配給があり、食べた。

そのうち、南上町、紺屋町に落とされた時限爆弾2つが爆発したのが見えた。煙がまっすぐ柱のように立ち上がっていた。吹き飛ばされた家の瓦や柱がパラパラと落ちていた。

そのころ、学校から不破の農家へ手伝いに行かされた。上級生は軍需工場へ行かされた。

いまの東下町の居酒屋いなか(親戚)のとなりに細木病院があった。そこに行かされ、便所のくみとりをさせられた。同級生と肥樽を棒で担いで、西下町、鉄橋を渡り、具同の先、中筋川合流点の河原に運んだ。そこには学校のイモ畑があった。

いま反省していること。

1. 当時は、日本は神の国だから絶対に勝つと信じていた。人間、信じきることはこわい。

2. 人が人を殺したら罪になるのに、戦争で人をたくさん殺したらほめられる、お金ももらえる。そんなのおかしい。


証言2 (6月29日) 安光哲弥 昭和5年生 88歳 

当時中学3年生。東京生まれ。14歳の時、妹と二人で母の実家(田の川)に疎開、中学に通っていた。軍服のようなみんなと同じ服がなかったので、違う服を着て学校に行っていたら、生意気だといって上級生に呼び出され、なぐられた。

その日は、京町角の野村自動車(バス車庫)前にいたところ、空襲警報がなり、中へ押し込まれた。すると、ドカ~ンいう爆裂音がした。外へ出ようとしたら殴られた。だから、爆発は音だけ聞いた。煙などは見ていない。

その後、この空襲のことを調べた。いろいろ聞き取りなどして。中村市史、中村高校80年史、図書館所蔵記録なども。

それらをもとに、今回、市教育委員会(川村係長)と一緒につくったのがこのパネル。爆弾は5発落とされた。(うち時限爆弾2)

着弾点も調べた。1発は、田辺散髪屋(3人)、夕部酢店(3人)の間に落ちた。防空壕に落ちた。これで17人やられた。手書き住宅地図のとおり。散髪屋に来ていた軍人も1人も含まれている。

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そのあと時限爆弾が2つ破裂した。出雲神社の神官は危ないから逃げろと言われたのに逃げなかったのでやられた。計18人。

自分は6月23日、沖縄が陥落した日、黒尊にいた。愛媛県に抜ける軍用道路をつくるというので、中学生が動員された。1年間は勉強をするなと命令された。

軍用トラックに乗せられ大宮へ。そこから、山を越え奧屋内へ。奥屋内と黒尊の農家に分宿させられた。

敗戦後は、歩いて帰らされた。自分は中村だったが、大正、西泊(大月)まで歩いた者もいる。大正の者は途中1泊したそうだ。行きはトラック、帰りは勝手に歩いて帰れ。ひどいもの。

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学校に行ったら、先生たちが書類を焼いていた。

一つの方向にドッと流さるのがこわい。「一億○○」
戦争がないのが平和なのか。平和も疑問。「原子力の平和利用」なんておかしい。
(続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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